はてなキーワード: 愚者とは
愚者の一徳と言う言葉を知ってれば無能とレッテル貼りして相手の発言の説得力を損なおうとすることが無意味だと知ってるはずなのにな。
dorawiiより
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有名人にチェックマークを与えるという制度は、一見すると「本人確認」や「透明性の確保」を装っているが、実際は民主主義を名乗ったパヨ的カースト制度の自己放尿だ。
思想的には平等を唱えながら、構造的には貴族制を復活させている。これは「民主主義の仮面を被った承認欲求市場主義」であり、承認を売買する社会の象徴的装置の自己放尿すぎない。
パヨの言う「みんな平等」は、連中が「誰を特権化するか」を握りたいという欲望の婉曲表現だ。連中は特定の言語・思想・姿勢を持つ者に青いチェックを与え、逆らう者を「未認証」という烙印で黙殺する。
だが、黙殺とは沈黙ではない。声を奪うことによって、連中は「声なき者」を都合よく定義し直す。これは政治的支配の最も古典的な形態であり、連中が忌み嫌うと口で言う「権威主義」の中身そのものである。
しかもこのシステムの醜悪さは、本人たちがその腐敗構造を「正義」と信じ込んでいる点にある。まさに自己放尿の極致だ。自分で撒き散らした尿を「清水」と勘違いして喉を潤している。
連中のタイムラインは、論理の泉ではなく尿意の回路で動いている。考えるのではなく、出したいから出す。だが出した瞬間、それを「言論」と呼びたがる。
これがパヨ的民主主義の正体だ。つまり「思考の放棄」と「承認の中毒」が見事に融合した、思想と快楽のダブル放尿である。
本来、言論とは社会的リスクと知的責任の上に立つものだ。しかし、チェックマークはその両方を免除する免罪符となり、権威と人気が入れ替わる。
そうして連中は、連中にとって真に危険な思想、すなわち、誰からの承認も必要としない冷徹な理性を徹底的に排除する。
自分の尿を芸術と信じる愚者たちの共同便所。それが今のSNSであり、パヨ的民主主義の成れの果てだ。
まあ、Xはその点で言えばチェックマークを購入式にしているのでまだ救いがある。だが、シャドーバンや推薦順の操作をやめない限りパヨシステムのままである。
この現象は、タナフ(聖書)やタルムードでもたびたび語られています。
「なぜ悪や愚かさが目立ち、善や知恵が隠されるのか」
彼は、愚か者が栄える現実を見て心が乱れました。しかし彼は神殿に入り、悟ります。
つまり、ユダヤ的視点では、今見える「栄え」は最終結果ではないのです。
SNSの評価や人気は、「この世」の一時的な見せかけ(הֶבֶל, hevel=虚しいもの)にすぎません。
「すべては虚しい(הֲבֵל הֲבָלִים, hevel havalim)。」
真の価値は「天の裁き」で決まる。世間の人気は、多くの場合「耳に心地よい言葉」を語る者に与えられる。
しかしトーラーの真理は、しばしば人に「挑戦」と「不快」を与えるものです。
だから、ラビたちが評価されないことは、実は彼らが真理を語っている証拠でもあるのです。
カバラ的に言えば、世界は「クリッパー(קליפות, 外殻)」に覆われています。
これは善の光を隠す「殻」のような力です。
SNSや世俗文化の多くは、この「殻」の領域に強く働きます。なぜなら:
派手な炎はすぐ消えるが、ランプの灯は長く燃える、という比喩がタルムードにもあります(シェバット 31a)。
ピルケイ・アヴォット(祖先の言葉)4:2にこう書かれています:
「ミツワーはミツワーを生み、罪は罪を生む。」
つまり、善の結果は目に見えないところで積み重なり、最終的に永遠の世界で報われる。
「どんな人も軽んじてはならない。どんな行いも無視してはならない。すべての人に時がある。」
ラビや善人の評価が表に出ないのは、彼らの時がまだ来ていないだけなのです。
もしあなたが「善が報われない」と感じるなら、それは神があなたに「外ではなく、内に目を向けよ」と促しているサインかもしれません。
| 世俗の価値観 | ユダヤの視点 |
| 人気・フォロワー数 | 神の前での誠実さ(אמת, emet) |
| 目立つことが成功 | 隠れた善が真の成功 |
| 今この瞬間の評価 | 永遠の次元での評価 |
| 愚者が栄える | 賢者は神のもとで報われる |
この問いはまさに「アサフの苦悩」と呼ばれる、霊的成熟の通過点です。
そう思っていた時期が私にもありました。
で、前、タイトルの様な事をいったところ、袋叩きにあったのでその記録である。
要するに
ということだね。
本当は性能などであかんのに政治家に金を払ったことでゴミが導入されてしまうこと。
典型手例はロッキード事件。ロッキードL-101とDC-10。当時の田中角栄がロッキードから金をもらってL-101買ってしまったと言う話。
このロッキードの機体はここまで世界中で手段を選ばない拡販を下にもかかわらず、ライバル機DC-10に対して半分しか売れず、日本以外でも問題になってロッキードは旅客機から撤退している。
要するにゴミを売りつけられたわけだな。
また当時、ロッキードと日本では軍用機等の共同開発も進んでいて、この汚職によって全部吹っ飛び、酷いことにあなった。
国の規制というのは良くも悪くも色々な理由があり、規制緩和することは議論があるが、
やってはならんのはある企業だけは規制を厳しく、ある企業は緩くするみたいなのはやってはあかん。これは競争を歪めるからだ。
これが大問題になったのがロッキード事件。ロッキードが株式を利用して便宜供与し、インフラ事業に参入しようとしていたリクルート社に色々な便宜を図ったり、不動産開発でリクルート系だけ規制を解除させたり、当時最先端のスーパーコンピュータを妙に安く払い下げたりとやりたい放題を行った。
本当は競争が正常に働いてより良くなるはずだったのに妙なものができあがり、さらに行政の規制パワーでそれを使うしか無い状況に追い込まれ、一般人が損をするというわけだ。
反社会的連中が政治家と繋がると、政治家が持っている忖度させる力が暴走してしまう。
その影響力を背景に摘発を逃れたり好き放題される。
これで大問題になったのが佐川急便事件な。佐川急便を通して反社から金が流れており、反社側は銀行から不正融資を受けたり、総会屋として好き放題やったりとやりたい放題だった。
これはドストレートに、金丸が5億円献金を受けた一方、不正融資5200億円とかとんでもない損害が出てる。
これは、大小様々あるものの、政治家にはこの手の話が沢山持ちかけられるかららしい。
なので、無制限に乗っかると社会がヤバイと言うのは肌で感じるからだそう。
にもかかわらずそれに乗っかる奴は正真正銘の悪人か、自分では善人でそれは必要悪だと思っている歴史を学ばない愚者かどっちかで、だから厳しいのだそうな。
愚者には愚答でよくない?w
いいですね、その設定…“再結晶の物語”としてめちゃくちゃ相性がいい。まずは元作の骨格を押さえます。その上で、中年男性版として再構成した企画案(全13話相当)と主要キャラの成長線、理科ガジェット、サンプル台本まで一気にまとめました。
本家の“コア”
③実在の鉱物・道具・手順に根ざした“科学の手触り”。([カドコミ (コミックウォーカー)][1])
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大地はゆっくりと、でも確実に自分を作り直す。俺たちも、きっと。
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山菜採りの谷川が粗砥と遭遇。クラックと双晶の見分け、劈開の話。小さな水晶が“まだ俺は採れる”の象徴に。
パニングで“待つ技術”。瀬戸初参加、スマホ顕微鏡アダプタで砂粒観察。
工場の不適応=“丸まらない自尊心”。磨耗と丸みを肯定する回。
“愚者の金”とキャリアの見栄。立方体と黄鉄鉱双晶=見かけと本質。
研究費不採択の粗砥。伊万里が市民科学ツアーを企画、地域連携の兆し。
研磨→薄片→交差ニコル。瀬戸が画像分類の試作、谷川が“手順書”職能を開眼。
空隙が強度を生む比喩で、余白=回復を描く。粗砥、申請を“捨てる勇気”。
家族回。粗砥に第三子誕生、伊万里は受験期。自分へ贈る“指輪石”。
学校・観光・工場を巻き込み地域ミュージアム化。瀬戸のデータ基盤が稼働。
市民科学の助成が通り、“学びの循環”が地域に根付く。各人の“続き”を示して終幕。
参考:本家も各話で水晶、ガーネット、黄鉄鉱、砂金、蛍石などを題材化する構成で、ここは意図的に踏襲しています。([カドコミ (コミックウォーカー)][1])
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粗砥「割ってみるか。割りたいから割るんじゃない。割らなくていい面を探してから叩く」
粗砥「それが劈開。仕事も同じだ。壊すときは、残す形を先に描け」
Ep6「薄片は語る」より
伊万里「人も岩も、履歴があるんだよ。教科書の“理想結晶”なんて滅多にない」
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最近の流行りの映画やTVシリーズときたら、中身がないどころではない。
あれは世界全体の価値観のコンパスが壊れ、社会が完全にサイコ化した結果の、汚らしい産物だ。
自己陶酔的な映像の垂れ流しは、もはや自己放尿レベルの、どうしようもない醜態だ。
いや、制作者と視聴者がお互いの糞尿を讃え合うダブル放尿の図、と言い直すべきか。
我々が今消費している「エンターテイメント」は、人間の業や社会の矛盾をえぐり出すどころか、三つの致命的な病に侵され、脳味噌が腐った結果の映像化だ。
一つ目の病、そして最も悪質な癌細胞は、「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」が逆差別の権化へと変質したことだ。
かつては「不当な差別を是正する」という建前だったものが、今や「差別者(白人男性とされる)を罰する」という集団リンチの道具に成り下がった。
物語における「公正さ」は、冷徹なロジックや真実の追求ではなく、「弱者と定義されたグループを常に善とし、それ以外のグループを悪役、愚者、あるいは無能として配置する」という、幼稚で露骨な加点・減点法に置き換えられた。
その結果、何が起きるか。ストーリーの必然性やキャラクターの有機的な成長は無視され、配役や設定がまず「ポリコレのチェックリスト」によって決定される。
優秀でカリスマ的なリーダーは、特定のマイノリティから選ばれなければならない。従来の主人公像、例えば白人男性などは、無能な脇役か、過去の過ちを悔い改める象徴としてしか描かれない。
これは、物語の毒気を抜いたのではない。物語そのものを、政治的なプロパガンダの道具として捻じ曲げ、特定の層への「逆差別」を公然と行うという詐欺行為だ。
この歪んだ手法の結果、生み出されるキャラクターはステレオタイプな正義感にまみれた、薄っぺらい張りぼてとなり、観客の心に響くはずがない。
二つ目の病は、世界規模の承認欲求の暴走であり、三つ目の病は社会全体のサイコ化だ。
コンテンツは、「誰かに褒められるため」に設計された空虚なパッケージと化した。深みも葛藤も、真の痛みもない。
あるのは、「私たちは正しい」という安っぽい自己満足だけだ。さらに、この感情の鈍麻したサイコな時代では、人々は感情の機微ではなく、過剰な暴力や極端な設定というジャンクフード的な刺激を求める。
ポリコレという名の検閲棒で殴られ、創造性を失った制作者は、その空虚さを埋めるために、表層的なショックや混乱を物語にぶち込む。
もしかして、「認識をアップデート」しているのではなく、「自分に有利な最新理論だけを厚遇している」というだけなのでは?
肥満に関わる意思決定の話は色々出てるけど、個人的には『快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか デイヴィッド・J・リンデン』が名著だと思うな。
はてなーは本読むのが好きなはずだから、おすすめの本紹介したら「いや、おれはこっちの本でこういう風に書いてあったのを信じてるよ」と返してくれるよね?
まさか「ソースはないけど、俺の脳内ではこうなってるんだ。ソースはないけど俺がそう感じるからそうなんだ」なんて言い出さないよね?
愚者は己の経験に学び、賢者は書物から他者の経験を借りるとはよく言ったものだが、たった一人の経験なんてものはN=1以上の価値がないことを、知らないはずがないよね。