はてなキーワード: 思春期とは
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
多少なりとも将来を意識してマリッジブルーを早めに味わっているところに降って湧いてきたケチなんだよ。
言いがかりのネタができてラッキーっていうのが、心のどこかにあるんだよ。
これからの話をする前に、過去についてグダグダ言ってるとか一番クソダサい。
そういう経験があるから今の彼女がいるんだ。くらい思っておけよ。
※ 20代半ばまで思春期とされているんだけど、最近は。おっさんからしたら、世間知らずの20代前半の女を不倫相手にするのは比較的簡単なんだよ。だかまぁ彼女は被害者だと思うし、そのタイミングで年上へのキャパが広がったから、増田さんも相手してもらえるようになったんじゃないかな。母子家庭はあんまり関係ないと思う。まーしらんけど。
仕事も別に詰んでるわけじゃない。年収もある。マンションも買った。周りから見たら「ちゃんとしてる女」なんだと思う。でも中身がずっとスカスカで、ずっと不安。
結婚してないことも、10年彼氏いないことも、卵子凍結のことも、全部「考えなきゃいけないタスク」みたいになってる。恋愛じゃなくてプロジェクト管理。
しかも最近、「人に会いたい」と「誰にも会いたくない」が同時にある。
誘って断られるのが怖いというより、「こんなつまらない私と会っても相手つまらないだろうな」が先に来る。
最近ずっと「変わりたい」って言ってる。
でも実際やってるのは、スマホ見て、ぐるぐるして、自己嫌悪して、ちょっと行動して、また疲れて寝る、その繰り返し。
たぶん今の私は、「人生を変えたい」のに、「今の自分を直視する」のが怖いんだと思う。
なんかもう、いい歳してずっと思春期みたい。
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0166 花と名無しさん 2025/10/04(土) 22:40:46.16
キュンとするシーンもあるけどちょい花野井くんモラっぽい気もあるのが気になってしまう
八尾のとこ行くなって言うとことか
コメントでほたるよりもっと包容力ある人の方がって言われてたけど
ID:3n5CEmIh0
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0167 花と名無しさん 2025/10/04(土) 23:45:26.45
どの漫画でも
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0168 花と名無しさん 2025/10/05(日) 14:05:27.96
少しでも抵抗ある人はあれを使って遊ぼうと思わない
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0169 花と名無しさん 2025/10/06(月) 15:45:12.59
花野井くんは間違えまくりで自己評価の低い、自分に自信がない子だよ。
のんちゃんの件みたいにたまに暴走するけど、基本はほたるちゃんを尊重したくて自分が変わらなきゃと思ってるから、モラハラは当てはまらないと思うけど…
(八尾くん…の家族の件?は、悲しい時にそばにいてほしいという愛が重い恋人としての独占欲だと思う)
ほたるちゃんを縛ってることになるかもと気づいたらモラハラとは真逆の行動とるんですよ、花野井くん。
なぜかヤンデレと紹介されることも多いけど、実際読んでみたら違うじゃんって思った作品だから、できればじっくり読んでみてほしいな
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0170 花と名無しさん 2025/10/06(月) 18:25:59.16
でもほたるの友達を無視したりとか嫌なやつだなーって思ってたわ
八尾くんの方が断然いい
ただ最終的には花野井くんの両親が酷かったから彼は犠牲者なんだなと思えるようになった
ID:+D5dJtWl0
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0171 花と名無しさん 2025/10/06(月) 19:48:54.35
そもそもイケメンは何の特徴もない普通の容姿の女子を好きになったりしないんだし
ID:745RvitO0
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0172 花と名無しさん 2025/10/06(月) 21:35:54.45
現実の人格は求めてないけどあまりにも性格悪いのはあんまり共感できないし入り込めないんだよなぁ…
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0173 花と名無しさん 2025/10/06(月) 21:39:40.26
まやかしの主人公は自信に満ちた子が外面作ってバレたらまずい!ってやってるのがちぐはぐで入り込めなかった
普通そういうキャラの自信は虚勢だけどおとぎはガチっぽいしなら礼節や気品備えつつ飾らない人の方が素敵じゃんて
裏おとぎは好きだから外面設定無かったら好きになってたな
ID:d/F3JiKm0
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0174 花と名無しさん 2025/10/06(月) 22:40:25.09
花野井君は「彼氏彼女の事情」の有馬みたいなめんどくささを感じる
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0175 花と名無しさん 2025/10/07(火) 00:31:25.62
花野井くん~はヒロインのキャラデザが野暮ったすぎて読む気にならない
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0176 花と名無しさん 2025/10/07(火) 00:48:41.30
好みの話だろうけど
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0177 花と名無しさん 2025/10/07(火) 00:59:28.58
スキップとローファーとかもだけど平凡地味顔のヒロインとイケメンの恋愛モノって苦手だわ
ほたるは話が進むにつれて顔だいぶ変わってそこそこ可愛く描かれてると思うけどね
初期はイモすぎた
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0178 花と名無しさん 2025/10/07(火) 01:50:50.11
花野井くんは親から半分捨てられてるも同然だから束縛心凄かったし念願の運命の子の為に気持ちが暴走してのんちゃんを脅してしまったりもした
思春期の男の子が大人になる過程をほたるちゃんや廻りの人間絡めて上手く表現してると思う
ただ、辛抱強いほたるちゃんが花野井くんのヤバイ部分にも粘り強く対応出来たのはわかるけど
クラスメイト達があの塩対応に対してあんなにシャットアウトせずにスルー?見守る?態勢になれたのはイケメン割引きを加味しても不自然には感じたかな
特に男子からは相当嫌われて挽回の機会は普通得られない。その辺は圭ちゃんの根回しが効いてたってことなのかな
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0179 花と名無しさん 2025/10/07(火) 09:57:34.73
『ふたりで恋をする理由』の男の子も花野井くんと境遇似ててさびしんぼモラだった
花野井くんと違って家事が得意でしっかり者だからか精神は安定してたけど
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0180 花と名無しさん 2025/10/07(火) 13:52:38.82
精神安定のイケメンだと普通の物語になるし平凡な主人公に惹かれる理由がなくなるからじゃない?
少年漫画でも中身が不安定だったり性格悪いイケメンや悪役は人気だし
欧米ドラマでも人気になるキャラは自己中や残念イケメンだったりする
ID:3K6vnRzo0
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0181 花と名無しさん 2025/10/07(火) 18:57:12.39
わかる
読んでてイライラ不快にさせる感じだからもう少し抑えればいいのにと思った
個人的には男相手に無視とかするのはまあアリだけど主人公の女の子の友達には愛想は振り撒かなくていいけど普通にしてほしい
女の子への態度が酷くて何やこいつって思ったし
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0182 花と名無しさん 2025/10/07(火) 20:43:53.51
最初の初詣の時なんてほたるちゃんが花野井くんの手繋ぎを断ってしばむーと腕を組んだけど病気の花野井くんはそれを見て本気で嫉妬して
しばむーに対しては(ほたるちゃんが信頼してる人物なのに)距離が離れて歩み寄るのに凄い時間が掛かってた
きょーちゃんにはそういうことがなかったからか話の終わりにおみくじを枝にくくりつけてあげてる
その他の有象無象女子には「鑑賞用イケメン」として毒にも薬にもならない「無」状態でしか接することはなかった
イギリスから帰国してすっかり病を克服した花野井くんはクラスメイトの女子にもようやく普通の対応が出来るようになった
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0183 花と名無しさん 2025/10/07(火) 22:04:09.69
なんかタイアップ予定とかあるのかな?
駅広告も作品紹介じゃなくパンテラネグラの紹介だったしインタビューも需要あるのかな?
あれ見て男4人がメインのバンドもの漫画だと思って試し読みしたら全然違うじゃんって思われそうだけど
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0184 花と名無しさん 2025/10/07(火) 22:18:17.06
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0185 花と名無しさん 2025/10/07(火) 23:49:38.70
初詣の買い出し後の大きな木に寄りかかっての会話からすると、ほたるちゃんは久々に花野井くんに会ったから照れていて、花野井くんはほたるちゃんに避けられてる?と思って悲しかったんじゃない?
花野井くん、性格良くはないけど悪くもない(意外と面倒見がいい所もある)、めんどさくておもしれー男だと思って読んでたわ。バスケ大会の男子たちもたぶんそんな感覚で接してるのでは?
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0186 花と名無しさん 2025/10/08(水) 02:10:52.88
ほたるちゃんから避けられてるんじゃなくて照れられてただけだとわかったからあの程度で済んでるけどそれがなかったら八尾くんばりに警戒&敵視されてたかもしれない
圭ちゃんなんか「キスしてみれば」案件でめっちゃ敵視されてるし
初詣回は最初の待ち合わせから背を向けて待ってた花野井くんから始まってほたるちゃんの3人の友人に対する距離感がまるで犬のような挙動の花野井くんによって表現されてた
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ID:1nPpxrvc0
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0187 花と名無しさん 2025/10/08(水) 10:04:19.07
花野井くんはどっかの電子書籍サイトの「おすすめヤンデレ漫画20選」に入ってたから大成功では
ID:zaYPq9Ub0(1/3)
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0188 花と名無しさん 2025/10/08(水) 10:15:19.57
花野井くんは基本ヤンデレだけどたまに暴走するとメンヘラになってほたるちゃんや他人に迷惑を掛け出したりしてたよね
ID:51quK8hl0
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0189 花と名無しさん 2025/10/08(水) 10:40:24.82
長文の人いちいち詳しすぎるし解りすぎてる
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0190 花と名無しさん 2025/10/08(水) 10:41:08.80
ヤンデレとしては正解だしそこがウケたんだと思う
ID:91JRh7k70
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0191 花と名無しさん 2025/10/08(水) 11:17:00.37
ヤンデレってそういうもんだから嫌な気持ちになる人は読まない方が良いよ
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0192 花と名無しさん 2025/10/08(水) 11:28:28.39
そういうヤンデレ系作品って必ず「当て馬くんの方が絶対にいいのに」ってなる
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ID:CZhP+wQR0
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0193 花と名無しさん 2025/10/08(水) 11:31:52.58
TL漫画とか女性漫画だともっとエグいヤンデレあるし花野井君レベルは可愛いものだけどね
善良なヒーローが求められる少女漫画との親和性は低い気がするわ
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0194 花と名無しさん 2025/10/08(水) 12:11:13.53
いきすぎたヤンデレになると主人公のことすら騙すし主人公の周りにいる男を殴ったりするよね
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0195 花と名無しさん 2025/10/08(水) 12:50:43.15
八尾くんのことは小学生の頃から(ほたるちゃんに好意があるのを)知ってたから警戒してたのでは。
花野井くん、八尾くんのこと良くも悪くも一目置いてると思うから
他の人と八尾くんは違うと思うな
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0196 花と名無しさん 2025/10/08(水) 13:40:57.86
ID:fyJc+NVP0
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0197 花と名無しさん 2025/10/08(水) 15:49:57.31
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ID:zaYPq9Ub0(2/3)
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31歳になった。今年、嫁にした彼女の話をどうしてもさせてくれ。
彼女とは元同僚。別の部署だったが初めて視界に入れた瞬間、胸の奥が静かに落ちた。155cmの小柄な体躯、幼さを残した瞳の奥にキリッとした大人の色気が潜んでいる。あの絶妙なバランスは、まさに自分の好みのど真ん中だった。運動音痴で陰キャの俺が、こんな可愛いロリ巨乳の彼女とゴールインするなんて。
会社は飲み会が日常茶飯事の陽キャ天国。大学生ノリが横行する中で自分はただただ浮いていた。大人数の輪など苦痛でしかない。だから酒を浴びるしかなかった。酔えば人に合わせられる「酔うキャラ」——それが当時の自分の唯一の立ち位置だった。今思えば痛々しい。だが彼女の前では、不思議と肩の力が抜けた。
きっかけは、ジャニーズと映画だった。特に嵐。ピカンチをDVDで揃え、Dの嵐を違法視聴横行時代YouTubeで漁っていた自分のマニアックな知識が、彼女の琴線に触れたらしい。一対一やカラオケでは、相手の趣味に全力で溶け込めた。Filmarksで「好き」を静かに共有する関係から始まり、初めての二人きりの飲みは夜の7時から、気づけば午前2時を回っていた。ホテルには連れ込まず、できる男を装った。あの時の冷静さは、イケメン友達の教えと、世の女性たちへの感謝(特にポインティ動画)によるものだ。男はポインティを見ろ。
その後、電話が2人のメインコンテンツとなった。一日中繋がったままラインの履歴が半日を超えた時はさながら高校生の恋愛みたいで自分でも呆れた。会話のテンポが心地よすぎて離れられなかった。もどかしさ、まさに思春期の甘い時間だった。
しかし進展は止まっていた。
本当の転機は、彼女の退社日。送別会の二次会はまさに混沌の宴だった。個室で腕を組んで眠る者、階段で力尽きる者、トイレで吐き潰れる者——カオスそのもの。酔いの波に身を任せ、自分は何度も彼女を外へ連れ出した。都会の深夜2時、酔っ払いたちの喧騒の中で、まるで二人だけの静かな世界にいるような錯覚に陥った。
始発が近づく頃、みんなが散り散りになる中、彼女から電話が来た。「見捨てるのか」と、怒ったような、縋るような声。自分も限界だったが、絶対にこの子を逃したくなくて地下鉄の街を必死に走り回った。見つけた瞬間、彼女は酔ったまま手を組んできた。
自分の帰路とは全く関係のないホームに乗り、荷物を預かり彼女の地元まで送った。
朝9時、彼女の部屋で裸で目覚めたとき、自分はようやく現実を噛み締めた。
何が言いたいか。
https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/
リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
憤りの話です。今更過去の話だと言われてもやっぱり許せないことがある。
本当になんで自分たちのせいじゃないのに、あんなに日本中からメディアから毎日罵られる世界で思春期や学生を生きてたんだろうって。
いま、その世代にあたるだろう人達が自己肯定感が低く、病気がおおいといわれてる。それでいつも思う。「多感な思春期を叩きまくったあなたたちメディアも原因の一つだよね?」って。
ネットで、twitterでバカッターとかゆとり笑とか、2chあそばれてたのは全然許せる。見なきゃいいし、そもそも個人の行いだから。
でもメディアは許せない。自分の都合では防げない、毎日目や耳に入る状態で罵られて、肩身狭くされて、個人が努力してもゆとりって世の中で罵られるようになって。
それって、多感な思春期にしていいこと?いい歳した大人が、小学生や小学生に上がりたての子供に対して。社会に出てからもあったよね。
一般家庭ってみんな度合いは違えど、機能不全家庭だったよね。きっと今もそうだけど、その状態に加えて何年間も連日メディアからのバッシングってどうなのかな?自己肯定感が育つかな?低くする理由にならないかな?
ゆとり教育そのものは、7歳くらいのころ4時間授業だったのが、土曜がなくなることにより5時間目や6時間目が追加された。同級生も私も午後には疲れて眠たがっていた。土曜も家にいることになったことは、親から「子供がいるせいで今までみたいに午前ゆっくりできない!」と面倒臭がられた。金土で分割してた学校の持ち帰り荷物が金曜全てに集中して、いつも小さい身体に大荷物だった。まあ施策自体もキツいとこあったけども、問題はそこじゃない。
あんなバッシングし続けてきたくせに、謝罪することもないメディアってなんなの?
自らの役職や会社がした行いが良かったか悪かったか、そんなことも振り返ることもない…。
アナウンサーもニュースもずっと嫌い、制作や会社の気風、そういう上から言われて仕事だからやってるっていっても。
そう言ったら、無罪で許されるの?
平気な顔でずっと罵り続けた職種は、コメンテーターより悪質だとおもってるんだ。
たまに擁護や同情する記事もあったけど、それって全部ネットの記事とか小さい派閥だった。まあ当時のメディアって総理おろしとかもやってたけど…。
そういうのも含めて、ほんと無責任で無責任でずっと許せない。ずっと嫌い。
当時の子どもたちをバッシングして、自己肯定感を奪ってお金もらって、無責任で。
最近の「自己肯定感の低い平成初期勢の病気率」みたいな特集見かけるたびに「お前も加担してただろ」って言いたくて仕方なかった。沸々と湧き上がる。あのころと同じ人が制作に関わってるとは言えないのにね。上の人なんて、もうとっくにしんでるかもしれないよ。
平成リバイバルどうのと見るたびに、世間から絵描いて漫画よんでたら犯罪者予備軍扱いだったり迫害だった時代のこととかも、思い出してほしい。あんな風に「ゆとり世代は愚か、バカ、あきれちゃう」ってずっと言ってたよね。
学校みたいな個人間なら「いじめたやつがわるい、地域環境が悪かった」で折り合いつくんだけど、メディアは違う。メディアは情報操作のできる世間で組織だよ。
人から自己肯定感を奪える十分な環境であったと自覚してるんだろうか、関与してた彼らは。憤りを感じる。きっと罪を自覚してほしいんだと思う。そんな日来ないのにね。
肯定感で苦しんでるゆとり世代が多いのは、親のせいだけじゃない。メディアも原因のひとつでしょって思ってるんだ。
この日記を書いたのは、誰かに叫びを知ってほしかったから。恨みが届いて罪の意識が芽生えたらいいのに向こうに芽生えることはないだろうから、せめて聞いてほしかった。それだけ
ギリシャ神話の運命の三女神モイライは、人生の糸を紡ぎ、測り、容赦なく断ち切る。神々でさえ抗い難いこの絶対的な力は、人間がどれほど賢く逃れようとしても、予言を成就させる残酷な皮肉を宿している。
進化生物学は、この神話の残酷さを、遺伝子と脳の回路という形で証明している。逸脱衝動——加害の快楽を求める衝動と、それを創造の炎に変える想像的逸脱——の起源は、集団の生存戦略として有利だった極端な特性の多様性にある。個人のレベルでは避けがたい不幸と破滅を運命づけるが、集団レベルでは「保険」として機能してきた。これが、進化が生んだ宿命の本質である。
進化の過程で、人間集団は環境の激変に柔軟に対応するため、特性の多様性を戦略的に残した。中脳辺縁ドーパミン系(腹側被蓋野から核 accumbensへの投射回路)は、生存に有利な行動を即時的な快楽で強化するよう設計されている。この回路の感受性を高める遺伝的変異——特にDRD4遺伝子の長型対立遺伝子——は、sensation seeking(感覚追求傾向)という特性を生む。
進化生物学的に見て、これは明確な生存戦略だ。ほとんどの個体が保守的で安定した生存を選ぶ中、少数の極端な個体が未知の領域に踏み込むことで、集団の適応力が飛躍的に向上する。狩猟採集時代には、新しい狩場や技術を発見する冒険者が、集団の存続を支えた。
この多様性は、集団の長期的な生存確率を高める。集団生物学的合理性が、逸脱衝動性を存続させてきた。
しかし、極端なsensation seekingは、報酬系の過剰活性により、日常の穏やかな快楽では満足できなくなる。
記憶再固定の仕組みで長期的に固定され、ストレスや環境再暴露で容易に再燃する。
暴力や性的支配、背徳的スリルがもたらす即時的なドーパミン爆発に深く飲み込まれる。報酬系が再配線されると、日常のささやかな喜びはすべて色褪せてしまう。外部の規則で一時的に抑えられても、自由の瞬間が訪れた途端、古い渇望が再び牙を剥く。
未知への渇きと狂おしい好奇心で科学を、芸術を、思想を高みへと押し上げる。
進化は集団の存続のために、逸脱衝動という極端な特性を残した。しかし、個人の人生にとっては、モイライの糸のように残酷だ。加害の道も創造の道も、深い孤独と避けがたい代償を背負う。
トランスジェンダーイデオロギーは、生物学的性(sex)を「社会的構築物」と位置づけ、個人の性自認(gender identity)を内面的な真理として絶対視する考え方である。クィア理論の脱構築的枠組みを基盤にしつつ、より実践的・政策指向が強い点が特徴だ。一方、ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョン(DEI)活動は、これを「多様性」の象徴として企業・学校・行政に浸透させ、異論を「トランスフォビア」として抑圧する仕組みを提供している。
ミシェル・フーコーの理論、特に生権力(biopower)と医療化(medicalization)の観点から見ると、このイデオロギーは皮肉にも「解放」の名の下に新たな権力装置として機能している。フーコーは『性の歴史』で、近代権力が性や逸脱を「種(species)」として分類・内在化し、医学・心理学を通じて主体を生産・管理すると分析した。トランスジェンダーイデオロギーは、まさにこのメカニズムを逆手に取り、性自認を新しい「内面的真理」として生産し、生(身体・発達・安全)を再管理している。
トランスジェンダーイデオロギーは、性自認を「本人が知る絶対的な内面」として位置づけ、生物学的現実(性的二形性、ホルモン影響、筋骨格差)を「抑圧的な構築物」と退ける。これにより、新たな規範の再配置が生まれる。女性専用スペース(刑務所、トイレ、更衣室、スポーツ)の境界が曖昧化され、性自認優先の政策が推進された。
英国の刑務所では、2025年3月時点でトランスジェンダー囚人が339人(前年比15%増)と急増し、トランス女性(出生時男性)の性的犯罪歴率が極めて高いデータが過去に示されている。女性囚人全体の性犯罪率が約3.3%であるのに対し、トランス女性では男性型のパターンが維持される傾向が観察された。これは、フーコーが言う生権力の典型——生物学的性の古い規範を解体したかに見せかけつつ、性自認という新しい分類基準で身体と安全を再管理する装置だ。結果、生物学的女性の安全権が再配分され、脆弱層への被害転嫁を招いている。
スポーツ分野でも同様の再配置が見られた。国際オリンピック委員会(IOC)は2026年3月、女性カテゴリーの参加資格を生物学的女性(SRY遺伝子スクリーニングによる一回限りの判定)に限定する新方針を発表した。これまで性自認尊重が優先された結果、身体的優位性による不公平と女性アスリートの安全問題が深刻化した。イデオロギーが「包括性」を掲げながら、実際には生物学的現実を無視した生の最適化を試みた末の修正である。
トランスジェンダーイデオロギーの医療版であるgender-affirming care(性自認肯定ケア)は、思春期ブロッカーやクロスセックスホルモンを積極的に推奨してきた。しかし、英国のCass Review(2024年最終報告)は、関連エビデンスの質が「極めて弱い」と結論づけ、長期的な精神衛生改善効果や安全性に強い疑義を呈した。思春期抑制剤の使用は原則として臨床試験に限定され、包括的な心理社会的支援へのシフトが推奨された。
フーコーの医療化理論から見れば、これは非医療化の仮面をかぶった新たな医療化である。DSM-5やICD-11で性同一性障害の病理化表現が緩和された「反医療化」は、一見解放的に見えるが、実際には性自認を新しい「真理の内面」として医療・教育の管轄下に置いた。フーコーが指摘したように、権力は病理化だけでなく脱病理化によっても主体を生産する。軽度の苦痛は「多様性」として肯定され、重い併存疾患(自閉症スペクトラム、不安・うつなど)や社会的影響(Rapid-Onset Gender Dysphoriaで指摘されるピア・インフルエンスやソーシャルメディアの役割)は十分に検討されにくい構造が生まれた。
結果、若年層の急増現象が社会感染的な側面を持つ可能性が指摘される一方、イデオロギーはこれを「自然な発見」として扱い、慎重な鑑別診断を遅らせる。フーコー的に言えば、これは生権力の生産性——個人の「生」を性自認という枠組みで最適化・管理しようとする試みだ。
ダイバーシティ活動は、トランスジェンダーイデオロギーを「インクルージョン」の象徴として組織に浸透させた。しかし、これは真の多様性ではなく、新たな単一規範の強制として機能している。異論(Cass Reviewのような科学的慎重論や生物学的現実の指摘)は「ヘイト」として排除され、言論空間が萎縮する。フーコーの「言説の秩序」論で言えば、特定の真理(性自認の絶対性)が制度的に優位化され、他の知識(進化生物学、発達心理学、犯罪パターンの性差研究)が周辺化されるプロセスだ。
DEIは「多様性」を掲げながら、生物学的女性の権利、親の関与権、科学的エビデンスに基づく慎重さを犠牲にする矛盾を抱えている。これは、クィア理論の脱構築とは異なり、実務レベルでの生の直接管理(人事方針、教育カリキュラム、医療ガイドラインへの介入)として現れる側面である。
フーコーは、抵抗そのものが新たな権力装置を生む「権力の螺旋」を繰り返し指摘した。トランスジェンダーイデオロギーとDEIは、まさにこの螺旋に巻き込まれている。生物学的規範の抑圧を批判するはずの運動が、性自認という新しい真理を生産し、身体・発達・安全を再分類・管理する生権力として機能してしまった。
真に人間らしい多様性とは、生物学的現実を直視しつつ、苦痛を抱える個人への共感的な支援を科学的に行うことである。
イデオロギーが「肯定か排除か」の二元論に矮小化する限り、社会コストは増大する。2024-2026年の国際的修正(Cass Review後の欧州シフト、IOCの生物学的女性限定方針)は、現実がこの生権力の限界を突きつけ始めた証左と言える。
成熟した社会は、フーコーの物差しで自らの権力装置を不断に批判し、イデオロギーではなく害の度合いとエビデンスに基づくバランスを求めるべきだ。様々な性自認を抱える個人の尊厳を尊重しつつ、女性や子供の保護、科学的慎重さを犠牲にしない——それが、本来のダイバーシティの意味だろう。
クィア理論は、ジュディス・バトラーやイヴ・コソフスキー・セジウィックらによって展開された、異性愛中心主義(ヘテロノーマティヴィティ)を脱構築する試みとして登場した。規範を「行為の反復」として相対化し、ジェンダーやセクシャリティを流動的なパフォーマンスとして再定義することで、抑圧からの解放を目指したはずである。しかし、21世紀に入りこの理論が制度化・政策化される過程で、皮肉にも新たな規範の再配置と生権力の装置として機能し始めた。ミシェル・フーコーが『性の歴史』や『監獄の誕生』で分析したように、権力は単に抑圧するのではなく、知識・言説を通じて主体を生産・分類・管理する。クィア理論は、旧来の生物学的性規範を批判しながら、自ら新しい「正常/異常」の線引きを導入し、人間本性を再定義し、さらには一部の逸脱者を「脱人間化」するプロセスを促進している。
代表的な事例が、女性専用スペースの「解放」政策である。英国では、性自認を重視した刑務所配置方針が長年続けられた結果、生物学的男性でありながら女性として認識されるトランス女性囚人の割合が急増した。2025年3月31日時点で、イングランド・ウェールズの刑務所には339人のトランスジェンダー囚人が確認されており、前年比15%増という急拡大を見せている。過去の公式データでは、こうしたトランス女性(出生時男性)のうち、性的犯罪歴を持つ者の割合が58.9%〜62%に達し、生物学的女性囚人(3.3%)や男性全体(約17%)と比較して極めて高い男性型犯罪パターンを維持していることが明らかになった。
同様の再配置はスポーツ分野にも及ぶ。国際オリンピック委員会(IOC)は2026年3月、女性カテゴリー参加資格を生物学的女性(SRY遺伝子スクリーニングによる一回限りの判定)に限定する新方針を発表した。これまで性自認を尊重した参加が認められてきた結果、生物学的男性の身体的優位性による不公平が深刻化し、女性アスリートの安全と競技の公正が脅かされる事例が相次いだ。トイレ、更衣室、温泉などの日常空間でも、性自認優先の通知や条例が導入され、生物学的性の境界が曖昧化された。
これらは、クィア理論が唱える「規範の撹乱」ではなく、新しい規範の再配置である。生物学的性を「社会的構築物」と位置づけ、性自認を優先する言説は、フーコーのいう生権力として、身体と生を新たな基準で管理する装置となった。旧来のheteronormativityを批判しながら、性自認という内面的真理を「知識/権力」の対象に据え、人口を分類・最適化する——まさにフーコーが警告した、権力が「生」を対象化するメカニズムだ。
クィア理論は、人間本性を「本質的」なものではなく、パフォーマティブに構築されるものとして再定義した。これにより、ジェンダー・ディスフォリアを抱える若者への「アファーマティブケア」(性自認肯定医療)が推進された。しかし、英国カス・レビュー(2024年最終報告)やその後の追跡調査では、思春期抑制剤やクロスセックスホルモン治療のエビデンスが「極めて弱い」ことが指摘され、長期的な精神衛生・身体的影響(骨密度低下、認知発達への懸念)が懸念されている。2025年以降、イングランドでは思春期ブロック剤の使用が原則禁止され、ホリスティック(包括的)な心理社会的支援へシフトする動きが加速した。
この再定義は、フーコーの医療化理論を逆手に取ったものだ。19世紀に同性愛が「逆性的感覚」という医学的カテゴリとして生産されたように、クィア理論は性自認を新しい「内面的真理」として医療・教育・法制度の対象に据えた。結果、生物学的現実(進化的に形成された性的二形性や犯罪パターンの性差)を「抑圧」と位置づけ、流動性を強制する新しい規範を生み出した。
ここで特に問題なのは、こうした人間本性の再定義が社会契約や民主的なプロセスをほとんど経ずに急速に制度化された点である。ホッブズやルソーが描いた社会契約は、個人の加害性や自由の限界を相互に認め、合意に基づく規範を構築する仕組みである。民主的プロセス(議会審議、科学的レビュー、国民的合意形成、公衆討議)は、これを支える現実的な装置だ。しかし、クィア理論の影響下で性自認優先政策がアカデミアや一部の運動から行政・法制度へ波及した過程では、こうしたプロセスが大幅にバイパスされた。生物学的現実や潜在的加害性の検討が十分に行われないまま、政策が「進歩的」トレンドとして導入された事例は枚挙にいとまがない。
社会契約や民主的プロセスは、一種の「遅延効果」を持つと見るべきだ。思想やトレンドの変化が熱狂的に進行する中で、即時的な制度反映を「遅らせる」安全装置。審議の時間、科学的エビデンスの蓄積、利害関係者の声の反映——これらがなければ、流動的な人間像の再定義が現実の害(身体的・心理的・社会的コスト)を十分に考慮せずに固定化されてしまう。クィア理論は脱構築を掲げながら、この遅延効果を「抑圧の装置」と位置づけ、民主的チェックを弱めながら生権力を再配置した。
ここで注目すべきは、医療基準自体の改定による「非医療化」が、フーコーの医療化理論でこそ最も鮮やかに説明できる点である。DSM-5(2013年)では「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」を「Gender Dysphoria(性別違和)」に改称し、アイデンティティそのものを病理化する表現を廃止した。ICD-11(2019年)では「Gender Incongruence(性別不一致)」を精神疾患章から「性的健康関連条件」章へ移動させ、精神疾患としての分類を正式に解除した。これらは一見、クィア理論が推進した「反医療化」の勝利のように見える。
しかし、フーコーの医療化理論から見れば、これは非医療化の名の下に行われる新たな医療化・生権力の再配置にほかならない。フーコーは、権力が「病理化」だけでなく「脱病理化」によっても主体を生産・管理することを繰り返し指摘した。旧来の病理化(行為を「種」として内在化し、管理対象とする)を批判するように見せかけつつ、「合意と害の不在」という新しい基準で逸脱を再分類する。適合する軽度の逸脱(規範撹乱的な多様性)は「正常な多様性」として保護・特権化され、適合しない重い衝動(非同意・暴力要素の強いパラフィリック障害)は、より強く「ただの犯罪」として切り捨てられる。これにより、クィア理論は反医療化を装いつつ、性自認を新しい内面的真理として医療・制度的介入の対象に据え、人口の生を再最適化する装置を構築した。まさにフーコーが警告した「権力の生産性」の典型である。
さらに深刻なのは、逸脱の「軽重」による選別が、犯罪者の脱人間化を促進している点だ。合意ベースの軽度パラフィリアや規範撹乱的な表現は、クィア理論によって「多様性」として保護・特権化される。一方、非同意・暴力要素の強い性的衝動(パラフィリック障害)は、「ただの犯罪」として切り捨てられ、道徳的・社会的に脱人間化される。DSM-5がパラフィリア自体を非病理化しつつ、害を伴うものを障害とする区別を設けたのも、この二重基準を制度化した例である。
フーコー的に見れば、これは生権力の典型的な逆説だ。クィア理論は「反医療化」を掲げて旧来の病理化を批判したが、結果として新たな分類装置を構築した。「クィアであること」が文化的・道徳的資本となり、十分に「クィア」でない逸脱者(重い反社会性+性的衝動の複合型)は、規範の外側に排除される。犯罪者は「宿命的な怪物」としてではなく、社会が管理すべき生として扱われるべきなのに、理論は「軽い逸脱」の保護と「重い逸脱」の脱人間化を同時に推進する二重基準を生んだ。これにより、管理される自由(自発的な衝動抑制治療や専用環境の選択肢)は十分に整備されず、宿命的な渇望を持つ人々をさらに孤立させる。
フーコーは、権力は「抑圧」ではなく「生産」であり、抵抗そのものが新たな権力装置を生むと繰り返し指摘した。クィア理論はまさにこの螺旋に巻き込まれた。規範を脱構築しようとしたはずの運動が、性自認という新しい真理を生産し、身体と生を再管理する生権力として機能している。人間本性を流動的に再定義した結果、生物学的現実や加害性の潜在性を直視する機会を失い、脆弱層(生物学的女性や子供)の安全権を再配分する事態を招いた。
社会契約や民主的プロセスという「遅延効果」を欠いた再定義は、こうした生権力の再配置を加速させた。人間らしい社会とは、逸脱の宿命を認めつつ、害の度合いに基づく透明な線引きと、加害衝動者への「選択肢」(任意の医療的介入や構造化された環境)を拡大する社会である。フーコーの物差しで測れば、クィア理論の実践は規範の単なる置き換えに過ぎない。脱構築の名の下に生まれた新たな抑圧を避ける——それが、今求められる成熟した視点だろう。
でも内定が取れたとしても修論を出せなかったら取り消しになってしまうのだろうかと怯えている
公務員とかなら修士卒見込みで就活したものの結局大卒止まりになりそうでも第二新卒とか学部卒扱いで入れてくれると信じたい
夜更かししてこんな不安を増田に書く暇があったらその分先行研究読めよと我ながら思うけど、嫌すぎてまだまだ先延ばしにしそうだから、もう読まないと決めて早く寝る方が有益な気がしてきた。自分の怠惰さを俯瞰できてるのに行動に移せないの情けなさすぎる
でも全然将来は定まっていないのに、なぜか人生で今が一番情緒が安定している気がする。もう大卒資格は得てるし選り好みしなければ仕事には就けると思って安心しているのだろうか。前ならこういう不安が湧いたらすぐに死んだらこんなに苦しまなくて済むんだとぼんやり希死念慮を抱いていたし、そもそも社会に出るのが怖くてたまらなかったのに、今は社会人になりたくてたまらない。ようやく思春期を脱して精神的に大人になれたのだろうか。
整形したいが元の顔がこんななので伸びしろが無さそう。
町中で知らない人に軽んじられたり、危害を加えられたり、
会社では初対面の印象が良くないようで、信用してもらうのに時間がかかる。
髪はツヤがない、朝セットしても癖がひどい。
背は低いわりに頭はデカくて肩幅がある。姿勢も悪い。メガネをかけてる。
服はシワがあるかくたびれてる、新しい服を買っても、周りの人みたいに垢抜けられない。
ニキビや肌荒れ、シミもある。思春期に顔中にできたひどいニキビ跡がクレーターになってる。肌質に恵まれてない、母親もひどいニキビ面で肌がでこぼこだった。
肌の色はお世辞にも明るいとは言えない。
蒙古ひだのひどい目は垢抜けない、大きな鼻、薄い上唇、面長で、顎がないせいで横顔は化け物みたいだ。
生まれ持った声も、綺麗な声とは言えない。かっこいい声でもない、何か間抜けな声なんだよね。
目頭切開の手術と鼻整形の手術を考えてる、いくらでできるんだろう。100万じゃ無理なのかな。
遠藤周作の本を何冊か読んだ
「愛」について書かれた、とは簡単に言うことはできないけど
自分の過去の経験と合わせて「ああこうだったな」と理解できた部分があった
それは愛されてるなという実感、つまり「愛」ってなんだろうという問いについてだ
自分は幼少期から親から溺愛されて育ったおかげで「愛」はもういらない、
とばかりに反抗期に突入し大人になった今に至るまで「愛」は自分にとって
16歳の頃年上の先輩と初めて付き合い初めてフェラチオをされた時
それは電流のように脳をとかした
女性に愛されているのだという実感
それに勝るものなどこの世には無い
そう確信したのだそれは三角形の内角の輪が180°であるという真理に近いほどだった
それから少ない人数ではあるが女性にフェラチオをされ、セックスをすることができた
絶頂の瞬間をどうしてもセックスよりフェラチオを選んでしまう自分にとって
「愛」とはフェラチオの上手さだった
ありきたりな寄宿舎ホラーでガキがムカつくことを加点して48点。
うるせーガキとその姉の主人公は車で移動中にしょうもないことで喧嘩を始める。母親がそれをいさめようと映画で100回見た後部座席をむいて運転していた結果、トラックと正面衝突しかけそれを回避した結果、車は湖にドボン。母親は死に、弟は反抗期を深め幻覚を見るようになり主人公はうんざり。寄宿舎に入れられた2人は主人公と同世代のヘンな仲間ができるも弟の様子は依然おかしい。母親の幻覚幻聴にさいなまれた弟が深夜に部屋を抜け出しているところを発見した主人公たちはその後を追うと封印された部屋があり、そこには民間伝承で有名な、大きな鏡と血で書かれた謎の模様があった。主人公の制止を振り切り弟と仲間たちは伝承通り鏡に願い事をする。
みたいな話。
とりあえず言いたいんやが、スペルズ(呪文)要素どこにあったんや。
この映画の最も大きなホラー要素は大きな鏡に願い事を言うとその願い事が悲劇的な形で成就してしまうという「猿の手」形式となっているわけだけど、それを願う方法は鏡の前でろうそくを持って願いを言うことなのね。呪文要素わい!せめて嘘でもいいからなんか呪文言え!最悪、配給会社の奴がなんか呪文言え!
現代は「スペードの女王:鏡の向こう側」で映画も実際にそういう話なんだよね。内容としては自分の子供を復活させるために寄宿舎を開いてそこのガキを溺死させてた女が魔女だ!って言われてボコボコに殺されて髪も全部むしられて殺され、その怨念がいつまでもおんねんっていう、いや、全面的にお前の逆恨みだろ!って内容ではあるんだけど、それでも悲劇的な形とはいえ叶えてくれるのはフレンドリーなのかな?
で、義母とうまく行ってない不良は義母が無残に死ぬように願い、デブは食欲がなくなるように願い、ビッチはイケメン先生とのキス、陰キャは死にかけの祖母が長生きするように願う。そしてそれぞれ、不良は父親が義母を殺害してついでに父親も自殺するところをビデオ通話で見せられ、デブは食べ物が虫に見える呪いが発動し最終的にお菓子と思って剃刀を食べるし、ビッチは悪霊化したイケメン先生に唇全部を食いちぎられ、陰キャの祖母はゾンビになってしまうという、ここホラー要素!という感じで勘所は押さえている。
一方で弟のガキはなんか常にクソ生意気で姉の言うこと何も聞かんし呪われてからは余計に行動が不規則になってイラつくしバカにしてきた同級生の顔面をエンピツで突き刺すし、こいつだけはさっさと死なんかなと思って見てたけどこういう映画でガキが死ぬなんてことにはならず最終的にこいつだけがまともに助かる展開になるの正直、どうかと思う。まぁ、幼いガキが自分の落ち度で母親死なせたからしょうがないじゃんっていうのはわかるけどさぁ、意思の疎通が取れない生物嫌いなんだよな。
そしてガキが伝承と同じく鏡の前の水槽にハゲの女王に沈められ鏡の向こうに連れていかれてしまう。それを救いに主人公が再び鏡の前に戻り、陰キャのアドバイスに従い同じく仮死状態になって鏡の向こうに行きハゲと直接対決!なんやかんやで勝って、弟を現世に連れ戻りめでたしめでたし。かと思いきや、本当の主人公は今も鏡の中に閉じ込められており、じゃああの主人公は何者なんだ……というところで映画は終わる。このズラしはまぁ短編でたまに見かけるけど悪くない仕掛けだと思ったし、そもそも仮死状態にして鏡の向こうに送り込むという頭脳キャラっぽい陰キャが言い出すいかにも正しそうな解決策自体が実はハゲの女王に祖母を救いたきゃそう言え!と強要されたものだった、というズラしも嫌いじゃない。
なんていうか思春期ホラーとしては、まぁ、普通に作られてて最後の展開とかも悪くはないんだけどじゃあなんか新鮮だったり特別怖いと感じるようなこともない非常に体温の低い映画だったなという感じでまぁ50点くらいの見てもみなくても同でもいい映画ってレベルだと思うんだけどガキがウザすぎて2点引いて48点って感じかな。
あと、寄宿舎の校長がやせぎすで背が高くて圧迫感がある女性なんだけど、ハゲの女王の生前もそんな感じだからここに何らかのつながりがあってこの校長が事件に関与してるんやろなぁ!と思って見てたら別にそんなことはなく特に意味はなかったのはマイナス。
そんな感じかな。
ロシア映画だからガキの名前が「アルチョム」でずっとアルチョムアルチョムって言ってるから、いや向こうでは普通なのかもしれんけど響きがコミカルすぎてなんか笑っちゃうんすよね。日本で言うときっちょむさんと響きが似すぎているし、という理不尽なツッコミ。
この文章は当事者の自己申告なので、まず「本人がそう感じている」ことと「客観的にその臓器がどれだけ障害されているか」は分けて読むべきです。
その前提で言うと、脳機能低下の主張はかなり医学的に筋が通っている一方、肝機能低下の主張は可能性はあるが、薬害としてはかなり弱いです。
エスエスブロン錠にはジヒドロコデイン、dl-メチルエフェドリン、クロルフェニラミン、無水カフェインが含まれ、メジコンの有効成分はデキストロメトルファンです。
デキストロメトルファン過量では呼吸障害、意識障害、けいれん、幻覚などが起こりえますし、オピオイドの乱用では呼吸抑制→低酸素→永久的脳障害が起こりえます。
さらに、思春期の薬物曝露は脳発達に長期影響を与えうるとNIDAは説明しています。
したがって、本人のいう「計算力低下」「言語や記憶の破綻」「直近の出来事を忘れる」といった訴えは、反復ODの結果として十分ありえます。とくに、何度も過量摂取をしていたなら、急性の酩酊だけでなく、低酸素エピソードや慢性的なオピオイド関連の認知低下が積み重なった可能性があります。
ただし、そこまで強い症状なら、低酸素性脳障害だけでなく、睡眠不足、栄養不良、うつ、離脱、他薬物、頭部外傷、解離なども鑑別に入るので、文章だけで原因を一つに決めるのは危険です。
一方で、肝機能低下の訴えはそのまま鵜呑みにしにくいです。コデインはLiverToxで「血清酵素上昇や臨床的に明らかな肝障害と結びついていない」「確実な肝障害例がない」とされており、少なくともコデイン自体が典型的な肝毒性薬とは言えません。
デキストロメトルファンについては、胆汁うっ滞性肝炎や自己免疫性肝炎の症例報告はありますが、これは「起こりうる」ことと「長期ODの一般的な後遺症である」ことは別です。
つまり、肝機能低下は薬剤性としては可能性ゼロではないが、証拠は弱く、他原因も十分ありうるという評価になります。
「カフェインが受け付けられない」「酒を一口で昏倒する」という部分も、肝障害の証拠としては非特異的です。
薬の影響、体調、食事、睡眠、アルコール代謝の個人差、別の内科疾患などでも起こりえます。
なので、この文章から言えるのは、脳の訴えはかなり整合的、肝の訴えは要検査だが因果は弱い、というところです。
客観評価としては、脳機能は神経心理検査、肝機能はAST/ALT、γ-GTP、ビリルビン、PT/INR、アルブミンなどで確認しないと判断できません。
元メンヘラのババアの老婆心でメンヘラ薬中ガキを止めたいが、メンヘラ思春期真っ只中のガキは何を言っても止めようがないとは分かってる
それでもメジコンODブロンODで現実逃避しようとしてるガキが1人でも少し考えてくれることを願って書いておく
13歳頃からブロンOD漬けになって10年ほどODをやっていた
肝臓については、ガキの頃は平気だったカフェインが全く受け付けられなくなった アルコールは成人した頃は弱い程度だったのに、スリップダメージで今では一口飲むだけでも昏倒する
脳は本当に大変なことになった
ガキの頃は、自分で言うのもなんだが偏差値60↑のそこそこ勉強のできる人間だった。だが今では1桁の足し算も怪しい
アルファベットが上手く認識できず、中学生レベルの英単語も難しい
友達と話していてもほんの少し前にあったエピソードの話をされて全く思い出せないことが多々ある
当然仕事なんてまともにできない
ODなんて真似をするから自業自得だと人に見下されるのはわかるし、正論だと思う
そして、冒頭にも書いたがODをするようなガキが、10年後に苦しむからやめろと言われて辞めるわけがないのだ 何故なら10年後に自分が生きてるはずがないと思っているからだ。メンヘラのガキは全員自分は大人になる前に死ぬと決めているが、実際はその中でも半分以上はババアになる
そもそもODや自傷に走るガキというのはそもそもの家庭環境などがまず劣悪なのだ ただ薬を売るのを規制し刃物を取り上げれば解決する問題ではない
親を持つ子供は18歳まで耐える以外に親の支配から逃れる方法は実質的に存在しない。児童相談所の劣悪さなんて誰しも理解している。思春期のガキなど自己救済能力を身につける前の存在なのだから、大人が安全基地にならない以上、薬や自傷をはじめとした強制的な脳内物質の排出に頼ってしまうのは当然だと思う。
両親が元々はまともだったとしても、この経済不況の真っ只中では大人も頭がおかしくなる。余裕なんてない。大人に余裕がなければ子供にも余裕なんて生まれるわけがない。そもそもの現代社会の構造を見直さなければ不幸の再生産は続く。
けれどこんな増田にODの後悔を綴っているような脳の緩い女に社会を変えられるわけもない。
自分が子供を産まない選択をしたところで苦しむ子供は増え続ける。脳機能は低下し続ける。
苦しい。
約40年前の東京、とあるフィリピンパブで働くアラフォーバツイチピーナにアラフィフ既婚子持ち男が手を出した。
その結果生まれたのが俺だ。
父親には会ったことがない。物心ついた頃から、あいつはクソだという話を母から聞き続けていたので、まあ浮気してるしクソ野郎はクソ野郎なんだろう。
まぁ我ながらよく死ななかったなとしか思わない。
思春期のころは毎日毎日、生まれる前堕ろしてくれりゃ良かったのにと世界を恨んでいたが働き始めたらどうでも良くなったな。
母はもう死んだ。父も多分死んでる。
気持ち悪い親のもとに生まれてしまったやつもあんまり悩むなよ。どうせ親はしょーもない人間だしそのうち死んでまうから気にすんな。