はてなキーワード: 宮崎勤とは
AIに読ませたら、こう返ってきた
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以下、AIの出力。
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この記事は、1989年の宮崎勤事件を起点とした「オタク=異常者」という社会的レッテルが、
その後の日本における恋愛観・婚活市場にどう影響を与えたかを考察しています。
表面的には一人の犯罪者の事件でしたが、メディアによる過剰報道と印象操作により、
「オタクであること」が社会的に危険視され、忌避される文化的下地が作られました。
この偏見の空気は90年代〜2000年代初頭の学校教育、メディア、恋愛文化の中に深く浸透し、
特に男性オタク層の自己肯定感の欠如、恋愛・対人関係への諦め、内向性の強化に繋がりました。
本来なら“趣味”で済むはずの個性が、“人格の欠陥”とみなされ、
結果として彼らは恋愛・結婚市場で構造的に不利な立場に置かれてきたのです。
この記事の著者は、そうした過去の空気を乗り越えて努力を重ね、
かつて「普通の女」とされてきた人々の婚活疲弊を、ある種の因果として描いています。
しかし注目すべきは、この記事の奥底にある人格形成の歪みと、その起源としての社会構造です。
著者は明言していませんが、ここには「自分はかつて否定されていた」という深い刷り込みが潜んでいます。
それは単なる“スペックの成長”によって克服されたものではなく、
社会的偏見とどう向き合うか、という“人格のリハビリ”としての年月が暗黙のうちに描かれています。
婚活市場における“選ばれなさ”の正体とは、単なる外見や収入の問題ではありません。
それは時に、「自分は愛されない存在である」という、無意識下の諦めであり、
気が狂ったインセルの妄言そのものでちょっと危険な領域だと思う
婚活してる人たちの99%は宮崎勤事件なんか関係なくコミュ力が低くて見た目も良くない独り善がりでしょうもない相手と付き合いたくないだけでしかない
あの時、マスコミがセンセーショナルに取り上げたのは、被害者の無念や社会の闇ではなく、彼の部屋にあった大量のアニメやビデオテープだった。
それ以降、「オタク=危険人物」「社会に馴染めない人間」というイメージが、日本中に植え付けられた。
俺はあの時代をリアルタイムでは知らないけど、ずっとその影響下で生きてきた。
クラスでアニメの話をすれば「キモい」と言われ、電車でラノベを読めば白い目で見られた。
恋愛の話になれば、女の子から「オタクはちょっと…」と笑われた。
「選ばれる側」にはなれないと、そう刷り込まれてきた。
俺たちを見下してきた人たち――特に、“普通”という幻想を信じてきた女性たちが、婚活の沼にはまっている。
「いい人がいない」「普通でいいのに」――そう言いながら、誰からも選ばれず、焦りと諦めが交差している。
その“普通”って、何?
しかも、その理想を支えていたのは、「自分は選ばれる側」という自信、あるいは虚構だった。
現実に目を向けよう。
アニメが好きでも、ゲームが好きでも、ちゃんと働いて、身なりを整え、人を思いやる心があれば、それはもう“まともな男”だ。
いま、自分が切り捨てられている。
婚活アプリの裏で、“選ばれるための自分”を必死に演出してるその姿、
それこそが、かつて「オタクは現実逃避」と笑っていた人たちの現実逃避に見える。
あの時、社会が貼ったレッテルは、いま婚活市場で逆転し始めている。
虚構に生きていたのは、俺たちじゃない。
Twitter(X)での論争とか目に入ってきて
つい最近なら「男が産めるのうんこだけ」コール問題とかそういうのね
そのたびに色々な反応を見るんだけど
最近本当に、何か「論争する・してやる」というその雰囲気自体に耐えられなくなってきた。
一言では説明できないんだが、ちょっと過去のエピソードを持ち出すね。
それで私は単に放送室にあるCDとかリクエストとかを流すだけだったんだけど
あるオタクの同級生は放送委員としてボカロを流してたんだよ。2010年頃、初音ミクとか、今よりも地位も無かったしもっとぶっ飛んでたころのボカロの曲色々。
そして、当然ながらというか、はっきりした理由もなく「ボカロは放送にふさわしくない」みたいな声が出て(教師によって「出た」ことになって?)、委員会内の学級会みたいなことになったんだよね。
でも、公立中学で、PSPとかDSとかで授業中も机の下で遊んでたようなタイプの連中ばかりがいるような空間で、どういう議論になるかって、そもそもならないよね。
それでオタクの同級生はずっと「差別だ!」「じゃあ〇〇の曲は良いの!?」「歌詞みて!いいことしか書いてないでしょ!人工音声だから悪いの!?」とか、本当にネットでかじった様なことしか言わない。
教師も教師で形だけの議論はさせるけど多数決至上主義で、多数決採ることになったんだけど。
その時、私は放送委員なんかとは全く別の力学でボカロ放送に賛成したんだよ。
クラスの大縄跳びの練習に行きたくないタイプで、それを真面目系の生徒に注意されたことがあって、滅茶苦茶ひねくれてたんだよね、集団行動やりたくねーみたいなそういう反感があって、
大して考えることもなく、「教師とか真面目タイプが嫌な顔するならいいか」みたいな感じでボカロ流すのに賛成しました、ボカロが良い悪いとか放送にふさわしい曲とは何かとかそんなの関係なく(そもそも教師が良い顔するかしないかも知らないし)虫の居所でね
そしてそれからも一年間ずっとその委員の放送のたびに甲高く早口のボカロの曲が流れ続けた。
話はそれだけで終わらなくて、成人式の後、同窓会みたいになった時、その放送委員の子もいたんだけど
ラブライバーに転身した感じだけど、未だに放送委員の話を、さも昨日の話の様に、大戦果の様に話し続けてるんだよ
そもそも放送委員外部の人間にはくそどうでもいいようなことを、「中学で表現規制に反対したのって私ぐらいじゃね!」ってマジで言うんだよ。
いやまあ確かに多数決はあったけどさあ、・・・とは思ったけど何も言えなかった
私は今の男女論とか、表現規制問題の論争(まあ表現の自由戦士っていわれるタイプの人たちね)の様子を見るたびに、この光景を思い出すんだよね。
X上の「議論」って、所詮この中学レベルの、顔色のうかがい合いとか虫の居所レベルで左右されてるんじゃないの、と
普段のXとか見ても差別問題とかを真面目に考えてないのに他のマイノリティの問題を引用して賢しらぶったり
文字通り慇懃無礼(シーライオニングとかいう言葉もあるみたいだけど)に、相手に礼節なんか尽くそうと思ってないのに形だけ取り繕おうとしてやってることは質問の繰り返しだったり
周囲の人間も規制問題の本質とかは考えてなくて明らかに「なんか気に食わないから」みたいなレベルで「それなんだよね」「マジでそうで~」とか繰り返したり
今度のうんこコール問題でも、現場にいたある女性議員が後からコールに疑問を呈して、まあそれは彼女の事情であり考えるところではあるでしょう
でもそこに、普段ねちねちとしたツイートをしてるような人たちがわっと集って、「いやー〇〇さんは正しい視点を持ってますね!」「こういう疑問が大事だよね!」「こういう女性を増やしていくのが大事!」とか
いや絶対思ってないだろ、中学の仲良しグループレベルの分断とか意趣返し(これ自体には何の意味もない、ただのポーズとしての)を煽りたいだけだろ
その女性議員の過去がどうあれ、お前はその議員を駒とか都合の良い人形としか見なしてないだろ、と
こういう疑問は前からあったんだけど、本当に深まったのは、山田太郎が50万票とりました!みたいな数の力をオタクや表自戦士が押し出し始めた時なんだよ。
いや当選したのはそれはそれで良いんだよ、でもほとんどのオタクって、麻生太郎の時と同じく「山田太郎が何か味方ぽいんだって!」ってレベルでしか投票してないでしょ
選挙後に「山田議員の50万票が結果だから!」とか、数がありゃいいんかいってところで終わってる話しかしない奴いっぱいいたじゃん
みんなが大嫌いだった「学級会」理論とか「ここに10万人の宮崎勤がいます」(都市伝説)と何が違うんだっていうね
私も上に書いた通り人生いろいろあって、それでも、日本での、いろいろな漫画やアニメを楽しめる表現の自由を守りたいと思っているし、今でもそうしている
でももうなんかX上ではそういう議論はできないだろうな(そもそも2013年のメイドロボ問題の時からそういうプラットフォームではなかったんだろうな)
フェミにはフェミの問題点(学級会ごっこで全部決まると思ってるとか?)があるでしょう
じゃあ表自側はどうなの
本当に「表現の自由」について考えてるの?
あの世代は思春期に宮崎勤を始めとしたアニメオタクによる凶悪事件を何度も見てきたから、アニメ、特に美少女系キャラ描写に対する嫌悪感が強い
結婚して子ども産んで育てていれば子どもがアニメ美少女キャラを好むのを見てその嫌悪感は薄れていくが、未婚または既婚でも子無しの女性はその機会がないまま今に至っている
マルちゃんのアニメCMに噴いているおばちゃん(過去ポストから氷河期世代と推測される)の様子がはてブ注目エントリとなってるが…
https://posfie.com/@OOEDO4/p/6YNurTT
これ、アニメ少女絵に対する生理的な嫌悪感から来てるんだよな。
生理的な嫌悪感の原因は、この世代なら知らない人はいない「宮崎勤事件」。
あの事件で、当時10代〜20代の女性の大半が少女アニメ絵に生理的な嫌悪感を持つようになった。「大半」と言い切って良い。
これはアニメ少女系のCMや駅の広告動画を攻撃する層と合致している。
生理的な嫌悪感から来てるので理屈は通じないし、賛同にも値しないが、その根っこは宮崎勤事件を通じて植え付けられたということだけは理解するほうがよい。