はてなキーワード: 知識不足とは
多分この増田はアプリケーション会社でデータセンタを管理した経験があるんだと思うんだけど、回線事業者のインフラは経験がないもしくは知識不足なんだろうなって見てて思った
(追記)
多くのコメントをいただきありがとうございます。
事業承継税制についてコメントしていただいている方が多いのですが、そもそも相続前に被相続人が当該会社の役員でないと適用できないとのことで断念した記憶があります。
また、そもそも相続対象の株が事業を行っている会社の株ではなく、その株を保有する資産管理会社の株になるので、その観点からも難しいのではないかという見解だった記憶があります。
ただ、我々の知識不足もあり勘違いの可能性もあるので、もう一度聞いてみるようにします。
その一方で、誰が事業を継ぐのか、という点が結局宙に浮いているので、仮に事業承継税制で相続税から逃れられたとしても、対処すべき問題はまだ多いだろうなとも思います。
いずれにしても親切に色々と教えていただき本当に助かっています、ありがとうございます。
(追記ここまで)
突然のことで何も準備していなかったのが根本的な原因なのだろうが、どうやら相続がまずいことになることが発覚した。
妻は3人兄妹の真ん中(長女)だが、妻を含めた誰も義父の資産を把握できていなかったようだった。
寡黙な人で、あまり自分の資産やら相続やらの話をしたがるような感じの人ではないなと思っていたし、何より突然の不幸だったから、そんな話をする覚悟もまだ固まっていなかったんだと思う。
さて、ここからが本題なのだが、義父の持っている資産が非常に多く、その相続にかかる相続税の支払いが非常に厳しいことが明らかになってきた。
ざっくり試算してもらった義父の資産の内訳は下記の通り。
・預金→2000万円程度
・家→3000万円程度
・株式→6.5億程度
見て貰えれば明らかな通り、この中の「株式6.5億」が非常に厄介で、義父の経営していた会社の株式(正確にはそれを保有する資産管理会社の株式らしい)の価格が大体このくらいになるとのことだった。
そして、この場合の相続税の支払いがだいたい2億程になるとのことだった。一方で、相続で入ってくる現金は2000万円程度に過ぎず、差し引きで1.8億のマイナスになるらしい。
仮に兄妹の3人で割ったとしても1人6000万円の支払いで、我が家としても到底払えるような金額ではない。相続する家や株だって、すぐに売って現金化できるようなものでもないし、そもそもそんな対応をするだけの知識も余裕もないのが事実だ。とりわけ、不動産を持っているだけの資産管理会社なら割と取引しやすいらしいが、経営している会社の株式までセットになると売買も成立しにくいらしく、見通しが立ちそうにもない。
こんなの国の相続の制度がどうかしているとしか思えないが、税理士曰くそうなるとのことで、別の税理士に相談しても結論は同じようだった。
何か出来るとしたら相続放棄になるらしいが、結局家の土地や持っている株式の放棄をするまでにも色々と複雑な手続きがあるようで、皆で頭を抱えているのが実情である。
さらに言えば、義父が経営している会社にも100人くらいは従業員がいると聞いていて、その人たちの生活も考えるとあまり無責任なことはできないし、そういう人道的な意味でもどう手を打つべきかが本当にわからない(会社を誰がどう継ぐかという問題も同時に出てはいる)。
相続税自体はさっさと確定して秋くらいまでには支払わないといけないらしく、バタつきながらもなんとかしていくしかないんだろうなあと暗い気持ちになっている。
これを読んでいるみんなも、両親がいつ亡くなるかなんてわからないから、早めに相続については話しあっておくことをおすすめしたい。
これまで、Twitter上の疑わしいツイートについた「コミュニティノート」に「役に立った」ボタンをポチポチ押してきたのだが、そのうちに「あなたもコミュニティノートの作成に貢献しませんか?」というオファーが来たので、深く考えずにオファーを受けてみた。オファーが来た、というのはもちろんTwitter(現X)アプリ上だけでの話で、X社側の生身の人間が私に電話をかけてきたわけではない。
「コミュニティノート協力者コミュニティ」(ややこしい)の中では、私はまだ新米扱いで、いきなり自分でコミュニティノートを書けるわけではない。今許されていることは、他の協力者が起案したコミュニティノート案に対し、「役に立った」「少し役に立った」「役に立たなかった」の三段階で評価し、その理由を複数回答チェックボックス式で答えるということだけである。このアクティビティで「功徳」を積み、評価ポイントなる数値が5に達すると、晴れてコミュニティノートの執筆が許される立場になる、という仕組みらしい。このポイントは、ノート作成権限が与えられたのちも、自ら作成するノートが他の協力者や一般ユーザーにどう評価されるかによって変動しうるので、真面目にやっていないと執筆権剥奪もありうる。
以下、現時点での感想をメモ代わりに記すが、他の「コミュニティノート作成に協力したい」と考えていらっしゃる各位や、「そもそもコミュニティノートって実際どうなの?」といぶかる各位にも、ある程度は資する部分があることを期待する。
協力者は全員コードネームで呼ばれる。そのため実際のTwitterユーザIDなどとは第三者からは紐づけられないが、どのコードネームの人がどういうコミュニティノートを書き、またどういうコミュニティノートをどう評価しているか、という点に関しては、協力者コミュニティ内では完全に可視化される。
また、コミュニティノート採用に至るまでの仕組みは、単なる協力者コミュニティ内での多数決ではなく、「異なる立場に立っていると思われる複数の協力者から賛同を得ること」が必要となるように設計されている。このように、ある特定界隈に協力者コミュニティが乗っ取られるような事態を、仕組みで防いでいるのである。
概して、近年のXの荒れようから見ると不釣り合いに見えるくらい、堅牢性の高い仕組みだと感じた。
もちろん私がX社より与えられたコードネームをここで公表することはしないが、英単語3語で構成される、意味のあるようなないようなコードネームを付与され、それが自分のアイデンティティを指し示す唯一の鍵として扱われる、というのは、エージェント感が半端なく、個人的にはまあまあ楽しく思えた。
今のところ、日本語及び英語で書かれたコミュニティノート案のうち、自分の知識で適切性が確認できるものしか評価していないが(それが協力者に求められる誠実性だと信じる)、とにかく世にあふれるひどいツイートは本当にひどい。原口一博やASKAなどの有名人に連なる反ワクチン関連の誤情報、インド某所で拷問を受ける女性の生々しい動画(これは私の知識不足で真偽が判然としなかったため評価はしなかった)、ギャンブルサイトに暗に誘導するツイート(※X利用規約違反)、頭おかしいエロ動画ツイート、などなど。
これは、精神が脆い人はやられてしまう可能性がある。急性ニンジャリアリティショックに勝るとも劣らないショックを受けてしまう可能性がある。アイエエエ!ナンデ?クソツイートナンデ!?
協力者自身の心身がイカれてしまっては元も子もないので、各協力者は、自分の心身のキャパシティというものを見極め、適度な距離感を持って、過度な義務感に苛まれることなく、この協力者コミュニティと(ひいてはXと)付き合っていく必要があると思われる。
これは本当に正直な感想。「査読」を通って世に出たコミュニティノートは、概して客観的な事実の提示に徹し、主観的な表現をなるべく遠ざけ、かつ言語表現として分かりやすいものになっている。他方、私がこれまで見てきた「査読」待ちのコミュニティノートには、引用しているソースが片手落ちだったり、表現が主観的だったり(陰謀論と思われるものを「陰謀論です」と断定してしまっているなど……気持ちは分かるが、そう書いてしまったら客観性がガクッと落ちる)、要点を外していたり、あるいは単に読みにくかったり、というものがかなり散見される。いきおい、「少し役に立った」という評価がどうしても多くなる。
したがって、一般Xユーザの各位におかれては、時々X上で目にするコミュニティノートはこのような「査読」のような仕組みをクリアしたものであるので、もちろん頭から盲信する必要はないが、目にしたらまずは一読することをお勧めする。
「下手の考え休むに似たり」という言葉は、一見すると凡庸な教訓のように思われるが、その背後には、熟練と未熟の対比、行動と無為の葛藤、そして思索そのものの限界と可能性といった、多層的な哲学的・心理的含意が隠されている。この諺の核心には、人間の知的営為が必ずしも価値を生むわけではないという冷厳な認識があり、その背景を掘り下げることで、人間の思考と行為の微妙なバランスを探る契機となる。
この諺は、考えることそれ自体を否定するものではないが、「考える」という行為が持つ潜在的な二面性を指摘している。「下手」とは、単に未熟であること以上に、「適切な方法論を持たない」という含意を持つ。つまり、下手な人間の「考え」は、方向性を失った反復や錯乱に陥り、結局は「休む」こと、すなわち何もしない状態と等しいとする厳しい評価を示している。
「休む」という語の選択も興味深い。ここでは、ただの身体的な休息ではなく、「無効性」や「停滞」というニュアンスを帯びている。したがって、この諺は単なる知的な怠惰を指すのではなく、誤った方法による熟考がむしろ不作為と等しいというパラドックス的な洞察を表現していると言えよう。
この諺を解釈する際、特に興味深いのは「休む」という行為が果たして本当に「無」と同義なのか、という点である。ここには、「何もしない」という消極的な態度と、「無駄にする」という積極的な損失との間に微妙な違いが潜んでいる。休むという行為そのものは、中立的な意味を帯びる可能性もあるが、未熟者の考えが「休むに似たり」とされることで、それは一種の「偽りの活動性」への批判に変化する。考えるフリをすること、つまり見かけだけの努力をすることは、むしろ静止よりも害悪ですらあるという指摘が込められているのだ。
この点で、「下手の考え休むに似たり」は、古代ギリシャ哲学における「現象」と「本質」の対比を想起させる。プラトン的には、下手な考えは単なる「影」であり、それ自体は現実に触れない空虚なものに過ぎない。あるいは、ヘラクレイトスの「静止は存在せず」という思索を逆転させ、無意味な運動は静止以下であるとさえ言えよう。
この諺をさらに具体的に読み解くためには、「下手」の範囲を拡張する必要がある。ここでの「下手」とは、単なる技術的未熟さではなく、正しい道筋を見いだす能力、すなわち実践知(phronesis)の欠如を指している。この点ではアリストテレスが述べた「善く考える(euboulia)」という概念に近い。善く考えるとは、理性が行動の適切な目標を指し示す能力を持つことを意味し、下手な考えはその逆、すなわち目標も見失い、行動を導く力を欠いている思考を指す。
この実践知の欠如は、しばしば「方向感覚の喪失」というメタファーで表現される。下手な考えが「休むに似たり」とされる理由は、その思索が明確な目標に向かわず、無駄にループを繰り返すことで進歩を妨げるからだ。これは、経験や洞察に裏打ちされた熟考とは異なる、浅薄で空虚な反復を暗示する。古典文学で言えば、例えば『ドン・キホーテ』における無謀な行動や、シーシュポスの神話における徒労に通じるものがある。
心理学的には、この諺は「過剰思考(overthinking)」や「分析麻痺(analysis paralysis)」と呼ばれる現象を指摘していると考えられる。未熟な人間ほど、あれこれと余計なことを考え、選択肢を増やすばかりで最終的な決断に至らない傾向がある。つまり、熟練者が直感的かつ素早く判断を下せるのに対して、下手な者は思考過程そのものが目的化し、行動のタイミングを失うのだ。
ここには、「知識の量と知識の質」という重要なテーマが隠されている。下手な考えはしばしば知識不足から生まれるが、逆に言えば、中途半端な知識はむしろ思索を停滞させる。フランシス・ベーコンの言う「知識は力なり」という言葉も、適切に使われなければただの重荷となるのだ。
「下手の考え休むに似たり」は、経済学的には効率の問題として解釈できる。この諺の背後にあるのは、思索という「投資」に対して得られる「リターン」がきわめて低いという状況の批判である。言い換えれば、下手な考えはコストに見合う成果を生まない「非効率的なリソース配分」の典型例である。
この観点から見ると、「休むに似たり」という表現はむしろ控えめであり、下手な考えは単なる無駄以上に、リソースを奪い、他の重要な活動を妨げる存在とすら言える。たとえば、組織やプロジェクトの文脈では、下手な計画が最初からなされることで、リソースが浪費され、最終的な失敗を招くという例が挙げられる。
現代において、この諺はますます重要な意味を持つ。インターネットの普及により、情報は過剰なまでに流通し、誰もが「考えること」が可能になった。しかし、その結果として、考えるという行為の質が低下し、無駄な議論や非生産的な思索が増加する状況が生じている。「下手の考え休むに似たり」は、こうした現象に対する警鐘として読み替えることができる。
現代社会では、むしろ「考えることをやめる」という選択が重要になる場合もある。これは、「情報断捨離」や「マインドフルネス」のような概念と結びつき、必要な判断に集中する能力を取り戻す試みとして解釈される。
「下手の考え休むに似たり」という諺は、表面的には思索の無駄を戒めるものであるが、深く掘り下げると、思索それ自体の構造的な矛盾や、人間の知的限界を指摘する哲学的洞察を内包している。この言葉は、私たちに効率と成果のバランスを問いかけるとともに、思索という行為の価値を再評価する契機を提供するものである。
をやろうと思ったのですが、私の知識不足で企画倒れが決定しました。
多分、俺以外の誰かがやると思うので期待して待ってます。
直感的にそれがあることは分かっていても知識と検証能力の不足によって尻尾を掴めないのがとても歯がゆいですね。
ある種の前世症候群の如く「そうか!俺は実は発達障害だったんだ!」と「目覚めて」しまっている人達の急増はもはや社会問題と言っていいわけですからね。
この状況に対して何らかの調整弁を働かせなければ本物の発達障害の人達が「発達障害を自称するただのワガママな人」と同列に扱われて苦労するのは目に見えています。
誰かが正義の一石を投じてこのブームの暴走を食い止めて欲しい限りです。
正直、漫画ランキングに対してのツッコミなんかでそんなことをやっても仕方がないのは事実ですけどね。
本当に動き出すべきは「本物の発達障害を診ている精神科医師」達だと思います。
実際どうなんでしょうね?
偽物が次々にドアを叩いてくれるぐらいの方が自分たちの客が増えるからラッキーとか思ってたりするんですかね?
それとも、偽物であるか本物であるかを調べる機会を得るためには玉石混交の状態でいいので篩に一度かけさせて欲しいという感じなんでしょうか?
昔は学校教育の中で「コイツ脳の構造が生まれつきヤバイだろ!病院いけ!」みたいな話をオブラートに包んで親御さんに相談したり、保険医が勝手に病院に連れて行ったりも出来ましたが、今はそういうのは難しいでしょうね。
そうなると自然と発見が遅れるリスクがあるわけですから、「気になった時点で一度発達障害かどうか確かめる機会を増やしたほうがいい」という意味では、この「俺俺発達障害」のブームは結果としてプラスなんですかね?
まあ、単なるワガママによる人格破綻であっても、ある種の思考の癖によって本人や周りが生きづらくなっているなら、そこに精神医学や心理学の技術を介入させて軌道修正を行ったほうがいいわけですから、自称だろうが発達障害を理由に医学的なサポートを必要とする姿勢は正しいんですかね?
確かに、自分が発達障害である可能性を視野に入れたうえで検査を受け、そこで出てきた医者のアドバイスを素直に聞くというのは実際正しい気はしますね。
でもそこで「デパスで元気になるから」と薬に頼る道を安易に選んでしまうパターンもゼロじゃないのが恐ろしい。
マイナンバー保険証の件で再燃しましたが、世の中にはちょっと精神病っぽければいくらでも向精神薬を投げつけてしまうような医者も少なくはないと聞きますからね。
単なる「自称発達障害の普通の人」がそういった医者にひっかかって「薬物の力を借りなければ脳内物質のコントロールが出来ない体になってしまった人」になるリスクも無いとは言えません。
うーん。
私が思うに、単にこれは次なる「社会の闇に切り込み現代社会の生きづらさを描くセンシティブな漫画」の人気ジャンルとして立脚するだけなんじゃないかという懸念さえありますね。
実際、一時期の青春文学などにおいては医者から処方された薬物を濫用するという場面が現代人の闇(ニチャァ)の描写として流行ったことはありましたからねえ。
完全自殺マニュアル後の自殺コンテンツブームの如く、自称精神病薬物乱用コンテンツブームが雨後の筍の如く乱立し、それがこのマンガがすごい!として持ち上げられるという流れもあるかもですね。
まあ、それで一度キッチリ社会問題として顕在化することまで含めてのPDCAサイクルとも言えるんですかね。
日本のジェネリック医薬品を取り巻く状況は、いくつかの課題を抱えており、一概に「良い」とは言えない状況です。
主な課題
品質問題の発生: 過去に、複数のジェネリック医薬品メーカーで品質不正問題が発覚し、国民のジェネリック医薬品に対する不信感が高まりました。
価格競争の激化: ジェネリック医薬品の普及に伴い、価格競争が激化し、メーカーの収益が悪化しています。そのため、研究開発や品質管理への投資が抑制され、品質問題のリスクが高まる可能性があります。
後発医薬品比率の伸び悩み: 政府は、2023年度末までに後発医薬品の数量シェアを80%にする目標を掲げていましたが、達成は困難な見通しです。品質問題や医師・患者の不信感などが普及を阻害する要因となっています。
情報提供の不足: ジェネリック医薬品に関する情報提供が不足しており、医師や患者が十分な知識を得られない状況です。そのため、ジェネリック医薬品への理解が深まらず、不信感や不安を抱く人が多いのが現状です。
改善に向けた取り組み
品質管理の強化: 厚生労働省は、薬機法の改正やGMP(Good Manufacturing Practice:医薬品の製造管理および品質管理に関する基準)の強化など、品質管理体制の強化に取り組んでいます。
適正な価格形成: 後発医薬品の価格設定を見直し、メーカーが安定的に収益を確保できる仕組みを構築することで、研究開発や品質管理への投資を促進する必要があります。
情報提供の充実: ジェネリック医薬品に関する正確な情報を、医師や患者にわかりやすく提供することで、理解を深め、安心して使用できる環境を作る必要があります。
まとめ
ジェネリック医薬品は、医療費抑制や患者の負担軽減に貢献する重要な役割を担っています。しかし、現状では品質問題や情報提供の不足など、多くの課題を抱えています。これらの課題を克服し、国民が安心してジェネリック医薬品を使用できる環境を整備することが急務です。
「例えばイギリスでは、ジェネリック医薬品は、どうなってるの?」
イギリスではジェネリック医薬品は非常に普及しており、国民医療制度(NHS)において重要な役割を担っています。
高い使用率: イギリスでは、処方箋の約80%がジェネリック医薬品で占められています。これは、政府が積極的にジェネリック医薬品の使用を促進してきたこと、そして国民のジェネリック医薬品に対する理解と信頼が高いことが背景にあります。
NHSによる推奨: NHSは、ジェネリック医薬品を積極的に推奨しており、医師は特別な理由がない限り、ジェネリック医薬品を処方することが求められています。
厳しい品質管理: イギリスでは、医薬品・医療製品規制庁(MHRA)がジェネリック医薬品の品質を厳しく管理しています。そのため、国民はジェネリック医薬品の品質について高い信頼を寄せています。
情報提供の充実: NHSは、ジェネリック医薬品に関する情報をウェブサイトやパンフレットなどで提供し、国民の理解を深める努力をしています。
日本との違い
国民の意識: イギリスでは、ジェネリック医薬品は「新薬と同じ効果で、より安価な医薬品」として広く認識されています。一方、日本では、ジェネリック医薬品に対する品質への不安や不信感を持つ人がまだ多く、普及の妨げとなっています。
医師の意識: イギリスでは、医師がジェネリック医薬品を処方することに抵抗感はほとんどありません。しかし、日本では、新薬を処方する方が安心だと考える医師も少なくありません。
政府の政策: イギリス政府は、長年にわたりジェネリック医薬品の使用を促進するための政策を積極的に展開してきました。一方、日本では、ジェネリック医薬品の普及に向けた取り組みは、イギリスに比べて遅れていると言えます。
今後の展望
日本は、イギリスの経験を参考に、ジェネリック医薬品に対する国民の理解を深め、医師の意識改革を促進し、より効果的な政策を展開していく必要があります。
ジェネリック医薬品の普及は、医療費の抑制だけでなく、患者の経済的負担の軽減にもつながります。日本がイギリスのようにジェネリック医薬品を有効活用できるようになれば、国民の健康と福祉の向上に大きく貢献できるでしょう。
「日本の他に、ジェネリック医薬品について、うまくいってない国の例はある?」
ジェネリック医薬品の普及は、世界的な潮流ですが、日本と同様に、様々な課題を抱え、普及が進んでいない国もいくつか存在します。
1. フランス
低い使用率: ジェネリック医薬品に対する国民の不信感や、医師の処方習慣などが原因で、ジェネリック医薬品の使用率は低い状態です。政府は普及促進に取り組んでいますが、なかなか成果が上がっていません。
2. イタリア
地域格差: ジェネリック医薬品の普及率には地域差が大きく、南部では低い傾向にあります。これは、医療体制や経済状況の格差が影響していると考えられます。
3. 韓国
品質問題: 過去の品質問題や、ジェネリック医薬品メーカーによる不祥事などが影響し、国民の不信感が根強く残っています。
4. カナダ
価格競争の激化: ジェネリック医薬品メーカー間の価格競争が激化し、収益性が悪化しています。そのため、研究開発や品質管理への投資が抑制され、品質問題のリスクが高まっているという指摘もあります。
国民の意識: ジェネリック医薬品に対する品質への不安や不信感、新薬の方が効果が高いという誤解などが、普及を阻害しています。
医師の意識: 新薬を処方する方が安心だと考える医師や、ジェネリック医薬品に関する知識不足などが、処方を妨げている場合があります。
制度的な問題: ジェネリック医薬品の価格設定や、薬価制度などが、普及を促進するような仕組みになっていない場合があります。
これらの課題を克服し、ジェネリック医薬品の普及を促進するためには、各国政府が、国民への情報提供、医師への教育、制度改革など、多角的な取り組みを進めていく必要があります。
上記の国々と日本は、ジェネリック医薬品普及における課題に共通点が多く見られます。特に、国民や医師の意識改革、そして品質に対する信頼回復は、どの国においても重要な課題と言えるでしょう。
日本は、これらの国々の状況を参考に、より効果的なジェネリック医薬品普及政策を推進していく必要があると言えるでしょう。
Gemini Advanced便利だな。
日本のジェネリック医薬品を取り巻く状況は、いくつかの課題を抱えており、一概に「良い」とは言えない状況です。
主な課題
品質問題の発生: 過去に、複数のジェネリック医薬品メーカーで品質不正問題が発覚し、国民のジェネリック医薬品に対する不信感が高まりました。
価格競争の激化: ジェネリック医薬品の普及に伴い、価格競争が激化し、メーカーの収益が悪化しています。そのため、研究開発や品質管理への投資が抑制され、品質問題のリスクが高まる可能性があります。
後発医薬品比率の伸び悩み: 政府は、2023年度末までに後発医薬品の数量シェアを80%にする目標を掲げていましたが、達成は困難な見通しです。品質問題や医師・患者の不信感などが普及を阻害する要因となっています。
情報提供の不足: ジェネリック医薬品に関する情報提供が不足しており、医師や患者が十分な知識を得られない状況です。そのため、ジェネリック医薬品への理解が深まらず、不信感や不安を抱く人が多いのが現状です。
改善に向けた取り組み
品質管理の強化: 厚生労働省は、薬機法の改正やGMP(Good Manufacturing Practice:医薬品の製造管理および品質管理に関する基準)の強化など、品質管理体制の強化に取り組んでいます。
適正な価格形成: 後発医薬品の価格設定を見直し、メーカーが安定的に収益を確保できる仕組みを構築することで、研究開発や品質管理への投資を促進する必要があります。
情報提供の充実: ジェネリック医薬品に関する正確な情報を、医師や患者にわかりやすく提供することで、理解を深め、安心して使用できる環境を作る必要があります。
まとめ
ジェネリック医薬品は、医療費抑制や患者の負担軽減に貢献する重要な役割を担っています。しかし、現状では品質問題や情報提供の不足など、多くの課題を抱えています。これらの課題を克服し、国民が安心してジェネリック医薬品を使用できる環境を整備することが急務です。
「例えばイギリスでは、ジェネリック医薬品は、どうなってるの?」
イギリスではジェネリック医薬品は非常に普及しており、国民医療制度(NHS)において重要な役割を担っています。
高い使用率: イギリスでは、処方箋の約80%がジェネリック医薬品で占められています。これは、政府が積極的にジェネリック医薬品の使用を促進してきたこと、そして国民のジェネリック医薬品に対する理解と信頼が高いことが背景にあります。
NHSによる推奨: NHSは、ジェネリック医薬品を積極的に推奨しており、医師は特別な理由がない限り、ジェネリック医薬品を処方することが求められています。
厳しい品質管理: イギリスでは、医薬品・医療製品規制庁(MHRA)がジェネリック医薬品の品質を厳しく管理しています。そのため、国民はジェネリック医薬品の品質について高い信頼を寄せています。
情報提供の充実: NHSは、ジェネリック医薬品に関する情報をウェブサイトやパンフレットなどで提供し、国民の理解を深める努力をしています。
日本との違い
国民の意識: イギリスでは、ジェネリック医薬品は「新薬と同じ効果で、より安価な医薬品」として広く認識されています。一方、日本では、ジェネリック医薬品に対する品質への不安や不信感を持つ人がまだ多く、普及の妨げとなっています。
医師の意識: イギリスでは、医師がジェネリック医薬品を処方することに抵抗感はほとんどありません。しかし、日本では、新薬を処方する方が安心だと考える医師も少なくありません。
政府の政策: イギリス政府は、長年にわたりジェネリック医薬品の使用を促進するための政策を積極的に展開してきました。一方、日本では、ジェネリック医薬品の普及に向けた取り組みは、イギリスに比べて遅れていると言えます。
今後の展望
日本は、イギリスの経験を参考に、ジェネリック医薬品に対する国民の理解を深め、医師の意識改革を促進し、より効果的な政策を展開していく必要があります。
ジェネリック医薬品の普及は、医療費の抑制だけでなく、患者の経済的負担の軽減にもつながります。日本がイギリスのようにジェネリック医薬品を有効活用できるようになれば、国民の健康と福祉の向上に大きく貢献できるでしょう。
「日本の他に、ジェネリック医薬品について、うまくいってない国の例はある?」
ジェネリック医薬品の普及は、世界的な潮流ですが、日本と同様に、様々な課題を抱え、普及が進んでいない国もいくつか存在します。
1. フランス
低い使用率: ジェネリック医薬品に対する国民の不信感や、医師の処方習慣などが原因で、ジェネリック医薬品の使用率は低い状態です。政府は普及促進に取り組んでいますが、なかなか成果が上がっていません。
2. イタリア
地域格差: ジェネリック医薬品の普及率には地域差が大きく、南部では低い傾向にあります。これは、医療体制や経済状況の格差が影響していると考えられます。
3. 韓国
品質問題: 過去の品質問題や、ジェネリック医薬品メーカーによる不祥事などが影響し、国民の不信感が根強く残っています。
4. カナダ
価格競争の激化: ジェネリック医薬品メーカー間の価格競争が激化し、収益性が悪化しています。そのため、研究開発や品質管理への投資が抑制され、品質問題のリスクが高まっているという指摘もあります。
国民の意識: ジェネリック医薬品に対する品質への不安や不信感、新薬の方が効果が高いという誤解などが、普及を阻害しています。
医師の意識: 新薬を処方する方が安心だと考える医師や、ジェネリック医薬品に関する知識不足などが、処方を妨げている場合があります。
制度的な問題: ジェネリック医薬品の価格設定や、薬価制度などが、普及を促進するような仕組みになっていない場合があります。
これらの課題を克服し、ジェネリック医薬品の普及を促進するためには、各国政府が、国民への情報提供、医師への教育、制度改革など、多角的な取り組みを進めていく必要があります。
上記の国々と日本は、ジェネリック医薬品普及における課題に共通点が多く見られます。特に、国民や医師の意識改革、そして品質に対する信頼回復は、どの国においても重要な課題と言えるでしょう。
日本は、これらの国々の状況を参考に、より効果的なジェネリック医薬品普及政策を推進していく必要があると言えるでしょう。
Gemini Advanced便利だな。
『メタ認知能力が極端に欠けている人』って表現は、"自惚れていてる"とか"井戸の中の蛙"みたいな評価に限定して使われているイメージがあります。
けど、ここで言いたいのはそういうことじゃなくて、エラー処理とか停止処理みたいな超基本的な考え方すら持ってなくて、それに気づけないままでいられる人のことです。
具体的な方法を知らないとかじゃなく、そもそも「そういう発想自体がない」って話で、これは単なる知識不足や視野の狭さ以上に、認知の仕組みそのものに問題があります。
時間が自然に解決してくれるようなものじゃなくて、かなり厄介な問題だと思います。
エラー処理とか停止処理って、ITだけの話じゃなくて日常でも必要なスキルです。
たとえば、「お目当てのプリンが冷蔵庫にないことを確認」(エラー検知)したら、フツーは「今日はプリン食べるの無理だな」って切り替えるじゃないですか。
冷蔵庫を何度も開け続けるのはちょっと変で、フツーは「開けるのをやめる」(停止する)って行動に移りますよね?
仮に、寄生獣に取り憑かれたために、冷蔵庫を開け続けちゃうのだとしても、「右手が勝手に動いてる?」って気づければ、他の方法を考えることができます。
けど、この『気づき』がなかったら、問題解決はかなり難しいです。
メタ認知は知識の応用力、いわゆる"知識移転(Knowledge Transfer)"にもめちゃくちゃ重要です。得意分野や好きなことだと、この力が特に発揮されやすいですよね。
たとえば、熟練プログラマーが別の言語でもスキルを応用できるのも知識移転の力があるからです。
でも、興味が薄い分野や苦手分野だと同じ力を発揮するのは難しい・・・それは自然なことではあるのですが、基本スキルや共通原理くらいはちゃんと押さえておくことが期待されます。
たとえば、プリウスの運転手が軽トラックをまったく運転できなかったら、それは個性とかそういう話じゃないですよね?致命的に知識移転能力が欠けてるってことです。大きさや操作性が違うにしても、ハンドル操作とか交通ルールみたいな共通点を活かせないのは深刻です。
仮に、共通点を見出せ無くなったのは異世界おじさんに「記憶消去魔法(イキュラス・キュオラ)」をかけられたからだとしても、「もしかして、記憶を消されてる?」って気づければ対処方法を考えることができます。けど、この『気づき』がなかったら、問題解決はかなり難しいです。
知識転移がうまくいかないのは、異世界おじさんに記憶を消されて気づかない以外にも、その対象の理解がそもそも極端に浅いことも大きな原因になっていそうです。
たとえば、『りんご=赤』って覚えるのは、学習コストを下げるためによくあることです。この簡略化を意識できる人は、この情報がいろんな側面の一つにすぎないってちゃんとわかっているので、黄りんごも青いりんごも許容します。りんごの品種や生育環境、熟成度みたいな要素が色に影響するんだろーなとか、味とか他の特徴も多次元的に捉えています。さらに、必要があれば「なんで赤いんだろう?」とか掘り下げて学ぼうとするオープンな姿勢もあります。
多次元的に対象を見れる人は、『見たままをありのままに受け入れて、自分の直感を大切にできる人』と言い換えても良いかもしれません。
だってりんごは、どう見たって単色の赤じゃないですからね。視覚的にも直感的にもそう感じるはずです。
一方で、こういう視点や意識(見たまま受け入れる、自分の五感や直感を信じる)がない人たちがどうなるかというと、
『りんご=赤い』っていう単純な答えでテストに合格して、「自分の理解は完璧だ!」って思い込みます。
現行のシステムでは、ぶっちゃけ深掘りする必要性がないので、結果として表層的な学びに終始してしまうのです。
で、こういう表層的な学習パターンが続くと、やがて複雑な問題に対処できなくなります。
同世代と話してもピントがずれた会話をしたり、科学、医療、社会問題、仕事の議論でトンチンカンなことを言ったりしてしまうわけです。
違う文脈で知識を応用するなんて、そもそもの理解が浅いと到底無理な話です。
新学習指導要領のSelf-Regulated Strategy Development (SRSD :自己調整型学習)って『自分で考えて学ぶ力』の改善策としてまあまあ良さそうだけど、
現状の受験システムとか評価基準が表層的な学びを助長するままだと、限界はある気がします。
それなら、メタ認知がないAIが多次元的に学んでいくプロセスを観察して、新しい教育のヒントを探すほうが面白いかもしれません。
増田のタイトルの通り、学歴があっても、長文を読んで理解するどころか、単純化された動画の内容さえ把握できなかったり、同世代との会話がどこまでも噛み合わなかったり、仕事の指示が通らなかったり、そんな人っていますよね?
これって、上記に書いてきたように、メタ認知能力が極端に欠けてることや、知識移転能力の欠如、表層的な学習が積み重なった結果なんじゃないかと確信を持っています。
大卒以上であっても、こういう人が無視出来ない数いるのは、正直「なんで?」って思う人が多いんじゃないでしょうか。でも、この「なんで?」の背景には、「勉強やデスクワーク=知的で選ばれたもの」っていう妙な誤解がある気がします。この固定観念が、現代社会における知性や労働の本質を見誤る原因になってるんじゃないかなと思います。
しかし、その一方で、社会の基盤を支える多くの職種が軽視され、不当に評価されている現状があります。
なぜかというと、"知識労働者(Knowledge Worker) "ではなく、"知的労働者" って呼称が使われたりすることからもわかるように、肉体労働者は知能を使わないみたいな妙な誤解を悪用し、仕事の複雑さや多様性を極端に単純化し、賃金差別(経済格差ではなく差別が適切)を正当化する輩がいるからです。
実際は、デスクワークだけでなく、フィジカルワークにも、高い認知能力は不可欠です。
例えば、エラーを検知し、適切なタイミングで作業を中止し、問題を解決する–これらは、メタ認知能力と深い経験に基づく高度な知的作業ですよね?プログラム組んだことなくてもロボットを作ったことなくても、誰しも直感的に知っていることです。
障がい者雇用に最適化された職場を除けば、こうした能力に欠ける人がフィジカルワークに適応することは非常に困難です。その理由は単純で、迅速に適切な判断ができなければ、事故や怪我を招き、最悪の場合、死人が出るからです。
フィジカルワークが出来そうもない人は、なんとなく知識労働を選ぶことが多いです。必ずしも自分の適性を十分に理解しているわけではなく、「選択肢の中で最も受け入れられる道」として選んでいることが多いです。でも、極端にメタ認知や応用力がないと、どんなに学歴があっても知識を活用できず、「結局この人は何ができるの?」って評価に甘んじちゃうことになります。たとえば、エラーメッセージに明確な解決方法が書かれているにもかかわらず、それを読み取れず(一応、読んではいる模様)、ただそのまま誰かに転送するだけの技術者とか、その典型ですよね。
もう一度言いますが、デスクワークだけでなく、フィジカルワークにも、高い認知能力は不可欠です。
それがある前提で、重要視されるのが、物理筋肉(運動能力)なのか、論理筋肉(知識)なのかって違いだけです。
1つ前でも少し書きましたけど、知識って筋肉みたいなものだと思うんですよね。鍛えればどんどんムキムキになるけど、筋肉単体ではその魅力をフルに発揮できない。
物理筋肉も論理筋肉も、それをうまく使うスキルが必要です。データベースが単体ではただの情報の塊で、システムと連携して本来の力を発揮するのと同じです。
で、そのシステムを設計するには、基本的なエラー処理や停止処理の考え方は欠かせません。そして、エラー処理をするためには、知識を他の文脈で応用する力、
つまり『知識移転能力』が必要です。それを支えるのが、メタ認知能力なんですよね。
国の競争力を維持する上で、論理筋肉マッチョを育成することは非常に大切ですが、その筋肉を有効活用するためのメタ認知能力がないと、いくら筋肉がついてもリソースの無駄になってしまいます。
というか、論理筋肉マッチョに限らず、どんな分野でも同じことが言えます。リソースの無駄遣いを避けるために、筋肉の活用法を理解する能力を養うことは、なによりも優先されるべき取り組みだと思います。
(長文が読めない、動画の内容すら理解できない、仕事や科学や社会問題の議論でトンチンカンな発言をする、仕事の指示が通らない、でも広範囲に知的な課題は持っていない、なんなら大学も卒業している――そんな人たちの姿を見ながら書いてます)
こんにちわ日々寒くなってきましたね。
私は生成AIに関わる話題を出た時から追っては居るけれど別に誰かと戦うことも無いこの星の無数の塵の1つです。
今回はこの生成AI論争を見つつ「私ならどう滅ぼしたか?」を考えていきたいです。
まずこの論争の焦点はどこなのでしょう。私は「人間の学習は合法だがAIの学習は無断使用である」と主張するクリエイター側の意見が話の中心点だと感じております。法を超えた感情の話、つまり倫理的主張でありそれに基づく法の改正を願うと。
コレについてはAIの技術への知識不足…だと思います。AIは人間の脳を疑似再現する技術であり学習こそがAIの本質です。
ですが結果出力される画像生成等が「AIの技術」と勘違いされてるのかと。
この勘違いは恐らく今後一生正されることは無いでしょう。根底は技術への過小評価だと思うので。
で撲滅の話に戻るんですけど
まず第1案として生成AIを撲滅したいのでうんと大衆化させてしまう事です。2年前に比べ生成AIアプリは簡易的な物が大量に増えドコモ等の大手キャリアすら生成AIをビジネスに組み込むなど大衆化されてきました。大衆化するとどうなるかと言うとマネタイズが出来なくなりコレでお金を稼げなくなります。
後は勝手に衰退していくでしょう。
第2案として暴力的に異端者を排除していく方法です。これは現在進行系で行われているのですが、あまりオススメしません。上にある様に大衆化していくと生成AIを使っている相手はただの一般人になるからです。そこに集団で殴りかかってくる団体なんてどれだけ理屈を挙げようと化物としか思われません。元が感情からくる倫理であるなら当然行動に倫理が伴わねば相手にされなくなります。
第3案として人間の学習と機械学習が同じだと認める方法です。個人的にはコレがかなり勝算高かったと思います(もう難しいですが…)
主張の最初が感情から来るものなら半端に法律を絡めようとせず徹底して倫理のみで戦う方法です。人間の脳を再現出来てしまうなんて人間を造るのと同じでは無いかとヒトクローン等の禁忌技術に格上げさせるのです。勿論宗教団体と合流していれば一大勢力になれたでしょうね。
…とこんな感じです。とにもかくにも世は利権でしか動きません。既に世に産まれた物を撲滅するのは大変な労力やお金がかかります、
感情から撲滅思想になっている方には少しでも早く「正直どうでもいいな…」という境地に至って欲しくこの駄文乱れ書きを行いました。
ソフトウェアテストに関する書籍の中には、避けるべきものが存在する。
「地雷」という表現は議論の余地があるが、それでも一部の書籍は読者にとって有益とは言えない内容で、むしろ避けるべき類いに該当すると言える。
その理由は、内容が浅い、議論が偏っている、あるいは事実誤認を含むものもあるためだ。例えば、特定の開発者向けのテスト書籍の中には、著者の知識不足が目立つものがある。主観的な論理を延々と述べており、専門性や客観性に欠けている。
また、世界的に知られる専門家であるCem Kanerがこうした書籍を読んだら、どのように評価するのか興味がある。
教科書として広く知られているテスト書籍の中にも問題がある。致命的な誤植や、浅はかなテスト観が目立つ内容が含まれているケースがあるのだ。
さらに、品質を重視してアジャイル開発を語る一部の書籍は、テスト書籍とは分類されないが、アジャイルそのものを正しく理解していない印象を受ける。アジャイルの根本的な考え方を否定し、単に多重下請け開発の手法を当てはめようとする内容に終始している。
週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選 https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
上記に触発されて書く。
膨大な量があり、どれがどれに影響を与えたかも把握が難しいので色々補足反論、コメントしてくれると嬉しい。
2002年に九里史生(川原礫)氏により、氏のホームページ「Word Gear」にて発表された。2009年に電撃文庫から書籍化。
先行の類似設定の作品にウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』、岡嶋二人『クラインの壺』、高畑恭一郎『クリス・クロス』がある。
また映画では『マトリックス』、同時期にゲームでは『.hack』などが発表されたが、
いわゆるVRMMOというジャンルがWeb小説界で隆盛したのは間違いなくこの作品の影響が大きい。
2013年発表。以降の悪役令嬢(転生)ものに多大な影響を及ぼした。
恐ろしい更新速度と内容の面白さで「小説家になろう」のランキングを駆け上がった。
そして突然の更新停止で読者を地獄に叩き落した。今も叩き落とし続けている。
当時は男性向けが幅を利かせていた「小説家になろう」の中で、女性向けが人気を獲れることを証明した作品でもある。
少し脱線した語りになるのだが、Web小説は既存の小説媒体と比べて「文字数制限がない」のが大きな特徴だと思う。
SF小説家フィリップ・K・ディックが「短編、中編、長編といったメディアの制約がそのまま物語の制約となってしまっている」というようなことを書いていたと記憶している。
Web小説にはそれがない。なので、キリのいいところで盛り上げたり終えたりする必要がない。
この謙虚・堅実はそのWeb小説の特徴をいかんなく発揮した物語だと感じた。
2005年に魔法のiランドで発表。以降書籍化、漫画化、映画化、ドラマ化と立て続けにされ大きなムーブメントを起こした。
その口語的な等身大の文体には賛否両論があったが、多くの当時の若者の心をつかんだ。
(それにしても、あの頃僕らは魔法のiランドでクソみたいなホームページをたくさん作っていた)
劇場版エヴァ(EoE)の衝撃的な終わりにおかしくなった若者たちは、その情熱を二次創作に注ぎ、いくつもの名作・怪作を生んだ──
エヴァFF(ファンフィクション)の代表として2nd Ringをチョイスさせていただいた。
LAS(ラブラブ・アスカ・シンジ)かLRS(ラブラブ・レイ・シンジ)かでいうと、LRSの王道逆行モノである。
特に転生・逆行・ヘイト(ザマァ)・最強もの的な要素は二次創作からの流れが大きいことが指摘される。
ただ二次創作は広く、深い。To Heart、TYPE-MOON作品などエヴァ以外に盛り上がった作品は多いし、夢小説やBL二次小説までいったらもうお手上げである。
2chのSSが書籍化、漫画化、アニメ化するなんて信じられない。
でもまおゆうはそれをやった。
SSとはショートストーリーの略で、2chにおいてはニュー速VIPなどの板で盛んに制作された物語の形式である。
キャラ「〇〇〇」
当時は2chまとめサイトが多くあり、まおゆうもまとめサイトに乗り人気を博した。
後にゴブリンスレイヤーなどのAA(アスキーアート=文字で絵を表現する形式)スレの書籍化にもつながる影響を残した。
電車男などを入れるかも迷ったが、小説ではないのでランクインしませんでした。
「バカにChatGPTを送りつける煽り」は、最近インターネット上で広まりつつあるジョークや煽りの手法として定着してきたようです。具体的には、相手が理解できない、または議論に対して適切な返答ができないと見なした場合に、「ChatGPTで代わりに説明してやる」や「自分で調べろ」といった形でChatGPTを送りつけることが行われています。この煽りは、議論の中で相手をバカにする軽い挑発として使われることが増えています
。
このような行為は、相手に対して直接の批判を避けながらも、相手の知識不足を暗に指摘する形で行われるため、特にオンラインコミュニティで広まっているようです。
良くも悪くも人間関係が希薄で同質化しているのかなって思った。
自分は学生寮とかサークルとかで治験についての話とか悪徳商法とか宗教団体とかについての話とかを聞いていたけれど、
闇バイトするような学生さんは自分が当時触れたようなものに触れる機会がもしかしてないのかもしれないと思った。
そうはいっても騙す側は地方から出てきた何の経験もない若者を騙すなんて赤子の手をひねるようなものなのだろうけど。
治験には行かなかったけれど、悪徳商法の感じがする人からは何度も訪問を受けたし、某英会話塾は事務所まで行って契約までして、クーリングオフしたくらいなのだけれど。
学内で行われたゴスペルコンサートに行ったら、教会でもするので来てほしいと言われて、行ったら、ばりばりハングル文字の飛び交う世界だった。
熱烈な歓迎を受けたけれど、カトリック系の私学に通っていた自分には違和感しか感じない空間だったので丁重にお断りした。
いやー、カトリック系の清貧な雰囲気がある教団だったら入信してしまっていたかもしれない ^^;
あとはカトリック系の学校に通っていたのでそういう話をするのはそんなに嫌いではなかったから、自宅に某宗教の人が来たときに普通に話していたら、
気があると思われてしまって、「聖書のお勉強をしませんか?何曜日が都合がよいですか?」と言われたので丁重にお断りしたこともあったな。
訪問に来ていた信者の方よりも圧倒的にカトリックに対する知識があって、それを楽しく披露していただけで、知識不足のあんたらから習うことなんて何もないんだな。
PyCon JPと日本のPythonコミュニティに関する分析
投稿者の特定を防ぐための方法(LLMによる個性の除去など)が考えられるが、使用ツールや手法によっては逆に投稿者が限定される可能性がある
PyCon JPと日本のPythonコミュニティに関する分析
投稿者の特定を防ぐための方法(LLMによる個性の除去など)が考えられるが、使用ツールや手法によっては逆に投稿者が限定される可能性がある
大抵こうゆう記事につくコメントにある「チー牛ブスは何やっても無駄」みたいなやつ、いつも思うんだけど、あれ呪いだから呪い、真に受けて乗っかてツリー元の記事みたいな、ある程度相手の立場に立った記事まで腐す必要はないと思うよ。この記事に対する批判で説得力あるの「本当に悩んでる人は皮膚科行ったほうがいい」「知識不足だ」ぐらいだと思うよ。
そもそも「チー牛」「ブス」こんなことSNSで言い散らかす連中、悪口言って他人蹴落として勝とうとする何の武器も持たない貧相で品性下劣な輩なんだから貧相な連中の策に乗る必要ないよ。対抗して同じような策とる人もただの武器少ない人だから、悪口ゆうより武器増やしたり、得意なこと作るほうが効率いいよ。
「チー牛」「ブス」て状態ではあるのよ、紛れもない現実。ただ信頼関係ある相手だったり、それこそ美容や医療のまともなプロなら相手の立場に立ってなるべく利になるように意見するわけで、SNSでこんな言葉で馬鹿にする連中のいうことなんて1bitも聞く必要ないです。
反応もらえると思ってなかったわありがとう
やっぱ自分ってADHDなんかな?空気読めないってほどではないけど協調性あんまない自覚はあるし、とにかく集中力がないのはそう。今簡易webテスト的なのやったら軽度のADHD可能性ありますって出たわ
知識不足の原因は、自分の学科が社会系と制作系混ぜた感じで、とにかく横文字が出てくるんだけど記憶・英語力がないからわからん!ってなった。出題範囲とかがあんま定まってないからこそ、選択問題の中からできるやつ選んでね式なんだけど、ここ数年あまりにも遊んでて社会系の知識が抜けまくっていた。