はてなキーワード: 赤ん坊とは
3匹かと思ったら他のママタヌキ?も産んでたようで6匹もいる
群れで生活しないって調べてもでてくるのに
いつも大体家の裏の物置に何匹も集まってじゃれて喧嘩しているぞ
ちなみにだけど
物置ではほぼ糞尿をしない
なんかママタヌキっぽいのがキれる
たれながしたやつがいるとすげぇ鳴き声あげる
でも物置の外では糞尿している
お前らは喫煙所を追われたサラリーマンかってくらい渋々な感じに見える
こうして書いているだけで
化かされている気分になってくる
お前らは早く山にお帰りよと言って箒でばしばしして逃げていくんだが
監視カメラをみると割とすぐ戻ってくる
ここはお前らの家じゃないんだぞ!
そうそう、熊鈴とか音を立てると逃げるってよく言うけど
6 匹 ほ ど こ っ ち に 集 合 し て き た よ !
やめてくれ
頭が混乱する
野生どうしたよ
・「さあ行くぞ(ガチでレジェンド過ぎるキャラ名) 俺の舌と身体を貸してやる!」
かっこよすぎやろ
・数多のコピーバンドが演奏しまくったレジェンド名曲の元ネタ歌手みたいな
どっかでみた「数多のコピーバンドがどれだけ演奏しても結局勝つのは
漫画力によって読者ワイが
キャラクターの演技力を分らせられるタイプの役者描写、ありがてぇ…
全然雰囲気違うテーマなのにめちゃくちゃ面白い作品をお出ししてくれるの
ほんま天才すぎる
500年前のシェイクスピアの描いた
・なんか北斗の拳みたいになったなと思ったら北斗の拳元ネタだったでござる
赤ペン先生通り越すんやなって
摂取できない栄養素 ハルロド作石先生は腐女子への媚がない作家さんという
イメージがあるのでより一層染み入る
どんな苦境でもシェイクくんを支えてくれ
陰ながら寄り添ってくれる健気幼馴染くんは
シェイクスピアに健気に寄り添い支え続けるし一周回ってようわからん…(好き )
一人だけ風と木の詩やん…ってなった
・ワースくん、本屋さんを信頼できねえ…と言いつつも
まああの人の持ってくる種本がないとそもそも脚本始まんねえもんな…
・キャラの過去掘り下げエピで小学館?でやってた方のスキャン画像が
見開きででてくるのめちゃくちゃ大人の都合感じたな…
なんか色々あったんやなって…
出てくるのは同じキャラなのに出版社とか編集さんとか変わると全く別物になるんだなと思った
顔の前で腕を組んで自信満々顔のシェイクが黒背景で言い放つ「(ガチレジェンド名作 )だ!」が
・毎回巻末に載る資料の量がエグい
・実質ロミジュリ前で最終巻だが
めちゃくちゃ読んでて気持ちのいい所で終わったし
ロミジュリは子供同士の恋愛の話だからリチャードは演者として出ないから
残念だけど…まあ…しゃーないか…楽しませてくれてセンキュー!と
潔く諦めがついた
終戦直後の沖縄で米軍基地から物資を盗んで市井の人に配布する強盗団を結成していた瑛太と妻夫木と窪田、そして瑛太の恋人の広瀬すずら。ある日、基地に潜入して武器を盗もうとするも失敗、逃走中に留守番の広瀬はともかく3人ははぐれてしまう。そして6年後、捕まって刑務所に行った窪田はヤクザに、妻夫木は刑事に、広瀬は女教師にそしてリーダーの瑛太は行方不明になっていた。瑛太の行方をそれぞれの立場から追う、3人だったが戦後の沖縄の大きな歴史のうねりに翻弄されていく。
みたいな話。
とりあえず沖縄基地問題にあんま興味がなくて3時間越えは長いなぁ~って人は多分見る必要ない。
なんか超分厚い原作があるらしいって話は知ってて、まぁそっちでは戦後の沖縄の歴史と人間ドラマを濃密に描けているんだと思うんだけど、それを映画化するにあたってどこを残してどこを切るのかという判断をぶっちゃけ失敗していると思う。この映画191分もあるのに人間ドラマを描くのか沖縄の戦後史を描くのか圧倒的にどっちつかずだし、沖縄戦後史に振るには全然覚悟が足りないと思う。
まず人間ドラマなんだけど、基本的には主人公妻夫木らオキナワンチュたちの精神的支柱だった瑛太がある日の侵入失敗後に行方不明になってしまい彼を探すことがこの映画のメインだと思うんだけ、これがすげーふんわりしてんだよ。
妻夫木は瑛太を探すために刑事になったんだけど、その設定も序盤にちょろっと米兵がらみの殺人事件を捜査するパートが入って、その後、米軍諜報部の人間と組んで不良軍人を協力して捕まえる代わりに情報をもらう感じになるんだけど別になんかそんな重要な情報出てこない。さらに深入りすると本土の人間が乗り込んできて拷問されたりするんだけど、これもあんま意味が分からんのよな。
一方の窪田は刑務所でヤクザネットワークに加盟してそこから情報を掴んでいくんだけど、そこがもう断片的にしか描かれなくて「はい、情報出しときますね~」って感じで全然情報が集まっていくわくわく感やスリリングさ謎解き感がない。まぁ、妻夫木よりはマシだけど。そして瑛太の件とは別に関係なく米兵狩りを始める。
広瀬は頑張って瑛太が奪った物資で建てた小学校で女教師になりました。
なお、小学校には米軍機が墜落して爆散した模様。そしてその後、瑛太とかとは関係なく沖縄開放運動家になります。
あと、なんか序盤では花売ってたわけわからんガキがその後、急に成長してイケメンになるんだけど、で、こいつは誰やねん。なんか急にイケメンわいてきたなと思ったら花売りのガキだったってなるんだけど別にこいつなんか花売ってただけで何の存在感もなかったしなぁって感じ。で、実際にはこいつが一番のキーマンで実は米軍の偉い人が現地民孕ませて作った子供で、その現地民がたまたま瑛太たちが侵入した日に米軍基地に侵入していて爆裂出産。そこに瑛太がうっかり出くわして子供を託され、育てていたのでした。
そしてうっかり撃たれたイケメンに導かれた3人は浜辺に移動するとそこには白骨化した瑛太がおり、安易な回想シーンで真実が流れなぜかたぶんその回想シーンを見ていた3人は感動するのであった。何の話やこれ。
ちなみに米軍諜報部と本土の軍関係者が隠そうとしていたのはこの隠し子スキャンダルのことでした。意味わからん。
瑛太はもう死んだ母親と赤ん坊に出くわしただけでその出自は知らんし、イケメンは当然当時赤ん坊なのでそのことは知らん。まぁ偉い人と現地妻の写真が入った首飾りは持ってたけど別にそれがなんにもならんし、なんなら何を現地妻と写真撮ってるねんという話だし。別に撮ったけど肉体関係はなかったって言えば全部収まる話だし。この話に何の引きがあるねん。ばからしい。
じゃあこのメインストーリーを雑に扱って何をやっているのかっていうと、沖縄戦後史の紹介をやっているのね。
米兵による現地民への被害。逮捕しようにもMPがやってきて米軍に連れ去られ無罪にされてしまう。米軍機が墜落してきて子供たちが被害にあうも無罪。苛烈化する市民運動。この忘れられた米軍統治下の沖縄の様子をしっかり映すことに時間をかけている。そして妻夫木と広瀬はそこの渦中にある存在として歴史に翻弄される必要があるので本題の瑛太捜索に時間を全然割けない。
もちろんこれを戦後80年記念に映像化することに意義はあると思うし、特にたっぷり金をかけて作ったであろう終盤の大見せ場のゴザ暴動のシーンなんかは十二分に見応えがあったけど、でもなんていうか映画の本筋と全然接続してないからどうしたってのめりこみが弱くなる。まぁこれに関しては俺が沖縄に全然興味がないからそうなっちゃうのかもしれないけど、なんていうか思想強いなぁって感じ。
でも別に、俺はイラク戦争興味なくてもアメリカン・スナイパーは面白かったしベトナム戦争知らなくてもランボー(無印)は面白かったし、ドンバス紛争知らなくてもコードネーム:レイブンは面白かったからなぁ。だからこそ、大事なのは何を見せるかだと思うんだよな。
たぶん製作陣は沖縄の戦後史を見せることが大事だと思ったんだと思うんだけど、でも、たぶん映画ってそうじゃないんだよ。三者三葉の立場で瑛太を追う中でそこに横たわる困難として沖縄の呪われた戦後史がにじみ出てきてしまう。そういう感じのほうがちゃんと面白い映画になったと思うんだよ。本だったらいいよ、心置きなく全部書けるから。でも映画、映像媒体はそうじゃないじゃん。時間制限がある中で何を描くのか、何を描かないのか。そして直接は描かない中でも見せることが腕ってもんじゃねぇの?
じゃあ沖縄戦後史には全力投球で完璧なのかというの全然でさぁ。
最終的に窪田が米軍基地にテロを仕掛けるんだけどそこで妻夫木と妻夫木の論争になるんだけど。「返還されても沖縄は何も変わらない。だから俺はテロでアメリカだけじゃなくて本土の人間にも沖縄の怒りを知らしめるんだ。怒りで世界を変えるんだ」派の窪田に対して、妻夫木は「暴力じゃ何も変わらない(陳腐)。でも諦めなければ10年後、20年後には世界は変わっているはずだ。人間は愚かじゃないから今の沖縄みたいな間違った状況が続くはずがない」と諭すんだけど、10年後も20年後もそんな変わってないのを知ってる人間がこれ書くのなんかグロいんだよな。
もちろん、まぁ変わってないんですけどね(嘲笑)みたいな映画らしい悪意があるのかっていうとなんかそんな感じでもないんよ。これがブラック・クランズマンみたいにエンディングの前、暴動も治まり日常に戻った主人公たちがテレビをつけると久米宏が沖縄米兵少女暴行事件を伝える映像が流れるとかだったら覚悟あるやんと思うけどさ。なになんかキラキラディベートタイムで消費してんねんと思う。
あとそれで言うと、窪田が急に最後に本土人にキレてたけど、この問題で重要なのはアメリカ人よりもむしろ本土人なのに作中ではその視点はほとんど登場しない。あまりに片手落ちすぎる。
他にもいいたいことは山ほどあるんだけど、とにかくたぶんだけどこれ原作読めばいいだけの映画なんだよ。
もろちん、日本映画史上有数の25億の金をかけて当時の街並みを再現して2000人のエキストラバージンオリーブオイルを集めて撮った暴動シーンなんかはスケール感があってよかったけどだったら191分もいらないんだよ絶対。そこまでの吸引力はないよ。ただ、役者はよかった。みんな芸達者で特に瑛太は薄汚れていてもこいつが青学の柱なんやなっていうのが一目見てわかるような沖縄の太陽みたいな役をよく演じてたと思う。
まぁそんな感じかな。沖縄基地問題に関心がある左翼と沖縄人が見ればいい映画で、エンタメ系が好きな人は別に無理してみる必要ないと思う。長いし。110分くらいだったら50点くらいあっていいと思うけど、そこからさらにホラー映画1本分見せられてこのオチだったからこの点数で提出です。
あと、これは完全に余談なんだけど俺は全然つまんなくてこれホンマにどういう態度で見るべき映画なんやと思って、↑まで書いてからいくつか解説動画を見たんだけどこれがちょっと面白くてさ。
まずエンタメ映画を多く紹介しているチャンネルではおおむね不評で論としては意義は認めるし映像も頑張っているけど映画としては散漫という評価。
そしてこれを絶賛している人の多く、というかほとんどが作品じゃなくて作品背景、沖縄にはこんな歴史があってぇ米軍はこんなにひどくてぇだからこの映画を作るってことには意義があってぇみたいなことが評のほとんどを占めていて、作品の内容じゃなくて意義を評価するって方法があるんだなぁという学びを得た。
というか、「赤はノーリスクだよ」と言うのが完全にインチキだろ。
青を押す人が少なかった場合は子供、盲目、たまたま手が滑った人が死んでしまうリスクがあるじゃん。
たとえば君も君の友人達も赤を押すつもりで投票にやってきたが、誰かが投票の瞬間にクシャミをしてしまって青を押してしまったとしよう。
その時、まだ君は投票を終えてなくて、その人から「大変だ!青を押しちゃった!」と聞かされたとする。
君は表向きは「大変だね!じゃあ僕も青を押してくるよ!」と口だけ言って、実際には「あーあ大事な時に失敗するような奴なんて死んでも仕方ないよね」と思いながら赤を押すのか?
ちなみに、もしここで君が赤を選ぶのなら、それはかつて氷河期世代を苦しめた自己責任論を肯定するということだが・・・
君は、「氷河期に就活するような年に産まれた奴らが悪いんだよ。勝手に死ねば?」で終わらせていいのかい?
もし君がそういうなら、俺は一人の氷河期サバイバーとして「クソ野郎が・・・ボタンだけが人を殺すと思わねーことだな」と恨み言を口にするぐらいは許してくれるね?
あっ、まあ、僕はもう社会なんて信じてないから平然と赤を押すけど、それを得意げに「こうするのが賢いんだぜ?まあ赤ん坊とかは死ぬかも知れないけどまた産めばいいじゃん?皆で赤を押すのが正解だ」なんて言わないよ。
自分は赤を押して、他人には青を押してもらうのが最適解だからね。
僕たちは、それをされてきた世代だ。
個人主義者を気取ってる馬鹿の頭の悪さが痛いほど伝わってくる良問。
実際にやってみれば赤ん坊や盲目の人が青いボタン押しまくるからその人達を生き残らせるかどうかという話になるわけで、それが判明したらあっという間に青ボタンが90%を超える。
その時に「うるせー!俺だけ助かればいいんだ!」で赤いボタン押したやつは一生無意味な罪悪感を背負うことになるが、それで得することは一切ない。
青が50%以上なら誰もが生き延びる
赤が過半数なら青が死ぬ なら、青を押していないから生き延びれる可能性があるけど、原文では違うっぽいが。
仮に、タイムアップがあるとして、赤ん坊が押せませんでした なら、青50%未満のときはアウトだね。赤も押して無いわけだから。
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
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瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
先日妊娠した。
生理が来なくて、パートナーと話して検査薬をしたら陽性だった。
意気込んでクリニックに行ったら正常着床しており妊娠6週ですよと言われた。
嬉しかった。
こんな奇跡的なことがあるのか。
ただ早すぎたのか心拍が見られないので、2週間後に再受診だそうだ。
なるほど、分かったぜ。
仕事も調整しなければならぬし、妊娠出産の知識も蓄えならばならぬ。
やる事は山積みだった。
大変だったけど、自分が親なるのだと思うと全て苦ではなかった。
調べるとこの時期つわりが来るらしい。
一切なかった。
ただとにかく食欲は湧いた、モリモリ食べ続けた。
2週間後病院に行った。
着床した卵子が育ってないと言われた。
要約すると卵が死んでるそうだ。
モリモリ食べていたのだが実は中身が空っぽだったらしい。
虚無かよ。
あぁ本当に流れるんだな。
塊が出るだろう、
トイレに行った際に出たらそのまま流して良いと言われた。
自分の子供を流産してそのまま下水に流す、とはかなりショッキングな体験だ。
恐らく着床した胎嚢が剥がれてそのまま出てきたのだろう。
命になれなかった私の卵だ。
運良くナプキンで受け止められたが、先生は破棄して良いと言った。
ナマモノかよ。
疲れすぎて脳死していた。
その後私は2週間ナマモノを家に置いたが、
赤ん坊ってこんな風に手放さないといけない事もあるのか、知らなかったよ。
なんだよ燃えるゴミって、命じゃないのかよ。
私は何も出来なかった。
20代の頃は、子を持つのが夢だった。とはいっても特殊な理由があるわけではない。人間の宿命だから、社会を維持するのに大事だから、周りが産んでるからとか、そんな月並みな理由だ。格好つけて奇を衒うつもりはない。誰にでもわかる理由が、一番シンプルかつ説得力あがあるのだ。
昔付き合っていた人とは子供ができたらこんな感じになるよねとか、話し合っていたけど、別れた。その次の人は子供ができるかわからなかったから、天秤にかけた結果また別れた。そこまでして、子供は欲しかったのだ。
子供ができて、ちょうど一ヶ月経った今振り返ってみる。正直、その大変さを全然想定してなかったなかったなぁというのが、一番の感想だ。育休をとっているのだが、ムショ暮らしみたいな生活の制限を覚悟しなきゃいけない。特にはじめの数ヶ月は。そういう意味では仕事してた方が楽だったけど、一通り赤ん坊の面倒がみれるという経験を積めたのと、嫁と二人で乗り越えていけたのはよかったと思っている。
「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」とは言いますけれども。
たぶん心の底からよかったかなと思えるのは、もっとずっと先なんだろうなァと思っている。それも成長を喜ぶというよりは、半分くらいは苦労を乗り越えた達成感で嬉しくなりそうだ。俺は可愛がりたいというより、宿命のほうで子供を欲しいなと思っていたので。まぁ、ちゃんとやりますけどね。
結局、現代人の複雑さと孤立が原因な気がします。子供を授かる前に大事にしていた価値観はいろいろある。昇進、趣味、交友関係、などなど——全部いいことなんですが、生き方が多様になっているぶん、一旦優先度のツマミを落とさなきゃいけないものも多い。いっそのこと、若いうちに産んでしまえばギャップも少なくて済むのかもしれない。けど、価値観が相対的に比較される社会だと、20代のうちに「持っておくべきモノ」をスキップして子育てに進むのは、それ自体ではなくたぶん、比較によって不幸が生まれてしまう。上に挙げた句なんかも、今に比べれば何もなかった時代だから喜べたっていうコンテキストはあると思う。
あとは孤立。自分は家族単位で生活する生き方はいろんな弊害があると考えてまして。もっと地域で、時間を持て余している孤独なおばあちゃんあたりと養育を一緒にやればいいんじゃないかなとは思う。そういうことを言うと、「ヘンな人に当たったらどうしよう」という不安がすぐ浮かぶんですが、むしろ色んな人と人を繋いでおくことで、ヘンな人を特定するとか、あるいはそういった人を逆につながりの平均化された軸に戻すみたいなことができるんじゃないかなと思ってます。まぁ、シガラミが面倒臭い時代の反省として今があるのかもしれないですけど。メリデメありますよね。
ソシャゲーマーの皆様、あと一か月で学マスのアニバですね。2月末のウマ娘のアニバのダメージは回復しましたか?あ、アーモンドアイ引いたらラッキーライラックも引かないわけにはいかないですよね。ウマやってない方も学マスの次の月にはミリシタのアニバもありますね、掛け持ちしてるPはお財布が大変だ。あ、パワアドもお始めになられた?
推しのためなら喜び勇んで課金する方もいるでしょうが、特定の推しのためというよりもガシャそのものが好きになってしまって回すようになってしまった方も多いと思います。はい、私のことです。いや、私のことでした。
今月使いすぎちゃったな、来月からは課金を減らそう……というのを何年もだらだらと続けてしまっていたのですが、先日ついにダラダラ課金し続けてしまうガシャ中毒者でも課金を劇的に減らす方法を見つけたのでそれをお伝えしようと思います。
ひとつことわりを入れておきますと、ブラック企業でこき使われてたとかならともかく、ただ単にやめたゲーム・コンテンツに後ろ足で砂をかけるのはダサいと思っているのでソシャゲーそのものの悪口を書く気はございません。そんなものほかにいくらでもありますし。あくまで「来月から課金を控えようと思って早〇年、さすがにいつまでもこれを続けるのはなあ……」みたいな悩み方をしてしまっている人向けの記事になります。
初めに結論から申し上げますと、ガシャ・課金を我慢するのは不可能です。正確にはできる人間自体はいるけど、しすぎて悩み続けているような以前の私のような人間には不可能です。
これは根本的な構造の問題で課金してガシャを回す、というのは非常に短時間で実行可能なのに対してそれらを「我慢する」という行為はずっと休みなく継続して行わなければならないからです。1日のうち23時間50分は絶対にガシャ回さないぞモードで「我慢」できたとしても、残りの10分で誘惑に負けたらパーです。10分あれば天井叩けますからね。
つまり「我慢する」というのは勝ち続けなければならない、勝率十割を求められる非常に過酷な戦いなんですね。相手がよほど弱ければなんとかなるかもしれないけれど、課金しすぎて悩むような人間にとってガシャ欲はそんな弱い敵ではない。
昔何かの記事で欲望は巨大なゾウのようなもので、自制心はその上に乗ってるゾウ使い。ゾウが暴れて好きところに行こうとするのを一時的には制御できても、それが何度も続くとやがてゾウ使い(自制心)の体力が尽きてしまう、みたいなたとえ話を読んだことがありますが、ガシャに諭吉いや栄一をつっこめる人間にとってのガシャ欲はまさに巨大な暴れゾウ、簡単に制御し続けられるチワワではない。
ではガシャ・課金を我慢するのが不可能ならどうすればよいのか?答えは一番シンプルです。アプリごと消しましょう。
いやいや、それができれば苦労はしないよと思われるでしょうが、もちろん今すぐには無理でしょう。ただアプリを消すという選択肢を一度頭に入れて「消した方がいいかもなー」とちょっと悩んでみてください。それによって「ガシャ・課金欲」と対になる「アプリ消したい欲」を発生させることが大事です。
要は「ガシャ回したいゾウ」に対して「アプリ消したいゾウ」で対抗しようというわけです。これがアプリ消したいゾウではなく課金控えたいゾウとかガシャ控えたいゾウではダメです。理由はシンプル、課金するのもガシャを回すのも一瞬で終わるので、どれだけ重課金してても実際には課金してない、ガシャ回してない時間の方が圧倒的に長いため「課金控えたいゾウ・ガシャ控えたいゾウ」はすぐにおとなしくなってしまうから。満たされてる、彼らの望み通りになってる時間の方が圧倒的に長いから。
これを「アプリ消したいゾウ」にすることでどうなるか。アプリを消さない限りそのゾウはずっと暴れ続けることになります。もちろん、最初は大した力ではないだろう。しかし一週間、二週間、一か月、二か月と考え続ければ徐々に「消してもいいかな」と思える気持ちは強くなっていくはずだ、悩める程度の金額を使ってきたのであれば。
そして悩み続けて推しキャラの性能が微妙だったとか天井叩かされたとか、そういうタイミングで「えいやっ」と踏ん切りをつけて消してしまおう。大丈夫、できるはずだ。今月もう〇万だけど……もうここまできたら天井しかねええーいって回してきた勢いを使って消そう。
さて、消したあとどうなるか。ガシャの禁断症状に苦しみ、今度はアプリ再インストールの誘惑との戦いになる……かと思いきやむしろ逆で、アプリを消した今の私はガシャをすることなく、ガシャで神引きしたのと同じ気分を毎日味わってます。
ガシャで良い引きすると、なんでうれしいんでしょうか?脳汁がでるんでしょうか?無料配布分の石だったり、あるいはちゃんと限られた予算で回してる方にとってはそれは「ほしいものが運良く手に入った幸運に対する喜び」なんじゃないでしょうか。
しかし課金しまくってる人は違います。1万円でほしいキャラ出ました。、フルプライスのゲームソフト買える金でキャラ一つ手に入ってなんでうれしいんですか?はい、天井と比べたら5万円浮いたからですね。課金しまくってるとガシャ結果は手に入るか否かではなく「値段の違い」でしかないんですね。
だからアプリを消した今の私はもう来月のクレカ請求が楽しみでしょうがないんですね。いやーどんだけ減るんだろう、これからどんなスピードで金貯まるんだろうって。あれです、人は報酬を得る瞬間ではなく報酬を得られそうな瞬間に興奮すると言われてるやつです。だからこれからが楽しみでしょうがない。坂本真綾が鈴村健一と結婚したことに対して「私はもう恋愛というものをしなくていいんだという安心感があった」みたいなことを言ったらしいですが、まさに「私はもうガシャというものを回さなくていいんだ」という安心感と高揚感がやばい。
なのでアプリごと消してみると意外と楽にガシャ卒業できる、ってのを頭の片隅にいれておいて「けそっかなー」というアプリ消したいゾウを心の中で育ててください。それが良い感じに育ったタイミングで「今の調子だと今年だけであと〇〇万消える」みたいなことを考えてえいやっといってみましょう。
もちろん、消した後にはその穴を埋める安い娯楽が必要になってくると思いますが、おすすめはやはりゲームはゲームでも家庭用ゲームですね。Playstation Storeでは数週間ごとに対象が変わるセールでちゃんとした評価を得たちょっと古くなっただけのフルプライスソフトが3000円とか2000円とか場合によっては600円(KOF14のDLC入りがこれでびっくりした)とかで買えたりするので、おすすめです。単純な時間消費だけでなく、物欲・買い物欲みたいなものをガシャよりもはるかに安く発散できますしね。
どうしてもスマホでできるものじゃないと、というなら適当によさげなゲームを今年生まれたばかりの赤ん坊でございますと偽ったうえでプレイするのもいいかもしれませんね。無論月5000円の制限が事実上一生外れないからです。
多くの人はきっと、「なんでそんなことで悩んでいるんだろう」「悩んだところで時間の無駄なんじゃないの?」と言うんだろうな。俺自身、たしかにそうだと思います。
けど、俺にとって「意味」はとても大事なことでした。意味を外部から与えられた人たち、たとえば両親や友達らから愛されることで自尊心を確立した人は意味が充足されているから悩む必要すらなかったんでしょう。俺には普通の生活とやらがわかりませんが、おそらくそれが普通の環境です。
きっと俺は普通ではなかった。
いや、もちろん「環境が悪かったからこんなに苦しんできたんだ!」などと言うつもりはないのです。人それぞれに悩みがある中で、俺にとっての悩みは環境の欠けが生み出した「生きる意味」だった。そういうことなんですね。
長く考えるうちに、「生きる意味なんてないんだな」とフリードリヒ・ニーチェのごとく虚無主義(ニヒリズム)に陥りました。しかし、この結論は何の役にも立たない。それに、世の中には「これが生きる楽しみだよ」と言わんばかりに楽しそうに生きている人がいます。彼らと自分の違いはなんだろうか、と問わずにはいられなかった。
いろいろと悩んだ結果、俺が捻り出した答えは「意味は個々人が与えるものなのだ」というものでした。この答えを出すために4年ぐらいの時間がかかった気がします。21歳の時点です。
たとえば、生まれた時点で、赤ん坊は世界も意味も知らず、ただ泣いたり笑ったりおっぱいを吸ってます。うんちおしっこも。つまり、彼らはただそこにいるだけ。自我を獲得してから意味を後付けするのだと結論づけました。
後で知ったことですが、この答えもすでに過去の哲学者が発見しているようです。世の中には同じような悩みを持ってる人がとっくに答えを見つけているんだなあ、とぼんやり感じましたね。世界は広く、俺の認知はこんなにも狭い。無知を実感させられます。
みんなはどう考えているんだろう?
生きる意味について問わざるを得ない人は、自ずと意味を獲得したい人なのかもしらない。背景には人間関係やお金の枯渇が感じられる。
だから、「そんなのどうでもいいよ」と言える人がとてもうらやましく思えてならない。
特に意味のない大人気ゲームを原作にうまく意味づけされた一本で67点。
日雇い派遣で働くニノは地下鉄での通勤中に元カノから電話がかかってくる。とってみると妊娠したと言われ、えぇーと思いながら電車を降りて駅を出ようとするニノは通路でチョンマゲおじさんとすれ違う。通路を進んでいくと再び同じおじさんとすれ違うニノ。地下鉄駅の通路がループしていることに気づいたニノはルールを把握し脱出を図る。
みたいな話。
なにをおいてもOPでボレロのダン、ダダダダンっていう打楽器の音にあわせて8番出口 Exit 8 ってタイトルの文字がバラバラと出てくる演出がダサくてねぇ……いや今日日音ハメ演出て、MADじゃないんだからさぁと思ってしまいました。ちょいちょいクラシックが流れるんだけど、なんかダサい。つーか、日雇い派遣でスマホでSNS(陰謀論系)を眺めてる奴が通勤中に聴く音楽がボレロか?ホンマにそうか?という偏見。
まぁ、それ以外は概ねよくできていて。
うだつのあがらない病気持ちの日雇い派遣の日和見主義の中年が、降ってわいた妊娠という異変に迫られ懊悩する様子を大人気ゲームである8番出口の「ループする通路の中で異変を探して進むか戻るか決断する」というゲーム性とうまく対応させているなと思った。
で、原作では特に意味のないループする通路だったのを今回はニノの精神世界と綿密に結び付けており、ロッカーの中から赤ん坊の声が聞こえる演出や、天井から血がふってくる演出、ポスターに描かれる人物や目がニノを追いかけてくるといった(赤ん坊はなかったけど)、原作でも人気のギミックが「元カレの妊娠」を突き付けられたニノの精神状態をうまく表しているなと思ったし、第三幕で出会うガキが生まれてくる予定のニノの子供であり、ニノの子供時代でもあるというように受け止められるように撮られていてなかなかよかった。
一方で原作でも人気のおじさんがまさかの主人公に昇格する第二幕は「ルール説明」としての意味合いが非常に強く、ニノの精神世界である地下通路との接続が弱くここももっと工夫のしどころだったんじゃないかな。決して悪い人ではないのだけれど共感力が低く自分でなんでも決めてしまうおじさんで尚且つおそらく離婚していて息子にはあんまり会えない、という子供を産んだけど失敗した世界線のニノというポジションであろうことはわかるんだけどさ。
どうしても原作で人気のおじさんを使ったファンサ感がぬぐえなかったのがちょっと残念。
そうしてニノは途中で合流したガキに寄り添いながらギミックをクリアし続け、最終的にニノの根源的恐怖であるTSUNAMI(cv:桑田佳祐)に見舞われその中で元カノとガキと幸せになっている自分の幻想を見、この未来を守りたいと決断し恐怖を乗り越えガキを守ることで、ガキも自分もそれぞれ8番出口にたどり着くことになる。
ちなみにこのTSUNAMIは原作では引き返すのに間に合わなければ一発アウトのギミックだが、映画では乗り越えることができるものとして表現されているのは、解釈として悪くなかった。
しかしニノがたどり着いたのは8番出口、ではなく地下鉄への道で、そこでニノはまず彼女に電話をかけ「すぐに行く」と告げる。失敗してNPCになってしまったおじさんのように相手の意見を聞かずに腕を強引に引くわけでもなく、目を見て会話することで未来を切り拓こうとするという着地はこの作品の回答としておそらく正しい。
そして電車に乗り冒頭と同じようにイヤホンを付けると、冒頭で発生したトラブル――リーマンが赤子連れの母親に怒鳴り散らすところに遭遇。8番"出口"から脱出していない自分、全く同じ展開の"ループ"をおそらく自覚したニノは冒頭では見逃した"異変"を今度は見逃さない、というところで作品は終わる。これはもしかしたら8番出口の続編の8番乗り場(今度は通路ではなく電車の中が舞台)を表しているのかもしれないし、もしくは特に関係なく単なるループを経て成長したニノを表しただけの俺の考えすぎかもしれない。
あとはアレだなー。ニノの演技はめっちゃよかったんだけどニノってニノじゃん?実年齢40過ぎとかだと思うけどぶっちゃけ20代前半とかにも見えるし、まぁ40歳くらいにも見えるじゃん。でさ、今回持ってる設定の元カノはらませた日雇い派遣っていうのが年齢によって重みが変わりすぎるじゃん。ニノが年齢不詳すぎるせいでこれどういう気持ちで受け止めるべきなんやろか?ってちょっと悩んじゃった。
ま、そんな感じかな。
8番出口ってゲームを知ってる人だったらなるほどそういう感じになるんだ~って思えると思うし、知らない人にもまぁ男が人生と未来を見つめ直す話という普通の話をうまくSF設定に絡めたなぁって思えるようにはできてると思うのでまぁそこそこオススメ。
ダメ親父とエリート娘とビッチと正義マンとセンセイの織り成すハートウォーミングストーリー。73点。
移民開放左翼過激派のテロ組織に所属する主人公のレオ様と恋人の黒人女は移民収容所を襲撃したり移民局のショー・ペン大佐といろいろあったり、その辺の建物を爆破したりと大暴れ。子供ができてすっかりまったりしてしまったレオ様に黒人女は不満爆発、銀行強盗に失敗して逮捕され証人保護プログラム下でペンの手先として組織のメンバーを売りまくりそのうち逃走。組織が壊滅状態になったレオ様は赤ん坊と一緒に身を隠す。そして13年後、すっかり成長した赤ん坊a.k.a娘の存在を知ったペンはその子供が自分と黒人女の子供であることを疑い始め、彼女を消すために行動を起こす。レオ様は娘を守ることができるのか。
みたいな話ではなかった気はする。
いや、シンプルに面白い映画だったんだけど思い返したらレオ様なーんもしてなくて草なんだ。
最初の移民局襲撃でも外から迫撃砲(花火)を撃っただけだし、その後も基本的に大暴れするのは黒人女メインでレオ様はサポートメイン。子供ができてからも家で子供の世話ばっかりしてて活動の熱意がなくなってる!つって責められるし、娘が大きくなってからは彼女を鍛えてるのはデルトロニキだし。
どうでもいいけど13年後ってなって画面が切り替わったら成長した娘がカラテをやってるシーンになるんだけど、師匠の顔が下から舐めるようなカメラワークで上がっていって13年前のレオ様っぽい髭が映って、でもさらに小汚くなっててレオ様歳とったなぁと思って見てたら堀の深い顔、タレ目、あれ?デルトロみたいな顔になったなと思ったらデルトロだったというアハ体験があった。
その後、ペンの部隊に追いかけられて革命戦士デルトロに助けてもらう時も銃を預かって若手連中と一緒に屋上を逃げるんだけど途中で落下して逮捕される。またデルトロに助けてもらって脱出してペンに捕まった娘を追いかけるんだけど、娘はすでに別の奴に預けられてその後に自力で脱出、ペンは彼を消そうと追いかけてきた殺し屋にやられ、その殺し屋は待ち受けていた娘に殺される。
レオ様なんもやってへん。ずーっと追いかけられて追いかけてドタバタしてるだけ。それでも面白いんだからすごいよ。
じゃあレオ様が本当に何もやってなかったのかって言うとそういうわけでも無くて、黒人女は子供置いて逃げて、ペンは娘を自分の負い目だと思っている中、レオ様だけが彼女を一身に愛してたのね。彼女にはパラノイアと言われながらもテロ組織の知識を教え込み仲間判別機を持たせている。
そのことで彼女は最初のピンチを脱出できるし、その後も自身の身を守り戦う手段を身に着ける。そうして最後にすべてが終わった時にすべてを知った娘は父親でもなかったレオ様に銃を向けて「お前は誰だ」と問い、組織の合言葉を投げかける。その回答が「そんなことに何の意味もない」ってのもイイし、その後に「パパだよ。お前のパパだ」と告げるレオ様に駆け寄るシーンは涙なしには見られなかったね。レオ様は娘がペンの娘だってことは知らない。娘にとってはパパだと思ってたのは本当はパパじゃなかったけど、じゃあパパと呼ぶべき本当の人間は誰なのかっていうね。エモい。
そして娘は立派な革命戦士に成長し、レオ様はちょっとだけ成長して彼女を応援するのだった。最終的に逃げた革命戦士から生まれた娘はダメパパに育てられ逃げない革命戦士に成長したのだった。
そして何とか生き延びた白人至上主義でトキシックマスキュリティの化身だったペンは自分が入ろうと思っていた白人至上主義クラブの最終面接で「黒人女と関係を持ったことはないが、逆レイプされたことはあったかも。俺の優秀な遺伝子が欲しかったのかも」と「男らしさとは・・・」というしょうもない言い訳をつのった結果、"ガス室"送りにされるという白人至上主義クラブジョークで処刑される。
ペンも自分の娘だと分かったとたん服装とか友人付き合いにめっちゃ説教したりやかましくて好き。冒頭から移民を憎んでるんだけど彼をしてやった黒人女に執着して付け狙い遠くから双眼鏡でケツずっと見てたり、そのケツ揉んだレオ様に嫉妬したりと人間らしい矛盾した存在でもあるんだよな。
移民開放とか白人至上主義クラブみたいな社会派みたいな顔してるけどやってることは親子の絆って血のつながりのことなの?という古来から連綿と続く普遍的なテーマを扱っているのがよい。デルトロニキはある意味で言えばもっとも理想的な「血のつながりではないファミリーの長」というショーケースとして登場するし。
あと音楽も超よかったな。無音をうまく使う映画もあるけど今作ではずっとポップな音楽が流れていて耳が飽きない。この作品のテンポ感や展開の割に妙な明るさが常にあるのは今作の劇伴を担当した人の手腕がめっちゃあると思う。なんか賞とれ。
そんな感じかな。161分があっという間だった!はさすがに過言だけどめっちゃ長いって感じるようなこともなく革命家とバビロン、差別主義者とカラード、父親と父親、父親と娘という「誰が悪いかわからない」みたいなことはない割とスッキリした構成で見ていて頭が疲れるってこともない。人間ドラマとアクションがうまく溶け合ったいい映画だったと思うのでオススメ。
赤ん坊を見ればわかるように、人間というものは、最初は何もできない。
立つことも話すことも、お腹が空いたら食べるということすらできない。
だから何にせよ、最初はできなくて当たり前。どんなことにも練習段階というものはある。
そんなことは、それこそ誰にでも、人間として育ってきたら当たり前に認識できるものだと思っていた。
しかしそうではないらしい。
自分ができることは「できるようになった」ことであり、何事も才能なんてものだけで生まれた瞬間から身についているわけがないことも、やはり人は根気よく教え続けないと理解できないようだ。
絵を描く、文章を書く、文章を読む、体を動かす、ものを考える。
どんなことにだって無自覚な学習段階はあり、特に初心者レベルでは才能よりもまずは経験がものをいう部分が多いことを、どれだけ人生を生きても、本を読んでも、そこについて考えずにきてしまうと、これっぽっちも気づかずにいられるらしい。
そういういくつかのサンプルに触れ、今気になるのは、じゃあ世の中のどれだけの人がそこまで自分の成長の過程に無自覚なのかということだ。
長い文章を読むということが最初は辛くても普通でしょということすら、順を追って説明してからじゃないと話ができない人ばかりだと、未来をみすえた社会作りというものは本当に難しくなるなあと頭を抱える。
錦田愛子
【解説】軍の制服組出身者としては、いつ終わるあてもなく、戦略目標も不明確な戦争遂行に反対するのは当たり前のことだろう。従軍する兵士の命を無駄に危険にさらすことになるからだ。開戦前にはケイン統合参謀本部議長がトランプ大統領に、長期戦となるリスクを警告して消極的な姿勢を示していた。任命したものの思い通りに動かなかったことを受けて、いまさら「頼りない」から辞めてもいいなどと言っているトランプ大統領の反応は子どもじみている。
今回の対イラン開戦がイスラエル側の働きかけを受けたものであることは、複数筋から指摘されている。昨年末から2回のワシントン詣でと10数回にわたる電話会談で、ネタニヤフ首相はイランの脅威について訴えてきた。ガザが停戦状態となり戦後に向けた交渉が膠着状況にある中、他に対外的な脅威を探して国内世論の批判をそらす必要があったからと考えられる。アメリカはイランとの核合意に向けた交渉を再開しており、実現してしまえばイラン攻撃の口実を失ってしまうという焦りもあった。結果的にイスラエルにうまく操られて、MAGAの本筋からは逸れた対外戦争にひきずり込まれてしまったのは事実だ。
米軍人もそうだが、今回のイラン攻撃ではすでに5千人以上の軍関係者が殺害されたとイラン紙は報じている。民間人も含めると、それを上回る多くの死者が出ていることになる。ゲームの勝ち負けや自身のメンツの問題ではなく、実際の人の命を奪う戦争を続けているという自覚がない人物が、アメリカ大統領を名乗る資格はない。強大な武器を振り回す赤ん坊のような人物に、世界が振り回されているのが現状の悲劇といえるだろう。