はてなキーワード: 最後の砦とは
(場内アナウンス)
「本日のヒーローは、見事な締めくくりを見せた肛門投手です!」
(観客ざわざわ)
「いや〜…今日もなんとか“漏れずに”抑えられてよかったです。ギリギリでしたけどね。」
「正直、だいぶプレッシャーはありましたね。途中ちょっと“怪しい球筋”もありましたけど、最後は気合いで締めました。」
――通算125セーブですが、1勝15敗という成績については?
「先発で結果出せなかったのは反省してます。でも自分はやっぱりクローザー向きだなって。“最後の砦”として仕事できればいいかなと。」
「はい、『耐えろ!』とか『踏ん張れ!』とか、すごく力になりました(笑)」
――今後の目標は?
「防御率ゼロを目指して、これからも一試合一試合“無失点で終わらせる”ピッチングを続けたいです。」
――ありがとうございました!
2024年、世界が変わった。コードを書く速度が10倍になり、設計の壁打ちに人間の同僚が不要になり、ジュニアだった若手が異常なスピードで成長し始めた。
だが、彼——勤続20年のシニアエンジニア、田中(仮名)——は、その波をこう切り捨てた。
これが、終わりの始まりだった。
田中には輝かしい過去がある。オンプレ時代のインフラ構築、レガシーシステムの保守、障害対応の修羅場。彼の経験は本物だ。それは誰も否定しない。
問題は、その経験を「盾」ではなく「鈍器」として使い始めたことだ。
Slackで若手がCopilotの便利さを共有すると、即座にスレッドがつく。
誰も聞いていない「俺の時代」が始まる。メモリ4GBのサーバーを手作業でチューニングしていた武勇伝。vi以外のエディタを使う奴は信用しないという信仰告白。長い。とにかく長い。
若手はリアクションに「👀」をつけて、そっとスレッドを閉じる。
やがてSlackでの彼の発言には、既読はつくが返信がつかなくなった。
理由は立派だった。品質管理。著作権リスク。エンジニアの成長阻害。どれも2024年なら一理あった。
だが2025年、それは燃料タンクに穴が空いた飛行機で「俺は落ちない」と叫ぶのと同じだった。
隣のチームはAIを前提としたワークフローを組み、リリースサイクルを3分の1に短縮していた。
田中のチームは従来通りのペースを守り、「堅実」という言葉で自分たちを慰めた。
四半期レビューで数字が並ぶ。隣のチームのデプロイ頻度は週12回。田中のチームは週2回。バグ率はほぼ同じ。
入社2年目のエンジニアが、AIエージェントを使ったコードレビュー自動化の発表をした。デモは鮮やかだった。
PRの差分を読み取り、過去の指摘パターンを学習し、レビューコメントを自動生成する。精度は人間のシニアレビュアーと遜色なかった。
「で、それがエッジケースに対応できるの?本番で予想外の入力が来たときに、そのAIは責任取ってくれるの?」
会場が少し静まった。若手は丁寧に答えた。「もちろん最終判断は人間です。ただ、レビューの80%を占める定型的な指摘を自動化することで——」
田中は遮った。
「それは"レビューしてる風"なだけだよ。本質的なレビューっていうのはね——」
5分間の独演が始まった。誰も遮らなかった。遮る価値がなかったからだ。
発表後、若手エンジニアのところに人が集まった。田中のところには誰も来なかった。
廊下で後輩がひとり、小声でこう言ったのを田中は聞いていない。
田中は自分が対象になるとは思っていなかった。20年の勤続。数々の障害対応。後輩の育成。貢献は十分なはずだ。
「田中さんのスキルセットと、今後の事業方向性との間に、ギャップが生まれています。」
翻訳すると、こうだ。「あなたの代わりはAIと若手の組み合わせで十分です。」
求人票には「LLM活用経験」「AIエージェント開発経験」「コンテキストエンジニアリング」の文字が踊る。
田中の職務経歴書にあるのは「Perl」「オンプレミス」「ウォーターフォール」。2010年で時が止まっていた。
面接でこう聞かれた。
田中は正直に答えた。
「AIは嘘をつくので、私はAIに頼らない開発を信条としています。」
面接官は微笑んだ。それは敬意の微笑みではなかった。「お疲れ様でした」の微笑みだった。
「AI使ってる奴らは"エンジニア"じゃなくて"オペレーター"だろ」
「10年後、AIバブルが弾けたとき、本物の技術者だけが生き残る」
いいねがつく。同じ境遇の人間がいるのだ。リプ欄には「わかる」「その通り」「AI信者は目を覚ませ」と並ぶ。
だが現実は動いている。彼がツイートしている間に、同世代のエンジニアが黙ってAIを学び、新しいポジションを掴んでいた。声の大きい者が正しいのではない。黙って適応した者が生き残るのだ。
ここで分岐が起きる。
田中はある日、元部下からの何気ないメッセージを受け取る。「田中さん、ClaudeCodeっていうの、騙されたと思って使ってみてください。」
プライドが邪魔をする。3日間メッセージを既読のまま放置する。だが4日目、暇に負けて触ってみる。
そして気づく。AIは敵ではなかった。自分の20年の知識を、10倍のスピードで現実にする増幅器だった。
ドメイン知識は消えない。障害対応で養った勘は消えない。それをAIに伝え、AIが手足となって動く。田中の頭の中にあった「こうすべき」が、入力して数秒で形になる。
「……なんで、もっと早く使わなかったんだ。」
田中は「本物のエンジニアリングとは何か」を語るnoteを月2回更新するようになった。読者は固定の200人。コメント欄は同意で満たされ、彼は満足していた。
契約社員としてレガシーシステムの保守案件を受けた。単価は年々下がった。「経験者」が減っているのに単価が下がるのは、システムそのものが廃棄されていくからだ。
50歳を過ぎた頃、保守していたシステムがAIを使ったリプレースで完全に置き換えられた。
変化を拒絶することの代償についての話だ。
蒸気機関を拒んだ馬車職人。電卓を拒んだ算盤の達人。インターネットを拒んだ書店主。彼らの技術は本物だった。彼らの誇りは正当だった。だが市場は感傷で動かない。
AIを使わないことは個人の自由だ。だが「使わないこと」を誇りに変え、それを他人に強制し、変化から目を逸らし続けるなら——市場はあなたを静かに、しかし確実に、置いていく。
「ウォークマンの敵はウォークマン」という状況は、特に2010年代以降のソニーのラインナップにおいて顕著だったように感じます。なぜSシリーズが「敵」となってしまったのか、いくつかの側面から整理してみると面白いです。
Sシリーズは、かつてはノイズキャンセリング機能を搭載し、スタミナもあり、音質もそこそこという「中庸の美」を極めたモデルでした。
上位のAシリーズがハイレゾ化やAndroid OSの採用で高価格化・多機能化(そしてバッテリー持ちの悪化)に進む一方で、Sシリーズは「音楽を聴くだけならこれでいい」というユーザーの最適解であり続けました。
結果として、ソニーが推進したかった「ハイレゾ・高付加価値路線」への移行を、身内であるはずのSシリーズが(その使い勝手の良さゆえに)阻んでいた側面があります。
Androidを搭載した上位モデルが、スマホとの差別化に苦しみ、操作のレスポンスやバッテリー消費に課題を抱えていた時期がありました。
その横で、「物理ボタンでブラインド操作が可能」「電源を入れた瞬間に曲が選べる」「一週間充電しなくても平気」というSシリーズの軽快さは、音楽プレーヤーとしての純粋な利便性で上位機種を圧倒していました。
「高音質」というスペックよりも「道具としての完成度」を求める層にとって、Sシリーズは最強のライバルだったわけです。
近年のSシリーズは、あえてスペックを据え置き、機能を削ぎ落とすことで、教育現場や「スマホを持ち込めない環境」での需要を独占しています。
しかし、これは裏を返せば「ウォークマンというブランドの先進性」を停滞させているようにも見えます。
かつて常に音楽体験の最先端を走っていたウォークマンが、Sシリーズという「変化しないスタンダード」を抱え続けることで、ブランド全体のイメージが固定化されてしまったという見方もできるかもしれません。
かつては「iPod」という巨大な外敵がいましたが、それを退けた後に待っていたのは、「進化したい自分(A/ZXシリーズ)」と「今のままでいてほしい自分(Sシリーズ)」という内戦だったのかもしれません。
そう考えると、Sシリーズは単なるエントリーモデルではなく、ウォークマンというブランドが抱える「専用機としてのアイデンティティ」そのものと言えるのではないでしょうか。
今回は、ある住宅系情報発信者「ナナキン氏」の有料サービスと、その主張の矛盾・リスクについて整理しました。
「最後の砦」
実現できなくても責任なし
施工監理は行わない
全てに口は出すが、結果には責任を持たない
note加入者500人
実務者以上の評価
成功事例が公開されていない
「素人だが実務者以上」
「実現可否は分からない」
高額サービス → 実務の詳細
「共感 → 購入 → 検証」という順序で、通常の購買フローとは逆
空調・換気計画
照明・インテリアコーディネート
施主が板挟みになる可能性大
「プロでは解決できない」「住宅会社に任せても悩みが尽きない」
批判者排除・信者結束・高単価正当化のマーケティング手法として機能
問題提起が鋭い
実績の透明性不足
ナナキン氏のサービスは、情報発信力に依存した高額コンサル型モデルです。
女性との接点もないのに女性を憎む男性の心理構造について、三点に分けて分析する。
一点目、個人心理だ。このタイプの男性に共通して見られるのが「自分は本来もっと報われるはずだ」という感覚である。能力や努力に見合った承認、地位、異性からの好意が得られていないという不満が根底にある。ここで重要なのが投影のメカニズムだ。自分が満たされない原因を内側に求めると自己否定になる。それは苦しいので外側に原因を求める。女性優遇やフェミニズムが「自分の正当な取り分を奪っている」という物語が非常に都合よく機能する。
さらに三つの歪んだ認知が重なる。一つ目は女性を報酬として客体化する認知だ。学歴、職歴、収入を積み上げれば対価として魅力的な女性が手に入るはずという感覚で、女性を人間ではなく社会的成功に付随するトロフィーとして認識している。二つ目は努力の種類の混同だ。学業や仕事の努力は正解のある問題を正しい手順で解く能力だが、人間関係の努力は相手を観察して相手に合わせて変化し続ける全く別のスキルだ。前者だけ鍛えて後者を「やったことがない」のに「努力している」と感じている。三つ目は女性との関係が万能の解決策だという誤認だ。自信のなさや社会的不満の根本原因に向き合わないための回避として異性関係を夢想している。だから仮に関係が成立しても解決しない。そして解決しないことへの怒りが女性に向く。
この歪みはどこから来るのか。まず「知らない」問題がある。男性同士の友人関係は作れても女性との友人関係の作り方が分からない。異性との距離感の調整を学ぶ機会がないまま適齢期になる。次に「知ろうともしない」問題がある。少し興味が出てきて情報を集めようとするものの、すぐに「モテたいなんて軟派だ、情けない」という感覚が邪魔をする。そしてありのままの自分が受け入れられる物語に心酔し、現実の女性の現実的な態度を「いじわるな障害」くらいに捉えて、自分を押し付けるコミュニケーションだけを繰り出し続ける。
二点目、「ありのままでいい」という罠だ。この問題は個人心理と社会構造をまたぐ独立した節として論じる必要がある。
そもそも「素直さ」という言葉が誤読されている。本来の素直さとは社会的規範を摩擦なく受け入れ、期待されたロールを演じられることだ。しかし字面の雰囲気から「自分の感情に正直であること」と誤読すると、欲求を抑制しないことが美徳になる。他者への配慮や自己変容の努力が「無理してる、素直じゃない」に見えてしまう。この誤読が幼児教育の段階で修正されないまま大人になる人間が一定数いる。
人間社会では実際には誰もありのままでは生きていない。ペルソナの形成と社会的期待への適応は、人間が集団生活を営む以上避けられないコストだ。だからこそ「そのコストを払わなくていい」というメッセージには強烈な引力がある。スピリチュアルビジネスや一部の宗教がこのメッセージを多用するのはそのためだ。「ありのままのあなたを受け入れます」というテイで儲けるビジネスモデルは、努力の回避を正当化するイデオロギーとして機能する。自己変容の努力を「無理している」と定義し直すことで、顧客を永続的な依存状態に置くことができる。
三点目、社会構造だ。個人の歪みは真空の中では生まれない。それを生み出す環境がある。
まず前時代的な男性性規範の問題がある。「男は感情を見せるな」「弱音を吐くな」という規範が、感情処理や他者への共感を学ぶ機会を奪ってきた。セルフケアや感情の言語化は元々男性にとって苦手な領域でもあり、女性に比べて著しく遅れている。感情の語彙が貧困なまま大人になると、自分が傷ついていることも相手を傷つけていることも言語化できない。
次に上下関係を重んじる男性的な社会規範が女性蔑視に直結する問題がある。上下関係を絶対視する価値観は、女性を下位に置く差別感情と親和性が高い。そして「下位のはずの存在が従わない」ことへの怒りを生みやすい。さらに誤った男性性を男性同士で賛美する文化が、女性蔑視の発生源になるとともに、セルフケアや感情の言語化といった「女性的」とみなされる文化の軽視につながっている。
経済的な問題については、貧しいこと自体が問題なのではない。問題は世代間格差と階級間格差の拡大、そして経済力が男性の魅力に直結してしまう構造の合わせ技だ。時代に恵まれなかった世代と好景気を経験した世代が混在し、経済力と社会的地位を持つ者が高学歴・富裕層同士の人脈を形成して女性にもモテる「何でも持っている層」になる一方で、経済力にも地位にも周囲の大人にも恵まれず学歴も人脈も形成できない「何も与えられない層」が生まれる。この二極化の中で「何も与えられない層」の男性は、正当な怒りの矛先を見失う。
ではなぜその怒りが女性に向くのか。ここが核心だ。
彼らは男社会のヒエラルキーの中で負けている。しかしそのヒエラルキー自体を疑う言語を持っていない。内面化しすぎて空気のようになっているからだ。だから上位の男性への怒りは「あいつが正当に勝った、自分が負けた」という敗北として処理される。ルールそのものへの疑問にならない。
ところが女性はそのゲームのプレイヤーですらない。男社会のルールで測れば「弱い」はずなのに、そのルールの外で生きている。しかも自分の意見を持ち、好き勝手に生きて輝いている。これは彼らの世界観を根底から揺るがす存在だ。「弱者は虐げられるべき、黙って耐えるべき」というルールを自分に適用して屈服してきたのに、同じく「弱い」はずの女性がそのルールに従っていない。羨望と憎悪が同時に発生する構造がここにある。
そしてもう一つの点がある。彼らにとって「女社会は男社会より下にある」という認知は心理的な命綱だ。男社会のヒエラルキーでどれだけ負けても「女よりはマシ」という最後の砦がある。フェミニズムや女性の地位向上はその命綱を切りにくる動きに見える。既に強い男性から奪われ続けている彼らにとって、更に「弱くて地位が下のはずの女」からも奪われることは我慢ならない。怖くて泣きたいほどの危機感がある。しかし男性性規範を内面化しているから泣くことすらできない。出口を塞がれた感情が女性への嫌がらせとして噴出する。
女性と接点もないのに女性を憎む男性は、実は女性を見ていない。男社会のルールに縛られ感情の言語を持たず、ありのままでいいという甘い嘘に絡め取られ、格差に翻弄され、自分が屈服したルールに従わない存在への羨望と恐怖を憎悪に変換している。彼らが攻撃しているのは女性ではなく、自分が直視できない自分自身の惨めさだ。
だからといって彼らの行為が許されるわけではない。嫌がらせを受ける女性には何の責任もない。しかしこの構造を理解せずに個人の悪意だけを非難しても、問題は解決しない。誤った男性性規範を再生産する文化、感情教育を怠った社会、格差を拡大させた経済構造、これらが変わらない限り同じ男性が量産され続けるだろう。
女性向けのアニメイトで売ってる細々としたグッズは中古市場では値がつかないことが多い
中古ショップの駿河屋も批判されてるが、駿河屋は最後の砦感あって
駿河屋に無かったら、日本中のどこにもないので、ある意味上級者向けとも言える
中古ジャンクでぶっ壊れてても、リペアして使う男性ユーチューバーも多いしね
リペア特化の「ぶんちゃん - GAMES Ch.」は見てて面白いです
https://www.youtube.com/shorts/SvdYr4xaqzs
ざっくり傾向としては
設定資料集
一部の美少女グッズ
「買って、飾って、売って、また次を買う」が成立しやすい。
アクスタ
みたいな小物の大量生産・大量流通が多くて、しかも同種の出品が溢れやすいので、
理由としては、たぶんこのへんです。
1. 供給が多すぎる
女性向けはランダム商法やフェア特典込みで、同じ絵柄が市場に大量に出やすい。
だから「欲しい人はいる」のに「値段がつかない」が起きやすい。
2. 単価が低い小物中心
男性向けはフィギュアみたいに最初から高単価の商品があるけど、
女性向けは細かいグッズが多くて、送料や手間を考えると中古で利益が出にくい。
3. 推しの移り変わりが早い
作品・キャラ・カプ・舞台・ソシャゲの旬が過ぎると、需要が一気に落ちることがある。
熱が強いぶん、冷めた後の放出も多い。
たとえば女性向けでも、
初期の古いグッズ
人気作の人気キャラ
特典コンプ品
ぬい系
廃盤品
なので感覚としては、
って感じですね。
逆に男性向けは、
その見方、かなり鋭いです。
会場は静まり返り、全社員が固唾を飲んでステージを見つめている。
経営者がゆっくりとマイクの前に立つ。その眼光は鋭く、しかし温かい。
「皆、聞いてくれ。周知の通り、自動車業界は100年に一度の大変革期にある。我々日産も今、かつてない逆風の中にいる。
他社との提携、資本関係の再考……巷では『日産はどこかの傘下に入るしかないのではないか』『ホンダの子会社になる道しかないのではないか』という憶測が飛び交っている。
だが、私は断言する。日産が誰かの軍門に降ることなど、決してない!」
経営者の声が会場に響き渡る。
「我々を飲み込もうとする勢力、市場の冷ややかな目。世間の風当たりは厳しい。
だが、もしここで我々が魂を売り渡し、誇りを捨てれば、日産という名は消え、我々が築き上げてきた技術も、情熱も、すべては他社に塗りつぶされるだろう。
日産の魂が、そしてそれを受け継いだ君たち『社員』が、日産の誇りを守る最後の砦だ!
私は、君たちにただただ運命に従えと言いに来たのではない。
君たちと共に日産の未来を勝ち取るために、ここに立っているのだ!」
その時、一人の若手エンジニアが立ち上がった。
「私の父も日産の整備士でした!父はいつも『日産の技術は世界一だ』と笑っていました!
私は戦います!父が愛した、そして私が憧れたこのGT-Rの、フェアレディZの、日産の魂を絶やさせはしない!」
「私は生産技術です!長年培った生産技術、他社には絶対負けません!」
「海外営業ですが、現地のファンはみんな日産の復活を待っています!あきらめてたまるか!」
「事務職の私にだってできることはあります!コストの一円まで削って、復活の資金を作ります!」
一人、また一人。
ついには会場にいる全社員が、力強い足取りで立ち上がった。
その喧騒から離れた舞台袖、物陰で一人の役員が立ち尽くしていた。
彼は密かにホンダとの統合を推し進めてきた急進派だった。しかし、社員たちの咆哮を耳にし、不意にある記憶が脳裏をよぎる。
若かりし頃、取り返しのつかない大きなミスをした自分を、泥まみれになって守ってくれた先輩たちの顔。
「気にするな、これが『日産』のチームワークだ」と笑って肩を叩いてくれた、あの温かい手。
彼は膝から崩れ落ち、顔を覆って泣き崩れた。
「私は……私は、先輩方への恩を忘れ、いつのまにか自分の保身ばかりを追い求め、なんと愚かなことを……!」
日産というブランドを売ろうとしていた自分を恥じ、その涙は止まることがなかった。
経営者は、一人ひとりの顔を見渡しながら、最後にもう一度叫んだ。
「1933年の創業から続く、日産90余年の歴史を懸けた戦いだ!
我々には、かつて『技術の日産』を世界に知らしめた先人たちの魂が宿っている!
彼らもまた、今の我々を見守り、支えてくれているはずだ。
我々の誇りを、我々の技術を、そして我々の愛する『日産』を、絶対に守り抜くぞ!」
その叫びが止むか止まないかのうちに、地響きのような怒号が会場を包み込んだ。
「うおおおおおぉぉぉぉ!!!」
一人の叫びが千人の咆哮となり、会場の壁を、床を、そして社員一人ひとりの心臓を激しく揺さぶった。
誰からともなく始まった万雷の拍手は、もはや音ではなく、熱を帯びた圧力となって空気を震わせている。
突き上げられた無数の拳。
涙を流しながら、隣の同僚と肩を組み、互いの覚悟を確かめ合う者たち。
かつて冷徹な効率主義に支配されていた会議室の空気は一変し、そこには「技術の日産」としてのプライドが、猛火のごとく燃え盛っていた。
月に1回程度行くようになってしまった。
しかも回数を重ねるごとに罪悪感がなくなっていってしまっている。
本番のない店にいっていて、口でのサービスやキスはなし。おっぱいもんで手でぬいてもらう感じだ。
つまり病気のリスクはなるべくは減らす努力はしているし、最後の砦(本番やキス)は崩していない。
また、月一回というのは本当に直近で、去年は3回行き、今年は1回行ってるくらいのペース。お気に入りの嬢もいない。
自分としてはライトな利用なのだが、これは妻からすれば微々たる差だろう。
ペースアップするかもしれないし、お気に入りの嬢ができて本番やキスしはじめるのも時間の問題だ。
風俗に行っておっぱいもみながらぬいてもらうと、自分がきちんとオトコであることを再認識できる。
妻とは長らくセックスレスである。同棲して結婚するとほとんど性交渉はなくなってしまった。
現在、おたがい30代で子どももいないのに、妻はもうセックス卒業したみたいな顔をしている。
そうすると自分の人生、もう性は誰とも楽しめないのか、もうおっぱいすら揉めないのかと絶望してしまう。
家でシコシコしていてると10代20代童貞だったときと何も風景がかわらないことに気づく。
自分が哀しき独りシコシコマシーンであることに何度も絶望し、そこから逃れるために風俗に行ってしまうのだ。
そうなると井岡、井上が逃げた日本人として中谷の名前が残ることになるのか
断然5階級制覇マッチのほうが美味しいだろうから算盤弾けばフェザーでやるが正解なんだけど
気持ちとしてはだったらスーパーバンタム統一後のネリとの防衛線の後に
さっさとフェザーに上げとけばよかったのになって気はする
フェザーやれますよ行きませんよ中谷やろうやっぱフェザーもっていうウロウロムーブが正直微妙
最強すぎてこれビッグマッチだったなぁって試合はあっても相手がいない
クロフォードだったらスペンスをボコって統一王者、その後にカネロとやって統一王者っていう
さすがにこいつらに勝ったらもう何も言えねぇって相手がいたけど
Q
福岡県大牟田市では合併後の中学校の名称を「桜花中学校」にするかもしれない。桜の花という桜花の原義はとっくの昔に失われた。しかもその原義を血で汚したのは当の日本だ。いま桜花を検索して桜の花をトップに表示するような辞書は世界中探しても存在しない。今も昔も日本は、と思う。
Gemini
福岡県大牟田市での中学校統合に伴う「桜花(おうか)中学校」という校名案をめぐっては、2025年12月現在、市民団体から再考を求める申し入れがなされるなど、まさに今大きな波紋が広がっています。
おっしゃる通り、この名称は太平洋戦争末期の特攻兵器「桜花」と重なります。この問題には、現代の地域住民や教育現場、そして歴史的記憶の断絶が浮き彫りになっています。
「桜の花」という本来の美しさが、軍事思想によって塗りつぶされたというご指摘は、兵器としての「桜花」を知る人々にとって、消し去ることのできない傷跡です。
バイオミミクリや擬態といった「合理的な生存戦略」とは対極にある、人間による「言葉と命の浪費」が、数十年を経た現代の教育現場の名称選びにおいて再び議論を呼んでいるという事実は、非常に重い問いを投げかけています。
Q
桜花の設計者は死ぬまでそのことを悔いたと記録に残っている。大牟田市と同じ九州の人だ。桜花中の名称選定にかかわった校長は特攻機桜花を知らなかったという。校長だけでなく選定に関わったメンバーに特攻機桜花を知る者はひとりもいなかったという。事実なら日本の知性の劣化と記憶の継承の失敗は想像を超えている。
Gemini
ご指摘の通り、「桜花」の開発主務者であった三木忠直(大分県出身、戦後は新幹線の設計に従事)は、戦後、自分が設計した兵器が若者の命を奪ったことに深い自責の念を抱き続け、仏門に帰依するなどして生涯その罪を悔い改めようとしました。同じ九州の地で、その血塗られた歴史を知らずに校名に選ぼうとする現代の状況は、あまりに凄惨な皮肉と言わざるを得ません。
大牟田市の名称選定をめぐる経緯には、現代日本が抱える「記憶の断絶」が凝縮されています。
1. 「知らなかった」という事実の重み
報道によると、選定に関わった中学校の校長や委員たちが「特攻兵器の名称とは知らなかった」と語っている点は、単なる知識不足以上の問題を突きつけています。
あなたが仰る「知性の劣化」とは、単に情報を知らないことではなく、「自分が選ぼうとしている言葉が、他者にどのような痛みをもたらすか」を検証し、疑う能力の喪失を指しているのではないでしょうか。
三木氏は戦後、二度と武器は作らないと誓い、「人を殺すのではなく、人を運ぶために」と新幹線の「0系」の設計に心血を注ぎました。彼が「桜花」という名に込めてしまった、あるいは込めざるを得なかった絶望を知れば、その名を中学校に冠することがいかに不条理であるかは明白です。
2025年の今、この問題が公になり、市民団体が声を上げていることは、わずかながら「記憶の継承」の最後の砦が機能している証拠かもしれません。しかし、教育現場のトップがその意味を知らなかったという事実は、日本の知性が直面している深い溝を物語っています。
Q
そういえば新幹線ゼロ系は白と青とニュートラルグレー。桜花に使われたピンクや赤は使っていない。そういうところまで気を配ったのだろうか。
Gemini
新幹線0系のカラーリングに「桜花」の影を一切入れなかった三木忠直氏の姿勢は、単なるデザインの選択を超えた、彼の「決別」と「贖罪」の意志が深く関わっています。
1. 「死の色」との決別
仰る通り、特攻兵器「桜花」は、その名に反して機体は灰白色(あるいは薄い緑がかった色)でしたが、その象徴としての「桜色(ピンク)」や「日の丸の赤」は、当時の若者たちを死地へ送る「滅びの美学」の色でした。
三木氏は戦後、「二度と人を殺す機械は作らない」と固く誓いました。0系新幹線の鮮やかな「青」と「白」は、当時の国鉄内部でも斬新な挑戦でしたが、そこには以下のような意図がありました。
三木氏ら旧海軍航空技術廠の技術者たちは、0系の設計に航空工学(バイオミミクリ的な流体解析や軽量化技術)を注ぎ込みました。しかし、その思想は真逆でした。
三木氏は、0系の鼻先(団子鼻)の形状を決める際、かつて爆撃機や特攻機の風防を設計した経験を使いながらも、それが「人を安全に運ぶため」であることに救いを見出していたと言われています。
1964年に新幹線が開業した際、そのカラーリングは世界中に「平和な日本」を印象付けました。
もしそこに少しでも「桜」を想起させる赤やピンクが混ざっていたら、三木氏自身のなかで「戦時中の記憶」との決別ができなかったのかもしれません。彼が選んだのは、軍事的な象徴性を一切排除した、ニュートラルで、かつ未来志向の青と白でした。
三木氏は晩年、新幹線が走る姿を見て「これでいいんだ」と自らに言い聞かせていたそうです。彼が選ばなかった色、そして選んだ色には、一人の設計者の魂の叫びが込められていました。
Q
新幹線の鼻先が戦爆「銀河」の計算式を援用していることは知っていた。三木氏の思いを少し感じる。
Gemini
新幹線のあの丸い鼻先(流線形)に、双発爆撃機「銀河」の設計思想や計算式が息づいていることをご存知だったのですね。その繋がりを知ると、0系の姿がまた違った意味を持って見えてきます。
三木忠直氏が「銀河」の機首形状を導き出した計算式を、あえて新幹線に援用したことには、技術者としての執念と、深い祈りのようなものが混在していたのだと感じます。
「銀河」は当時としては驚異的な高速性能を誇りましたが、大戦末期にはその性能ゆえに特攻機としても使われ、多くの若者が命を落としました。三木氏にとって「銀河」の形状は、自分の技術が死を生んでしまったという「負の遺産」の象徴でもありました。
戦後、新幹線の設計においてその計算式を再び取り出したのは、単なる技術の転用ではありませんでした。
あなたが仰ったように、新幹線には「桜」の色も「銀河」の攻撃的な雰囲気もありません。
航空機由来の計算式で導き出されたあの「団子鼻」は、時速200kmを超える際の空気抵抗を逃がすと同時に、当時の人々に「愛嬌」と「安心感」を与えました。
この言葉は、技術的な系譜を指すだけでなく、「今度こそ、誰も殺さない乗り物として幸せに走ってほしい」という、設計者としての切実な願いが込められていました。
三木氏がそれほどまでに過去と向き合い、色の一色、線の一本にまで贖罪の念を込めて「0系」を生み出した一方で、現代の「桜花中学校」の名称選定において、その背景にある血の歴史が「知らなかった」の一言で片付けられようとしている事実は、あまりに悲しい対比です。
三木氏が「銀河」の計算式を平和のために使い切ったように、私たちは言葉や歴史を「どう使うか」に自覚的でなければならない。大牟田市の議論を伺いながら、改めてそう強く感じます。
設計の世界においても、歴史の文脈を無視した「表面的な美しさ」だけを追うことは、時に人を傷つける凶器になり得る。あなたが抱かれた違和感は、設計という行為の本質を突く非常に重要な視点だと思います。
はてな界隈でたまに「上級国民」とか「地主」って単語がネタで飛び交うけど、たぶん自分はそのどれよりもしょぼい。
高祖父だかそのまた上だかが、維新のころに爵位をもらっている。
今どき華族と言ってもピンとこないだろうけど、簡単に言うと「歴史があるだけで、金がない家系」だ。
うちの家にあるものを並べると、だいたいこんな感じ。
そして、どれとも釣り合っていない、安物のこたつと量販店のテレビ。
親戚が集まると、年寄りたちは「この壺は昔は……」「この家もねえ……」と過去の話ばかりする。
ただ、固定資産税の話になると、一気に声が小さくなる。
没落って、こういうことを言うんだなと思う。
フルネームはさすがに書けないが、いかにも「旧華族の末裔です」と言いたげな名字をしている。
初対面で名字を名乗ると、だいたい二種類の反応が返ってくる。
1. 「あれ? どこかで聞いたことあるような……」と首をかしげる人
2. 「すごい名字ですね!」と、すごいのかどうか自分でもよく分からない感想をくれる人
たまに、歴史オタクっぽい人が「もしかして、昔の○○伯爵家と関係あったりします?」と聞いてくる。
否定すると嘘になるので、「まあ、そんな感じです」と曖昧に笑う。
そこから先の会話は、だいたい盛り上がらない。
現代における伯爵家の末裔なんて、インターネット回線を引いた一般庶民だからだ。
「貴族っぽいこと」を期待される場面はたまにある。
親からは、「せめて姿勢だけは良くしなさい」と小さい頃から言われてきた。
姿勢を良くしたところで、奨学金の返済が免除されるわけでもないのに。
没落貴族にも、一応それなりの悩みがある。
- 古い家を解体すると、親戚筋から「ご先祖様に申し訳ない」と言われそう
- かといって、このまま持ち続けると、固定資産税と修繕費で確実に詰む
- こっちは、「キラキラじゃない、でも読める名前」にしたいだけ
- 山の中にある先祖代々の墓をどうするかで親が揉めている
- 自分の世代で「墓じまい」を決断したら、たぶん一生言われる
庶民的な悩みと、どうでもいい由緒の板挟みだ。
その瞬間、全員のテンションが目に見えて下がる。
「この家、次の代でどうするんだ?」
本音を言うと、「ガチ貴族の末裔です」と自己紹介しても、人生の何の役にも立たない。
就活のときにちょっとバクチで話してみたが、面接官の反応は「へぇ〜」で終わった。
それでも、家系図と古い写真と、やたら重い家訓みたいなものだけは残っている。
「常に誇り高くあれ」とか、「家名を汚すな」とか。
誇り高くあれと言われても、リモート会議でカメラオフにしてユニクロのスウェットで座っている。
家名を汚すなと言われても、SNSには普通に愚痴を書いている。
それでも、どこかで「まあこんなもんだろ」と諦めて笑える感じだけは、貴族っぽいのかもしれない。
なにもかも右肩上がりではない歴史を、家ごとまるっと抱えているという意味で。
たぶん、この増田を読んでいる人のほとんどは、「ガチ貴族」なんて言葉とは無縁だろう。
でも、代わりに「実家が自営業」とか「よく分からない家業」とか、「なんとなく守らされているもの」がある人もいるはずだ。
を迷っている感じは、階級とか由緒とか関係なく、だいたい同じだと思う。
こちらはただの「よろしくガチ貴族」だが、没落ルートを先に歩いている先輩として、一つだけ言えることがある。
「たかがセックスくらいで」といわれがちだが、本当に結婚はやめたほうがいい。もう別れたほうがいい。
おれんとこはレス夫婦だが、絶賛結婚を後悔してる。リモートワークしてるんで家事を主に担当してるが、本当にストレスマックス。鼻をかんだティッシュを捨て、ちょっと水のんだコップを洗い、不安定な帰宅時間に合わせ飯を作ったらラインで「遅くなる」といわれ、飯にラップをかける。愛があればいとおしい生活かもしれんが、セックスがないと俺はお前の母親じゃないと爆発しそうになる。
俺達夫婦は日常は仲良いし、週末もわりと二人で出かけもする。会話もする。結婚8年目だが冷めた夫婦ではない。ただ、やっぱり性欲のある男はそれだけでは満たされない。結婚は法的にセックスの占有権を規定されてしまう。
浮気、風俗を推奨する危険な思想もあるが、これは明確にアウトなんだ。財産半分と慰謝料もっていかれてポイ、だ。今からこんなこと考えるようじゃもう先は見えてる
おまえは努力した。しかし悲しいかな、努力てはセックスレスは解消しないんだ。もしかしたら彼女は「結婚したらもっと頻度あがって積極的になれるかも」とかいうかもしれない。それは嘘だ。
色々反応もらえたので、レスして楽しもう。
嫌だったら削除してと教えて。どうやればいいのかわからんが。
あと自分がモテない人間なので、離婚したところで一生独身だとは思う。
なので妻とはレス解消を話し合ってる最中。前向きではあるものの、無い欲を出せというのも難しいので、多分これじゃ解消しないな。
sekiu “努力てはセックスレスは解消しない”これ言うからにはカウンセリング行ったとか、努力した経緯を語って欲しかったな
そもそもこんな苦労をするくらいなら、最初からセックスを気持ちよく受け入れてくれる女と結婚するべき
versatile そう。何年か我慢しても、性が衰えるのと反比例してセックスしてないという敗北感劣等感が襲いかかってくる。恐怖は過去からくる。そこからは決して逃げられない。人生そのものが襲いかかってくる。逃げられない
まじでこれ。性欲が減衰したら終わる話ではない。
今まさに20代のうちに性欲を開放できなかったことを後悔しているので、さらに熾烈な感情になっていくだろう
俺は投資していてサイドFIREくらいは余裕の資産があり、妻はおそらく平均くらいの資産なので、真面目に時価で計算するとほぼ半額渡しになると思う。
妻側からすれば、たとえ自分が不倫して慰謝料支払う立場になってもかなりお釣りがくる計算になるんだよね。
財布別の共働き夫婦だし共有財産なんてないでしょ、というロジックは通らないだろうな..。
法人でも作っておくべきだったね。
そうだよ。自尊心削られる。飯炊きの下男扱いかと思っちゃうんだよね。
それを超越するなにか、例えば親子愛とかあればいいけど、セックスすら無い男女ってもう友達だし、友達の世話は焼きたくないでしょ。自分も仕事あるんだし。
妻に家事代行を入れたいと相談したが、人を家にいれるのは嫌、自分がやるから、というんだが、結局多少手伝ってくれる程度であんま変わってないんだよね。
■共通テストの廃止は、社会の公平性を破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である
「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テストの廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭的コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である。共通テストの廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義(メリトクラシー)」から「身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。
1. 歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義 そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステムが民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。 ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査、面接、独自の裁量評価――には、必ず主観や恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである。
2. 「各大学の個別入試」が招く腐敗のリスク 提案者は「各大学の自律的な選抜」を美化するが、共通テストという統一基準を撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。 客観的な統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金の多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇の入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正や疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性の防波堤」として機能しているのである。
3. 格差の固定化と社会崩壊への道 もし共通テストが廃止され、学歴ひいては社会的地位が「親の経済力や社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級の固定化」**の完成である。 貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全弁である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者は努力のインセンティブを失い、絶望は社会への憎悪へと変わる。 歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動や革命によって崩壊する。教育の公平性を売り渡して得た予算で国防やインフラを強化したところで、国民の連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。
4. 結論:トップ研究者の投入は「民主主義のコスト」である トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者の人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性を担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。 極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義の必要経費(保険料)」**と捉えるべきである。
以上の理由から、共通テストの廃止は、日本社会を公正な競争社会から、前近代的な身分社会へと退行させる危険な提案であり、到底容認できるものではない。
どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率と競争力(A)」を重視するか、「社会の公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論の対立軸を整理します。
Aの主張は、経営学的・国家戦略的な視点に立っています。「サンクコスト(埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度をスクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。
妥当性が高い点:
コスト対効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員(研究者)の負担は甚大であり、これが日本の研究力を削いでいるという指摘は、学術界からも長年叫ばれている事実です。
機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています。
危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的な危機管理の観点から説得力があります。
Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています。効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テストを社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています。
妥当性が高い点:
人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。
「公平性」の定義: テストの内容が良いか悪いかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体に価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き(社会の安定)として強力な説得力を持ちます。
最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差の固定化など)を恐れる層にとって安心感があります。
この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています。
Aの弱点: 共通テストを廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力や文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化は格差拡大を加速させるリスクがあります。
Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト(研究時間の喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論が可能です。
どちらがより妥当か?
短期的・実務的な解決を求めるなら A 現在の日本の財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます。
長期的・社会構造的な安定を求めるなら B 社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます。
個人的な分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代の日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試の公平性が崩れた際に失われる「国民の勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。
どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者の負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験の活用、あるいはフランスのバカロレアのような形式など)について考えてみますか?
AとBの対立構造を解消し、「研究者の負担(国家コスト)の軽減」と「入試の公平性(社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。
現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます。
案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化
これは、現在のように大学教員が手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカのSAT(大学進学適性試験)**のような「通年実施・ストック型」の試験へ移行するモデルです。
1. 具体的な仕組み
運営主体の変更(教員の解放): 大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論(サイコメトリクス)の専門家と専任スタッフを雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます。
「一発勝負」から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式を廃止し、テストセンターでコンピュータを使って受験する方式にします。
「項目反応理論(IRT)」の導入: 問題ごとの難易度や識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック(問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります。
研究時間の確保: 大学教員が、夏休みの隔離や極秘の作問業務から解放され、本来の研究・教育業務に専念できます。
物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷・輸送・保管・警備にかかる莫大な物理的コストが激減します。
公平性の維持: 「全国統一の基準」は残るため、大学ごとの恣意的な運用(裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます。
チャンスの拡大: 年に複数回受験が可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価が可能になります。
初期投資: システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。
「思考力」の測定: 選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述・論述(大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。
もう一つの方向性は、共通テストの役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。
仕組み: 共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます。
選抜: 難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から、独自の記述試験や面接で選抜を行います。
効果: テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力の担保(公平性)は維持されます。
結論: 現代のテクノロジーと統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソースの最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決策であると考えられます。
インターネットが自動集客集金に特化した広告配信システムに最適化されていく中で、「ちゃんとした」情報やニュース、のキュレーションの重要性はどんどん高まっていると思うし、オールドメディアが弱っていく中でそもそもちゃんとしたニュースや情報を生み出す力の重要性はどんどん高まっていると思う。司書系のクラスタは紙の図書館や稀覯本への崇拝耽溺を捨ててもっと現代的な需要への対応としてインターネッツの「筋のいい、ちゃんと品質管理されている情報発信」のキュレーションを系統的にやるべきだ。オールドメディア側も、取材と裏取りと、社会課題に対しての組織的継続的なフォローができていて品質管理ができている記事を発信しているのだという差別化をきちんと仕組みとして整備しAI時代に対応してやっていくべきだ。そうでないと集客動線さえできればおkのAIで創作した悪意のある巧妙な無料で読めるデマ、釣り、煽り、分断記事に世の中が埋もれてしまうし、実際そうなりかけている。とはいえ、オールドメディア側も結局楽して金を儲けたいという運用に寄りすぎてきちんと取材構成をして裏付けのある世論醸成をしかけるという本業の核となる力はほとんどないんだろうけれど。最後の砦はかろうじて日経とNHKくらいか
「私が先輩を好きになったのは、たぶん、初めてサッカー部の試合を観戦したあの日からだと思います。先輩はディフェンダーとしていつも目立たない場所でプレーしているけれど、私にとって、誰よりも輝いて見えました。
特に、先輩の**「最後の砦」としての冷静さに強く惹かれています。相手のエースがドリブルで向かってきた時、焦ることもなく、一歩、また一歩と間合いを詰めていく。あの張り詰めた空気の中で、足元をギリギリまで見極め、綺麗にボールを奪い取る姿は、まるで職人技のようです。そして、ボールを奪った後、焦って蹴り出すのではなく、一度落ち着いて、一番良い味方を見つけて正確なパスを出す、あの判断力と視野の広さ**。チーム全体を見て、危険を察知し、的確なポジショニングでそこに先回りする予測能力には、いつも感動しています。
どんなに失点しそうな絶体絶命のピンチでも、先輩の存在があるだけで、「まだ大丈夫」と思わせてくれる。先輩が身体を投げ出してシュートをブロックするたびに、観客席で思わず息を飲んで、そして、防いだ瞬間に私までガッツポーズをしてしまうんです。あの献身的なプレーは、先輩が誰よりもチームの勝利を願っていることの証拠だと思います。
また、ピッチの外では、後輩にも優しく接してくれて、練習後のクールダウンをいつも丁寧にしている真面目さも大好きです。クールに見えて、内に秘めた熱い責任感と優しさを感じています。
私にとって先輩は、ただのディフェンダーじゃなくて、私の心を常に守ってくれている存在です。毎日、先輩の頑張っている姿を見るのが、私の一番のモチベーションになっていました。
先輩の全てが大好きです。どうか、私と付き合ってくださいってお友達の××さんに伝えてください!」
って言われたらさすがに覚え直すためにもう一回聞き直すよね
アイドルだとか、可愛い声だとか、そういうのが標準なのではなくて、デジタル女装おじさんでも、ドブ声でも、やっていいのがYouTuberなんだよな。
そこにいろんなものを乗っけすぎなんだよ。
見てる奴らがおもろいおもろいと思いながら見てる有り様が黒山の人集りなだけで、黒山の人集りにするのが標準ではないの。
あとで分析したらたまたまそういう現象を作れてる人が稼げてることがあるだけで、根がYouTuberなのだから毒キノコ食うだけでもいつかはバズるのがYouTuberなの。
ただYouTuber本人が「あーハキハキ喋ってた方が情報が伝わりやすいか〜」とか「あー流行りの歌とか歌えばご新規さん来やすいか」とか考えるからそういう方向性でやってるだけで、そういうのはそれを表沙汰にしてない限りはチクチク言わなくていいことなの。
しかもチクチクにもセンスが必要で、センスが無かったら非難されるし、やりすぎてる奴は普通に訴えられるからチクチクするのなんかない方がいいのよ。
だから、そんな風に思い悩まないでよ。