はてなキーワード: 青天の霹靂とは
しかも占領してたチャゴス諸島を米軍に貸してたが料理裁判に負けてる。今回返還したら島民集団に被害訴えられてる
カーク暗殺で一番疑わしい立場にある米国民主党もまたイギリス系
ただ、医療利権と海軍利権は不沈の勢いだから、国家間戦争では解決しないんじゃないか
またISISで問題になった赤十字やUSAIDは今回は表に出難い
ソロスを調査というがロイズやオランダ金融も黒幕じゃないのかね
植民地時代は米英戦争もあったと思えばNATO米摩擦もありうる
日本もアメリカ産業から離れてEU側でパレスチナ国家承認すべきとこだ
入社前
新卒から4年勤めた会社を辞め、ライブ配信系のスタートアップに転職した。かねてより進路相談に乗ってもらっていた大学時代のバイト先の上司Aから職場見学の誘いを受けたのがきっかけ。この紹介された会社はAの大学時代の同級生(Aと私は同じ大学出身で、私から見ても先輩に当たる)が起こした会社で、ちょうど収録スタッフを探しているということで私に声がかかったらしい。二つ返事でOKし、Aと2人で見学に行くことに。応接室に通された先で出迎えた社長は人の顔色や事情を伺わないというか、意図的に無視することで鈍感に物事を進める人なのだなという印象がこの時からうっすらあった。しかしその印象をおいても、当時の私は希望の職種につけるという希望を優先し、多少の違和感に目をつぶった。オフィスを案内されたときも、どことなく社員が無愛想で無機質な空間(他の社員からすれば突然の来客なのだから仕方ないという意見もあるだろうが、私に対してというより、その場の空間が他の人間に対する全面的な無関心に支配されているという印象だった)だなというのが最初に抱いた感想だったが、これも仕事内容に多くの注意を割いていたため違和感にフタをした。履歴書を送り、役員面接を1回受けて採用が決まった。
入社後
入社後早々地方ロケに投入されることになるが、この直属の上司Bとの相性が最悪だった。未経験の私が質問を連発し、この態度がBには鬱陶しかったらしく、1カ月以内には日常的な会話もなく業務連絡も必要最低限の内容しかやり取りされない状況になった。ロケ当日、まとめた荷物にBから「その機材はいらない」と指摘され出張直前でバタついたため、あやうく新幹線を乗り過ごす羽目になった。ロケ中は3人1組での行動だったが、基本的にBは私ではなく同行した協力会社の人に話しかけていた。出張が終わり駅に着いた後、私は会社を紹介してもらった上司Aと会う約束があったので、会社に戻る先輩2人と別れて駅にとどまった。この行動がまずかったらしいが、Bは物言いたげな表情を浮かべながらそのまま駅のホームに向かったためその場では何も起こらなかった。私はその後Aと合流してご飯を食べ、帰りの新幹線の中でスマホを開いたところ、AからのLINE通知が鬼のように押し寄せていた。社長が私が出張後に帰社しなかったことに激怒しAに怒りのメールを送ったとのこと。「駅到着後は自由解散」とSlackで事前共有されていたので会社には戻らなかったが、どうやらBは新幹線で帰社し増田は戻らなかったと報告したらしい。出張後は速やかに帰社するのが常識だがそれを破って友人と会っている(BにはAと会うとは伝えておらず現地の友人と会うと伝えていた)、もしかして増田ってダメな奴ですか?という文言でAから転送されてきたメールは締めくくられていた。その後Aからもお前のせいで社長から不当に責められている、事情を説明してくれと抗議のLINEが追って届いたが、突然の情報の奔流と、与り知らない理由で自分が激しく叩かれている事実を知った衝撃からそのLINEには返信することができなかった。
この一件を持って社長からは「ダメな奴」の烙印を押された私は、最初のプロジェクトからは外され、本件以降呼び捨てで呼ばれることになる。Bと社長の両方からよく思われず業務遂行の面で味方がいなかったこと、Bが「増田と業務のことに関してコミュニケーションが取れない」と社長にチクっているのを耳にしたこともあり、当時の自分が何を考えて過ごしていたかは詳しく覚えていないが、気まずさと居場所のない荒涼とした強い不安の波と比較的凪の状態を交互に耐えるような日々が続いていたように思う。いや、出勤途中でこちらの姿を認めた瞬間に走って逃げるような人とコミュニケーションが取れるわけなかろうて。「自分の頭で考えろ」と「なんで相談しないんだ」の境目は新人には見分けがつかない。ちなみに、Bは1年後同業他社に転職していった。私としては青天の霹靂だったが、Bは入社から5年の間、社長とのコミュニケーションに苦心していたらしいと聞いた。
次なる厄介事は同僚Cのガスライティングである。入社して間もないころはCは普通の社員という印象で、気になるところがあればこだわりが強い点、もしかしてこちらの発言がまずかったかな?と思わせてくるような無機質な間の取り方や表情を使う点で、最初はASD傾向がある人なのかなーと考えていた。この表情等のコントロールを私が敏感に感じ取っていたのと、異業種に転職したこともあり頑張って溶け込まないと!と意気込んでいたので、彼女に積極的にサポートを申し出たり仲の良さをキープしようと無理に振る舞っていた。同性とは仲良くしなければならないという謎の規範意識が自分の中にあったこともあり頑張っていたが、結果的にそれが良くない結果につながった。1年目は気が付かなかったが、私が頼まれた資格をAが自分も取るとタイミングを合わせてきたり、服装等で何かと私の真似をするようになった。それからほどなくして、Cは私の細かな振る舞いにケチをつけてくるようになった(私は傘を下に向けて持って歩いていたが、その持ち方はおかしい、危ないからやめろと言う、私が会食に白い服を着てくるとよくそんな服着てきましたね~と嫌味を言う等)。私がコンタクトではなく眼鏡で出社した日の翌日、イメチェンしてみたのと眼鏡をかけてきたときは寒気がした。この時2年目の春で、私の真似をしながら逐一行動をチェックして槍玉に挙げるというCの分裂した行動にほとほと嫌気が差していた。調べると、Cはどうやら自己愛性人格障害の行動パターンにぴったり合致していた。その他、私のタイピングにCが合わせてタイピングを開始するなど、人に言ったら信じてもらえないような細かな嫌がらせがあった。
退職を決定的に決意したのは3年目の夏である。社内に響き渡る大声で責められ怒鳴られ、プチっと切れてしまい頭の中が冷静になったのを覚えている。自分は被害者ではなく加害者寄りの意識だったし、自分はいなくなった方が自分も会社も幸せになるだろうと本気で思っていたからだ。その後の業務でも、軽い確認の質問に対してピシャっとキレ気味の一言が返ってくるだけのことが度々あった。私に対してだけではないが、心の通った人間同士の会話だろうかこれは、と思う応酬があちこちに散見される。他の同僚数名からはあれはないよね(笑)みたいな気遣いの言葉をかけてもらったりもしたが、静かに心に決めた退職の意志は揺らぐことはなかった。私だけでなく他の社員もきつく叱責されることがあり、それが余計に報告が雑になったり滞ったりする原因になっていることはみな知っているものの、どうこうすることもできないので愚痴を共有してその場は終了という感じ。
退職を申し出た次の日から有給消化に入った。その日のうちに諸々の備品を返却しなければならなくなったので、挨拶回りの時間はなかった。
入社後の出来事を振り返るとどれもこれも肝が冷えてくる思い出ばかりで、本当に辞められてよかったな…というのが正直な感想である。自分の無知ゆえに上司や社長をイラつかせてしまったことは反省しているが、心理的安全性がマイナス圏に到達した環境下で生き延びてきた自分を改めてねぎらってやりたいという思いが改めて湧いてきた。体力は人並み以上にあったのと元々楽観的な性格だったのもあり、深く病んで折れる前に逃げることができた。
振り返って、社長に対する印象も会社全体に対する印象も第一印象に戻っただけだという結論に達した。
今まで第一印象は先入観でしかないと考えてきたが、それなりの年月を生きてきて蓄積された経験が直感となり第一印象を形作るものであって、軽視するものではないと改めて思う。BやC以外の上司や同僚にはよくしてもらったし、下らない話をして笑い合った思い出も含めていい経験になった。
そのゴタゴタがやっと落ち着いた頃、夫から突然離婚を切り出された。
青天の霹靂で「なんで!?」と聞き返してしまったんだけど、夫からは
・母が犯罪に関わったこと、しかも私に反省の色が見られないこと
・親権は夫側
・私以外の親族(特に母)とは今後一切関わらせない(私との面会はOK)
という、到底受け入れられないもの。
反対したら、「もし親権がそっち(私)に行ったら、子供は実家で暮らすことになるよね?
犯罪者の母やそれを咎めない父と関わるのは子供にとって最悪だろう?」と言われた。
確かに現実的に考えると、慰謝料で生活は一時的に何とかなっても、フルタイムで働いても女性の私じゃ大した稼ぎにならない。
男性中心の男尊女卑の社会では、シングルマザーなんて足元を見られてまともに稼ぐ事なんて不可能に近いと思う。
一方で両親は孫には優しく、家賃もかからない実家暮らしが当面の選択肢になるかも…という弱みを突かれた形だった。
それはそれとして、母を「犯罪者」と呼ばれたことにカッとなって喧嘩になり、つい手が出てしまった。
それが決定打だったのか、「もう無理」と言われました。
次の日、遊びから帰ったら夫と子供がいなくて、慌てて電話したら義実家に「避難」したとのこと。
仲の良い友人に相談したら「誘拐罪で通報すれば有利に離婚できるよ」とアドバイスされたけど
デモデモダッテかも知れないけど、そんな大事にするのは怖くて踏み切れないのが現状。
母の過ちは許されないかもしれない。
けれど、私や子供まで巻き添えになるのは納得いかないのが、正直な気持ち
夫は夫で、母の逮捕時に夫が被害者への謝罪などで大変だった上に、
母が夫に失礼なことを言った(「恩に着せるな」「(私に)この事で八つ当たりなどしたら決して許さないから!」など)事も蒸し返してきて
逆ギレして私達を非難してくるのが凄く辛い。何故母だけでなく、私までと。(母を侮辱される事も辛いけど)
決して八つ当たりしたつもりはないけど、夫は「母の態度やそのフォローをしない君に我慢の限界がきた」と言います。
母のことは謝ったけど、離婚にまで飛躍するのは納得できない…
このまま離婚は避けられないのかな?
タイトル通り。
服の着方も、電気ポットの使い方もわからなくなっており、洗濯物はぐちゃぐちゃ、オムツも履いてない。自分の名前も言えなかった。
慌てて病院に行ったら心臓からの血栓でか脳梗塞気味だし、それとは別に海馬が小さくなってる。
ということで緊急入院。
最大3ヶ月は入院できるし、その間に施設を探さないとな…と思ってたところ「家に帰りたい」と言って聞かない。
とりあえず言い聞かせて1泊はしたものの、落ち着くこともなく。
母、認知はヤバいけど、身体はめちゃくちゃ丈夫で健康そのもの。
なので、普通に動けちゃうし、なんなら暴れる可能性大。今はまだ帰りたいと言って聞かない、院内を徘徊程度だけど。
ということで手に負えないので退院してください、はい、今日です、という青天の霹靂。
どうすりゃいいの〜!?
とりあえず高い病室ならあと数日はいいよ、と猶予を貰えたけど…数日て…。
運良く施設が見つかったとて、こんな状況ではまた追い出されるのでは…?
自宅で見てる間どういう対応したら軟化するとかあるの?
助けて〜!!!
私は忍たま乱太郎に命を救われた。
私は今年の冬、お腹の中の我が子を亡くした。6ヶ月だった。理由は省くけど、青天の霹靂のような別れが訪れた。いまも日によっては、もう消えてしまいたい、何もかも終わりにしてしまいたいと思うほど、酷い落ち込みに襲われている。それでもなんとか生きながらえているのは、忍たま乱太郎のおかげだ。
今年の1月、私は「劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師」を観に行った。そのときはまだお腹の子も元気で、これがお腹の子と一緒に見た最後の映画になった。
映画を観に行った当初、アラサーの私には子どもの頃に見ていた忍たまの知識しかなく、乱太郎、きり丸、しんべヱ、土井先生、山田先生、あとなんとなく稗田八方斎とか滝夜叉丸とかいうやつがいたな…程度にしか覚えていなかった。
けれど、この映画が思いのほか面白く、映画がきっかけで魅力的なキャラクターがたくさんいることに気づかされた。
そしてこの映画では土井先生ときり丸が最重要キャラクターとして描かれているのだが、そんなふたりには共通点がある。それが「かつて家族を失った戦争孤児」であることだった。
予備知識ゼロで映画を観に行っても、ふたりの生い立ちはなんとなく察することができた。いままで何気なく夕食前にのんびり見ていたアニメのキャラクターにそんな暗い過去があったなんて、と最初は驚いたが、けれどあのアニメ及び原作漫画の舞台は、これまで意識していなかったので知らなかっただけで、殺伐とした戦国時代だったらしい。
そして映画を見る中で、私はこれから親になる身として、きり丸が土井先生を失ってしまうかもと落ち込んでいるシーンや、幼いきり丸がひとり蓑に包まっているシーンには特に心が痛んだ。それから一年は組の活躍にも、頑張る子どもたちの姿に微笑ましい気持ちになった。
けれどそんな土井先生やきり丸の過去に、のちに自分の境遇を重ねることになるとは。最初に呑気に映画を観ていたときには、本当に思いもよらなかったなぁ…。
けれど土井先生もきり丸も、悲しい過去を背負いつつ、それでも前を向いてたくましく生きている。それがどれほど、忍たまに触れるたびに、私の支えになっただろう。
あの映画を観た人なら、忍たま乱太郎を好きな人なら、きっとわかってくれると思う。
特にきり丸は、子どもながらに本当にたくましい。土井先生も、暗い過去を断ち切って、明るく優しい先生としていまを生きている。そんな彼らの姿に、いまのわたしは勇気づけられている。
自◯が頭によぎるほど落ち込んだときにも、気が向いたら忍たまのアニメを見て、もう少しだけ生きてみるかと、そんなふうになんとかここまでやり過ごしてきた。
6ヶ月の子を外に出すのは、ほとんど出産と変わらない処置を受ける。私は産声のない出産を経て、休暇をもらった。そうして体調が回復してきた頃、私は旅に出た。忍たま乱太郎・落第忍者乱太郎の聖地である尼崎への旅である。
私は六年生も好きなので、潮江文次郎の絵馬が祀られている潮江素盞嗚神社にお参りに行った。大好きなキャラクターの絵馬を見ることは活力に繋がった。
そして潮江素盞嗚神社には「女願成就」のご利益があるといわれている。女性の願いをひとつ叶えてくれるというのだ。
私は神様に、潮江文次郎にお願いした。愛する我が子を、次は心身ともに元気に産んであげられますようにと。
いつか願いが果たされたら、また尼崎に行って、文次郎にお礼を言いたい。
その日まで、忍たま乱太郎に元気をもらって、なんとか生きていこう。
34歳、女です。
今年の2月、同い年の夫と入籍し、新婚生活が始まる…はずでした。
理由をうまく説明できないのですが、結婚してからの夫との関係が、どうしても心地よく感じられないのです。
昨年8月にプロポーズされ、10月に両家顔合わせと、すべてが順調に進んでいるように思えました。
私自身、明るく、よく喋る性格で、夫はそんな私の話をいつも聞いてくれていました。そういう関係が心地よかったし、楽しかったんです。
でも、結婚が決まり、同棲が始まるにつれ、彼の態度が変わったように感じました。
入籍日は、私の親の勧めで、占いを参考にして2025年2月8日に決定。
彼は「自分のいないところで決められた」と不満を感じていたようですが、私はそこまで深く考えていませんでした。
それよりも、結婚に向けての準備が進むにつれ、自分の中に漠然とした不安が生まれていったのです。
待ちに待ったはずの同棲開始日。
しかし、その日の夜、私は夫に「入籍を延期したい」と伝えてしまいました。
「一度婚約破棄して、もしよければ、また考えたい」と。
自分でも、どうしてこんなことを言ったのかわかりません。
夫から「理由を教えてくれ」と何度も聞かれましたが、うまく説明できませんでした。
「記念日は祝わなくていい」
でも、私の中では、少しずつ違和感が積み重なっていたのです。
夫は、結婚に向けてとても熱心でした。住む家や家具のことなど、すごくきっちり調べて、論理的に決めようとするタイプ。
でも、その「理詰め」の話し方が、私には息苦しく感じられました。
また、私が考えを整理する前に、「こうしたほうがいい」「これはどう思う?」と次々に話を進められると、返事をすることすら負担に感じてしまいました。
「考える時間が欲しい」と伝えられればよかったのですが、私はそれができませんでした。
「わからない」という言葉ばかり繰り返してしまい、夫を困らせることになってしまいました。
私はまだ迷っていましたが、夫の強い意思に押される形になりました。
今思えば、この時にきちんと自分の気持ちを整理し、納得できるまで話し合えばよかったのかもしれません。
夫が期待していたような「新婚生活」には、私は馴染めませんでした。
指輪をつけるのが嫌だった。
「会社の人に知られたくない」「自由でいたい」という気持ちもあったし、なぜか指輪をつけることが窮屈に感じられました。
夫は「二人で選んだ指輪なのに」と悲しそうでしたが、私はどうしても受け入れられませんでした。
「耐えられない」とまで言ってしまった。
会話も減った。
夫の話し方がどうしても気になり、話すこと自体がしんどくなっていきました。
「研修について聞かれるのが嫌だった」
小さなことの積み重ねが、どんどん私の気持ちを冷めさせていきました。
でも、そういう「小さな違和感」を、うまく言葉にできなかったんです。
夫に「どうしてそんな態度をとるんだ」と問われても、私は「わからない」としか言えませんでした。
そんな私に、夫はどんどん不信感を抱くようになりました。
夫、私、私の両親、兄の4人で、4時間にわたる話し合い。
兄からは「男同士なら普通の会話でも、女性には辛いかも」と言われ、両親からは「うちの娘は共同生活に向いていない」とまで言われました。
でも、夫は納得できないようでした。
夫は「お互い努力しよう」と言い続けましたが、私はそれに「YES」とすら言えませんでした。
夫から「お互い様ってことで、前向きに頑張ろう」と提案されました。
でも、私は「謝る気になれない」と答えました。
「悪いことをしたのは理解したけど、謝る理由がわからない」とも言いました。
結局、夫に強く求められて、「申し訳ない」とだけ言いました。
でも、それはただの言葉で、私の中に「関係を修復したい」という気持ちは芽生えませんでした。
正直、私も、もうどうでもよくなってきています。
でも、今では「どうしてこんなに辛い思いをしてまで一緒にいるんだろう」と考えることが増えました。
それとも、もう手遅れなのでしょうか?
僕は今、講演会のホールのエントランスで入場の順番待ちをしている。
セラミックの刃は金属探知機にも検知されないだろう。ギプスに偽装している得物は誰にも見つからない。
「飯山さん、ご無沙汰です。うちの市でも先生の講演会を開いていただいてありがとうございます。楽しみにしておりました。」
飯山さんからは左腕の骨折についての調子を聞かれ、小気味よく事故の失敗談をでっちあげて笑い話のように話した。
警備員もこのやり取りで怪しむことなく、荷物もギプスも入念に調べることなく入場を許してくれた。
僕が幼いころ、元総理や現役総理の暗殺や襲撃事件が続いたため、この手のイベントは入念な警備がされるようになった。
だから、近しい地方議員のつてを頼って『先生』に近づくために、この市に越して熱心な支持者を数年間演じてきた。
飯山県議の選挙、地元小選挙区の議員の選挙にもボランティアで協力した。
『先生』は隠居をしているが依然党内での発言力は高い。そういったチルドレンたちが国政、県政問わず多くいるのだ。
ついにこの時が来た。積年の恨みを果たすときが来た。
『先生』はよく話を聞いてくれて、実際に困りごとの解決を真摯に考えてくれる。
善人だと思った。
ただ、当時の改革の音頭を取ったのが誰なのかを考えれば行きつく先は『先生』なのだ。
『善き制度こそ、持続可能な医療の礎』 講演会入口に張ってあるポスターを見て、持続のための犠牲になった妻のことを思い出していた。
青天の霹靂だった。妻の体を進行性の病魔が蝕んでいた。
当時、お互い若く将来起こる病気など気にも留めていなかった。もっと早くリスクを考えておくべきだったが、病が発覚してから入れる保険などないのだ。
まだ子供は生まれていなかったが、子育てと住宅の資金をためて、マンションの購入もした。人生設計を考え始めたばかりの、そんな折の悪い知らせだったのだ。
医療制度は国民皆保険を死守するため、高額医療費制度から手を付けた。
高額な医療費がかかった場合に、上限を超えた分の医療費が戻され負担が軽減される制度だ。
増税と同じく、一度手が入ればだんだんと負担を大きくすることに政府は抵抗が無くなる。
今後の治療のプランを聞かされたが、到底負担額は払えるものではなかった。
二馬力で働いていた家計は一馬力になり、一馬力分の負担がさらにかかるのだ。
心配かけまいと笑顔を作っていたが、妻の前では見透かされてしまう。
「今回は赤ちゃん諦めなくちゃだめだったけど、私まだあきらめてないからね。ちゃんと勝って3人、いや4人で、もっとでもいいけど住もうね」
僕は、「そうだね」としか言えなかった。
妻も、負担額が多大になることは知っている。あえてそのことを考えないようにしているようにみえた。
もちろん民間医療保険も入っていた。入院費の幾ばくかは給付金でまかなえている。
医療費の支出が減るということは、病院は収入が減るということだ。
健康保険で賄えない人が諦めることが増えたので収入が減ったからかもしれないが、診療報酬が改定され、医療費が上がった。自己負担率も上がっているので以前よりも負担が大きくなった。
そして、この状況をカバーするために民間保険も様々なプランを出してきた。
だが、以前の健康保険のように民間保険が給付金を出せるわけでもなく、細かい条件で給付を渋ることが常態化されるようになった。
妻が入っていた民間保険ではこの病魔のカバーはしてくれなかった。
普通の商品なら金額が上がれば買わない選択肢はできるが、生活必需品ならそうはいかない。需要が見込まれれば殿様商売ができる。
そして命は誰もが何よりも変えがたい。貧乏人は殺して、金持ちからお金を取る、究極の殿様商売ができるのだ。
僕らはどんなにクソでもクソにしがみ付かなければ生きられないのだ。
「ところでさ、親父から聞いたんだけどさ、今後も安心して治療を受けるためにさ、形だけなんだけど」
ズルや不正を嫌う妻に正面切って言うのは辛い。『形だけ離婚をしてくれないか』
そう言いたいが言えない。
離婚をして収入が無くなったていで生活保護を受ける。医療費を無料にする。庶民が最終的にやる手段だ。
「…いわないで、貴方の妻でいさせて…」
察した妻が先に言ってくれた。
「いや、形だけだよ。生活保護に頼ってさ」
「違うの……私は貴方がいないと一人なんだよ。分かるのもう長くないって……だから貴方の奥さんのまま死にたいの」
『生きるためには…』そう否定の言葉を言いたかったが言えなかった。
婚姻届を出したとき、その帰り道ささやかながらおいしい料理を食べた日のことを思い出した。その日の思い出を解消するかのような届け出は出せない。
ほどなく、自宅療養になり、つかの間の平穏な日々を二人で過ごし、そして僕は独りになった。
妻は持続のために生贄にされたのだ。
「ごめんね。もう少し長生きすれば長生きできたのにね。」妻は独り言のように僕に謝った。
「なんだよそれ。」
僕はナンセンスな文章をジョークのように軽く笑って聞き流した。
だが、心の底では笑えなかった。
そう文字通り、『長生きすれば、より長生きできる権利が得られる』のだ。
後期高齢者まで長生きできれば、負担金も少なくもっと長生きできる権利が得られたのだ。
こんな世の中にしたのは『先生』一人ではない。だが生贄だって復讐をすることを教えてやる。
善いという言葉が頭で木霊する。
妻が旅立つ数日前だ。
「私ね。生まれてよかった。貴方と会えたこともそうだけど、世界が綺麗だってわかったから」
「綺麗なのか?」
多くを諦めさせられてきた妻からそのような言葉が出るとは思わなった。
「そう。キラキラしている。健康な時は気づかなかったけど、引いてみるとみんな善いことをしようとしてるってことがわかったの。善意であふれているのよ。だからね。絶望しないでね。世界は善いところなのよ。貴方には幸せになってほしいの。」
妻が愛した世界を僕は恨んでいる。
『先生』を殺したら、その愛と決別することになるのではという想いが急に胸にいっぱいになった。
だが、落とし前は付けなければならない。
でなければ生きさせて上げられなかった僕の心が救われない。
悲鳴、警備員の緊張感ある声、飯山さんのなだめるような混乱しているような声がする。
次第にそれらの喧騒は遠くなり、首に当たるセラミックの冷たい感触と、
妻の「貴方には幸せになってほしいの」という声だけが聞こえるようになった。
僕は「もう手遅れだよ」と呟くしかなかった。
【追記】------------------------------
みなさんアドバイスありがとうございます。
みなさんおっしゃっていましたが
彼氏には値していないけど、別に嫌なやつじゃないから遊んでやってもいい。
ただ、私のこれからの動きとしては
「ガンガンいこうぜ」
の1手しか選ぶつもりはありません。
他の女性と並行してという意見も多くいただいたのですが、自分の経験と性格上、同期間に複数の女性と体の関係があると、結果あまり良くない方向に転がっていることがほとんどだから、それはしません。
つい先日、今度ラブホ行こうよ
という話になり、
私彼氏いらないんだの時の返しよりは自然に返事ができたと思います。
心から死ぬほど楽しい毎日を送れていますが、たまにこういうのでぷよぷよの全消しされた後のアレみたいに、すごい量のストレスがやってきます。でも幸せな分、全消しされた後のアレもすごいスピードで消すことができて、心の新陳代謝は高い方が自分の精神衛生は良いんだと実感しています。
春が訪れるか、世界が終わるか、状況が変わったらみなさんにまた話を聞いてもらいたいです。
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是非、lucky kilimanjaroの「エモめの夏」を流しながら聞いてください。
この話は31歳おっさんが被セフレ、メンヘラになるまでの1ヶ月間の話です。
2025年1月、昨年9月に彼女と別れて年末に転居した私は、よっしゃ。アプリでもやって人生最後の遊ぶ期間やりますか!!
中に入ると小綺麗な格好したタイプではない子が。
あれ。あの子かな。黒のワンピースって言ってたし、っぽいよな。まぁ楽しく飲むか。
というか分かんない方がワクワクするじゃん。
タイプじゃなかったら友達になっちゃおうぜ派なので凹むことはなく、声をかけると、
え、、、?は??
いや、違いますけど、、、、
あれ。恥ずかしい。そそくさとコンビニを出た。
その日はとても風が強くて寒かったにも関わらず顔がチンチンに熱かった。
そこで、イルミネーションでキラキラしてる坂の上から黒のワンピースの女性が降りてきた。
あっ。マカロン坊主さんですか?ちょっとイルミネーション見てました。
声は少し小さめで抜ける感じ。タイプやーん。糸目女子めっちゃ好きなんです!
初手当たり引いた!頑張らなきゃいけない日だ!と気合を入れた。
挨拶もそこそこにメキシコ料理のお店に向かっている道中、耳めっちゃ赤いですねwと軽くいじられる。風が強くて何度か聞き返した。
いや、寒いから〜とかいいながら、他の女の人に間違えて声かけて恥ずかしくてとはまだ言えない。
お店に着くと早速ビールを頼む。
彼女は毎日250mlのビールを寝酒として飲んでいるようで掴みはバッチリ。
掴まれた方だけど。
寒い日曜日の夜だったので人も混みすぎていなく会話するにはもってこいだった。
•同じ市内育ち
•同じ部活
•お酒好き
•別れたばっかり
もうこの時点で、遊ぶ目的で始めたけどこの子を本命にしようの心が動きだす。
恐らく一般的な男性としては自分より頭がいい女性はとっつきにくいかもしれないが、人生のほとんどを自分より頭がいい人と過ごしてきた私としては、とても懐かしく、日常を感じながら会話をすることができた。
会話の前後でそういうこと言いたかったんよな?みたいなこと考えながら喋るやつ。
次も会いたかったので帰り際の話題はどんなとこにデートが行くのが好き?という話へ。
と一言。ん?意外だな。
このコミュニケーション力ならしっかり恋愛してきたはずだしなんでだろ。
色々提案し、水族館とかどうかな?というとそれアリ!と盛り上がり、行くことが決まった。
どっちかっていうと相手主導で笑
我ながらダサいな〜と思いながらホクホクで駅に向かう。
また耳赤いよ?wと一言
駅から離れた方向に歩く人から、駅ってどっちですか?と聞かれると、するりと手を離し、しっかりと何線に行きたいか意思を聞きながら受け答えをしていた。
ぼちぼち飲んだのにめっちゃしっかりしてるやーん。
外の人と喋る時はそんな感じな。いいやーん。とさらに高感度が上がる。
その日はLINEを交換して別れた。
会話の温度感テンポ感とは裏腹に、LINEが返ってくるのは1日1回。
この辺りもこっちが沼る要因になっていそうだ。
皆さんならこのあたりで気づくかもしれないが、
流石に1ヶ月は空きすぎなので、一回ご飯いこうと誘い行くことに。
彼女は小説が好きと聞いており、食事までにおすすめを1冊読むと面白かった。
食事の日に、自分の提案で水族館までに同じ本を読んで感想言い合うということになった。
その子が同じ物事を体験してどう感じるかをどう考えるかを知りたくてしょうがなかった。
ちなみにこの日の帰り道の信号待ちに、目がバッチリ合ったので頬にキスをした。
そして一緒に電車で帰っている道中、
脳内でまだ一緒にいたくはあるけど、セックスはとっておきたい気持ちになっていた。
あれ。このパターン今までないかも。なんて言おう。そこから紡いだ言葉は
セックスが脳内にあることを前提として誘ってしまったのである。
誘い方が嫌だから無し。それなら一緒にいよ。でいいじゃん。と彼女の一言。
さっき飲んだ赤ワインが少しのぼってきたのを感じた。
この話だけは週明け仲のいい同僚にもできなかった。
その2週間後、水族館のデートの日は8時にお互いの家の間のレンタカー屋で待ち合わせをした。
女友達にその話をしたら、お前メイク舐めてんな?などなど非難轟々だったが、彼女はクソ早起きなのである。
レンタカーの手続きを済ませると、店員さんから自然とキーを預かる彼女。
あれ。俺運転する気満々なんだけど
あたしも運転好きなの!!
んじゃ、じゃんけん!
じゃんけんは基本負ける自分の本分を全うし、彼女が運転席に乗った。
曲がる時の減速とか車間距離とか気になんねー!!
半分ずつ運転して、会話が途切れることもなく楽しく走った。
動物園、水族館で重要になるのが1展示にどれくらい滞在するかである。
説明をしっかり読むか読まないか。擬態してる生き物を探すまで次に行くか行かないかなど、
その人の事象に対する熱量だったり、相手への気遣いとのバランスなど、
意外とわかることが多く私はデート先として好きだ。
彼女はというと、しっかり説明は全文読むし展示ごとに感想を言い合った。
よいよい。気にせず自分の尺で動く人好きです。
イベントの一つに子どもが魚の絵を描き、その絵がなんの魚かを水族館職員お姉さんが推測をしながら司会をして、大きな水槽の中に別の職員が潜りカメラでその魚を映す。という催しがあった。
周りの人は定期的に入れ替わったが、そもそもこの企画めっちゃ優秀じゃない?
と言いながら我々は食い入るように見ていた。
絵を描いた子どもたちはとても楽しそうだった。
彼女の少し低めの鼻と、笑った時、子どもが書くかもめみたいに線になるのがたまらなく可愛かった。
そのまま歩いて展示の説明を見ていると
後から調べると国際的に統一しているのは英語ではなくラテン語で、
◯◯属•〇〇種というルールで名付けられているのに対し、
和名は種に対して固有名詞が付けられている世界でも珍しいルールで運用しているようで、
その後も夕方にご飯に行くか、ペンギンの餌やりを観に行くかのじゃんけんに負けた後、
また、彼女は水族館もその後回った島もMAPをすぐ手に取り、全体を把握したがった。
組み立てるのが好きなようで知的でいいやーーん。となっていた。
島ではそのMAPのおかげで、メインロードだと同じ道を行って帰ってくることしかできないが、
島を一周する形で歩ける裏道を通ることができた。人がごった返していたメインロードに対し、
正直ここで告白するか迷ったけど、ひよったことは言うまでもない。
そろそろ一回引きで自分を見てみよう。
文字にしてみると歳上男性とデートに行った時の若い女子みたいな
さて、帰り道も彼女の運転で帰ることになり、レンタカー屋まで戻った。
21時にもどり、8時スタートだっため帰宅か軽く飲み行くかを選んでもらう。
いやいや、流石にというと、じゃあもう一軒いこ!おごって!と提案された。
誘導がイケメン。。。次のデートでちゃんと想いを伝えよう。。心に決めた。
カラオケ行かない?という話になった。
というのもカラオケで流す音楽の趣味がお互いにあったためである。
朝の早さも相まってかなり酔った。気づいたら深夜1時30分くらい?だった気がする。
彼女が膝の上に頭を乗せて眠い感じを出してきたので、今回は自然にホテルに誘い移動することになった。
タクシーを捕まえてドアが開くと
私、彼氏いらないんだけどそれでもいい?
と一言。
精一杯間を空けずに別にいいよと虚勢を張った。
顔はどんな表情していいかわからなかった。顔の筋肉が感じたことないところに力が入ってた。
流石にそこで、じゃあ帰る!!と言える度胸も理性もなかった。
ベッドの中で、好きだよと言うと、
あっ、この感覚久しぶりだ。と言うと返事はなかった。
衝撃の一言から1週間が経ちようやく自分で咀嚼ができるようになってきた。
ただ、彼女がなんで彼氏がいらないスタンスの人なのか深いところは聞けないし聞きたくない。
恋煩いとはよく言ったものだ。メンヘラど真ん中である。仕事の進みが明らかに悪くなった。
この週末で見つけた対処法としては、今何してるんだろう。自分のことどう思ってるんだろう。
のメンヘラ精神状態の時にジムに行き身体を追い込むと、サウナからの水風呂のような整う効果を得られることを見つけた。
脳内がぼーっとしているメンヘラ状態から筋トレをすると脳内がクリアになっていくのである。
これ新しいムーブメントになる気がするんだけど皆さんどう思います?という問題提起で結びにしたい。
ちなみにエモめの夏いいなと思った人は、同じくlucky kilimanjaroの「350ml Galaxy」を爆音で聴きながら酒呑むの最高なのでやってみてほしいです。
そして、このキモめの冬に春が来ることを祈ってください。
1990年代半ば、九州大学病院(九大病院)は病院情報システムの全面刷新を計画していた。従来の断片化したシステムを統合し、最先端のオブジェクト指向技術を全面採用した次世代システムに生まれ変わらせるという大胆な構想である
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。入札条件にも「純粋なオブジェクト指向技術で実現すること」を掲げ、業界内でも前例の少ない大規模プロジェクトに挑むことになった
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。この計画に応札した日本IBMは、開発言語にSmalltalkを採用し、社内外からオブジェクト指向開発の専門家を総動員する。日本IBM自身のチームに加え、Smalltalkの豊富な経験を持つ多数のシステムインテグレータ各社が協力企業として参画し、一時期は約200名もの技術者が開発に従事する巨大プロジェクトとなった
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。医療現場からは「21世紀を先取りするシステムになる」という期待の声が上がり、IBM側も「国内最高峰の病院に最新技術を投入できる」と意気込んでいた。誰もが、この試みに大きな希望を抱いていたのである。
プロジェクトは1996年、本格的に動き始めた。九大病院の情報システム担当者たちは、院内各部門から新システムへの要望をヒアリングし、「新システムへの要望リスト」を作成して日本IBMに提示した。しかし、その内容は具体性に欠けていたと言われる。「実現したい業務の全体像がはっきりしていなかった」のだ。病院側は約1,400床を擁するマンモス病院ゆえ、部門ごとの意見をまとめ上げ全体方針を打ち出すことが難しく、提出された要件定義書は「中身はほとんどなかった」と関係者は振り返る。一方の日本IBMも、その不十分な要件定義を十分詰め直すことなく開発を進めようとし、この問題を放置してしまった。プロジェクト序盤から、実は大きな不安の種が芽生えていたのである。
それでも当初の計画は極めて野心的だった。フェーズごとに順次システムを稼働させる計画で、第1次カットオーバー(最初の稼働開始)は1997年1月と定められていた
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。限られた時間の中、日本IBMと協力各社の開発チームはオブジェクト指向の新手法に挑みつつ、多数のサブシステムを並行開発するという難事業に取り組み始めた。しかし要件の曖昧さは各所で影響を及ぼす。開発メンバーの一人は後に「実際にはオブジェクト指向の入り口にさえたどり着けなかった」と語っており、肝心の新技術を活かす以前に基本事項の詰め直しに追われる状況だったという。
1997年初頭:見えてきた遅れとすれ違う思惑
年が明けて1997年になると、第1次稼働予定の目前になっても開発は難航していた。結局、日本IBMは1996年10月末になって九大病院側に「当初予定の1997年1月にはシステム稼働が間に合わない」と突然伝えることになる。これは病院側にとって青天の霹靂であった。代替策として「一部機能に範囲を絞れば1月稼働も可能」といった提案すら無く、一方的に延期が告げられたことに、病院担当者たちは強い不信感を抱いたという。プロジェクト・マネージャー同士の密なコミュニケーションも欠如しており、延期決定前から両者の意思疎通は十分でなかったようだ。これが最初の綻びとなった。第1次稼働時期は当初計画より9カ月遅れの1997年10月へと大幅に後退する
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。
この延期表明を境に、現場は混乱に陥る。病院側は日本IBMだけに任せておけないとの思いから、一部の協力会社と直接組んで独自にプロトタイプ開発に乗り出すなど、プロジェクト体制は分裂気味になった。一方、日本IBM側の士気も下がり始める。ある協力会社メンバーは「これほど求心力のないプロジェクトも珍しい」と当時を振り返り、リーダーシップ不足だったIBMの姿勢に驚いている。複数の外部企業(延べ10社以上)が関与する巨大プロジェクトでありながら、日本IBMは1997年10月頃まで一貫して主導権を握れずにいた、と多くの関係者が指摘する。誰がハンドルを取っているのかわからないまま巨艦だけが突き進む――そんな不安定な状況であった。
事態を重く見た九大病院と日本IBMは、1997年2月から6月にかけて要件定義のやり直しに着手する。一度作成した要件定義書を更地に戻し、業務フローも含めてゼロから整理し直す作業だ。しかしこのリカバリーにも時間を要し、プロジェクトの遅延はさらに広がっていった。「ようやく問題点に光を当て始めたかに見えたが、時すでに遅し。気づけば頭上に厚い雲が垂れ込めていた」と語る関係者もいる
。プロジェクトは先の見えないトンネルに入り込み、関係者の心にも次第に不安が募っていった。
1997年春:一筋の光明 – オブジェクト指向データベースの導入
混迷を極めるプロジェクトに光が差し込んだのは、1997年春のことである。要件定義の立て直しと並行して、日本IBMはシステムの技術基盤を強化すべく重大な決断を下した。従来のリレーショナルDBではなく、米国GemStone Systems社のオブジェクト指向データベース(ODB)「GemStone」を採用する方針を固めたのだ
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。GemStoneはSmalltalkとの相性が良いことで知られ、オブジェクト指向開発との親和性が高い製品である
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。この採用決定に伴い、GemStone社から複数名のコンサルタントが来日しプロジェクトに参加。停滞していた開発体制の再整備が行われた
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。経験豊富な専門家の助言により設計も見直され、チームはようやく開発の目処を掴み始めたのである
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。
病院側もこの動きを歓迎した。長引く遅延に業を煮やしていたものの、最新のODB導入で性能や拡張性の課題が解決されるならばと期待を寄せた。協力各社の技術者たちも「ようやくトンネルの先に光が見えた」と胸をなでおろした
。現場には久々に前向きな空気が漂う。遅れを取り戻すべく、再結集した開発チームはスパートをかけた。システム全体のアーキテクチャをGemStone前提に再設計し、失われた時間を埋めるため懸命な努力が続けられる。巨大プロジェクトは今、再び軌道に乗ろうとしていたかに見えた。
しかし、その光は長くは続かなかった。1997年7月初旬、プロジェクトに再び試練が訪れる。日本IBMとGemStone社との契約交渉が突如決裂し、参画していたGemStone社コンサルタント陣が全員帰国してしまったのだ。肝心のGemStone製品も利用不能となり、頼みの綱を断たれた開発チームは一瞬にして暗闇に放り込まれた。まさに「悪夢のような出来事」であった。
7月20日になって、日本IBMはようやく協力各社を集め緊急説明会を開いた。日本IBM側の説明によれば、「GemStoneとの交渉決裂は企業(日本IBM)の根幹に関わる問題による」という。詳しい理由として、契約書の条項に**「システムのユーザー等が何らかの理由でGemStone社を訴えた場合、メイン・コントラクタである日本IBMが全ての法的対応を負わねばならない」といった内容が盛り込まれており、日本IBMはこの重い責任リスクを受け入れられなかったのだという。さらに料金面でも折り合わず、3カ月間におよぶコンサルタント8名の派遣とソフトライセンス料などに数億円近い費用**を要求されたことも判明した。法的リスクとコスト高騰――企業として譲れぬ一線を越える契約条件に、日本IBMは最終的に「ノー」を突きつけた形だ。だが、それは即ちプロジェクトの生命線を断つことを意味していた。
この報に接した開発現場は騒然となった。GemStoneを中核に据えて進めてきたアーキテクチャ設計を一から練り直す必要が生じたためである。ある協力会社の関係者は「この時点でプロジェクトの失敗を覚悟した」とまで語っている。大黒柱を失ったチームには動揺と失望が広がった。折しも夏本番を迎え、福岡の空は照りつける日差しに覆われていたが、プロジェクトには再び厚い雲が垂れ込め始めた。
GemStone脱落という非常事態に対し、日本IBMと九大病院は必死のリカバリーを図る。1997年8月上旬、急遽代替のODB製品としてフランスA.D.B社の「Matisse」を採用する決断が下された。Matisseは国内では知名度の低いODBだが、日本でも過去にSmalltalkアプリケーションのデータベースに採用された実績があり、「何とか使えるめどは立つ」と判断されたのである。
しかし代替品とはいえGemStoneとMatisseでは機能に大きな違いがあった。GemStoneで可能だったサーバ側でのSmalltalk処理実行がMatisseではできず、セキュリティ機能も貧弱だったため、開発チームは不足分を自前で作り込む必要に迫られた。この結果、システム全体の設計をクライアント中心処理へ大幅に変更せざるを得なくなり、再び設計の手戻り作業が発生した。炎天下での再出発である。エンジニアたちは寝食を忘れ、懸命にコードを書き直した。
その甲斐あってか、1997年9月末の時点で第1次開発の主要部分を年内に実現できる見通しが立ったという。一度は暗転したプロジェクトにも、わずかながら光明が見えた。病院側も「何としても年内稼働を」という思いで支援を続ける。だが、このとき水面下では別の動きが進んでいたことを、現場の多くは知らなかった。
1997年10月9日、事態は最終局面を迎えた。この日開かれた会議で、日本IBMはSmalltalkによる開発断念と、マイクロソフト社のVisual Basic(VB)への全面的な方針転換を突如宣言したのである。晴天の霹靂とも言えるこの決断に、現場は凍りついた。幾多の苦難を乗り越えようやく目指してきた最先端技術での構築を諦め、当時広く普及していたVBという「オブジェクト指向ではない」開発ツールで作り直すというのだ。九大病院が当初求めた**「純粋なオブジェクト指向」**という条件にVBが合致するかは議論の分かれるところだが
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、病院側ももはや背に腹は代えられない。最優先すべきはシステム稼働そのもの――この苦渋の転換を受け入れる以外になかった。
実はこの決断に至る伏線は存在した。日本IBMは1997年4月頃から密かにVB採用の可能性を九大病院に打診しており、さらに8月頃からは段階的にSmalltalk担当エンジニアを現場から引き上げ始めていたという。ある協力会社のメンバーは「裏ではVBによる開発をすでに進めていたようだ」と振り返っている。つまりGemStone交渉決裂後、表向きはMatisseによる巻き返しを図る一方で、日本IBM本体は別動隊でVB版システムの構築に乗り出していた可能性が高い。振り返れば、日本IBMにはSmalltalkに固執しない理由もあった。同社は翌98年2月の長野冬季オリンピック向けシステムをSmalltalkで構築しようとして失敗し、結局VBで作り直したという“前歴”もあったと伝えられる。アトランタ五輪(1996年)では自社Smalltalkツール(VisualAge)を投入したものの、国内の大型案件では苦戦が続いた経緯があった*4。豊富な人材がいるVBなら「最後は人海戦術で何とかできる」という計算も働いたようだ。GemStoneとの契約不成立も、IBMにとっては結果的にSmalltalkを断念する良い口実になったのではないか――協力会社メンバーの一人はそんな憶測さえ口にする。
方針転換の発表とほぼ同時に、Smalltalkで開発を担っていた協力会社の大部分はプロジェクトから撤退することになった
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。10月中旬には、多くの外部技術者が病院を後にしている。自ら招いた転換とはいえ、日本IBMにとっても苦渋の決断であった。投入したリソース・費用は莫大で、一からVBで開発し直すのは会社としても大きな後退だ。しかし背に腹は代えられない状況まで追い詰められていたことも事実であろう。IBMの現場責任者は病院側に深々と頭を下げ、「必ずや残された方法で間に合わせます」と約束したという。九大病院の担当者も沈痛な面持ちで頷き、「形はどうあれ、患者さんに影響を及ぼす前にシステムを動かしてほしい」と絞り出すように告げた。
以降、日本IBMは自社内のVB技術者や、自社が持つ病院向けオーダリングシステムのパッケージ製品*5などを総動員してシステム構築を続行した
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。データベースも、当初IBMが提案していながら見送っていた自社のリレーショナルDB「DB2」を採用する公算が高まった
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。もはやオブジェクト指向の夢を追う余裕はない。現実的かつ確実に動く仕組みを、一刻も早く届ける――プロジェクトはその一点に向け再編成された。かつて200名近くいた開発陣は大幅に縮小され、構成メンバーも一変する。病院の看護師スケジュール管理など一部のサブシステムは、撤退しなかった協力会社が細々とSmalltalk開発を続けていたが、その姿はもはや主流から外れた存在となっていった
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。ある古参の協力技術者は去り際に「全力を出して戦う前に、白旗を上げてしまったという感じがする」と寂しげに語ったという。こうして九大病院プロジェクトの第1フェーズ――オブジェクト指向技術による野心的挑戦のフェーズは幕を下ろしたのであった。
VBへの方針転換後、九大病院の現場には複雑な空気が流れていた。病院スタッフにとってシステム刷新は長らく待ち望んだ悲願だったが、その中身は当初聞いていた「最新技術の結晶」から一転して、従来型の技術で作られるものになってしまった。「結局、夢物語に終わったのか」という落胆の声も一部にはあった。しかし同時に、「多少古くてもいい、とにかく業務を改善する仕組みを早く動かしてほしい」という切実な声も強まっていた。目指すゴールは変われど、一日でも早く新システムを稼働させ、慢性的な業務負荷を軽減することが現場の切実な願いとなったのだ。プロジェクトチームは日夜作業を続け、簡易な操作研修なども始めながら、年明けまでの稼働に向け突き進んだ。
そんな中、1997年11月3日付の西日本新聞朝刊一面にこのプロジェクトに関する記事が掲載される。タイトルは「九大病院システム未完 巨額費用に批判」。内容は「九大病院はシステムが未完成にもかかわらず日本IBMに月額4,250万円を支払い続けており、税金の無駄遣いとの指摘が出ている」という衝撃的なものだった。同日、このニュースは地元RKB毎日放送(東京ではTBS)のテレビニュースでも報じられ、九大病院プロジェクトは社会問題として一気に世間の注目を浴びることとなった。院内では「患者そっちのけで何をしているのか」といった批判も耳に入るようになり、大学本部や所管官庁からの問い合わせも相次いだ。追い打ちをかけるように外部からの視線が厳しくなる中、病院とIBMはただひたすら開発を前に進めるしかなかった。
結末:プロジェクトの結末と残された教訓
1998年初頭、紆余曲折を経た九大病院の新システムは、当初の構想とは似ても似つかない形でようやく一部稼働に漕ぎつけた。日本IBMは多数のVBプログラマを投入して力技でシステムを完成させ、旧来システムの置き換えを順次進めていった。最終的に納入されたのはSmalltalkでもオブジェクト指向DBでもなく、Visual BasicとリレーショナルDBによるシステムだった。かくして九大病院の「純粋オブジェクト指向システム」への挑戦は事実上の敗北に終わった。現場の医師や職員は、当初期待された華々しい先端技術の恩恵を受けることはなかったが、ひとまず業務に支障のない情報システムが手に入ったことで安堵するより他なかった。プロジェクトは当初の理念を捨てて現実路線へ舵を切ることで、なんとか沈没だけは免れたと言えるだろう。
振り返れば、この失敗の背景には最新技術への挑戦ゆえの困難もあったが、それ以上に古典的とも言えるプロジェクト運営上の Permalink | 記事への反応(0) | 21:29
私は中学受験を経て中高一貫校に入学した。サッカー部に入った。そこで相田(仮名)と出会った。相田は絵に書いたような良い人間だった。誰にでも優しく、気軽に話しかける。男兄弟が多い相田は女でも男っぽくて物事にははっきりと意見する。相田はそんな性格から先輩から可愛がられ、みんなを和ませようとお笑いに徹する奴でもあった。当然先輩からの指名で学年のリーダーとして選ばれた。すごい人がいるんだなぁと私は彼女を尊敬していた。
しかし、同じ学年の飯野(仮名)が女らしい妬みで相田の悪口を言いふらし、明らかに相田を嫌っていた。他の同学年部員からしてもこの根も葉もない悪口を言いふらす飯野は嫌いだったが、ボス猿のように態度がでかくヒステリックを起こす面倒な奴だったのでみんな飯野に乗って相田と距離を取っていた。
私はいじめられ経験もあって「こんなやつの味方になるかよ」と思って相田には普通に話しかけていた。嫌われているのかなと落ち込んでいた相田に「嫌われて上等。無視して、人生楽しんでる姿見せつけたれ!」と偉そうに言ってしまった。実際私がいじめられていた小学生の時は無視で乗り越えていたのでそれしか解決方法を知らなかったのだ。
私は徐々に練習についていけなくなった。小学生と中学の部活はレベルが違う。次第に足を引っ張る私が飯野の標的になった。そのころには飯野は先輩/後輩には可愛い面と態度で、同学年にはボス面でヒスっていた。くそアマがぁ…殴り合いしたら勝てるのに…と体格差的に思っていた。本当に夢小説に出てくる嫌味女そのものだった。
そんなある日、部活のミーティングで部長から「増田は一人で練習するな。もっと同学年と仲良くしろ」と公開お叱りを受けた。私は飯野のせいで一人で練習せざるを得なかったのだ。そんなんだったら一人でできるキーパーになってやるよとポジションを変えた。パス練習で明らかにハブられて、壁に行こうとしていた私に「一緒に練習しよう」と相田が言いに来てくれた。互いにショートヘアーだったので「短くしたとき親が嫌な顔してたね~」とかショートヘアー談義してた。
.
人間関係が嫌になって部活に行く頻度が減った私に「今日は来れる?」「ちょっとだけでもいいからさ!」と励ましてくれた。私なんかいても空気悪くなるだけだし、中3の時辞めようかと思ってと伝えるといつも笑顔な相田が真剣に叫んだ。「嫌だ!増田だけだもん、ウチに意見を言ってくれるの!」
その時、私は合宿所で夜中、相田とおしゃべりしたことを思い出した。就寝時間まで自由行動だったため、私が探検がてら合宿所をウロウロしていたら、同じ考えだった相田と出会ったのだ。合宿所の玄関でお互いの兄弟についてや進路について語ってた。家庭内の相談ばっかだった。私は馬鹿なので「それやば!」「大変だね」しか返答できなかった。ごめん。相田がお菓子禁止の家なので「お菓子の密輸ならまかせな!」くらいしか頼りあること言えなかった。先生に寝る時間だぞと言われても飯野のいる部屋に帰りたくなく、怒鳴られるまでそこで話してた。
それもあり、相田は良い奴だからと辞めるのを悩んでいたが、心身ともに疲れたうえに他の1人が辞めるというので一緒に辞めた。
「部活辞めても友達だからね!」と言われた私は小学生のいじめられたトラウマで「あぁ…うん」と微妙な返事しかできなかった。
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そこからは相田とクラスも違うし、関わらなくなった。高校になると学年の中でも生徒会長の次に有名な相田になっており、人望あり・信頼あり・成績優秀。私はひっそり見上げるだけの存在になっていた。すべてができる相田を尊敬していた。最高の陽キャなのだ。私はオタク面白女の位置だったらしく、ネットのことなら増田に聞こう!と学年で噂の辞書ポジションになっていたので関わりは無くなってた。今思えば「"ぬるぽ"と言うのは…」と説明していたのきしょすぎる。AAも教えていた。殺してくれ。
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高3の時、相田と最初で最後の同クラスになった。その時に一度だけ隣の席になった。
道徳か保険か忘れたが、授業で隣の人の手を握って10個褒めましょうな時間があった。女子校なのにみんなデレデレしていた。やっぱり面と向かって褒め合うのは恥ずかしい。
相田も例にもれず恥ずかしがっていたが、私は早く終わらせないと最後に目立つと思い、相田の手を取って「さっさと言えば恥ずかしくないから」と言い、相田は「ウチから話す!」と「面白い、相談乗ってくれる、優しい、頼りがいがある、背が大きい、力持ち…」。すげー恥ずかしい。カーストてっぺん太陽キャ優秀で尊敬している相田に褒められている状況は、学校帰りにお小遣いを音ゲーに使っていた私には眩しい。
「増田、絵描くよね。ほんと上手だなって思っていて、羨ましい!でもまだまだって言うよね?すごい!センスある!」と言われた。当時は絵ばっかり描いてオタクしてて親から受験が成績がどうのこうの責められていた時期だったから、嘘でも御世辞でもすごく嬉しかった記憶がある。
私も相田を褒めた。「二次元にいるような素晴らしい性格、まさに主人公」とかばかあほみてぇな褒め方した。黒歴史である。最後の1個焦って「可愛い!」と言ったら互いに顔真っ赤になって、相田がふざけ始めなかったら百合漫画になって危うくLove so sweetが流れ始めるところだったなァ!ってふざけて直接言った。爆笑してくれたからよかったもののの、キショい。セクハラだから永久凍土に埋めてほしい。
センスあるという言葉が残っていて、「センスあるのかな」と別の文化部に入っていたので賞に応募したら一度だけ賞を取った。それでAO入試を応募する気になったので、相田には大人になった今も感謝している。
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そんなエピソードがあったが、卒業後は所属しているグループも違えば私はTwitter、あっちはインスタ・FBくらいの違いがあるので会う事も話す事もなくなった。
そしてこの前高くて高いホテルで同窓会があった。出席簿をみたら相田も参加していた。でもしばらく話していないしなぁと思って、私はいまだに関わっているオタ友と喋っていた。そしてお手洗い離脱をし、途中の夜景が見えるところでガキみたいに「うぉ~すげ~」と小さい車や残業の光を見ていたら声をかけられた。
相田だった。まさか声をかけられるとは思っていなくて不細工な顔をしてしまった。っというかこんなドラマみたいな再開あんのかい!とかキショイ突っ込みをした。バカが。
でも相田は「さすが増田!面白~い!」と笑っていた。その後は仕事の話や他愛のない話をして開場まで歩いた。
「私の事よく覚えていたね」と謙遜したら「友だちじゃん!」と返され、相変わらず良い奴だな~と思った。
「今も絵描いているんだって?」と聞かれたので「うん。楽しくてね」と返した。私は一次創作を趣味で嗜む程度である。「プロにはならないの?」「まぁなれたら嬉しいけど…」「なってよ!」
ずいッと身を乗り出して言われた。「いやいや、もう年だし、今の仕事も楽しいし、フォロワーも数百人だし、それに一度も佳作すら…」と続けて言い訳したら「嫌だ!頑張ってる増田もっと見たい!」と言われた。
「恥ずかしい事よくいえるね」と照れたら「だって見てるもん。Twitter!」
???????????????????????????????????????(ここに宇宙猫)
アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ??????!!!!!!なんで知ってんねん!!!!!!!!!!!!!!!!
「どうじんし?ってやつ?どこかで売ってるんだよね?」
「待て!」
「増田の絵好きなんだ。羨ましい!この前の絵もめっちゃ上手だったね!」
「待て!」
卑しいものは描いていない。いたって普通の全年齢の漫画とイラストだ。でもこんな、よりにもよって、尊敬していた人間に見られているという事実が!
その時ニタ~っとのぞき込んで笑う相田の顔が今も忘れられない。からかうのが好きな相田だと忘れていた。
「だから、やめないでよ?好きなんだから」そう相田は言い、他の人に呼ばれて会話は終了した。
いまだに私の絵を好いているなんて思いもしなかった。
でもずっと一次創作して「何やってるんだろう…」と落ち込んでいた時期でもあった。なんだかな。まだ私の絵を羨ましがってくれている彼女のことを思うと、続けているのは間違いじゃなかったのかなぁと思う。正解や不正解なんてないけど、これが理由でもいいかなと思う。むしろ彼女が寂しがらないようにプロにならなくとも続けようかな。プロを目指す人には敵わないけど、もう少し持ち込みやコンテストも頑張ってみようかな。忘れないように書き残しておこうと思った。
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最近、仕事よりも家庭を重視する夫が増えてきた。本当に素晴らしいことである。浮気もしない(妻以外の女性に興味を示さない)、家事を妻よりも主体的にやる、仕事も真面目にこなす、休日は家庭優先、これが当たり前の夫が身の回りでも多い。
しかし、そんな夫でも妻からめちゃくちゃ怒られている。中には人格攻撃を受けている者もいる。私は彼らの話を聞いたり、あえてその妻からも背景を聞いて考えをまとめてみた。
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女性の恋愛は「上書き保存」だと言われているが、妻の夫への不満は「名前をつけて保存」である。
普通の人間関係であれば嫌なことがあってもそのうち忘れたり、もういいかと記憶の端に追いやっていく。
ただ夫婦関係においては「もういいか」にはならない。些細なコミュニケーションエラーが発生し、客観的にはお互い様な事案であっても、妻はそれを「名前をつけて保存」していることを忘れないで欲しい。
妻の保存したデータは精神状態がポジティブな時に開くことはないが、ホルモンバランスが崩れた時に(自分自身きっかけだったり夫の不用意な言動がきっかけで)「あの時のあれ、もう一度見返すか」とフォルダから夫の悪事データを開く。さらに都合が悪いことにひとつのデータではなく複数のデータを同時に見返してしまうのだ。
※その見返すデータはもともと嫌なこととして保存されているが、ホルモンバランスが崩れた状態なのでさらにネガティブな解釈で読み込みをされる。
上記の脳の状態になっているので、妻は過去の記憶を昨日のことのように次から次へと鮮明に思い出す。その結果、青天の霹靂のような夫への問い詰め・説教へと繋がるのだ。夫側からすると「急に何を話したいのか?過去の話をなぜいま?それは既に話し合って謝罪したはず。いまの議論と関係ないのでは?」と困惑する。しかし、妻は記憶のデータフォルダを大量に開けている状態だ。過去の嫌な出来事を『再放送一気見!』したばかりなので熱量が高く、夫が「私に嫌なことをする人間」にしか見えなくなっている。つまり長い目で見れば良いことも悪いことも山あり谷ありの時系列だったり、さまざまな人間性があるということは消え失せ、夫を"悪いことしかしていない悪事の集積"でしか見れなくなるのだ。だから夫が、線や面の思考で「ここまで家事をしているのに、ここまで家族最優先で動いていたのに、妻の望みも最大限叶えてきた」と訴えかけても妻の目の前にはその献身的な夫はどこにも存在していない。目の前には「嫌がらせ・気遣い無し・自分勝手の塊、傍若無人、そういった事実が積み重なった妖怪の夫」だけが存在しているのである。その状況で妖怪夫が妻に対して正しい認識や会話の整理、論理的な対応をしたとしても妻は妖怪の言うことなので耳を貸すわけがない。
妖怪は人間でない。人間ではないので「これを言うと相手は傷つくかな?気持ちが落ち込むかな?」という相手を思いやる気持ちを妻は持たない。ただただ目の前の妖怪に"ここ最近で受けた仕打ち"の仕返しをして、妖怪を改心させようとするのだ。
もちろん夫は妖怪でないため、何を言われているか分からないし理解もできない。何なら過去の記憶にない話から最近の言動、パーソナリティを全てネガティブに捉えられて、終わりがなく長々と話されるため、当然パニックになる。大きな不満があるならば根本を解決をしたり、今後に向けて改善したいと思い提案するも妻は「そういうことではない」と全否定する。そりゃそうだ、妖怪の話を聞く人間なんてこの世には存在しない。
こうやってお互いが見えているものが全く異なるため、夫は妻のことを"理解不能の宇宙人"と捉えるしかなくなり、自分に対して敵意を持つ人になってしまうのだ。夫が妻の話を聞かないのは妻が嫌いなのではなく、宇宙人の言語が分からないのだ。
これがお互いがお互いを「話がわからない人」と罵る構造なのである。
この状態の解決策は今のところない。おそらく妻側のホルモンバランスが落ち着いてくれば妖怪だった夫が徐々に人間の姿に戻るだろう。夫は自分が妖怪になっていることを自覚し、ひたすら妖怪然として妻の話を聞いて改心すべきである。間違っても相手を宇宙人扱いにしたり、自分は妖怪ではなく人間だと言ってはならない。なぜならば妻の目の前に写っているは妖怪だからだ。
ちなみに予防策もない。日々の行動を改めようにも人間なので何かしらのコミュニケーションエラーは必ず発生してしまう。なのでこの事案は対処療法案件なのだ。
もちろん全てうまくいっている夫婦もいると思うが、大なり小なり夫婦関係が折り合わない事象が発生しているだろう。上記は夫婦の性別を入れ替えても当てはまるケースがあると思う。もしかは上司・部下の関係でも発生するかもしれない。この文章は特定の個人・属性を中傷したり軽蔑したりするのではなく、全人類がホルモンバランスによって受ける挙動を言語化したものである。3日後に私がそうなるかもしれないし、10日後にあなたがそうなるかもしれない。大切なのは起きた事象を客観視して書き起こしをして、メタ認知の共有としてリレーしていくことだと信じている。
諸君の健闘を祈る。
でも外圧で動いているのは外圧を受けた当事者でなく、周囲を取り巻く「世間」という名の「内圧」である。
「外圧がないと動かない」と批判している連中が外圧により動いてるに過ぎず、それで内圧が高まることにより企業や団体が動くのである。
これは「身内下げ」を得意とする日本人に見られる特徴であり、「他所様」に悪く見られることで同胞を打ち、自分がよく言っときます!というような態度をとることで謙遜や自省に見せかけた逃避をするのである。
中居氏の傷害が問題なのであれば、それは示談で解決していると見ることもできる。しかし今「世間」が言及しているのは上納システムである。
これは世間は青天の霹靂で全く予想だにしなかったことなのか?怪しいものだ。
ジャニーズの件も、いくつかの日本人は聞いたことはあろうし、暴露本もあった。にも関わらずBBCに指摘されてさも今知ったかのように追及する。どれだけ看過してきたのか?
身内下げをする日本人。自分の子どもを「倅」と呼ぶ日本人。そういった文化はやめようという世の中にやっとなってきたのかと思いきや何のことはない、全く変わっていない。
批判する行為すら自分の考えでなく、外圧がないと変わらないんだ!と宣う。
恥ずべき民だな、我が身内は。
1年弱の結婚生活がもうすぐ終わる。
仕事の都合で別居婚だったので離婚することにそこまでのダメージはないのだが、それでもそれなりに疲弊した。
不貞でもDVでもなく突然降ってきた不幸が原因で、そのことは100%夫が悪いということで離婚話そのもので揉めることはなかったが、彼は自分の不幸のことで精一杯だったので私が先導して離婚の準備をすることになった、それも2週間の急ピッチで、という点が大分しんどかった。
最初はお互いに愛のあるうちに気持ちよく別れましょうという気持ちでいたが、全ての話がまとまった時には、彼は私の好きだった夫ではなくなっていたし、私も疲れ切っていてしばらく愛だなんだと言う気持ちにはなれそうにないと感じた。
青天の霹靂に振り回されて正常な判断ができていない彼が、沈みゆく泥舟に自ら乗ってゆくことを止められなかったのが心残りではあるが、最後に差し伸べた手を振り払ったのは彼自身である以上、これ以上私になす術はない。
業界までは言えないが、観光の仕事をしている。イベント・行事をこなしていく感じの仕事である。
今日はちょっと悩みがある。ちょっと、どころではないかもしれないが。罪悪感がある。
私は役職でいうと、係長とかリーダーとかその辺である。40代前後なので、まあこんなものだろうか?
今の部署は5年目だ。ちょうど2年前、つまり部署3年目だった時の話をする。ちょっと長いけど読んでほしい。適宜フェイクを入れるが、本質は残したつもりである。
後で読み直したんだが、表現がなんか小説みたいになってる。これは、私個人が精いっぱい思い出そうとした結果である。ご容赦願いたい。
イベントや定例行事、式典の数が多すぎて辟易していた。係メンバーが私を含めて6人いて、その過半数はイベント関係の仕事を持っている。
かくいう私は、うちの会社が直接やるイベントはもちろん、関係組織のものまで含めて課長クラスと一緒に出る必要があった。土日祝日の出勤になる。正直、休暇日数は少なかった。有給は使い切れず、年間休日は110日を割っていた。
会社直営のイベントだと時間外手当が出るが、関係組織のものは顔を出して談笑するのが主で、接待を受けることもあったからか、勤務日とはみなされなかった。話の相手方は全員年長者で、けっこう気を遣うにもかかわらずこの扱いだった。
勤務日にしてくれてもいいのに、という愚痴は置いといて。私をよく手伝ってくれる女性がいた。私と同じ部署3年目の子で、Sさんとしようか。Sさんは仕事ができる系の女子だった。彼女が担当する仕事のイベントはもちろん、ほかの仲間が担当のイベントで人が足りない時とか、人が足りている時ですら休日に出てくれた。私が出るイベントは、おそらくすべて出てくれている。
あの子はまだ20代半ばで、一応結婚はしてるけど……遊びたい盛りのはずだ。それを、こんなに休日を犠牲にしてくれて。振替休日もまともに取ってなかった。私の上司としての甲斐性がないせいでもある。
クールキャラで、そんなに感情を出さない子だった。いつも黙々と働いていた。あ、でも笑う時はすごく笑う。でもあの子は、きっと我慢していたと思う。職場の仕事初心者とか、働かない年長者の代わりによくがんばっていたし、体力のいる仕事だって、身長小さめなのによくやっていた。
この年はしんどかった。イベントの数も多かったが、とある特大行事があった。うちの部の責任者がゴリ押しで進めていたもので、そのうえ役員連中が政治力で開催地を勝ち取ってきた。
ざっくり言うと、昔プロ野球で大活躍した選手を何十人も集めて、地元チームと試合をしたり、少年少女に野球を教えたりするものだ。
で、その準備がまた大変だった。係総動員で挑んでも人手が足りないほどだったが、結局私とSさんがほぼメインで毎日残業して取り組んだ。そんな月日が三ヶ月以上は続いた。
あれは……開催まであと1週間というところだった。時期は6~7月かな。
その日は、開催場所(地元野球場)まで2人で車に乗って行って、選手観客の導線に無理がないかを確認したのと、台本に合わせて実際の全体の動きをデモンズソウルしていった。いくつかの問題点を見つけて、ああしたらこうしたらとまとめていって、終わる頃には日が傾いていた。
社用車で急いで職場に帰った。夜8時頃に事務所に入ると、その日にやろうとしていたグッズの数確認(検査検収)が全く終わってないのを確認した。私の仕事なので、終わらせて帰ろうとしてたら、Sさんが手伝いを申し出てくれた。
一緒に雑談しながら、しんみりとした疲労感の中でカウントしていった。何を数えていたかはもはや覚えてない。スタッフ用の記念Tシャツだったと思う。
今もそのクソダサTシャツは自宅の箪笥に仕舞ってある。正直クソダサTシャツではあるが、ぺこーらとかヒカキンとか、その他の著名Youtuberが着用したら一周回ってアリなのかもしれない。
結局、終わったのは夜9時過ぎだった。さあ帰ろうかとなったが、段ボールに入ったグッズを真っ暗闇の印刷室兼倉庫に運ぶ必要があった。
作業自体は10分も要らなかった。Sさんが手伝ってくれていた。印刷室の入口は電気を点けてない。廊下の明かりがちょっと漏れていたので。私の分が何往復かして終わって、あとはSさんの1箱分だけだった。
その時、Sさんから段ボール箱を受け取るところで、私が疲労のあまり躓いて、Sさんにぶつかってしまい、一緒に転びかけた。それで、気が付いたらSさんの手が私の肘のところにあって、段ボール箱は床に落ちた。
私が拾おうとしていると、ほぼ暗闇の中でSさんと目が合った。パッチリと合ったのだ。
私もSさんも疲れていた。私が「フフッ」と笑うと、Sさんも笑顔で吹き出した。私は気が付くと、Sさんの両手を握っていた。
「「あ……」」
そういう雰囲気だった。
Sさんの目をまっすぐに見て、一歩足を踏み出して、頭の後ろと肩のあたりをグイっと抱きしめた。Sさんの後頭部のあたりが汗臭かった記憶がある。私もおそらく臭かった。
Sさんが両手で、私の脇腹のあたりを猫の手みたいにして握りしめた。Sさんの胸部の感じが、私のみぞおちにあった。
やがて、抱きしめるのをやめると、暗闇の中にSさんの顔が間近にあった。
「ごめんね」というと、「なにが……? 何も嫌なことないですよ」って、震えた声が返ってきた。
それから、印刷室で段ボール箱の整理を終えると職場に帰った。Sさんが後ろから付いてきてる。PCをシャットダウンして、天井の明かりを切る前にSさんに「帰りは?」と聞いたところ、「自転車です」だって。
「もう暗いぞ。車で送っていこう」
「ほんとに。送ってくれるんですか?」
「いいです」
「お腹空いたな」
「空きました」
こんなやり取りだった。あと三行くらいはあったろうが、記憶はとうに消えている。
それからは、会社から離れた国道沿いのラーメン屋でご飯食べて、帰りの駐車場で車に乗ろうとする時、Sさんが運転席の辺りまで来て、私をずっと見詰めていて、それから……「どっか寄る?」「いいですよ」みたいなやり取りがあった……そして、駅前のシティホテルに車を停めて、罪悪感と一緒に……Sさんと一緒に部屋に入った。
どんな行為だったかな。ぎこちなかったと思うけど、意外と相性がいいところもあった。
ダブルルームに入ったら、すぐに扉を閉めて、Sさんにキスをした。扉に押し付けるようにして、ずっと長い間していた。Sさんはやや小柄な方だった。唇の位置を合わせるのがちょっとしんどかった。胸が思ったより大きくて、それがキスの障害になることもあったが、構うことなく続けた。
終わったら、Sさんの手を引いてベッドまで連れて行った。明かりをつけてわかったけど、Sさんはほぼメイクをしてなかった。「現場仕事だからか」と思いながら、ベッドの前でもう一度キスをした。今度は、何度も何度も、しつこく舌を入れて、ディープキスを堪能してから、そのまま行為に及んだ。
※シャワーは事後だけ浴びた。深夜が近くて時間に余裕がなかった
ベッドの中では……Sさんはすごく甘えてきた。お互いにいろんなところにキスをしあったけど、Sさんは前戯の時も、本番の時も、私のことをギュッと抱くようにしていた。昔ダッコちゃん人形というのを実家で見たことがあるけど、あんな感じだった。
私がSさんの上にいる時も、Sさんが上になってる時も、どっちかの手で、あるいは両手で私の体に触れていた。
やはり胸が大きかった。私も舐めたり、触ったりしたけど、なんだか固い感じがした。でも、ベッドの中で女性の体に触れるのは数年ぶりだったから、ずっと胸を攻めていた気がする。太腿とかも舐めたり触ったりしたけど、柔らかさよりも筋肉質な感じがした。
どんな体位をやったかは、鮮明に覚えてる。Sさんは基本、挿れている時はずっと同じ態度だった。よく言うと甘えるような面持ちで、悪く言うとマグロだった。
正常位の時も、バックの時も、対面での座位の時も、後ろから背中とか胸を攻めてる時もそうだった。甘えるような声はたくさん出すけど、そんなに動くことはない。
最後はベッドのすみっコぐらしで、Sさんを正面から抱きかかえると、ベッドの端でゆっくり、ゆっくりと、お互いに座位で振動しあっていた。動きにくい態勢だったけど、それがよかった。もし私がAV男優だったら、よいしょっと持ち上げて、入口の扉あたりまで移動して行為をするのだろうか。私にそんな体力はない。
行為の最後に、Sさんと顔を近づけてる時、「愛してます」と伝えた。Sさんは、その場で大笑いしていた。「そういうものかと思って……」と伝えると、さらに笑っていた。
キスをして口を塞ぐと、Sさんも合わせてくれた。Sさんの涙かもしれない液体が、私の頬のあたりを伝ったのを覚えてる。
全てが終わった後、私がベッドの端に座って、付けていたゴムを取ろうとしていると、Sさんがベッドのすぐ下でしゃがんだ恰好になった。私のゴムを手でちょっと握ったと思うと、口を使って取り外してくれた。
それからSさんは、私のを舐めて綺麗にしてくれた。本当に、すべて綺麗になるまで舐め取ってくれた。終わった後で、私の汚い液体がSさんの顔とか乳房にくっついているのを見た。
「付いてるよ。拭かないと。私が拭いてあげる」と言ったら、Sさんは自分で乳房を動かして、自分の舌で汚いものを舐め取っていた。
その時、私はベッドの上からSさんを見下ろしていた。Sさんの体を覗き込んでいた。若々しい身体で、シミなどは一切なかった。女性が男性よりも美の努力をしてるだけかもしれない。
その後、一緒にシャワーを浴びた。名残惜しいと感じて、シャワーを浴びながら、Sさんを真横から抱きしめるようにしていた。お互いに頭の横をくっつけあって、シャワーを浴びてた――私の記憶はそこで終わりだ。
帰り道のことはあまり覚えてない。Sさんが旦那さんと暮らしてる新築の家の付近に車を停めて、深夜にSさんを見送ったシーンは辛うじて記憶に留めている。
野球のイベントは無事に終わった。あれから、Sさんとは普段どおりの関係に戻った。誰の目から見ても、普段通りの上司と部下だった。Sさんは仕事ができるクールキャラで、たまに大笑いをしていた。それも変わらなかった。
冬前になると、Sさんが産休に入ると言った。青天の霹靂だったけど、以前から覚悟はしていた。結婚してるんだし、そういうこともあると思っていた。Sさんの代わりとして、臨時雇いの人が来ることになったが、それからは残業が嵩むようになり……あれはキツい日々だった。
でも、Sさんが職場に帰ってきた時のことを思うと、此処を維持するためにがんばろうと思えた。
結局、Sさんが戻ってくるのに一年以上かかった。出産後、産後休暇を取得して子育てに専念したことによる。
今年に入っていつだったか、Sさんが乳幼児の子どもを職場に連れてきた。ベビーカーに乗っていた。1才くらいかな?
其処に集まった女性陣の後ろから、ヨイショッとその子の顔を覗いてみた。Sさんがみんなに見えやすいように抱っこしていた。
その時ほど戦慄したことはなかった。あんな感じは、人生で初めてだった。後悔とは違う。自分が後悔してないのはわかっているけど、それでも恐ろしい感じ。感情の名前が思い浮かばない。
Sさんが私の方を見ようとした時、私はちょうど目を逸らして、デスクに戻るところだった。もうちょっとでSさんと目が合っていたかもしれない。
あの女の子、私と目の感じが似ている。鼻もそうだ。そのあたりから下のパーツも似ている。一目でわかるくらい、それほど似ていた。
これって、もし、あの子が私の子どもだとしたら、バレるんだろうか? 旦那さんがDNA検査するとか言わなくても、病院が提供したデータでバレるんだろうか?
ここまで読んでくれた増田の人は、人生経験が豊かなのではないか? 私はまだ40前後である。どうしたらいいのかわからない。
私はどうすればいいのだろう。どういう心持ちでいればいいのか? 不安でしょうがない。どなたか、なんでもいいのでアドバイスがおありでしたら、何卒ご教示願いたい。
「うちではもうこの量を確保できません…何処か別の薬局を探してください」
青天の霹靂。持病により恒常的に抗生剤を使用している身からすると、調剤のお断りはライフラインを断たれるに等しい。
俺に死ねと言うのか!と怒鳴りたかった。出来なかった。薬剤師さんたちもどうしようがなかったのだろう。絶対的に薬が足りてないのだ。僕に確保してもらっている分があれば何十人もの患者に抗生剤が行き渡るだろう。僕がいなければ、僕が…。
別の薬局をと言われたものの、国内第1の大手ドラッグチェーンよりも調達力のある薬局なんて存在するのだろうか。正直絶望的な気持ちだ。
薬が無くなるまであと二ヶ月、薬不足の収拾が一向につかない中で今後生き残ることができるのだろうか。
ここ数日、増田界隈ではぬいぐるみペニス現象(ただの友人だと思っていた友達が突然恋愛感情(もっというと性欲)を見せてくると、女はドン引きする)について分かる・分からんの話が盛り上がっているが、今日Xで流れてきたある男性の「オペラ座の怪人」の解釈が、扱うものや主張の方向性は違えど、同じような議論の呼水になっていた。
事前情報としてお伝えすると、オペラ座の怪人といえば劇団四季でもお馴染みの、フランスの伝奇小説を叩き台にした、メロドラマミュージカルだ。オペラ座のコーラスガールのクリスティーヌが、謎の存在「オペラ座の怪人」に見出されてプリマドンナになるとともに、突然現れた幼馴染のイケメン貴族とあっという間に恋に落ちたため、怪人が嫉妬に狂って人を殺したりシャンデリアを落としてオペラ座を破壊したりする話である。
物語のラストで、怪人はクリスティーヌに「俺と結婚しないとお前の恋人を殺すぞ!」と脅迫するのだが、そこでクリスティーヌは怪人にキスをする。怪人は泣き崩れて、クリスティーヌを恋人ごと逃してやる。この切なすぎるラストは、いろんな解釈を産み、きちんと出版された二次創作や、さらには二次創作ベースの別のミュージカルなどもある。
今日Xに流れていたのは、デジタルデザイン分野でご活躍されている男性のツイートで「劇団四季のオペラ座の怪人を見に行ったが、ラストのキスシーンを2人が愛し合っている証だと理解できないほどに日本人の読解力は弱くなっている(要約)」というものだった。重ねて、「原語(英語)のままで鑑賞できない、日本人の英語力の問題だよなあ」という発言もあった。ただ、私もオペラ座の怪人は日本語版でも英語版でも複数回鑑賞し、英文のスクリプトも精読したこともあるので言いたいが、英語で読むと余計にそんな単純な話じゃないと思う。
ある一つの解釈としていえば、オペラ座の怪人は典型的なぬいペニショックの話でもある。うっかり幼馴染のイケメンといちゃついているのを見られて、怪人の怒りを買ったクリスティーヌは殺されかける上、その後拉致監禁され、無理矢理に怪人と結婚させられそうになる。クリスティーヌは強いショックを受け、そのうちに怪人を憎み出す。クリスティーヌにとって怪人は、死んだ父の代わりであり、腕のいい教師であり、何かと融通を聞かせてくれる守護天使なのだ。そんな相手が自分と結婚しろ、彼氏とは別れろなど、彼女からすれば青天の霹靂、ぬいぐるみ(無害な存在、なんなら都合のいい存在)が性欲モロ出しで迫ってきたも同然である。そのため、作中ではクリスティーヌが「ずっと私を騙してたのか!」と怪人にブチギレるシーンがある。観客からすれば、怪人がはじめからクリスティーヌを性的に見ていることは見て取れるが、怪人は「私は君の父親、守護天使」とあくまで下心がないとクリスティーヌには振る舞うため、クリスティーヌからすれば怪人は性的なことから遠いぬいぐるみである。
オペラ座の怪人はぬいペニ現場の分かりやすい例だと思っていたのだが、人によってはこの2人に男女の愛があると解釈し、あまつさえ「この解釈ができないのは日本人の読解力が下がっているから」と決めつけているので、こりゃあぬいペニ現象も分かる人・分からない人に別れるよなあと思った。
怪人とクリスティーヌは、怪人の思いが隠れているうちは信頼関係があった。なんなら2人に肉体的な接触はなかった。しかし、クリスティーヌの彼氏の登場により、怪人は粗暴な手段でクリスティーヌに言い寄り、結果ドン引きされている。ぬいぐるみにペニスがあるわけない、という思い込みが外れたショックに加えて、怪人がペニスを押し付けてくる(比喩)速さ・手段の荒々しさに、クリスティーヌは引いている。これで「ぬいぐるみだと思う方が悪い」「ペニスがないと思い込む方が悪い」というのは、さすがにクリスティーヌが可哀想ではないか。
それでも、これが怪人とクリスティーヌの激しい恋の物語で、ラストは愛し合いながらも引き裂かれる2人だ、それが正しい解釈だという風に言われるならば、ぬいペニ現象について理解が進むのって難しそう〜とげっそりしてしまった
【追記】
思わずしていろいろな方に読んでもらえて嬉しいです。
ただ、一部の私の言葉の使い方がまずくて気分が悪くなってしまった方には本当にごめんなさい。
祝ってくださった方、ありがとうございました!
【本編】
40歳の誕生日を迎えた日に私は、自称”地元の郷士”を名乗るご年配のご婦人に罵倒されていた。
なんでも、絹ごし豆腐と思って買ったそれが木綿豆腐だったらしく、絹ごしの気分だった喉が酷く傷ついたらしい。
何できちんと「これは木綿です。絹ごしではありません」と明記してくれなかったのか、と。
たしかにそれはたいへんだ、申し訳ないことをしたと思いながら無心で謝罪をしていた。
その心の裏側では今どきのゴーシさんって自分で豆腐を買いにくるのか、ゴーシさんもご多分に漏れず人手不足なのかなぁ、と余計な憐れみを感じていたことをあわせて詫びていた。
そんな心を癒してくれるのは、いない恋人でも友達でもなく、ヲタ活だった。
これさえあればどうとでも生きていける。
ずっと自分の推しを追うことに残りの時間全てを捧げようと決意した。
田舎住まいの私には、推しのコンサートチケットを入手する手段はコンビニ発券しかなかった。
コンビニ店舗に設置してある端末を使って引換券を発行して、店員さんにお金を払って紙チケットを発券してもらうやつ。
ある日、講演が近づいた某コンサートのチケットを発券するため、近所で唯一のコンビニに行くと
とてもびくびくした様子の店員さんがあたふたした様子で対応してきた。
「あの、私新人で、いまちょうど一人しかいなくて、わからなくて、、、」
毎日毎日、すげー”偉い”と自称されるお客様相手の仕事をしていた私はそういうの自分のことにしか思えなく、
「いいよいいよ、ゆっくりやってくれれば」
と本心から告げると多少は落ち着いてくれたらしく、その後、たどたどしいながらも何とか発券までたどり着いて
「おおー 券出たね やったね」
と口にしたら
「よかったー ありがとございますぅ」
と安堵した表情に何故だか自分自身が救われる気持ちがして、清々しく店を後にした。
と、多分普通はこれっきりのちょっと気持ちが和んだいい話で終わるところだろうけど、
発券できる場所が近所にたった一つしかないド田舎でヲタ活邁進を決め込んだ私と、
バイトできる場所といったら同じく唯一のコンビニしかないその人とが顔を合わせる機会が積み上がっていくのは必然で、
ある時「これ、すいません、ご迷惑かもとはわかっているんですけど、どうしても、、、」と泣きそうな顔してLINEのIDを渡された。
その時にはさらに年月が流れてて自分は41になっており、そこまで生きてきててもこんなことただの一度もなかったから。
与えられた好意。
実はその人もヲタ活盛んな人で、しかし推す方面が全く異なっていて、逆にそれがお互いを刺激し合い、
ますます惹かれる存在になることは付き合い始めて知ることになる。
これからもいろんな推し活を一緒にして、たくさん楽しい事したい。
推し活は軒並み中止。
私は当時働いていた偉いお客さま方が集う職場を急きょ解雇された。
あー
やっぱ私にはいい事なんてないよねー 知ってる知ってるわかってる。
対して、そんな昨今に立派な就職口が決まった元コンビニ店員さん。
身の程をわきまえて、自ら身を引くことを決意してそう切り出した。
そしたら、すごく泣かれた。
お客さんに怒られることが怖くて不安でたまらなかったレジ打ちバイトのときに、自分のきょうだいに接するみたいに優しくしてくれたこと、
全くのジャンル違いのヲタ活を尊重して一緒に楽しんでくれたこと、
優しくとか、尊重とか、正直全くそんなことを意識してたことはないんだけど、
”かけがえのない”と思ってくれていたことに感動して、もう何十年ぶりかに自分もアクビか足の小指をこっぴどくぶつけた時以外の涙を流して
こんなしょうもない身空な自分だけど一緒に生涯ずっといて欲しいと懇願した。
当時のパンデミックはそれはそれは酷いもので、結婚式場は軒並み経営難を強いられていた。
そんなときに「パンデミックおさまったら絶対に式を挙げるぞプラン!」というものをやってる式場をたまたま見つけた。
なんでも2020年を起点にした年数後分、割り引いた挙式費用を前払いすると、本当にその費用でやってくれるという。
最大は2024年まで、当時の4年後だ。
もしかしたらその式場自体が経営破綻してなくなるかもしれない。
そこでかけてみることにした。
2024年(4割引き)プランに申し込みして、式場も関係も破綻していなければ、本当に結婚してほしい。
私がそう言うと元コンビニ店員さんは「勝ったなガハハ」みたいな顔して快諾してくれた。
来月、2024年6月2日(大安)、結婚することとなりました。
2019年、それまで仄暗い毎日を過ごし、ヲタ活以外の残りの全てを諦めていた自分が、結婚。
ついでに仕事まで失っていたけれど、その後まぐれでホワイトな工場事務職に再就職できて
あー
生きていれば、
偏屈にならなければ、
こういう展開もあるんだ。
初めて知った。
ちょっと遅かったかもしれないけど、これからもいろんな推し活を一緒にして、たくさん楽しい事したい。
高校からは別だったけどなんだかんだで一緒に帰ったり遊ぶことも多かった。
飲みの席で結婚や子供の話をすることもあったけど、「他人と一緒に住むとか無理だよね」とか「自分の生活で手一杯なのに子供ができても育てられる気がしないわ」みたいな感じだった。
それが急に「子供ができた」って話になり、ラインの名前がフルネームから名前だけになってた。
ってオィィィィイ!!冗談じゃねえよ!!彼氏できたの報告もなしにいきなり結婚?!しかも子供?!青天の霹靂過ぎる。
私はあのころから腐女子のままなのに、あっけなく置いて行かれてしまった。
惚気もしないし子供の話も「できた」という話以降は一切話をしてこなかった。多分気を遣ってくれてるんだと思う。今までと変わらずラインもくれる。
でもなんかもうこっちが惨めになってきて、気を遣われてることも嫌になるし、正直言って子持ちと独身じゃ今まで通り遊ぶのも難しいじゃん。
ラインをくれても何通か当たり障りのない会話して終わりにしてしまう。
向こうは今まで通り仲良くしてくれようとしてるんだと思う。子育てで忙しいのにわざわざ連絡してくれるし。
でもなんか無理。そもそも「子供できても育てられないよねー」とか言ってたのにデキ婚ってなんなんだ、と思ってしまう。避妊しろよと。
20年以上の付き合いなのに旦那の顔も知らないし、どんな人なのかもわからない。私の方が付き合い長いのにポッとでの奴に奪われた感。
愚痴らせてほしい。
当方、とある上場企業に勤めている。役職名はメーカー特有なので増田の皆さんも聞いたことないと思うが、一応は役員級である。トヨタ自動車などに比べれば小さい会社だが、トップが創業家という点では一致している。
歴代社長は全員創業家である。正月やお盆に親族が集まる時には、必然的に役員同士の飲み会と同じようなメンツになる。私も一応は社長と同じ苗字である。
それが突如、青天の霹靂のような事態になった。社長が交代するという。正式な記者発表はつい先日だった。自分以外の取締役の誰も知らされてなかった。いや、相談役や副社長、近しい家族などには相談していた。正式な社長指名会議の場では、まさにシャンシャン総会という具合だった……。
新しい社長は、地元の銀行出身の人だった。ものづくりのことは何も知らない。当然現場経験もない。銀行の役員だっただけあり、経済に明るいのはわかる。一度だけ見たことはあるが、大人物に見えるのは認める。コミュニケーション能力とか通り越して、政治力が凄そうだった。一緒に仕事したことないからよく知らないが。
さて、ほかの親族社員も自分と同じ意見だった。なんで、そんな大事なことを事前に話さなかったのかって。そういう意見が大勢を占めていた。
実際、社長がYesと言えば、ほかの役員は黙ってしたがう。そういう風土だったのは認めるよ。若かりし頃から実力のある人だった。一流の業界人だった。しかし、ほんっとうに一言も相談がなかった。創業家と血のつながりのない人を社長に据えて、会社や親族が心配にならないのだろうか。
あまりに憤っている。社長にとっての私たちは、そこまで信頼に値しない存在だったのか。さすがに馬鹿らしくなってくる。何十年も一緒に働いてきたのに、この仕打ちか。次のトップは、皆で話し合って決めるものだと思っていた。
あの最高にクールなフォンテーヌオーケストラMVの指揮者がこの録音に言及してる動画を発見した!
https://www.youtube.com/watch?v=kInblnRmMT8
普段はYouTubeの登録チャンネルページしかチェックしてないけど
それはそうとスタレの永火官邸の四天王?みたいなPVもついさっき発表されて青天の霹靂だな
これが本作で言うファトゥスみたいな役回りになるんだろうか?
なんか全体的に小物感があるけど
「私たちみんな死ぬかもしれない」はメタ的に考えて「プレイアブルキャラじゃないですよ」の示唆かね
久々のWebイベで高圧洗浄の清掃員をやらされるとは思わんかったけどわりと気持ちよくて好き
いつも些細なお遊びですら無駄に凝ってて才能有り余ってるのやっぱスゲーわ
さて、今夜9時は原神の予告番組
【追記】
最初は私たち両親にも反省点もはあるけど、こんな風に言わなくてもとか、ブコメにあるように「いくら親でも息子がゲイと気づくのは無理」とか「(成人してるのに)親に甘えてるんだ、八つ当たりだ」と思っているところがありました。
ただ、息子と同じゲイやセクシャルマイノリティの方でしょうか、
「常にマイノリティに配慮されて甘えた環境で生きてきたマジョリティ様」という言葉を見て、異性愛者である前提でコミュニケーションを取る私達両親を、息子がずっと我慢して空気を読んで受け流してきてくれたからこれまで平穏に、皆と一緒のどこにでもある家庭というのをやってこれたのだということを理解しました。
家の中だけでなく、息子は自分をゲイと自覚したときからずっとどこに行っても「ゲイだと知られたら笑われる、嫌われる」と不安と緊張の中で生活してきたこと、本来安心して過ごせるはずの家でもそれが続いていたであろうことを思うと息子の怒りや悲しみは至極当然だな、と腑に落ちた次第です。
わざわざ辛いこと、言いにくいことを高いハードルを越えて言わせないと息子の家での安心感が得られないという状況をつくっていたことは親として落ち度しかないです。しかも日常の私達の態度から、勇気を出してカミングアウトをしても息子が安心して過ごせる環境を得られるかは不透明だったと思います。
よく勇気を出して彼氏の紹介までしてくれたなあと思います、今となっては。
・これまでの言葉や態度でたくさん傷つけたこと、もしかしたらこれからも傷つけてしまうことがあるかもしれないことを謝罪
・親戚の集まりについてはたぶん息子に「彼女は?」とか親族の子どもを抱っこさせては「子どもは良いだろう?」みたいなことを言う親族がいるのでそこが行きたくない原因と思われるので行かなくて良いこと、時間が経って従兄弟たちに会いたいと思ったらいつでも取り計らうことを伝えた
・どんなときでも息子のことは大切に思ってるし、理解したいし、連れてきてくれた彼氏のことももう一人の息子と思って大切にしたいこと
などなどを送った
既読にはなりました。
返事が来るかはわからないけどそれでも定期的に息子へ思いを伝えていきたいと思います。
【追記おわり】
先週息子がゲイだとカミングアウトして彼氏を連れてきて紹介された。
親ばかかもしれないけど息子は割と見た目が良い方だと思ってたし、ほんとは彼女がいるんだろうなとか思ってたから青天の霹靂だった。連れてきた彼氏だという男の子は優しそうな純朴そうな子だった。
相手の男の子が帰ったあと、優しそうな良い子だったねと伝えた。
息子が近いうちに同棲するかもと言うので大人だしあんたの人生だから好きにすれば良いよ、ということを伝えたら、息子に親族の集まりにも二度と顔を出すつもりはないし実家に帰る頻度も減ると一方的に言われた。声を荒げてはいないけど今までの人生で溜め込んだ怒りをぶちまけたような感じだった。
思春期ですらあんなふうに親への怒りをあらわにしない子だったので、驚いた。今もまだ戸惑ってる。
・好きに生きるも何もゲイやマイノリティが好きに生きられないような社会に産み落とされている
・たまたま彼氏ができたから生きてるけど、そうでもなかったらこの世の中で生きていたいなんて思えない
・子どもがゲイとして生まれる可能性を一瞬でも考えたか?今みたいな社会で子どもが差別されながら生きることを一瞬でも考えたか?
というようなことを言われて、正直考えてなかったけどどんな子でも大切に愛していけると思ったから子どもをもうけたという話をした。
息子には、それは親が子どもに愛情を注げるかどうかの話であって、生まれた子どもが現実をどう認識するかは何も考えていない、子どもというモノがほしかっただけだと言われた。
返す言葉が見つからずどうしようかと考えてるうちに息子は帰っていった。(いま息子は一人暮らししてる)
生まれる子どもが病気や障害を持っているかもとかは考えたけど同性愛者の可能性はまったく考えてなかった。病気や障害があったとして、その子が今の社会でどんな辛い目に合うだろうではなく、親として常にサポートしよう、味方でいようとか自分の目線しか考えていなかったのは事実だった。
きっと息子にとって聞くに耐えないような差別的な発言や態度を何度も取ってたんだと思う。
こんな親と社会で今日まで息子が死を選ばなかったことと、素敵な彼氏に巡り会えていることは嬉しいことだと思う。
次息子に会えるのはいつだろう。