はてなキーワード: 枚挙とは
それなのにこのタイミングで下らない不倫スキャンダル起こしやがってタマキンよ。
まじで脇が甘すぎて萎えるんだよ、
お前マジで参院選までは風俗いけばいいだろ、金はあるんだろうからさ。
立民だろうが、共産だろうが維新だろうが自民だろうがマジで不倫スキャンダルはどうでも良いと思ってるけど、
今やるんじゃねーよ玉木さんよ??
という前提ではあるんだけど、
マジで昨日今日の「家族を裏切る人間は国民も裏切る」とか「妻に嘘つくような人間に公約が守れるのか?」論とか
ブコメとかでもヤフコメとかでもXでも超ドヤって書き込んでて「言ってやったぜ」みたいな奴らがいて、
本当にクソ幼稚過ぎてマジでムカつくんだよね…
日本の政治が成熟しないのはマジでこういうやつらのせいだと思ってる。
よく考えるまでもなくマジで一ミリも関係ない話をつなげてるし、
冷静に考えれば
一番身近な人間たった一人を裏切るより、自分の顔晒してメディアまでつかって超大勢の人にスピーカー使って演説までしたことを裏切るほうがよっぽど心理的ハードルは高いからね?
そもそもの論が逆なんだよ逆。
おおぜいの国民に約束した公約をしれっと反故にできるような面の皮の厚い人間は、自分の奥さん一人ぐらいこっそり裏切るのはできると思うけど、
「奥さんのこと守れないのに…」とか言ってる奴は、人の上に立ったことないような雇われの奴なんだよマジで。
大勢の人間に一挙手一投足を注目されるような経営側/マネジメント側に立ったことないやつだから、
自分のせまーい知見の範囲で「奥さん一人を…」とか言い出しちゃうわけ。
小学校の学級会とか、道徳の授業レベルのマジでつまんねーー幼稚な倫理観で堂々と語っちゃうわけ。
レベルの低い日本の政治ですら、そんな道徳みたいな論理で動いてないし、
民間でも零細企業を経営してる、どん臭そうな社長のオッチャンですら清濁併せ呑んで毎日ウンウンうなりながらやってんの。
そもそも中学以降の世界史/日本史を勉強したり、一般人レベルの知的好奇心を持ってれば
女関係は壊滅してるけど、超偉大な仕事を残した人間なんて古今東西、枚挙にいとまがないことぐらい知ってるよね????
お札にまでなった渋沢栄一の成した業績と、渋沢の婚外子の数についてどういうこと思ってるわけ??
マジでみんな幼稚で苛つくけど、
玉木が辞任みたいな流れに全くならなくて多少はホッとしたよ。
国民の役に立つなら政治家の下半身事情なんてマジでどうでもいいし、
それは国民民主でも自民でも維新でも立民でも共産でもれいわでも一緒。
それはそれとして玉木は猛省しろ。
あなたが女だとしよう
そして、男たちが飲み食いしている間に、女だというだけで忙しくおさんどんをしなければならなかったとしよう
そんな時、楽しく飲み食いして自分に命令してくる男の中に、一人だけ女がいたとしよう
あなたは、「あの人は女なのに、何故!」と思わないだろうか
そして、他の同じことをしている男たちのことより、その女のことが憎くならないだろうか
「同じ女なのに、あいつは何故!」
男社会で成り上がってきた強者女性が、自分たちの頃より生きづらくない若い女性たちに嫉妬して女嫌いの名誉男性になってしまうのはよくあるらしい
女が生きづらい時代に生きてきた母親が、女が生きやすい時代に生まれた自分の娘を「同じ女なのにずるい!」と妬み、息子だけ溺愛して娘をいじめることもある
そんな話を2つも見た
この時、母親はかつて自分を苦しめた男尊女卑モンスターとなってしまっている。
もし嫉妬が男に向かっていれば、「男はずるい!」という思考になり、息子だけ溺愛することもなかっただろうに
男の加害については、諦めてしまっているのだ
男のことは諦める
男の行動を変えるのは諦め女に自衛を促すのは枚挙にいとまがないだろう
かくいう私も、ミソジニーを憎んでいるが男のミソジニー発言はどこかで仕方がないと諦めてしまっている
だが、ミソジニー発言を繰り返す女を見ると、「何故!理解できない!」という嫌悪が激しくなる。その女がミソジニストに蔑視され叩かれているのを見るとざまぁみろと言いたくなる
多分、アンチフェミ男がフェミ男を「チン騎士」と呼んで蔑むのも似たような感情だろう
そしてもう1つ
ナチス政権下でユダヤ人を虐げる中にはユダヤ人もいた。他のユダヤ人と違って特別扱いをされていた。
そんな特別なユダヤ人たちも、しまいには他のユダヤ人と同じように殺された。
ユダヤ人自身からも、「ユダヤ人が虐げられたのは自業自得」という意見は出ていたのだ
彼らは「あなたは他の悪いユダヤ人と違う、いいユダヤ人だ」と褒められていたのだろう。そして、「他の悪いユダヤ人がいるから私達ユダヤ人は差別されるんだ。本当に迷惑だ。許せない」と思っていたに違いない
虐げられる方のユダヤ人も、特別扱いされるユダヤ人を憎んだに違いない
これってまるで、男に混じって女叩きするアンフェ女ではないか
ちゃんと思想を実行に移す中国人とネットで暴れるしかしない普通の日本人との差は何なのか。
日本人の根底にあるのは「諦め」である。何をやっても変えられない不況の現実を30年生きてきた日本人の属性は以下のように見える。
これはもっともよくみられる「普通の日本人」のケースではないだろうか。彼らは政治を笑い(冷笑)、政治を批判する左翼を攻撃し(ネトウヨ)、消費の場で政治的発言をする者を排除する。
結果として、彼らの怒りの沸点は「消費できなくなった(あるいは気持ちよく金や時間を使えないお気持ち)」時(エロ表現規制、Vtuberやらのやらかし、米騒動)などに散見される。「消費の場で政治の発言をするものを排除する」もこれに該当するだろう。
このフラストレーションは円安物価高により今後ますます過激なものになっていくと予想される。
これは与党や論破系や大谷翔平など、目に見えて勝者となったことが分かるものを支持、同一化することで己のフラストレーションのはけ口を彼らから見た敗者側にぶつける獣、すなわちネトウヨ化ルートである。
人間は所詮動物でしかない。変えられない現実に自分のエネルギーを使うよりも、変えられない現実の勝者に同一化することで心の均衡を保とうとするコスパ(笑)が良い立ち振る舞いである。
しかし「日本スゲー、俺スゲー」な彼らの自意識ゆえ、日本サゲの情報が入るとすぐさま韓国や野党サゲの記事をリツイートしているような症例が枚挙に暇がない。彼らは自分の内にフラストレーションを貯めておくことが出ない、貯める器が小さすぎるのだ。
結果として彼らはろくに情報を精査せずすぐさま汚物を排泄して心のコスパをよくするしかない。それゆえデマ情報に踊らされる馬鹿が多い。
これは社会に対する不満を貯め過ぎている嫌儲化ルートである。厭世の度が過ぎている上にケチである。
基本的に反体制だが左翼の旗印となるインフルエンサーがもはやいないので語録をつかって安倍晋三に同一化するという、半ば野糞タイプに片足が漬かっている者も多い。
腑抜けた日本人への怒りと憎しみに満ちているが自分も日本人であるということを棚に上げている。中国やロシアを持ち上げることが多々あるが、中国やロシアが彼らを慮ることはまず無い。
彼らの本質もまた他力本願で諦観に満ち、自ら行動を起こすこともなく誰かが何かしてくれることを期待しているだけの典型的消費マインド日本人である。
日本人はこれら3タイプの複合の度合いで構成されているように思う。基本的に食べて排泄する生物的構造からこうなるのは必然と言えよう。
いかに共産党における思想統制があるとはいえ、著しい経済発展を遂げている国であるならば1の食い尽くしも当然可能であるし、「反食品浪費法」が制定されるように文字通り食い尽くすほどである。
「性の対象にするの止めない?」京都市の地下鉄の“美少女アニメイラスト”に嫌悪の声も寄せられる批判「一体何に発情してんだ?」
まずこのイラストに限れば過度に脚部を出している時点でポルノだろう。そうでなくとも大抵のオタク向けイラストはAIがセンシティブ判定を入れてくるのでポルノだ。
服を着ていたらセーフとかそういう話ではなく、そこを超えて静的に見せる工夫を作り手側がしてきている。胸や太ももにほくろを入れたり、やたらスカートの丈を短くする、性的な雰囲気を醸し出すなど事例を出せば枚挙に暇がない。
セーフティーなイラストというのはちぃかわ、いらすとや程度の絵だ。要するにエロ同人がほぼほぼ生まれず、それでシコる人間がいないに等しいくらいのイラストで、初めて性的ではなくなると言える。
政策シンクタンクを事実上失った国|shinshinoharaという記事がちょっとだけ注目を集めているが、20年ちょっとの官僚経験からするとどう見てもおかしく感じるのでいくつかコメントをつけておこうと思います。
もちろん私及び私の周辺のみでの感想なので偏りがある可能性は認めます。
第二次安倍政権が生まれるまでの官僚は、良くも悪くも「国のこの部分を自分が改善することができた」という充実感を持てたんですよ。その充実感があったから、民間に勤めた同級生と比べて給料が低くても、徹夜連日でも、面白くて頑張れていたんですよね。ところが。
第二次安倍政権から政治主導の仕組みがスタートしまして。まあ、これは民主党政権時代にできた法律が動き出したんですけど、「官僚は政治家の思いつきに従え、従えないやつは左遷だ」という忖度政治が始まったんですよね。しかし所詮は思いつき政策。問題点を指摘しようと気骨ある官僚は諫言しました。
これは明白に誤りです。
当時のエピソード
〇民主党議員から「俺に文句言うなら当選してから言え」と怒鳴られる
〇大臣が書類を放り投げ「これを拾うのが君たちの仕事だ」と言い放つ
等々枚挙にかぎりがありません。
政治主導の中での無力感は当時の官僚ブロガーの記事を読めば良く分かります。(bewaadさんなど(https://web.archive.org/web/20120302172708/http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20100721/p1)。branchさんとかも似たようなこと書いてた気が。ほとんどの方がブログを辞めてしまっていて記事が追えないのが残念)
安倍政権で政治主導が進んだという御指摘かと思いますが、安倍政権以前から高級官僚(慣例として局長級以上)の人事は政治次第です(その権力を積極的に行使するか否かは政治家のキャラクターによる)。政治の側で権力が族議員から官邸に移ったというのはあるかもしれませんが、それも民主党政権下からですね。
もちろん、現在の学生さんにそういったことが伝わっておらず、志望度に影響を与えている可能性があることは認めますが。
次々に官僚をやめていきました。若手官僚も、尊敬する気骨ある官僚が辞めたり左遷させられたりするのを見て「こんな仕事を続けても何のやりがいもない」と絶望して、外資系企業などにどんどん転職していきました。
前掲bewaadさんの記事が消えているので記憶だよりですが、当時の時点で、「待遇の悪化から、官僚の質的低下は受け入れるべき。霞が関ではマニュアル仕事は嫌われるが、質的低下に備えてマニュアルを整備すべき」という趣旨の記事を書かれていました。慧眼ですね。
単純に待遇面なんですよ。給与面だけじゃなく、転勤や勤務時間など、民間側の待遇改善に追いついていないのに加え、とても正当とは思えない批判を浴びせられていたのが実情です。
当時の記憶でいうと、官僚がなすことはすべて悪化のように報道され、また議員レクなどでもそのように罵倒される日々で、その取り組みが実を結んだだけに思えます。
この作者の方は第2次安倍政権の責任としていますが、現場の経験からすると全く違うのでは?と感じます。待遇は変わらないにしても民主党政権下に比べて罵倒されたり差別されたりすることは明らかに減りました。
官僚の待遇改善の議論をしたいのならそれをすれば良い(適切な給与水準、労働環境など)のですが、その議論と安倍政権への批判をごっちゃにしている感がありますね。
日本社会における共同体の形態は、時代とともに大きく変化してきた。かつての故郷を中心とした共同体から、会社中心の社会、そして現代の「推し活」に至るまで、その変遷は日本人の生活や価値観の変化を如実に表している。本稿では、これらの変化を考察し、各時代の共同体が持つ特徴と、その基盤となるものの変化について探る。
まず、最も古い形態の共同体として、「故郷」に焦点を当てよう。故郷という共同体の最大の特徴は、その「大地」に根ざした不変性にある。人々は同じ土地で生まれ育ち、その土地の文化や伝統を共有することで強い絆を形成していた。この共同体は、地縁・血縁に基づく強固な結びつきを持ち、相互扶助の精神が根付いていた。自然災害や飢饉などの危機に際しても、互いに助け合い、乗り越えていく力を持っていたのである。
しかし、明治以降の近代化と、特に戦後の高度経済成長期において、日本社会は大きな変容を遂げる。地方から都市部への大規模な人口移動が起こり、故郷が担っていた共同体としての機能は徐々に失われていった。その代わりに台頭してきたのが、「会社」という新たな共同体である。
会社は、故郷が担っていた共同体の機能を代替し、終身雇用や家族的経営など、日本独自の特徴を持つ相互扶助を実現する場となった。ここでの結束の軸は「生産」である。社員は会社の生産活動に従事することで、安定した収入と社会的地位を得ると同時に、会社を通じて新たな人間関係を構築した。会社という共同体は、個人の生活を支える基盤となり、そこでの人間関係は時に家族以上に親密なものとなった。
しかし、バブル崩壊後の経済停滞と新自由主義の台頭により、会社という共同体の力は徐々に弱まっていく。終身雇用制度の崩壊や成果主義の導入により、会社と個人の関係性は大きく変化し、かつてのような強固な絆は失われていった。日本人は再び連帯を失いかけたのである。
そんな中で台頭してきたのが、「推し活」を中心とした新たな共同体である。推し活とは、特定のアイドルやアーティスト、キャラクターなどを熱心に応援する活動を指す。この新しい形態の共同体は、80年代のオタクカルチャーとは異なり、より「共同体的」な性質を持っている。
オタクカルチャーが個人の趣味や嗜好を強調し、それが結果的に既存の共同体からの逃避や代替の場として機能していたのに対し、推し活はむしろ個人を再び共同体的な枠組みに引き戻す役割を果たしている。推し活を通じて人々は、共通の関心を持つ他者との連帯感を感じ、コミュニティを形成している。このコミュニティは、かつての故郷や会社が持っていた連帯感に似た役割を果たしているのである。
しかし、ここで注目すべきは、これらの共同体がそれぞれ何に根ざしているかという点である。故郷は「大地」に、会社は「生産」に、そして推し活は「消費」に根ざしている。この変遷は、共同体としての強度が徐々に弱くなっていることを示唆している。
大地に根ざした故郷は、よほどのことがない限りなくならない。生産に根ざした会社も、人が生きている限り必要不可欠なものであり、個々の会社の栄枯盛衰はあれど、会社という制度自体はなくならない。会社を移動することで共同体を失うリスクは最低限担保される。
しかし、消費に根ざしている推し活は、消費するための財がなければその共同体に参加することはできない。財とは個人的なものであり、財を失ったときに補完してくれる基盤はほぼない。生活保護などのセーフティネットは存在するが、それを受給することは推し活に回す余剰がほぼない状態を意味する。
したがって、推し活による共同体は極めて脆弱な基盤の上に成り立っているため、その財を得るために無茶な行為を働きかねないというリスクにつながる。これを読んでいる皆さんの周辺でもそのような現象は枚挙にいとまがないであろう。
このように、日本の共同体の変遷は、社会の近代化と個人主義化の過程を反映している。大地から生産、そして消費へと基盤が変化する中で、共同体の強度は弱まり、個人が抱えるリスクは増大している。
推し活という新しい共同体の形は、現代人のニーズに応える一方で、社会の安定性という観点からは課題を抱えている。今後の社会は、この新たな形の共同体がもたらす利点を活かしつつ、その脆弱性にどう対処していくかが課題となるだろう。
私たちは、これらの課題に対して、どのような社会システムや価値観の変革が必要となるのか、真剣に考える必要がある。消費に基づく共同体の脆弱性を補完する新たな社会的セーフティネットの構築や、消費以外の要素で人々を結びつける新たな共同体の形の模索など、様々な角度からのアプローチが求められている。
日本社会が直面するこの構造的変化は、単なる社会現象ではなく、私たちの生き方や幸福のあり方に深く関わる問題である。共同体の変遷を通じて私たちが失ってきたものと、新たに獲得したものを冷静に見極め、より強固で持続可能な社会の構築に向けて、一人一人が考え、行動していくことが重要だ。そうすることで初めて、推し活に代表される新しい形の共同体と、伝統的な共同体の良さを両立させた、真に豊かな社会を実現できるのではないだろうか。
Twitter(X)でもいいけど、TLの雰囲気を悪くしたくないからとりあえずここに吐き出しておく。お披露目から二晩三晩経っても、脳内から感情が消えなくて生活に支障が出だしたので供養の意味も込めてる。割と感情のままに書き殴ったから乱筆乱文。
先に本旨を要約すると、私はポジティブな感情からネガティブな感情に変化し、今は少しずつ前向きになってきている。
雑な言い方をすると、呪術オタが雑考察してフジを腫れ物扱いして燃やしてんのがキツすぎ。作者よりも呪術オタの挙動がフジファンの傷を抉ってる。でもだんだん立ち直ってはきてるしついでにお願いがあるよ。ということ。
【↓↓↓↓↓以下約5,500字↓↓↓↓↓】
8/25の夜、配信でじゅじゅフェスを観ていて、最後に巻頭カラー絵のお披露目があった。人生の半分をフジファブリックにどっぷり浸かって生きた私は、ひと目でアルバム『CHRONICLE』を模していると気付いた。
結論から言うと、好きなバンドと好きな作品が思わぬ形でコラボしたことに驚きと歓喜が止まらなかった。
そのときの感情をTwitterの本垢(フジファブリックはじめ音楽と日常メインにつぶやく)に突発的に書きなぐって投稿した。ひと目見て気付いたこと、そして作者も私の好きなバンドのファンであることが伝わってきたことなど。
そして、呪術廻戦にハマってから作った、漫画アニメだけをつぶやいたり、ファンアートにいいねしたりするアカウントで、ファンたちの感想(じゅじゅフェス)を拾っていった。
そこで私はショックを受けた。呪術廻戦ファンの間でイラストに対して「正気を疑う」「倫理観ない」「不謹慎」「バンドのファンや遺族に失礼」などの言葉が並んでいたからだった。
さらにはひと目見て「犬がいる!かわいい!」と好意的に受け取っていたアカウント主すらも「オマージュ元を知って地獄に落とされた」という主旨の投稿をしていた。
このショックを言語化するのに時間がかかって、友達の力も借りながら受け止めて今に至る。
正直に言うと、これらの呪術廻戦ファンの声を受けて、私は ①悲しみ ②怒り を感じている。
そして今は、これらを踏まえて ③祈り に近い感情も浮かんでいる。
①悲しみ に関して
私の人生をかけて愛したバンドとアルバムの名を用いて作者にヘイトを向けている投稿が散見されること。
フジファブリックという文字、志村正彦の人生の結集といえるアルバム『CHRONICLE』の文字と、「吐きそう」「気持ち悪い」「正気を疑う」「地獄に落とされた」「倫理観おかしい」という強い批判、もとい軽蔑の言葉が並んでいること自体が悲しくて悲しくてたまらない。
彼らにはもっと前向きで明るい言葉が似合うのに。「変態的かつ普遍的な美しさ」「クセになるサウンド」「新境地」「世代を越えて愛される」など、フジファブリックを応援してきたファンやメディアは素敵な言葉を紡いできた。
作者に批判の言葉を向けさえすれ、誰かを不快にさせる行為や言動は行為者の一面に過ぎず、行為者そのものの価値観や人間性を否定するものではないと私は思う。
そして私は同時に五条悟オタでもあり、作中で亡くなったことに悲しんだ経験もある。
ちょうどその話が掲載されてから1年弱経とうとしていることも思い出し、その当時は私の落ち込んでいる様子を見かねた友達や同僚が励ましてくれた。一方で、デリカシーなく「死んじゃったねw」と心のヒビを直接割る言葉をかけてきた人にも遭遇した。
このようなことを、五条悟を愛する人なら、少なからず経験したのではないだろうか。
同じように、五条悟を愛するがあまり、フジファブリックファンの心に残る微かな傷を、その強い言葉でほじくり返しているかもしれないことは考えられないだろうか。
作者はこういうことも勘定に入れて、「諸々の意味を込めて」とあえて濁したコメントしたのではなかろうかと私は思う。
6年半も続く大作を描き上げるにあたって、これだけ出版業界の不況の中、掲載誌の売上を落とさぬよう、耐え難いプレッシャーや責任を感じながら物語を続けていく自身を、軸となるフロントマンを喪って再始動した経歴をもち、過酷なプレッシャーの中それでいて15年も走り続けたバンドと重ねたのかもしれない。
②怒り に関して
こっちのほうがショックの中に占める割合が大きい。
前述した強い軽蔑の言葉にフジファブリックを並べてほしくないという怒りは先立つ。
次に、メンバーのパーソナルな情報が、漫画のファンによる考察(という体裁の下衆の勘繰りと言いたいくらい)の道具として利用されたことに怒りを感じている。
ご存知の通り、志村正彦は2009年12月24日に29歳という若さで突然この世を去った。これは揺るぎない事実である。
しかし本来、生年月日と同じように命日も非常にデリケートな個人情報である。彼がミュージシャンとして世に出ることがなければ、近親者は知れども、世界中の誰もが知り得なかっただろう。
対して創作物の登場人物はどうだろうか。物語において読者は、登場人物の動きを第三者的に、いわば神視点で見守ることができる。キャラクター同士の内緒話だって筒抜けだ。そうした舞台上の人物たちと観客とはいわゆる“恋愛テクニック”のように「秘密の共有」ができる。この恋愛にも似た興奮を私たち読者は楽しんでいる節があると思っている。
フジファブリックはバンドという周縁はコンテンツだとしても、メンバーは実在の人物であるがために、当然プライバシーを尊重されるべきである。実際、ファンやインタビュアーはメンバーの私生活に関して踏み入ったり聞き出そうとしたりしない。
命日や享年というデリケートな情報を持ち出して、その事実を安易に繋げたうえに、尾鰭をつけてありもしないストーリーを勝手に繋げていく行為が、私には他人の家に土足で上がりこむ行為に見えてならない。
曲がりなりにもオタクなら、プライバシー情報とコンテンツたらしめるものを分けて考えてほしい。
例えば、2つの事実にA、B、C、Dの4つの共通点があるとして、AとBとを繋げば万人が心地よく終われるものを、いくら線で結べるからといって、CとDを繋いで、恣意的なストーリーを生み出されては、どちらの側も良い気持ちはしないだろう。
だから、「この位置に五条悟が配置されているから…」「バンドは存続しているから五条悟は死から復活する」など、死去の事実からの逃避や不確かな根拠を並べ立てられるのは、両者のファンとして理解に苦しむ。
Twitter(X)では常日頃からしょーもない話題が炎上しているが、よくある例として「これでは〇〇が可哀想」という構造をしているものがある。
こんな親に育てられて可哀想、こんな飼い主に育てられて可哀想、こんな環境に放り込まれるなんて可哀想…など枚挙に暇がない。
それと同列で、当人の感情を勝手に想像してバンドのファンや家族に対して「嫌がっている」「失礼だ」とレッテルを貼る行為はそれ自体が失礼に値するように思える。
私自身、人生の半分といえど他と比べるとまだまだファン歴は浅いものだと自覚しているが、
曲がりなりにも十数年応援してきた身としては、苦しみや悲しみを押してまで志村正彦の全てを提供してくださっている志村家と地元有志の皆様には感謝してもしきれない。どんなに苦しもうとも、それ以上に彼の生きた証を残したいという使命のもとご尽力くださっている姿を見れば、どんな形であれ、一人でも多くの人に彼の存在が知られることは彼らへの報いではなかろうかと私は考えている。
だからこそ、彼を取り巻く話題は明るいものであってほしいし、そうなるよう関係者もファンも努力している。
それを、「ファンではないけど」「バンドは存じ上げなかったけど」と枕詞を載せて外野から関係者ヅラして物申していることが腹立たしくて仕方ない。許可取り云々の話ではない。無知蒙昧を晒し、それがフジファブリック関係者に届くことこそ最大の無礼ではないのか。
あとイチャモンついでに、現体制の3人のメンバーを「残りのメンバー」って言ってるのは何なんだ。3人は残りものなんかじゃない。言葉尻を捉えるようだが、夫を亡くした妻を未亡人と呼ぶような気味悪さが残る。甚だ不快だ。
個人的に言い得て妙だと思ったのが、志村時代をリアルタイムで知っている先輩ファンの「ファンでもない奴らが騒いでいる」「不謹慎厨じゃねーか!」という発言だった。正直この発言のお陰で少し溜飲が下がった。
フジファブリックはメンバーも関係者もファンも優しい人ばかりだから、強い言葉に対して萎縮する(私もその内の一人)のではと思っていたが、ファンコミュニティで軽蔑ではない言葉で真っ当に怒りを表出できる人の存在に救われた。持つべきものは信頼の置ける先輩ファン。
もちろん、一連の話題にモヤモヤが抑えきれず、私が呆れた呪術廻戦オタクのように作者や作品への痛烈な批判を長文で述べた先輩ファンもいた。
奇しくもこれの執筆最中に更新され、何周も読んだが、確かに納得できる内容で、その視点も勿論いちファンとして持ち合わせている自分を認識できた。
あらゆる表現物すべてにおいて、意味や意図が付随する。それら全てを拾ったとして、特に何を取捨選択するか、とりわけ「何を言わないでおくか」も巷で話題の“教養”とやらに含まれるのではないだろうか(一つ留意しておきたいのが、表現の意図として無意識に語られるもの、特に特定の属性への偏見や差別に関しては無視してはならない)。
少し脱線するが、ネットで語られるような“教養”と“雑学”はしばしば混同されているように感じる。いたずらに知識量を増やし自己のための娯楽として完結するものではなく、悲劇の再来の抑止や自分自身や後進の未来と社会を豊かにするために、蓄えた知識の中から取捨選択し、それらを原動力として行動することを教養と私は呼びたい。
③祈り に関して
簡潔に言えば、こんな言いがかりやイチャモンをつけている暇があったら、問答無用にフジファブリックを聴いてください!ということ。
件の『CHRONICLE』でいえば、志村くんの犬(モジャっていいます)だけが正面を向いていて、それ以外の総くんダイちゃんかとをさんの犬は横を向いています。
対して、巻頭カラー絵は、五条悟と虎杖悠仁の犬が正面を向いています。
この背景には、『CHRONICLE』まで(厳密には志村Vo.時代最後のアルバム『MUSIC』まで)のフジファブリックは、明確に「リーダー志村正彦」という線引きがあって、いわばフジファブリックという物語の主人公をずっと務めてきた事実があります。
そしてリーダー亡き後、3人がパワーバランスを強化しながら調和させ、いわば三位一体の形でそれぞれが主人公になって物語を作っていきました。
これを踏まえて考えてみるとどうでしょう?
映画化も決定した懐玉・玉折編で主人公だった五条悟、そして本編で主人公の虎杖悠仁、両者は同格に物語の主人公であることが示唆されるでしょう。
さらに、アルバムがスウェーデンでメンバーが寝食を共にして制作されたこともあり、寮生活を送る4人とレコーディングに勤しむ4人の仲睦まじさを重ねることができます(詳しくはアルバム同梱のDVDにドキュメンタリー映像が収録されています)。
また、10thシングル及び3rdアルバム収録の「若者のすべて」が現在進行形で大ヒットしたこともあり、そこだけを世間一般に切り取られがちという煮え切らなさをファンは常々抱えています。「五条悟?イケメンだから人気なんでしょ?」にも通ずる消化不良です。
フジファンなら同意してくれるかもしれませんが、志村正彦は変態で捻くれていて一途でお茶目で繊細で孤独な男なんです。
暇つぶしに花屋の女性店員とデートする妄想をしたり(花屋の娘)、酒の力を借りないと甘えられなかったり(ロマネ)、海辺で泣いている女性をお嬢さんと呼ぶ気障ったらしさがあったり(NAGISAにて)、自分を獣に喩えて思いっきり飛び出す大胆さがあったり(モノノケハカランダ)、
それなのに、否定される事が怖かったり(バウムクーヘン)、大切な人を亡くして何年経っても忘れないと覚悟を決められるのに(黒服の人)、相手は自分のことをすぐに忘れてしまうと悩んだり(クロニクル)、そんな卑屈な考えをを誰かに否定してもらいたがったかと思えば(エイプリル)、君がいなくても元気でいられると強がるふりして泣いちゃったり(Bye Bye)、非常に魅力的な人物です。
そんな男の姿も、たった一人の大切な人に素直になれなくて、だけども本当はすごく寂しかった不器用な男の姿も、どこか似ている気がするんです。
ちなみに私の見解としては、志村正彦は相当なハジケリストです。
北欧の熊と太極拳使いの髭面の男性を戦わせたり(熊の惑星)、踊ろうぜと誘っておきながら黙れと言ったり(TAIFU)、走る足音がドラえもんやタラちゃんの比ではない異音だったり(銀河)、かなり尖ってます。
このハジケリズムは3人にも受け継がれ、サルバドール・ダリが発起人となってタコスパーティーをうやむやに開催したり(アンダルシア)、言い間違いから曲を生み出したり(東京)しています。
最後に、現体制の3人のメンバーは言わずもがな、たくさんの名曲を生み出し、私たちを慈しみ寄り添ってくれています。
ツアーラストや周年のホールでも、招待されたフェスのアリーナでも、地方の観客がすし詰めになるような小さいライブハウスでも、必ず「僕たちは誰かの居場所になりたい」「今フジファブリックでい続けられるのは皆さんのお陰」と伝えてくださってます。
Twitterにも書いたのですが、私の本心は、「どんな形であれメンバーが生み出した楽曲を愛してもらいたいし、バンドと共に豊かな人生を送ってほしい。生きていようが亡くなっていようが、その人が存在した事実、バンドの曲が生まれた事実、楽曲が様々な人の人生に関わった事実は消えないので、悲しみも抱えつつ前を向いて生きていく糧になってほしい」ということです。
フジファブリックのお陰で人生が豊かになって、呪術廻戦に生き様を教わったオタクの感想でした。
P.S.それっぽいキーワードを検索したら筆者を特定しやすいように書いたつもりです。もしそれっぽいな〜というアカウントを見つけたら、私事ですが現在就活中ですので、オススメのホワイト企業を教えてください✌️
X上など自分と相容れない意見を叩く呟きばかりで見られたものではない。
しかしよくここまで右も左も新自由主義も、男女も老いも若きも先鋭化して対立したもんだ。
はっきりいって真っ当なほとんどのひとはわざわざX上で政治主張したりしないので、事実はそこにあるのだとおもうが、ちょっとずつその真っ当な人が減っている印象がある。
何が原因だろうか考えてみたが、やっぱりマスゴミにあるとおもう。
ここ数年、いわゆるオールドメディアのマスゴミ(新聞テレビ)の信用度はがた落ちの状況だ。
悪質な切り取りをして印象操作する、高圧的で決めつけが過ぎる態度でコメントする、データのねつ造や印象操作をする、メディアスクラム、低レベルな質問、印象操作丸出しのタイトルや効果音にテロップ、スポンサーや広告代理店に逆らえないことを隠しもしない…枚挙にいとまがない
このそれぞれが酷いのは間違いない。結果として、信頼できる情報ソースを失った人達が、身の回りの情報しか信じられなくなって先鋭化する。
とりわけ孤独な状況の人ほどその傾向は強い。なにせSNSが「身の回りの情報」の代表だからだ。
そして、SNSではエコーチェンバー効果でより先鋭化がおきる。
そして、マスゴミの印象操作報道(低視聴率)→SNS拡散→マスゴミの印象操作報道(ネットで話題)→SNS拡散…
あぁひどい。
これから社会が良くなるためにはメディア変革、マスゴミ改革が必須だとおもう。例えば選挙改革しようとおもっても報道が印象操作連発でそれを許さないだろう。
しかし政治家がマスゴミ改革しようものならそれこそ酷い報道が続いて阻止されるだろう。
ようするに詰んでるのだ。
大学内で何らかの問題事案があった場合に、学外に対して即座に公表しても何らメリットはない
正直に公表しても批判され責任を問われるだけだし、義憤にかられた関係者が外部へ告発しても
犯人さがしされて村八分というのは鹿児島県警をはじめ枚挙にいとまがない
正解は、学内で処分して外部には知らせず、関係者には徹底的な箝口令をしく
時間はすべてを押し流してくれる
2024年4月、東大の岩崎渉教授の研究室webサイトが消失した
岩崎渉氏は40代の若さで東大教授となった進化生態情報学・バイオインフォマティクスの気鋭の研究者である
これだけならサイト更新の処理を誤って全部消しちゃったとかのミスも考えられなくもない
しかし消失したのは研究室ページだけではなかった、先端生命科学専攻の教員一覧から名前が消され
研究者データベースのResearchmapからも岩崎渉氏の存在が抹消されていた
https://researchmap.jp/iwasakiw/?lang=Japanese
分野・教員一覧 | 先端生命科学専攻 東京大学大学院新領域創成科学研究科
https://www.ib.k.u-tokyo.ac.jp/faculty/
分野・教員一覧 | 先端生命科学専攻 東京大学大学院新領域創成科学研究科
https://web.archive.org/web/20231129161724/https://www.ib.k.u-tokyo.ac.jp/faculty/
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/k0001_00249.html
バイオベンチャーの業績への影響がないか確かめるため日経が取材に入った
東京大・岩崎教授のサイト閉鎖、東京大が本誌取材にコメント:日経バイオテクONLINE
https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/24/04/11/11790/
「研究不正ではない」との言質はとれたものの、調査中なのか研究室が募集停止したのは事実か
私はさ中学生〜高校生あたりまでずっと「うちはお金ないんだ、貧乏なんだ」って思って暮らしてたんだよ。だって病院行くにも「あんたはほんま金かかるなあ」って文句言われるし塾行くにも編入するにもずっと金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金って言われて育てられたから。お金よりもまず娘の体調を心配して欲しいのに。だから私はもっとお腹を壊すのに。そんなにお金がかかるのが嫌ならなんで子供なんか産んだんだよってずっと思ってた。なのに妹がうちの家計についてなんて言ってたか知ってる?妹がが買ってもらおうとしていたものに対して「それお金かかるじゃん」って私が言ったらさ、「大丈夫、わたしお父さんとお母さんのこと信頼してるから!だって何でも買ってくれるもん🎶」だよ?
私だってわかってるよこの家が貧乏なんかじゃないことを。だってお父さんはいつも良い服着てるし子供のセーターを買う時には一直線にイーストボーイに行くし、お母さんは物価高に気づくのが私や世間よりずっと遅かったし、何より一馬力なのに物価高の今でも変わらぬ生活水準を維持できているし。平均以上、いやさらにそれ以上のお金がないことはないって気付いてた。ただ長女の私に余計なお金を遣うのが本当に嫌なだけなんだと。私は通信大学に入学が決まった時、「ああこれでまた『アンタは金がかかる』って言われなくて済む」って心底安堵した。それでもスクーリングの学費や交通費を申請するのは気が重くて、なんて言われるか怯えながら毎回お願いしてた。「アンタは金がかかる」って言われるたび、私は「アンタなんか要らないのに」って言われてる気持ちになるから。今年の冬、いつも自分で払ってる教科書代が、授業が重なって高額になってしまって、いつもお父さんが「教科書代は出してあげる」って言ってるのを信用して今回は出してもらえないか聞いたらさ、大きなため息ついて乞食扱いだよ?お金はあげる、それくらい自分で払え、父親と母親の板挟みで、信用したら裏切られて甘えようとしたら突き放されて。お金を貰える貰えないよりも、このやりとりが何よりもつらかった。
これが一貫して「子供にお金を遣うのが嫌な親」だったらまだ納得できたのに、妹にはポンポンお金遣ってるんだもん。そのうえ「アンタは金がかかる」と責めることもないし、「誰の金で生活してるんだ」と必要以上の罪悪感を抱かせることもしない、もちろん乞食扱いだって一切しない。ずるいと思わない?私なんか最初から要らなかったんだと思わない?私がいなくて妹だけだったら良かったのにっていつも思うの。
「遊びに行く時は毎度毎度お小遣い付き」「私がお金無くて友達と遊べないって相談した時は、『そういうこと言うと次から誘ってもらえなくなるよ?』って嬉しそうに言いのけたのに?それで私だけサイゼでお水飲んでたのに?」
「ルミネで可愛いブラジャー買ってもらえるんだ」「初めて下着を買った時、友達は生活必需品だからと親にお金を貰っていたから、私もと思って貰えるか聞いてみたら、大きなため息をついて『そんなお金ない』と言い放ったのに?」
「入学祝いのiPad」「私の入学祝いは自転車だったのに?しかも私の学割使えとか意味わかんない自分で買えよ」
「ジルスチュアートの財布」「電子辞書」「全身イーストボーイ」「switchもスマホもiPadも全部全部やり放題」私と妹との扱いの差は枚挙にいとまがない。
私のコンプレックスの根源は「両親に愛されたい」という強い気持ちが満たされないことにある。小学生の頃の私にとって、お母さんはいつも機嫌が悪い人で、父親は機嫌を損ねると大きな体と声と方言で怒鳴り出す人だった。しかもキレるポイントが理解不能。
中学生の私にとって、両親は私を支配しようとする人たちだった。思い通りにならないから縛りを強くして、私はそれが耐えられなくて反発しての繰り返し。スマホを没収するための金庫を買ったのを見た時は、心の底からゾッとした。私を支配することに夢中で、私との戦いに勝たなきゃとムキになってるんだ、もうこの人たちには話なんか通じないんだと恐怖した。当然私の意見なんか聞いてくれなかった。中1の中間テスト期間に、数学のワークが終わっていないからと部屋に軟禁されて、足を組んで座ったお父さんがゲームしながら真後ろで私を監視していたあの日から、私の心はおかしくなった。
高校の時のことはもうあんまり思い出したくないし、脳が思い出さないようにしてるのかもうあんまり覚えてない。ただ、高3の時はお父さんの姿を見るだけで、頭が真っ白になって、全身の震えと涙が止まらなかった。本当。自分の体がいつも通り制御できなかったのは初めてだった。私は過食嘔吐になって1年間食べたものをずっと吐いてたけど、お父さんとお母さんには見て見ぬ振りをされた。
中学の友人にも、高校の友人にも、成人してから「あなたの親はちょっとおかしかったよ」って言われた。おかしいと思ってたのは私だけじゃなかったんだと思ってホッとした(もちろん、普通以上の暮らしをさせて、たくさんお金を出してやってるのに、とかそういう話ではないことをわかって欲しい。ここに書いてあるのは全て、『普通以上の環境と金銭を与えられたのに、どうして娘が心を病んだ出来損ないになってしまったのか』その理由だから)。
もう一つ付け加えると、「誰の金で暮らしてると思ってるんだ」って言われたことがあるって言ったら、それも友達にドン引きされた。昔の話だって言うのもわかるけど、もうとっくに大人だった2人にとっての10年前の発言なんて、覚えてないしそんなつもりもなかったんだろう。だけど、まだ心の柔らかい子供だった私にとっては、一度言われたことでもこうやって心の中心に根を張って残ってる。そんなこと今更言われたってじゃあどうして欲しいんだって言うんだろうな。ここまで読んできてまだそんなことを思うのであれば、この長い訴えはひとつも届いていないんだろうなって私が悲しくなるだけだよ。私はただお父さんとお母さんに私の話を聞いて欲しかっただけだった。
私は両親の機嫌をうかがって怯えながら暮らす方法なんて覚えたくなかった。なのに妹にはそれが許されてる。人生で一番辛かったのは不登校の時、二番目は過食嘔吐に苦しんでた時、三番目が、妹と自分の存在価値の差を見せつけられてる今。過食嘔吐はストレスの発散も兼ねていたけど、今は道具がないからもう吐けなくて、それに過食嘔吐は本当に辛かったからもう二度と吐きたくない。カショオができない今この家のリビングにいると排気ガスみたいな異臭がするようになった。耳鼻科では何の異常もなくて、ああ私はこの家にいちゃいけない存在だからこんな酷い異臭がするんだなと思った。過食嘔吐に戻りたいと思ったのは完治して以来初めてだった。
結局は家族なんて血が繋がってるだけで、個々の自我を持つ他人の集合でしかないのは事実だ。それに加えて昔からお父さんとお母さんは、保護者と子供の関係を一方的な支配による繋がりとみなしている面がかなり強かった。だから思い通りにならない子供を縛るし、対等な話し合いの場に降りるなんてあり得ない。話を聞いて欲しいなら同じ土俵にまで上がってこい、あ、ただしお前は誰の金で生きてるのか考えろよ?って。「親に逆らうな」「馬鹿にしやがって」「口答えするな」、今思うと私はあなたたちの幼少期の復讐の道具にされていただけだった。父親は祖父にファミコンを壊された恨みを私にぶつけて電子機器を隠して回った。母親は私のことを”理不尽な目に遭っても私たち長女だから仕方ないよね“仲間だと思っているけれど、私はあなたの娘であなたから愛情を貰うべき存在だ。私はあなたたちの人間的成長の犠牲になったというのか。
家族の関係が改善したのはお父さんとお母さんが支配を諦めたのと、私がお父さんとお母さんに愛されることを諦めたから。2人はそれぞれの人生をもつ人間だけど、私にとっては替えようのないたった2人の保護者だったのに。私の7年続いた反抗期は全部「私自身を見て」「私の話を聞いて」「私に興味を示して」「私を心配して」「私の存在を許して」「私のそのままを愛してくれ」ってSOSだったのに、私が大人になって全部諦めることで終わりを迎えた。とても虚しい。期待したって意味ないことに気づいたのだってお父さんもお母さんもただの血が繋がってるだけの他人であって、いくら私が望んだって他人を変えることはできないと知っているから。
私はお父さんのことがお母さんのことが大好き。大好きだから私ばっかり期待して、期待以上のものが何も返ってこなくて落ち込んでる。私はお父さんとお母さんのことが大好きなのに、お父さんとお母さんは私が心療内科で何の治療をしているか知ろうとしないし、過食嘔吐を知らぬ存ぜぬする割に嫌味だけは言いにくるし、そもそも私がPMDDで数年間悩み続けてコツコツ治療をしていることさえ1ミリも興味がない。どうにか興味を持ってもらいたい私が1人でペラペラ喋ってるだけ。妹と扱いが違う!と訴えても仕方ないってヘラヘラするだけ。ひとこと、やりすぎだったね、ごめんねって言ってくれるだけで多少は救われるのに。私の気持ちなんて考えたこともないんだろう。
私は妹のことが大好き。一人っ子だったらもっとお金出すことに文句言われなかっただろうなって思うことは何百回もあったけど、それでも妹がいない生活なんて考えられない。たった1人の妹。妹が自分と同じ思いをしないように私なりに頑張ってきた。不登校の妹が「もう死にたい」と泣いた時は抱きしめて2人でわんわん泣いた。そんな悲しいこと言わないでって泣きながら、頭の片隅で私が死にたいって言った時親はなんて言ってたっけって思い出してた。ただただ困惑されて、腫れ物扱いに拍車がかかったのを覚えてる。
私はブラジャー代貰えなかったから妹には入学前に持たせてあげなきゃって思って「買ってあげたら?」って言ったら本当に買うからびっくりした。じゃあ私は?なんで?そんなお金ないって言ってたのに?
自分がして欲しかったことを妹に施すことで救われる自分と、より深く傷つく自分がいて、私は1人でどんどん気持ちを病んでいった。私は失敗作で実験体だと思った。3月からリビングはずっと異臭がしてた。これを書いている今もする。
妹の図々しさとか末っ子振る舞いにはイライラすることがある。それでも私も姉のはしくれだからか、顔を見ると全部許してしまう。私は妹がいなければ良かったなんて思ったことは一度もない。妹がいなかったとしてもその分の愛情が私に注がれることはない。私は可愛い娘じゃないから。いつもいつもいつもいつも「私が要らなかったんだ」と思う。「妹だけでよかったじゃん」って思ってる。
私はもう次に進みたい。もともと持っていたPMDDの治療もかなり良いところまで来ていて、ホルモン由来の不安定からはだいぶ抜け出せた。それでもいつも自分なんか要らないんだと泣いていて、そのきっかけは全部全部家のこと。親のこと妹のこと家族のことでしょっちゅう傷ついて、過食と無茶な生活で自分を痛めつける生活から抜け出したい。お父さんとお母さんと離れてもう何も期待しないで済む距離を保ちたい。許されている妹と許されない自分を比べたくない。家から出て一人暮らしがしたい。ここから一人暮らしについて相談する予定だったけど、親の顔を見るととてもじゃないけど自分の気持ちを話す勇気なんてもうとっくに枯れてしまっていて声が出せなかった。きっと両親は本当に何も考えていないだけなんだと思う。私の腐った心はもう元には戻らないのに。どうせ話したって何も聞いてもらえないのが身に染みてる。どこにも出すあてがなくなった日記の供養でした。私の両親、やっぱりちょっとおかしいよ。
最近なら、みんなのうたの「きみのたこやき」がそれっぽい臭いがする
「およげたいやきくん」「だんご3兄弟」といった親や祖父母世代のメガヒット童謡を研究してSDGs()も加えてみましたわ!
押し付けがましく聞こえないよう作詞作曲は所ジョージです!木梨憲武が歌います!っていう、作為をバチバチに感じて良い
エルシャダイは、あのキャッチーなPR動画は狙いに狙って作られ、ゲーム発売前は異常に盛り上がったが、ゲームはコケた
皆が口を閉ざす映画ファイナルファンタジーとかいろいろある
マジで店やればいいのにと思うが本人は「飲食はしんどいし儲からないからやらない」と言う
結婚する前の同棲期間は、夫の方が仕事から早く帰ってきていたので、夕食はほぼ夫が作ってくれた
わたしも一人暮らしは長く、ほどほどに自炊をしてきていたが、ぜんぜん敵わない
・食材の使い回しがうまく、買ってきた食材をほとんどダメにすることがない
・包丁の使い方がうまいため、ネギの小口切やきゅうりの薄切りが薄くて均質
・手巻き寿司の時は海苔をいちいち炙ってくれるし握り寿司も作る
・尾頭つきの魚を捌いて大葉や大根のつま(桂むきして千切り)を用意し、お店のようにきれいな刺し盛りを作る
・わたしが買ったオーブンレンジの(わたしが一度も使った事のない)オーブン機能で、クリスマスに丸鶏を焼く
・冷凍の良い肉はチルド室で解凍すると良いとか、チリパウダーの使い所とか、食材、調味料の扱いに詳しい
などなど枚挙にいとまがない
今は育休中のわたしがほぼ夕食を担当しているが、彼が私の料理に不満になっていないか心配である
で、料理のうまい男はセックスもうまいらしい、という話をどこかで聞き(たしか広末不倫騒動のときか」、そういえば夫もうまいなあと思ったのだった
こどもが生まれて3ヶ月、もう1年くらいしていないが、そろそろ営みを再開させたいと思う
IT業界は先進的な企業が多いから、思想的にもリベラルで旧態然とした差別はかなり少ない。
などと、シリコンバレーの一部企業を見て幻想を持ってしまった可哀想な人が観測されたので、実際のところを記す。
IT業界の一部では、確かに異常なまでにポリコレ道を邁進する企業がいる。しかしそれをIT業界に当てはめるのは間違いである。
特に日本ではごく普通に性差別が残っており、多くの人がそれを(しぶしぶ)容認している状態である。
見方によっては九州の亭主関白のような地域に根ざした性差別であり、おかしいと思う人もいるものの慣習として残っている。
具体例を挙げよう。日本のIT業界には、女性しか参加できない勉強会が一般的に行われている。
これは「生理が齎すコード品質への影響」というような女性特有のものではなく、
例えば CTF for Girls という、セキュリティ関係のコミュニティは女性限定である。
なお念の為明記しておくが CTF for Boys のような男性限定コミュニティは存在しない。
他にもたくさんある。例えば Java 女子部というコミュニティがあり、ここも女性限定である。
男性がここで Java の勉強をすることは許されない。Java 男子部は存在しない。
他にも枚挙にいとまがなく、性別によって区切られた閉鎖的なコミュニティが一般的に存在するのである。
なおこういう状況を記すと、底の浅いブクマカが「アファーマティブ・アクションだから仕方ない」というブコメをすることが想定されるが、これはアファーマティブ・アクションではない。
アファーマティブ・アクションは格差是正を第一目標に置いた取り組みを指す。例えば大学入学者に黒人が少なく、人種に偏りができるため一時的に黒人を優遇するというような措置だ。
例えばだが、スタンフォード大学が性差別に対するアファーマティブ・アクションとして、スタンフォード女子大学を作るわけではない。
あくまで優遇するという措置であり、女性限定や黒人「限定」の大学を作るわけではないのである。