はてなキーワード: 格率とは
Twitter(現X)には「クソデカ主語警察」なる存在がいる。クソデカ主語警察というのは何かというと、ある文章の主語が指す集合が大きい場合にどこからともなく湧き出てきて「主語がクソデカですよw」などのリプを残していく存在である。そして、このリプには「主語がクソデカですよ(なので、あなたの発言は間違っていますよ)」という含意がある。例えば、「女性は〜なとき暴力的である」といったツイートが炎上していると、決まってリプ欄(あるいは引用欄)には、こういったクソデカ主語警察が湧いて出てきて、毎度のごとく論破芸を披露してくれるのだ。
そして、私はこのクソデカ主語警察が本当に嫌いだし、この世から消えて欲しいとさえ思っている。正直、台所の隙間から這い出てくる黒い虫よりも嫌いだ。見た瞬間に全身の毛が逆立つレベル。ただ、誤解のないように予め述べておくと、私自身はこうした主語の大きい発言をすることはほとんどない(ではどういうときにするか、ということは後述する)。むしろ、「女性は〜である」のような、ジェンダーバイアスを明確に再生産する言説が蔓延っている現状には、正直かなり辟易しているし、こうした不健全な状況は是正していくべきだとさえ思っている。にもかかわらず、では何故そんな私がクソデカ主語警察が嫌いなのか。
クソデカ主語警察が嫌いな理由を先に述べておくと、まったく問題の本質を捉えられていないくせに、紋切り型の指摘を繰り返して、問題の所在を不明確にするから、である。このことについて以下で詳細に述べる。
クソデカ主語警察が害悪であることを話す前に、そもそもクソデカ構文とは何かについて確認しておこう。
クソデカ構文には当然ながらアカデミックな定義は存在しないので、ここではさしあたり「主語がある属性を指す文」としておく。この定義にも異論はあるだろうが、暫定的定義なので一旦受け入れてほしい。例えば「リンゴは赤い」とか「インターネットはクソ」とか「日本はオワコン」とか、そういう文のことだ。
さて、我々は実はこうしたクソデカ構文というものを日常的に用いている。例えば「リンゴは赤い」という文章は、日常的な文脈で使用される場面が想像できるだろう。友達と会話をしているときに相手が「リンゴは赤い」と言ったとして、我々は別に何の問題もなくそれを受け入れるはずだ。逆にそこで「いやいや、主語がでかいですよw青いリンゴもありますからw」などと言おうものなら、LINEはブロックされ、あなたの表示名は「クソデカ主語警察」に変更され、そしてあなただけのいないLINEグループで一生そのことをいじられ続けるだろう。
これは何故だろうか? つまり、何故クソデカ構文に対して「それは違う。◯◯なものもある」という反論が妥当ではない場合があるのだろうか。これに回答するためには、そもそもクソデカ構文という文章がどういう性質のものかを明らかにしておく必要がある。小々専門的な話題になり恐縮だが、「◯◯は〜〜である」という形式の文章は、「すべての◯◯は〜〜である」という全称命題の解釈と、「◯◯は典型的には〜〜である」という総称文の2通りの解釈があり得る。前者の典型的な例は数学的命題だろう。例えば「2以上の素数は奇数である」という文章は通常「2以上のすべての素数」として読まれる。後者の典型的な例は統計的な文章だが、性質を表す日常的な文にも見られる。例えば「犬は吠える」という文章は通常「犬は典型的には吠えるという性質をもっている」として読まれる。そして、全称命題と総称文の両者には、ある重大な違いがある。それは、全称命題の解釈の場合には反例が一つでも見つかれば元の文が誤っていると言うことができるが、後者の場合にはそうではない、ということだ。「2以上の素数」かつ「奇数ではないもの」はもしもあったとしたら、先ほどの数学的命題は一気に誤りになる。他方、「犬」かつ「吠えない」ような存在がいたとしても(そして実際にいるのだが)、そのことは「犬は吠える」という総称文をただちに誤りにはしない。これは「犬は吠える」という文章が意味するところが、「典型的な犬」についてに文だからであり、根本的に例外を認めているからだからだ。先ほどの「リンゴは赤い」の例で言えば、この文は「典型的にはリンゴは赤い」という意味であって、青いリンゴのような存在は初めから想定しているのである。クソデカ主語警察は、このような総称文を勝手に全称命題に都合良く読み替えることで、いわば藁人形を叩いているのである。
おそらく、クソデカ主語警察からは「全称命題であるかのように話すのが悪い」といった反論が飛んでくるだろう。これにも反論しておく。我々がコミュニケーションを行う際には、我々は通常「必要な量の情報だけを話す」という量の格率に従っている。これは円滑なコミュニケーションのために我々が従っているルールのうちの一つとされている。クソデカ主語警察の検閲に引っかからないように発話をしようとすると「私がこれまでに観測した範囲内、かつ統計的に有意と思われるデータ、および社会通念上の傾向を鑑みると、リンゴのうちかなりの割合のリンゴが、赤い傾向があると言えるかもしれない(※ただし青いリンゴも存在する)」となるが、これでは円滑なコミュニケーションは成立しない。むしろ我々は、「リンゴは赤い」という文章を全称命題で解釈するとすぐに不整合が生じるという事実と、発話者が量の格率に従っているという前提に基づき、発話者が総称文を意図しているというチャリティを発揮して、コミュニケーションを行っているはずだ。
つまるところ、クソデカ主語警察というのは、総称文を勝手に全称命題に取り違えるカテゴリーミステイクを犯している上、そのミステイクに気づかずに「自分はコミュニケーションができません」と大声で宣伝する、非常に恥ずかしい行為なのである。
さて、ということでクソデカ主語警察が実はコミュニケーションの原則をまったく理解できておらず、それ故、紋切り型をコピー・アンド・ペーストすればお手軽に相手を論破できると思っているだけの単なる凡愚であることは明らかになったわけだが、クソデカ構文がまったく問題がないというわけではない。むしろ、ここからが本当に自分の言いたいことになる。
クソデカ構文というのは本質的に問題含みのものであって、それ故、慎重に使わなくてはならないことは事実だと思う。たしかに、主語がデカいことによって必然的に問題が生じるわけではない。例えば「2以上の素数はすべて奇数である」という文章の主語の指す集合は無限であり、考え得る限りほぼ最大のクソデカ主語(とは言え高々加算ではあるの)だが、普通に真である。だから、主語がデカいことそれ自体は一般に問題にはならない。しかし、世の中には問題になるクソデカ構文というものはたしかに存在している。それは大きく分けて2種類あり、①そもそも事実とは異なるクソデカ構文②仮に事実だとしても望ましくないクソデカ構文、である。
まず1つ目について。クソデカ構文には、単純に事実誤認になっているケースがある。そうしたクソデカ構文の典型例を挙げると「B型は自己中心的である」のようなものがそうだろう。もはや常識となっていると思うが、血液型とその人間の性格にはまったく関係はない。こういった血液型診断は事実とはまったく異なるデタラメであるので、完全に間違えている。ただし、注意が必要なのは、血液型診断が誤っているのは、主語がクソデカだから「ではない」ということである。こうした疑似科学が誤っている根本的な理由は主語のデカさではなく、科学的な根拠の無さに由来している。他にも「若者は本を読まない」といった例も考えられる。統計的には不読率は全世代を通して年々減少傾向にあるし、むしろ学校の読書教育を考えれば若者の方が読んでいる可能性すらある。
しかし、仮に事実だとしても問題のあるクソデカ構文というものは存在するし、これこそが一番の問題だと思う。それが問題となるクソデカ構文の2種類目「仮に事実だとしても問題のあるクソデカ構文」である。統計的な事実(マジョリティ傾向)が仮に含まれていたとしても、それをクソデカ主語で語ることが社会的な害悪を引き起こすことはある。例えば、「低学歴は犯罪を犯しやすい」という事実が仮にあったとしよう。強調しておくが、これは仮の話であり、そういった事実が実際にあるかは知らない。あくまで「もし事実だとしたら」という体で話を進める。つまり「低学歴は典型的には犯罪者予備軍の性質がある」という総称文を確証する統計的相関が仮にあったとしよう。そうだとしても、このクソデカ構文には問題が存在する。それは、「統計的相関」と「属性への本質化」のすり替えである。「低学歴ほど犯罪を犯す傾向がある」という事実は、「低学歴だから犯罪を犯す」という因果関係の説明にはならない。例えば「貧困」や「劣悪な成育環境」といった第3の変数が教育機会を奪い、それが同時に犯罪への原因にもなっている可能性は十分にある。このとき、もしこの言説の問題点が「主語がデカいこと」にあると主張してしまうと、「学歴の低さそのものに犯罪を誘発する性質がある」という本質主義的な前提を暗に認めることになってしまう。そうではなく、本当の問題は「低学歴」と「犯罪率」には相関はあるが因果はない、ということのはずだ。「アイスの売り上げが増えると溺死者が増える」という相関データから「アイスは溺死を招く悪魔の食い物だ」と騒ぐ馬鹿がいたとして、そいつに対して「主語がでかいから間違ったことを言っている」などと、もっと馬鹿なことを言う必要なんかないのだ。
そして、第2種のクソデカ構文が余計に問題なのは、それが差別を助長するからに他ならない。例えば先ほどの統計的相関に従って、「低学歴=危ない」という言説が流布すれば、おそらく企業の採用担当はは低学歴の雇用を控え、周囲は低学歴に偏見の目を向けるだろう。その結果、彼らは正当な労働から不当に排除され、生活のために余計に犯罪に手を染めるしかなくなる。これは少し誇張して書いてはいるが、好ましくない事実自体が、その事実をさらに悪化させる機能を果たしてしまうこと自体は往々にしてある。
この記事を読んでいるあなたが高等教育(特に自然科学)を受けた経験があるとしたら、おそらくこの論点は受け入れにくいかもしれない。つまり、科学的な事実は事実であって、社会的な価値とは無関係だ、という科学の価値自由性を引き合いに出されるかもしれない。しかし「事実だから言っても構わない」という態度は、自分が石を投げて相手を転ばせておいて「ほら、あいつは転びやすいという事実は正しいだろ」と言い張るようなものであって、それは事実の公表に伴う社会的影響をあまりにも軽視しすぎていると思う。
話を戻そう。では結局、何故クソデカ主語警察はインターネットに漂うゴミなのか、一言で言えば、それはクソデカ主語警察自身が、彼らが批判している奴らの「共犯者」になってしまっているからだ。以上で確認したように、問題のあるクソデカ構文には大きく分けて2つの類型がある。そして、それぞれが問題である理由は異なっており、発言ごとに核となる部分を潰していかなくてはならない。にもかかわらず、クソデカ主語警察の指摘は、批判相手の問題含みの前提は基本的にすべて無視している。 本来ならば「その相関は教育格差や貧困という社会問題の結果であり、属性のせいにするのは筋違いだ」と論理的欠陥を指摘するか、あるいは「その発言は差別を助長するヘイトだ」と倫理的な視点から叩くべき場面であるにもかかわらず、だ。結局、クソデカ主語デカ警察は、差別発言の内容には目もくれず、発言の形式だけをたしなめることで、本来の問題点そのものを温存する共犯者に成り下がってしまっている。彼らの「主語がクソデカですよw」などという空っぽの指摘は、問題を本当に解決したい側からすれば、救いでも何でもない、ただのノイズでしかない。
ここまでクソデカ主語警察が何故害悪かを、かなり憎悪混じりで書いたが、もしもあなたが今現在クソデカ主語警察であって、あなたがリプを送りつけようとしているツイートの内容が本当に問題だと思っているのだとしたら、これからは「主語がクソデカですよw」などというクソリプを送りつけて悦に入るのをやめることを強くオススメする。差別を助長するようなツイートに強く反発し、憤りを覚えるという点では私はあなたを強く支持する。しかし、それを表明するために「主語がクソデカですよw」などという薄っぺらな借り物の言葉を脳死で使えば、むしろ相手の主張を助長することになる。もし本当に、クソデカ主語警察のあなたに良心があるなら、ちゃんと何が問題なのかを一つ一つ見極めてほしい。我々の社会に本当に必要なのは盲目な警察ではなく、不条理に立ち向かう勇気と理性なのだから。
インターネット上での発言の倫理について分析すると、いくつかのテーマが浮かび上がる。
特に、言論の責任、真実性、沈黙の価値、自己表現の自由とその限界といった視点。
この箴言(例:「愚か者でも黙っていれば知恵ある者と見なされる」—『箴言』17:28)には、少なくとも2つの哲学的含意がある。
何も言わなければ、他者はその人の知性を推測するしかない。そのため、沈黙は賢く見せる戦略になり得る。これはプラトン的な知の理想(知者とは慎重であるべき)とも関連する。 逆に、発言することで愚かさが露呈する場合がある。
ソクラテスが強調した無知の自覚に通じる考えでもある。自分が愚かである可能性を認めることが知の第一歩ならば、軽率に発言せず、学び続けることは倫理的にも重要。
しかし、沈黙は常に良い選択肢とは限らない。例えば、不正義に対する沈黙は道徳的責任を伴う(ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」など)。
現代のデジタル空間にこの考えを当てはめると、次のような問いが生じる。
ジョン・スチュアート・ミルの自由論では、他者に害を与えない限り、人は自由であるとする危害原則(Harm Principle)を提示した。しかし、インターネットでは誤情報や中傷が容易に拡散し、他者に害を与える可能性がある。
これはカントの定言命法(「汝の意志の格率が、常に普遍的法則となるようにせよ」)とも関わる。もし誰もが無責任な発言をしたら社会はどうなるか?
インターネットでは、情報が氾濫し、ニーチェ的な真理の死の現象が起きやすい。何が正しいかより何が広まるかが優先され、感情的な発言が知的な対話を圧倒することもある。
これはソクラテスがゴルギアスで批判した修辞術の危険性に通じる。つまり、議論は真理を探究する手段ではなく、聴衆を動かすための道具になり得る。
功利主義的視点(ベンサム・ミル):もし沈黙することで害が減るなら、それは道徳的に望ましい。しかし、沈黙が不正を助長するなら、発言は義務である。
徳倫理的視点(アリストテレス):ただ黙るのではなく、適切なときに、適切な方法で発言することが重要。例えば、Twitterで議論する際、冷静かつ理性的であることが徳として求められる。
沈黙は金とは限らない。 愚かな発言を避けるための沈黙は賢明に見えるが、道徳的には正しいときに正しく語ることが求められる。
インターネット時代には熟考する沈黙と適切な発言のバランスが重要。
発言の責任を持つことは、哲学的・倫理的に不可欠。 これには、真実性、害の回避、適切な文脈の理解が伴う。
したがって、「愚者も黙っていれば賢者に見える」は単なる処世術ではなく、適切な知的謙遜と慎重な発言の重要性を示す哲学的メッセージといえる。
プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How to Make Our Ideas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to an idea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1] https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2] https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3] https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/
無限地獄の底の底。天より堕ちて咽び泣く赤子よ。その身体を貫いた鉄柵は、ナパームの火の海にて捻じ曲がり、狂った音を立てて崩れる。燃え盛る火炎でオーガズム。キャタピラの拍手喝采。切れた手、飛んだ手、俯く手。手が舞い、手が語る。切られたペニスと破られたヴァギナが、恍惚とした都市の裏側を今日も染め上げる。ジャーナリズムの威勢の良い軍靴もなお遠く、正義を語る瞳なし。否、瞳はあれど誰もそれを見はしないのだ。都合よく切り取られた悲劇の形が、誇張されたテロップの前で股を開く。「Lick my ass!」。劇薬は食卓に並ばないが、中和されることもない。だがそこにある。
地獄の魔王の説教。悔恨は懺悔室の爪痕に代わり、神の名は空虚に響く無意味な雑音となった。あるいは精神性の崩壊か。正義も不正もない世界。倫理なんて意味の無い世界。頭がおかしくなりそうだ。すべてを忘れて籠ればいい。そうすると後ろ指。ツァラトゥストラは何も語らないまま、結局はユダとなる。今度はアイコン、象徴だ。麻袋に入れられた銀貨で、ロサンゼルスの一等地を買い、首をくくって「価値は創造される」と言うのだ。自分で鋳造して、自分で破棄して、自分で投げ捨てて、自分で拾う。リサイクル装置と不満足な豚に違いなどない。だがそれは、満足な賢人も同じだ。
結局のところ、賢い女はあの半島のモスクで何人の人が殺されたのかを知らないし、知ろうともしないだろう。(言い訳無用。僕もそうなのだ。だから僕は今から死ぬよ)。その女はしかし、一方で派手な衣装に身を包んで大出を歩き、貧しそうな人を見つけて助けの手を差し伸べる慈悲の神を体現する一方で、夜には見た目で人を切り、蹴り、嘲る。その人と同じように、そして男はもっとそうであるように、自らの過ちを過ちと感ずることすらもできないほどに弱り切った人間を殺すのはいとも簡単で、それを皆子供の頃に実践する。アリを潰すのと同じくあっさりとやってしまうのだ。
一つのシステムの、どうでもいいところ、見る必要のない所、関心のない所、意味の無いと思うところを堂々と切り捨てる。それを見て腹を立てた教師が説教台に立って、愛と平和を謳いながら、夜中に誰かのペニスを切り取っている。「ここはあたしの部屋で、あんたは道具」。するとペニスの持ち主が言う「そうよ、だからあたしはあんたに使われたくなんかないの」。互いにペニスを噛みちぎり、互いのヴァギナにナイフを突き立てる。血まみれのサラマンダーが吠えて、快楽を謳う。血まみれの享楽に溺れながら腰を振り、ナイフに己を貫かせつつ、相手を侮辱し嬲る。その一部始終を切り取って値段をつけてスーパーに届けると、客は皆喜んだ。「ああ、助かる。何せ全く別物に変わってしまったのだから。もう元々の姿を見る必要はないのだから!」
信仰に支えられたエレナの聖釘に貫かれて、毎日多くの死んだ魚が砂浜に撃ちあがる。そう、死んだのだ、あの心は。だれがしたか覚えているか。
僕の人生は基本的に悪夢によって規定されていると言ってもいい。そのような悪夢が初めて自分を襲ったのは四歳だか五歳だかの未就学児だった時期である。
この悪夢について僕は詳細を語るつもりはない。
それは明確に僕にとっての呪いであり、そして僕の人生を根本的に規定している夢だからである。
このような夢を安易に語ることによって、これまで僕が人生を運営していく上で必要としてきたシステム――要するに倫理――に悪影響が出ないとも限らない。僕はこの悪夢を基本的に墓場まで持っていくつもりである。もし、僕がこの悪夢を誰かに語るとすれば、それは僕が誰かに呪いを移し替えたいという、純粋な悪意によって衝き動かされる時に限られるだろう。
そのようにして、四歳だか五歳だかの時に、記憶に残る上では人生で初めての悪夢に見舞われ、僕の人生はある種決定付けられた。
悪夢とは――端的に落とし穴である。それは闇夜の落とし穴であり、夜になれば我々は必ず眠りに就かなくてはならず、つまり、闇夜の中を目印無しに歩かなくてはならなくなる。無事に夜明けまで辿り着ける場合もあれば、真っ逆さまに穴の中に転落することもある。それが我々にとっての――少なくとも僕が五歳だの六歳だった時の――悪夢だった。そのような悪夢を避けることは、基本的にはできない。偶発的に穴には落ちる。歩く限りで、そしてそこが闇夜である限りで、また、その闇夜の道に無数の穴が掘られている限りで――必ず我々は穴に落ちることになるのである。すなわち、悪夢を見ることになるのである。マーフィーの法則を持ち出すまでもなく、それが僕にとっての悪夢というものの在り方だった。
いかにしてこの悪夢を避けるべきか――という思考が芽生えたのはいつのことだったか、それは流石に未就学児の時ではなかったと思う。僕はその後も順調に、人生の岐路において悪夢に見舞われ続けた。つまり、積極的にこの悪夢を退けようとする姿勢――僕にとっての倫理的姿勢――を身に着けるのは、もう少し後のこととなる。
六歳だか七歳だかの時には、ランドセルほどのサイズの大きな蛾が、背中にしがみついた状態で、闇夜を歩く夢を見た。そして、その夢の中で僕の手には鎖と鉄球が結ばれており、それを引きずっていた。
以前その夢について増田に書いた時があったのだけれど、それは僕にとっての「カフカ的な重み」であったと増田には記させてもらった。六歳だか七歳だかにして、過負荷(当時のブコメからの引用)を背負うことは、はっきり言えばそれなりにハードなことだった。何でまた僕はこんな幼少期からこんな重みを引きずって歩かなくてはならないのだ? 僕はまともに歩くことさえ困難な状態におかれてしまっているじゃないか、と。
◇
時に美しい夢を見ることもあった。意中の女性を抱き締め、愛を語らう夢。そんな夢から覚めた直後には、朝の静かな空気の中で僕は幸せを噛み締めていた。
とは言え、そのような美しい夢に比して、同数以上の悪夢を見ることに、青年期の僕はうんざりとしていた。その殆どは、僕が所謂゛カフカ的重み”――つまりは゛過負荷”を背負っていることを突き付けようとする悪夢であった。
荷物が重すぎるのである。それを何度となく、僕は僕自身の悪夢によって示されることになった。゛お前はここから逃げられない”と。゛荷物を下ろそうとしたところで、それは無駄なのだ”と。゛お前の背負っている重みを常に直視し続けろ”と。
さて、僕はどうするべきだったのだろう。
勿論、僕のやるべきことは一つだけだった。つまり、荷物が何であるかを見定め、それをできる限りパージしていく――円満に背中から下ろしていく――ということそれだけだった。
僕は自分の重みから解放されなければならなかった。その手順を、一つ一つ確実に踏まなければならなかった。間違ったやり方をしてしまえば、その重みが加速度的に増して、自分の背中を押し潰すことは、僕にとって殆ど自明のことだった。
そう、゛間違えてはならない”のである。
正しいことをし続けなくてはいけなかったのである。何故なら、そこで間違った選択をすれば、僕は更に゛過負荷”に晒されることとなったであろうからである。
この場合の゛正しいこと”とは、繰り返すように、゛過負荷”について正しく理解し、目を逸らさず、誠実にその重みを扱っていくことである。幸か不幸か、僕は自分にとってのおぞましい重みが眼前に提示された際、その重みを瞬き一つせずに眺めてしまうという性向を持っていた。そのような性向はある意味では僕の青年期の情景に影を滲ませることになったが、同時に、その時の僕にとってこの上なく必要な事柄をもたらしたのである。
僕はそこから目を逸らしてはならなかったのだ。
僕が正しいことをしなくてはならない、そのために、全力を注がなくてはならない、そう決意したのは、悪夢の影響だった。自分にとって正しいことをし続けること、自分の素直な気持ちを大切にし、本当に大切なものだけを搔き集め、そうでないものに囚われないようにすること――かかる方法のみを以てしてしか、自分の重みを取り除くことができないことは、僕にとって明らかだったのである。シンプルに言えば、僕は正しいことをし続けなければ死んでしまっていたのである。僕自身の過負荷によって。
◇
僕自身にとっての倫理とはかかるものである。つまり、『死にたくなければ(悪夢の過負荷に押しつぶされたくなければ)、正しいことをし続けろ』というシンプルな命題。それが、僕にとっての倫理だった。
僕は、そのような倫理を個人的な格率として保持し続けた。僕が人生を生き切るためには、自分の夢を敵に回すのではなく、自分の夢に味方になってもらうことが、必要不可欠だったのである。
その後、僕は様々な人生のトラブルに見舞われることとなった。最も最近のトラブルは今年の初めくらいから生起しており、正直なところ正気を保つのに随分苦労しているのだが、しかし、ここまでやってきた努力の成果もあってか、夢だけは常に味方になってくれていた。
朝目覚め、少しだけ悲しい気分になるのだけど、でも、少なくともそれは悪夢の目覚めに比べれば、五千倍はマシなのだ。
◇
https://anond.hatelabo.jp/20220126140251
の追記が長くなったのでこっちに
※追記1
元記事にぶら下がった増田に「医師免許9割合格のザルさ」とあって、知らずに見た人が「あれ?医師国家試験て難関じゃなかった?」と疑問に思うかもしれないので説明しとく。
9割合格というのは事実で、新卒に限ると合格率95%と非常に高いのには理由がある。
医師免許を得るための国家試験(国試)は誰でも受けられるものでなく、大学の医学課程(以下わかりやすく医大と呼ぶ)を卒業した者・卒業見込の者でないと受験資格がない。まず医大受験の時点で選抜されてる。
医大受験生にとって国試合格率は大学選びの一つの目安で、低い医大は避けられるから医大は国試合格率を競ってて、なるべく合格率は高くしたい。
特に私立医大にとって学生の払う超高額な学費・寄付金は大事な大学運営資金原資。かといって質の低い学生をかまわず入学させ卒業させ国試に落ちて合格率が下がると、受験志願者からの評判が悪くなり学生を集められないというジレンマが生じる。
(国公立医大では運営資金のうち学費は微々たるもので私立ほど切実ではないが、合格率は実績の一つなので高いに越したことはないし、そもそも私立に比べて学費が圧倒的に安いことから受験生の人気が高く学生の学力が高いので、必然的に国試合格率は高くなる)(基本的に、医師を目指す受験生はまず国公立を目指し、国公立が無理なら私立を受ける。なので私立医大のほうが入試難関度が低いし、逆に学費無料の自治医大は最難関の一つ)
そこで各医大は卒業試験を国試と同レベル以上にして、国試に受かるレベルの学生でなければ卒業させず(受験に必要な卒業見込証明書を出さず)留年させて国試を受けさせない。
留年した医学生は必要な課程は修了してるので、1年間で卒業(国試)に向けて猛勉強し、晴れて卒業見込みになれば7年生の新卒として国試を受ける。
医大が国試合格できる学生だけを選んで卒業させるのだから、合格率は高くて当たり前なわけ。
(合格率100%でないのは、本番に弱いとか卒業試験で運よく?実力以上を発揮したとか…)
受験生が医大を選ぶときは国試合格率だけでなく卒業率も見るべきなんだが、上記のような事情を知らないのか、合格率ほど気にする学生は少ないようだ。
医大ごとの国試の願書提出者数と実際の受験者数が公表されてて比べると卒業率がわかり、国公立は全国どこもほぼ100%に近く、私立はピンキリで難関では100%に近いがキリだと90%を切るところもある。
卒業率90%×国試合格率90%だと実態合格率は81%。医大受験で選抜された医学生の合格率81%を高いとみるか低いとみるか。
※追記2
教員免許でそれやって現状どうなってるか知ってますか。(保守政治家が教員いじめるために導入されましたが、利なく害ばかりなので廃止方向です)
臨床に熱心な医師は試験勉強不足で更新できず、患者や技術向上は二の次で試験勉強ばかりしてる医師が更新できる未来は容易に想像できますが。
そもそも医師になったあとは診療科ごとに必要とされる知識技能が細分化されてるのに、どういう試験するつもりですか。
町の内科医と総合病院の心臓血管外科医と麻酔科医と病理医と厚労省や保健所で公衆衛生行政をやってる医師技官に、共通して必要とされる知識技能がどれだけあると思いますか。
ちなみに医師免許には更新はないけど、各学会が認定する認定医・専門医・指導医資格は更新制で、年間手術件数、症例数・論文数・面接等(学会により違う)で審査されて満たさなければ資格を取り消されます。(あとどんなに優秀でも学会費を納めないとかでも)
最初に資格とるときだけは筆記試験や稀に実技試験があって、試験前1週間は他の同僚に患者をまかせて試験勉強に励んだりまします。(更新で筆記試験があったら大変)
なので資格があるかどうかは知識・技能の一つの目安になりますよ。
病院のホームページの先生の紹介で資格を書いてある所もあるので、調べてから行くといいですよ。
先生ごとの細かい資格紹介がなくても、病院紹介で○○学会○○専門医研修施設とあれば、その診療科には指導医(専門医の上位資格)がいるってことです。
(その先生に当たるとは限らないし、むしろ大きな病院だと医師なり立ての研修医に当たる可能性もあるけど)
私はこれらの資格といわゆる「医師の腕」はほとんど関係ないと思ってるので、気にしませんけどね。
それより例えば耳鼻科クリニックを探すときは、自分の病院の耳鼻科の先生に「○○病院の○○先生どうですか」と評判を聞いてそれで決めてます。同業者の評価が一番あてになるので。
(資格はいっぱいもってても、あそこはやめとけって先生もたまにいるし)
※追記3
「医師の負担軽減のため、薬の処方を薬剤師にやらせたら」の増田
現状、医師は診察で患者さんと話しながら電子カルテで薬の種類と量をポチポチ入力するだけなので、これ無くしても全然業務軽減にはなりません。
紙の処方箋は事務員が電カルから出力して患者さんに渡します。いまどき医師自身が処方箋を手書きしてる病院なんて、医師一人看護師一人の離島の小さな診療所くらいしかないと思う。
そして実際に薬を調合して処方するのは院外(市中)薬局です。医薬分離はずっと前からそうなってて、医師は薬の調合はしてません。
長期継続して服薬してる薬を、医師の診察と処方なしで薬剤師の判断で出すことはできませんが、
それを薬剤師にやらせるなら、薬剤師にそこまで権限と責任を負わせるなら、それなりの報酬(点数)をつける必要があるでしょうね。
薬剤師が処方権を持つ国では薬剤師の年収1千万超えるらしいですよ。
やっぱり結局は金なんですよ。
そもそも薬剤師が自分の判断で薬の処方を決める事を望んでるのか、制度が実現したとしてどれだけの薬剤師がそれをやりたがるのか、未知数ですね。(そういう調査、あるんでしょうか)
※追記4
どういう事をやらせるのを想定してるのかわかりませんが、内科だと症状から原因を推定し治療方針を決める診察行為や、外科なら体にメス入れるのを考えてます?
看護師にそこまでの権限と責任を負わせるのなら、助産師のように看護師の上位に新たな資格を作る必要があるでしょうね。
看護学校での教育カリキュラムや試験内容も相応に厳しくする必要があります。それこそ医師並みに。
今の看護師の資格・待遇のまま医師の責任の一部を追わせようと考えてるのなら、ブラック主権者の極みですよ。今でもいっぱいいっぱいなのに、誰もやらたがりませんよ。誤診したり手術失敗して、それが「現代医学で求められる水準」を満たしてなかったら逮捕されたり巨額の賠償金を負うのに。
看護師上位資格にはそれなりの報酬がなければならず、やっぱり金ですね。
みなさん知ってますか、収益を重視する民間の大病院では、病棟の時間帯によっては、ナースステーションにいる大勢のうち看護師は数人だけで、あとはみな低賃金の准看護師と看護助手(なんの資格も持ってないアルバイト)って事も多いんです。(公立病院だとそういう例は少ないけど、公立病院はだいたい赤字ですね)
そんな状況で看護師より高給の上位看護師を、医師負担軽減のために雇う病院、どれだけあるかな。
もし上位看護師を雇ったらそのぶん医師は減らされて、結局医師一人あたりの負担は変わらないと思いますよ。
※追記5
「今まで男子受験生が下駄はかされて優秀でない医師になってたんだ」のブコメ、増田。
入学試験では医学知識は問われず、医大の入学試験の成績=医師国試の成績ではないし、医師国試の成績=医師の優劣でもありません。
そもそも、入試成績が劣るものが医師になるのが良くないことだと忌避するのであれば、
それは医師の負担を軽減するために医師を増やすことも良くないという事になりますが、そういう考えですか?
医師を増やす=医師国試の合格者を増やす、医学部合格者を増やす、ということで、それはつまり合格ラインの引き下げということですよ。
「下駄はかされてた男子受験生が優秀でない医師になってた」と怒りながら、「女医が働きやすいように医師の働き方を改善しろ、医師を増やせ」と両方言ってたら、矛盾してますよ。
数は多くないが必ずいる。幹准曹士問わず、レンジャー出てようが、大臣直轄だろうが部隊の雰囲気関係なくたまに出くわすマジだせえ奴がいる。それは雑談なんかしてる時、戦争が起きたら自分は逃げるとか言い出す奴である。
この手合いは申し訳なさそうに言うでもなく、自らの説の合理性を滔々と述べる。曰く、別に自分でなくともよいとか、誰か知らん人間より家族を守った方がいいとか言う。聞いてもねえのに。
合理的で首尾一貫した、しかしそれでいて場のタブーである主張をするのに酔ってる。おれはなんも言わんけど、熱くなって言い返す奴はいるよ。話噛み合ってねえけど。
噛み合ってねえついでに話飛ぶけど、例えば、この社会自体が、選挙とか言う一人が一票を投じるめちゃめちゃシンプルかつ極めて重要な制度でありながら、個人視点での参加意義めちゃめちゃうっすい制度で成り立ってる。投票行く奴は休みが潰れて、交通事故リスク、感染リスクを負い吹けば飛ぶような一票を投じる。投票って全然合理的行動じゃねえから絶対行かないって言う奴絶対いるし、理解できる。こういう奴に投票行動させるにはどうしたらいいんかな。
よく投票率の低さを憂いて選挙に行かないと世代間格差は広がるよとか社会的立場を同じくするなら投票してとか言うけど、個人的な合理性が常に勝っちゃうからね。話噛み合ってねえんだよ。交通事故に遭い、コロナに感染して休み潰れるけどそれでも投票に行くことを勧めるのは何故か。という問いなんだよな行かない奴の言ってることは。それにはマジで合理性ゼロだけど、そうすべきって信じてるし、そうしてるからお前もよろしくとしか言い様ない。そういう考え方あんのか。わからんけど腑に落ちた気もする。行くわ。って形しかないと思ってる。
そしてこの説得は超だっせえ。ただ選挙制度みてえなもんをみた時、合理性を超えた信条、美学や格率みたいなあやふやなもんに社会は立脚してんのかなと思うと少なくとも合理性だけを考察すべき地域の範囲に乗せてる奴より誠実だと思う。
合理性のステージだけで一貫してるだけでマウント取ってくる奴はマジそこで論理を一貫させんのなんか簡単なんだからいばんねえでくれよ。露悪的なのもかっこよくねえからな。よろしく。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.moneypost.jp/796214
国試は「運がいい」とか「何度も受けてればいずれは」てものではないので、この年齢で合格したのは本当にすごいと思う。
そのうえで。
診療科にもよるけど、後期研修中は「医師免許もってるだけの素人」(経験豊富なナースのほうが頼りになる)、診療科ひとすじ10年やって「初心者」(典型例なら独りで診られるけど、レアケースだと先輩が助言しないとダメ。オペでは必ず先輩と二人一組。)、20年やって学会の専門医とって独り立ちできる「中堅」、30年やって職場で頼りにされるリーダー的な扱いだよ。
その10年20年だって、ただ漫然とやってればいいのではなく、場数こなして勉強して知識アップデートし続けての話。
場数こなすってのは、いわゆる「医師のハードワーク」と言われるような、朝から夜まで患者みて、カンファで症例発表して先輩から突っ込まれまくったり、空いてる時間で海外の論文読んだり学会発表する論文書いて、家帰ったら寝るだけ、みたいな状況を毎日続けるってこと。
そこまでしないと「実力のある医師」になれないから、全国の病院が研修医集めるのに苦労してる中、聖路加や沖縄県立中部病院みたいなハードすぎる病院に全国から研修医志願者が集まって選抜までしてるの。(両院出身の先生は全国各地で指導者的な立場で活躍してる)(両院の研修がどれだけハードかは、体験記が多数あるので各自読んで)
53でそれができる体力があるか、無理だと思う。ふつうその歳だとこれまでの経験と知識を生かして皆を指導する立場だもの。
仮にそれができたとして、20年たって独り立ちできる頃には70歳過ぎてて、体力も認知能力ももう衰えてて、ふつうなら引退してる歳。
たぶん、彼女は日赤の献血バイトとか、正規なら養老施設の常駐医とか、そういう・・・言い方は悪いけど、臨床現場引退したおじいちゃん医師がやるような道に進むんじゃないかな。
「町のお医者さん」として小さな内科診療所を開業するって可能性もあるけど、勤務医として10年20年やって独り立ちできるだけの経験知識を得たあとで開業する人(私がかかりつけとして選んでるのはこの手の診療所ばかり)に比べると、後期研修後すぐに開業する医師はずいぶん頼りない。
「私はこの人に診てもらいたい」てブコメがあったけど、私は避けたいな。
あと「在学が長い」てブコメが散見されるけど、私大は国試合格率が学生集めるための大事な実績になるので、
どれだけ熱心に授業受けて課題こなしてても、国試合格できる見込みがなければ卒業させてくれないので、そこでひっかかってた可能性が高いよ。
看護師、理学療法士、診療放射線技師などの養成校に就職目当てで軽い気持ちで入るのはやめた方がいい。
特に発達障害の傾向が少しでもある人には絶対にやめろと言いたい。
具体的には先延ばし、遅刻癖、コミュ障のうちどれか一つでも当てはまったら別の道を考えるべきだ。
7年、8年通った挙げ句に卒業できず去って行った人を何人も見てきた。目的意識の高いはずの社会人学生ですら挫折した人が複数人いた。
華々しくホームページやパンフレットに飾られる国試合格率や就職率の裏にどれだけの留年者・中退者がいることか。
コメディカルに向く人は、与えられた課題をコツコツやるのが苦ではないが、秀才になれなかった人だろう。
医療保健学は学問ではないと思う。学問とはきつさの中にも面白さがあるものだろう。
医療保健学は職業訓練以外の何物でもない。もし入学するならば、それこそ学生になるのではなく軍隊に入隊するのだというくらいの覚悟が必要だろう。
やりたいことが見つからない高校生や浪人生は社会学科(社会福祉学科ではない)に行けばいいと思う。もちろん興味があれば哲学科だろうが数学科だろうがそこに行くのが一番いいが(哲学科に関して言えば、生きる意味といった人生哲学的なことをやりたいのなら慎重になったほうがいい。あそこは半分ドイツ語学科かフランス語学科である)。
社会学科は卒論的な意味で潰しが利くと思う。アニメ・ゲームや性産業まで研究対象になるから、在学中に何か興味の持てる対象が見つかりそれを研究に生かせる可能性は他学科より高いはず。
良いか悪いかはわからないが、元AV女優が東大院に入って本を出したなんていうこともあった。
コツコツ型でない人間が何よりも避けなければならないのは、中退である。
コメディカルを勧める人は口を揃えて「資格を取れば食いっぱぐれない」と言うが、ある年齢以上から給料は伸び悩むし、コスパが良い選択とは言い難い(看護師は夜勤をやれば結構稼げるだろうが)。
もし人体に興味があるなら、それこそ医学科に行かなければ間違いなく後悔する。
どんなに研鑽を積んでも、制度上新米の医師にすら敵わないというのは非常に精神的にきついと思う。
しつこいようだが、就職目当てでコメディカル養成校に入っても得をするのは学校経営者のみである。既に泥沼に足を踏み入れてしまった人は、一留が決まった時点でなるべく早く撤退すること。
■承認欲求型
感想が欲しい、他人と仲良くなりたい、作家さんとお近づきになりたい、地雷やこだわりがあまり無い、読者の反応が知りたい、有名になりたい、褒められたい、人気作品に飛びついて他人と交流したい、アフターに参加したい、他人に認知されたい、反応が無いと病む、他の作家に嫉妬する、自分が認められたい
■宗教型
他人の感想を欲しない、1人でもくもくと書き続ける、過激派、地雷や拘りが強い、コメント欄拍手すら無い、アフターにも参加しない、交流をしない、他人に全く興味が無い、自分と同じ解釈なら他の作家が持ち上げられていても喜ぶ、嫉妬しない、自分が認められたいわけでは無く趣向を認められたい、押し付けがましい
自分たちの学年は、医学部にしては珍しく馬鹿揃い、との評判だった。
とにかく多浪が多く、現役を0と計算しても平均2.x浪というような感じだったと思う。
でも自分はこの浪人組の人たちが大好きだったし、なによりも素敵だったのが、
この学年は上の学年から落ちてきたほとんどの先輩たちを道連れにして、
むろん国試合格率は史上最悪だったがそれが何か悪いか?(翌年ちゃんと頑張って合格していた。東大みたいに国試不合格者が吹き溜まると大変だもんね)
10を超える多浪の人が何が違ったか、というと勉強のスタイルが「孤独」だった事だろうか。
ノートも生真面目にとってらっしゃるから、「貸して見せてください」とお願いしたところが、
字がきれいなだけでまとまっていない、大変な物体だという事に気づいた数人は、これ以後、
「ねえ、○○さん、こちらのノートを読んでみてください。そして先生はこれを重要だと説明してらっしゃると思いますよ」
とアドバイスする側にまわった。
何しろこの人の人格が素晴らしくてなんとかしてお医者さんになって欲しい。
授業はもちろん最前列で聞いておられるわけだけれど、そのノートの内容は起承転のみで終わる小説のようだったから、
何人かでフォローするためにかわりばんこにノートを取った事を思い出す。
人格の素晴らしいその人だけでなく、中で何度も何度も足踏みしていた人々も沢山落ちていらっしゃったけれど、
彼らは年を取っている分記憶力が落ちるわけだから、ピンポイントで「こことここが大切!」と教えなければならない。
自分たちは大した勉強をせずに試験には楽勝で通ってしまっていた。
そして彼らもなんとか一緒に卒業できて本当うれしかった。仲間は大切よね。
(教える側に回っていたのは自分も含めて5-10人ぐらいいたと思う)
基本的な学力があって、入学試験を突破してきてもかなり勉強しまくらないと医学部は厳しいかもしれないけれど、
自分は不思議と全然楽に感じていたのは彼らのおかげだと感謝しています。
むろん今でも尊敬できる素晴らしいお医者さんたちで活躍している。
20何浪の話を聞いたら、医学部の勉強を集団以外でしたことがなかったのを思い出した。
追記:もしも同クラスの人がいたらごめんね。
これは医学部の教育問題について言われているいくつかの問題のうちの一つについて考えている。
ノートが「起承転」と書いたが、これは何を意味するかというと「正しい答えは出せるのだが、時間がかかる人がいる」の比喩だ。
優秀な人には何種類かいるが、医学部には判断力が早い人がかなり多いし重視される。
でも優秀さには時間で測れない物差しがあるはずで、そういう人達がたまたま自分たちの学年に集まった。
ある人々は浪人で、ある人々は留年で。でも現状ではそういう人が受験前にふるい落とされたり学内で孤独に勉強してふるい落とされたりするのではないか。
「医師は成熟した人間が少ない」の答えの一つはそれなのではないか?物事をゆっくり考えない、、、
私も学問をやってる人間だから,学者のいうことにはある程度信頼をおいてよいと思ってる.が,学者・行政の情報の信憑性が疑われているなか(情報公開の恣意性のほか,前例のないことによる影響の予見不可能性のため),放射線による影響について危機感をもつのは健全な自己防衛の「本能」でしょう.R.ホーフスタッターが『アメリカの反知性主義』においてのべたような,知識人対一般人という構造を看取するのは,いささか早計ではないかな.
もっとも,私とて「福島のものはたべない」というような格率はもってない.不安がないではないが,「どうせ大した影響はなかろう」という「根拠なき」楽観があるから.偉そうなことをいうなら自分で情報を精査すればいいだろうといわれそうだが,そんなものはわれわれ一般人にはとうてい手に負えない相談です.ゆえに学者などの意見にたよらざるをえないわけだが,如上のとおり,それをどこまで信じてよいか,はかりかねる.