はてなキーワード: サッカー部とは
20~30年以上前。私が中学の頃の話です。ほとんど伝聞かつぼかしている点はあります。
中一の二学期に、転校生がやってきた。南米のある国にルーツのある男子だった。名前は当て字の漢字だったが、ここではA君とする。
A君は浅黒い肌で体格も大きくて確かにカッコよく、期待に違わずというか(ステレオタイプで悪いけど)サッカーが上手く、彼はすぐ学年に打ち解けていった。
日本語は最初ちょっと怪しかったようだが、中学にいる間にA君の日本語は違和感ない感じになってたと思う。
一方でやはりフィジカルは周りより激しく、部活というシステムや先輩後輩関係にあまり馴染めなかったみたいで、度々部活でトラブルの渦中になってしまったりしていたらしい。
ちょうどA君が部活をサボったりしている時に、陸上部の幽霊部員だった私はA君と少し仲良くなった。ゲーム持ち込んで学校で通信対戦したりとかいろいろやったりした。A君のバックグラウンドに踏み込むまでの関係には至らなかったが。
私から見て、同級生のA君は、こういっては何だが、ただの爽やかな、つかみどころのない、良いやつ、だった。
中学卒業と同時に、A君は、国に帰ったかそれとも遠くの学校に行ったか、とにかく地元の進学ルートとは別の所に行ってしまい、私も当時携帯電話とか持っておらず、音信不通になってしまった。
何年も経ち、成人式も終えた後、地元の友達らと飲む機会があった。
その時、私は、A君と同期で友人関係だったサッカー部員B君から、衝撃的なことを聞いた。
A君は、同期及び後輩の女子最低四人(以上)と交際し、しかも性行為までしていた。中学生が、一人ならず、数名と並行してである。ありがちな恋愛トラブルではなく、深刻な響きだった。しかもそれはその時点では教師たちには発覚していなかったというのだ。
えええっと私は驚いたし、周囲も驚いていた。B君も、当時ではなく卒業後に知ったという。しかもその経緯は、別のサッカー部員の妹とA君がデキていたというところからだった。
Aの卒業後に音信不通になってしまい、その妹さんが連絡手段を探ろうとしたがやはり無理で、メンタルが変になったらしく、Aのことを探す必死さを兄や家族が怪しんで問い詰めたところから発覚し、芋づる式に分かった、ということだった。
後輩の子は大人しいタイプの女子だったが、他にはギャルみたいな女子や、ソフトボール部で真面目に頑張っていた女子もいたりで、タイプというか傾向がつかめなかった。妊娠などのケースは聞いたところなかったが……。
妹さんの場合、A君は映画館に誘って、鑑賞中に体を触りまくり、そのまま家に「お持ち帰り」した(らしい)。
A君にちょっと影みたいな部分があることはもちろん知っていたが、中学で三股四股をかけヤリまくり、(意図してたかは知らないが)そのまま高跳びするとは……。
それより不気味だったのは、中学生のどこにそんな能力があるのか、そしてそんな光景があっても隠し通せてしまい平然と学校・クラスが続いてしまう、ということだ。
率直にいって、やはり平均的な日本人とは違う、中学生離れしたラテン系というのかあっち側のアグレッシブさと(中学生にあってたまるかって感じだが)、それに乗ってしまう女子を想像して、ゾワッとした。
エロとか猥談どころではない、不気味さを残しながら去っていったA君。結局A君が今何をしているのか、少なくとも私は知らない。
・0歳
・10歳
父の不倫により離婚。母の実家のある関東の田舎へ。祖父母と母との4人暮らし。
・13歳
・15歳
祖父母に大喜びされる。
・16歳
・17歳
偏差値40台の高校に進んだ地元の女友達とカラオケで童貞を捨てる。
彼女にバレて振られ三日間寝込む。
・18歳
・19歳
彼女も作らず、バイトもせず、祖父母と母からの仕送りで生活しながら4年間ラクロス漬け。ポジションはHM。
・22歳
・23歳
支店配属初日に寝坊して昼から出勤したり、職場の飲み会で行った顧客が営む居酒屋で場ゲロするなどの失敗をする。上司や先輩からシバかれながらも可愛がられる。
・26歳
3年間交際した職場の同期が「地元に帰りたい」と言ったため、東北地方の公務員試験を受験。
・27歳
・29歳
・30歳
・32歳
・35歳
夢のハリアーを納車する。
・36歳
飲み会の帰りに車で帰宅しようとしてしまい、女子大学生の運転する車と衝突。
・??
受刑中に祖父が死去。
・??
・現在
私は中学受験を経て中高一貫校に入学した。サッカー部に入った。そこで相田(仮名)と出会った。相田は絵に書いたような良い人間だった。誰にでも優しく、気軽に話しかける。男兄弟が多い相田は女でも男っぽくて物事にははっきりと意見する。相田はそんな性格から先輩から可愛がられ、みんなを和ませようとお笑いに徹する奴でもあった。当然先輩からの指名で学年のリーダーとして選ばれた。すごい人がいるんだなぁと私は彼女を尊敬していた。
しかし、同じ学年の飯野(仮名)が女らしい妬みで相田の悪口を言いふらし、明らかに相田を嫌っていた。他の同学年部員からしてもこの根も葉もない悪口を言いふらす飯野は嫌いだったが、ボス猿のように態度がでかくヒステリックを起こす面倒な奴だったのでみんな飯野に乗って相田と距離を取っていた。
私はいじめられ経験もあって「こんなやつの味方になるかよ」と思って相田には普通に話しかけていた。嫌われているのかなと落ち込んでいた相田に「嫌われて上等。無視して、人生楽しんでる姿見せつけたれ!」と偉そうに言ってしまった。実際私がいじめられていた小学生の時は無視で乗り越えていたのでそれしか解決方法を知らなかったのだ。
私は徐々に練習についていけなくなった。小学生と中学の部活はレベルが違う。次第に足を引っ張る私が飯野の標的になった。そのころには飯野は先輩/後輩には可愛い面と態度で、同学年にはボス面でヒスっていた。くそアマがぁ…殴り合いしたら勝てるのに…と体格差的に思っていた。本当に夢小説に出てくる嫌味女そのものだった。
そんなある日、部活のミーティングで部長から「増田は一人で練習するな。もっと同学年と仲良くしろ」と公開お叱りを受けた。私は飯野のせいで一人で練習せざるを得なかったのだ。そんなんだったら一人でできるキーパーになってやるよとポジションを変えた。パス練習で明らかにハブられて、壁に行こうとしていた私に「一緒に練習しよう」と相田が言いに来てくれた。互いにショートヘアーだったので「短くしたとき親が嫌な顔してたね~」とかショートヘアー談義してた。
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人間関係が嫌になって部活に行く頻度が減った私に「今日は来れる?」「ちょっとだけでもいいからさ!」と励ましてくれた。私なんかいても空気悪くなるだけだし、中3の時辞めようかと思ってと伝えるといつも笑顔な相田が真剣に叫んだ。「嫌だ!増田だけだもん、ウチに意見を言ってくれるの!」
その時、私は合宿所で夜中、相田とおしゃべりしたことを思い出した。就寝時間まで自由行動だったため、私が探検がてら合宿所をウロウロしていたら、同じ考えだった相田と出会ったのだ。合宿所の玄関でお互いの兄弟についてや進路について語ってた。家庭内の相談ばっかだった。私は馬鹿なので「それやば!」「大変だね」しか返答できなかった。ごめん。相田がお菓子禁止の家なので「お菓子の密輸ならまかせな!」くらいしか頼りあること言えなかった。先生に寝る時間だぞと言われても飯野のいる部屋に帰りたくなく、怒鳴られるまでそこで話してた。
それもあり、相田は良い奴だからと辞めるのを悩んでいたが、心身ともに疲れたうえに他の1人が辞めるというので一緒に辞めた。
「部活辞めても友達だからね!」と言われた私は小学生のいじめられたトラウマで「あぁ…うん」と微妙な返事しかできなかった。
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そこからは相田とクラスも違うし、関わらなくなった。高校になると学年の中でも生徒会長の次に有名な相田になっており、人望あり・信頼あり・成績優秀。私はひっそり見上げるだけの存在になっていた。すべてができる相田を尊敬していた。最高の陽キャなのだ。私はオタク面白女の位置だったらしく、ネットのことなら増田に聞こう!と学年で噂の辞書ポジションになっていたので関わりは無くなってた。今思えば「"ぬるぽ"と言うのは…」と説明していたのきしょすぎる。AAも教えていた。殺してくれ。
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高3の時、相田と最初で最後の同クラスになった。その時に一度だけ隣の席になった。
道徳か保険か忘れたが、授業で隣の人の手を握って10個褒めましょうな時間があった。女子校なのにみんなデレデレしていた。やっぱり面と向かって褒め合うのは恥ずかしい。
相田も例にもれず恥ずかしがっていたが、私は早く終わらせないと最後に目立つと思い、相田の手を取って「さっさと言えば恥ずかしくないから」と言い、相田は「ウチから話す!」と「面白い、相談乗ってくれる、優しい、頼りがいがある、背が大きい、力持ち…」。すげー恥ずかしい。カーストてっぺん太陽キャ優秀で尊敬している相田に褒められている状況は、学校帰りにお小遣いを音ゲーに使っていた私には眩しい。
「増田、絵描くよね。ほんと上手だなって思っていて、羨ましい!でもまだまだって言うよね?すごい!センスある!」と言われた。当時は絵ばっかり描いてオタクしてて親から受験が成績がどうのこうの責められていた時期だったから、嘘でも御世辞でもすごく嬉しかった記憶がある。
私も相田を褒めた。「二次元にいるような素晴らしい性格、まさに主人公」とかばかあほみてぇな褒め方した。黒歴史である。最後の1個焦って「可愛い!」と言ったら互いに顔真っ赤になって、相田がふざけ始めなかったら百合漫画になって危うくLove so sweetが流れ始めるところだったなァ!ってふざけて直接言った。爆笑してくれたからよかったもののの、キショい。セクハラだから永久凍土に埋めてほしい。
センスあるという言葉が残っていて、「センスあるのかな」と別の文化部に入っていたので賞に応募したら一度だけ賞を取った。それでAO入試を応募する気になったので、相田には大人になった今も感謝している。
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そんなエピソードがあったが、卒業後は所属しているグループも違えば私はTwitter、あっちはインスタ・FBくらいの違いがあるので会う事も話す事もなくなった。
そしてこの前高くて高いホテルで同窓会があった。出席簿をみたら相田も参加していた。でもしばらく話していないしなぁと思って、私はいまだに関わっているオタ友と喋っていた。そしてお手洗い離脱をし、途中の夜景が見えるところでガキみたいに「うぉ~すげ~」と小さい車や残業の光を見ていたら声をかけられた。
相田だった。まさか声をかけられるとは思っていなくて不細工な顔をしてしまった。っというかこんなドラマみたいな再開あんのかい!とかキショイ突っ込みをした。バカが。
でも相田は「さすが増田!面白~い!」と笑っていた。その後は仕事の話や他愛のない話をして開場まで歩いた。
「私の事よく覚えていたね」と謙遜したら「友だちじゃん!」と返され、相変わらず良い奴だな~と思った。
「今も絵描いているんだって?」と聞かれたので「うん。楽しくてね」と返した。私は一次創作を趣味で嗜む程度である。「プロにはならないの?」「まぁなれたら嬉しいけど…」「なってよ!」
ずいッと身を乗り出して言われた。「いやいや、もう年だし、今の仕事も楽しいし、フォロワーも数百人だし、それに一度も佳作すら…」と続けて言い訳したら「嫌だ!頑張ってる増田もっと見たい!」と言われた。
「恥ずかしい事よくいえるね」と照れたら「だって見てるもん。Twitter!」
???????????????????????????????????????(ここに宇宙猫)
アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ??????!!!!!!なんで知ってんねん!!!!!!!!!!!!!!!!
「どうじんし?ってやつ?どこかで売ってるんだよね?」
「待て!」
「増田の絵好きなんだ。羨ましい!この前の絵もめっちゃ上手だったね!」
「待て!」
卑しいものは描いていない。いたって普通の全年齢の漫画とイラストだ。でもこんな、よりにもよって、尊敬していた人間に見られているという事実が!
その時ニタ~っとのぞき込んで笑う相田の顔が今も忘れられない。からかうのが好きな相田だと忘れていた。
「だから、やめないでよ?好きなんだから」そう相田は言い、他の人に呼ばれて会話は終了した。
いまだに私の絵を好いているなんて思いもしなかった。
でもずっと一次創作して「何やってるんだろう…」と落ち込んでいた時期でもあった。なんだかな。まだ私の絵を羨ましがってくれている彼女のことを思うと、続けているのは間違いじゃなかったのかなぁと思う。正解や不正解なんてないけど、これが理由でもいいかなと思う。むしろ彼女が寂しがらないようにプロにならなくとも続けようかな。プロを目指す人には敵わないけど、もう少し持ち込みやコンテストも頑張ってみようかな。忘れないように書き残しておこうと思った。
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高校生の時に都立青山高校っていう東京都ど真ん中の高校に通ってた実情を書いてみる。
都会にいるっていうのが、どういう文化レベルなのかの一例となれば幸い。
青高は東京メトロ銀座線の外苑前駅の近くにあって、ヤクルトの本拠地の神宮球場の目の前の高校。
高校生クイズ選手権時の予選会が神宮球場にあったりしたんだけど、そこで一番近い学校だっていう事で注目されてた時もあった。すぐに敗退してたけど(笑)
国立競技場も近くて、僕は高校生の時はサッカー部だったんだけど、「いま一番国立近い学校だから(物理)」みたいな冗談はことは友達には言ってた。
まぁ、もっと近くに國學院高校っていう学校があって嘘なんだけど。
僕は大江戸線の国立競技場前って駅から青高まで歩いてたんだけど、国立競技場の敷地内を歩きながら学校に通ってたのは、なんか誇らしかった気持ちがあったかな。
あと高校生の時はお金がまじでなかったから(お小遣いが月3000円〜5000円だったから)滅多に行かなかったのだけど、ホープ軒で食べるラーメン美味しかった思い出がある。(今思うと全然美味しくないが)
立地はこんな感じ。
次にイベントについて書いていく。
確か5、6月ぐらいに体育祭があってその一環とし、応援団を作って、応援合戦みたいなのをやるのがあった。
応援団をやる人は2、3週間くらい応援団の練習をするんだけど、練習場所が代々木公園だった。
定期がある人は電車乗っていくんだけど、みんながみんな定期あるわけじゃなくて、代々木公園までは歩いていくってのが恒例になってた。
外苑前から原宿超えて代々木公園まで行く道ってのは結構面白くて、
インテリアショップとか眼鏡屋とかブラジル大使館とかあったり、
表参道を歩いたりとか、原宿の竹下通を歩いたりとかしながら、代々木公園まで行ってた。
今はなき原宿のコンドマニアで「お前買ってこいよ」「やだよ、お前いけよ」「なんでだよ!じゃあ一緒に行こうぜ」みたいやりとりをやってたりした。結局買わないんだけど、当たり前だけど。しょうもないけどそういうの楽しかったような気がする。今思うと全然面白くないが。
11月には外苑祭っていう文化祭があるんだけど、外苑祭では1年生から3年生の全部のクラスが劇だったりミュージカルをやるってのが伝統になってて、夏休みから外苑祭の前までは、「神宮外苑の絵画館」前のちょっとした広場的な場所で練習をしてた。
正直僕は外苑祭に乗り気じゃなかったから、全然練習参加しなくて数回だけしか行ってないくても、なんか思い出にはなってるね。
文化レベルって観点では、絵画館の建物自体がすごい美しい建物だったし、絵画館と銀杏並木の風景っていうのはすごく美しかったのは、高校生でも感じる部分があった。
イベント的にはそんなもんがメインで、その他の時期は普通に駅と学校を行ったり来たりするだけの生活してた。
個人的には、学校に自転車を置いたのもあって、学校サボって自転車乗って、原宿行ったり、246を赤坂方面まで走らせて、皇居らへんまでいったりとかは楽しかったな。
あと僕は部活やってたからバイトはしてなかったけど、周りの人とかは学校周辺でバイトやってる奴もいた。そういう奴は結構大人な世界を垣間見えたんじゃないかな。お金も増えるしね。
僕は遊ぶ金なんて全くなかった。だから高校生の場合、都心のど真ん中にあったとしても、そこまでは楽しめてなかったんじゃないかな。
まぁでも表参道とかの建築を見て、建築学科に進むっていう決断をしたので影響は大きかったのかもしれない。
お金が無いなりに楽しんだって思えるのは、原宿の古着屋でHanjiroっていうお店が全盛期だったんだけど、そこで100円になってる服を買ってた。てかそれしか買えなかったんだけど、あれは楽しかったな。
あとはまぁ、今はもうない明治公園でフリマがやってて、そこで 安く売られてる服とかを買ってたりしたな。
もちろん高校時代を都会で過ごした影響はかなり大きかったんだけど、僕の中で影響が大きかったのは、やっぱり大学ですね。100倍くらい大きいんじゃないかな?
高校の時は受動的にやること っていうのが多くて、能動的には動けなかった記憶があるけど、
大学生になったらぼぼ全部自分で考えて、行動するから大学生の時の方が、濃密な時間を過ごせたと思ってる。
まぁ今なら、文化ってインターネット発なのが多いし、都会にいなくても、最先端な文化に触れられるのじゃないかな?
僕が好きなVtuberのぽこぴーとか滋賀県出身で電車ない土地に住んでそうだけど、最先端いってる。
僕が高校生の時は、まだスマホとかなかったし(シャって開くタイプの携帯とか、インフォバーとかが流行ってた時期だったし)、高校生の時は家族パソコンしかなかったし、ニコニコ動画も知らないし2ちゃんねるも知らない。パソコンの授業の時に友達が「スーパーマリオのTAS動画」見せてくれた時も「おもしれー!TASさんって人まじで超マリオ上手いやんけ!!!」って思ってたレベルだったから、
住んでる場所の影響大きかったと思うが、今はどんどん差が縮まってきてる。
なでしこジャパンは「ちゃんとスポーツをしてい」ないから、その辺の高校の男子サッカー部 (日本代表でも何でもない)に10点差以上つけられて負けたと考えてるのか? 正気か?
まあ聞いてたら「それで強い訳ねえだろ」と思う。
だってよく嫁に部活の愚痴を大声で話してるけど、ほぼ全部自分のスキルの伸び悩みや周囲との実力差の話じゃなくてメンバーへの不平不満や先輩からの理不尽な指導にまつわる愚痴ばかりだし。
そもそも指導体制として顧問はほぼ介入せず、上級生がコーチングをやっているらしい。俺が学生時代に所属していたサッカー部は教師ではない外部の競技経験者が監督としてコーチングしてくれていたけど、そういうのも無い。
この時点で結構詰んでると思う。
経験を1年ないし2年多く積んでるからという面では多少参考になるにせよ、子供が子供にコーチング(笑)って何を教えられるねんと。
実際、娘の部活は間違いなく教える側の生徒がコーチングのコの字も理解していない。今まであった愚痴に出てきた例だと、客観的事実と主観の切り分けも出来ていない状態の決め付けで叱りつける先輩、素行や評判が普段から良くない先輩が自身を客観視できないが故に自身の指導に反感を持たれる理由が理解できずヒステリーを起こした事件、後輩の技術を上げる事でなく自分の指示に従わせる事に目的がすり替わっている先輩等。このような程度の低い問題を抱えた子供がモラハラに等しい恐怖政治で下級生を指導するような環境だ。今の学生の部活動、ことに大会成績等の実績がパッとしない弱い所はこんな状態が普通なのか。最初から分かっていたらやりたいと言われた時に許可しなかった。
さらに、こうした歪な指導を受けて育った結果、大抵の生徒は上級生になるとただ自分が下級生の時に受けた理不尽な指導や圧力を後輩に強いて気持ち良くなる事に夢中になるらしい。現に今の代の上級生も本筋の競技自体に関する指導そっちのけで先輩への挨拶や態度がどうの雑用がどうのという本筋と関係ない指導を執拗に行い、特に1年生は初心者のうちから競技では無くマナー(笑)について日々徹底的に見張られ、指摘を受ける。そうするうちに自身の練習時間を犠牲にして先輩へのゴマ擦りを徹底した奴が目をかけて貰え、試合にも出やすくなるようだ。
その証拠に、実力は大した事ないのに部長に気に入られている〇〇さんばかり選出されておかしい、上手い子よりも同期のマナーや雑用のアラを率先して告発する子が重用されている、等の愚痴はもう耳タコだ。
そんな環境でやってて勝てる訳が無く、得られる物もない、今の大会成績なら名門校の推薦もまず無理、コミュニティとしてもレベルが低い、はっきり言ってやる意味が一切ないので不満がそれだけ出るなら辞めれば良いのにと思うが、一度その発言をしたら散々愚痴を言っていた娘本人がまず大泣き、嫁は「なんでそんな酷い事言うの可哀想でしょあなたは人の心が無いのギャオオン」でブチギレ、結果部活関連の話は「話を聞くだけにして。アドバイスはしないで」と一切聞く耳を持って貰えなくなった。
しかし家族、特に子供のために有益に使って欲しいと思っている俺の稼ぎを、娘の人生において一切利益をなさない不毛な部活動の部費ないし馬鹿にならない額の消耗品費に浪費されるのはあまり気分のいいものではない。それが想像つかないなら嫁も大概人の心がない。
ストレートに言うなら1〜2年先に生まれただけのガキが講師(笑)を勤める低レベルなマナー教室(笑)に費やす金と時間を他の自己研鑽に使うか学習塾にでも行ったほうが間違いなく娘の人生において有益だと思うのだが、これを嫁に言うと「可哀想!人の心ガー!子供の気持ちガー!」を連呼して確実に発狂するので建設的な話し合いが成立しない。あほくさ。本当に子供の事を第一に考えられているなら今の環境に置き続ける選択こそ何の得もせず害しかない事くらい直ぐ理解出来るだろうに。
私には、小さいころからずっと憧れの存在がいる。それは、私より五つ年上の兄だ。兄のことを「お兄ちゃん」と呼ぶと、もう年齢的には少し恥ずかしいのかもしれない。それでも私は、昔からずっと「お兄ちゃん」と呼ぶのが当たり前だったし、その呼び方だけが私の素直な気持ちをいちばんよく表してくれるように思う。兄は細かいことを気にしない性格だから、「もういい加減に名前で呼んでくれ」と言われたこともない。むしろ何気なく「お兄ちゃん」と呼ぶたびに、少しだけ照れくさそうに笑って、「なんだよ」と返事してくれる。そんな兄の仕草が、私にとっては子どものころからの宝物のような思い出になっている。
私が物心ついたときから、兄は私を守ってくれる騎士のような存在だった。どんなに小さなことであっても、「大丈夫か?」と声をかけてくれて、一緒に悩んでくれる。小学校に入りたてのころ、友だちができなくて不安だったときも、兄は私の話をちゃんと聞いてくれた。「そっか、じゃあお兄ちゃんが放課後に一緒に遊んであげるからな。元気だせよ」なんて言いながら、一緒に公園に連れていってくれて、近所の子たちとも自然に遊べるように声をかけてくれた。あのときの兄の言葉や気遣いがなかったら、私はあの時期を乗り越えられずに、さらに内向的になっていたかもしれない。私の世界を少しずつ広げてくれたのは、ほかでもないお兄ちゃんだった。
そんな兄は、私よりはるかに行動力があって、友だちも多かった。学校のことから部活、さらには部活の大会や文化祭の準備まで、何でも積極的に参加していた。だけど家に帰ってくれば、私が宿題に苦戦しているときはいつも手伝ってくれた。特に理科の自由研究なんかは、兄が実験装置を手作りして一緒に試行錯誤してくれたのをよく覚えている。兄は私と同じ道をたどるように見えて、実はまったく違う場所を走っているようなところもあった。彼は勉強だけじゃなくてスポーツや音楽、さらに学校行事の運営のような活動にも興味を持ち、どんどん成長していくのだ。いつの間にか背も高くなり、どっしりとした声で話すようになった。そのころから、私は兄を「かっこいい」と思うようになっていた。家族や友人に言うのは少し気恥ずかしいけれど、「兄としての優しさ」に加えて「一人の人としての魅力」を感じ始めたのは、ちょうど私が中学生のころだったと思う。
しかし、中学生になると私も少し反抗期を迎えていた。別に兄が嫌いになったわけではない。ただ、いつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とくっついてばかりの自分から、ちょっとだけ抜け出してみたくなったのだ。兄が何かと手伝ってくれようとしても、「いいよ、自分でできるから!」と口調を荒くして突き放してしまうことが増えた。そのたびに兄は少し寂しそうに眉をひそめるけど、それ以上は何も言わず、そっと距離を置いてくれた。子どものころは、すぐに私の手を引いてくれたのに。わざわざ私のために遊びを提案してくれたのに。今思えば、あのとき私は自分の世界を広げようと必死で、兄の優しさをないがしろにしていたのかもしれない。
そんな中学時代のある日、私はひどい風邪をこじらせて、高熱を出して寝込んでしまった。両親は共働きで忙しく、どうしても仕事を休めないタイミングだった。ところがその日、兄は学校の大事な行事を休んでまで家に残り、私の看病をしてくれたのだ。最初は「こんなことで大丈夫なのかな。お兄ちゃん、学校行かなくていいの?」と気遣い半分、苛立ち半分の気持ちでベッドの上から見ていた。しかし兄は、薬を飲むタイミングを覚えていてくれたり、氷枕を定期的に取り換えてくれたり、ポカリスエットをいつでも飲めるように用意してくれたり、とにかく何から何まで面倒を見てくれる。私は熱で朦朧とした頭のなかで「ここまでしてくれるんだ…」と申し訳なさと感謝で胸がいっぱいになった。気づいたら、ベッドの脇で眠ってしまった兄の寝顔を見つめながら、こっそり涙を流していた。
そのときに「やっぱり私、お兄ちゃんのことが大好きだ」と、心から再確認したのだ。反抗期真っ只中で、「兄の存在をうっとうしく感じたい」自分と、「兄を素直に好きだと言いたい」自分がせめぎ合っていたけれど、看病されているときに露わになった兄の優しさに触れて、私の中で答えがはっきりと見えた気がした。高校生になるころには、私はもう少し素直になろうと決心し、兄に対して必要以上の反発をしなくなった。そしてこれまで通り「お兄ちゃん」と呼んで、何かあれば一緒に笑って語り合う関係に戻っていったのだ。
高校生活が始まったばかりのころ、私は部活をどうするか迷っていた。兄は高校時代、サッカー部に入りながら生徒会の副会長も務め、さらに文化祭ではバンドまで組んでいた。とにかく「何でもやってみよう」と挑戦するタイプだったらしく、周囲からも頼りにされていたと聞く。そんな兄を近くで見てきた私は、「新しいことを始めるって、すごくエネルギーがいるけど、きっと楽しいんだろうな」とぼんやり思ってはいた。でも、私自身は見た目ほど行動的なタイプでもなく、どの部活に入るのかさえ決められずに日々が過ぎていった。兄に相談してみると、「やってみたいものがあるなら、迷わず挑戦してみなよ。すぐには決められなくても、とりあえず見学に行ってみるとかさ」と笑った。それまで頭でっかちになっていた私は、「そうか。とりあえずやってみればいいんだ」と目の前がパッと開けた気がして、週末にいくつかの部活を見学して回った。
結局私は合唱部に入った。そこには、中学の合唱コンクールで歌っていた自分自身の楽しさの記憶があったからだ。最初はそれほど力を入れるつもりもなく、「軽い気持ちで続けられればいいな」と思っていた。だが、合唱部の先輩はみんな本気で歌と向き合っていて、練習も厳しかった。気がつけば私も音楽室で遅くまで居残り練習をしたり、ボイストレーニングの動画を見ながら自主練したり、一生懸命になっていた。そういう自分に戸惑うこともあったが、同時に「こんなに打ち込めることがあるんだ」とわくわくしている自分もいた。
文化祭のステージでは、合唱部のメンバー全員で、思い切り歌声を響かせた。練習以上に声が震えてしまって、正直ベストコンディションとはいかなかったかもしれない。それでも、ステージを終えたときの達成感は大きかった。観客席を見渡すと、校舎の外からわざわざやってきた兄の姿があった。卒業生として招かれたわけでもないのに、私の初ステージを観に来てくれたのだ。「休みが取れたから、ちょっとだけ覗きに来た」とのことだったが、たぶんこっそり私の頑張る姿を見届けるために来てくれたのだろう。ステージを降りてから兄と目が合うと、彼は少し照れくさそうに親指を立ててくれた。その仕草を見た瞬間、緊張していた私の頬は、一気に熱くなった。
私は「これがお兄ちゃんなんだよな」と思った。大きな舞台に立つときであれ、苦しい状況に陥ったときであれ、兄はさりげなく私を見守ってくれる。困ったときには手を差し伸べてくれるし、何も言わなくてもただそばにいてくれる。それだけで、私は安心して挑戦したり、失敗してもまた立ち上がったりできる。兄の存在は、まるで日の光のようだ。直接私を照らしつつも、押しつけがましくはなく、ただ自然にそばにいて見守ってくれる。その温かさが、いつでも私を優しく包んでくれるのだ。
兄は高校卒業後、地元の大学に進学した。私が高校二年生のころだった。大学に入った兄はさらに多忙になったようで、ゼミやアルバイト、サークル活動などに時間を割くようになった。しかし家に帰ってくるときは、私が「合唱部でこんな苦労があってさ」と愚痴をこぼすのを、いつだって真剣に聞いてくれた。大学の勉強やアルバイトで疲れているだろうに、決して邪険にはしない。私が練習でうまくいかなくて落ち込んだときには、「悔しいなら、もうひと踏ん張りしろ。お兄ちゃんはお前の歌が好きだし、もっと上手くなると思う」と背中を押してくれる。簡単に「大丈夫」と楽観視するのではなく、どうすれば乗り越えられるかを一緒に考えてくれるところが、昔から変わらない兄の優しさだ。
そして私が高校三年生になるころ、兄は一人暮らしを始めることになった。大学の研究室に通うのに便利な場所へ引っ越すというのが理由だ。私としては、「お兄ちゃんが家を出るなんて、ちょっと寂しい」と本音では思っていたが、反対するわけにもいかない。兄が未来に向かって歩みだそうとしているなら、私は応援したい。きっと、私はもう以前のように一緒にゲームをしたり、兄の部屋に入り浸って話し込んだりはできなくなるのだろう。しかしだからこそ、「離れていても私たちはきっと大丈夫だ」と自信を持って言える。私と兄の間には、血縁という絆だけではなく、「お互いを信頼し、助け合ってきた記憶」がしっかりと刻まれているからだ。
兄が家を出てから、私たちはしばらく連絡が途絶えがちになった。私が大学受験で忙しくなったのも大きな原因だ。それでもLINEや電話で声が聞きたくなったら、いつでも連絡してくれと言われていたので、私はたまに短いメッセージを送っては近況を報告した。すると兄は、「いつでも聞くから、困ったら言えよ」と返してくれる。相変わらず、頼れるお兄ちゃんのままだ。私がセンター試験で失敗して意気消沈していたときも、さりげなく「次のチャンスがあるなら自分を信じろ。終わったことはくよくよしても仕方ない」とアドバイスをくれた。画面越しだったけれど、その言葉を聞いた瞬間、胸があったかくなったのを覚えている。
大学合格が決まってから、私は真っ先に兄に電話をかけた。メールやメッセージではなく、声で伝えたかった。電話の向こうで「よく頑張ったな。おめでとう!」という兄の声を聞いたとき、私は涙が止まらなくなった。今までなんとか踏ん張ってきた受験勉強の疲れが一気に噴き出したのもある。でもそれ以上に、「この喜びをいちばん分かち合いたい人が、誰よりもお兄ちゃんだったんだ」ということに気づいてしまったからだと思う。友だちに報告する前に、両親に言う前に、私は兄に連絡していた。それほど私のなかで兄は大きな存在で、どんなときでもまず伝えたい相手なのだ。
いよいよ私は春から大学に入学し、新しい生活が始まる。兄がいる町へ引っ越すかどうかは、まだはっきり決まってはいないけれど、同じ都内に通うことになるので、これまでよりは少し気軽に会えるだろう。「兄妹で仲が良すぎる」なんて冗談めかして言われることもあるけれど、そんなのは気にしない。お兄ちゃんと私は、長い年月をかけて共に成長しながら、お互いを支え合ってきた。私が自然と「お兄ちゃん大好き」と言えるのは、それだけの歴史があってこその言葉だからだ。
もちろん、これから先の人生で、兄と私の道が大きく別れる瞬間がやってくるかもしれない。結婚するにしても、仕事のために遠くへ行くにしても、人はそれぞれの未来へ進んでいく。だけど私が歩む先にいつでも兄の姿が見えたように、兄の歩む道の先にも私の姿が小さく映っていると嬉しい。物理的に離れていても、心が通じ合っていると感じられるような、そんな兄妹でいたいと願う。だからこそ、日々のなかで「大好きだよ」と面と向かって言えるのは、いまだけかもしれないと思い、恥ずかしさはあっても声に出して伝えたい。後になって「あのとき言っておけばよかった」と後悔したくないから。
思えば、妹としての私は、ずっと兄に何かをしてもらう立場だった。小さな頃は、けがをすれば助けてもらい、泣いていれば隣に座って肩を抱いてくれた。宿題でわからないところがあれば教えてくれたし、進路に迷えば「やってみたいならやってみろ」と背中を押してくれた。今度は私が、お兄ちゃんの力になりたいと思う。まだ何もできていないかもしれないけれど、少しずつでも兄にとって頼れる妹になりたい。もし兄が苦しくて立ち止まってしまう日が来るなら、私が「大丈夫、きっとできるよ」と笑顔で言ってあげたい。そして、いつか心底困ったときには、私がまた彼を助けてあげられるようになっていたいのだ。
でも、もしかしたらお兄ちゃんは、そんな私の気持ちをとっくに見抜いているのかもしれない。だって彼はいつも私より先を見ているようなところがあるから。私が高校の合唱部で頑張っていたときも、実は自分が忙しい中、ライブハウスでアルバイトをしてボイストレーニングの動画を集めたり、声の出し方に詳しい知り合いに助言をもらったりして、それとなく私にヒントを与えてくれたりもしたらしい。そんな話を本人から聞いたことはない。私が後から友人づてに聞いたのだ。そういうところが、本当に優しくて、かっこよくて、私が世界でいちばん尊敬している兄の魅力だと思う。
これまでも、そしてこれからも、私のなかで「お兄ちゃん」はずっと特別だ。自分が子どもっぽく感じられるときもあるし、「こんなに人を好きになるって、兄妹だからこそなのかな」と考えるときもある。でも、家族という形を抜きにしても、私はきっと同じように兄を大切な存在だと思うだろう。どんなときでも私を認めて支えてくれたあの瞳と声と背中は、私が人生のなかで何度も思い返すであろう宝物なのだ。
今日も私は、兄にメッセージを送ろうか迷っている。大学のオリエンテーションで少し戸惑うことがあったから、軽く相談したい気分なのだ。けれど、また忙しい思いをさせるのではないかと気が引けてしまう。それでもきっと、兄は「そんなこと気にすんな」と言って笑ってくれるだろう。だって私がお兄ちゃんの立場でも、きっと同じように思うから。困っているなら、何も言わずに助けたい。それが家族だからとか、妹だからとかいう理由だけじゃない。私にとって、お兄ちゃんはそういう存在であり、私自身もまた兄の力になりたい。そんなふうに自然に思えることが、嬉しくて仕方がない。
大人になったら、もっとお互い別々の生活を送る時間も増えると思う。だけど私の心の真ん中には、いつでも「お兄ちゃん」がいて、私はいつでも「お兄ちゃん大好き」と思っている。その気持ちを言葉にするのは、やっぱり少しだけ恥ずかしいけれど、それでも私の素直な思いだ。だからこれから先、何十年たっても、私にとってのいちばんのヒーローはお兄ちゃんだし、私はその事実を胸を張って言える。小さかったあの日からずっと変わらない、私の本当の気持ち――
「お兄ちゃん大好き。」
・後半になればなるほど漫画としての実験的表現が多いので、それをどうアニメに落とし込むか楽しみ
・日常のアニメはアニメ本編95点、マーケティング20点みたいな作品だったので反省を生かせるのか
・どんなに頑張っても人を選ぶ作品だよなあとは思う、日常以上に
・とはいえ13年前よりかはあらゐけいいちの作風に理解のある人も増えたとも思う
・日常と同じ30分2クールは流石に無理か?既に完結している全13巻のどこまでやるのか
・OP,EDはヒャダインか、大穴で星野源、一番アレなのはYOASOBIあたりが来て80点の曲をお出しされること(YOASOBI別に嫌いじゃないんだけど、ここじゃないだろ感がある)
・個人的にヒャダインのカカカタ☆カタオモイ-Cは世界最高のアニソンだと思ってるのですが、超えてきても良いんですよ?
・グッズとかイベントとか増えるんだろうな、楽しみ
・加速度的に面白くなってくる作品なので1話のつかみ頑張ってくれ!感
・日常のハンガリーで録ったとかいうサントラ、なんだよその金の使い方はって思うけど確かに無駄に質感が良いのが分かって悔しい
・次回予告にベテラン声優持ってくるのもなんだよって思うけど面白いから悔しい
・でも別にそういうことはやらなくていいです
・オープニングでまたグイイイイイイインって迫ってくるやつやるのかな
・これはやってほしいです
・まあ多分実際に放送されたらしかのこみたいな雰囲気になるんじゃないかなって思います、おもろい!って人と1話でやめました、って人に分かれるのかなと
・とりあえず自分は動く南雲とかにーくらとかマカベエとか本官とかタナベさんとか鬼カマ先生とかサッカー部とか光岳とか見れるだけで嬉しい
それは作者がホモソに異論を唱える為に作中に登場させる空気を読まず発言できるアスペASD持ちの男が、現実のホモソではいちばんミソジニーが強いから。
いわゆる体育会系のホモソのミソジニーなんて熱めの風呂のようなもの、アスペASD男のミソジニーは限界がなく尽きる事もない。サッカー部10人集めても1人で勝てる強度をもっている。
なぜホモソどっぷり野球部サッカー部の男よりも彼らのほうがミソジニーが強いかといえば、それは10~20歳までの健常者の女がまず真っ先にいじめて機会があればハブったり悪い噂流したり晒されたりが続く10年間が、アスペASDをもって生まれた男の過ごす10代だから。
そして大学はいって人文知を習ってアップデートしただけのいじめてた側の女が、自分たちのそういう性質を忘れて、空気を読まないアスペASD男のガワだけ借りてホモソ批判するときのお説教スピーカーとしてマンガの中で利用する。グロすぎる。
作者が男でも女でも、ここまで鈍感な人間の作るホモソ批判がまともでしっかりした解像度をもつことはありえない。
ちゃんと男のホモソを観察した上で批判する作者がいたとしたら、ぜったいアスペASDもちの男をホモソ批判役には選ばない。そんなグロい事は人間の心があれば出来ないからだ。ホモソ批判マンガというジャンルは現状、それに気づかない無神経な人間だけが作り楽しんでいる。
こういう批判もまともに10年代は出てこなかったけどいまはちょこちょこ批判されてるっぽいので、そこだけは多少マシになったなと思う。