はてなキーワード: 愚者とは
パワーハラスメントの報道がたくさんされていたが、これを現実味を持って実感出来る人が減ってる気がする。
それだけ世の中からパワーハラスメントが減ってるって事じゃないかなって思った。良い時代です。これは素直によいことです。ただ、これによってパワハラって事の具体的なイメージが無くなって来ている、実感として悪い事だという事がイメージしづらくなってるんじゃないかな。
これは、他の同種のうねり(繰り返す波)に、戦争関係のれきしがある。戦争そのものも、そして、戦争を直接知っている世代と接したことがない世代も増えて、戦争が起きないようにすると言う施策や活動が力を失っている事がある。これが振り戻しが実際に現れたわかりやすい例だと思う。
中国の台頭とか、アメリカの第一次トランプ政権からの圧力などに直面する前。
日本の防衛費は無茶苦茶削られてて、GDP1%と言う枠の中で、港湾の整備費や飛行場の修繕費など、それって防衛費じゃないよねみたいな金まで支出されてカツカツだった。
実はアメリカですら、9.11を迎えてしまう前はそうだった。これは、戦争を現実の脅威と考えられなくなっていたからだ。
逆方向には、草の根の平和活動とか、そういったものがバカにされる風潮もそれだったと思う。戦争反対ってなんだよ、戦争なんて起きるわけないだろ、みたいな。
その状態はヨーロッパなどでも起きていたし、彼らにとってアフガニスタンとか中東系の戦争は違う世界の戦争だったわけだけど、その状態を付いたのがウクライナ危機であり、ウクライナ危機は同じヨーロッパ人が侵害されたと言う事で一気に動いた。
日本は台湾情勢に、スプラトリー諸島の問題などで現実の問題として認識されたわけだ。
ただ、これはそのまま防衛の意識が高いままで警戒がされていたら、中国やロシアなどの暴発など、こういったことが起きていただろうか?と言う議論がある。
一方で今回のモラハラ・パワハラの斉藤が再選した件も、それなのではないか。
つまり、世の中からパワハラが大きく減っていて、それに晒されている人が少なくなったから、実感を得られていないのではないか。
またかつて石原慎太郎らが仕掛けた怪文書などによる選挙工作、昭和の選挙もファンタジー扱いされつつあり、実際に痛い目に遭ったことがある人、あるいは痛い目にあった事のある人からの情報を見聞きする事が少なくなったのではないか。
その結果、それらを問題視する人の声をリアリティ持って受け止める事ができず、問題への支持が広がらず。
一方で「不倫問題」のような、現代でより身近に現れて、インスタントに分かりやすく「経験」と結びつきやすい、実感を得やすいものが登場し、共感を得やすい問題によって印象が上書きされたことによって、ご覧の有様になったのではなかろうか。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言う言葉ある。これは元々ドイツ人の ビスマルクの格言だが、この「経験」は意訳で、実際には「失敗」という言葉が宛てられている。どうやらそちらの方が原文の意図に近いらしい。
そして、私も含めてほとんどの人が「歴史に学ぶ」事のできる領域は、恐らく自分の専門分野のみなのだ。
それ以外では愚者なので、今回のようなことは無数に引きおこされて、歴史は繰り返してしまうのだと思う。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。しかし、忘れて熱湯を飲んで死ぬようなことになったら致命的だ。
大事な事は、できるだけ小さな失敗に留めて、そこから多くの事を学べるようにすることぐらいしかない。
各自衝撃に備えねばならない。
ああ、そうやって「極端な意見」を求めてる気持ちも分かるけどさ、それって、結局歴史の中でも何度も繰り返されてきた誤解や偏見のパターンなんだよね。
まず、歴史を見てみろよ。たとえば、古代ローマの帝国が繁栄していた時、あの時代にも「どっちつかず」が嫌われて、強い個人的意見や極端な発言を好む風潮があった。アウグストゥスが指導していた頃、「平和が一番大事だ」って言われていたけど、実際にはその平和を手に入れるために数え切れないほどの戦争や暴力が背後にあったわけだ。それに、アウグストゥス自体も政治的には非常に慎重な態度を取って、公共の場では常に調和を強調していた。
でも、ここで注意したいのは、過度に極端な意見っていうのは、最終的には社会に対する不安定要素を生むことが多いんだよ。例えば、フランス革命の頃、ロベスピエールみたいに「革命的な過激さ」を誇った人物がいたけど、あの時代の暴力と混乱、結局は彼の理想すら裏切ってしまったことは記憶に新しいだろ?
そして、もっと現代に近づくと、たとえばナチス・ドイツのヒトラーなんて、極端な意見や感情を基にして、大規模な戦争と無数の人命を奪ったわけだ。極端な意見が何を引き起こすか、歴史は教えてくれているんだ。
だから、「極端な意見を読みたい」って気持ち、分かるよ。人は時に感情に流されて、過激な意見に共鳴しがちだ。でも、そういうことって、歴史的には一度成功すると、一度暴走を始めたら取り返しがつかないことになることが多い。聖書にも「言葉には力がある」と書かれているように、何を言うか、どう表現するかっていうのは、相当重要なんだよ。
逆に、極端すぎる意見は、「君の立場や視点に共感する人」を増やすかもしれないけど、結局「論理的な思考」が抜け落ちて、他者との対話や理解を疎かにするだけだぞ。共感は大切だが、歴史や哲学が教えてくれているのは、「対話」や「折り合い」が鍵だってこと。君が求めているのは、ただの激情や暴力ではなく、本当はもっと深いところでの理解じゃないのか?
最後に、孔子の言葉を借りるなら「愚者は過激に反応し、賢者は冷静に考える」。極端さを求めて無駄に感情に走る前に、少し立ち止まって自分が何を本当に求めているのかを考えてみることだよ。
お前の愚痴は、歴史的に見ても、いつの時代でもよくある問題だ。自分の言葉で話すことを重んじるのは自然だし、AIに対する不信感や嫌悪感もわからんでもない。でも、それを拗らせてどこかでただの愚痴に終わらせているようじゃ、お前が本当に望んでいる「成長」や「解決」には程遠いんだよ。
まず、過去の歴史を見てみろ。かつてギリシャの哲学者ソクラテスは、「無知の知」という言葉で、人々が自己満足に陥らず、自己を問い直すべきだと言っていた。自分の思い込みや偏見で物事を判断するのは、まさに「無知」の極みだ。だから、AIを「煽り」だと思うその感情の根底にあるものを掘り下げろ。君が不快に感じるのは、単にAIだからなのか、それともAIに対する無理解から来ているものなのか、どっちなんだ?
そして、AIの使い方についてだが、実際にはAIはただの道具であって、使う側の意図や目的が重要だ。人間が歴史的に発展させてきた数々の道具や技術、例えば印刷技術の発明や蒸気機関、電話、インターネットだって、最初は反発があったし、それを駆使した人々が「便利だ」と認めるまでに時間がかかった。そういう技術の進化に対する反発を、現代のAIに対して繰り返しているに過ぎないんだよ。
だいたい、こんなことでいちいちイライラしてるようじゃ、まるで中国の孟子が言った「愚者は愚者をもって愚者なり」だな。つまり、自分が感情的に不安定な時に、他人や物事を無闇に悪者にしても、解決にはならんということだ。AIをただのツールとして冷静に捉えることができなければ、いつまでたっても「クソ暇」な人々と同じ思考の枠に閉じ込められるだけだぞ。
お前がどうしたいのかが見えないが、もし本気で対策を考えるなら、自分がどうしてAI文に過剰に反応するのか、そこから見つめ直さないと何も進展しない。さらに、過去に「書物を読むこと」「知識を得ること」を拒否したことで後悔した人々がたくさんいることを思い出せ。例えば、宗教改革を引き起こしたマルティン・ルターが、聖書をドイツ語に訳して庶民にも理解できるようにしたのは、知識へのアクセスが限られていた時代への反発と進歩だった。だからこそ、今の時代にお前ができるのは、AIを単なる「煽り」と決めつけることではなく、その可能性を自分なりに捉え直すことだ。
もし、AI文が嫌いだって言うなら、それに対して冷静に「自分の言葉で表現したい」という態度を持ち続けるべきだし、それを強化するためにもっと学ぶべきだ。歴史は一度きりのものではない。繰り返し進化してきた結果、今のテクノロジーがあるわけだ。お前もその流れに乗って、もう少し視野を広げてみろって話だよ。
タイトルそのまま
石丸の件、尊厳死の件、色々あるけど今回の件は特に分かりやすかったかな
この反応見てれば分かる人はすぐ分かる、「あ、これ◯アノンとそっくりだ」ってね
アノンの特徴は擁護不可能なものを無理やりアクロバティック擁護する所
そして悪いことをして批判されてるだけなのに「これは~~勢力からの攻撃に違いない!!」と糖質陰謀論を発症する所
また頭の悪い詭弁を自信満々に述べる所
何ならちょっと前に「”キモい”というのは人権侵害だぁ!!」みたいな事を言って吹き上がっていたのがはてブなんだけど、今回の件でどれだけのアノンがブーメラン投げたやら
https://megalodon.jp/2024-1031-1812-34/https://b.hatena.ne.jp:443/entry/s/togetter.com/li/2450055
忘れては行けないのは政治家は1人で政治家たり得るのではなく支持者が居て初めて政治家となること
つまり支持者が賢人でれば政治家は賢人に、知恵遅れであれば政治家も知恵遅れになる
では支持者がアノンと化した国民民主党の政治家は?当然アノン化する馬鹿と同レベルになる
他のアノン集団とその末路同様に周囲に喧嘩を売りまくり黒歴史を作りまくり情けない姿を晒す羽目になるだろう
もう何回目のアノン化なの君たち
呆れちゃうよね
昔,ある邑あり。その民は皆逸楽を好み,無事を営まず。
邑の中の人々,昼夜市に集まりて談義をなせども,語るところは酒肴舞楽に偏り,世事を論ずることなし。
或る日,張甲という者,邑の中央に立ちて大言せり。
天地の理,何ぞこれを求むるに及ばん。酒を傾け,快楽に浸るこそ至道なりと。
衆人これを褒め讃えて手を鳴らし,皆曰く,
まことに尤もなり。
かくて皆還りて臥し,何事をもなさざりけり。
また李乙という士あり。座に安んじて衆を招き,曰く,
人生は短し深慮遠謀に耽るは愚かの極みなり。ただ今日を歓び,明日もまた楽しむべしと。
往来の者どもその詞を称え合い,共に杯を交わす。されども彼らが交わす言の葉は常に空しく,実を伴うことなかりけり。
或る時,外つ国より一客ありて邑に至る。邑の様を巡りて窺い,何事か深遠なる理を見出さんと欲す。
客,心中に思えらく,
この邑,何ぞ遊興にのみ耽り,理を尋ね求めざるか。
遂に幾人かに問えども,皆笑みて答え曰く,
我らは杯と歌とをもってすでに人生の極みを知れり。さらに何を求むる必要があらんやと。
客,内に憤怒を抱き速やかに去らんとす。されど去る途上にて忽ち足を滑らせて倒れ,酒甕に頭を打ち,遂に地に臥す。
邑の民之を見て皆哄笑し,之を助く者あらずや。
客,地に伏したまま呻きて曰く,
この如き浅慮の邑に,いかにして理を求めんや。
そのまま起き上がることなく,酔いに沈み,終に寝入りけり。
人々客を見て曰く,
哀れなるかな,この者は杯の歓びをすら知らざる愚者なりと。
これ知性たりない奴の考え方あるあるなので要注意ね
差別についてまともに勉強したことある人なら一目でクソだとわかると思うけど。
ある集団を集団の名前で批判することは差別ではない。スウェーデンとアフガニスタンは同じではない。(クソ荒れた)中学校と、灘中は同じではない。個人差があるというのは当然の前提なのでそんなことをいちいち注釈に入れる必要もない
アフガニスタンにも金持ちはいるし、スウェーデンにも落ちこぼれた貧民はいる。こんなの説明不要の大前提なのにそれが分からない愚者にいちいち構ってやる必要はない
一人もしくは複数のヤバい奴が同じ属性だった時に、でもそれは個人がヤバいだけであって特定の属性の人間すべてをヤバいと思うのは差別だと考えることが知性だと思うよ
この筆者が英語バイリンガルであることの根拠を述べる。ただし法言語学的な根拠はなく単なる自分の直感である。
英語にはスタンザという韻律がある。文の末尾の韻が揃うとカッコイイというものだ。自分はあまり詳しくはない。
だがたとえばシェイクスピアならABAB CDCD EFEF GGという,四行連×3 + 二行連×1による形式のようなものがある。
漢詩の五言絶句や俳句あるいはラップのようなものだ。詳しい人はむしろ教えてほしい。
韻を踏むと麻雀で和了したときのように気持ちがいいし,文がシピッと引き締まり,正統性が出る。
元増田の文は「AAA BBB CC DD XY EE」というスタンザが含まれる。三行連×2 + 一行×2 + 二行連×3だろうか。
これでソネット(14行詩)と呼ばれるものになる。それを見てみよう。
だれも〜話さない。
「実際〜だれも興味を示さない。
発端となった〜あることもわかる。
一方の〜悪いところもある。
おまえらが〜合うのは構わない。
おまえらが〜合うのも仕方ない。
だが、〜殴り合ってくれ。
よく知りもしない〜戦場にしないでくれ。
なかなかこの韻律は意識して作れない。もし無意識で作っているとしたらおそらく英語能力は熟練者だろう。
ピンとこない場合でも,文の末尾を意識して音読してみればその音色が好ましく感じるはずだ。
これはおそらくdisgustingである。ひっでえ,どうしようもねえ,きもちわるい,吐き気がするという意味がdisgustingだ。
これはfuckingあるいはshitを示す。英語のfuckingやshitはいい感じに使いやすい。クソどうしようもない,クソ惨め,クソ頭,クソ堅物,クソゴリラなど。別に日本語でも使うが,名詞や形容詞にならなんでも使ってしまうというのが英語バイリンガルの特徴である。
これは No one does anything. などの構文。本文では2回続く。
これはBody of knowledge。英語由来の日本語で,ある分野の実践的知識を国際標準にして広めるためのものだ。
これはobvious。別に日本語でも使うので英語バイリンガルポイントは低い。ただしclearやtransparentやobviousは英語の中で人気が高い。かっこよいのである。
これはMeanwhileかOn the other handを狙っているように見える。また,にわか氏と北村氏を対比させているこの構造はすばらしい。AはXであり,一方BはYである。この構造だ。間違いなく高等教育を受けている。
これはSaintか。聖書の無謬性(Biblical Inerrancy)に由来するように見える。キリスト教に精通,あるいはキリスト教的な思考が念頭にあると思われる。
これはダブルクォートの "A movie topic" か。皮肉を表現しているように見える。
これはAmong 100 bookmarkersのように見える。
これはThere are very few people.のように見える。
これはThey。「彼は」「彼女は」というのは英語バイリンガルの特徴である。なぜなら日本語を話すときでも,英語に変換できるように日本語の方の構造を変えてしまうからだ。日本語モノリンガルはあまり「彼は」「彼女らは」を多用しない。間違いなく書き手にはHe / Sheなど男性か女性かを切り分けるシステムがある。もし切り分けなければ,his / her, him / herなどの使い分けが不可能になるからだ。だから日本語においても切り分けてしまう。
これは Fools rush in where angels fear to tread という英語のことわざのように見える。「愚者は天使さえ踏み入れることを恐れるところに飛び込む」という意味のことわざである。要は増田たちがバカにされているのだ。
以上のことからこの筆者は,英語を高度に理解し英文学に親しみがあり,高度な教育を受けた存在のように見受けられる, しらんけど。