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2025-05-08

ヨッシーのクッキー』の開発経緯

まず1992年5月のSummerCES?)にホームデータビーピーエス(Bullet-Proof Software)が共同開発した『ヘルメティカ』というアーケードゲームが発表されたが、これはロケテストのみで未発売のまま終わった。

https://web.archive.org/web/20220727125726/http://tekipaki.sakura.ne.jp/review/SFC012-Yoshi's%20Cookie.html

英語版Wikipediaによると、『ヘルメティカ』はホームデータ単独で開発し、ロケテストの不調のあとにビーピーエス権利を売却したという。

ビーピーエスSFCへの移植を行い、CESで発表されたのはその移植バージョンだったらしい。

https://gdri.smspower.org/wiki/index.php/Talk:Biox英語版Wikipediaソースとしているホームデータの元開発者ツイート

1992年FC版・GB版の『ヨッシーのクッキー』が任天堂から発売された。開発担当トーセ。

GB版では裏技で「HERMETICA DEBUG MODE」に入れるらしいので、ほぼ『ヘルメティカ』をベースにしているのだろう。

1993年SFC版の『ヨッシーのクッキー』がビーピーエスから発売された。開発担当ビーピーエス

SFC版では「Original design by Home Data Corp.」とクレジットされている。

任天堂は『ヘルメティカ』の8bit版の権利しか購入しなかったため、16bitのSFC版だけは(逆にヨッシーキャラクターライセンスを受けて)ビーピーエス制作することになった、という話もあるようだ。

ここまで見ると、任天堂ビーピーエスの関わりは深いが、任天堂ホームデータの関わりは薄いように思える。

ビーピーエス任天堂と『ヨッシーのクッキー』の企画を進め、あとからホームデータが「ウチもクレジットに載せてくれ」と苦情を入れたのだろうか?

1993年ホームデータは「魔法」に社名変更

1996年ビーピーエス創業者アメリカで「BPS」(Blue Planet Software)という会社を立ち上げる。実質的ビーピーエスの後継企業とみなされている。

元のビーピーエス2001年解散

ところが2003年ガラケーで『ヨッシーのクッキー』とよく似た『INARO』というゲームが出ている。クレジットは「IPC」という会社で、「Original Concept by Home Data, Ltd.」とも書かれている。

https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/14978.html

2006年ごろのBPSウェブサイトで、その「INARO」が紹介されている。というかスクショを見ると「INARO 2」と書いてある。

https://web.archive.org/web/20060310185917/http://www.blueplanetsoftware.com/inaro.html

IPCは、海外拠点を移したBPSの、日本での支社みたいなものだと考えてよさそうである

2003年発売の『NINTENDO パズルコレクション』に収録された『ヨッシーのクッキー』にも、IPCIntellectual Property Consultants)がクレジットされている。

https://www.nintendo.co.jp/ngc/gpzj/index.html

さら2008年バーチャルコンソール版『ヨッシーのクッキー』では、IPCクレジットと共に「INARO®Game Concept」とされている。

https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_ysc/index.html

このあたりの情報錯綜しており、ネット上では「ヘルメティカの原型がINAROである」とか「ヨッシーのクッキー以前にBPSがINAROを海外発売した」とか言われているのだが、『INARO』は海外では未発売だし、おそらくガラケー版以前には遡らないのではないかと思われる。

まりBPS2003年ごろに『ヘルメティカ』と同様のシステムで『INARO』というゲームを開発してガラケー配信し、2006年ごろには『INARO 2』のデモ版を作ってどこかに売り込もうとしていたのだろう。

そして任天堂は、SFC版までは「ヨッシーのクッキーはヘルメティカを元にしてますよ」ということにしていたのだが、権利関係が面倒になったのか、『NINTENDO パズルコレクション』以降は「ヨッシーのクッキーはINAROを元にしてますよ」ということにしてしまったのではないか、という推測が立つ。

2025-04-15

小林恭二の「磔」という30年前の短編小説があまりにもSNS社会すぎ

追記】04/15 16:30

こういうプロ驚き屋な記事をかくと、反応が入れ食いになるのがブクマのよいところですね。

ただ、コメントを読んだ感じ、どうにも僕が作品の中の起こってる事象のもの以上に、そこで起こる人間心理価値観欲望の表出に驚いてることがいまいち伝わっていなくて、自分の筆力の無さを感じている。

そもそも価値観人間心理って、線形の延長線上にあるテック未来と比べると、イレギュラーに変化するゆえに想像つかないと僕は思っているが、どうにもブクマカは人間心理一定で変わることはないと思ってるようで、その辺が齟齬の原因かなと思ってる。

あと、下に書いてるけど、1994年発刊だけど、この小説の初出は1992年からね。なのでパソコン通信である種の文化があったのはわかるが、インターネットはすでにあったみたいな指摘してる人は頓珍漢だからね。

 

とはいえ、僕は小林恭二が忘れられた作家になるのはもったいないと思ってるので、もっとこの本を含めて読んでほしいなと思います

この「短篇集」以外をおすすめするなら

1.ゼウスガーデン衰亡

2.モンスターフルーツの熟れる時

3.浴室の窓から彼女

あたりがおすすめです。

僕にとって、この人と薄井ゆうじの二人は、森見登美彦万城目学のようなコンビイメージなんですよ。

追記終わり】

 

小林恭二という作家がいる。いやいたと言ったほうが近いかもしれない。今は専修大作家育成をしていて自作は15年くらい発表していないと思われる。

僕は30年近く前の大学時代、この作家世界で一番好きな作家だった。今もベスト5くらいには入る。あの頃読んだ現代作家の多くは、だんだん思想の方向がどうにも自分と合わなくなってしま作品を読むこともなくなった(すべては不用意な発言を垂れ流すTwitterが悪い)のだが、そういうのをやってなかったこともあって小林は今も好きなままだ。あと、もう一人薄井ゆうじという作家も好きだったがこの人も作品を書かなくなった。

きっかけは高校時代書評欄に数行紹介されていた「ゼウスガーデン衰亡史」だった。のちに福武文庫で買ったその小説は、主人公がいない群像劇で今までに見たこともないとてつもなく魅力的な小説だった。のちの書評なんかを読むと「 『虚構船団』 の影響が大きすぎる」と言われたが、僕には「虚構船団」よりも「ゼウスガーデン衰亡史」のほうがはるかに好きだし、いまでも面白い小説基準はこの小説になっている。この小説よりおもしろいことは小林の他作を含めてもなかなかないのだが。まあ、この作家を読んでたことで僕は今も奇想の強い小説奇書が好きである。レムの「完全な真空」なんかも好きだ。

 

年末書庫を整理したところ、小林恭二の「短篇小説」という単行本が出てきた。奥付を見ると1994年だが多分貧乏大学生自分が買ったのは1,2年程度たった後の古本だったと思う。小林先生申し訳ない、たぶん自分新刊で買ったのは数冊しかない。

何とはなしに読み直すことにした。けっこう好きな短編集だったが、特に好きなのは冒頭からの3作「光秀謀反」(戦国時代戦国大名は、ハプスブルク家とつながっていた信長など、ヨーロッパ諸侯とつながっていたという話。めちゃくちゃ面白い)、 「豪胆問答」(生まれてこの方驚いたことない侍が化け物に遭遇する話、面白い)、「バービシャードの49の冒険 序章」(英雄バービシャードが冒険に出るまでの話。続きが読みたい)だったので、それ以外はあまりちゃんと読んでなかった。たぶん全部を丁寧に読むのは21世紀に入ってから初めてだろう。

 

なんかかなりグッとくるエロイ話とかあって、あれ、こんなにセクシーなのを書く作家だっけかと思ったりしたのだが「磔」という短編を読んでとんでもなくびっくりした。これ、現代の話じゃね??とちょっと動揺してしまったけど、共有するところが見つからなかったので増田で書き散らそうと思い書き始めている。いちおうKindle版もあるようだが、バッキバキにネタバレ引用をするので、ネタバレ回避したい人は読むのやめましょう。とはいえ10編ある短編の一つなので1編程度のネタバレがあっても十分面白く読めると思うが。

 

主人公男性はN区(都会の幹線道路沿いだというから中野区あたりかね)にあるビルの27階にある住居兼仕事場暮らしている。主人公仕事についての描写

わたしは、現在とある不動産会社アナリストとして勤務している。仕事は、電話線を通してコンピュータに送られてくる膨大な情報検索及び処理で、パソコン電話機があればどこにいても可能仕事のため、専ら自宅で仕事をしている

えっ、これリモートワーカーじゃね?? さらに続く文章に驚かされた

会社に行くのは一か月にせいぜい一度か二度くらい。近頃は外に出るのも億劫になり、買い物も通信販売宅配サーヴィスにたよっているから、部屋を出ることも稀だ。

十年位前まではよく、そんな生活をしていて社会とのつながりが希薄にならないかと問われた。

私は答えたものだ。

「もともと会社社会とのつながりを希薄にしたいために、こういう職を選んだのだ。わたしとしては月に一度程度会社にいくことすら面倒くさい」

さらにはこんな文章もある

はいながらにして、ありとあらゆる情報を、獲得することができるのだ。

何を好き好んで、不愉快な生身の人間と接することがあろう。

今の時代リモートワーカーにありそうな心情である

  

これが2020年ごろに書かれた作品なら普通だろうけど、さっきも述べたように奥付は1994年。この作品の初出は1992年である。30年以上前作品である

小林はけして、現代SF作家などにあるような科学的な考証などを積み重ねて世界を描き出す作家ではない。 

実際、この後、主人公仕事を終えて、自分用のパソコンスイッチを入れるのだが

パソコン通信クラシック音楽情報を専門に扱うネットアクセスする。

そしてそこの話題から明日BGMとなる音楽を選ぶ。

ちなみに現在かかっているモーツアルト歌曲は、昨日ネット内で教わったもので、近くのビデオ屋CDも貸し出している)にファクスして取り寄せたもの

と、ネット通販どころかインターネットすら登場しない。パソコン通信会議室だ。(このニュアンスの違い、増田を読む人ならわかるだろうから説明は省く)

作者は自分想像力の範疇だけで書いているのだ。おそらく小林氏は当時パソコン通信をやっていたと思われるのでそういう描写なのだろう。

 

どうやら、このクラシック会議室には太陽暦氏というモデレーターがいて、今日おすすめを教えてくれるらしい。(この辺、僕はパソコン通信詳しくないんだが、パソコン通信でこういうことをやってる人はいたんだろうか。誰か詳しいネットの古老の方は教えてほしい。)

ここでちょっと興味深い話題になる。

ちなみに太陽暦氏はハンドルネーム、つまりパソコン通信ネット上のペンネームで、無論、ちゃんとした本名もあるのだが、ネット上ではハンドルネームで呼び合うのが礼儀となっている

いいねえ、古きネット感覚だ。続けて

太陽暦氏は私のほか何人かのクラシック初心者のために、三か月の間毎日推奨のレコードを挙げてくれることになっている。

それでもって翌日に曲の聴き所などレクチャーしてくれる。

年をとった人に言うと、それでいくらとられるのだと聞かれる。

無料だと答えると大概驚く。

こちらのほうが驚く。

いまだに情報商品か何かと勘違いしているのだ。

情報空気に等しいのだ。

この辺は、ちょっと時代が2周くらいした感じはある。現代社会、やはり情報商品になっている。むしろこの時代よりはるか商品度は高い。2000年代前半くらいまでのネット価値観ではあるが、まあ、今も一部の分野、特に趣味の分野では無料になってる面はある。この後、情報についてのT.ストウニアの「情報物理学の探求」という本から言及がある。ストウニアとこの著作実在するようだが、現代社会でどういう評価なのかはちょっとからなかった。忘れられた学者みたいな感じなんですかね。

 

テレビへの言及もあり、興味深い。

テレビの発信する情報はおおざっぱでクオリファイが不十分で、加えておおむね退屈である

(中略)ことに若い世代には、テレビ情報の古さ、質の悪さを嫌ってこれを見ない人が圧倒的らしい

まじで今の話じゃないの?

 

この後、主人公ネット徘徊する

哲学会議室で「かなり痛烈な罵倒用語を駆使」してメッセージを書き込んで去り、夜中に反論の嵐が巻き起こるのを期待している。荒らしかw

いくつかの部屋を見て回ったのち、バー会議室に入る。

バーといっても本当のバーではなくネット上におけるバーである

ここはバーカウンターにいるような気持ちで人のメッセージを読み、あるいはメッセージを書き込むという、いわば言葉の上でのバー形成している

2ちゃんバーボンハウスみたいなもんか。いや、あれは釣られて受動的に行く場所から違うか。これもパソコン通信で実際にあったやつなんでしょうか。

まあ2ちゃん雑談スレッドやXなどでなれ合いをしてるような感じだろう。

ここで主人公は、その日の夕方自分けが得たとっておきの情報披露する。その情報が何なのかはまあ表題ネタバレしているが割愛しておく。

主人公の心情を引用しよう

書きながら私はぞくぞくしていた。それは渇望していた情報を得たとき快感と対をなすものだった。それはパーフェクトな情報を発信する快感である

この気持ちに心当たりのある人、手を挙げて! はーい! だからこのエントリーを書いてるんだよ!!

これってつまりバズる感覚ですよね。ネットバズることの気持ちのよさをこの作者は30年前に理解していたのだ。いくら小説家という職業とはいえ、この感覚90年代初頭に持っていたのは相当に新しいのではないだろうか。ほんとに深く驚かされた。

主人公情報は狙い通りにバズり、彼はその日のその酒場での「英雄」となった。

そして翌日、彼は新聞自分のバズらせた話題の件について読む。ここで新聞というメディアへの評価も非常に今の時代っぽいので引用しよう

わたし新聞類型的な見出しのひなびた味わいを普段から愛しているが、このときもほほえましく思った。

それは流行終焉した後、ようやく流行存在に気付いて、頓珍漢な批評を加える初老学校教師を思わせた

こんな感じの印象を新聞(だけでなくオールドメディア全般)に持ってる人多いでしょうなあ。

 

以上のような20ページほどの短編なのだが、どうだろうか。

 

最初リモートワーカーの意味を言い切った時点で、うわっすげえと思ったのだが全部読んで、とにかく小林恭二の凄みを感じさせられた。

乱暴な話だが、資料をある程度収集して咀嚼すれば、未来社会がどんな風になってどんなものがあるかは書くことができる。それが30年後の現在と適合していても、ああ、資料くそろえたね頑張った頑張ったくらいの感想まりであるしかし、その未来社会で、人がどういう価値観を持ち、どういう欲望をどのように満たそうとして行動するかまで描いたら、そして、それが後世の人間からして違和感のないものであれば、まったく意味合いが違ってくる。

 

もし、僕が今時の書評系TikTokerのように「30年後のSNS社会を予見したとんでもない短編!!」とか宣伝したら、バズってこの主人公のような「パーフェクトな快感」を得られるだろうか?

参考文献(アフィはないのでご興味あればどうぞ)

短篇小説

書籍

https://www.amazon.co.jp/%E7%9F%AD%E7%AF%87%E5%B0%8F%E8%AA%AC-%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E6%81%AD%E4%BA%8C/dp/4087740668

Kindle

https://www.amazon.co.jp/%E7%9F%AD%E7%AF%87%E5%B0%8F%E8%AA%AC-%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%81%AD%E4%BA%8C-ebook/dp/B09THZB8J5/ref=tmm_kin_swatch_0

2025-04-11

変更後のOP曲の方が人気あるアニメキテレツ大百科STAR DRIVER 輝きのタクトしかマジで存在しない

キテレツ

「お嫁さんになってあげないゾ」〔第1回(1988年3月27日) - 第24回(1988年10月23日)〕

守谷香

「お料理行進曲」〔第171回(1992年4月19日) - 第331回(最終回)(1996年6月9日)〕

YUKA

スタドラ

GRAVITY Ø」(第1話 - 第13話)

Aqua Timez

SHINING☆STAR」(第14話 - 第24話)

9nine

美味しんぼ

「YOU」(第1話 - 第23話)

結城めぐみ

「Dang Dang 気になる」(第24話 - 第136話)

中村由真

銀魂

Pray」(第1話 - 第24話)

Tommy heavenly6

曇天」(第100話 - 第125話)

DOES

マジでこの4つしか存在しない

あとはほぼすべて最初OP曲が最も人気ある、もしくは変更後のOP曲が人気だが最初OP曲も同格には人気がある

やっぱり最初刷り込みって強いね

過去アメ車を売れと圧力掛けた結果

1990年代にも日米貿易摩擦があり、アメリカは「アメ車買え」政治圧力を掛けた。その結果を書いていくよ。

 

既存販売店でアメ車販売チャンネルを作った

自動車というのはメーカーが作ってそのメーカーが売るんじゃなくて、自動車メーカーの子会社販売代理店ディーラー)を作ってそこが売るという形を取っている。

アメリカにあーだこーた言われた政府運輸省経由でこれらメーカーディーラーに働きかけ、それに各社が応じて協力して販売網でアメ車を扱うことにした。

 

GMシボレー

トヨタ系列カローラ店東京トヨペット店で販売特にキャバリエトヨタOEMとして販売していた(つまりシボレーバッジの代わりにトヨタバッジを付けている)。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%A8

右ハンドルあり。

2ドアクーペデザインはまぁまぁだが4ドアセダン凡庸デザインであまり売れず。だって凡庸ならカローラ買うよな。

トヨタキャバリエ」は2000年に終売、チャンネルも解消に。

 

クライスラージープ

ホンダプリモ店クリオ店ベルノ店販売右ハンドルあり。そもそも4WD車は豪州右ハンドル)での需要も大きく、更にジープは乗り降りが多い米国郵政向きに右ハンドル販売していた。

元々ジープチェロキーの人気は一定以上あったし、そこに右ハンドル仕様車ありでホンダが整備を受け持つとなればそこそこ売れる。更に300万円を切るグレードも投入された。

パジェロランクルハイラックスサーフなどの競合があるにも拘らず良く市中で見られた。

 

フォード

日産マツダ系列販売

特にイチ押しだったのがエクスプローラーで、今で言うSUV。というのも当時の日本ではステーションワゴンSUVタイプ流行していた。

だがここにはハイラックスサーフという強力ライバルがいた。日産テラノ三菱パジェロもいた。

そういう訳で販売は振わなかった。増田も見た事が無かった。だから右ハンドルがあったかどうかもチト分らん。

 

マツダ系列特筆すべきなのはフォードプローブ。これは2ドアクーペだが、90年代の「アメ車買え」圧力の前からマツダフォード提携していて、プローブを共同開発していた。マツダカペラというセダン/ワゴンがあったのだが、それをベースにしたクーペなんであるな。

特に2代目からエンジンマツダ製になったもんで、OHVが当たり前のアメ車にあってDOHCガンガン回るエンジンである。1万1千回転までキッチリ回せ。いや、そこまでは回らないが。

まりプローブの2代目はもうマツダライセンス車をフォードアメリカで作ってるのに近い。

てなわけで当然日本でもマツダ系列で扱いがあった。

これも右ハンドルありだ。そこそこ売れた。

97年で終売になってしまうが、後継車を作らなかった。故にその分の日本での販売チャンネルも失うことになる。

 

その他自力販促

 

政治圧力販売チャンネルごり押しした以外にも、普通販促活動などで売れたモデルもあった。

 

GMキャデラック・セビル

販売代理店ヤナセ

1992年からの4代目キャデラック・セビル結構造りがいいと評判で、燃費も滅茶苦茶悪いわけではなかった(但し日本車と比べ無い場合)。それまでのアメ車運転ガバガバ大味でハンドル遊び大きい、サスペンションがフワフワだったが、これをドイツ日本の高級車に寄せて来た。

同社は雑誌新聞に頻繁に広告を打ち、サザン桑田佳祐が出るTVCMも流した。結構攻めの攻勢だったわけ。

そういうわけでそこそこ売れた。4代目は右ハンドル無し、1997年からの5代目には右ハンドルがあり、しか運転ポジションが変にならないように調整されていた。

だが同社はこの5代目でキャデラック・セビルを終売にしてしまう。更に販社を現地法人方式にしてヤナセ扱いを外してしまう。「継続は力」を知らんのか…

 

フォードトーラス

ロボコップパトカーの車。それのステーションワゴンが人気があった。当時の日本ではスバルレガシーステーションワゴンの人気がすごく、それのアメリカ版としてトーラスワゴンが売れていた。

本音ではみんなカプリス(アメリカパトカーの車種)ワゴンが欲しかったみたいだが何せデカい。日本で転がせる気がしないし駐車場に入らない。そこで常識サイズトーラスで妥協してたって感じ。

 

ポンティアックグランダム

3ナンバーサイズの中型セダンスズキ系列でも扱いがあったという記述がみられるが増田は見た事がない。本当にあったのか?

メインの代理店ヤナセで、サイズも手頃、エンジンDOHC日本車と遜色ないので割と売れた。

しかし3ナンバーセダンのこの車がアメリカだとコンパクトカー扱いなのだ

 

シボレー・アストロ

ミニバン。と言っても日本車と比べたらデカバンだ。

これが売れる原因を作ったのは所ジョージだ。所は90年代からライフスタイルリーダー」となっていて、『デイトナ』という雑誌を発刊、古い日本車やアメ車を中心にした西海岸カジュアルファッションを発信していた。あとはネコパブリッシング雑誌の影響もある。

その中で推されていたのがアストロで、日本運転するにはデカいこのミニバン結構売れた。ヤナセ扱い。

ちなみにこいつはアメ車品質故障が多い。

 

まとめ

こういう感じで、政治圧力90年代販売チャンネルが増えたのだが、アメ車メーカーはそのチャンネルを維持してきていないのだ。維持とはそのままってだけじゃなくて、仕向国でマーケティングを行い、広告も打ち続けるって事だ。つなりは普通日本企業が行っている事と同じ事をやっているかって事だ。

 

更に、見て判る通り、アメ車メーカー90年代から既に、「アメリカ生産して輸出する」ってビジネスから脱しているのだ。OEMにしたり、半ばライセンス生産技術力をカバーして(プローブのエンジンなど)日本に輸出したりしている。やる気がある車種では右ハンドル生産している。

から現況は、2000年からアメ車メーカー日本市場を諦めてしまったという状態になっている。

しか日本市場はJDM(Japanese domestic market)として、かなり特殊ガラパゴス市場であった。更にデフレの進行によりこの傾向が強まっていて、継続的にJDMにアタッチしていないと参入難しいのだ。

 

アメ車って小型車無いの?

あるんですよ。韓国ではGM大宇グループの合弁で小型車を作っている。車格としてはアクアとかシビックの大きさ。

更にその車種を中国市場で展開するという事をしている。

だったら日本でもその車種売ればそこそこ売れるんじゃね?となるのだがやらないのだな。右ハンドル化しないといけないが。

 

アメ車ってネジなどの規格がインチなんでしょ?

それはもう大分からメートルミリ)規格になっている。というか、車種によっては使われている場所によって混在しているからそれがややこしい。

というのも、カナダメキシコ豪州でもアメ車は売れていて、その国はメートル法なのでインチネジはめんどくさいワケです。更に整備書の記述インチ準拠なのも面倒とトラブルの元。

から国際モデルを中心に脱インチが進んでる。

 

右ハンドルあるの?

豪州(右ハン)市場があるから豪州向けモデルがある車種には右ハン設定されてる。だから右ハンドルを作らないほど企業努力してないというわけじゃない。そこはBig3ちゃんとしてる。ただ、その右ハン車種が日本市場マッチしてるかっていう問題がある。

 

グローバル展開

トランプ政権メキシコ部品作ってるのが怪しからん、国内に戻す為に関税掛けるのだと言ってるが、それはオフショアが安く付くってだけじゃなくて、グローバル展開していてその一環でメキシコ工場があるって状態なのだ

韓国中国タイインドイタリアにも工場があるし、そのサプライチェーン国際的に展開している。

ホンダスーパーカブ日本で作っていて1000万台ほど売れたが、中国ベトナムなどで現地生産を始めると猛烈に販売台数が伸びて1億台以上になった。それをやるのが企業努力であったし、今更日本浜松和光に戻せって言われたら、9000万台の需要どうするの?って事になる。

トランプ政権の言ってるのはこういう事であって、今更何を言っているの?という感じ。

あと、メキシコアメ車の主要な市場であって、物価の違いから純US産アメ車が出来たとしても価格面メキシコでは売れません。

1970~80年代前半の常識で今の車ビジネス擁護されてもBIG3も困るんじゃないかな?政権の中に新聞経済面ちゃんと読んでる人が居ないような感じがする。

2025-03-27

anond:20250327181024

最近財政出動と減税のブームを見ていると1990年代を見ているようだ

なんで2010年代リフレとかの金融政策流行たかと言うと、1990年代にすでに財政出動と減税やったからなのよね

からこそ効果が出なかった財政政策じゃなくて金融政策に注目が集まっていたんだ

1990年 国債残高は166.3兆円

1990年 所得税収34.5兆円

1990年 GDP437兆円、予算66兆円

1992年8月 総合経済対策 10.7兆円

1993年4月 総合的な経済対策 13.2兆円

1993年9月 緊急経済対策 6兆円

1994年 所得税特別減税 5.5兆円

1994年2月 総合経済対策 15.2兆円

1995年4月 緊急円高経済対策 7兆円

1995年9月 経済対策 14.2兆円

1998年4月 総合経済対策 16.6兆円

1998年11月 緊急経済対策 23.9兆円

1999年 所得税の恒久減税

1999年 所得税23.8兆円

1999年11月 経済新生対策 18兆円

2000年10月 日本新生のための新発展政策 11兆円

2002年 国債残高は421.1兆円

歴史は繰り返すんだなあ

2025-03-26

anond:20250325231923

なぜならこれまで統一教会のことを取り上げることなぞ全く無かったからだ。

疑問なんだがあなたは恐らく40代前半とみうけられるが

恐らく小〜中学生頃(1992年かな)に、2022年頃と同じぐらい

統一教会ワイドショー毎日取り上げられてた時期があったんだけど、それを知らないってのはかなり不自然みえるんだが(桜田淳子合同結婚式騒動

自分も同世代だが、えらい騒ぎだったこと覚えてるし

銃撃事件の時もまず当時のことをすぐ思い出すぐらいだったんだが

2025-03-18

この町では精子でモノを買う

国道沿いを真っ直ぐ行ったところに、そのスーパーはあった。

並木はなく、竜巻を飢えさせるといった寸法だった。

空はペイントの灰色ペンキで塗り潰したような色をしていて、迷うべき道もなく歩みを進め、スーパーに入ることにした。

スーパーの名はニルヴァーナだった。

自動ドアの先、真左側にレジが一列に連なって並び、コマ送りフィルムのような店員の動きが目に入る。

俺は前を向いて真っ直ぐ進んだ。店内にはウェルカムトゥザジャングル1992年ライブアレンジ版が流れている。

商品棚には所狭しと商品が並べなら、アマゾン倉庫のような広さを誇るこのスーパーでは何でも売っている。

例えば、オーラツーミーアロマフレーバーコレクションアクティブベリーミントからモーゼルC96まで。

俺は野菜売り場、青果売り場と順調に通り過ぎ、生鮮食品までの途中には支柱があって、そこにはこの町における今月の目標警句?)が書いてあった。

火が水の中で消えないのであれば、

家庭内での暴力はどうやったら消える?

俺は調味料コーナーに足を向けた。

各種様々な調味料が均一な等間隔に並べられ、距離を離して眺めるとアンディー・ウォーホル自画像に見えるよう並べられていた。

俺はマヨネーズケチャップを籠に入れると、その場を後にした。

必要ものを他にもどんどんとカゴに入れるとレジの方へと向かう。

途中、すれ違う客は俺のような独り者もいればカップル家族連れも多い。

大抵の男は籠を手に持ち、同行者がにこやかにしかけてくるときでもちんぽを立てていた。

既に支払いの準備を済ませているのだろう。

俺はレジへの列へと並ぶことにした。

混んでいる。少なくとも俺の前には七人ほどは居た。

彼らは皆、待っている間にちんぽを立てていた。

俺も彼らに習ってちんぽを立てようとする。

たくましい想像力を駆使して若い女の裸体を想像する。

俺の股間は緩やかな丘陵を見せ、小人の力こぶのような盛り上がりを見せた。

だが、万全じゃない。

実際、俺がこの町に来たのは一昨日で、俺は疲れていたのだ。

昨晩ホテルの眠り心地の悪いベッドのせいでもあるかもしれない。

レジは進み、だんだんと順番が迫ってくる。

焦りは、何よりも厄介だ。そのことを俺は経験上、熟知していた。

いよいよ俺の前に居るのは二組の客のみになった。

会計を済ませている男は中年ヤンキース帽子かぶり店員から2862円になりますと言われ、屹立させたちんぽから精子をだらりと滑らすようにカルトンへ放った。

次に会計を済ませたのは若いカップルで、支払額を告げられると筋肉質の男はスペースシャトルみたいな角度をしたちんぽをファスナーから覗かせ、勢いよく精子を支払った。

いくらかは勢いが良すぎてカルトンを飛び出し、店員の服へとべっとりついた。彼女は顔色一つ変えずレジスターの下に手を入れ、過払い分ですといって割引券を女の方に渡した。

そして俺の番となったのだが、正直いって焦っていた。

俺のちんぽは起ち切らずにいた。

苛々し、貧乏揺すりのように膝を揺すりながら激しく女の裸体を想像したが駄目だった。逆効果ですらあった。

会計は6210円になります、と言われたときにも俺のちんぽは駄目だった。

店員は俺を見た。俺も店員を見た。店員広瀬すずに似ていた。

彼女は白いポロシャツを着ており、ピンク色の下着が薄っすら見えた。

俺は彼女を見続けた。店員ポロシャツボタンをはずし始め、そのときになってようやくボタンが深く胸元まであることに気が付いた。

彼女ボタンをすべて外した。胸元が露になると乳房が顔を見せ、ピンク色の下着は前から外せるようになっていた。

店員はブラを外した。乳首下着と同じような色をしていた。

俺は射精した。

支払を終え、購入したものをカゴからエコバックへと移し替えていく。

全てを入れ終え担ぐとずっしりとした重さを右肩に感じながら、一度だけ振り返る。

広瀬すずは着衣を直し、冷淡な顔立ちのまま客から精子を受け取り続けていた。

不意に彼女こちらを向いた。

目が合う。彼女の唇は閉じたままだった。そしてすぐに目を逸らした。

俺も彼女から目を逸らすと、それからスーパーを出た。

2025-02-18

どん兵衛に色んな有名人がCMに出てた

私もどん兵衛派です。どん兵衛美味しいですよね。

WikiディアCMキャラクターとして紹介されていたものをPickupしてみました。

TVCM以外で起用されている有名人がいるらしいが、見たことが無いので割愛

結構いろんな人が登場してたことに驚きました。

知らないバージョンが沢山有ったってことですね。

山城新伍川谷拓三1976年 - 1990年

菊池桃子井森美幸どん兵衛のきつねでおあげめくりしましょう」など。(1990年 - 1992年

北大路欣也山口紗弥加ほか 「世直しどん兵衛」(1994年

 ナインティナイン

 泉谷しげる

 勝俣州和

 優香中村紀洋プロ野球選手)「うどんどん兵衛そばどん兵衛

 安田美沙子

 戸田和幸サッカー選手

 上戸彩

 中村獅童

中居正広(当時SMAP)(2004年 - 2015年

加山雄三佐藤健清水富美加2015年 - 2017年

星野源吉岡里帆「どんぎつね」(2017年 - 2022年

こがけん吉岡里帆「どんぎつね」(2021年 - 2022年

美輪明宏

アンミカ2023年

by Wiki

2025-02-02

自分

箇条書きにしたら、とんでもない家庭だなと。私は長男

1979年 両親が結婚 父親母親お見合い結構だが反対

1980年 長男誕生

1982年 長女誕生

1983年 父親リストラ転職青森から群馬

1884年 母親宗教入信し毎朝家にいない。

1985年 母親宗教脱退。病気により義眼となる

1987年 父親ほのぼのレイクアイク武富士ワイドから数百万の借金祖父が返済

1989年 父親武富士ワイドから数百万借金母親の両親が返済。消費者金融チンピラが家に乗り込んで来て布団を破かれた

1990年 祖父が家に乗り込んで来て、借金母親

父への尊敬がないからとの理由と叱責。朝5時まで母親長男正座させ祖父父親は4リッターほどの焼酎を飲み干す

1991年 長男オナニーを覚える。1日3回ほど実施

テレフォンセックス利用し数万円び請求

1992年 長女が学校いじめを受け父親が泣いた

1995年 父親アコム武富士から数十万の借金長男学資保険を解約し支払い

1997年 長女 睡眠薬を大量に飲み自殺未遂

1998年 長男、両親の性行為を目撃

2000年 正月帰省時、出前の寿司お金が支払えず地元寿司から催促。2ヶ月分割

2001年 祖母が死去。葬式が貧相だと親戚一同から怒られる。通夜葬式時のお礼なし食事なし

2001年 長女の妊娠結婚することに

2002年 長女離婚

2003年 父親スナック熟女から訴訟を受けたと後にわかる。寿司代数万円を払わなかったとか

2006年 長女駆け落ち

自分

箇条書きにしたら、とんでもない家庭だなと。私は長男

1979年 両親が結婚 父親母親お見合い結構だが反対

1980年 長男誕生

1982年 長女誕生

1983年 父親リストラ転職青森から群馬

1884年 母親宗教入信し毎朝家にいない。

1985年 母親宗教脱退。病気により義眼となる

1987年 父親ほのぼのレイクアイク武富士ワイドから数百万の借金祖父が返済

1989年 父親武富士ワイドから数百万借金母親の両親が返済。消費者金融チンピラが家に乗り込んで来て布団を破かれた

1990年 祖父が家に乗り込んで来て、借金母親

父への尊敬がないからとの理由と叱責。朝5時まで母親長男正座させ祖父父親は4リッターほどの焼酎を飲み干す

1991年 長男オナニーを覚える。1日3回ほど実施

テレフォンセックス利用し数万円び請求

1992年 長女が学校いじめを受け父親が泣いた

1995年 父親アコム武富士から数十万の借金長男学資保険を解約し支払い

1997年 長女 睡眠薬を大量に飲み自殺未遂

1998年 長男、両親の性行為を目撃

2000年 正月帰省時、出前の寿司お金が支払えず地元寿司から催促。2ヶ月分割

2001年 祖母が死去。葬式が貧相だと親戚一同から怒られる。通夜葬式時のお礼なし食事なし

2001年 長女の妊娠結婚することに

2002年 長女離婚

2003年 父親スナック熟女から訴訟を受けたと後にわかる。寿司代数万円を払わなかったとか

2006年 長女駆け落ち

2025-01-18

anond:20250118124759

・『ウゴウゴ・ルーガ』[注 1](UGO UGO LHUGA[1])は、一部フジテレビ系列局[注 2]ほかで放送されたフジテレビ制作による子供向けバラエティ番組である制作局のフジテレビでは1992年10月5日から1994年3月25日にかけて放送された。

1993年10月22日から1994年2月25日の金曜 19時 - 19時30分に生放送の『ウゴウゴ・ルーガ2号』も放送され、ピチカート・ファイヴコーネリアス楽曲提供した。日本テレビ番組においてテレゴングシステムをいち早く取り入れた。裏番組であるテレビ朝日ドラえもん』の人気には勝つことが出来ず短期打ち切りとなった。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AC

DVDでもみせられてたのか?それテレビの思い出じゃなくてDVDの思い出だぞ

2025-01-07

山口厚教授東大刑法最高峰・前最高裁判事)の文章

以下は、山口厚教授の「刑法総論 第3版」のうち「実行行為」に関する記述だ。

貴殿ら、これ読んで意味わかる?

おれには、悪文としか思えない。

刑法学の世界では最高権威とされている天才の部類だけど、文章力は正直言って司法試験予備校講師に劣るとおれは思う。

おれ?Fラン卒のうんこ製造機だよ。生きててごめんなさい。でも、初版で実行行為概念全否定という極論をサラっと書いて3版であれこれ理由を書き足すのはダサいとおもうよ。

実行行為にあたるか、それ以前の段階にある行為にすぎないかをどのようして判断するかは解釈上極めて重要問題である

上述したように、実行行為であること(行為者の行為に実行行為性が認められること)自体構成要件要素であると解されるが(団藤139頁を始めとする通説である)、実行行為因果関係の起点として捉えることを超え、それ自体が「犯罪本体実体である理解すること、さらには、実行行為表現された犯罪的・反規範意思犯罪実体である理解しながら、それを全面的処罰対象とすることは行き過ぎだとする立場から、法文の文言によって実行行為形式的限定すること、すなわち、実行行為遂行だけで犯罪が成立すると解するのではなく、結果発生までを要求することは、反規範意思表現である犯罪の、単に形式的・外部的な、実質とは無関係限定である理解することには根本的な疑問がある。

山口 厚(やまぐち あつし、1953年11月6日 - )は、日本法学者刑法)。学位は、学士法学)。元最高裁判所判事[1]。東京大学名誉教授早稲田大学名誉教授

1972年 - 東京教育大学附属駒場高等学校(現・筑波大学附属駒場高等学校卒業

1974年 - 司法試験合格

1976年 - 東京大学法学卒業

1976年 - 東京大学法学助手

1992年 - 東京大学大学院法学政治学研究科教授

2009年 - 日本刑法学会理事長2015年5月まで)

2017年2月 - 最高裁判所判事

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%8E%9A

ブコメを受けて追記:いやね、行為価値論を批判しているっていう文脈はわかるよ?あれこれ価値判断をした経緯を体系上明示せずに実行行為概念に取り込んでしまうのはよくないという趣旨はわかるよ?

そのうえで上記日本語、適切だと思う?

無数にある刑法書籍の中で、平均以上の文章表現だと思う?

慌てて書く答案とかじゃなくて腰を据えて時間かけて原稿を練り上げられる状況でだぜ?

ワイは平野龍一書籍の読みやすさに感動したクチなんだけど、その弟子の筆頭で最高権威山口刑法日本語がアレなのがとても残念なのよ。

あ、大塚基本刑法でも読んでろって?はい。そうします。

anond:20250107105615

そして裁判官がいなくなった

メデジン・カルテル覇権維持闘争を続けた結果、コロンビアは瞬く間に殺人蔓延する国となり、1991年には25100人1992年には27100人狼藉行為で殺された

エスコバル殺し屋に対して警察官を始末するよう依頼し、その報酬として彼らに金を与えており、それによって600人以上が死亡した

2024-12-08

発症したのが1992年から9年前って事は、その当時の病名は統合失調症じゃなくて精神分裂病だったんだよ。

初めて診断されたのが2008年だったから、最初から統合失調症の診断がついた。もし精神分裂病と診断されていたら、このお姉さんの自尊心はより激しく棄損されて傷ついていた事だろう。

そういう事実に触れないのはフェアじゃないと思う。

https://www.cinra.net/article/202412-dosureba_htrmm

藤野:まず本作はドキュメンタリー作品として撮り始めたわけではありませんでした。きっかけは大学卒業を機に、地元を離れ神奈川での就職が決まったこと。僕が実家を離れるとそこで起きていることは家のなかだけで完結してしまますよね。だからその前に記録として残す必要があると考えて、姉の発症から9年後の1992年、まだ僕が大学4年生のころに録音機能のあるウォークマンで家のなかの音声を初めて録音しました。当時は、いつか医者に連れていく際に以前からこういう症状があったという証拠としての使い道を考えていたんです。

その後、紆余曲折あって日本映画学校映画を学び、1998年卒業しました。テレビアニメ仕事を経て、家のことをビデオカメラ撮影し始めたのは2001年のこと。その段階でもドキュメンタリーとしては考えておらず、「ホームビデオとして撮影している」と家族には説明していました。

僕がドキュメンタリー映画監督したのはアイヌの遺骨返還に関する2017年短編『八十五年ぶりの帰還 アイヌ遺骨 杵臼コタンへ』が最初でした。学校で学んでいたんですが、このときようやく映画のつくりかたを理解したんです。家族の話をドキュメンタリーにしてもいいのかなと思ったのは、2008年に姉が病院統合失調症であると診断され、治療を経て姉弟らしい会話ができた頃ですね。ようやく希望が見えてきたので。

子供精神疾患を認めない親が悪い」で終わらせてほしくない

これさあ、映画タイトルこそ『どうすればよかったか?』となっているけれど、

実際にはこの監督の中で結論は出ているよね?「早期に受診させればよかった」でしょう?そう決めてかかっているよね?

「この映画は『失敗例』」。統合失調症の姉と家族を記録した映画『どうすればよかったか?』監督が語る胸中

https://www.cinra.net/article/202412-dosureba_htrmm

「間違っていたのは、両親の説得に25年かかったということ」

ただ両親は医者かつ研究者であり、合理的判断ができるはずだったのに、その二人に話が通じないとなるとどうすればよかったのか。無理矢理入院させれば良かったという人もいますが、それがうまくいくとは到底思えません。彼らが認めない入院病院が認めるとは思えないし、入院させることができたとしても両親が連れ帰ってくる。そして僕が無理矢理病院に連れていこうとしても、姉は赤信号で車を降りるし、身体を縛ったりしたらトラウマにもなりかねない。どう考えても両親を説得する以外の方法はなかったと思いますが、どうすれば説得できたかはいまだにわかりません。

結局、両親に問題があったという事で済ませている。

たとえ両親が望んで入院させたとしても、病院で拘束されて人権侵害を受け、家にいるよりももっと酷い目に遭ったかもしれないなどとは考えていないようだ。

発達障害なんかでもそうだけど、この手の話題になるととにかく子供障害を認めない親が悪い、早期に受診させていれば解決した筈だ、と決めつけられて

社会から偏見医療制度自体問題は置き去りにされてしまう。それが悔しい。


それに加えて、両親は自分たちで何とかしなければと思ったんじゃないかなとも考えていて。通院歴があると姉の国家資格が通らなくなるとか、研究者としての道が閉ざされることもきっと心配していたと思うんです。

これは正しいよね。精神科の通院歴があると就きたい職業に就けなかったり、保険に入れなかったり。今は多少改善されたようだけど昔はもっと酷かった。

それは社会制度問題なのに、この監督はそこに深く切り込もうとせずに両親が悪いで済ませている。

世間偏見の目も強いよ。親族精神疾患人間がいるとそれだけで結婚出来なかったり。


しかも「統合失調症」と呼ばれるようになったのも2002年からなので、それ以前は罹ったら人生終了を想起させるような「精神分裂病」と呼ばれていた。そういう医療側の態度も、受診忌避する患者を生んでいただろう。この人のお姉さんが発症したのは1992年から9年前らしいから、その時は間違いなく「精神分裂病」。この記事にはその事実が出て来ない。

https://www.jspn.or.jp/modules/advocacy/index.php?content_id=58

日本精神神経学会2002年8月1937年から使われてきた「精神分裂病」という病名を「統合失調症」に変更することに決めた。それに伴い、厚生労働省精神保健福祉法に関わる公的文書診療報酬レセプト病名に「統合失調症」を使用することを認め、同年8月に各都道府県政令都市にその旨を通知した。現在メディア出版業界など多くの領域で、精神分裂病統合失調症に変更する作業が進められている。

2024-11-27

高学歴芸人、増えすぎ

ざっとWikipedia検索して、記事存在してなおかつ出身大学記載があるものをまとめただけなので、なんならこの20はい

これだけいても「高学歴芸人」といえばロザン宇治原なのだからファーストペンギンは偉大とわかる


2024-11-05

日本野球界で最も重要選手10

1.金田正一(カネやん)

2.野村克也ノムさん

3.長嶋茂雄ミスター

4.王貞治世界の王

5.落合博満Mr.三冠王

6.野茂英雄トルネード投法

7.イチロー鈴木一郎)

8.松井秀喜ゴジラ

9.ダルビッシュ有(@faridyu)

10.大谷翔平二刀流

2024-11-01

anond:20241101133544

ダウトをさがせ!』は、1992年4月9日から1993年9月23日まで、毎週木曜日20:00 - 20:54 (JST) に、TBS系列局ほかで放送されていたクイズ番組

島田紳助徳光和夫が司会やってて、マイケル富岡荒井注がでていた番組があったんだよ。

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