はてなキーワード: 虚無主義とは
趣味や家族の時間を犠牲にしてまでお金を稼いだり勉強したりする、自己研鑽に一生懸命な人の気持ちが本気で理解できなくなっている。そのことに気づき、驚愕した。
何故だろうと考えると、それほどの自分のための研鑽のインセンティブがないからだと気付いた。
今の自分を支配するのは、「行き着く先は一個人の死である」「死後に干渉できることなどなく、観測することもできない」「死を前にしては、殆どのことはどうでもいいことである」という、仏教的な虚無主義だった。
死後自分に残せるものがないなら、死後のために努力して意味があるのか。生きている間に直接関与できない人間のために努力する意味があるのか。報われるかも分からない努力をしようというほど粋な心意気をしているわけでもない。ならば、今自分が大事にしたいもの、幸せを感じられるものに時間投資をすべきだろう。そのような刹那主義に気付かないうちに至っていた。
ふと、元々そんな気質だったかと省みてみる。幼少期から一貫して、真面目な性格であった。学生の本分だから勉強はするし、将来選択肢が増えて生きやすくなるから成績を上げる。両親の期待と投資があるから報いようとする。果たしてそれは、学歴という成果につながった。
また、学生時代からは漠然と知性体を創りたいと考え、その道に邁進した。その原動力は恐らく、価値観の合う同世代がいない孤独感を埋めたいという動機であった。
知性体を創りたいという想いは、自らの才能に見切りをつけた時点で潰えた。いかに研究しようとも生きているうちには創れないだろうという確信、大局観を持つのが苦手な自身の研究適性のなさ、研究者として生きるのが難しいという社会的な制約。そういったものをひっくるめて、才能がないと理解した。
やがて会社に勤め、その孤独感だけを手元に残して働くようになった。目の前の仕事に邁進する中で孤独感は膨らみ、誰かと一緒に生きていきたいと言う思いが募った。迫る孤独への焦りと言い換えても良い。
そして、出会いを求め、結婚した。極めて運の良いことに、価値観が合い、一緒にいて気安くかつ幸せに暮らしていける相手と結婚できた。その結婚による変化は劇的だった。端的に言えば、自分のために研鑽するうえでの最後の動機であった孤独が、満たされてしまった。
学生の頃の残滓で社会人博士も目指したが、もはや優先するものが変わっていた。続くわけがなかった。
妻と子供という自分より大切なものができた時点で次に意識したのは、自らの死だった。かつての自分にとって、死は「作業が止まるイベント」でしかなかった。だから、それまでにできることをやらねばならないと言う焦りに繋がった。しかし、今の自分にとって、死は「何を遺すか」になった。自分のために遺しても意味がない。であれば、自分のためにする研鑽も意味がない。
あと思いつくものといえば、勉強が必ずしも良い未来を保証しない年齢に差し掛かっているのかも知れない。また、元々の気質として、好奇心は概要に触れるだけで満たされ、何か行動に移すということが厭わしいと思う所もあるのかもしれない。
総括すれば、自分のために努力する動機を失ったこと、自分よりも優先したいものができたこと、死への意識の変化、そして年齢と気質。そういった物が集まって、自分のための研鑽をしなくなったのだろう。
ならば、今私がすべきことは、自分のための研鑽をしなくなったことを嘆くのではなく、家族のために何を遺せるかを必死に考え、そのための努力をすることなのかもしれない。
社会参画に至る通過儀礼としての自傷、特に思春期女性について、ボカロ歌詞、ラビットホールやら、人間なんか大嫌いやら、からふと想起する。
私が自分の容姿を卑下しトラウマトラウマと風聴するのは、ルッキズムとジェンダーバイアスに対するシニシズムである、と自己分析していたが、どちらかというとニヒリズム的かもしれないと最近思う。女性と男性の非対称性に嫌気が差し、弱みを見せる女性がモテて弱音を吐く男性がモテない古い世界を転換させたいという価値観への承認欲求、他者への不信感・不満が、この態度の根源ではありつつも、さして世は変わらないと感じながらも年老いても自傷的に耽るのは、自らの社会性への価値の毀損を厭わない虚無的な諦念所以である、と最近思った。
今の自分、ツイ垢沈黙たる自傷的な行動に対する幼稚さ、メカニズム、普遍的な欲求について類推し思索に耽る。自己価値の曖昧さや不安による試し行動は思春期的であり、これに私は虚無主義的に該当しないところである。寂しいからかまって、という凡な気持ちはもちろんあるが、最もはイベントに対する愛である。公式が今までありがとうも何もなく次のイベントの告知しかせず、蔑ろに感じた憤り、過去への執着だ。そこに対して付加的なイベントたる自傷を作ることで、イベントそのものへの関心と尊さをアピールしたい、というところか。ウェルテル効果が近しいか。そう考えると、面白みもないね。
ありがとうスプラトゥーン1。初めてのネトゲ。初めての交流、初めての彼女。ブラック企業退職から、全国の顔も見知らぬ友人を巡礼する旅。出会った人たちには様々な背景があり、半グレに手切れ金渡したことも。そんな人たちと甲子園に出て、思い出を作った。
最後に潜った。ナワバリには誰もきてくれなかった。ガチマでは有名プレーヤーとよくよくマッチした。うまく立ち回れずもやもやした。だんだん酔ってしまい、リタイア。昔はフェス丸一日プレイしたのにね。
……なんだこれ。婆やの死に目よりも涙出てきた。別れたくない。
別れたくない。
僕は精神障害者である。最近精神科病院協会の会長のインタビュー記事が話題になった。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/261541
この記事に、精神医療の暴力的な医療体制を擁護せざるをえない現実を厳しい言葉で語る彼に賛成する健常者は多かった。
しかしその中に彼の「だからこそ一人ひとりの人間が変わって精神医療がリベラル的な温かい感じになってほしい」ではなく、現代の精神医療体制を肯定する人達も見受けられた。
僕はこういうところに、というか精神障害者になってから日頃から思っていることだが、庶民様の「政治家は厳しい生活をする庶民がもっと良い暮らしをするよう奉公すべきだ。俺は障害者のような弱者には特に何もしないけれども。そういうのは政治家や社会がなんとかするもんだよね。俺?ゲームするよ」って傲慢さが気に食わない。それならまだ選挙という工程を踏む贅沢政治家の方がマシだ。庶民様が障害者にたいしてノブレス・オブリージュを抱かないならそりゃそういう国民性を持つ国民の政治家はそうだろうよ。
自分も社会を構成している一人の人間なのに、障害者の厳しい現状が放置されているのが社会のせいならあなたもその原因の一人なのに。そんな無責任で社会に無関心なヤツが多かったら政治家だってそうだろうよ。
今の無敵の人の通り魔事件って政治家のせいか?俺はなんか良い家具買って散財してる政治家よりTwitterで楽しくグループ作ってオフ会でワイワイやってたり高額資産自慢するオタクとか結婚や仕事でうまくやっていくことが人間のステータスみたいに語る庶民様の方が憎悪沸くけどね。山上被告の窮状を安倍晋三元総理大臣や統一協会のせい、そういう世の中の問題を権力者やでかい団体の陰謀にする人達がいるけど、困っている人を利己的に利用する人達よりそういう人にそもそも関心を示さないかキモい弱者として無視し彼らが重傷になるまでほっとくお気楽で排他的な庶民様の方が極悪人だと思うぞ。彼らに構ってくれる宗教団体の方がまだマシ。通り魔も仕事上では庶民の幸福を少しは考える金持ちや政治家ではなくお気楽で自分たちの幸せしか考えてない庶民様を狙え。男女仲睦まじくしてる人生の絶頂のカップルとかさ。
こんなことを精神障害者が言ってたら「お前らが食えているのは俺らが働いてるからだぞ。生きてるだけありがたいと思え」って言われるかもしれないけど、それなら年収500万円だか以上の人が「税金以上のモノを享受できるのは俺たちのおかげだから、君たち服とかおもちゃ買う余裕あるなら所得税下げて消費税上げてもいいよね?」って言っていいってことだよね。障害者も働かず食えてるだけマシだろ、って思う庶民様が大半だろうから政治家も庶民様が食べれるプラスネットフリックス楽しく見られる、ぐらいの生活をさせてるからいいよね。
結局言葉は自分にはね返ってくるし弱者には優しくしないといけないのだが現実ではそう簡単に優しくできないし人間は攻撃的だ。しかし庶民様のズルいところは政治家だとか金持ちと違って自らの加害性に気がついていないところだ。
政治家や金持ちは会社の重役で厳しい判断を責任もってしなくてはならないのに、庶民様はただ上の指示に従ってマニュアル通り働けばいいんだから気楽だよね。そのくせに文句ばっか言っている。
「政治家よ!俺の人生をもっとよくしてくれ!」って思ってる昭和サラリーマン気質の思想のくせにそんな古臭い庶民様のために政治家が古臭いオリンピックや万博を持ってきたら文句ばっか言って政府に批判的な自分がかっこいいと思う庶民様。
もっといい人生にしようと政府はマイナンバーカードだのデジタル化を進めたり年金で老後を賄うのは難しいから投資を推奨しているのに、『失敗の本質』の戦前から反省し政府に反対するのは偉いんだぞ、と文句を言って、かといって自分は富国する思想やより良い政策の代案がない。
政治家や創作作品に人生をデザインされないと人生に希望が持てない庶民様。そのくせプライドは高く上流階級をシニカルに冷笑する虚無主義の自分は頭いいと思ってる。凡庸な人間でそんな虚無主義だから日本で希望が持てないんだろ。
貧困になったら世界を呪う。富者になったら自分がすごい頑張ったからだと思う。そんな健常者の庶民様や政治家、金持ちを救ってやる必要なんかない。日本はもっと衰退し庶民様はもっと窮乏するべきだ。
最後に僕が途中で飽きた『ファイアーエムブレム蒼炎の軌跡』の好きな台詞を置いときます。
「人間は図太いものです。自分に身近な不幸以外にはとても鈍感にできている…だから自分にかかわりのない悪事には見て見ぬふりをするということができる。自分や、自分の家族に起こる不幸でなくてよかった、と胸をなでおろしながらね。だって、所詮は他人ごとなんですから。(中略)彼らは、思い知ることになるでしょう。平和に慣らされ、他の不幸を省みなかった自分達の末路がどんなものであるかをね。同情の余地はありません。」
それならそれらに能動的である必要はない。改めてやりたくなったときだけ調べるというので構わないわけだ。
あまりにも口やかましく宣伝されるわけだからやりたいってときに「名前が思い出せない…」なんてことまずないわけだし。
よってこの態度で捻出した時間でマイナーなものをひたすら探すべきだ。
マイナーなものこそ自分から調べなきゃまず知り得ないわけで、しかもメジャーなものより遥かにたくさんあるのだから、その中から面白いものを見つけるうえでもより多くの時間が必要というわけだ(調べる量も多ければその分だけ調べたものから吟味するのも時間がかかるということ)。
しかし理想としてはそうであっても最近この行動態度を貫こうとするうえで心が折れかかってる。
画像検索を頼りに思いがけないコンテンツの発見を狙っても、画像の詳細を開くと関連画像がまたずらずら出てくるという再帰的なデザインを採用しているので、情報量はねずみ講式に増えていく。
しかも画像検索は同じ画像を元にしても日によって検索結果は変わっていくのだ。
あの日なんてことないと思った画像が次の日むしょうに気になっても二度と出てこないということがありえる。
なら出会った画像のurlを片っ端からブクマしとけば解決するかといえばことは単純にはいかない。
何万とブクマがたまってくると、あの画像が見たいと思い立ってもそうそう見つけられない。
見つけられないというか、かりに見たいと思った画像を見つけたときしても、「それが見たかった画像である」ということに確信が持てなくなってしまうだ。膨大な記憶の中に似たり寄ったりの画像が数多くあるとそういうことも起こる。
既に思い出しているのに、それが思い出したかったものだと気づけず素通りして思い出す作業を続けてしまうという経験がある人はそれなりにいるのではないだろうか。
まあこんな感じでひたすら深く自分の好みを追求するというのもなかなか限界がありそうな態度なわけだ。
そう考えるとなんでもかんでも浅く与えられたものを適当に楽しむっていう多くの人の態度も、まあ夢がなくて虚無主義的な気がするのだけども、やっぱり賢い気がする。身の程を弁えた余暇活動のあり方っていうかな。
中二がたどり着きそうな浅い虚無主義
やめろ!それは虚無主義だ!
特にやりたいこともない土日を、これといって生産的なことはせず、ある程度は楽しんで、ずっと引きこもっていたのでお金は使わないで、乗り切った。
マッチングアプリをやめたおかげで睡眠時間が取れるようになって、なかなか健康だ。
エネルギーが余っていて、風俗に行きたくなるが、さすがにお金がいくらあっても足りないので、そこから意識を逸らすことで日々をやり過ごしている。
今は、お金ないし、実力もなくて、友達も以前の日記にあったように数人(あと家族以外の人は全部LINEから消したり非表示にした)で、SNSもやってなくて、ぜろぜろぜろって感じだ。
新しい人間関係を広げる試みも、うまくいった試しがないし。
毎月の1500円の寄付くらいか、良いことしてるの。NPO的なやつへ。クレカが自動で寄付してくれる。科学の力ってすげーでしょ。
額が全然足りない気もするが、とりあえず負担でない最低限で、もう半年以上は寄付できてるはず。
親に家賃を払うか。実家暮らしで1円も入れてないから。貯金もなしで恥ずかしくないの??って、それはまあそうなんだけど。
パチンコ店にいるおっちゃんおばちゃん達とか、お金の使い方それでいいのって思ってたけど、俺もたいして変わらんな。
おばあちゃんの生活のために出勤してる風俗嬢のが人として100万倍マシじゃん。嘘か本当かは、もはや確かめる術がないし確かめる気もないけど。
10万もらった時の使い方で人間性が出るって言うけど、俺は全部風俗に使う。恐らく。税金も適当なのに。終わってる。
「それ以外に生きる楽しみないゴミです」ってさすがに友達にも言えない。
小学校の頃、校門の前で募金活動募る方やってて、1000円札を入れてくれたおばちゃんに俺は驚いたけど、大人からしたらたいした額じゃなかったんだな。
自己啓発本も拒否して、ニヒリズム・虚無主義っぽくなって、普通とかまともに帰りたいけど、帰れそうにない。帰ってこない募金活動に傾倒するぞ。
元増田です。
この枝の議論は自分にとってとても大切な観点が書かれていたのでここメインで書き込みます。
横増田の方はかなり私の考え方に寄り添って書いていただきました。
またその方とやりとりしている方も「ファスナーは常に閉めるべき状態なのだ」と考えるあり方を提示されており、私のこだわりに添いつつ新しい考え方をもたらしてくれました。
この枝のさらに枝の増田さんが書いている、何か事態が起こった場合に反省して切り替えていくという姿勢は私のような人間には極めて重要です。
人の意見を素直に受け止めないと苦手なものは一生そのままになってしまう。何が苦手かはおそらく元の文章読んだ方ならなんとなくわかるかと思います。
私は例えば人より0.7倍スキル習得速度、物事への認知速度が遅いとしても、その分できないかもしれないけど頑張って、人より劣るけれどもスキルに経験値入れ続けることは大切だと思っています。自分のやってることに半分自信があり半分は全くないので、冗談ぽく周囲に話して、それでちょっとずつ直したり考え直したりしてます。
元の増田もそんな気持ちで議論になりそうなこだわりをヤバそうなものから共感を得られそうなものまでグラデーションでピックアップして書きました。
ということで、お皿はもう少しちゃんとやってみようと思います。
もう少し、と書いたのはいきなり完璧にやろうとすると失敗するからです。
これについてはhttps://anond.hatelabo.jp/20200116111422の指摘があたります。
これは完全に私の書き方が不十分で申し訳なかったのですが、元増田で「必要以上に」と書いてある通り除雪はします。私はかなりちゃんとやる方で、ネットの積雪予報と自分の睡眠時間を考えて、時間を定めて適切な範囲で除雪します。融雪の時期は当然朝晩の融解と氷結を見越して除雪しています。変なタイミングでちょこちょこ除雪したり、大した積雪でないのに除雪機出したり、そういうのはよくないと思うのです。田舎だとマンションの管理会社が建設業で、ユンボで除雪してもらえるのですが、その時に自家用車が駐車場にあると除雪に支障をきたすので、来そうな場合は出かける用事を作ります。一軒家の場合はお隣の除雪ペースを心に留めて動きます。
あれこれ理由をつけているだけで、自分のだらしなさを正当化しているという指摘が結構ありました。
その通りです。ただそれはいけないことなのでしょうか? ちょっと言葉は強いですがhttps://anond.hatelabo.jp/20200116133818の意見に近いです。
で、日常のいろいろなことに過度に囚われず、思考したり実践したり、あるいはだらだら休み増田も書く。動静どっちもやる。
ただし、人の意見をしっかりきいてこだわりを相対化するのは大切。
こんな人間なのでお察しかもですが小学校から中学校の時代はかなりいじめというか孤立しましたが、中学2年生の時以来つるんでくれるメンバーがいて、とっても、助かりました。そのメンバー達のおかげでこだわりの相対化へのこだわりが始まりました。
消しゴムを拾わないのは、その時間は書いたり黒板見たり集中して物事を覚える時間だからです。
物を覚えているのに消しゴムを拾うと物を覚えられない。テストで点数取れません。
誤字をすると、物を覚えるのは一時中断します。そして消しゴムの出番です。
席変えの際に周囲に説明して、俺のは拾わなくていいということを伝えるようにしてました。
なお私は上半身を前後させながら授業を聞くと覚えが体感1.8倍くらい(2倍行かないくらい)よくなります。
ただこれをあまりにひどくしすぎると周りの人に迷惑なので、その感覚をより小さな動作で得られるように中学生くらいからしています。
ちょっとだけ貧乏ゆすりする、あるいはつま先をゆっくりトントンする、左手を鼻筋に当てる、ペン回しをする(はじめ右手でやっていたのですが右手でやるとノートに差し障りが出るので、左手でペン回しすることにしています)などです。
自分でもこれヤバイと思うのですが、良い成績取るためには仕方がない。あるいは学会発表とかで論旨を掴むためには仕方がない。消しゴムもこれとおんなじです。
枝増田にあった指摘で、傘もささなそうというものがありました。
ご指摘の通りで、過度の雨(濡れすぎて外出先や職場に迷惑になる時)以外は差しません。お分かりかと思うのですが、傘は雨が止むと差さなくなるからです。
小雨の時はもちろんささないのですが、常に傘は持っています。なぜなら本降りになるかもしれないからです。
雨降ってるのに傘ささないで持って移動していることが多いです。
かなりそう思います。恋人の家でご飯作るときとかは実践の場で、自分のおかしなところを修正していく良い機会だと思いながら、ちょっとずつ自分の変なところを説明したり出したり、そして直したりしながら、かつ楽しくデートするようにしています。
ブコメありました。とってもかっこよく言うとそうだと思います。自分の性分は、性分ゆえに理由なくそうであると自信がある一方で、子供の頃から否定され続けてきたので全く自信がない。ただ修正しながらやってきて自分の性分を生かせる仕事しているだけ。アンビバレントに割り切っています。
アサシンクリードオデッセイは古代ギリシャ的な世界で基本的にみんなすごい当時の神々に対してとても信心深いのだけど その中で「なんかひどい目にあった結果神を全く信じられなくなり、マフィアのようなものを作ってひどいことをする人」が出てくるんだけど こういった人物は海外の作品だとよく登場するような気がしないでもない。
これが欧米的な宗教観なのかなあと思う。 「この世界に神は存在しない」というのはまあ事実であるわけだけど、「神はいない!だから何をやってもいい!」という方向に行くことが多いから それを抑えるために宗教があるというところまでがある程度は共通認識としてあるのではないか。
日本的な価値観では神がいないという事実をショッキングなものとして扱うことはないだろう。 でも日本人にとっては「無神論=虚無主義」ではないだけで、虚無的な精神状況になることはもちろんあるのであまり変わりはない。
横だけど、音楽というのは世界観、人間性、コンテキスト、そういったものから逃げられない存在だと思う。
いかに音楽それ単体で評価しようとしている人でも、それらの影響を無意識に取り込んでいる。
その事実をシビアに受け入れるなら、却ってその部分を積極的に音楽の評価に取り入れようという姿勢も正しい。
そう考えた時、世界観や物語性を魅せることに長けたハイコンテキスト文化の申し子であるアイドルに一目置けるようになる。
そういう流れを汲み取って聞けば、アイドルがくり出してくる曲にこそ、重いパンチを感じられるはずだ。
アイドルの曲は、意外と反権力的で、メッセージ性が強かったりする。知的な人は、知的に受け止められる。
もちろんそうでない人も、そうでない表象的な受け止め方ができる。
それらが入り混じった混沌とした悪趣味さこそが、アイドル音楽を音楽たらしめている。
仮に陳腐な音作りの曲だったとしても、そこに哲学的だったり虚無主義的だったりする意味を見出だせる。
しかし実際には、(アニソンなどもそうだが)プロのスタジオミュージシャンが作っているものなので、品質は安定している。
逆に、一端のバンドでは表現できないような多様な音楽表現を見せてくれて、曲によってはその音楽ジャンルの専門誌で取り上げられるような事もある。