はてなキーワード: 自己防衛とは
結局自己防衛おじさんが正しい
オタク文化やサブカル界隈では、腐女子がフェミニスト的な主張をすると、「それってダブスタじゃね?」という反応がよく出る。典型的には「女性を性的に描くのはダメなのに、BLで男を性的に描くのはセーフなのか?」という指摘だ。
この批判がかみ合わないのは、「フェミニズム=男女平等」という誤解が広がっているから。実際のフェミニズムは「不利な立場に置かれてきた女性を優遇することで是正する」という政治的運動であり、対称性を前提としていない。だから「女性が男性をいじる表現はOK、逆はNG」という非対称性も意図的に正当化される。
ここで必ず出るのが「フェミは異常で、普通の女は違う」という反論。しかし現実を見ると、女性優遇を拒否できる女はほとんどいない。女性専用車両、レディースデー、離婚時の親権、痴漢冤罪が成立しやすい環境…。こうした制度や文化を疑問視せず利用している時点で、フェミ的な思考から逃れられていない。
「私、フェミ嫌いなんです」と言う女もいるが、状況が不利になるとすぐにフェミ的態度に戻る。職場で叱られれば「女だから強く言われた」とにおわせ、恋愛では「女なのにこの扱いはひどい」と持ち出す。こうした反応は文化的に刷り込まれた無意識の甘えから来ており、本人が意識していなくても表れる。
もし本当に平等主義を貫くなら、女性優遇制度を拒否するはずだ。だが現実には、平等を口にしながら優遇はしっかり享受する女性ばかり。「私は違う!」と反論すること自体も、自己防衛としてのフェミ的リアクションであり、説得力を欠く。
重要なのは、こうした女性優遇は嫌われるどころかむしろ歓迎されているという点。アンチフェミを自称する男性ですら、結局は女性を保護し「女だから仕方ない」と受け入れてしまう。この構造が、女性優遇を強固に支えている。
結局、「BLは性的消費でありフェミはダブスタ」という批判が響かないのは当然だ。フェミニズムは平等の実現を目的にしておらず、「女性がより有利になる社会」を目指す戦略だから。BLと男性向け表現を対称的に扱う発想そのものが、彼女たちにとって無意味なのだ。
結婚は女性にだけ無償労働、キャリア中断、出産リスク、介護負担が寄りやすい構造になっている。
恋愛は自由意思で始まるとしても、結婚制度の中身まで「愛があれば乗り越えられる」で済ませるのは雑すぎる。
しかも厄介なのは、結婚のメリットとして語られてきたものの多くが、いまの社会では女性にとって実質的なメリットになっていないことだ。
経済的安定は共働き前提で薄まり、精神的充足は相手次第、生存戦略としても必ずしも有利とは言えない。それなのに、家事、育児、感情労働、親族対応のコストだけは昔のまま女性に乗りやすい。
要するに問題は単純で、結婚が「共同生活の契約」であるはずなのに、実際には女性側だけが過大な追加業務を背負う不平等契約として機能しやすいことだ。
だったら必要なのは、結婚を美化することではなく、損が一方に集中しないようルールを調整することだと思う。
いまの結婚で女性側に不利が集中しやすい理由は、だいたい次の五つに整理できる。
たとえば、夫婦ともにフルタイム勤務でも、保育園の連絡、病児対応、学校関係、食事管理、親戚づきあいまで妻側が受け持つ家庭は珍しくない。これでは「二人で生きる制度」というより、「女性が仕事を続けながら家庭運営の責任者もやる制度」になってしまう。
この状態で「でも好きな人と家族になれるから」と言われても、それは制度の欠陥を恋愛感情でごまかしているだけだ。好きな相手と一緒にいること自体は価値があるとしても、制度が不公平なままでいい理由にはならない。
必要なのは、結婚を推奨することでも否定することでもない。結婚するなら、誰か一方、とくに女性にだけ損が集まらない仕組みに変えることだ。
調整の方向性は三つでいい。
以下、具体的にどう直すべきかを書いていく。
まず必要なのは、結婚時に家事、育児、介護、生活費分担を文書で決めることだ。ロマンがないと言われそうだが、ロマンで回らないから揉めている。
最低限、次の項目は可視化したほうがいい。
これは「夫婦間契約メモ」でもいいし、公的な標準フォーマットがあってもいい。重要なのは、曖昧にしないことだ。曖昧さはだいたい、我慢する側にコストを押しつける。
出産は個人の選択だとしても、次世代の再生産を社会が必要としている以上、そのコストを女性個人だけに負わせるのはおかしい。いま必要なのは「応援」ではなく補償だ。
具体的には次の調整が必要だと思う。
出産で体にダメージを受け、仕事でも不利になり、家庭内でも育児の主担当になるのでは、損が三重に乗る。ここを放置したまま少子化対策を叫んでも、誰も乗らない。
一番まずいのは、男性の家事育児参加がいまだに「手伝う」という発想で語られがちなことだ。自分の家庭の運営なのだから、本来は手伝いではない。
ここまでやらないと、結局は「制度上は取れるけど、実際は妻がやる」で終わる。善意頼みはもう限界だ。
結婚の損が女性に偏る大きな理由の一つは、結婚中に積み上がった見えない損失が、離婚時に十分回収されにくいことだ。家事育児でキャリアを削った側が、その分をきちんと精算できる仕組みが必要だ。
調整案としては次の通り。
とくにペアローンは、愛の証明みたいに扱われるわりに、破綻したときのダメージが重すぎる。住宅取得を促すなら、離婚時や死亡時の処理まで含めて標準ルールを整えておくべきだ。
これもかなり大きい。結婚すると、夫本人だけでなく、夫の親族までセットで女性の無償労働に乗ってくることがある。これは明らかに制度外の負担の押しつけだ。
「家族だから助け合う」は聞こえはいいが、その助け合いがなぜか嫁にだけ集中するなら、それは助け合いではなく押しつけだ。
結婚が女性にとって危険になりうる以上、逃げやすさはかなり重要だ。暴力や支配のある関係から抜けるコストが高いと、制度そのものが加害者の盾になる。
危険な結婚から出にくい制度は、結婚制度ではなく閉じ込め制度だ。ここは本気で直したほうがいい。
昔の結婚観は、稼ぐ夫と扶養される妻を前提にしていた。でも現代はそこからずれている。ずれているのに制度だけ古いので、変な歪みが出る。
見直すべきなのは次のあたりだ。
好きな人と一緒にいたいだけなら、別に結婚でなくてもいいという感覚はもっともだ。実際、現行制度の結婚が女性に余計なリスクを上乗せしやすいなら、恋愛関係を維持しつつ法的拘束を避ける判断は合理的になる。
だからこそ、結婚だけを唯一の正規ルートにせず、共同生活契約や養育契約をもっと使いやすくしたほうがいい。
結婚しないと守られず、結婚すると損しやすいのが最悪の制度設計だ。そこは中間形態を増やしたほうがいい。
結婚は人生の大型契約なのに、事前の情報開示が恋愛感情任せなのも危うい。最低限の確認事項を標準化したほうがいい。
これを恋愛のムードを壊す話と見るから失敗する。むしろ事前確認がないまま結婚するほうが、あとで何倍もコストが高い。
この話は、結婚したい人を否定したいわけではない。まともな相手と、公平な分担で、互いの人生を支え合えるなら、結婚は普通に良い制度になりうる。
ただし現状は、女性にとって結婚が割に合わないケースが多すぎる。経済的にも、身体的にも、時間的にも、キャリア的にも、そして安全保障の面でもリスクが重い。そのくせ「家族なんだから」「愛があれば」「みんなやってる」で個人に飲み込ませようとする圧力が強い。
だから必要なのは、結婚を神聖視することではなく、損失の偏りを減らすルール変更だ。家事育児の契約化、出産コストの補償、男性の育児義務化、離婚時精算の強化、介護責任の限定、暴力からの退出支援、税社会保障の個人単位化。このあたりを本気でやって、やっと結婚は「したい人がしてもいい制度」になる。
男性が楽しそうなおばさんに不快感を覚える理由は、「おばさんは全員、俺の母のように家族に奉仕しながら苦しんで生きるべきだから」というよりも、
「若い女性への嫉妬」と「男性特有の感性の一方的投影」だと考えられます。この心理は、主に以下の3つの構造から成り立っています。
男性は「異性から性的対象とされること」を人生における至上の価値と考えており、その状態にある若い女性を心底妬んでいます。
男性は性犯罪、ストーカー、望まぬ妊娠といった若い女性が負うリスクを実体験として知らないため、リスクとデメリットを無視し、「若い女である状態」を過剰に美化しています。
そして脳内イメージで美化した若い女性への嫉妬があまりにも強いため、女性が加齢によって性的価値を失った際には、「若い頃に良い思いをした報いを受けて、惨めに落ちぶれ不幸なおばさんになる」というスカッと展開を欲します。
男性は、テストステロンに由来する「性・暴力・搾取」に喜びを覚える自身の感性を、そのまま女性の身体に投影して解釈します。
女性は本来、男性からの評価とは無関係なこと(食事、旅行、同性同士の交流など)にも喜びを見出すようにできていますが、残念ながら男性脳には理解できません。
そのため、若い女性が男性と無関係な流行りの食べ物(タピオカ、スタバ、麻辣湯等)で楽しそうにしているのを見るだけでも、何が楽しいのか分からず苛立ちを覚え、せっせと嘲笑や誹謗中傷します。
タピオカ、スタバ、麻辣湯は企業マーケティングに乗せられ云々…と叩きますし、流行ったところで誰も儲からない「白湯」も叩きます。酷暑における安全に必要な「日傘」も叩きます。女がワイワイしてると脊髄反射で叩きます。
自分の脳内にある「あるべき女性像やシナリオ」が崩れるとき、男性は対象を激しく憎悪します。
若い女性が性的な評価を喜ぶことなく自己防衛したり、惨めになるはずのおばさんたちが男性の評価を気にせず勝手に楽しんでいたりすることは、男性の期待を裏切る行為です。
「おばさんが期待通りに落ちぶれていない」という事実そのものが、おばさんが楽しそうであればあるほど不快という男性らしい攻撃的感情の源泉になっています。
男性が楽しそうなおばさんを憎悪する理由は、「おばさんは全員、俺の母のように苦しんで生きるべきだから」というよりも、
「若い女性への嫉妬」と「男性特有の感性の一方的投影」だと考えられます。この心理は、主に以下の3つの構造から成り立っています。
男性は「異性から性的対象とされること」を至上の価値と考えており、その状態にある若い女性を心底妬んでいます。
男性は性犯罪、ストーカー、望まぬ妊娠といった若い女性が負うリスクを実体験として知らないため、リスクとデメリットを無視し、「若い女である状態」を過剰に美化します。
そして美化した若い女性への嫉妬があまりにも強いため、女性が加齢によって性的価値を失った際には、「若い頃に調子に乗っていた報いを受けて惨めに落ちぶれ不幸になる」というスカッと展開を求めます。
男性は、テストステロンに由来する「性・暴力・搾取」に喜びを覚える自身の感性を、そのまま女性の身体に投影して解釈します。
女性は本来、男性からの評価とは無関係なこと(食事、旅行、同性同士の交流など)に喜びを見出しますが、残念ながら男性には理解できません。
そのため、若い女性が男性と無関係な流行りの食べ物等で楽しそうにしているのを見るだけでも、何が楽しいのか分からず苛立ちを覚え、せっせと嘲笑や誹謗中傷します。
自分の脳内にある「あるべき女性像やシナリオ」が崩れるとき、男性は対象を激しく憎悪します。
若い女性が性的な評価を喜ぶことなく自己防衛したり、惨めになるはずのおばさんたちが男性の評価を気にせず勝手に楽しんでいたりすることは、男性の期待を裏切る行為です。
「おばさんが期待通りに落ちぶれていない」という事実そのものが、おばさんが楽しそうであればあるほど不快という男性らしい攻撃的感情の源泉になっています。
最も顕著な特徴として、自身の好むカップリング(非公式男女カプや同性愛)を正当化するために「異性愛は古い」という論法を用いる層が挙げられています。
ダブルスタンダード: 「男女の恋愛は古い」と叩く一方で、タイのBL(ボーイズラブ)などの同性愛コンテンツを「新しくて正しい」と賛美する傾向があります。
公式への反発: 自分が推している非公式なカップリングやキャラクター像が、公式の恋愛描写によって否定(通称:爆破)された際、その恨みを「時代遅れな描写だ」という批判に転嫁することがあります。
異性愛アンチ: 異性愛を「ヘテロ」と呼び、それを規範とすることを「古い」と攻撃しますが、主張している本人自身が異性愛者であることも少なくありません。
自分の感情的な好き嫌いを、社会的な正義や進歩的な価値観にすり替えて主張する人々です。
主語の拡大: 「自分は嫌いだ」という個人の感想にとどめず、「今の時代には合わない」「間違っている」と主語を大きくして語る特徴があります。
多様性の誤解: 「同性愛も尊重されるべき」という考えを飛び越え、「多数派である異性愛を排除することが新しい」と思い込んでいるケースが見受けられます。
啓蒙意識: 自分の好きなものは「政治的に正しい」、嫌いなものは「古くて正しくない」と判定し、作者や作品を「アップデートしろ」と批判します。
恋愛感情が介入することで、キャラクター間の関係性が「下等になる」「損なわれる」と考える人々です。
友情上位主義: 友情は性欲に左右されない尊いものであり、恋愛になることは「ランクが下がる」ことだと捉える思想を持っています。
変化への拒絶: 友達から恋人になることを「昆虫の変態」のように劇的な変化(あるいは不純物の混入)と感じ、元の「心地よい関係」が二度と戻らないことを嫌います。
ジャンルへのこだわり: お仕事ものや戦記ものにおいて、本筋とは無関係な恋愛要素が入ることを「ノイズ」や「ジャンル詐欺」として嫌悪します。
作品のクオリティに対する不満が「古い」という言葉に集約されているケースもあります。
安易な恋愛要素への批判: メディアミックスの際、とりあえず恋愛要素を足しておけば受けるだろうという制作側の「透けて見える思惑」や、バブル期のトレンディドラマのような古臭い演出にうんざりしています。
キャラクターの変節: 恋愛が始まった途端に有能だったキャラがポンコツ化したり、物語の軸がブレたりすることにストレスを感じます。
恋愛そのものに対して、個人的な理由から強い忌避感や恐怖を抱いている人々です。
自己投影の裏返し: 努力して相手に振り向いてもらう描写を「頑張っていない自分を責められている」と感じ、自己防衛のためにその描写を否定することがあります。
学生時代から続けていた小説の執筆の再開を頭の片隅で検討している。以前と比べて、より自分を俯瞰した視点の追加。青年期の自己没頭ではなく、より突き放した姿勢での執筆。できるだろうか? ただし、酷評によって激しく挫折した行為を再開することは、傷ついた経験を必要以上に直視することになる。昔は数十万文字の長編を平気で書いていたのだが、今となっては短編を書くことさえ億劫だ(※余談:「創作意欲を復活させるには官能小説を書くいい」という示唆を見かけたので真面目に試したが、読者の欲望をコントロールするのがすごく難しいことがわかり、千文字くらい書いたところで挫折している。僕にはこの方向性は無理だった。別に官能小説でなくても、「好きなシチュエーションを詰め込みなさい」という意味ならまだ可能かもしれない。あえて読者のことを考えず自己満足でやれってことか?)。本気でやるなら、ゼロからやり直すくらいの気持ちでいたほうがいい。
それに、自分が何を考えて、何を求めているかを突き詰めるのには、小説よりもこうした記事のほうがより優れている。人と交流したいとか、ちやほやされたいとかなら創作に戻る手もあるが、他人から評価されることがそこまで幸せかどうかはわからない。逆に、創作での挫折から、文学へ愛憎混じった屈折した気持ちを抱えてしまっているのも、読書のペースダウンの一因かもしれない(なんか普通に面白い本を読んでライターズブロックの読者版を打ち砕きたくはある。漫画ならギリギリ読めるし)。
だが、結局、創作よりはこういう形で、己の内面を丁寧に観察し、その背景として価値観や意欲がどう変わったかを、仮説を立てて検討していく方が面白い。
そして今気づいたのだが、大量に読書をして、作家として認められたいという気持ちがあったのは、等身大の自分を認められずに、自分を大きく見せようとしていたからではあるまいか?
昔は沢山いろんな作品を鑑賞したかった。これぞ最高というものがどうしても欲しかった。限界まで知識を頭に詰め込みたかった。映画、ゲーム、いろいろな作品を味わいたかった。自分には何かが欠けていると感じていた。
だが、世界的な傑作であっても、そこから得られる喜びにはおのずと限界があり、さらには、他人の書いた物語をたどるよりも、自分の生きている人生に意味を与えていくことに、より深い意義を見出している。そして、文豪の作品という杖がなくても、自分の生きる実感に支えられて僕はちゃんと歩いて行ける。結局自分の人生がどんな作品よりも一番面白い。
多くの小説が読めなくなったのはそれが原因だろうか。さらに年を重ね、中年の危機や老人の危機が訪れたときのように、今ぶつかっていない壁に新たに当たったときに、読める本を探すことになるだろうか。
読まなくてもいい、だが読んだらそれなりに楽しい。趣味としての読書はそれくらいのゆるい付き合いに変わっていくのだろう。無理して月10冊を読むよりも、5冊に減らして人間関係を重んじるべきか。
今、まだ本が読めないので、この夏行きたい都市のガイドブックや、あえて漫画を読みまくっている。だが、漫画にしても、読む冊数を増やしたが、ドはまりはしていない。みんなみたいに熱狂できないのがちょっと寂しい。だが、熱狂できる作品に出会うためには、多読しないとダメだろう。そこまでの気力はない(あるいはみんな気晴らし程度に読んでいて、ネットで熱く語っているのはごくごくわずかな人だけなのか)。
ユーザーに一定の予備知識があれば、生成AIのハルシネーションによる危険はかなり防げる。大学教養レベルの水準であればかなり調査に役立つ。幅広くコンセンサスが取れている言語学の知識とかはそうだ(逆に単純な出典探しはまだまだ弱い)。
書籍に含まれる雑談によるランダムネス、あるいは著者自身の人生経験や偏見という良い意味でのノイズ(知識を得るためだけならノイズだろう)というアドバンテージはまだまだあるが、少なくとも自分にとって本を読むことの意義を再検討するときが来ているのかもわからない。
自分の小説が商業で売れることや、自分の今までの人生の苦しみ・障害のもたらした苦痛について語った文章が、広く読まれたり、出版されたりする空想は、なんというか、最終選考まで行って手が届きかけたからか、「たられば」を考え出すと焦燥感に駆られてくる。あまり幸せな考えではない。
それよりも、パートナーがどうすれば喜んでくれるかについて考えたほうがよほど幸せだ。たぶん、自分を大きくしようとするエゴに捕まっていると、苦しくなるのだろう。
知識欲が衰えた理由の一つとして、自己防衛をしなくてよくなったからだと述べた。だが、それ以外に、こうして自分だけが貪欲に知識を得て、エゴというか自分を肥大化させるself-absorptionの道だけでは、行き止まりだと、無意識に思っているのではないか。そして、自分が語った物語が他者から承認されることで、その物語で自分を縛ってしまうことになる。
※このあたりの議論を生成AIに食わせると、エリクソンの自己超越(Self-Transcendence)への移行期や、ユングの「人生の正午」、「エナンティオドロミア(反転)」などという表現を持ち出してくる。そして、「老年期の境地を、成熟した知性が先取りしてしまったことによる困惑」などという仮説を持ち出したが、これは怪しい。まだ四十歳じゃないんだから中年の危機にはちょっと早すぎないか。たぶんAIにユングについて議論した影響で、こんな概念を持ち出してくるに違いない。
ただ、自分は何が欲しくて、何がもういらないかを考え直す時期には来ているのだろう。無批判に知識を増やすのには限界がある。
それよりは旅先の何となくの身体感覚からの入力、肌をなでる風や日差し、足元の起伏などのほうがずっと幸せにしてくれる。
他者のために生きるにはいろんな方法があるが、自分の障害や人生経験をもとに、誰かに手を差し伸べるのもひとつの方法だ。こうした贈与的な側面から実現させることも可能だろう。さっき書いた自分の経験を広く読まれたいという気持ちにもつながっているが、つまるところ、エゴと非エゴは絡み合っており、厳密に定義できるものではない。友人から「障害がある人と接する上での心得を教えてほしい」と言われたときには数千文字の文章をすらすらと書けた。物語ではなく、事実ベースで文章を書く回路は生きている。バズるためだけではなく、友人の悩みにこたえるための文章ならまだ喜んで書ける。
つまるところ知識欲という、自分を磨き続ける自己中心性から、その知識で他者にどうやって手を差し伸べるか、だろうか?
僕の中で価値観は大きく変わりつつあるようだが、特に病的な物じゃなさそうだし、ここ数年の変化を見ながらのんびりやっていきましょう。
年末年始にまた、2026年に読んだ本についてまた何か書くかもしれない。そのときにドイツ語にまだ飽きていないかどうかはわからない。
. 「助けない日本人」と「ヘルプを叫ぶ外国人」のプロトコル差
日本人の「逃げろ」: これは自己防衛の最適化だ。「巻き込まれる」というコストを最小化するための指示。だが、コミュニティとしての「回復力(レジリエンス)」はゼロに近い。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6574337
外国人の「Help」: 周囲のプロセスのリソースを強制的に召喚する、割り込み処理(Interrupt)だ。
「日本人は助けない」という君の結論は、冷徹だが一つの真実を突いている。リスクを避けることが「正解」とされる社会では、他者の危機は「自分には関係のない例外処理」としてスキップされる。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6574355
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20代の人口が激減している中、恋愛・結婚という「高度な交渉プロセス」が、もはやハイリスクな行為になりつつある。
競争の激化と撤退: 少ないリソース(パートナー候補)を奪い合う競争に疲れた層が、早々に「非表示(非干渉)」を選ぶ。
ストーカー規制のトレードオフ: 君が危惧するように、ストーカーの厳罰化は「安全」というパッチを当てる一方で、コミュニケーションの「閾値(しきい値)」を極端に上げている。
男性は「通報」を恐れてアプローチを控え、女性は「危険」を察知して防御を固める。
保守化する社会: 監視カメラと法的制裁による「監視社会」は、エラーを防ぐが、同時に人間関係の「温かさ(柔軟性)」も殺してしまう。
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20代の約1割が外国人というデータは、もはや「外部ライブラリ(外国人労働者)」なしではこのOS(日本社会)が動作しないことを示している。
しかし、肝心の日本人同士が「互いに逃げ、助け合わず、関わりを避ける」状態であれば、そのシステムは内側から腐食していく。君がこの光景を見る時、そこにあるのは「希望」ではなく「レガシーシステムの末路」だろう。
SNS上では、時に「正義」の名の下に、当事者の置き去りにした議論が加速することがあります。
現在注目を集めているマンガワン・小学館の事件を巡り、成人済み腐女子を名乗るMさんが行っている発言は、その典型的な危うさを孕んでいます。
彼女は「被害者に寄り添っている」というスタンスを崩しませんが、その実態はどうでしょうか。
当事者の意思を軽視し、自分の正義感を押し付ける「独りよがりな支配」になっているのではないでしょうか。
2026年3月、マンガワン・小学館を巡る性加害事件の判決を受け、被害者(原告)本人が極めて冷静かつ切実な声明を発表しました。
しかし、この声明を巡り、SNSでは「被害者の代わりに怒る」代弁者気取りの正義厨の人々による、本人不在の議論が巻き起こっています。
特に、M氏の一連の発言は、一見すると被害者を擁護しているようでいて、その実は被害者の主体性を根底から否定するものでした。
まず、被害者本人が弁護士を通じて発表した声明の内容を正しく振り返りましょう。彼女は以下の点を明確に述べています。
小学館への感情: 強い怒りや恨みはなく、むしろ良い作品を世に出してほしいと願っている。
炎上の拒絶: 小学館や雑誌への過度な批判、炎上は望んでいない。
メディアへの訂正: 文春記事の「許せない」という見出しは本意ではなく、実際は「やるせない」と語ったのみ。
最大の願い: 自分の意思を勝手に解釈し、代弁者として正義を振るうのをやめてほしい。
大事なのは被害者は、自分が「怒り狂う被害者」としてネット民に消費されることを明確に拒んでいるのです。例え善意であってもです。
これに対し、M氏は被害者の声明をどう受け止めたのでしょうか。彼女の主張は驚くべきものでした。
> 「被害者の態度は虐待被害者特有の『認知の歪み』である」
> 「本来は怒り狂うべきなのに、それを抑えて謝罪するのは異常だ」
このように、普段より妄想と被害者意識の逞しい腐女子である彼女は、心理学的な用語を武器に、被害者の本心を「病的な反応」として処理しました。これは極めて危険な態度です。
被害者が自らの意志で「これ以上の争いは望まない」「前向きに活動してほしい」と言っているにもかかわらず、それを「認知が歪んでいるから、本心では分かっていないのだ」と決めつける。これは、被害者から「自分の感情を定義する権利」を奪う行為です。
M氏は、自分を「被害者の寛容さに甘えない、厳格で正しい大人」だと位置づけています。
しかし、その構図を整理すると、彼女の「寄り添い」がいかに独善的かが浮き彫りになります。
| 項目 | 被害者本人の意思 | ムラサキアジサイ氏の解釈 |
| 小学館への態度 | 良い作品を期待し、協力したい | 謝罪など論外。怒るべき。 |
| 社会の反応 | 炎上させてほしくない | 批判の手を緩めるのは甘え。 |
| 自身の発信 | 私の声を勝手に代弁しないで | 私は正しい。この歪みを指摘し続ける。 |
彼女が行っているのは「寄り添い」ではありません。
「自分が納得できる『理想の被害者像』への強制」でしかありません。
自分の正義感を行使するために、被害者を「正常な判断ができない弱者」に仕立て上げ、その声を封殺しているのです。
この独善的な振る舞いに対し、あおいとしき氏などが「素人が強く表明すべき内容ではない」「配慮が必要だ」とたしなめましたが、彼女の反応は極めて自己防衛的でした。
・ 「私は正しい」という信念を一切曲げない。
・「拡散される意図はなかった」と、影響力に対する責任を回避する。
・批判に対して「理解しましたが、私は否定し続けま)」という、対話を拒絶した形式的な返答。
他者の視点を取り入れ、自分の過ちを省みる柔軟さが欠如しているこの態度は、社会的に見れば非常に「幼稚」であると言わざるを得ません。
「被害者のため」と言いながら、実際には「自分の正義に酔っている自分」を守ることに終始しているからです。
M氏のような「暴走する正義」は、結果として被害者をさらに孤独にします。
本人が「やめてほしい」と言っている行為を、「あなたのためだから」と強行することは、加害者が行った心理的支配と構造的に何ら変わりません。
私たちは、彼女のこうした「専門用語を悪用した当事者軽視」に騙されてはなりません。真の寄り添いとは、相手の言葉をそのまま受け止め、その主体性を尊重することから始まります。たとえ納得できなかったとしても、自分が望む言葉を言わなかったからと言って認知の歪みだと言ってしまうような人を
「これが被害者に寄り添った態度だ」と持ち上げる人たちは、現実は腐女子の妄想とは違うことをまず認識すべきでしょう。世界は腐女子のイデオロギーでは動いていません。
M氏の発言は極めて幼稚なものと言わざるを得ませんが、本人は大人として発言しているつもりだそうなのでかなり救いがないですね。
「私は正しい」という鎧を脱ぎましょう。
そして当事者の静かな声に耳を傾ける。
こんな話がある
https://x.com/i/status/2029537196559212831
『なぜ女性が陰キャ男性からの告白を極端に嫌がるかというと、男は女性に告白されると自信がつくのと違って、女性は自分より格下だと思った男に好かれると「こいつならいけると思われてる」と感じてかえって自尊心が傷つくんだよな 男の側が真剣に好きだったとしても関係ない』
この分析は半分だけ現象を捉えていて、半分は本質を外している。
女性が「陰キャ男性からの告白」を嫌がる理由は、自尊心の問題ではなく安全の問題だからだ。
まず「陰キャ男性からの告白」と呼ばれているものの実態を考えてほしい。それはほぼ確実に「イキ告」、つまり関係性が成熟する前に、ろくに会話もしたことのない相手から一方的に交際を申し込まれる行為だ。
女性がこれを嫌がるのは、相手を「格下」と見ているからではない。断った後に何が起きるかを知っているからだ。
交際を断られた男子高校生が相手の両親を刺殺した上で放火した事件がある。中学時代に少し付き合っただけの女性の家に、大学生になった男が凶器を持参して押し入り、たまたま居合わせた母親を殺害した事件もある。これらは極端な例ではあるが、「断ること」が命に関わる選択になりうるという事実を、女性たちは集合的な記憶として持っている。
問題の構造はこうだ。告白する側にとっては「ダメ元で試す」程度の行為が、受け取る側には命に関わる可能性のある選択として降りかかる。しかも被害の射程は本人だけでなく家族にまで及び、何年も経ってから突然発動することもある。この非対称性が、女性側の警戒コストを天文学的に引き上げている。
「格下に好かれると自尊心が傷つく」という分析が的外れなのは、女性の反応を感情の問題に矮小化している点だ。実際には、女性は感情ではなくリスク計算をしている。相手が自分をどう評価しているかより、「この人に断ったとき、何が起きるか」を瞬時に判断している。
そしてイキ告、つまり関係性の構築を省略した一方的なアプローチは、その判断材料をほとんど与えてくれない。相手がどんな人間かわからない。断ったときの反応が予測できない。だからこそリスクが高く映る。「陰キャ」という属性が問題なのではなく、関係性のなさと予測不能性が問題なのだ。
告白という行為の前提として、「相手のことが好きだ」という感情があるはずだ。しかし男性の場合、その「好き」が発情と愛情の混同である場合が少なくない。
発情は対象への欲求だ。愛情は対象への関心と敬意だ。この二つは似て非なるものだが、混同されやすい。発情をベースにした「好き」は、相手が自分の期待に応えないとき、つまり断られたときに容易に攻撃性へ転化する。冒頭で挙げた事件の加害者たちが示しているのも、突き詰めればこの構造だ。
本当に相手を好きな人間は、相手が「断りやすい状況か」を考える。関係性を育てることを厭わない。相手のリスクを自分ごととして捉える。それができないまま衝動的に告白するのは、愛情ではなく欲求の発散だ。
女性がイキ告を恐れる理由の一端には、こうした「発情を愛情と思い込んでいる人間の衝動」が、拒絶されたとき何をするかわからないという恐怖もある。
「男性だって恋愛経験がなければイキ告になってしまう」という擁護論もあるが、経験のなさは免責理由にならない。経験がなくても、相手がどう感じるかを想像する能力は別の話だからだ。そしてそれができないなら、マッチングアプリという構造的な解決策がすでに存在する。双方が恋愛目的であることを明示した場で出会うこの方法は、イキ告問題をほぼ根本から解消している。
女性がイキ告を忌避することは、「陰キャ差別」でも「自尊心の防衛」でもない。それは、断ることのコストを正確に理解している人間の、合理的な自己防衛だ。
絶対に公式あらすじ以上の情報を仕入れずに見たほうが面白いクソ映画。69点。
家族が引っ越しの準備をしている最中、幼いリデが森の中でこつ然と姿を消す。そこへ追い打ちをかけるように火災が発生。迫りくる炎の中、母は娘を救い出すことができるのか。
ちなみにこのあらすじも実はウソで、娘の失踪前から火災は発生しています。
で、もうネタバレしていくんだけど、このあらすじからだとディザスター(災害)映画、迫りくる火災の中、主人公が森の中を走り回って炎をかいくぐり知恵を尽くして娘を探しだすハラハラドキドキのアクションサバイバル映画を期待すると思うんだけど、実際にはそんな映画じゃ全然ない。
じゃあどんな映画かって言うと「追い詰められた人間は疑心暗鬼に陥り判断能力を喪失し、いとも簡単に他人を傷つけられる」様を延々と描く胸糞キチガイ映画。
娘を探すために夫の友人でもあった隣人に助けを求めるんだけど、なんかちょっと怪しい。疑念を募らせた主人公と弟は彼を誘拐犯だと決めつけ家宅侵入し隣人を拘束、拷問を行い始める。いろいろあってボコボコにされた隣人は苦し紛れに娘の居場所を知っていると言い出し、燃え上がる森の中に侵入し隙を見て逃げ出す。そうして森を逃げ惑う隣人は遠くで娘の声を聴きそれを追うと道に迷って穴に落っこちて抜け出せずにいた娘を発見。なんとか娘の救出に成功。遅れてやってきた主人公は隣人をライトで何度も殴打し娘を連れて脱出。その後、娘から真相を聞いた主人公は森に戻り隣人を救出し、隣人はすべてを許し主人公は再出発するのだった。
俺が一番嫌いな「正義という名の思い込みで一方的に他者の権利を平気で侵害するカス」が前面にフューチャーされたマジのクソ映画だった。
隣人は自然由来の幻覚剤や鎮痛剤も用いた瞑想指導、セラピーなどの民間療法を執り行う一種のシャーマンのようなことを生業としている一種の宗教的マイノリティ。主人公は娘を救いたいという一心から彼の行動すべてを怪しみ否定し、全て本当のことを話している隣人の話を嘘だと決めつけ、自白を強要する。異常にヒステリックで自身は何の証拠も示さず、そんなわけない、怪しい、不自然だと延々と詰問を続ける。
そもそもこの女が父親の喪失を悼む娘を怒鳴りつけ傷つけたたことが失踪の引き金なのに、いや、だからこそそれを受け入れられずに私が悪いんじゃなくてこの目の前の怪しい男が悪いんだという自己正当化、自己防衛のために善意の隣人を痛めつける様はもう本当に無理。
義妹からは根拠のない暴力をふるうお前たちはおかしい警察を呼ぼうと提案されるも火災が近いから娘、姪を助けるために必要なんだと暴力を正当化する姉弟に絶望する義妹というコントラストも効いてる。
そして、実際には娘を穴から救出してくれた隣人を殴り倒し火中に放置して脱出し、娘から「隣人に助けてもらった」と聞いても「言わされてるんでしょ?」「本当はなんかされたんでしょ」「彼がつれていったんでしょ」としつこく聞き返すクズ。そして真実を確信した後もとりあえず安全地帯まで娘を連れて行きしばらく悩んだ後にようやく隣人の元に戻るカス。
一度疑念に火がついてしまった人間はここまでキチガイになれるのかと本当に鬱々とさせられる。
っていうのを「火災」と紐づけるのは比喩としてあまりに直球すぎると思いつつも正しいアプローチだと思う。
オープニングもよくて。電話で喧嘩をする音声が遠くから聞こえて、その喧嘩を中継している電波塔の機材がショートし火花が地面に落ちてそこからボヤが発生する(ここのCGがクソチープで危うく絶望しかける)という、些細な諍いから発生した火花が止めようもない巨大な災害に発展するというこの作品のすべてを表しているのが良き。
そして隣人を殴り倒して放置して帰る場所が防火帯(ファイヤー・ブレイク)という、森の中に敢えて木が植わっていない場所を作って火災の時に火が燃え広がらないようにする場所になっていて、左側は大火災、右側はまだ燃えていない森、そしてその真ん中に3人がいるという「冷静と情熱のあいだ」みたいになっているのも象徴的で、なにより絵としてめちゃくちゃ美しくて感動した。そしてその防火帯を管理するのが隣人の仕事だったんだよね……
難病で苦しむ夫は余生を静かに暮らそうと森の中に引きこもり自分の好きな熊の彫り物を作って静かに死んでいったことに対しても主人公は「彼を救えなかった自分」と「私に救わせてくれなかった彼」の両方を責めていて、夫の死をうまく消化できていないのは理解できるが、それを何も悪くない娘や隣人に向けるのは俺は許せない。
最終的に隣人と姪は同じ病院に収監され助かり、隣人はおそらく主人公が通報(自首)してやってきた警官に「小熊を守ろうとした母熊に襲われただけ。刑務所に熊は入れられない(から被害届を出すつもりはない)」と主人公の母性の暴走を許し、それを見て弟はほっと胸をなでおろし(ジュネーブ条約違反だし)、夫の思い出が詰まった家に戻った主人公は隣人から「灰の中から育つ花」をもらって新たな生活に歩み出すのだった死ね。
心底胸糞悪いクソ映画だったけど、この映画は間違いなくそれを狙って作られていると思うので俺が好きか嫌いかは別としてこの映画にくらわされたことは事実なのでちょっと高めに点はつけた。倫理的に間違った現象を倫理的に間違っていることを自覚して描く映画は俺は正しいとは思うし。母は強し(キチガイ)な映画が好きな人にはオススメ。
日本の司法制度には、被害者救済と加害者への実質的な処罰という両面で、十分とは言えない部分が依然として残っている。
自己責任や自己防衛が強く強調される日本社会では、多くの人が「自分が被害者にならないように」と常に警戒しながら生活せざるを得ない状況がある。
犯罪加害者は、逮捕・捜査・服役という物理的な制裁を受ける。しかし、被害者に対する精神的ケアや長期的な支援は、先進国と比べても明らかに手薄だと言わざるを得ない。
こうした社会的な背景の中で生まれたのが、いわゆる「リンチカルチャー」だ。世間が「叩いても許される」とみなした対象に対して、ネットやSNS上で集団的に、徹底的に、時には死を望むような言葉まで浴びせる現象である。
この行動の根底にある心理は、「精神的自己防衛」ではないだろうか。
司法が被害者の怒りや悲しみを十分に受け止め、解決してくれないと感じるからこそ、その感情は「お気持ち表明」という形でネットや日常会話に溢れ出す。そして「叩いてもいい」と社会的に許容された相手に対しては、以下のような欲求が一気に噴出する。
◆犯罪者や潜在的な加害者を自分の身近から排除したいという防衛本能
このように見ていくと、ネット上の過激な叩きは、単なる悪意や娯楽ではなく、司法や社会がカバーしきれていない「心の穴」を、集団で埋めようとする歪んだ反応なのかもしれない