はてなキーワード: 天動説とは
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「◯◯は陰謀論である」と語る集団がそこに身内向けでしかない根拠やセンセーショナルな事例の雑な切り抜きを加えるたびに、その集団こそが新たな陰謀論者の集まりに成り果てるんだよね。
このループに陥って陰謀論者同士の水掛け論に陥ってる光景をしょっちゅうみかける。
「客観的で科学的な検証を行うことなく特定の理論や思想を否定することそのものが単なる陰謀論である」ってことを理解できないままに「アレって陰謀論らしいぜ!マジやばいぜ!陰謀論に気をつけろよ!」と言って回ってる陰謀論ゾンビが多すぎる。
みんなチ。ー地球の運動についてーのアニメは楽しんでいるかい?
バデーニさんがクズすぎるって?そうだよ、でもみんなバデーニさん好きだよね。
地動説って実は最初に言ったの紀元前の人らしいんだけど実際には16世紀のコペルニクスが発表するまで、天動説が主流だったんだよね。日本だと19世紀にもなって初めて話題に出たんだよ。
多分もし自分がその時代にいたら「そんな馬鹿言ってww」って笑うと思う。「陰謀論乙www」って19世紀の5ちゃんで草生やすと思う。
そんなチ。の作者の新作をぜひ今読んでほしいんだ。
新作と言いつつ完結済!
バデーニくんたちの地動説はたまたま合ってたわけだけど、この主人公の陰謀論は全然合ってないんだ。バデーニくんたちはたまたま正しかったから良かったけど、この主人公はどうなんだろうね…。
陰謀論を唱える人に見せるとワンチャン「あれこれ陰謀論だった?」って思うかもしれないけど期待は正直薄いな。
それより陰謀論言ってる人に接するために読んでほしいと思う。
『チ。地球の運動について』ってマンファが流行ってると学生が言ってたので
内容を見たら、「地動説」が正しいって言ってて苦笑してしまったw
まず当時はティコ・ブラーエの観測データが無いので、当時のデータ量では、ケプラーの楕円軌道の法則を開発できず、地動説の場合天動説よりずれが大きくなるんだわ
また、当時の光学技術では地動説の根拠である「年周視差」や「年周光行差」を発見できないので、そもそも地動説の根拠がそもそもないんだわ
あと、天動説の場合天体の軌道がぐるぐる回って異常な感じで描写されてたけど
当時の物理学の通説の渦動説では物体は全てあんな感じにエーテルによりグルグル回って移動するって考えられてたからむしろ当時では普通の考えなんだわ
当時の科学技術を考えれば、「地動説が正しい」って言うのはそもそも「STAP細胞はあります!」とか言ってるようなもんなんだよね
当時の状況も考えずに現代の知識を持って過去の行動をバカにするのは私たち学者の間では「事後孔明」ってむっちゃバカにされるんですよ
(36女天文学者)
https://x.com/RayAlexWilliams/status/1738604275813515643
バトラーは性別が身体で区別されているのはキリスト教による価値観の押し付けであり、トランスの人々が覇権を握っていたら性別は身体性別で区別されなかっただろうと考えている。
つまり、バトラーは客観的真実があることを信じておらず、人間の知覚が「ある程度」文化に影響を受けることを過大評価し、覇権によって科学や真実が決まると信じているということである。
要するに、バトラーは「天動説が客観的事実だとされていたのはそう考える層が覇権を握っていたからで、地動説を唱える人が増えて覇権が移ったから地動説が客観的事実となった」って言ってるってこと。
バトラーの考えは「今までは性別を身体の違いだと言う層が覇権を握っていたからそれが客観的事実として採用されていたけど、性自認が性別だと言う人達が覇権を取れば性自認が客観的事実になる」ってこと。だから性自認主義は政治的法的覇権を取ることを最優先にした。
政府、政治家、役人、研究機関、シンクタンク、マスコミといろいろ情報発信してくれる機関はあるけれど、どれくらいその機関を信じれるかってことなんだよな。
どの機関も面子や商売、それぞれの都合に合わせて情報を発信する訳で「信じられない」となったら、自分で自分の信じられる情報を見つけ、理屈を考えなければならない。
誰だって「信じられない」人から何を言われても耳に入らない。誰だて騙されたくないし、自分の身は自分で守らなければならない。
「信じられない」のだから仕方ない。
運動中に水を飲むことが禁止だった時代、天動説から地動説に変わった時代、支配階級が訓練がてらその辺の農民を殺していた時代。
上手く世間や時代に合わせられずに失敗する危険性は誰にだってある。合わせることが正解とも限らない。
我々には何を信じて、どうやって生きるのかを決める自由があり、それぞれに精一杯生きている。
そんなことを考えていたら陰謀論者と笑えなくなった昨今。
ワクチンの効果を否定する「反ワクチン」の人々や、地球が平面だと主張する「地球平面論者」は、科学的な常識を知らないとして馬鹿にされている。
私は反ワクチンでも地球平面論者でもないが、彼らのことを馬鹿にする気にはなれない。
なぜなら、私たちが知っている一般常識は、先人たちが発見した、現時点でおそらく正しいと思われている事実にすぎないからだ。
一般常識には、先人たちが発見し、その知見が多くの人に知られた結果常識になったものが多い。知見の発見は一部の賢人の功績であって、他の人はその恩恵に与っているだけだ。
私は今までの生活でワクチンの効果について実験したことはないし、地球が球体であることを確認したこともない。(地平線は丸みを帯びて見えるが、球体かどうかまでは分からない。)
自ら実証せず、盲目的に常識を信じているだけの状況なので、「その常識は正しいのか?」と問われても「正しいと聞いたから正しいと思う」としか答えられない。
また、常識と言われていることも、必ずしも正しいとは限らない。あくまで、ある時点で最も正しそうに見えるものが常識といわれているだけである。
水銀を不老不死の薬として飲んだ中国の皇帝、天動説を信じた中世ヨーロッパの人々は、おそらくそれが最も正しいと思ったのだろう。私たちが正しいと信じているワクチン接種も、もしかしたら未来の世界では有害性が指摘されているかもしれない。ある時代の常識が、後の時代で否定されることもある。
私は一般常識を信じている側の人間だが、常識を聞いたことがあるだけで自分で実証したわけではないし、その常識が正しいとも言い切れない。「自分は科学という権威を盲目的に受け入れているだけの凡人だ」という自覚があるので、自分が一般常識を信じていない人よりも優れているとは思えず、彼らを馬鹿にする気にはなれない。
多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。
しかし、本当にそうだろうか。
あるいは、「宗教は必要のないもの」という認識が宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。
もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。
私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ。
このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たちは宗教に頼らずとも、自分たちの生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。
しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり、日常生活においては必要のないものもいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要なときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。
少したとえ話をしよう。
人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流の範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。
しかし、時代は移り変わり大航海時代。領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと全地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。
これは、地動説VS天動説にしろ、アリストテレス目的論VSニュートン力学にしろ、ニュートン力学VSアインシュタイン量子力学にしろ、パラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。
宗教においてもおなじことがいえる。
つまり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係、さらには政治や技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題に対処するための、プラグマティックな実践論といえる。
そして、「自身の生き方に行き詰ったとき」「自身の生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教的問題に取り組む契機が訪れるのだ。
これは、「既存の伝統宗教や新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人のマインドセットや、置かれている社会的・文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的・文化的環境によっては、特定の信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身の生き方の根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的な信者を作ろうとする商業主義的宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教のもつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教に価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習」であることに意味を見出す保守主義的観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。
「宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践論である」
「みんながそれが正しいと思ってる」って論拠で話されてると思ってるのお前だけだろう。他にも多数の論拠が示されていて、その中の補強材料に過ぎない。
ただ、あなたが「自分が言っていることを正しいのに、多数派かが弾圧してきている」という妄想にとらわれているのは見えてきた。
あと、詭弁を使い倒してるのに「論理的に」って、論理学って学問がちゃんとあるんだよ。
「みんながそれが正しいと思ってる」は、お前が言うように正しいの論証にもならないが、それよりも輪をかけて相手が間違っている論証にはならない(正しさには関係ない)ので、
「民主党政権だって天動説だって地表平面説だって正しくなっちゃうよ笑」なんて事は導けない。
故に、「様々な検討の結果法律ができていて、それが指示されている」、つまり「白人だけは特別」と「人間だけは特別」に、法律では明確に差があり、多くの国で標準とされていて、日本でも圧倒的に支持されている、と言う事実、に対して「「みんながそれが正しいと思ってる」って論拠としてはバカすぎる」と抗弁したところで、あなた自身の主張の正当性を補強するものではない。
実際には詭弁をこねくり回しているだけで、ただ「論破して勝利宣言する」という事への快楽を求めているだけなので、何の意味も無いと言う指摘になってる。