はてなキーワード: 怪奇とは
中国の船は既に通過してるぞ。
なんか便宜船籍の話してるけど、船主しか見ないので便宜船籍ベースでの区別なんかしとらんし、そもそも日本が使う船で米国船籍の船なんかある?
(中東諸国の大使との会合を寝不足を理由にキャンセルとか論外。)
湾岸諸国はたしかにイランと極めて敵対的な関係にはあるんだけど、これまでもイランとの国交を妨害するようなことはしてこなかった。
東アジア人やトランプの単純な敵味方思考と違ってあの複雑怪奇な中東は複雑怪奇なメカニズムで動くので、「イランと交渉すると他の湾岸諸国とは取引できなくなる」なんてことはない。(米の歴代政権はそこに付け込んでイスラエルとイスラム諸国を国交正常化させていってたのだが、今後はどうなることやら)
欧州や他の中東諸国と連携して……というのは、ホルムズ海峡経由への依存度が違い過ぎて、日本は地獄を見る。
欧州や多くの湾岸諸国はホルムズ海峡が封鎖されたままでも致命傷にはならないから、スピード感や譲歩のラインが全然違ってくる。
ホルムズ海峡経由の原油は世界のわずか20%に過ぎず、ほとんどの国にとってはガソリン価格が上がって大変程度の話に過ぎない。米国が封鎖解除にあまり熱心でないのもそのため。
「蝋人形館の殺人」とか「夜歩く」とか読んだけどあんまおもんなかった。
こんな江戸川乱歩作品に登場してそうな手品トリック使って面白いんか…?
調べたらなんか「ユダの窓」とか「皇帝をかぎ煙草入れ」が評価高いらしいが評価高い=面白いとは限らないんだよな…。
トリック解説が無駄に面倒くさんで何言ってるんだか理解できないし。「あっ、そういうことか」ってはたと膝を打つような単純さが欲しい。
そもそもトリック解説も微妙にふわふわしてて「こんなんホントに実践可能なの?」って思ってしまう。
もしかしたら、ホラー描写の雰囲気良くて、解決編読んでもガッカリしないミステリ作品を期待してカーを読むのは間違いなのか?
そうでないなら何個か挙げて欲しい。
この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。
私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。
これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。
過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。
第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。
まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。
大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。
内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。
それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。
元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。
第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。
1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。
従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。
しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。
政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。
しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。
本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。
その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。
議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。
加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。
五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。
1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。
1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。
こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。
日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。
当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、ときの平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。
戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。
内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。
さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。
政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。
政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持と責任感を持たなければなりません。
自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。
政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒すには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。
国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。
使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論を煽り、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。
安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。
これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭な民主主義が何よりも大切です。
ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。
だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。
君の言葉からは、真理への渇望ではなく、計算機資源への卑近な最適化への執着しか感じられない。
「GPSが動くから時空は実在する」?笑わせないでくれたまえ。その論理は「デスクトップのアイコンをクリックしたらファイルが開くから、コンピュータの中には小さな書類フォルダーが物理的に実在している」と主張するのと同じレベルのカテゴリー・ミステイクだ。
GPSが機能するのは、一般相対論が「有効場の理論(Effective Field Theory)」として、低エネルギー領域における素晴らしい「近似」だからに他ならない。
僕が言っているのは、その近似が破綻する領域、すなわちプランクスケールにおける存在論の話だ。
君はUIの操作性の良さを、OSのソースコードの正当性と履き違えている。
時空は便利なGUIだと言ったはずだ。GPSはそのGUIが正常に動作している証拠であって、背後のコードが幾何学であることを証明するものではない。
むしろ、ブラックホールの情報パラドックスや特異点において、その「時空」というGUIがクラッシュするという事実こそが、時空が基本的な実在ではないことの決定的な証拠ではないか。
それは量子系が古典的な測定器とエンタングルした結果、波動関数が特定の固有状態に射影されるプロセスだ。
つまり観測とは、無限次元のヒルベルト空間から、君の貧弱な脳が理解できる低次元部分空間への情報の劣化コピーを作る作業だ。
君が言う「検出器のクリック」とは、導来圏の対象が持つコホモロジー的な情報が、実験室という局所的な座標近傍において「事象」として解釈されただけの影だ。
影を見て「実体がある」と叫ぶのは勝手だが、それは洞窟の住人の論理だ。
君は「言い換え」と「否定」を混同していると言うが、それは違う。
古典的な多様体論では特異点で物理が破綻するが、圏論的記述(例えば非可換幾何や行列模型)では特異点は単なる非可換な点の集積として滑らかに記述される。記述能力に差があるのだ。
これは「言い換え」ではない。「上位互換」だ。記述不可能な領域を記述できる言語体系こそが、より根源的な実在に近いと考えるのは科学の常道ではないか。
「実験で区別できるか」と君は問うが、君の貧弱な加速器がプランクエネルギーに到達できないからといって、理論の真偽が保留されるわけではない。
超弦理論が予言する「沼地(Swampland)」条件、すなわち一見整合的に見える有効場の理論のうち、量子重力と整合しないものが排除されるという事実は、すでに現代物理学に巨大な制約を与えている。
これが予測でなくて何だ?君は「新しい粒子が見つかるか」といった三次元的な興奮を求めているようだが、真の予測とは「どの理論が存在を許されるか」というメタレベルの選別だ。
壁越え公式(Wall-crossing formula)が数え上げ不変量の変化を正確に予言し、それが物理的なBPS状態の生成消滅と一致すること、これこそが「実験」だ。
数学的整合性という実験場において、時空モデルは敗北し、圏論モデルが勝利している。
それを「ポエム」と呼ぶなら呼べばいい。
だが、アインシュタイン方程式が特異点で無限大を吐き出して沈黙するとき、その先を語れるのは僕の言う「ポエム」だけだ。
君がGPSの精度に満足してカーナビを眺めている間、我々はホログラフィー原理を用いて、ブラックホールのエントロピーを数え上げている。
エネルギー保存則は時間並進対称性という「帳簿の整合性」から導かれるネーターの定理だ。
物理量とは本質的に保存量、つまり会計上の数字だ。宇宙は巨大な分散台帳であり、物理法則はその監査プログラムに過ぎない。
君が言う「物理的実在」こそが、脳が作り出した幻覚、すなわちユーザーイリュージョンなのだ。
最後に言っておく。観測と予測がすべてだと言うなら、君はプトレマイオスの天動説も否定できないはずだ。なぜなら周転円を十分に増やせば、天動説は惑星の軌道を完璧に「予測」し、観測と一致するからだ。
しかし我々が地動説(ニュートン力学、そして一般相対論)を選ぶのはなぜか?
それは「構造として美しいから」であり、より少ない原理でより多くを説明できるからだ。
時空という複雑怪奇な周転円を捨て、圏論という太陽を中心に見据えたとき、宇宙のすべての相互作用は、極めてシンプルな図式の可換性として記述される。
これを「解釈の違い」と片付けるのは、知性の敗北だ。
結論から言うと、高市早苗の若者支持は若者の右傾化でもなんでもなく、「メンパ」がいいからではないか?
昨今話題の「メンパ」は、「コスパ」、「タイパ」に次ぐバズワードで、要するに情報過多の世の中でいろんなことを気にする決めるストレスをなるべく避けようという指向のこと。
自分のペースで進められるとか、周りを気にしなくていいとか、自分で決めなくていいとか、そういうストレスフリーな方がいいよねという価値観。
たとえば、ぬいぐるみと出かけて写真を撮る「ぬい活」は自分が写真に映らないので、映えや盛れを気にしなくていいので、メンパがいいと言うわけだ。
さて、高市早苗だ。高市早苗は、イデオロギー的に相入れない人や、中国を大事にしたいアジア平和主義の方、円安は困るぜという経済感度の高い方など、首相のさまざまな言動にハラハラできる高い教養を持つ人々を除き、マクロな政治や経済にさほど興味のない人たちには、シンプルにメンパがよいと感じられるだろう。
政治というのは大変な生活の中でさらに判断コストを無駄に消費しにくる邪魔な物で、高市さんは比較的ストレスがかからない。と感じているのではないか。
まず、高市早苗は女性首相だ。女性首相はメンパがいい。男性が上にいるのはなんとなく悪で、女性が上にいるのは基本的に善だ。そういう雰囲気の中で育ってきている。女が国のトップでいることはそれだけで気分が良く、誇り高く、手放しで褒められる、愛でられる。サナ活が若者で流行っているというのはさすがに眉唾だが、高市早苗を好きであることはメンパがいい。夫婦別姓を推進せぬ女性は女性ではないみたいな複雑怪奇な弁論は、差別的で心を逆立て、自分を女性差別的なポジションに置く感じがしてメンパが悪い主張だ。
そして、高市早苗は、決めてくれている「感じ」がする。これは非常にメンパがいい。古今東西、若者にとって一番ムカつくのは決めない上司だろう。若い人含めて生活は苦しいだろうが、消費減税で踊るほどアホではない。一番キツいのは、生活が苦しいということより、メンパが悪いこと。「この国って進んでんの?」「このまま行って豊かになんの?」「てかなんの方針もなさそうだけど大丈夫そ?」という何も決まってない状態の中で頑張れって言われること。ネガティヴケイパビリティという、白黒つかないこと、わからないことへの耐性を鍛えようみたいな言説があるが、そんなの日常生活で十分で、政治は決めてくれよと思うだろう。政治のことなんて考えたくないんだから。高市さんが右か左かとかぶっちゃけどうでもよい。なんかジジイどもが止めてた、みんなが期待してたガソリン?とか、壁?とかもどんどん決まるし、なんか外国人には厳しくする方向なんでしょ?という、推進力と国の方向性が感じられる。一貫性もある気がする。イデオロギーより、他党のいいアイデアも取り入れて国を進めている感じがする。どっちでもいいんだけど「こっちだ!」って言ってくれたら、よほどのことがない限りその中で頑張るよ、みんな。その方が楽だから。メンパがいいんだから。
日本はさまざまなことをあまり決めず、方針も示されず(実際は決まってて周知されてないだけかもだが)、のらりくらりすることで逆に国際的に見ても珍しく、社会が分断しきってないところは素晴らしいとは思う。でも、中道が初手で熟議とか言い出した時は、時代に逆行しすぎててさすがに引いてしまった。みんな高市早苗のスピード感(実際スピードがあるかは知らないが、感はある)を気に入っており、何かが次々決まってる感を気に入っているのに。独裁だとか言っても響かんだろう。俺たちはこういう合意形成の形を提案し、そうすればもっと早く正しく進むって言ってほしかった。残念。
チームみらいは、若い人は好きだろう。非常にプラグマティックだから。政権をとらずとも、システム変化を起こしてくれる。言うならやれよ、早くやれ、失敗したら謝って修正策を出してまた走れ。社会に出れば当たり前のこと。なぜ政治だけそうしないのか?って思うだろう。普通に。とにかく推進してる状態はメンパがいい。うだうだ言ったり、文句言ってなんもしない奴や、自己矛盾してる奴は、モヤモヤするのでメンパが悪い。
統一教会なんかもどうでもいい。というか、創価学会はなんでいいねんというツッコミの先がいまだに誰も綺麗に答えてくれてない感じもする。裏金とかももういいから、反省して頑張れって感じなんじゃない?落ちる人は落ちるでしょ。それよりさ、明確で、若い人が政治に託せるような明確でわかりやすい方向性をちょうだいよ。裏金とか不記載とか起きない仕組みを、システムをもっと考えてよ。言葉で非難するのもいいけどさ、もう2度と起きない新しい仕組みを突きつけるのが一番の非難だろ。頭いいんだろ?政治家なんだし。
消費減税ってその場しのぎっぽいって気づいてるよ。若い人も。その先どうすんのかがないとメンパ悪いのよ。国民民主もどうした?って感じだ。前回はこれやったら手取りが増えるというすぐできるし、納得感ある解決策のワンイシューだったし、20-30代のそこそこサラリーマンの代弁感があってメンパが良かったのに。自分たちの政策通すより、キャスティングボートにこだわって、逆に政局を感じてしまった。間違ってはないが正しすぎたし、高市人気がありすぎる中で、今みたいに解散があればただの何番手かの野党になっちゃう。中高所得サラリーマンを敵に回すような所得制限とかも言い始めるし、手放しに働く若者の見方じゃない感じで、メンパが著しく悪化した。
高市早苗に騙されていると唾を飛ばす人もいるだろう。おとといきやがれだ。騙してくれて結構なのだ。こちらは考えたくないのだから、やるなら気持ちよく騙してくれという感じだ。ストレスフリーでメンタルにこない、政治を望むのだ。
頼むぞ高市早苗。大勝してくれ。なにも考えないようにさせてくれ。消費税減らさなくてもいいから、こうしたらこうなるというみんながなんとなく納得できる経済支援策や未来を見据えた中長期の連続的なロードマップを見せてくれ。それさえあれば頑張れるから。今後、政治でメンパが悪化しないように、できれば団体献金はなくして、政治資金報告は全てオンラインで全額公開されるようにしてくれ。記載漏れが物理的に起きない仕組みを整えてくれ。政治家にも一般の人と同じく普通に税務調査が入るようにして、不記載の追徴課税をどかっととるようにしてくれ。とにかく当たり前なことをやってストレスを減らしてくれ。そんなこと早苗はかかげてないが、それでも早苗が勝つのが、現状一番メンパがいいんだから、仕方ない。
結論から言うと、高市早苗の若者支持は若者の右傾化でもなんでもなく、メンパがいいからではないか?
メンパは昨今話題のコスパ、タイパに次ぐバズワードで、要するに情報過多でいろんなことを気にする決めるストレスをなるべく避けようという指向のこと。
自分のペースでやれるとか、周りを気にしなくていいとか、自分で決めなくていいとか、そういうストレスフリーな方がいいよねという価値観。
たとえば、ぬいぐるみと出かけて写真を撮る「ぬい活」は自分が写真に映らないので、映えや盛れを気にしなくていいので、メンパがいいと言うわけだ。
さて、高市早苗だ。高市早苗は、イデオロギー的に相入れない人や、中国を大事にしたいアジア平和主義の方、円安は困るぜという経済感度の高い方など、さまざまな言動にハラハラできてしまう高い教養を持つ人々を除き、マクロな政治や経済にさほど興味のなあ人たちにはシンプルにメンパがよく感じられるだろう。
まず、高市早苗は女性首相だ。男性が上にいるのはなんとなく悪で、女性が上にいるのは基本的に善だ。そういう雰囲気の中で育ってきている。女が国のトップでいることはそれだけで気分が良く、誇り高く、手放しで褒められるし、愛でられる。サナ活が若者で流行っているはさすがに眉唾だが、高市早苗を好きであることはメンパがいい。夫婦別姓を推進せぬ女性は女性ではないみたいな複雑怪奇な弁論は、差別的で心を逆立て、女性差別的なポジションに自分を置く感じがしてメンパが悪い。
そして、高市早苗は、決めてくれている「感じ」がする。これは非常にメンパがいい。昔から若者にとって一番ムカつくのは決めない上司だろう。若い人含めて生活は苦しいだろうが、アホではない。一番精神的にキツいのは、「この国って進んでんの?」「このまま行って豊かになんの?」「てかなんの方針もなさそうだけど大丈夫そ?」という何も決まってない状態。ネガティヴケイパビリティという、白黒つかないこと、わからないことへの耐性を鍛えようみたいな言説があるが、そんなの日常生活で十分で、政治は決めてくれよと思うだろう。政治のことなんて考えたくないんだから。高市さんが右か左かとかぶっちゃけどうでもよいが、なんかジジイどもが止めてた、みんなが期待してたガソリン?とか、壁?とかもどんどん決まるし、なんか外国人には厳しくする方向なんでしょ?という、推進力と国の方向性が感じられる。一貫性もある気がする。イデオロギーより、他党のいいアイデアも取り入れて国を進めている感じがする。どっちでもいいんだけど「こっちだ!」って言ってくれたら、よほどのことがない限りその中で頑張るよみんな。その方が楽だから。メンパがいいんだから。
日本はさまざまなことをあまり決めず、方針も示されず(実際は決まってて周知されてないだけかもだが)、のらりくらりすることで逆に国際的に見ても珍しく、社会が分断しきってないところは素晴らしいとは思う。でも、中道が初手で熟議とか言い出した時は、時代に逆行しすぎててさすがに引いてしまった。みんな高市早苗のスピード感(実際スピードがあるかは知らないが、感はある)を気に入っており、何かが次々決まってる感を気に入っているのに。独裁だとか言っても響かんだろう。俺たちはこういう合意形成の形を提案し、そうすればもっと早く正しく進むって言ってほしかった。
チームみらいは、若い人は好きだろう。非常にプラグマティックだから。政権をとらずとも、システム変化を起こしてくれる。言うならやれよ、早くやれ、失敗したら謝って修正策を出してまた走れ。社会に出れば当たり前のこと。なぜ政治だけそうしないのか?って思うだろう。普通に。とにかく推進してる状態はメンパがいい。うだうだ言ったり、文句言ってなんもしない奴や、自己矛盾してる奴は、モヤモヤするのでメンパが悪い。
統一教会とかどうでもいい。というか、創価学会はなんでいいねんで自分の中で意味がわからなくなるし、そこ知るのはさすがにめんどい。裏金とかももういいから、反省して頑張れって感じなんじゃない?落ちる人は落ちるでしょ。それよりさ、明確で、若い人が政治に託せるような明確でわかりやすい方向性をちょうだいよ。裏金とか不記載とか起きない仕組みを、システムをもっと考えてよ。言葉で非難するのもいいけどさ、もう2度と起きない新しい仕組みを突きつけるのが一番の非難だろ。頭いいんだろ?政治家なんだし。
消費減税ってその場しのぎっぽいって気づいてるよ。若い人も。その先どうすんのかがないとメンパ悪いのよ。国民民主もどうした?って感じだ。前回はこれやったら手取りが増えるというすぐできるし、納得感ある解決策のワンイシューだったし、20-30代のそこそこサラリーマンの代弁感があってメンパが良かったのに。自分たちの政策通すより、キャスティングボートにこだわって、逆に政局を感じてしまった。間違ってはないが正しすぎたし、高市人気がありすぎる中で、今みたいに解散があればただの何番手かの野党になっちゃう。中高所得サラリーマンを敵に回すような所得制限とかも言い始めるし、手放しに働く若者の見方じゃない感じで、メンパが著しく悪化した。
高市早苗に騙されていると唾を飛ばす人もいるだろう。おとといきやがれだ。騙してくれて結構なのだ。こちらは考えたくないのだから、やるなら気持ちよく騙してくれという感じだ。ストレスフリーでメンタルにこない、政治を望むのだ。
頼むぞ高市早苗。大勝してくれ。消費税減らさなくてもいいから、こうしたらこうなるというみんながなんとなく納得できる経済支援策や未来を見据えた中長期の連続的なロードマップを見せてくれ。それさえあれば頑張れるから。今後、政治でメンパが悪化しないように、できれば団体献金はなくして、政治資金報告は全てオンラインで全額公開されるようにしてくれ。記載漏れが物理的に起きない仕組みを整えてくれ。政治家にも一般の人と同じく普通に税務調査が入るようにして、不記載の追徴課税をどかっととるようにしてくれ。そんなこと早苗はかかげてないが、それでも早苗が勝つのが一番メンパがいいんだから、仕方ない。
これって定番のネタなんだな。AIに聞いたらペラペラ喋ってくれた
広域暴徒化を伴う重症感染症(通称:ゾンビパンデミック)が発生した際、各施設が生存に適しているかを、2026年現在のインフラ状況に基づき評します。
フン、たかが寿司だと侮るな。これは千葉県……いや、かつての安房・上総・下総の民が、冠婚葬祭という「戦場」を生き抜くために編み出した、究極の糧食なのだ。
見ろ、この切り口を! ただの海苔巻きではない。金太郎飴のように、どこを切っても「花」や「文字」、あるいは「動物」の図柄が現れる。これはもはや、精密誘導ミサイルの回路図にも匹敵する設計図がなければ成し得ん技だ。 山茶花、牡丹、あるいは祝賀の文字……。これらを一巻のなかに収めるその構成力。連邦のモビルスーツが逆立ちしたって、これほど美しい断面は作れまい!
房総は豊かな土地だ。米は当然、千葉の広大な大地が育んだ一級品。そして彩りを添えるのは、地元の山海の幸だ。
厚焼き玉子: 海苔の代わりに外側を包むこともある。この黄金の装甲はどうだ!まるで百式のようではないか(あちらはまだ先の話だがな!)。
桜でんぶや野沢菜: 桃色と緑。このコントラストが、見る者の戦意……いや、食欲を削ぐどころか、極限まで高めるのだ!
貴様、なぜこれが「祭りずし」と呼ばれているか考えたことはあるか? かつて、房総の農村部では、冠婚葬祭や地域の集まりこそが最大の「会戦」だった。限られた物資の中で、いかに客人を驚かせ、もてなすか。その精神が、この複雑怪奇な文様を生み出したのだ。
これだ。これこそが指揮官の視点だ。大皿に盛られた太巻きが、卓上という戦場の中心に鎮座する。その存在感だけで、宴の勝利は約束されたも同然。 いいか、ただ腹を満たすだけなら、握り飯で十分だ。だが、この太巻きは「心」を揺さぶる。敵(客人)の度肝を抜き、味方の士気を鼓舞する。これぞ、究極の心理戦だとは思わんか!
この太巻きを作る工程を私は見たが……驚愕した。 まず、パーツを作る。小さな細巻きをいくつも作り、それを大きな海苔の上に配置していく。 「そこだ! 桜でんぶのパーツを右に3ミリ!」 「かんぴょうの軸をセンターに合わせろ!」 まさに、ドムを12機、正確にフォーメーションに配置するような精密作業だ。
もし配置を1ミリでも誤れば、切り出した時に形が崩れる。それはすなわち、実戦における機体バランスの崩壊を意味する。房総の母たちは、計算尺もコンピュータも使わずに、その指先の感覚だけでこの完璧なフォーメーションを完成させるのだ。 「私を誰だと思っている! 12機のドムを……いや、12切れの太巻きを、たった3分で並べてみせろ!」
味はどうかって? 聞くまでもない。 甘めの酢飯と、でんぶの甘み、そして香ばしい海苔の風味が口の中で爆発する。まさに「サイド6」の平穏と「ソロモン」の激動が共存するような、奥深い味わいだ。
現代の若造どもは、手軽なファストフードばかりに現(うつつ)を抜かしおって。この太巻き祭りずしには、房総の歴史、伝統、そして「もてなし」という名の重圧を跳ね除けてきた意地が詰まっているのだ。
……フン、喋りすぎた。喉が渇いたな。 おい、誰か! この私に、その「山茶花」の柄の太巻きを持ってこい! それと、醤油だ。醤油は野田(千葉)のものに限るぞ。
「見ろ! 断面が花のようだ! 素晴らしい……、全機、突撃(実食)せよ!」
いかがだ。
レッツゴー怪奇組
俺は基本的には白石晃士が好きなんだけど嫌いになってしまいそうだ53点。
もうちょっとフェアにつけるなら前半~中盤81点。後半25点。
とあるオカルト編集者が右目が溶けて失踪。その後を継いだ赤楚と仕事を頼まれたライターの菅野美穂は編集者が調べていた資料を基に調査を開始するがどれもバラバラの映像で埒が明かないと思いきや、徐々に共通点が明らかになっていき……
というお話。
原作の小説?は増田でも議論が沸騰した話題作らしいんだけど俺は未読。140文字以上の文章は読めないんだ。勘弁してけろ。
その上で、でも確実に言えるのはこれは白石晃士の映画だろうということだ。前半から後半にかけての調査パートは白石映画のいいところが存分に出ているし、終盤の遭遇パートは白石映画のうんちっちなところというか、混ぜるべきではない白石エッセンスが出すぎている。
まず調査パートでは失踪した編集者が集めた様々な映像を2人が見ていき、たまに聞き取りに行ったり幕間で不思議現象が起きたりという「ほんとにあった!呪いのビデオ」形式で進められる。その映像も一般人が撮影したもの、テレビのバラエティ番組の一部、ニコ生配信、まんが日本昔話風のアニメ等々バラエティに富んでおり、普通に怖いもの、気付くと怖いもの、なんかよくわからんけど不気味なものと味わいも豊か。
まぁ、そういう怪奇映像の積み上げが本当に映画なのかという話もなきにしもあらずんば虎児を得ずという話もあるが白石映画の中ではそういう映像一つ一つにちゃんと金がかかっていて"ガチ"感が出ていて非常によかった。やっぱ素人投稿映像"風"でも映像の安物感って出るんだよな。今作はどれもちゃんと高級で見ていてストレスが少ない。
そしてその映像をよく見ていくとそれには共通点がありとなっていくミステリパートも見ていてワクワクさせられる。
しかーし。
その後、後半になると原因である隕石を破壊するというミッションが始まり、菅野美穂が発狂して祠を物理的にぶっ壊したり、怪異?幽霊?を車で轢き飛ばしたり、隕石からウゾウゾしたCG丸出しの目玉の大群がとびかかってきたり、大ボスがもう顔面触手まみれやwwwみたいなCGだったり、あ~ぁ白石映画始まったよという感じになってしまう。
俺は白石映画が嫌いではない。ほぼ全作品見てるし、カルトはマイベストホラー映画10作答えるまで帰れま10をやったら確実に入るくらいには見てる。あれもウゾウゾした目玉みたいな奴とか触手とか出てくるけど別にそれはそれでいい。でもこの作品にそれ入れるのは違うやん。
映画的なダイナミズムが必要という判断かもしれんけど、バカみたいな「どう見ても作りもので~すwww」っていうバカギミックで落とすタイプの作品じゃないだろコレ。原作読んでないから知らんけど、もっとじわっと怖い、不気味に怖い、終わった後なんかモヤモヤする!って感じの怖さの作品であるべきだっただろ。
ただ菅野美穂も赤楚くんも演技めっちゃ頑張っててよかったしちゃんと金かかった怪奇映像(終盤のクソCGは除く)はやっぱり見応えがあって非常によかった。ドールハウスでも思ったけど、真面目に金かけて恥ずかしがらずに真っ当にホラー映画撮ればやっぱホラーって面白いんだよ。最後に"白石映画"に逃げなければもっとよかった。
まぁアレを見に行ってる人もいるんだろうから何とも言えんけど、後半トンデモ白石映画になることをあらかじめ承知してみる分にはめちゃくちゃオススメ。特に謎の映像いっぱい見るパートは本当に怖くて楽しい。
https://x.com/i/status/1983745679433269398
このCMへ対して一部のユーザーが「M.U.G.E.Nじゃねぇかw」の様なコメントを付けている。
この「M.U.G.E.N」こそが格ゲー界の公然の秘密である。
M.U.G.E.Nとは、1999年にElecbyte社が公開した、ユーザー拡張型の2D格闘ゲームエンジンだ。「キャラクターやステージを自由に自作して追加できる」という画期的な仕様により、本来なら交わるはずのない別作品のキャラ同士を戦わせる「ドリームマッチ」を実現できるツールとして、2000年代のネットの片隅で熱狂的な支持を集めた。
だが、このエンジンには致命的な「暗部」がある。
全盛期に最も広く利用された「WinMugen」と呼ばれるバージョンは、実は正規にリリースされたソフトウェアではない。
開発元のElecbyte社が一度消息を絶つ直前に、本来は非公開だった次期バージョン(Mugen 1.0)のベータ版が何者かによってリークされ、それがアングラサイト経由で広まったものなのだ。つまり、WinMugenを使っている時点で、それは「流出した未完成の開発データ」を勝手に使っている状態に他ならなかった。
正直に申し上げて、M.U.G.E.Nというコミュニティは、このエンジンの出自も含め、著作権的に見れば限りなく真っ黒に近いグレーだ。
「キャラクターやステージを自由に自作して追加できる」という画期的な仕様は、実質的に「既存の商用格闘ゲームのキャラクターをファンメイドで移植できる」環境を意味していた。
つまり、スプライトのぶっこ抜きである。この事実は否定しようがない。
だからこそ、格闘ゲームのプロプレイヤーや開発者、そして我々のようなコアな格ゲーマーにとって、M.U.G.E.Nは長らく「名前を言ってはいけないあの人」のような存在だった。
みんな知っている。家でこっそり触ったこともある。でも、表立って「M.U.G.E.Nで遊んでいます」とは口が裂けても言えない。そういう「公然の秘密」として、格闘ゲーム史の影に存在し続けてきた。
けれど、あえて今、その「技術的・文化的な功績」についてだけは語らせてほしい。
法的な問題を一旦脇に置いて(肯定するわけではないが)、なぜあそこにあれほどの熱量が生まれたのかを言語化するならば、「あれはプログラムによる同人活動だったから」という結論に行き着く。「絵」ではなく「挙動」を模写するのだ。
同人作家が、好きな漫画のキャラクターを愛ゆえに模写し、自分の手で二次創作漫画、そこから更に発展してBL同人などを描くようにだ。
M.U.G.E.N職人と呼ばれた人たちは、好きな格闘ゲームのキャラクターを愛ゆえに解析し、自分の手で動かそうとしていた。
彼らにとって、リュウの波動拳やテリーのパワーウェイブのドット絵は、単なる画像素材ではない。「完成された美」であり「憧れ」そのものだ。
しかし、画像をM.U.G.E.Nに持ってきただけでは、それは動かない。
憧れのあの技を放つためには、中身のエンジン……つまりプログラムを、自分たちの手で一から組み上げる必要があった。
彼らがやっていたのは、MS-DOS時代から続く古臭い仕様のスクリプト言語を駆使して、最新ゲームの挙動を「コードで模写する」という作業だった。
これは、プログラマーやゲームデザイナーにとっての一種の「写経」であり、エンジニアリングの側面から愛を表現する手段だったのだと思う。
さらに特筆すべきは、単なる模倣に留まらない「実験場」としての側面だ。
M.U.G.E.N界隈には、既存の格闘ゲームの枠組みには収まりきらないアイデアを形にするクリエイターたちもいた。
ドット絵からアニメーションまで全てを一から描き起こした「完全新規オリジナルキャラクター」の制作。あるいは、商業ゲームならバランス崩壊として即座にボツになるような、複雑怪奇かつ斬新なシステムの実装。
「売れるかどうか」を考える必要がない同人活動だからこそ、そこには尖ったアイデアが無数に投入されていた。
プレイヤーが操作することを放棄し、キャラクターに搭載されたAI(人工知能スクリプト)同士を戦わせる。
そこでは「いかに強いAIを書くか」というプログラミング競争が勃発し、時にはゲームのプログラム仕様の隙を突くような「凶悪キャラ」「神キャラ」と呼ばれる人知を超えた存在が生み出された。
そして、それらが公平に戦えるよう、有志によって厳格なレギュレーション(階級分け)が整備され、毎日のように動画サイトで大会が開かれる。
これは、ある種の「レジェンド級プロ格ゲーマーを超えた理論値格ゲープレイのシミュレーション」であり、eスポーツとは全く異なるベクトルでの技術的進化だったと言える。
現在では将棋や囲碁などのAI同士が対戦し、その強さを競うことは珍しくないがM.U.G.E.N界隈ではそれらよりもずっと前に対戦AIを専門的に書く人たちが認知されていたのだ。
漫画界で「同人出身」がある種の実力の証明(例えば高い評価を受けていた同人作家が商業誌での新連載が決まり、同人作品を知る一部界隈で話題)になるように、実はゲーム業界にも「M.U.G.E.N出身」の才能が確実に存在する。
例えば、Steamで世界的な評価を得た2D格闘ゲーム『Skullgirls』や『Indivisible』でリード・アニメーターを務め、『熱血硬派くにおくん外伝 リバーシティガールズ』にも関わったJonathan "Persona" Kim氏は、かつてM.U.G.E.N界隈で伝説的なスプライト改変職人として知られた人物だ。
また、セガ公式の『Sonic Mania』でコンポーザーを務めたTee Lopes氏も、キャリアの初期にはM.U.G.E.N等のファンゲームへの楽曲提供で腕を磨いていた。
最近の例では、ホロライブのファンメイド格闘ゲーム『Idol Showdown』が記憶に新しい。
このゲーム自体はUnity製だが、プロジェクトを牽引したGura_D氏や、美麗なドット絵を統括したアートリードのSodan氏は、海外のハイレベルなM.U.G.E.Nプロジェクト(Hyper Dragon Ball Zなど)出身のベテランだ。
彼らにとってM.U.G.E.Nは、GitHubやUnityが普及する前の時代における、ポートフォリオであり実験場だったのだ。
もっとも、彼らのように自らそれを語り、その出自が明るみに出ることは業界の慣習としては稀なケースなのかもしれない。
プロ格ゲーマーを含めた多くのプロフェッショナルたちが、過去の経歴としてM.U.G.E.Nを語ることはない。そこには、あえて触れないという「暗黙の了解」が、今も静かに横たわっている。
「俺ならもっとこう動かす」「もしもこのキャラとあのキャラが戦ったら」という妄想(IF)を、絵や文章ではなく、実際に動くゲームシステムとして出力する。
それは紛れもなく「挙動の二次創作」と呼べるものだったはずだ。
現在はYoutubeなどのSNSを通して格ゲー界のプロフェッショナルへ気軽に話しかけられるようになったが決してM.U.G.E.Nの話を振ってはいけない。無視されるか立場上、表面上、便宜上M.U.G.E.Nを否定する発言しかしないだろう。
二次創作の経歴がある人へ「盗作ってどう感じますか?」と質問しても多くは「悪いことだと思う」と返すしか無いはずなのだから。
現在は、Ikemen GOのようなMITライセンスのオープンソースエンジンが登場し、エンジンの権利問題はクリアになった。Steamでは『The Black Heart』のように、この系譜から生まれたインディー格闘ゲームが正規に販売され始めている。
かつてのM.U.G.E.Nが抱えていた著作権侵害の罪は消えない。
しかし、「憧れのキャラを自分の手で動かしたい」というあの熱量と、そこで培われた技術的土壌までを「黒歴史」として封印してしまうのは、あまりに惜しい。
あれは無法地帯だったかもしれないが、同時に、間違いなく数多くのクリエイターを育てた、一つの巨大な「同人界隈」でもあったのだ。
旅行先でレンタカー借りて街を走るのが好きだけど名古屋の道路は明らかに異質、初見殺しも甚だしい。なんだあれ。
五車線ある指定道路で左折したくてももう車線変更が間に合わない、意味の分からないところから出てくる謎の側道、三差路×三差路みたいな化け物みたいな交差点。
こんな道じゃ事故が多発するのは致し方ないと合点がいった。そしてぐったりした。
いわゆる名古屋走りと言われるものもこの複雑怪奇な道路を攻略するがために出現した現象なんだろうな。
日々あんな修羅を潜り抜けてる名古屋ナンバーにはもう憐れみと労りしか感じない。
元々名古屋については異質さを覚えていた。
バカの一つ覚えみたいに赤出汁赤味噌、トーストにあんことか言うねるねるねーるねかよという組み合わせ、台湾と何にも関係ない台湾ラーメン、ここでしか見ない存在意義の分からない先割れスプーン(フォーク?)、台湾ラーメンアメリカンに至ってはもはや意味不明。
創作意欲はあってもセンスが小学生並みなので名古屋にしかウケないものしか出来ない。
一次産業がないので土産物も食べずとも味の想像ができるスナックばかり。
ぴよりんがちょっとバズったくらいだろう。
名古屋嬢を買うなら長野の雷鳥の里の方が100倍美味い。ゆかりはその辺のデパ地下で買える。きしめんもただのうどん。ういろうは食感がキモい。現物食べる気にもなれない小倉トーストのラングドシャなんか職場のお土産に持ってけるもんじゃない。ハッピーターンは何味でもハッピーターンになるから妥協点。
唯一喜ばれそうな赤福も三重県を手下に従えてるかのようなツラしてちゃっかり売ってるがお前んとこのじゃねーだろ。 日持ちしないし。
快速みえは京急もびっくりの轟音&揺れで人生初の電車酔いを体験できる。
鉄道開通黎明期もこんな感じだったんですかな〜!とタイムスリップ気分味わいたい変態以外は悪いこと言わないから少し金出してでも近鉄特急に乗ろうな。
とにかく名古屋は全てが雑。整然さがない。
駅周辺のビルの造形が奔放だな…と気づいた時から名古屋の全てに違和感を覚えていた。
これが車で街を走ってすべて得心がいった。
あそこはそういう都市なんだ。
ではその時になにをするか?
良いところを見つけようと努力するのが善き人間としての行いだと思う。
名古屋には世界最大のプラネタリウムを抱える名古屋市科学館がある。
ラジオ深夜便を彷彿とさせる絶妙な味わいのナビゲーターの語りと適度にパーソナルスペースが確保されたリクライニングシートに眠ること必至。
子供が泣く本気のテスラコイル実験装置に舐めてかかると大人でも無言になる南極体験。
ぎゃーぎゃーうるさいガキンチョばかりだが真面目に見て回れば科博にも勝るとも劣らない楽しさがある。1日では回りきれない。
あと近場で腹ごしらえしようと適当に入った香港料理屋かなんかが本気のシノワズリでビビった。
言わずと知れた高級陶器メーカーノリタケの成り立ちからコレクションの展示を総覧できる。
いつからあるか分かんない謎のノリタケの平皿かカップが家に1セットくらいあるだろ。たぶん展示されてる。
「あ、これうちにある!」と見つけた瞬間突然ノリタケに親近感を覚えるだろう。
ガラス越しの蕎麦打ち職人よろしく絵付師たちが陶器の何たるかも知らない素人がウロウロしてる中で普通に仕事してる。
陶器製造の技術が多角展開されてる旨のパネルも面白いから理系は絶対見ろ。
最後はショップに行くといい。アウトレット品からガチの鑑賞用までここもまた見応えがある。
贅を凝らしたきらびやかなノリタケ様の作品の数々にすっかり心が乙女になったお前は必ず何かが欲しくなる。
あとはトヨタ紡織資料館とか徳川美術館とか退役した砕氷艦の係留がされてたりとか色々あるけどめんどくさくなってきたからあとはテメーらでやれ。
特に日本テレビでは出演料500万円を払い、1976年7月22日(木曜日)に「木曜スペシャル 謎の怪奇人間オリバー!」と題して、学者らが鑑定分析する模様を放送して24.1%の高視聴率をあげた。ちなみにこれを担当したのが日本テレビの社員ディレクターだった矢追純一であった。その映像はBBCが「サイエンス」でオリバー君の特集を組んだとき流用された。ただし、オリジナル音声は英語のナレーションや関係者の発言が被さっている部分もある。
ホテルの客室は最上級のスイートルームで、VIP並の扱いをすることにより話題を盛り上げようとしたが、高視聴率に気を良くした日本テレビはさらにオリバーの「花嫁」を募集。「オリバーの子供を出産したら1,000万円の報酬が支払われる」という報奨金まで設定されたため、これに対して数十人の女性が応募する反響があった[注 4]。最終的に、無名の19歳のタレント(現在は占い師を営んでいる[要出典])を康が個人的に選び、記者会見まで行われた。しかし、この前代未聞の企画は実現するには至らなかった。
最近「tepp〇y」とかいう謎の新通貨サービスが出るらしいけど、SuicaだのPASMOだのJRE POINTだの、ただでさえ複雑怪奇な交通系まわりに、さらに“もう一枚レイヤー”を重ねてくる暴挙。
いやいや、なんでまた新しい財布を増やすのかと。
決済の革新? しらん。
---
想像してみてほしい。
新しい挑戦はしない。
イノベーションもしない。
でも一応働かないといけない。
そうなるとどうなるか?
「なんか新しいプロジェクトやろうぜ!!(内容未定)」
↓
↓
「とりあえず新サービス作ったことにしようぜ!!(誰も望んでない)」
この流れがテンプレ化している。
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新サービスを立ち上げれば、とにかく人が動く。
会議が増える。
資料が増える。
調整メールが増える。
つまり、「ワイ今日めっちゃ働いた気がする!!」という気持ちになれる。
その結果として生まれるのが、
tepp〇yみたいなサービスは、この“こすりあい戦略”の最終形態だと思うわけですよ。
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“新しいことやってる感”の演出。
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・今日も働いているように見えること
・忙しそうに見えること
・社内で「頑張ってるね」と言われること
この3点セット。
「社内のほうを向いたプロジェクト」が量産される。
まぁ当然よね。
---
まぁ……そうだよね、という感じ。
怪奇!精算トラブルで従業員にお尋ねくださいと指名されてるのに尋ねられる態勢になりもせずただ決済サービスの選択画面にひたすら戻し続けるだけの店員!
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251113195752# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaRgs9QAKCRBwMdsubs4+ SI+IAQCIqpbsbBeDZ7Cl9ctpfH0CUfUX4PJpYbmvQ7RhHyTdogEAz8doxRHx4iWM ggjUVqcOFXaZtNnImzRDwS6Mrnj7ZAM= =xOTj -----END PGP SIGNATURE-----
13点。
とりあえず「実は倫理観がないYoutuberが犯人でした~✌」のオチもうやめろ。承認欲求をこじらせた人間はなんでもやるから気を付けようねは耳タコだけどまぁテーマとしていいとして、だからといって「頭がおかしいとしか思えない事件」は「Youtuberだったらしょうがないよね」ではオチんよ。
犬の一人称視点映像で始まるんだけど最初から何もかもが不自然で映画撮ってるやつヘタクソか?と思って見てるとすぐに「どうせこれ犬じゃなくて人間なんやろ」と気付く。「まさか」じゃなくて「どうせ」なのがミソ。
家にお巡りさんがやってくるんだけどなぜか異常に上がりたがる。無理やりトイレを貸してくれと家に上がり込み、なぜか地下室の扉に直行するお巡り。開けると中から拘束された女が飛び出してくる。驚くお巡りの後ろでどう見ても紙製にしか見えない工業用のロングハンマーを片手で振り上げる母親!うんち!
そうして家の地下にはいろんな人間が「犬」として飼われており、家族はキチガイ一家だったことがわかる。で、電気でビリビリしたり、ピーラーで顔の皮剥がして「は~い、グロ皆さんお好きでしょ~」とやすっぽいサービスシーンを提供して、最後に「こいつらYoutuberでした~」で終わり。
なんもオチてないよ。
なんかギスギスした一家だなからのキチガイ一家であることがわかるスイングは多少面白いし、キチガイ演技も楽しくはあるけど結局この映画も「で?」なんだよな。あと細かいところの作りが雑すぎる。
なんでホラー映画って真面目に撮られないんだろう。
犬の主観視点だと思ったら実は犬でしたも主観視点映像が適当だからなんのサプライズにもならんし、ホラー展開で段ボール製にしか見えないハンマー使うし、別にトンカチでよかったし、オチももっとちゃんと考えられただろ。
私は、昔から宇宙の真理とかに中二病的に憧れるタイプのオタクだった。当然、物理学の究極の理論である「超弦理論」に手を出したわけだ。
しかし、すぐに気づいた。これは物理学のフリをした、超絶ハードコアな数学だということに。
超弦理論が語る世界は10次元とか11次元とか言われる。我々が知る3次元空間(+時間)以外に、極小に丸まった余剰次元が存在するらしい。この「余剰次元の形」が、この世界の物理法則(電子の質量とか、力の種類とか)を決めている、と。
「その丸まった形って、一体どんな形なんだ?」
この素朴な疑問に答えるために、私は抽象数学の沼に両足から突っ込むことになった。
この余剰次元の候補の一つに、有名な「カラビ・ヤウ多様体」がある。 こんな、SF映画に出てきそうな、美しくて複雑怪奇な図形が、実は電子の動きを決めているというのだ。
この「形」を数学的に扱うには、通常の微積分なんて全然役に立たない。必要になるのは、
トポロジーは、空間を伸び縮みさせても変わらない性質(穴の数とか)で分類する。「コーヒーカップとドーナツは同じ形!」という、あの有名な学問だ。
超弦理論では、この余剰次元の「穴の数」や「ねじれ具合」といったトポロジー的な性質が、物理学の重要な定数に対応することがわかっている。
純粋な「形」が、現実世界の「法則」を決めている。これ以上の恐怖と感動があるだろうか。
私が最も戦慄したのは、このトポロジーで使われる概念の一つ、「ホモロジー群 (Homology Group)」だ。
これは簡単に言えば、空間の「n次元の穴」を数えるための、めちゃくちゃ抽象的な代数的な道具だ。
例えば、ドーナツには「ぐるっと一周する穴」が一つある。ホモロジー群は、この穴を代数的に(群という構造を使って)記述してしまう。
この概念は、元々、誰がどう考えても「何の役にも立たない」純粋な遊びとして生まれた。ひたすら抽象的で、自己目的的な美しさしか持っていなかった。
「このホモロジー群こそが、余剰次元の空間に存在する『ひも』の巻き付き方を完全に記述している…!」
純粋な数学的創作物が、数十年後、この宇宙の最も深い設計図のキーコードとして機能している。
これを目の当たりにしたとき、背筋が凍ったね。
抽象数学は、人間が世界を記述するために作り出した「道具」ではない。
そうではなく、抽象数学こそが、この世界が構築される「ルールブック」であり「設計図」だったのではないか?
そして、我々人類は、その設計図を、何の目的もない純粋な思考実験(数学)を通して、たまたま発見してしまっただけなのではないか?
超弦理論の沼にハマって得たのは、物理的な知見ではない。「この世界は、あまりにも美しく、冷徹な数学的必然性によって成り立っている」という、人生観を揺るがす確信だった。
最後に一つ。
「ホモロジー」、ちょっとググってみてくれ。理解できなくて全然いい。その概念が持つ、純粋で絶対的な美しさに、少しでも触れてみよう。そうすれば、世界が少しだけ違って見えるはずだ。