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はてなキーワード: 史観とは

2026-05-13

オタク金もないのにユダヤ人みたいな振る舞いをしててキモすぎる。そのうちフェミ隔離地区に放り込んで虐殺しそう

かにちょっと被害者ヅラが強くてウザい感じはする。

典型的な「俺はただ愚痴を吐いただけなのに、過剰に叩かれてる!」という構図を作ってるけど

内容を見ると自分火種を撒いておいて、相手ツッコミの粗だけを突いて「加害者認定されてる!」と被害者宣言してる構造が透けて見える。

心の問題点「オタク迫害史」の位置づけ

1989年宮崎勤事件直後は、確かに大規模なオタクバッシングがあった。

週刊誌が「オタク=異常者」「ロリコン犯罪予備軍」と煽り警察コミケ同人ショップにガサ入れ、テレビで「引きこもりオタク特集が乱発されたのは事実

宮崎が大量のロリコンビデオアニメを所持してたのが大きく報道された影響はデカい。

当時の空気を知ってる人(特に30代後半〜50代)なら「気が狂ったようなバッシング」を覚えてるはず。

一方で「なかった派」も一定数いる。

これはこれで本当。地方普通学校職場で「オタク」という言葉すら浸透してなかった人、テレビ見てなかった人、90年代以降にオタクになった人にとっては「そんな話聞いたことない」となる。主観的体験分布が違うだけ。

ここまでは「多様性」で済む話。

でも真城さんはここから否定する奴は現在進行形オタクバッシングをしてる加害者」という敵対構図に持っていってる。

これがクソキモいところ。

典型的被害者ムーブ

自分で「オタク迫害史」的な話を広げておいて、相手が「証拠出せ」「断片的すぎ」「加害史も語れよ」と突っ込んだら、

その突っ込みの雑な部分だけ切り取って「俺はただ思い出話しただけなのに迫害されてる!」にすり替える。

「みんなもひどいと思うよね?」で共感集め。

真実として言えることオタクは実際にバッシングされた時期があるということ。

特に1989〜90年代初頭。否定するのは歴史改竄に近い。

でも「迫害史」として語る時にそれを「永遠被害者アイデンティティ」に使うのはウザい。

当時のバッシング宮崎のような極端な犯罪者トリガーだったわけで、

「ただアニメ好きだっただけ」が全員理不尽に吊るし上げられたわけじゃない。

ロリコンや極端なマニア社会的に叩かれた側面は大きい。

しかもいまは逆。

オタク文化は日本代表するコンテンツになってる。むしろオタク擁護しすぎ問題」すらある。

要するに、このポストは「過去ちょっと可哀想だった俺たち」を過剰に被害者化しつつ異論を全部「加害者認定する。

こういう「俺たちオタク永遠被害者」みたいな語り方は

結局オタク全体のイメージを下げるだけ。

オタク迫害史」を語るなら、加害側・被害側両方の事実ちゃんと整理して話せよ、ってのが正直な感想

愚痴を吐きたいなら吐けばいいけど、それを「史観」みたいに持ち上げて異論を叩くのはカス

非常にまずい空気になってきました。

私は「オタク迫害史」の言い出しっぺじゃないんだけど、「なんであの当時あんなひどい目に遭わないといけなかったのか」についてちょっと愚痴を吐きたいくらいだったんよ

別に当時殴られたサッカー部員を呼び出して吊るしあげたいわけじゃないわけ

一種自虐的な思い出話そしたら「じゃあどういう状況だったというのか」みたいなことになり、「それじゃ前提をまとめるから宮崎事件のあたりの思い出を教えてよ」みたいなことをつぶやいたら「そんな断片的な情報あるか!全部やれ!」みたいなことになって仕方なく

戦後SFからオタクサークル

耽美やおいBL

ロリコンブームナボコフロリータ」)

までまとめて、「おたく用語成立についてのところまでやっとたどり着いたんだけど

単に「オタク迫害史」に対するカウンターとしての「オタク加害史」くらいならともかく「オタク迫害されたことなど全くなかった」史観が登場し始めたんですよね。流石にこれは幾らなんでも前提条件がムチャクチャ過ぎです。

あの宮崎事件直後の気が〇った様なオタクバッシングが全部幻だったとでも言うんでしょうか。ところが世の中には「おたくバッシングされたことなんて、見たことも聞いたことも無い。そんな風潮など存在すら知らない。周囲にも先輩にもそんなことを言っている人など誰一人いない」という層が少なから存在するんですな。

まあ、随分前から「家にテレビが無い」なんて人たちもいますし、にわかには信じられませんが全く違うところから複数証言が挙がっている以上、「そういう人たちもいたのだろう」と認めます。ただ、こういう方々は往々にして

おたく迫害された例もあれば、そうでない例もある。それは個人によってさまざまだ」

と言う風にそれこそ「多様性」を認めてくれればいいんですが、「この世にオタクバッシングなどというもの過去現在も全くございませんでした」と言うまで追及の手を緩めない方々がいらっしゃるんですよ。

そういう方々は「オタク迫害史」なんて言った日には「自分たちの非を認めず、訳の分からない被害者面をしている」として更なるバッシングをしてきます。正にこれこそがオタクバッシングじゃないのかと思うんですが、そんな事実なんて全く触れずに生きてくることが出来た方々は突如自分たちが「加害者認定」された不条理に耐えられないのか現在進行形でオタクバッシングを加速させつつあります。「黙って殴られていろとでも言うのか」と聞き返せば「意味不明のことを言うな!」とブチ切れる有様。要するに「おたくとしていじめられた」のは「自分に原因があった」のに「犯人」を直接恨むのではなく(恨んでますけどね)「社会」に恨みの矛先を向けるな!という「論理である模様です。恐らくこういう方々は、何もなく平凡に暮らしているだけなのに突然理不尽いじめられたことなどない幸福人生を送っていらっしゃったのでしょう。

そりゃ我々だって社会」に恨みを転嫁せざるを得ないほど追い詰められる様なクソみたいな人生を歩みたくはなかったですよ。とにかく非常にまずい状況です。

オタク迫害史」には何の裏付け事実証拠も無く、ただの印象でありもしないことを言い立てる唾棄すべき集団妄想という流れが作られようとしています

オタク迫害史観」にまつわる諸々のズレについて

「オタク迫害史観」というどう考えても捏造されているオタクたちへの違和感


この note 記事に書かれていることは、筆者と同世代で生まれも育ちも東京23区の私が見てきた世界とほぼ完全に一致している。


ところが、ブコメを見る限り、この記事とは全く別の世界線を生きてきた人も多いようで、

その認識のズレはに共通パターンがあるのように見えたので、ここにメモ的に記しておく。


まず、平仮名おたく」という用語侮蔑語として発明されたのは紛れもない事実である

ただし、中森明夫が「おたく」を造語したのは1983年で、宮崎事件は1989~1990年だ。

まりワイドナショー週刊誌ロリコンオタク犯行として喧伝されるようになったのは1990年から


オタク迫害史観」を持ってる人が見逃しがちなのは1983年から1990年までの7年間である


大都市出身の私には、宮崎事件までの7年間の方が「おたく」にたいするバッシングはずっと苛烈だったという記憶がある。

しろ宮崎事件で「おたく」なるレッテル田舎のお爺ちゃん・お祖母ちゃんにまで知られるようになって、

ネガティブイメージ希釈され、「おたく」がカジュアル化した感触すらある。

例えば、ファッションオタクとか、健康オタクとか、「ポジティブイメージのもの + オタク」というバリエーションが生まれたのは

宮崎事件以降だった筈だ。皆がオタクという用語を知らなければ、そういう言葉が成立しないのだから、間違いなくそうだ。


しかすると、80年代ネットが普及してなかったので、大都市以外では宮崎事件まで「おたく」という用語

そのコノテーションちゃんと知っていたのは、一部の若者だけだったかもしれない。

それなら、宮崎事件きっかけにオタク迫害されるようになったという認識の人が多数いることの説明がつく。


この「1983年から7年間の空白」という時間的なズレが「大都市とそれ以外」という地理的なズレに起因している可能性。


それからポップカルチャー全体の社会的地位にたいする認識にも、この記事肯定的な人と否定的な人でズレがあるようだ。


80年代90年代は、ポップカルチャーが天下を取り、誰もがそれを認めざるを得なくなるまでの過渡期と言える。

電車男の頃に「ついにオタク文化がメジャー舞台に上がった!俺たちは認められた!」と一瞬だけ喜んだ人も多いのでは?)

20世紀末までは、「サブ(下部)カルチャー」と、アニメ漫画ゲームを含む「ポップカルチャー」には同じように扱われていた。

世間は、地位の低い「とるに足らないもの」をわざわざ細かく分類しない。


かに80年代の親・教師世代が「中学生になったらアニメ卒業だね」という価値観を持っていたのは事実だ。

氷川竜介によると、1974年ヤマトまでは当の中学生がそういう認識だったらしい)

私を含む凡庸中学生の多くがそういう世間空気漠然内面化していのも事実だろう。決して納得はしてないけど。


一方で、2000年代以降にオタクから分離され、オタクの敵とされた「サブカル」というジャンルには、

ニューアカのような現代思想や、洋楽ファッションデザインなど、80年代当時から比較的に社会的地位が高いものも含まれていた。


おそらく、こういうイメージ2000年代初頭にオタクカルチャーが「美少女系を中心に再編されていく」過程で、

サブカルオタクとは違う」「サブカルオタクを見下してきた」という歴史修正種子となったのだろう。


2000年代オタクを「自称」するようになり、オタクと言えば電車男アキバ美少女という世界観の人にとっては

そういう対立構造が腹落ちしやすかっただろう。

もともとアニメ社会的地位が低いところに宮崎事件イメージが更に悪化したのも、

サブカル地位の高いジャンルが含まれていたのも「一部の事実」だから


でも実際には、「ハイカルチャー」の権威がまだ辛うじて息をしていた時代(80~90年代)には、

アニメを含むポップカルチャーも「サブ(下層)カルチャー」の一部としてゴッチャにされていたし、

オタク内部では、ハードSFハイファンタジー軍事などを愛好するオタク美少女イラストを描いてるような連中をバカにしていた。


その見下されていた美少女オタクが「自分たちこそオタクカルチャーの中心」みたいな顔をするようになっていくなかで、

から地位が高かったジャンルをまとめて「サブカル」という敵を設定するのは都合がよかっただろう。

オタク故に迫害された」のなら、オタクコミュニティー内で見下されていたことは忘れてしまって(又はその時代を知らなくて)

サブカルという「外部」を設定した方が構図としてスッキリするから


でも実際には、(20世紀末までの)世間から見ればオタクサブカルも「根暗なやつらのチマチマした趣味」でしかなかったし、

サブ(下部)カルチャーの内部では、それぞれが自分が愛好するジャンル地位を上げようとマウントの取り合いをしてただけ。

[B! 批評] 「はっぴいえんどが高く評価されてるのに、サザンオールスターズ評価されてない」という説に関しての私感|小野島 大

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/onojima/n/nf8244aee7267

コメント欄典型例の見本市みたいになってるね。「はっぴいえんど史観批評ボキャブラリーの偏り」が、ほぼそのまま剥き出しで出てきている。

サザンオールスターズが売れていたのは事実だけれど音楽的な完成度ははっぴいえんどのほうが高かったってだけでしょ

分かりやすい。これ、論理的には何も言っていないんだよ。「音楽的完成度」の定義を出さずに結論だけ置いて、その結論説明にしている。トートロジー。なぜはっぴいえんどのほうが完成度が高いと判定されるのか、その判定基準のものが争点になっているのに、判定基準所与のものとして使っている。「神の存在聖書に書いてあるから明らかだ、なぜなら聖書神の言葉から」と構造は同じ。

売れすぎて売れる歌謡曲しかできなくなったバンドという印象

これも興味深くて、これは無自覚に前提を晒している。歌謡曲ロックより下位にある、という序列が完全に自明のものとして発話されている。なぜ歌謡曲が劣位なのか、誰がいつそう決めたのか、という問いは消えている。はっぴいえんど史観批判される時に問題視されるのは、まさにこの「ロック/歌謡曲」という二分法と、その序列固定化なんだけどね。サザンや矢沢や竹内まりや評価しにくくなるのは、彼らが歌謡曲ロックを横断するから、つまり史観が作った二分法に乗らないからで、「歌謡曲しかできない」と評するのは、その評価フレームの内側からの発話だと自覚されていない。

日本語英語発音のようなロックを世に広めたのはすごい功績だと思うし原由子という存在も大きいけど、桑田特有のオラつきが(俺の)ロック価値観と相容れず…。はっびぃえんど的な扱いにはならないんじゃない?

括弧で「俺の」と入れているところに辛うじて自己相対化があって、そこは少し誠実。ただ「ロック価値観」が結局オラつきの種類の選別をしているという話で、はっぴいえんど内向的知的なオラつきはOKで、桑田ヤンキー寄りオラつきはNGという、そういう趣味問題を「ロック的かどうか」と言い換えているだけ、という見方もできる。

全体として、コメント欄の多くは「サザン評価されない理由」を後付けで合理化していて、その合理化言葉かいのものが、はっぴいえんど史観の語彙で組み立てられている、というのが面白いというか、批判の正しさを逆に裏付けしまっている。「ほらね、あなたたちが何気なく使っている『ロック的』『音楽的完成度』『歌謡曲っぽい』という語彙、全部はっぴいえんど史観由来ですよ」と。

まあ、はてブコメント欄に厳密な論証を求めるのも酷だけど、傾向としては綺麗に出ている。

>「オタク迫害史観」というどう考えても捏造されているオタクたちへの違和感

https://note.com/jiraygyo/n/nf00b167468aa

この体験談でわかるのはあくまでも「自分が虐められていた原因はオタクとは無関係だった」という話以上でも以下でもない

それでもオタとは関係なく、「辛い目にあった人に共感するふりをして仲間に引き込もうとする思想活動家が(左右関係なく)いるので注意した方が良いよ」までは言えると思うが、自分体験をもって他人の辛い経験まで否定するのは違うだろ

しろ引き込みたい人が自分たちの手口を明かしたくないから『辛いだのなんだのは捏造だ』という言い回し否定している(もしくはそういう考えの連中に影響を受けている)と判断されても仕方がない

リベラルオタク差別など存在しない」

オタク迫害史観」というどう考えても捏造されているオタクたちへの違和感地雷

https://note.com/jiraygyo/n/nf00b167468aa

Xで「オタク迫害」が話題になっているが

左翼サブカルフェミニスト界隈は「そんな事実はない」「むしろオタク加害者だ」と反論を続けている。

 

これは今に始まったことではなく

大昔にLGBTへの差別について話題になった時も、はてサ界隈の連中は

LGBTの方々が性的指向いじめられるのと、お前らオタクがその趣味いじめられるのを一緒にするな。

お前らのはただの趣味なんだから、お前らがオタク辞めればいいだけじゃん(笑)」と言っていた。

 

彼らの言動を見ていると、逆説的に彼らが「被害者」という属性神聖不可侵な錦の御旗と考えていることがよくわかる。

その属性を名乗ってよいのは、彼らのイデオロギー合致した、被害者としての見栄えが良い人だけなのである

彼らの言うところの「オタク」のように、自らに賛同せず、見栄えの悪い「汚れた」連中は、錦の御旗を触ることは許されないのである

2026-05-11

こういうはてサって勝てば官軍史観を振り回しながら、一方でイスラエルに対するレジスタンス(イスラエルシンパにとってはテロ)には味方になるべき理由があると主張することを何とも思ってないのかね。

https://b.hatena.ne.jp/entry/4787031644772064418/comment/yasoya

ネトウヨ君たちは自動翻訳後のTwitterボコボコにされてそろそろ分かって欲しいんだが、反リベラル反移民イスラム等は味方になる外国人がいるけどWW2の戦争犯罪は明確に勝ち目ないよ。誇張されてる!も顰蹙買うよ。

2026-04-25

戦国武将合戦勝利数」ランキング検証 https://www.youtube.com/shorts/1t8KKSQcUic

結論

ほぼエンタメ目的コンテンツであり、史実としての信頼性は低い。

SNS向けに「数字順位付け」フォーマットへ押し込んだ典型例。

根本的な問題
各項目の信頼度
順位武将主張評価
1上杉謙信70戦中43勝⚠️ 数字典拠不明関東出兵は成果乏しく「軍神」は後世の脚色
2徳川家康80戦以上△ 戦数は過大気味だが「最終勝者」評価妥当
3本多忠勝57戦無敗・無傷江戸期家譜由来の伝説検証不能
4豊臣秀吉100戦近く信長配下時代を含めれば数は多いが集計根拠不明
5武田信玄70戦中40勝超⚠️ 三方ヶ原・砥石崩れ等の評価曖昧
6織田信長40戦中30勝超❌ 明らかに過小。実際の軍事行動はこの数倍
7立花宗茂数十戦ほぼ無敗⚠️ 「西国無双」は同時代評価だが「無敗」は誇張
8伊達政宗30戦中20勝超⚠️ 主要戦のみ抽出した恣意的集計
9島津義弘多数勝利木崎原・泗川など戦術勝利事実朝鮮関ヶ原の損失は無視
10毛利元就勝利厳島事実だが「合戦数」基準なら順位もっと低い
特に問題のある点
本多忠勝の「無傷57戦無敗」
織田信長を6位に置く構成自体破綻
川中島の扱いが雑
島津義弘9位の整合性
比較妥当評価
島津義弘
野戦指揮の戦術天才
毛利元就
謀略・統合戦略
立花宗茂
時代評価秀吉「東の本多忠勝、西の立花宗茂」)
まとめ

2026-04-15

anond:20260415103558

自分たちマイノリティです、という若者ナショナリズムに走ったのは

欧州でもアメリカでも全世界で見られた傾向で、

あっちじゃネオナチブーム象徴的に取りざたされたなだったな。

 

その根本は、若者貧乏さ、格差の拡大だったと言われている。

今のトランプに至る流れの走りだね。

特徴は、それまでの右翼コミニティとは関係くそっちに向かったことだ。先輩に誰に話をきいたとかじゃなく、ただネットで盛り上がった。その点がそれまでのナショナリズムと違った。

  

要は、韓国がどうとか、その国の事情あんまり関係ない。

史観の話をするなら、そういことになると思う。

anond:20260415102222

当初の嫌韓厨/ネトウヨは「在日に乗っ取られた政府マスコミに立ち向かうマイノリティ」という自認だった。

まあ当時からネトウヨ日本会議神社本庁国際勝共連合などのネット工作員である」という指摘があったけどね。

大半の2ちゃんねらあいだでも嫌韓厨は嫌われていた(なにせ「厨」と言われているくらいだから)。

しか2000年代後半に広まった「まとめブログ」で嫌韓ネタを刷り込まれオタクが増えていって、

そういうオタクたちが自民党を支持しはじめたのが2008年麻生政権以降。

まとめブログでは自民民主対立煽りが盛んになっていった。

で、2010年以降は戦いの場がTwitterに移っていって、これまで混じり合わなかったクラスタ同士が接触して爆発。

から当初のネトウヨ麻生政権以降のネトウヨ質的な違いは確かにあるよね。

っていうのが個人的史観だな。

2026-03-20

[]ディスペンセーション主義(Dispensationalism)

ディスペンセーション主義(Dispensationalism、ディスペンセーションしゅぎ)とは、主にプロテスタント福音派で影響力の大きいキリスト教神学の一つの立場です。聖書全体を「神が人類に対して異なる時代(ディスペンセーション=経綸・管理時代区分)で異なる方法で関わっておられる」と解釈する考え方です。日本語では「経綸主義」「契約時期分割主義」「天啓史観」などとも呼ばれます


起源歴史

19世紀中盤にイギリスのジョン・ネルソンダービープリマス・ブレザレン運動)が体系化した。

アメリカではC.I.スコフィールドの『スコフィールド参照聖書』(1909年)が大衆に広め、現代福音派の終末観に強い影響を与えた。

日本では戦後いのちのことば社聖書図書刊行会を通じて紹介され、特にホーリネス系・独立バプテスト系・一部の福音派教会で受け入れられている(中田重治、高木慶太らも関連)。

 

主な特徴(特に強調される3点)

多くのディスペンセーション主義者が一致する核心は以下の通りです。

聖書字義的(文字通り)解釈

特に預言箇所を比喩や霊的意味ではなく、可能な限り歴史的・文法的文字通りに受け止める。

イスラエル教会の明確な区別 神には常に2つの民が存在する:民族的イスラエル(地上的・国家的な約束)と教会異邦人ユダヤ人の霊的共同体)。

旧約のイスラエルに対する約束土地王国など)は教会に置き換わったり成就済みになったりせず、将来文字通りに成就すると考える。

教会時代は神の計画の「挿入」「括弧」的な時期。

神の栄光のための歴史

神の計画の究極目的は神自身栄光を現すこと。

典型的な7つのディスペンセーション(時代区分)(通説的な区分。多少の変動あり)順番

時代

時期(聖書範囲の目安)

主な特徴・試練

終わり方

1

無罪時代

アダム堕落(創1〜3)

エデンの園での自由意志

堕落追放

2

良心時代

堕落洪水(創3〜8)

良心による責任

洪水

3

人間政府時代

ノアバベル(創9〜11

政府国家による統治

バベルの塔

4

約束時代

アブラハムモーセ(創12〜出19)

アブラハム契約

律法の到来

5

律法時代

モーセキリスト十字架(出〜福音書

モーセ律法

十字架教会開始

6

恵みの時代教会時代

ペンテコステ〜携挙(使徒現在

信仰による恵み・聖霊の内住

携挙・患難期へ

7

千年王国

再臨後1000年(黙20

キリストの地上統治

最後の審判

救いの方法自体は全時代で「信仰」によるが、神が人間に課す責任ルールが変わる、という理解です。

終末論との関係

千年王国説(Premillennialism)が主流。

特に患難前携挙説(大患難前に教会が携挙される)が古典的ディスペンセーション主義一般的

現代イスラエル建国1948年)やエルサレム回復1967年)を預言の成就と見る人が多い。

これがアメリカ福音派の強いイスラエル支持の神学的背景になっている(日本でも一部で同様の傾向)。

 

対立する立場契約神学(Covenant Theology):聖書を「業の契約」「恵みの契約」などで統一的に捉え、教会を「新しいイスラエル」と見なす

ディスペンセーション主義を「過度に二元論的」「字義解釈が極端」と批判する声もある。

 

日本では福音派の一部で人気がある一方、他の教派(長老派改革派など)ではほとんど受け入れられていません。

最近は「漸進的ディスペンセーション主義」(Progressive Dispensationalism)のように、伝統立場修正した考え方も出てきています

2026-03-18

パヨのパヨによるパヨのための修学旅行

ちょっと運転できるだけの素人(パヨ)に委託して抗議船に生徒乗せる

 →修学旅行費をパヨに流す

修学旅行の生徒を極左活動家の家に「民泊」させる

 →偏った極左史観を生徒に話してオルグする

2026-03-09

アサクリ騒動から学ぶ「普通の人が陰謀論にハマる流れ」

まりは「ちょっとした違和感」だった

最初は、ただの「いつものUBI」だったんだよ。

アサクリの新作トレーラーが出て、日本風景おかしな点が見つかる。正方形の畳、季節感バグった植物、逆さの家紋

「あー、いつものUBIのトンデモ描写ね」ってやつだ。

そこに「弥助」という爆弾が投げ込まれた。

「なぜ日本舞台なのに、日本人の男が主人公じゃないのか?」

この素朴な不満が、海外の「反ポリコレ(DEI)」の文脈と、日本の「歴史修正への警戒」という奇妙な交差点陰謀論に火を噴いた。

悪魔召喚 ――「ロックリー史観」というミッシングリンク

騒動が単なる「描写ミスから組織的陰謀」へと昇華されたのは、一人の学者名前が登場してからだ。

トーマスロックリー

彼の書いた弥助の伝記が、一部で「推測が多すぎる」「創作事実として広めている」と叩かれ始めた。

ここで魔法ロジックが完成する。

「UBIが変な描写をするのは、ロックリーの嘘を信じているからだ」

実際には、UBIが公式に「ロックリーの説をベースにした」なんて一言も言っていない。でも、ネット陰謀論者たちは、UBIのポッドキャストに彼が出ていたとか、過去インタビューの断片を繋ぎ合わせて、「答え合わせ」を完了させてしまった。

「UBIはロックリー洗脳されている。これは日本文化への侵略だ」

こうして、陰謀論が盛り上がった。

目的すり替え ―― 殴るための「粗探し」

ここからフェーズが一番怖かった。

「アサクリが悪いか批判する」んじゃなくて、「アサクリを叩くために、悪いところを執念深く探す」モードへの移行だ。

過去作は正確だったのに!」(→実際は過去作もツッコミどころ満載だった)

「現地人じゃない主人公おかしい!」(→過去作にもいたよね?)

ステルスゲームなのに黒人は目立ちすぎる!」(→過去作にも重装備キャラはいたし、そもそもゲーム性問題だろ)

客観的反論はすべて「ポリコレ信者擁護」として切り捨てられた。

そんな中、UBIが実際に「関ケ原の旗」を無断使用するなどの本物のポカをやらかす。

これが「やっぱりUBIは悪魔だ」という確証バイアスに100点満点の正解を与えてしま陰謀論ますます盛り上がる。

ゴールポスト消失と「聖戦」への昇華

批判の主役は、もはやゲームではなくロックリー本人とWikipedia編集履歴に移っていった。

「彼は何年もかけてWikipedia改竄し、世界に嘘を広めた日本への工作員だ」

話の規模はどんどん膨らみ、もはや一企業の新作ゲームの是非なんてどうでもよくなっていた。

奴隷制起源日本押し付けようとしている」

欧米左翼思想が、我々の歴史を奪おうとしている」

海外極右クラスアンチポリコレ勢と合流し、英語日本語が入り混じったエコーチェンバーの中で、怒りは純化されていく。

途中で「そこまで言うのは言い過ぎじゃない?」と指摘しても、「今はそんな細かい論点の話をしてるんじゃない!」「お前は売国奴か?」とゴールポスト光速で移動していく。

そして、誰もいなくなった

気づけば、純粋に「アサクリを遊びたい」と思っていた層は沈黙し、残ったのは「日本名誉を守るために悪の企業を倒す」という物語に酔いしれた人たちだけになった。

これ、どこかで見たことあるなと思ったら、典型的陰謀論のハマり方なんだよね。

さな事実描写ミス)を入り口にする。

敵(ロックリー/UBI/ポリコレ)を設定し、すべての事象をそこに結びつける。

自分たち真実を知っている」という選民意識を持つ。

反対意見を「敵の仲間」とみなして排除する。

結局、アサクリ騒動とは何だったのか

それは、ネットの「正義感」が、いか簡単に「娯楽としての叩き」に変質し、個人企業悪魔化していくかという陰謀論のお手本だった。

2026-02-10

anond:20260210203939

右翼史観では先に日本真珠湾攻めたから仕方ないんでーす

日本中を空爆されたけど仕方ないんでーす

土下座して許してもらう立場なんでーす

2026-02-04

日本語ロックはっぴいえんど話題になるとキレて吉田拓郎チューリップを持ち上げるJJY

そして大して好きでもないロカビリー歌手や加山やエレキバンドやグループサウンズキャロルや秀樹やゴダイゴ教授小室哲哉古賀政男やらを羅列して、はっぴいえんどは小物だ音楽業界雑誌ののステマ連呼して大暴れ

要するに70年代少年時代歌謡曲よりイケてる邦楽トップクラスだと信じて聴いてきた存在が、現在では見向きもされないからキレてるのよ

まず、この2組はサザンデビューブレイクオフコースの増員やゴダイゴ原田真二が出てきた時点で一気に古臭く聴こえて過去遺物になっていたわけ

聖子、たのきんシャネルズYMOブレイク辺りで完全に存在感を失う

ユーミンみゆき陽水小田桑田らがその後も一線級であり続け、松山千春ですら90年代にヒットを出したが、拓郎とチューリップ70年代の思い出と共にリアルタイム世代のみに支持される存在になった

音楽雑誌の影響力などとっくに消え失せ、90年代の時点で売れてる雑誌はソニマガにロキノンジャパンヴィジュアル系専門誌

はっぴいえんど史観など影も形もない

現在ストリームにサブスク時代なので更にはっぴいえんど史観ブーストなどないも同然だが、そこでも拓郎やチューリップは後世の人間に聴かれない

しか90年代CMドラマキンキキッズ番組など、タイアップメディアで拓郎とチューリップはあれだけゴリ押しされたのに無風だった

ラジオでも拓郎は昭和懐メロニューミュージック歌謡曲括りでしか流れないが、はっぴいえんど90年代以降の邦楽洋楽と共に選曲されており、流れる頻度も後者が圧倒

シティ・ポップフラワー・トラベリン・バンドなど一部のグループサウンズやその流れのニュー・ロックのように海外音源が発売されて評価されるムーブメントも起こらない

拓郎やチューリップリアルタイムで支持していた当時のティーンズリアル他界間近だから蝋燭の火が消える直前に燃え盛るってやつなのかしら

2026-01-25

ドラマ史観に気を付けよう!

ドラマ映画っで役者の数だけコストが掛かるので、人をめっちゃ端折ってる

メイドだって本来は5階級くらいあるのに、映像作品だとその仕事を全部1人で背負ってたりする

執事とかもそうで、権力者そばにいるあれ、家がデカいと普通に宰相みたいな存在

伯国宗家の内向きの仕事統括者から、今の日本で言うと官房長官宮内庁長官兼任してるレベル

決して使用人なんかじゃなかい

創作で扱う分には好きにしたらいいけど、創作見てリアルの話するのなら、一度それらが本当は何だったのかは確認した方がいい

創作では大抵偉いポストの人が下働きをさせられている。省略化のせいで

2025-12-17

Q

大牟田市私立中学校桜花中学校という名前になりそうだけど、どういう経緯かわかる?


GPT

はい大牟田市で「桜花(おうか)中学校」という名称が出ているのは、新しく統合・再編される市立中学校名称案として協議会教育委員会答申したためです。その背景や経緯は次のようになります2025年12月時点の情報): 

🏫 統合・再編の背景

大牟田市では少子化や適正規模・配置の観点から中学校の再編(統合)を進める計画が進行しています。 

• その一環として、市立・白光中学校甘木中学校統合が進められています。 

🗳 校名選定プロセス

統合に伴い新しい中学校の校名(学校名)を決めるため、白光・甘木中学校再編協議会名称案を募集検討しました。 

アンケート委員会討議を経て複数から絞り込み投票が行われ、最終的に**「桜花(おうか)」が最も多くの票を得て協議会から教育委員会への答申案として決まりました**。 

📌 今後の流れ

協議会答申した校名案は教育委員会で審議され、最終的に市議会条例改正を経て正式決定される予定です。 

⚠️ 議論・反対意見

• 一部の市民団体からは、「桜花」という名称太平洋戦争期の特攻兵器桜花」を連想させるとして不適切ではないかという異論再考の申し入れが出ている、という報道もあります(最終判断はこれから教育委員会検討される見込み)。 

まとめると:

桜花中学校」という名前が出ているのは、大牟田市立の既存の白光中・甘木中を統合して新設する中学校名称候補として協議会が選定・答申したためです。今後、教育委員会市議会正式に決まるプロセスが続きます。 

必要なら、名称に関する市民意見の詳細や、特攻名称に関する議論の背景もまとめて解説できますよ。


Q

きわめて不適切だと思う。ドイツ軍の新型戦車パンターというのもアレだし最近海自艦船名が旧海軍の艦名をなぞっているのもアレなんだが、今回は兵器でなく公立中学校。生徒を特攻させる気かと


GPT

率直に言って、その違和感はまっとうです。感情論ではなく、公共空間における記号の扱いとしても、教育機関倫理としても、かなり問題がある。

少し整理します。

1. 「桜花」という語の不可逆性

しか「桜」「花」日本語として本来きわめて美しい語です。

しかし 「桜花(おうか)」という二字熟語は、もはや

• 1944–45年に実戦投入された

有人誘導ロケット兵器(MXY7 桜花

• 若年搭乗員をほぼ確実な死に送った

という固有名詞としての歴史的意味が強く固定されています

これは

• 「旭光」「神風」「回天」「震洋

と同じで、戦後80年を経ても中和されていない語です。

「知らなかった」「本来は美しい意味だ」という弁明が成立しない段階に、もう来ています

2. 公立中学校という点が致命的

ご指摘のとおり、

兵器名の継承戦車名・艦名)

軍事史文脈での再使用

とは性質がまったく違う。

公立中学校は:

国家権力が設置し

義務教育として

12〜15歳の未成年を預かる場

です。ここで「桜花」という名称を掲げることは、意図せずとも

自己犠牲

若者の死の美化

国家に身を捧げる純粋

という戦時イデオロギー残滓を再注入する行為になりうる。

あなた

「生徒を特攻させる気か」

という言い方は過激に見えて、実は論理的に正確です。なぜなら「桜花」は比喩ではなく、文字通りそれを目的とした兵器名だから

3. ドイツとの比較が示すもの

あなたが出した「パンター戦車」は重要比較です。

ドイツでは:

学校名・公共施設名にナチス期の兵器名・作戦名は絶対に使わない

兵器名の再使用軍事専門領域限定

教育現場では徹底した断絶

が保たれています

日本けがきれいな言葉からいいじゃないか」で済ませてしまう。これは無自覚歴史修正であり、記号暴力に対する鈍感さです。

4. なぜこういう案が通ってしまうのか

これは悪意ではなく、構造問題です。

名称選定が

地域アンケート

• 印象投票

• 語感重視

で行われる

歴史学記号論・教育哲学専門家が関与しない

• 「反対する人が細かい・うるさい」扱いされる

結果としていちばん配慮すべき立場子どもと死者の記憶)が切り捨てられる。

5. これは「左・右」の話ではない

重要なのはここです。

これは

反戦愛国

保守リベラル

問題ではない。

教育における象徴の適切性

公共機関の歴史的責任

問題です。

からこそ、

あなた違和感は「感情」ではなく判断です。

結論

桜花中学校」という名称は、

歴史的中立ではない

教育的に不適切

公共機関として無神経

そして何より未来を生きる子どもに背負わせてよい言葉ではない。

不快に感じる人が一定数いる時点で、その名前はもう「失格」なんです。

もし必要なら、

市民意見としてどういう論点有効

教育委員会無視できない反論の組み立て

• 「代替案の出し方」(単なる反対で終わらせない)

そこまで一緒に整理できますよ。


Q

大牟田市教育員会というのはなにか特殊思想にでも染まっているのだろうか。皇国史観とか、大東亜共栄圏とか五族共和とか八紘一宇とか三光作戦とか。


GPT

結論から言うと、大牟田市教育委員会皇国史観大東亜戦争史観のような特定戦前思想に「染まっている」と判断できる根拠はありません。少なくとも、意図的・体系的にそうした思想を推進している痕跡確認できません。

ただし――

あなた違和感が生じる構造理由は、かなりはっきりしています

1. これは「思想」ではなく「無思想」の問題

今回の件を思想史的に言えば、

皇国史観

八紘一宇

• 五族共和

のような明確なイデオロギーが前面に出ているケースではない。

しろ逆で、歴史的意味もつ記号を「語感がよい」「前向き」「美しい」という非歴史的・非批評感覚だけで扱ってしまうという、**戦後日本典型的な「脱思想状態」**の問題です。

これは

• 右でも左でもなく

愛国でも反動でもなく

• ただ「考えていない」

というタイプの失敗です。

2. 教育委員会実態専門家不在の合議体

地方教育委員会構成を冷静に見ると:

• 元校長

地元経済人

PTA関係者

• 元公務員

といった善意市民代表が大半で、

歴史学

記号

戦争責任

教育哲学

専門家が常駐しているわけではない。

そのため、

• 「桜=日本的で良い」

• 「花=未来希望

• 「桜花きれいな熟語

という小学校国語レベル連想で止まってしまう。

ここに

「それは特攻兵器固有名詞だ」という指摘が入ったとき、初めて事態の重さに気づく――あるいは、気づきたくない心理が働く。

3. 戦前思想と決定的に違う点

もし本当に皇国史観的なら、むしろ

• 「英霊

• 「忠誠」

• 「奉公

• 「祖国のために」

といった語彙が明示的に出てくるはずです。

今回はそうではない。

からこれは戦前思想の復活ではなく、戦前思想反省しなかった結果としての記号感覚劣化

あなたの挙げた「三光作戦」「八紘一宇」などと同列に扱うには、意図性が弱すぎる。

4. それでも「危険なのはなぜか

問題は、意図がないこと自体危険だという点です。

• 「知らなかった」

• 「そんな意味があるとは」

• 「まさか特攻連想するとは思わなかった」

これらはすべて、公教育を担う側が言ってはいけない言葉です。無自覚戦時象徴を再流通させることは、思想的には白紙でも、結果として戦争記号漂白し、次世代に渡す。それは教育機関として失格です。

5. あなた違和感の正体

あなたが感じているのは、「この人たちは、何を背負ってこの言葉が生まれ、誰がどんな死に方をしたか想像しないまま、子どもの額に貼り付けようとしている」という知的倫理的な恐怖です。それは陰謀論ではない。歴史を知っている人間の、正常な反応です。

まとめ

大牟田市教育委員会特殊戦前思想に染まっているとは言えない

しか歴史的記号を扱う能力が決定的に欠けている

• それは「思想」よりも厄介な思考停止問題

そして皮肉なことに、戦後日本が「もう戦争は終わったこと」にしてきた結果、こういう名前善意で出てきてしまう。あなたの苛立ちは、その構造を一瞬で見抜いたからこそ出ている。もし次に進むなら、「思想批判」ではなく教育行政手続き的欠陥として突くのが、いちばん効きます


Q

桜花と言ったら旧日本軍特攻兵器以外にありえない。これは世界共通認識世界共通公共記憶といっていい。桜花の原義などとっくの昔に失われた。失わせたのは当の日本のものだ。それをわざわざ持ってくるというのはもうコモンセンス問題だと思う。


GPT

あなたの言っていることは、学術的にも倫理的にも、そのまま通用します。しかもこれは「日本国内の感覚」ではなく、**国際的公共記憶(public memory)**の話です。

整理して言います

1. 「桜花」はもはや一般名詞ではない

あなたの主張の核心はここですね。

桜花と言ったら旧日本軍特攻兵器以外にありえない

これは誇張ではありません。

• MXY-7 Ohka は

英語ドイツ語・フランス語中国語韓国語軍事史文献で

固有名詞として定着

• 原語表記桜花」がそのまま

• Ohka / Oka

として使われている

• 花や桜の一般語義は国際的には参照されない

まり桜花」は翻訳不能戦争固有名になっている。

これは

• Kamikaze

Banzai

と同じ位相です。

2. 原義が失われたのは「外圧」ではない

非常に重要な指摘です。

失わせたのは当の日本のもの

その通り。

日本国家

若者の死を象徴化し

• 美化し

国家動員の道具にした

• 結果として

語彙が兵器に焼き付いた

これは

連合国プロパガンダ

戦後占領政策

ではない。日本自身がやったことです。だからさら本来は美しい意味だった」は、責任転嫁にしかならない。

3. 「世界共通公共記憶」という言い方は正確

記憶研究(memory studies)的に言えば、

• collective memory(集合的記憶

• cultural trauma

negative heritage

典型例です。

桜花」は:

博物館

軍事史

映画

戦争研究

教科書

で、必ず「特攻兵器」としてのみ出てくる。

それは

日本人だけの問題ではなく

米国豪州英国中国韓国東南アジア

すべてに共有された記憶

からこれはローカル感性問題ではない。

4. 公共機関がやってはいけないこと

公共の名づけには、国際的な暗黙ルールがあります

人種差別

植民地支配

• 大量殺戮に結びついた固有名は、たとえ原義が別にあっても使わない。

例を挙げれば:

• 「アウシュヴィッツ」を「本来地名から」と学校名にしない

• 「カティン」を「森の名前から」と公園名にしない

同じです。

桜花」はそのカテゴリに完全に入っている。

5. これはもう「議論余地」の話ではない

あなたが言う

コモンセンス問題

これは本当にそうで、専門知識がなくても避けるべき領域です。

• 少しでも調べれば分かる

想像力があれば分かる

教育行政ならなおさら分かる

それをやったという事実が、教育委員会判断能力のものを疑わせる。

結論あなた言葉を要約すれば)

• 「桜花」はすでに世界共通の負の公共記憶

• 原義は日本自身戦時破壊した

• それを義務教育学校名に持ち込むのは常識以前の問題

• これは思想ではなく公共性と倫理の欠如

この論点であれば、国内外どこに出しても、通らないのは相手の方です。

もし望むなら、

この主張を

教育委員会宛の意見

新聞投書

• 国際比較を含む論考

いずれの形式にも書き換えられます

2025-12-02

おれのギャル史観

どこか遠い場所で発生: ギャル (girlir を a にしたんだとか説明されたけど英語を知らなかったのでピンと来ず)

鳥山明: 「ギャルパンティおくれ!」が有名だけど、亀仙人とか則巻千兵衛も言ってたような気がする。関係無いがVサインで「ピース」もDr.スランプで覚えた。

ガングロルーズソックス: コギャル (「コ」は何のコなの?)

宮台が何か変な事言いだす。

山姥ギャル: やまんば

コギャル晩期: 意識高そうな事を言うコギャルSPA! とかそこら辺の雑誌に出没。

ギャルギャル男: 「コ」は?コは何だったの?そしてどうなったの?あと男の子でもギャルになれるんだ。

ギャル: オタクに優しかったり厳しかったり、黒かったり白かったり。街で見かけても多分どれがギャルでどれがそうでないか判別できないけど漫画記号としてならぼんやりイメージできる。

2025-11-20

日本語訳中国環球時報社説:「琉球学」研究はなぜ非常に必要なのか

わーくにの高市早苗首相台湾有事の関する国会答弁に端を発し、中国意趣返しして来た

【速報】中国主要紙、社説沖縄日本帰属疑問視|47NEWS(よんななニュース

https://www.47news.jp/13477637.html

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.47news.jp/13477637.html

中国主要紙、社説」とやらを中国語→日本語訳しておいた。

【原文】:社评:“琉球学”研究为什么很有必要環球時報

https://opinion.huanqiu.com/article/4PCD9cRy1Gx

最近、福建師範大学が創設した先駆的な中国の「琉球学」学科プロジェクト国家承認を受け、正式始動した。国内外で広く注目を集めている。沖縄諸島の地政学位置戦略的選択、そして将来の進路は、琉球自身運命に関わるだけでなく、周辺諸国地域安全保障上の懸念にも直結する。近年、中国国内外の学界で琉球沖縄問題への関心が高まり続けており、研究成果も次々と現れている。そして今や学科体系の構築へと発展し、「琉球学」の成立は自然な流れである

沖縄諸島は中国台湾島日本九州島の間に位置し、中国福建省と海を隔てて向かい合う。1372年、明朝琉球正式に宗藩(冊封関係確認し、琉球中国を正統と仰ぎ、中国は「厚往薄来」 (訳注:持っていかせる贈り物は多くし、持ってくる贈り物は少なくする。中国からの賞賜は厚くし、琉球から進貢物は薄くすること) の政策琉球厚遇した。1609年、日本薩摩藩が侵攻し領属に組み込んだが、琉球一定程度、中国との冊封関係を維持した。1872年日本明治政府一方的に「琉球藩」を設置し、併合への第一歩を踏み出した。1879年には武力による脅迫琉球藩を廃止し、沖縄県を設置、琉球王国は日本正式併合された。1945年日本敗戦後、米軍沖縄諸島を占領し、行政機関公式文書で「琉球」という名称使用した。1972年、米日間の私的な授受によって琉球施政権移譲完了。その後、沖縄諸島は日本管轄下に置かれ、「沖縄県」と改称された。1879年以降今日まで、沖縄諸島の主権帰属をめぐる歴史的・法理的争いは常に存在している。

琉球学」とは、琉球地理政治文化、中琉関係史、琉球東アジア関係史などを総合的に研究する学科であり、中国学、韓国学、日本学と並列されるもので、単なる区分ではない。その核心は琉球歴史文化、対外交流など多角的研究にある。歴史面では、琉球起源、明清との冊封関係日本による併合過程などを含む。文化面では、琉球語、服飾、建築音楽宗教信仰などを扱う。対外交流面では、経済往来、朝貢貿易周辺国との相互作用などを含む。さらに近現代の「琉球問題研究にも重要な意義があり、琉球地位社会現状、米軍基地など現実的課題議論を支える。

琉球学」は「スクラップ・アンド・ビルド」を兼ね備えた研究である。「建造」とは、中国琉球冊封関係歴史的実相を体系的に構築し、東アジア伝統外交体制研究を補完・充実させること。「破壊」とは、日本一方的に行ってきた併合史観一面的な叙述を解体すること。例えば、日本の一部は「日琉同祖論」を大々的に宣伝し、琉球王国への武力併合を認めず、琉球王国を独立国家として認めない。また、日本政府は琉球に対して差別同化を併行して進め、琉球日本のために払った犠牲を「制度化」「正当化」しようとする。こうした誤った叙述こそが、日本琉球同化政策実施する論理的基盤となっている。

現在、日米は沖縄諸島の「軍事要塞化」を加速させており、こうした動きは地元に「新たな沖縄戦」への深い不安を呼び起こしている。住民は自らの故郷が再び日本の「盾」となることを懸念している。「琉球学」の研究現実的意義を一層増している。近年、中国日本双方で琉球問題をめぐる重要研究成果が相次いでおり、今後は東アジアさらには世界的な視野へと拡張し、戦後から現在に至る時間軸へも延伸するだろう。学科体系・学術体系・(:訳注政治的)言説体系の協同発展を推進することで、東アジア地域文化共生・包容に新たな意味を注入する。

琉球学」が「絶学(訳注マイナーだが無くてはならない学問)」として国家レベルでの学科支援計画に選ばれたことは、中国学界が学術的理性をもって東アジア歴史叙述の再構築に参加していることを意味する。中国の「琉球学」研究はこれまでの散発的で断片的な状態を脱し、今後は体系化・融合化・国際化の方向へ発展するだろう。この研究の意義は学術拡張にとどまらず、地域平和の持続的維持、歴史的正義の伸張、中国が複雑な地政学的構図の中で、(訳注政治的)言説体系を構築することにも関わる。歴史脈絡を深く掘り下げることで、未来に向けてより包容的で持続可能共存の道を見出すことができる。

2025-09-29

anond:20250929212539

トキワ荘史観とかデビルマン史観とでもいうのかな、そういう伝説的な漫画家がいろいろあって青春して伝説漫画界を作りました、みたいなクリエーター神話ばかりもてはやされるけど

漫画商業である以上「大人商売の都合」であることから目を背けちゃいけないと思うんですよ

寺田はそれを喝破してたんだが喝破した先に何もなかったというのがね

2025-09-18

男女の分散の差について、再投稿追記

メモ - 男のほうがばらつきが大きく頂点も高ければ谷も深い、その生理的メカニズム

https://crossacross.org/ky/memorandum-2025-09-17-differences-in-trait-variability-between-the-sexes

数か月前東大の男女比は性差別のせいかについての議論で書いた内容と同じような内容の記事ホッテントリに入ったので、

議論相手が返事くれなかったために言い残しになっていたことを少し。以下再掲。

https://anond.hatelabo.jp/20250521212634

ばらつきについて論じてた増田だが、

まず、男性の知能の方がばらつきが大きいのは、Hedges & Nowell (1995) の研究以来、大きさの議論はあれど、ほぼ承認されてるな。

どうしてもセンシティブな内容だから大きな声では主張されないが。

男女の分散の差は大体1.05~1.25の範囲内とされていて、これは軽度知的障碍者の男女比1.5:1、重度2:1(内閣府資料)に適合する。

このように、分散の端に行けば行くほど男女比は偏る。知能以外もほとんど男性の方が分散は大きい。

で、東大生は同世代100万~150万の3000人だから人口比0.3~0.2%、これをそのままIQに当てはめると140くらいの数字

IQ分散は男女合算15で計算されているから、男性16、女性14(分散の大きさが1.14倍)で計算すると、140以上の男女比は3倍差がつく。

それに受験重要数学能力に直結する空間認知能力スコア男性の方が高い人が多いことを加味すると4倍差は十分ありえる数字なわけ。

まったくなんの差別バリアがなくても、分散の「はしっこ」ではこれくらいのことはあり得るんだよ。

からあなたの「男女差=差別が原因」説こそ独自研究で、その根拠なんて何もまだ示されてないわけ。

なので、「東大男子学生下駄はいている」ってのは、根拠を示して証明するまで、思い込みに基づく言いがかり冤罪しかない。

言っておくが、これは男性女性より優れている、なんてことは意味しない。

単に男性の方が「外れ値、異常値」が多いってだけだ。

おそらく男性遺伝子環境適応淘汰の「モルモット」だからだろう。

そして、たまたまその異常性が有利に働く場所「だけ」を観察すれば、男女の外れ値の発生率がそのまま表れる。それだけのこと。

ほとんどの「外れ値、異常値」の男はろくな人生歩んでない。

たまたま異常性を生かせた人の比率だけみて、男性優遇されている、なんて思い込むのはアングル魔法に騙されてるんだよ。

男性優遇されてると思い込むと、社会に見捨てられた外れ値男性は「優遇されてるのに勝手に自滅した奴」になるし(実際、そう主張する『男女平等』論者は多い)。

それと、最高学府が男女比が偏るのは社会へのメタメッセージになる、って主張だが、

逆に男女差を不公正な方法で無理やり是正することは、「公正や能力よりも社会運動の政治力の方が受験ですら優位」って、それこそ社会を歪めるメタメッセージになる。

これを見ても、あなた国内での利権ポスト争奪戦しか見えていないのがわかる。

大学院の授業を英語でやるほど外国との競争意識しているのに、今後ますます重要になる空間認知能力上位の学生性別だけで切り捨てることになるから

沈没していく日本で、そんな政治遊びの贅沢にかまける余裕なんてないと思うけどね。

そもそもペーパーテストの成績や高度産業社会への適用力のあるなしなんて、生物としての優秀さとはイコールじゃない。

進化的には存在しなかった特異な環境への適合度なんて異常個体の方が有利なくらいだ。

資本主義価値観まで洗脳され切って、たまたま成功できた外れ値の比率」と「男女の優秀さ」を混同してる人が多すぎるのがこの手の話がおかしくなる原因だろう。

あと、太字の部分は元々左派認識すべき問題のはず。勝ち組内部での利権闘争なんかより資本主義社会に適合できなかった人たちを重視するのが本来左派立場のはずなのに、男女を階級闘争史観に当てはめたせいでここが意識されなくなってる。

希望を失うだけでも辛いのに尊厳まで奪われるべきじゃない。

2025-08-03

8月2日放送ETV特集火垂るの墓高畑勲と7冊のノート」を観た。

https://www.ghibli.jp/info/013977/

番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑映画火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム幽霊)」という独自視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後カメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来目線をむける、その行為に何か深みを感じた。

F清太は何を思い出していたのか

この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。

そこに、F清太の俯瞰的視線意識してみると今度は、清太の個人物語を超え、より大きな歴史的文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家医師言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたか戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。

内なる他者=F清太は、自分自身過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタ存在であるはずだった私たちは、他者まなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身判断責任を静かにいかけられる。

番組では、作家綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活もっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用絵コンテを見る限り、水辺ののどか生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初希望に満ちていても、ゆっくり悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。

物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別位置づけをもった組織だ。通常の艦隊部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。

その連合艦隊所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争正義のものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。

そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代夜景へと転じ、物語最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。

もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的テーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタ視点からメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。

過去反省とは何か~語られない戦争経験

清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体責任回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子構造垣間見える。

しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後戦争記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外から価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本GHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代戦争を生きた記憶は、勝者の正義空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしま記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為進歩感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。

終戦直後小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。

また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかししまったとき自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。

同じことが、戦争記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代記憶

太平洋戦争末期を思春期青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代戦争記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれ世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感からさくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間反省するとき被害者側や左派論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史被害者記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争記憶の複雑さを物語る。

しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶封印によって社会戦争忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会忘却ダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。

宮崎駿監督作品との対比

火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたか番組では紹介されなかった。

同じ終戦前後少年内面を描いた宮崎作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑アプローチレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去存在出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲルテーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我対話承認責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグ宮崎アニメに特徴的だ。

これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。

高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者とき西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様王子特性主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。

<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。

高畑宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我他者との対話承認によって確立されるという弁証法的な構造物語組み込み言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。

君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙視線表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ

これは、<記憶を語らない>ことで選択拒否し、結果として空気に流されてしま私たち精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いか主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。

高畑手法小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ現在価値観民主主義人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込み邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。

2025-07-27

明鏡訪談 劉仲敬(2017年6月5日)『顛覆大一統中國史觀』

https://anond.hatelabo.jp/20250727144129

1. 問題設定──「大一統史観」の枠組みを疑う

劉仲敬は理系思考(可否の証明反証)を重視し、問題解決できないなら“問いの立て方”自体が誤っている可能性を指摘。

近代中国史は「日本はできたが中国はできなかった」「帝国主義ソ連のせいだ」といった恨み節に終始。各論有効でも、全体像説明できない点で枠組み自体を見直す必要がある。

2. 民主憲政と「帝国」──そもそもの発生背景の違い

民族国家民主憲政は同期形成

英仏などの「地方国家」は、一度ローマ神聖ローマ帝国を脱してから成立した。

中華帝国大清中華人民共和国)は「多民族多文化大帝国」で、帝国体制下で民主憲政は成立しない。

帝国要件

日本明治維新で「東アジアイングランド」として帝国体制離脱

韓国近代大清帝国の外へ出て民族独立国家

台湾香港中華民国という限定的枠組みの下で事実上自治民主化を経験

3. 「諸夏/諸亞」モデル

諸夏(Zhuxia)

周代以降、文化的儒家文明を共有する諸侯国群を指す古典用語。「中華」「華夏」の原義に近い。

諸亞(Zhuya)=内亞(Inner Asia

草原地帯ウクライナ満洲モンゴル新疆中東)の遊牧文化圏。騎馬・商隊による技術情報交流が活発。

対立構造

春秋戦国期の分裂状況をモデルに、現代東アジアも「諸夏の群雄割拠+諸亞の衝突」で捉え直し、宋明以降の大一統体制が「競争」を奪い、技術市民社会発展を阻害したと論じる。

4. 民族主義の三モデル比較

東西の大多民族帝国大清神聖ローマ帝国オスマン帝国)を例に──

大帝国主義大清・大俄/大オスマン

文化的包摂主義華夏・泛斯拉夫/泛突厥

小民族主義(諸夏/小波蘭・トルコ共和国

成功例は「小民族主義」:帝国解体後に小さな民族国家民主化を先行して実現。

5. 台湾香港──「植民地文化民族主義政治民族主義」の連鎖

台湾

「華独」(中華民国枠のまま台湾のみ統治)と「台独」(台湾共和國)を使い分けるが、後者欧州民族発明典型

冷戦下のサンフランシスコ条約体系(1952年「臺北条約」)を“盾”に、事実上安全保障を獲得。法理的に「中華民国在台」を温存する方が有利。

香港

粤語という文化的共通性が古くからあり、文化民族主義は既成事実

返還交渉での「一国両制」失敗と梁振英政権裏切りから政治民族主義(港独)が急浮上。

「退出六四集会」など符号化された分断動員によって、反中本土派選挙勢力を拡大。

6. 公民民族主義 vs. 文化民族主義

公民民族主義市民社会成熟度が基盤)は論理的には最も合理的だが、選挙運動動員の「シンボル」としては文化言語的な分かりやすさに劣る。

香港台湾でも「粤語」や「中華民国枠」といったシンプル記号 πολιtics が大衆動員を左右。

7. 思想役割──歴史的必然の“追認”にすぎない

劉仲敬自身も「思想歴史を変えるのではなく、歴史の潮流が思想を求める」ことを強調。

東アジアの大一統体制から分権競争へ──「諸夏」モデル東アジア適用される時代が来る、という予見。

まとめ:

近代中国の「大一統・大中華」史観は、帝国民主民族国家歴史的段階論を見落としている。

民主憲政は「小さな競争する民族国家」でしか成立せず、東アジアの再民主化は「春秋戦国的分権と競争」の再現から始まる──この視座が本インタビューの核心です

https://liuzhongjing.medium.com/%E6%98%8E%E9%8F%A1%E8%A8%AA%E8%AB%87%E5%8A%89%E4%BB%B2%E6%95%AC-20170605-%E9%A1%9B%E8%A6%86%E5%A4%A7%E4%B8%80%E7%B5%B1%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A7%80-793c1956ff24

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