はてなキーワード: 講談とは
どこかのVtuberの事務所で夜中にリリースがあって、その背景を少し補足したいと思う。
2000年代以降、PCや周辺機器の性能向上によってPCでなんとか楽曲制作が完結できるようになった。
これによって今で言う歌ってみた等の音楽制作、声劇・朗読・講談等人の声にフォーカスしたものも素人がカジュアルに音源化、データ化できるようになった。
無論在野のプロとでも言うべき人もいたし、技術推進などもあったが、基本的に非常に浅い分野のものだけが切り取られ、間違った知識も擦り続けられあまり質の良くないものがほとんどだった。
質が良くない、というのは例えばテレビやラジオ等の放送、あるいはそれに関連する音楽・映像制作業のような基準や規格に準じた一定の品質基準がない事を意味する。
そんな状況なので素人が素人の作品を楽しむような世界がしばらくは軸だった。
ボカロ文化の隆盛等様々な事情によって金を生み出せるハイアマチュア、あるいはプロへと転向していく人が生まれていくのだが、問題はここにまずある。
作編曲でもミキサーや各種音響技師でも実はある程度体系化されているものを突然「売れたのでプロとしてやっていきます」と言い出すとプロとしてやっていく最低限の知識水準の平滑化がなされていない。
得意な分野がやっと一人前や半人前ということで、不得意だったりそもそも認識していない分野はゼロやマイナスである。
「でもオレに依頼を出す人がいるから食っていけるので、オレはプロです」という暴論がここで成立する。
プロという単語には倫理や遵法、技術、知識など様々な分野で一定の水準をイメージする人が多いが、ここで致命的に食い違う事になる。
彼ら彼女らには職業倫理のようなものはないし、プライドを持つような技術や経験がないのでモラルが育たない。
しかし、資格の世界ではないし、技術競争の分野でもないエンタメでは面白ければ正義で、人気があれば強者である。なぜなら代理店の仕掛けに乗れるからである。
加えて令和の世の中になるとできていない人間相手にそれを正面から指摘等しないで、自然的に疎を形成する傾向がある為、依頼をしたい側が困る事になる。
依頼する側がまずド素人で、依頼相手に選ぶ人間がこれらの文脈でのプロかどうか判断する審美能力がない。困りましたね。
事業として現実に仕事をしている世界では、間に制作会社や代理店が入って然るべく手配されるので依頼者が素人でも日本では許される傾向がある。
…あるのだが、これら歌ってみただとかVtuberだとか呼ばれる実質的に素人の人々はそういうものの必要性をあまり認識されない。
ANYCOLOR社がせめて上場企業でなければもっと矮小化もできたのだが、実質的には素人仕事で上場している事を今後問われる形になってしまった、という大人の社会的な話が本格化してしまうのが残念だ。
声優さんもスタジオでのセリフ収録や歌収録でも質の低下著しいが、彼らは後ろがプロだ。事務所が始末をつけてくれる。
Vtuberのようなライバー達、中の人が素人でいることを続けるのなら、事務所がプロにならないといけないのではないだろうか。
明治時代に新撰組が庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌の記事だとか読み物だとかを抜粋していく。
『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄と明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士 近藤勇」とある。
近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。
同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。
このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。
まずは近藤勇について。
近藤勇は武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる
新徴組と間違えられとるやんけ!
新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。
土方歳三も紹介されている。
土方歳三は幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽の戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。
新撰組について何も触れられてねえ!
とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。
『汗血千里駒』は坂本龍馬を主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬の暗殺犯として近藤勇が登場する。
縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと
近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品に踏襲されていったようだ。
当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん
時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。
偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん
お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。
こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。
近藤勇の話
江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。
武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護の干将莫耶とは成りたりけり。
めっちゃ褒めるやん。
土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。
国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。
コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。
著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。
是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三のことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。
として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三の少年時代」が掲載されている。
婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇の知名度は高かったのだろうか。
花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。
かっこいい。
松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組を講談の主人公とした最初期の人物だったという。
巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体に成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇と海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱。
本編では、坂本龍馬を暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸で近藤勇と坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。
『少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌に掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。
人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷、大久保、坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中、龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。
として近藤勇と土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。
前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司や永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組十勇士伝』には登場する。
ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。
芹沢鴨の暗殺、山南敬助の切腹、伊東甲子太郎との敵対、池田屋事件などのエピソードはある。
また、こちらでは龍馬暗殺が近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。
京都見廻組の佐々木只三郎らが龍馬を暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。
京都の観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組に言及がある。
節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇、土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない
当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派の武装集団なので新撰組とは正反対の存在である。
単なる勘違いなのか、それとも庶民のあいだでは混同されていたのか。
松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。
こちらには沖田総司・永倉新八・斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、
中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした
とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。
同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『新選組実戦史』(デジタルコレクションには1975年の復刊版しかない)にも同様の記述があり、そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。
ちなみに『新選組実戦史』は吉島力『新選組顛末記』の元ネタで、『新選組顛末記』は子母澤寛『新選組始末記』の元ネタらしい。
・明治の始めにはまず「近藤勇」個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。
・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬を暗殺した男」として近藤も知名度を上げた。
・近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。
・近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。
・しかしエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。
・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇を主人公とした講談が演じられるようになった。
BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。
出自は不詳である。尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。
前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれ さのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%AB
1655年
死没 延宝7年11月3日
藩 鳥取藩
妻 小紫
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平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士である[1][2][3][4][5][6]。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。
明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。
因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる[7]。
1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。
なお理解はしても言いぶんが通るとは言っていない。
少なくとも問題あり側としては前提条件としてそう考えているのではないだろうか。
アイヌ民族について、講談家かなんかが謎かけを披露して大問題になったケースだ。
アイヌ民族とかけて、四足歩行動物がそこにいたことに気付いた言い方を絡めてしまった。
ネットの逆張り芸人にも発言を擁護する意見が見られないほどの非難一色。
でもこれ、四足歩行動物がそこにいたことに気付いた言い方そのものは、もちろん放送禁止でも何でもない。
ただただ、
この2点がともなって、満場一致の差別発言だったということになる。
ここで大事なのは、単体では問題にならない表現も文脈次第では擁護不能の差別表現になり得るという点だ。
若干強引に要約すると、
ということになるが、これをたわわの件に当てはめてみよう。
とやや強引に問題点を補強せざるをえないのだが、
単体では問題にならない表現も文脈次第では擁護不能の差別表現になり得ることを踏まえると、
問題視しない方がおかしいという意見も理解できると思えないでもない。
たわわどころか宇崎ちゃんも含めて、この手の案件のすべての根底にある、
女性側の"被差別意識"のようなものの基盤が見えてくるような気がしないだろうか。
という点で相似形にあたるのではないだろうか。
それにしても無理筋だと思っていることはくれぐれも誤解しないでもらいたい。
だが、差別問題として捉えていればこそ引けないという点はわからなくもない。
広告がダメとか媒体がダメとか理念がダメとか主張は様々あったが、
特定の条件下で不適切とされるケースがあることもあることは確かで、
広告や、媒体や、理念が不適切だという意見を個別撃破したところですべての言いぶんを否定できるものでもない。
問題なし側というか、問題にされても困るよ側としても同様のことが言える。
宇崎ちゃんにしろたわわにしろ、漫画の内容にまで踏み込む人が少ないことの説明が付かない。
さすがにド直球の表現規制にあたることがわかっているのか、
大部分はオタク文化の中でやってる分には問題視しないという暗黙の了解を持っているようだけど、
コミュニティの外に持ち出してくるなというのはまさに差別によくある言いようだ。
オタクこそが現在進行形で(しばしば認識すらされずに)差別されているという意識が少なからずあるので
やはり引くわけにはいかないのだ。
ともかく、相手側にも一定の理があるという理解は必要だと思うんだ。
意見が合わないことは致し方ないにしても、お互いの理解が一分でも進むように議論を進めていければいいなと思っている。
いろいろつっこみどころもあると思うけど、面倒になったのでここまで。
2006年に死去した六代目神田伯龍の遺志で「伯龍及び、伯の字のつく名は、止め名とされている。」という事実を無視している事にならないか?と考える。
この事実を踏まえるならば、伯山は自分の弟子に対しては「山」の字の付く名を与える事は出来ても「伯」の字の付く名は一切与えてはならないと解釈するしかない筈。
本人は直接この事に対して見解を述べているわけでは無いが、類似の「7代目圓生襲名問題」等の言及を見るに、「止め名」に対しては批判的なスタンスを取っている。
(代々受け継がれたてきた名跡を当代の勝手な都合で「死蔵」してしまう事は演芸界にとって良くない事...etc)よって、おそらくは「講談師としての伯龍先生は尊重するけど
「止め名」という処しには講談界の行く末に際し責任を持つ立場にある者としては賛同しかねる。」というスタンスだと考えられる。ゆくゆくはこの件について一言及あるやも
知れない注目している次第である。