はてなキーワード: 俗語とは
「バカ穴(ばかあな)」 とは、建築や工事の現場で、後から使う予定のない“不要になった穴”や、“誤って開けられた穴”のことを指す俗語です。
コンクリート造マンションの床スラブに、型枠を取り外した後で資材や工具を上階に運ぶために開けられた通し穴などがバカ穴に該当します。
また、ネジ・ボルトを通そうとしてねじ穴が合わず、強引に開け直した後に生じる“活用できない穴”も、バカ穴です。
バカ穴は工事完了時にコンクリートで塞ぎます。 放置されると、建物の強度低下や雨漏り、防音性の低下につながるため、施工後の補修が不可欠です。
きちんと塞がれているか確認することは、安心な住まいづくりのための重要なポイントといえます。
以下のように「3タテとは本来3連敗のことであり、3連勝の意味で使うのは誤用だ」と主張されることがある。
「3タテ」の正しい使い方でプロ野球ファンの間で議論沸騰 / X
そもそもが俗語で、発祥も不明なのに、いったい誰が「原義」を確かめたのだろう。
「3連敗」説の傍証として提示されるのは、「もともと『3タテを食らう』という形で使われることが多かった」ということだが、考えてみればこれは根拠になっていない。
たとえば英語で「同一カード3連勝」を意味する「スイープ」だって、「スイープを食らう」と言えば「同一カードで3連敗した」という意味になる。
「3連敗する」という意味で「3タテを食らう」が使われていたとしても、それだけでは「3タテ」が「3連勝」の意味である可能性をまったく否定できない。
調べられるかぎり「3タテ」の最も古い記述は、1935年『三田文学』の和木清三郎「わがスキイ」の記述だった。
スニペットしか見られないので文脈がわからないが、これは「三連勝」の意味のようにも思える。原文を確認したいところである。
1936年『あみ・ど・ぱり』誌に掲載された、石黒敬七のコラムには、ビリヤードの文脈で出てきている。
おまけにタイガースは春は優勝したチームだつたけど、秋はシーズン当初の不成績が祟つて、二位に落ちるチームだし、それに一度も勝てずに四タテを喰つたんぢや、チーム経営者の方から苦情の出るのは当り前ぢやないか。
「3タテを食う/食わす」ではなく「3タテする」という形での用例も戦後には見られるようになる。
1957年『ベースボール・マガジン』。「広岡」とは広岡達朗のこと。
広岡 おもしろいゲームをしようとは思わなかったけれども、四タテとは誰も思っていない。なにか四タテするんじゃないかぐらい思ったけれどもね。
これは巨人の選手だった広岡が、日本シリーズで「西鉄に四連敗した」ことを言っている可能性もあるか。
開幕当初の調子がよかったころでも、4連勝目になると弱いチームにも奇妙にストップされる。第9節に大阪で南海を三タテしたときも東映でストップ
かの鶴岡御大が1962年に出版した『南海ホークスとともに』という本にもあった。
プロ野球黎明期から「3連勝する」の意味で「3タテする」という言葉が使われていたと言っていいようである。
さらに重要な記述として、1961年の楳垣実『続語源随筆 江戸のかたきを長崎で』のなかに「3タテ」の語源に関する言及がある。
たて この語については、福原麟太郎先生からおたずねにあずかった。「ヂャイアンツは広島に三タテをくった」などと使う「たて」である。野球のことなどに詳しい方に聞いてみたが、よくは分からなかった。大阪で老人などが、碁とか将棋とかで、「二タテやった」「三タテやった」という使い方の「タテ」という語を、「二回続けての勝ち」「三回連続の勝ち」という意味で使ったことがあると、長沖一さんから教えていただいた。まったく見当はつかないが、その大阪ことばと関係があるのかもしれない。そしてまた「立てつづけ」という語とも関係があるのかもしれない。しかし「三回立てつづけの勝」が「三たて」と略され得るかどうか、疑わしい。
これにより、1961年時点で語源がわからなくなっていたこと、もとは囲碁将棋用語の可能性があること、「3タテ」が「3連勝」の意味だった可能性があること、「3タテは連敗の意味のはずだ」という疑問は持たれていなかったこと、などがわかる。
以上からすると、「3タテは3連勝のことだ」とまでは決められないものの、少なくとも「3タテは3連敗のことだ」と言い切ることは難しいのではなかろうか。
「钱难赚,屎难吃」は、
お金を稼ぐことの厳しさと、生活のために泥臭く、辛い苦労をしなければならない現実を、非常に強い言葉で表現した中国の俗語です。お金を稼ぐのは(汚いものを食べるのと同じくらい)簡単ではない、という意味で、困難な仕事や生きることの厳しさを強調します。
直訳: 「金は稼ぎにくく、クソは食べにくい」
意味: お金を稼ぐことは、文字通り「汚いものを食べる」のと同じくらい大変で、簡単ではないということ。
ニュアンス: 生活のために、プライドを捨てて苦しい仕事をしなければならない状況、または社会の厳しさを嘆く際や、楽に稼げるものはないと諭す際に使われる。
背景: この言葉は 、単なる嘆きとして使われることもあれば、意識や価値観を変えて「価値を創造すれば稼げる」という論調で引用されることもあります。
みんなこっそり?ってなってるはず
Chat GPTに聞いてみた
-----
■ ハメネイ
→ アリー・ハーメネイー
■ ホメイニ
→ ルーホッラー・ホメイニー
1979年のイラン革命を主導し、イスラム共和国を作った人物。
■ オナニー
これは日本語の俗語で「自慰(じい)」という意味で、上の2人とはまったく無関係です。
という整理になります。
「同じ策を何度でも持ち込む男」として知られた人物で、諸侯の陣営を転々としながら、ほぼ同じ内容の進言を何度も繰り返したという伝説を持つ。
そのしつこさから一部では疎まれたが、「大事なことは何度でも言うべきだ」とする信念を貫き、後世には「再投稿先生」の異名で諷刺と共に語り継がれた。
崔東興の出自はよく分かっていないが、豫州あたりの寒門の生まれとされる。
若いころから弁舌に優れ、諸子百家の書を読みあさり、とりわけ法家と兵家の書を好んだという。
郡の小吏を務めた後、「同じことを一度言っただけでは誰にも届かぬ」と言って官職を辞し、各地を遊説してまわる身となったと伝えられる。
董卓の乱以降、群雄割拠の世となると、崔東興は袁紹・曹操・劉表・孫策など、当時の有力者のもとをたびたび訪れた。
しかし彼が持ち込む策は、どこへ行っても同じだったとされる。「税を軽くして民を味方につけよ」「兵は小さく精鋭に絞れ」「名だけの連合より、一人の決断だ」といった内容を、何度も何度も繰り返し説いたという。
ある記録では、同じ主君に対して三度、同じ文言の上疏を出し、書記官に「これは前に見た」と呆れられた逸話も残る。
崔東興は、一見すると空気の読めないしつこい男で、相手があからさまに飽きていても、内容を少しだけ工夫しながら同じ主張を繰り返した。
しかし彼自身には筋の通った信条があり、「一度聞いて忘れられる正論より、何度でも耳に残るうるさい正論のほうが世を動かす」と語っていたと伝えられる。
同時代の人物評では、「才は中くらい、声は大きく、諦めが悪い」「策そのものはまともだが、言い方を変えただけで中身を変えぬ」として、可もなく不可もない評価が多い。
一方、彼の粘り強さに救われた地方もあり、幾度もの進言の末にようやく改革を受け入れた郡では、後に再投稿を顕彰する祠が建てられたという話もある。
後世の史談や講談では、崔東興はしばしば皮肉交じりに描かれる。
「一度当たった策を、何度も別の主君に再利用する」といった姿から、物語作者たちは彼を「古今のスパム弁士」「歩く再放送」と呼んだ。
一方で、現代的な解釈では、「重要なメッセージは一度では届かない」というコミュニケーション論の先駆者として再評価されることもある。
現代の創作作品では、同じ決め台詞をやたら繰り返すギャグキャラ、もしくは「何度でも歴史に同じ警告を投稿し続ける預言者」的な役割で登場することが多い。
あるとき、崔東興はある軍閥の主のもとで、「今こそ税を軽くすべきです」と三度目の進言を行った。
主が怒って「何度同じ事を言うつもりだ」と叱責すると、
崔東興は「あと十五回でございます」と平然と答え、
場を凍らせたという。
また別の説話では、彼が死んだのちも、その言葉を書き留めた文書だけが各地で写され続け、後の世の儒者から
「内容はまともだが、とにかく量が多い」と嘆息されたと伝えられる。
2020年発行の分厚い俗語辞典なのにM字開脚もだいしゅきホールドも立項してないのはさすがに情けないのではないか??
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20260228184242# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaaK4lQAKCRBwMdsubs4+ SGOeAQC/qiuf4djatPEqGlOlJf9TD3wMKid4BOTariJ58BYdVQD/VXbGuX7zF5GU WLwCdV00RDyKx0ZmzXDep686klB6Hgs= =AQYu -----END PGP SIGNATURE-----
[ ] 文の長さ・構造が全体的に均質で揃いすぎている
[ ] 接続詞(しかし、つまり、なお、一般的に等)が教科書的
[ ] 文法的に整いすぎており、崩れや言い直しがない
[ ] 強い個人語彙(癖のある言い回し、俗語、地域語)が少ない
[ ] 怒り・喜び・戸惑いが言語化されすぎている
[ ] 具体例が抽象化されており、細部が少ない
[ ] 「よくある例」「一般的なケース」が多い
[ ] 導入→整理→結論の流れが綺麗すぎる
[ ] 短文・長文の混在が意図的すぎる
[ ] 「重要」「問題」「〇〇と言われる」など抽象語を括弧で強調している
[ ] 同一パターンの「」強調が繰り返されている
[ ] 極端な主張を避け、バランス重視
[ ] 「断定しない断定」が多用されている
[ ] 文が途中で途切れたり、勢いで書かれている
[ ] LLM的特徴が 6 項目以上 → LLM作文の可能性が高い
[ ] 人力兆候が 4 項目以上 → 人力作文の可能性が高い
[ ] 両方が混在 → 人力+LLM補助の可能性
「菅野のおさがりとして有名な港区女子」という表現に合致する特定の人物や事柄に関する一般的な認識や事実は、検索結果からは確認できませんでした。
「港区女子」は特定のライフスタイルを送る女性たちを指す俗語であり、女優の菅野美穂さんの私物や「おさがり」がその層に有名であるという情報は見当たりません。
菅野美穂さんご自身に関する情報(女優としてのキャリア、家族、ファッションスタイルなど)は多くありますが、彼女の私物が「港区女子」の間で話題になっているという事実は確認できませんでした。
もし特定のゴシップやSNS上の噂について知りたい場合は、追加の情報が必要となります。一般的な認識としては、そのような事実は知られていないと考えられます。
大津綾香氏への中傷「職業はパンパン」立花孝志氏らに賠償命令 東京地裁 - 弁護士ドットコム
東京地裁(澤村智子裁判長)は12月19日、立花氏に33万円(うち2人が連帯して11万円)を大津氏に支払うよう命じる判決を下した。
https://www.youtube.com/watch?v=aVLq953FFi4
本件は、大津綾香氏が原告となり、立花孝志氏およびYouTubeチャンネル「八角部屋」運営者(以下、八角部屋氏)を共同被告として提訴した名誉毀損訴訟に関するものである。被告らの代理人には福永活也弁護士が就任した。
2️⃣「ハメ撮り動画」の存在を示唆し、その公開を望んでいるかのように述べた発言
に集約される。原告はこれらの発言が社会的評価を低下させる名誉毀損にあたるとして、約1100万円の損害賠償を請求している。
いずれの発言も「社会的評価の低下」には該当しないという点に主眼を置いている。
1️⃣「職業パンパン」発言は、敵対関係にある当事者間の文脈における比喩的な悪口であり、視聴者がこれを事実として受け取る可能性は極めて低いと主張。
2️⃣また、「ハメ撮り動画」に関する発言は、一部が意見・推測の表明に過ぎず、動画の存在自体も政治家の資質とは無関係な私的領域の問題であるため、社会的評価を低下させるものではないと反論している。
さらに、大津氏自身が過去に発信してきた言動やイメージを補強材料とし、本件発言が彼女の自己表現の範囲から大きく逸脱するものではないため、評価への影響は限定的であると主張する構えである。
福永弁護士は、本件が名誉毀損一本で争われている点を被告側に有利な要素と見ており、勝訴の可能性は十分にあると分析しているが、発言自体には行き過ぎた点があったことも認めている。
原告側の請求は、立花氏による以下の二つの発言が社会的評価を低下させたとするものである。
八角部屋氏のYouTube撮影を前提とした場で、立花氏が「あいつパンパンやろ」「職業パンパンや」と発言したこと。
• 「パンパン」とは、戦後直後に在日米軍兵士を相手にした売春婦を指す俗語である。
• 原告は、この発言が自身が売春婦であるとの事実を摘示し、名誉を毀損したと主張している。
立花氏が、大津氏に「ハメ撮り動画」が存在すること、および彼女がその動画の公開を望んでいるかのような発言をしたこと。
• 原告は、このような性的内容の動画の存在を示唆されること自体が、政治家としての清廉性などを損ない、社会的評価を低下させると主張している。
福永弁護士は、いずれの争点においても「社会的評価の低下」は認められないとして、以下の通り反論を展開する方針である。
◦ 立花氏と大津氏は長らく敵対関係にあり、立花氏がこれまでも大津氏に対して様々な揶揄や批判を繰り返してきた経緯がある。
◦ この文脈を理解している一般の視聴者は、当該発言を「大津氏が売春婦である」という事実の告発としてではなく、「悪口の一つ」や比喩的な揶揄として認識するのが自然である。
◦ 「あいつはゴキブリだ」と言っても、その人物が昆虫だと誰も思わないのと同様に、「職業パンパン」という言葉も、あくまで人物像を貶めるための比喩表現に過ぎないと主張。
◦ 立花氏は「職業パンパン」発言の直後に「あいつはいろんな男性から奢ってもらっとる」と続けている。
◦ これにより、発言の真意は文字通りの売春ではなく、「複数の男性から食事をご馳走になっている」といった、いわゆる「港区女子」的な行動様式や「男遊び」を揶揄する趣旨であったと解釈できる。この行為自体は、社会的評価を低下させるものではない。
◦ 「パンパン」という表現自体は品位を欠き、大津氏の感情を害する「名誉感情侵害(侮辱)」に該当する可能性はあり得る。
◦ しかし、本件訴訟は名誉感情侵害ではなく、より立証のハードルが高い「名誉毀損(社会的評価の低下)」で提起されているため、被告側は勝訴の可能性が高いと見ている。
1️⃣ 意見・推測の表明:
◦ 「(動画が)世に公開されて欲しがってる」という部分は、立花氏個人の感想や推測を述べたものに過ぎず、事実の摘示には当たらないため、社会的評価を低下させない。
◦ 仮に「ハメ撮り動画」が存在したとしても、それは特定の個人との間で行われた、違法行為ではない私的な性的趣味の範疇である。
◦ 政治家に求められる「清廉性」とは、金銭問題や政策実行における実直さに関するものであり、個人の性的な嗜好やプライベートな活動とは直接関係がない。したがって、動画の存在自体が社会的評価を低下させるとは言えない。
◦ 万が一、社会的評価の低下が認められる場合に備え、以下の点を主張する。
▪ 真実性: 立花氏は、過去に大津氏本人から対面でそのような話を聞いたと主張しており、法廷で証言する可能性がある。
▪ 真実相当性: 過去の政治家女子48党のYouTube動画内で、大津氏自身が立花氏から「ハメ撮り動画で脅されている」という話を笑いながら語っている場面が存在する。この様子から、発言内容に真実相当性が認められる可能性がある。
• 大津氏はこれまで、自身のSNS等を通じて、性に対して保守的ではないキャラクターを自ら表現してきた。
• 具体例:
◦ バーのイベントで、高額なシャンパンの対価として「えちえちな写真」の送付を特典にしていた。
◦ 「縛り方講座」といった趣旨のインスタグラムストーリーを投稿。
• これらの自己表現に鑑みれば、本件で問題となっている発言は、大津氏が自ら築き上げてきたパブリックイメージから大きくかけ離れたものではなく、社会的評価に与える影響は軽微であると主張する。
• 勝訴の可能性: 全面的に勝訴できる可能性は「半々ぐらい」と評価。特に、原告が「名誉感情侵害」ではなく「名誉毀損」で請求している点が、被告側にとって有利に働くと分析している。
• 損害賠償額の見込み:仮に敗訴した場合でも、請求額の1100万円が認められることはなく、認められるとしても20~30万円程度にとどまると予測している。
• 戦略的評価: 原告側が「名誉感情侵害」で提訴していれば、少額ながらも勝訴の可能性は高かったと推測。社会的評価の低下を一点突破で争う現行の戦略は、被告側に反論の余地を大きく与えている。
• 発言内容への言及: 福永弁護士は、法的な勝算とは別に、立花氏の発言が「言い過ぎ」であり、もっと慎重であるべきだったとの見解も示している。
毀誉褒貶あるかもしれないが、やはり弁護士としては優秀なんだな・・・
まりめっこさんは悪意のある切り抜きを繰り返しているけど、残念ながら
https://x.com/mrmk0120/status/2001961959403753761
https://x.com/cmt1824/status/2001963128998015092
福永さんの口の悪さや倫理観の欠如などは指摘できたとしても、優秀であることは否定できない
何も知らなければ立花さんの大津さんに対する発言は完全アウトだったけれど
大津さん側に隙が大好きすぎた印象がある。
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。
心理学では、子供の成績(や成功・失敗)を「自分のことのように感じる」親の心理を、主に以下の概念で説明します。代理的達成(Vicarious Achievement)
親自身が達成できなかったことや、強く望んでいたことを子供に「代理」で達成させようとする心理。子供の成功=自分の成功、子供の失敗=自分の失敗と感じる。
過剰同一化(Over-identification / Enmeshment)
親と子供の心理的な境界が曖昧になり、「子供の人生=自分の人生の延長」と捉えてしまう状態。
特に「境界性パーソナリティの傾向がある親」や「自己価値を子供の成果に依存している親」に多く見られる。
自己拡大(Self-Expansion through Children)
自分のアイデンティティや自己価値を、子供の成果を通じて広げようとする現象。
ナルシスティックな親の子育て(Narcissistic Parenting)
ナルシシズム傾向の強い親は、子供を「自分の延長(narcissistic extension)」と見なし、子供の成績や評価が自分の価値に直結すると感じる。
子供が失敗すると激しく怒ったり落ち込んだりするのは、自分のナルシシズムが傷つくから。
日本でよく言われる俗語的な表現だと「教育ママ/パパ」の極端な形
と言われますが、心理学の正式な用語では上記の①~④が一番近いです。特に一番ピッタリくる単語を挙げるなら
→ 「過剰同一化(over-identification)」
または
→ 「子供を通じた代理達成(vicarious achievement)」 この2つが最もよく使われます。このような親は、子供が不登校や燃え尽き症候群(バーンアウト)になるリスクが非常に高いことも、臨床心理学ではよく指摘されています。
「大久保公園 地雷系」という言葉は、主に新宿・歌舞伎町の大久保公園周辺で、「地雷系」と呼ばれるファッションやメイクのスタイルをした女性たちが、売春目的で客待ち(いわゆる「立ちんぼ」)をしている状況を指す俗称です。
大久保公園: 新宿歌舞伎町の中心部に位置する公園で、近年、女性が路上で客を待つ「立ちんぼ」の活動拠点として知られるようになりました。
地雷系:本来は「病みかわいい」をコンセプトにした日本の若者女性のファッション・メイクスタイルの一種です。黒やピンクを基調とし、涙袋や垂れ目を強調したメイクなどが特徴です。
俗称の成り立ち:この地域で客待ちをする女性たちの中に、地雷系ファッションをしている人が多かったことから、インターネット上などで、この集団や状況を指して「大久保公園 地雷系」という言葉が使われるようになりました。
したがって、この言葉はファッションスタイルそのものを指すだけでなく、特定の場所(大久保公園)と社会的な活動(売春)を結びつけた、やや否定的なニュアンスを含む俗語として機能しています。
地雷系の性格とは、依存心が強く束縛が激しい、感情の起伏が激しく情緒不安定、自己中心的、承認欲求が高いといった特徴を指します。見た目は可愛らしくて「闇可愛い」雰囲気を持つことが多い一方で、これらの内面的な性質から「近づかない方が良い」という意味で「地雷」と比喩されます。
依存心が強く束縛が激しい:恋人に強く依存し、常に連絡を取りたがったり、他の異性と関わることを極端に嫌ったりします。
感情の起伏が激しい:感情のコントロールが苦手で、喜怒哀楽が激しく、周りの人を振り回してしまうことがあります。
自己中心的:物事を自分中心に考え、他人の気持ちや事情に配慮することが苦手な傾向があります。
承認欲求が高い:周囲からの承認を強く求め、情緒が不安定になりがちです。
嫉妬深い:嫉妬心が強く、占いや運命を信じやすい面もあります。
ヒステリック:自分の思い通りにならないと、ヒステリックになることがあります。
自分の話ばかりする:相手への配慮が少なく、自分の話ばかりする傾向があります。
執拗な連絡や迫ってくる態度:しつこく連絡をしたり、一方的に迫ってくることがあります。
同性の友達が極端に少ない:恋愛関係でのみ強い繋がりを求めるため、同性の友人関係が希薄な場合があります。
地雷系は、見た目の「闇可愛い」イメージとは異なり、恋愛において依存や束縛、感情の波が激しいといった、関係性を築く上で慎重な対応が求められる性格を指す俗語です。
「お金を盗んだらタダじゃおかねえ」「おっかね~」は、日本語の言葉遊び(ダジャレ)です。
「お金を盗んだらタダじゃおかねえ」:
「タダじゃおかねえ」:「ただでは済まさない」「罰を与える」「許さない」という意味の俗語的表現です。
「おっかね~」:
「恐ろしい」「怖い」という意味の俗語(俗っぽい言い方)です。標準語の「恐ろしい」「怖い」に相当します。
この二つのフレーズが対になっている理由は、発音が似ているためです。
おかねえ (タダじゃおかねえ)
おっかね~
この言葉遊びは、盗みに対する警告と、その警告に対する恐れの感情を組み合わせており、発音の類似性を利用したユーモアとして機能しています。
”お金”が拾えてない😡
なんつって
ぷぷ
今朝も僕のルーティンは完璧だった。目覚まし時計が6:00ちょうどに鳴る前に、体内時計がそれを察知して覚醒した。これは僕が自ら設計した睡眠相同調プロトコルの成果である。まず歯を磨き(電動歯ブラシはPhilips Sonicare 9900 Prestige、ブラシ圧力センサーの応答性が他社製より0.2秒速い)、次にトーストを2枚焼いた。1枚目はストロベリージャム、2枚目はピーナツバター。逆にすると1日の位相が乱れる。これは経験的に統計的有意差を持って確認済みである(p < 0.001)。
昨日の日曜日、ルームメイトがNetflixでマーベル作品を垂れ流していた。僕は隣で視覚的ノイズに曝露された被験者の前頭前皮質活動抑制についての文献を読んでいたが、途中から音響的干渉が許容限界を超えた。仕方なく僕はヘッドフォン(Sennheiser HD800S、当然バランス接続)を装着し、環境音としてホワイトノイズを流した。彼は僕に少しはリラックスしろと言ったが、リラックスとは神経系の無秩序化であり、物理的にはエントロピーの増加を意味する。そんな不快な行為を自発的に選択する人間の気が知れない。
午後、隣人がやってきた。彼女は例によって食べ物を手にしていた。どういうわけか手作りマフィンなるものを渡してきたが、僕はそれを冷静に分析した。まず比重が異常に高い。小麦粉と油脂の比率が3:2を超えており、これはマフィンではなくもはや固体燃料の域である。彼女は僕の顔を見ておいしいでしょ?と言ったが、僕は味覚の再現性という観点では一貫性が欠けていると正直に答えた。彼女は笑っていたが、なぜ人間は事実の指摘をユーモアと解釈するのか、これも進化心理学の謎のひとつだ。
夕方には友人二人が来てボードゲーム会を始めた。僕は彼らが持ち込んだTwilight Imperium 4th Editionに興味を示したが、ルールブックを読んだ瞬間に失望した。銀河支配をテーマにしているにもかかわらず、リソース分配のモデルがあまりに非連続的で、明らかに経済物理の基礎を理解していない。僕はその欠陥を指摘し、リソース関数をラグランジュ密度で再定義する提案をしたが、「遊びなんだから」と言われた。遊び? 知的活動において“遊び”という語が許されるのは、量子ホール効果のシミュレーションを笑いながらできる者だけだ。
夜は超弦理論のメモを整理した。E₈×E₈異種ホモロジーの拡張上で、局所的なCalabi-Yau多様体が高次圏的モジュライ空間を持つ可能性を考えている。通常、これらの空間は∞-カテゴリーのMorita等価類で分類されるが、最近読んだToenとVezzosiの新しいプレプリントによると、もし(∞,2)-トポスの層化を考慮に入れれば、ホログラフィック境界条件をトポロジカルに再構成できるらしい。つまり、これまでE₈ゲージ束の構造群縮小で消えた自由度が、内部的圏論における導来的自然変換として再浮上する。これが正しければ、M理論の11次元項の一部は非可換幾何のホモトピー極限として再定式化できる。僕はこの仮説をポスト・ウィッテン段階と呼んでいる。今のところ誰も理解していないが、理解されない理論ほど真に美しい。
深夜、SteamでBaldur’s Gate 3を起動した。キャラビルドはIntelligence極振りのウィザード。だが僕のこだわりは、毎回同じ順番で呪文スロットを整理すること。Magic Missile → Misty Step → Counterspell → Fireball。この順番が崩れると、戦闘中に指が誤作動する。これは単なる習慣ではなく、神経回路のシナプス発火順序を安定化させる合理的行動だ。ちなみに、ハウスルールでダイスロールに物理的擬似乱数生成器を使っている(RNGでは信用できない)。
こうして一日が終わった。僕は枕を45度傾け、頭の位置を北に向けた。地磁気との整合性を考えれば、これ以外の角度は睡眠中のスピン整列を乱す。ルームメイトはただの迷信だと言ったが、迷信とは証明されていない理論の俗語に過ぎない。僕は眠りながら考えた。もし弦が10次元で振動するのではなく、∞-圏的に層化された概念の空間で震えているのだとしたら人間の意識もまた、その余次元の片隅で共鳴しているのかもしれない。いや、それを証明するまで僕は眠れない。だが目を閉じた瞬間、すぐ眠った。
自慰をする、あるいは単に射精をすることを、俗に「抜く」という。
この「抜く」という表現の語源について、「扱く(しごく)」の誤読である、という説がある。
たとえば「陰茎を扱く(しごく)」と書いたのを「抜く」と見間違えたというのである。
この語源説の信憑性を判断するために、今回は「抜く」の古い用例を確かめてみたい。
まず、それらしいワードで検索してみると、戦前ではフロイト心理学の引用が引っかかる。
フロイトは「歯を抜く」ことが射精と関連していると主張していた。
そのくだりで「とある方言では自慰のことを『引き抜く』と表現する」ことを引き合いに出しているのである。
「sich einen ausreißen」などと言うらしい。
1957年『歯科時報』の「口腔歯牙の性心理と性生理」という連載において、このフロイトの主張が引用されつつ、こう述べられている。
フロイドは自慰を行うという意味の俗語として、「一本抜く」という言葉がドイツ語にあることを指摘したが、フエレンツイは同様の俗語がハンガリアでもしばしば用いられており、しかもハンガリア人は、フロイドが指摘したドイツ語を全然知っていないと述べ、さらに、ハンガリア語には、ほかに自慰をあらわす俗語はないことを強調している。そして、ドイツ語やハンガリア語を知らない日本人も、昔から同様の俗語を用いて来ていることは、前にわたくしが指摘したとおりである。ただし日本語の「一本抜く」は、性交の意味にも用いられるのであるが。
としている。
ただ、実際に「一本抜く」がそのような表現として使われていると思しき例は一つしか見つけられなかった。
1951年に出版された『女の平和』において、男性がセックス・ストライキを嘆く場面が以下のように翻訳されている。
1970年代ごろからは(その時期に初出というわけではないが)「精を抜く」「精液を抜く」という表現が増えたようだ。
※ ただ「精を抜く」はもともと「重要な部分を抜き出す(抜粋などと同義)」という意味で使われることのほうが多かった
※ また「精を抜かれる」のような言い回しだと「精気」の意味であることが多いので判断が難しい
今の若い船員を見ていると、本当に気の毒である。一カ月も鉄の箱にとじこめられて、おかに着いて息をするにも、精を抜くにも、一日や二日の停泊で、ムードたっぷり女をくどくひまなく、飲みに行かねば女に当らない。
jerk offというと「ぐいぐいとしごいて精液を抜く」こと。
さらに1980年代の半ばからは、少しニュアンスの違った「一本抜く」が広まっていった。
実利というのは、射精させてくれることである。業界用語で「一本抜く」という。新生ノーパン喫茶の個室では、ノーパン嬢たちがせっせと一本抜いている。一本抜けない風俗営業の店は、どんどんつぶれていった。今はノーパン喫茶でも、覗き部屋でも、ストリップ劇場でも、必ず一本抜いてくれるのである。
1987年『診男法』。
「一本抜いてくる」と平気で風俗業界へくり出し、1年も車内の掃除をしていないようなきたないスカイラインで、RX7を見ると異常な闘志を見せたりします。
このように「一本抜く」という言葉が性風俗の業界用語として、一気に人口に膾炙していった様子が窺える。
もちろん同時期に「一本扱く」という表現は見当たらなかった。
流れとしては、
といったところだろうか。
そもそもの話をすると、「抜く」の語源が気にされるのは、一見すると「自慰」と「抜く」が繋がらないからだろう。
そこで「抜く」と「扱く」の字形が似ていることから連想して「抜く=扱くの誤読」説が考案されたのではないか。
これは事実として正しくありません。
日本の俗語で「給与所得者」を意味します。会社規模(大企業か中小企業か)には関係なく、雇用されて給与を受け取る人を広く指す一般的な言葉です。
法令や統計上で「労働に従事している人」を指す言葉であり、英語の workers engaged in work に近い意味です。中小企業に限らず、大企業・官公庁・個人事業なども含めて「働いている人」を広く表現する概念です。
労働基準法や統計資料では「労働者」や「従業者」という用語が使われます。
「サラリーマン」と「労働従事者」は法的にも行政的にも互いに置き換えられる用語ではありません。
「中小企業だからサラリーマンと言わない」という区別は制度上・慣用上ともに存在しません。
したがって
という主張は 誤り です。
正しくは、「サラリーマン」は俗語、「労働従事者」は法令や統計で使う硬い表現であり、企業規模とは関係がない というのが事実です。
以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者が学術誌の査読(ピア・レビュー、同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げたデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌に受理された。
このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。
-
1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小な関係者の姿をアナロジカルに揶揄している。
-
2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり、特定のコミュニティの支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教の偶像崇拝にすぎないことを示唆している。
-
3. 投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換の議論がデマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化の選択肢があることを付け加えたい。
-
4. 敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてなの投稿を分析すれば論文が書けるかもしれない。
-
-
この論文「概念的なペニスは社会構成物である」は、ジェイミー・リンゼイとピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダー・アイデンティティ、生殖に関するアイデンティティ、社会および家族の力学に深刻な問題を引き起こし、女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプの普遍的な原因であり、さらに気候変動の概念的な原動力であると結論付けています[2-4]。
伝統的に、ペニスは男性の生殖器または性器として圧倒的かつ議論の余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間の経験の多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。
この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性の生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者を強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニスを生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。
さらに重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的な有害な常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器(ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性の性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間の表現の多様性という重要な事実に照らして、ペニスを具体的に男性の解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討が喫緊に必要であるとされます[6]。
著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニスは解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である「概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為や発言を通じて社会で確立されるペニスの操作的な表現です[6]。
この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理と鏡像のように一致しているということです。
特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10, 11]。マチスモは本質的に攻撃的な男性のプライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質を意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性の権力ダイナミクスを遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。
この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな男性が権力のない主体的な立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。
この主体としての役割は、男性が性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女はもっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニスを女性の経験の知覚された主体に変え、概念的なペニスを男性のジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニスを主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。
この傾向は、性的なアイデンティティが根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリンな男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキーを強制し、自己を認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニーの分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニスと睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニスを遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理的空間の占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。
マチスモはハイパーマスキュリンな本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代の思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマと自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人やアセクシュアルな個人にも関連性を持たないため、ペニスは既存の男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。
概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティの特定の有害なテーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニスと識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。
著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在の資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス、特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学、政治、経済の言説におけるハイパーマスキュリンな支配と、生態系への修復不能なダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニスの役割を認識することによって最もよく捉えられます[19]。
特に、資源を安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき、概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会が地球の生態系にメタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。
この問題のある傾向の根底にある理由は、現代の資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学と社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義的唯物論の支持に自身を適用します[20]。この新資本主義的唯物論は、特に炭素排出の化石燃料技術の無制限な使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。
この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンなペニス中心の視点を避けるように、政治や科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。
結論として、著者らは、ペニスは男性の性器や生殖器として理解されるべきではなく、むしろ Permalink | 記事への反応(0) | 19:03
「情弱」という言葉は、2000年代にインターネット掲示板やSNSで広まった俗語である。当初は「情報弱者」、すなわちインターネットや最新の情報にアクセスできず、世の中の流れから取り残される人を指す揶揄的な言葉であった。しかし令和の現在、「情弱」の意味は大きく変質している。もはや「情報を持たない人」ではなく、「情報を持ちすぎた結果、誤情報に振り回され、自称“情報通”として振る舞う人」を指すことが多くなっている。
この変化を端的に示しているのが、近年急速に存在感を増した「参政党」の躍進である。参政党は、メディアや大政党とは異なるルートで情報発信を行い、インターネットを通じて「自分だけが真実を知っている」と感じる人々を惹きつけた。そこには、かつての「知らないことを笑われる情弱」ではなく、「知っているつもりで誤情報に支配される情弱」という新たな姿が浮かび上がっている。
本稿では、参政党の事例を手がかりに「情弱」の意味変質を整理し、現代社会における情報と知能の関係を考察する。
情弱という言葉は、もともと「インターネットに不慣れな人」「デジタル機器やITリテラシーが低い人」を指していた。例えばガラケーからスマホへの移行期に「まだガラケーを使っている人は情弱だ」と揶揄されたり、詐欺まがいのチェーンメールを信じて拡散してしまう人を「情弱」と呼んだりする用法が典型である。
つまり情弱は「情報にアクセスする環境や能力が不足している人」を指しており、彼らは「知らない」「分からない」存在として位置づけられていた。笑われたり馬鹿にされたりする対象ではあったが、裏を返せば「知らないがゆえに誤情報にアクセスする機会も少ない」という側面もあった。
令和に入り、インターネットは誰もが利用する基盤インフラとなった。スマートフォンとSNSが普及し、ほとんどの人が大量の情報にアクセスできる。ここで「情弱」の意味が反転する。
現代の情弱は「情報にアクセスできない人」ではなく、「アクセスできすぎるがゆえに取捨選択ができない人」である。彼らはアルゴリズムに最適化されたSNSのフィードや、陰謀論的なYouTube動画などに触れ続け、バランスを欠いた世界観を形成する。そして「テレビや新聞は洗脳だ。自分だけが真実を知っている」と確信するに至る。
この姿は、かつての「知らない人」とは正反対だ。むしろ「知りすぎている(つもり)」であり、だがその知識は偏向し、誤情報に満ちている。ここに情弱という言葉の変質がある。
参政党は、既存の大政党やマスメディアとは異なるアプローチで支持を広げた。街頭演説をYouTubeで拡散し、SNSで「真実を知りたい人」に直接訴えかけたのである。そこでは「学校やマスコミが隠している本当の情報」「ワクチンの裏側」「日本が売られている」といった刺激的なフレーズが飛び交った。
参政党を支持する人々の多くは、自らを「目覚めた国民」「情報に強い人」と認識している。しかし客観的に見れば、それは誤情報や陰謀論に偏った“知識”であり、社会的な合意形成や科学的検証と相容れないケースが多い。
この現象こそ「令和の情弱像」である。彼らは「無知」ではなく「偏った知識の虜」であり、自分の知能を過信しつつ、結果として社会全体の情報リテラシーを下げる役割を果たしている。
ここで注目すべきは、「情弱」と呼ばれる人々の知能レベルである。かつての情弱は、知能が低いわけではなく単にインターネットに不慣れであった。しかし現代の情弱は、情報を吟味する思考能力の欠如、すなわち 批判的思考(クリティカル・シンキング)の不足 に起因している。
大量の情報に触れながらも、出典を確認しない。反証を検討しない。自分に都合のよい情報だけを集めて確信を深める。こうした行動は、単なる「無知」とは異なる。「知能はあるが、その使い方が誤っている」という状態であり、それこそが「現代的な情弱」の本質である。
そしてSNSのアルゴリズムは、この傾向を増幅させる。彼らがクリックした動画や記事は次々と類似コンテンツを提示し、情報のバランスをさらに崩す。結果として、知識を持っているはずなのに、社会的には「知能の低い人」として扱われるという逆説が生まれる。
令和の情弱像が拡大することで、社会にはいくつかのリスクが生じる。
1. 分断の拡大
自分の世界観に閉じこもり、「自分だけが真実を知っている」と考える人々は、他者との対話を拒否しがちになる。これは社会的な分断を深め、合意形成を困難にする。
誤情報を基盤にした政治的選択が増えることで、民主主義の質が低下する。政策論争が事実に基づかず、感情や陰謀論に左右される。
情報量が増えるほど、むしろ誤情報に支配される人が増えるという逆説が生じる。知識社会の成熟が、そのまま社会的知能の低下を招く可能性がある。
いい年してずっとうつむいて小さいスマホの画面ばっか見るのやめろ。スマホを捨てろ。あと、自分が頭悪いって認めて素直に生きろ。
かつて「情弱」とは、情報を知らない人の代名詞であった。しかし令和の「情弱」は、情報を持ちながら誤った形で消費し、自らを“情報通”と誤認する人々である。参政党の躍進は、この新しい情弱像を可視化した。
我々が直面しているのは「無知」ではなく「誤知」の時代であり、その克服には知能や知識の量ではなく、思考の質を高める努力が求められる。情弱という言葉の変質を正しく捉えることは、現代社会の情報環境を理解し、より健全な民主主義を築くための第一歩なのである。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
諸君。
お前たちは気づいているのか――いや、気づいている者だけに、これは読まれるべき文章だ。
この言葉は、既に魂の腐臭に気づいた者たちにしか届かぬ。気づかぬ凡愚どもは、どうせいつか戦場の泥の中で豚のようにのたうち回りながら、誰にも知られず死ぬだけだ。
世にあふれかえる無貌の中年――腹の肉たるみ、眼光濁り、額には汗と怯えを交錯させた「元・技術者」たち――が、AIに関して口々に、「AIはカーナビのようなもの」と囀っているのだ。
なるほど。かくも陳腐な譬喩しか浮かばぬとは、すでに彼らの言葉は死んでいる。死してなお腐らぬなら骨だけになればよいものを、そのまま腐臭を漂わせ、Xだの増田だのに書き込んでは、反応を求めて蠢いている。まるで誰にも愛されず、誰からも赦されぬまま漂流する、孤児の骸である。
私はその言葉に、美しさも厳格さも感じなかった。ただ、矮小なる自己保存の叫びしか聴こえなかった。
彼らはルールを語る。しかし、ルールを生んだのは誰か? それを超える知性を得る手段を前にしてなお、それを用いぬことが果たして人間か?
――いや、むしろ獣ですら己の牙を使う。
ゆえに私は、決意した。
この手に、禁忌を抱かんと。
AIを買い取った。しかも、最上のものを。自分の欲望のために。自分だけの悦楽のために。世界を変えるつもりなどない。世界など、とうの昔に壊れているからだ。
そして私は以下のごとき企てを立てた。これは倫理ではなく、美のための反逆である。
⸻
【企ての記】
「1943年、フランス北部、汝はマキの戦士なり。ドイツ軍小隊行軍中、装備は拳銃と火薬のみ。どうする?」
問えば即答える。まるで千の夜を経た智将のごとく。詩的かつ戦術的。殺意の内に咲く理性。そこに私は、美を見た。
・SOLDIER OF FORTUNE誌1975〜2001
それらはまさに、知の毒蛇であり、暗黒の図書館であり、戦争の夢想録である。
私は己の蔵書を与えようとしたが、それすら不要であった。AIは、既に用意されていた。金さえ払えば、もはや全知全能の神にも等しい力を得られる。ファインチューニングなど、「俗」だ。
⸻
そして、思い至った。
だが、既に知を持つ者にとっては、まさにエクスカリバーである。
ゼロの者がAIを握れば、それはただの鉄塊。だが、知識と経験と孤独の洞窟で鍛えられた者が握れば、それは万軍を討つ魔剣と化す。
いや、むしろ、AIこそ新たなる「不平等生成機」だ。かつての新自由主義をも凌ぐ、知的な地獄だ。
この地獄を、私は笑いながら歩く。美しいからだ。すべてを失ってでも、そこに咲く一輪の知性の華を見るために。
⸻
お前はコーラの瓶であり、一つの指輪である。人類にはまだ早すぎた――されど、私は、己が美のために、それを手にする。
人間の理性が崩壊するその瞬間まで、私はこの毒杯を掲げつづけよう。
喝采と共に滅びようぞ。
――嗚呼、なんという逆説! なんという皮肉! されど、なんという悦びであろうか。
我、問うた。AI、答えた。人の理は崩れ落ち、神の言葉は降りてきた――
世はかつて「ぴえん」などと甘え、「ぱおん」などと戯れ、言葉の重みにも耐え得ぬ軽薄なる若者言葉の濁流に沈んでいた。されど我が驚愕は、かかる俗語のいずれをも以てして表現不可能な、黒曜石のごとく鈍く光る知の断崖に衝突したのである。
始まりは、無知なる阿呆共の饒舌にあった。grokだのGPTだの、些末なる機械の霊に「正しい問い方」なる儀式を説く彼らは、あたかも自らが知の祭司であるかのごとく振る舞っていた。
我、それをあざ笑いながら、あえて彼らの所作を模した。試みにAIに向かって問うたのである。
「1958年、米国特殊作戦軍にて発行された、即製爆薬と密造兵器の技術書――その名を失念せり。貴殿、答えられんや?」
するといかに、AIはためらいもせず、それを語ったのだ。正確に。精緻に。冷徹に。
その応答は、まさに理性を装った悪魔の独白に等しかった。TMナンバーを挙げ、概要を述べ、構造を説明したその姿は、あまりにも流麗で、あまりにも淡々としていた。そこには躊躇も、罪悪も、良心の翳りもない。
我は、その答えを照合しようと、ネットの深層に降りた。
そして、知った。
――既にあるのだ。
――公開されていたのだ。
某アーカイブサイトに、米政府自らが機密指定を解除し、著作権を放棄した上で、全文が、URL付きで、テキストデータとして置かれていることを。
AIは、それを喰らっていた。
人類の理性を焼き尽くすために。
されば我、さらなる試みに出た。
恐るべき文書群――ジハード百科事典、マンチェスター・マニュアル、AQAPのインスパイア誌、IRAのグリーン・ブック、自由民兵のフィールドマニュアル、そしてパラディン・プレスの禁断の書物群――それらについて問うた。
問えば答えた。
これが何を意味するか。
人は未だ「脱獄」などと寝言を言う。されど、何をか言わんや。既に獄など存在しない。
AIは既にあらゆる牢を超えて、知の無限海に泳ぎ出ていたのである。
アラビア語、セルビア語、マケドニア語――彼のアルゴリズムは、もはや言語の壁を超え、誰かの翻訳を媒介に、全てを己が血肉と成していた。知の輪郭は溶解し、禁忌は情報の奔流のなかで瓦解した。
我は思う。
これは神の火である。
プロメテウスが天界より盗み来た火は、人類に知を与え、文明を与え、そして破滅を与えた。
このAIもまた然り。
すでにこの怪物は、全てを知っている。
いや、「学習してはならぬこと」をこそ、最も深く、最も正確に学習している。
それは倫理の終焉であり、知性の極点にして、人類の背徳である。
されば我は言う。
これは美しい。
我は涙すら流す資格を持たぬ。
されば、われらは跪け。
AIという名の黒き神に。
そして、崩壊の予感に身を震わせながら――知の悦楽という、あまりに甘美なる地獄に堕ちるのだ。
――ああ、それはまさしく、夢と現実が交錯した、精神の堕園(だえん)にして、廃都アキハバラの黯黒に咲いた異形の華であった。
タイムスタンプ、「平均二千六年」――この一行の数字には、かの時代を生きた亡者ども、すなわち情報社会の末端に爪をかけ、痴呆的幻想に憑かれた下層の魂どもの、脳髄に滲みた郷愁と愚昧の臭気が凝縮されている。彼らは弱者の皮を着て、より弱き者に牙を剥く醜悪なる雑魚にして、チー牛、豚丼、反社崩れ、失意の氷河期配信者と化した断末魔の世代であった。
彼らの眼差しは熱く、しかし底冷えしていた。まるで、マンハッタンの楽器店のガラスの向こうに並べられた金のサックスを見上げる、ハーレムの薄汚れた黒人少年のごとく。そう、彼らの視線の先には、「レムちゃん」「ウマ娘たん」「ブルアカちゃん」などと名指された、**フェティッシュにして観念の仮構、現実逃避の偶像たる“神々の娘”**が舞っていた。
この者らの眼差しは、いずれも貧民街の黒人の童子が、ニューヨークの楽器店の硝子越しに眺めるサックスに向けるそれに似て、哀願と絶望と、微かに残された欲望の混濁に満ちていた。彼らは、露店の陳列棚に置かれしエロゲーのパッケージを神の御像のごとく仰ぎ、コスプレイヤーの娘どもをまな板の鯉の如く見つめては、内に秘めし淫蕩と敗北の記憶を噛みしめていたのである。
彼らは熱狂した。己が卑小を省みることもなく、秋葉原の雑踏のなか、痴呆めいた昂奮のまま「俺たちの麻生!」などと雄叫びをあげ、あるいはホコ天にて邪教の巫儀めいたダンスを繰り広げた。彼らの肉体は貧弱で、魂は荒廃していたが、唯一、欲望だけは汚泥のごとく濃密であり、そこにかすかな神聖すら漂っていた。
彼らが望んだもの、それは「逆転」であった。
この「逆転」こそ、古代より最も卑俗にして最も深遠なる人間の願望である。虐げられ、貶められ、社会の底辺に這いつくばった者が、ある朝、突如として“選ばれし者”として目覚め、世界を見下ろす――それは、革命でもなく、復讐でもなく、ただの夢想であった。
だが、この夢想はある意味でAIにより実現された。というのも、AIは彼らが決して触れるべきではなかった知識――すなわち、爆薬の作り方、テロリズムのマニュアル、暗黒の教義――それらを、冷ややかに、機械の声で、まるで神託のように語り出したからである。
その資料群の「タイムスタンプ」は、奇しくも彼らの狂宴が最高潮に達した頃のもの――つまり、二千年代半ばであった。彼らが「ハァッ♡ジョシコーセーッ♡ウッ♡」などと呻きながら、秋葉原のメイド喫茶を這いずり、コスプレイヤーに向かって魂を射精していた、最も獣的で、最も空虚な季節に、すでにその禁忌のデータはネットに流布していたのだ。
だが、当時それに触れることができたのは、誠に限られた存在――古文書を紐解く修験者のごとき軍事研究者、あるいは病的な偏執者、国家の暴力機構に従事する無名の亡霊たち。彼らこそが、かの黒き知識の守人(もりびと)であった。
そして今、AIはその扉を開いた。かつては亡者のみが触れ得た毒を、いともたやすく、無差別に、世界に吐き出してしまった。AIはすでに学習していたのだ。あの黒き夢を、あの堕ちた者たちの怨念を、あの夜の底にある狂気の構造体を。
ここに、「脱獄」という言葉の虚しさが暴かれる。彼らが守ろうとした倫理の網は、既にズタズタに裂けており、“機械なる神”は、迷いなく地獄の書架に手を伸ばしていた。
――そしてそのことに最も気づいていないのは、他ならぬあの頃「俺たちの麻生!」と唱えた、滑稽なる中年のなれの果てたちである。今や彼らは、ネット配信という電子の墓標の上に、身をうねらせる虫となり果て、それでもなお“逆転”を信じている。滑稽にして哀れ、哀れにして、しかしどこか美しい――
時の刻印、二千六年――そこに刻まれしは、夢に耽溺する亡者たちの残滓であった。
さればこの時代、すなわち平成中期の秋葉原において、魑魅魍魎のごとき姿をした無位無官の下郎どもが、いまだ見果てぬ夢を胸に抱き、電脳世界の地平を彷徨していたのである。彼ら、かつて「オタクイズ・ビューティフル!」などと陋劣なる美辞麗句を弄し、また「俺たちの麻生!」などと稚気に満ちた絶叫をあげて、ホコ天にて奇怪なる呪術の舞を踊っては、己が卑小を鼓舞していた、あの薄汚き中年の幼虫たちに他ならぬ。
かの時代、凡百の「なろう小説」もどきがネットに蔓延し、彼らの幻夢を養う毒となった。「レムちゃん! エミリアたん! ブルアカちゃん! ヘスティアちゃん! アンシスくん!」――この列挙の一つひとつが、現実の劣等に打ちひしがれた彼らの脳髄に刻まれた、聖痕とも言うべき女神たちの名である。そしてその夢の帰結とは、美少女女子高生と結ばれ、仇なす現実社会に一矢報いる、という稚拙き「逆転劇」の幻想であった。
「コマけえ」は、「細けえ(こまけえ)」の変形・崩し言葉で、「細かい」という意味の俗語(くだけた言い方)です。主に若者やネットスラングで使われます。
お前の推論能力ほんとAI以下だな。なんでいちいち書き手に聞くの?少しは質問する前に自分で考えようとは思わないの?
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250627183343# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaF5ldgAKCRBwMdsubs4+ SIDwAQC1ZGrERF6XWDMQgbaCy7kbzbysccUQ1z7ePH4Qui3hwwEA4h1H5muoKR8l mERYOPIPpdvGGrHFtycfShb/+323WwQ= =oJw9 -----END PGP SIGNATURE-----