はてなキーワード: 父性とは
主演声優の花江夏樹は中学生の頃からニコニコ動画の配信者やってて
高校がつまらないからと強制参加の文化祭の日はトイレにこもってソシャゲ配信やってるような陰キャだったな
鼻声だからハナゴエと呼ばれてそれをHNにするようになって、「花江」も「ハナゴエ」が由来の芸名
両親の結婚の経緯は複雑で、若い母親が年食った父親の2号さんを長らくやっており、
父親の妻が亡くなったので再婚したが、普通の家庭と違うことに孤独感があったという
しばらくして両親が相次いで亡くなったが、タイミング的には高齢の父親が自然死して母親が後追いしたんだろうな
20歳ぐらい年上の腹違いの姉の家に世話になったり、祖母の家に預けられたり、波乱万丈だった
声優になりたくて山寺宏一に音源と身上語りをした文書を送りつけられたら気に入られてオーディションなしで事務所に起用の破格の待遇
今では花江は結婚して太ったが、デビューしたてのころは50kgもない細身の体で、
山寺の膝の上に乗せられて可愛がられていたという
家庭の事情が複雑で不足していた父性を山寺で補っていたんだろうな
花江の嫁は、このままだとAV堕ちしかもうルートがないという過激なIVに出まくっていた京本有加だ
その時期に花江は祖母を亡くしており、腹違いの兄や姉は実質他人なので天涯孤独になっていた
寂しがる花江と、AV堕ちを回避したい京本を引き合わせたのは安元洋貴だった
安元洋貴は男女の声優、またタレント、AV系、グラビア系などを集めては合コンさせて仲人するのが趣味として知られている
声優の結婚の背後に安元人脈が見え隠れすることがあり、推しに安元が近づくと結婚させられるぞと恐れられている
夢があるよな、文化祭サボってトイレに篭ってた陰キャが大物声優に寵愛され売れっ子声優になって料理上手のエロ美女と結婚して双子の女児に恵まれるとかさ
彼の最大の特徴は、なんといってもあの体躯だ。デビルリバースには流石に劣るものの、他者との対比から推測するに、その身長は優に5メートルは超えていると思われる。だが設定上では、僅か225cmしかないのだという。北斗の拳には「闘気を纏った者は身体が大きく見える」という裏設定のようなものがあるが、フドウの場合はどちらかというとラオウ様と対峙して闘気が戻った時の方が小さく見えた。210cmのラオウ様(これも小さいが)とそこまで大差のない大きさだったので、225cmも妥当な数字だったと言える。闘気の欠片もない穏やかモードの方が逆に巨大化しているのだ。これは一体どういうことなのか。
おそらくその秘密は、彼の持つ「父性」にあるのではないかと思われる。鬼としての生き方を捨てたフドウは、その贖罪のためか、多くの子供たちを養子に迎え、彼らの父親となって生きる道を選んだ。色々な意味でのビッグダディになったのだ。子供にとって父親はいつまでも大きな存在。そして父親も、子供達の指標となるために常に大きな存在であろうとする。己が養う子供達・・・いやこの世紀末に生きる全ての子供達の父親として、彼らを護りうる大きな存在でありたいと願うフドウの心が、彼の身体をより大きく見せているのではないだろうか。
こういう「読ませる」文章ってネットでとんと見なくなったよね。。。コラムというか随想というか。
一抹の寂しさはあるね。
「托卵」という言葉は、元来生物学的な用語として知られています。
その学術的な意味は、ある動物が自分の卵を他の動物の巣に預け、その動物に育てさせる行動を指します。この現象は主に鳥類で見られ、たとえばカッコウが代表的な例です。英語では brood parasitism と表現されます。
しかし近年、日本語では「托卵」という言葉が学術的な文脈を離れ、比喩的かつネガティブな意味で使用されるケースが増えているように感じます。たとえば、人間関係や家庭において、子どもの父親が実際の夫ではない状況を指す言葉として、「托卵」が使われることがあります。この場合、「托卵」はいわば下世話な比喩として用いられ、その学術的な意味や本来の文脈が忘れられてしまっているのです。
こうした使い方に私は違和感を覚えます。学術的な背景を持つ言葉が、軽率にネガティブな意味合いで使われることで、本来の意義が失われることを懸念します。たしかに、「托卵」は家庭や人間関係の問題を説明する際にインパクトのある表現かもしれません。しかし、こうした状況はそもそも生物学的な行動ではなく、倫理的・法律的な問題です。つまり、この場合の問題の本質は「父性の詐欺」、すなわち英語で言う paternity fraud に近いものです。
本来、こうした行為は社会的・道徳的な観点から「詐欺」として厳しく非難されるべきです。「托卵」という言葉を使うことで問題の本質がぼやけ、「仕方のないこと」「面白おかしい話」として扱われてしまう危険性があります。学術的な言葉を使って社会的な問題を語るのは便利かもしれませんが、それによって問題の深刻さや正当な批判が軽視されるべきではないと考えます。
結論として、私は「托卵」という言葉の比喩的な使われ方に慎重になるべきだと思います。その背景にある学術的な意味を忘れることなく、もしこのような家庭や人間関係の問題を語るなら、英語の **paternity fraud** に倣い、「詐欺」という適切な言葉を用いて表現するべきです。
https://anond.hatelabo.jp/20241111110154
惚気たい惚気たい惚気たいアーーーーqあwせdrftgyふじこlp!!生贄はいねえかああああーーー!!って喚いたら
書いてもいいカンジだったから惚気るぞ~~~!!コメントくださった方ありがとう~~~!
コメントでいただいてた【お互いが惚れた時のエピソード】なんだけど、
……どんだけ頑張って思い出そうとしても「お互いが」というのはないんだなあそれが!としか言えない。
というのも20年前に出会ったばかりのころ的はまったくその気配はみじんも……みたいな状態で、以降
私からあからさまな脈みたいなのを出したときは相手に彼女がいて、
私が別のことに夢中だったとき相手が結構サイン出してたりして(とはいえ「今思えば」程度の弱冷房みたいなやつ)…っていうかんじ。
とにかくすれ違いまくってたし、
あとほんと今からしてみればあり得ないんだけど、私が当時の彼のこと「いいな」と思ってた理由の八割は正直「顔とスタイル」だったから
お人柄が理由のエピソードはないんだなあ~!見た目だけで好きになれるって若かったなあ~!
男女交際に初めて発展したのは
彼に相手(数人目にして初の婚約級彼女)ができて→私から自発的に連絡をしなくなる(もともとあんましてなかったのがマジで0に)→彼からもなくなる→数年……を経て、
数年ぶり数回目の「お互いフリー期」に突入した中年になってからなんだけど
相手からの脈みたいなのがあからさまに始まったタイミングはあったんだけどスイッチが謎でこれまた語れない……
ただ「なんか前のめりだな」みたいな言動や行動がものすごく増えたから
「今まで彼は、私に対して“男”を本気で見せてなかったんだな」って凹みはした。
今までの脈なしが確定的になった気がしてさ。
そのくらい言葉は甘くなったし、物理的距離も近くなって、結果として「この人になら私の弱みを出してもいいんじゃ」って血迷いだしたあたりで
私がまた逃げ出しそうになったんだけどそこを受け止めてくれたり待っててくれたりしたのがこっち側の惚れた瞬間だったのかなあ~
とにかくね!あの包容力がね!いいんですよ!!
若いときには出せなかったであろうなという父性みたいなやつ!さい&こう。
私の家は家庭的な問題が若干あるんだけど母親がヒスで、それに対してじっと耐え忍んで「言いたいことが言えない男」ってなじられてる父の
実はひっそりいろんな援助をしてくれたり本気のピンチでは助けてくれたり独立も唯一味方になって応援してくれたりっていう
不器用なとこを見て「私は味方やで」とか思ってきたからファザコン気味なのかな。
それもあって「持っているプライドを大事にしてあげつつ、見守ってくれるし待ってくれる、求めれば真摯に意見もくれる」っていうあの姿勢が大好きなんだな!
主と妻の論点が異なってるし、どっちもそこそこ正当なことを言ってるから、主と妻がお互いどの領域でなにを言いたいのか冷静に整理しないと先に進めなさそう
妻の主張
①息子がチー牛かもしれん
②子育てのやり方を見直すべきでは?
主の主張
①(嫁に対して)チー牛とかいう差別的ネットスラングを(特に家族に)使う人間になるな。
②息子がチー牛の特徴に当てはまっていたとして、それのなにが悪い?
って感じで、議題が噛み合ってる箇所が②しかないし、
その②も簡単に論じれるような話題じゃないから、もっと慎重に論点を切り分けながら個別に意見のすり合わせをしていく必要があると思う
以下それぞれに対する俺の感想
まず主①の主張、これは賛同できる
チー牛とかいうかなり差別的なネットスラングをあろうことが子どもに対して向ける妻の精神性はかなり「それはやばくないか?」と思わざるを得ない
そして妻①の主張、「息子がチー牛かも?」これはまあ判断できる要素が書かれてないからなんとも言えないが、主が否定してる描写も無いしそこそこ当てはまっているのでは?と感じた
で、主妻それぞれの②の主張、まとめると
「チー牛っぽい特徴を持っているかもしれない息子に対して今後どうアプローチするべきか?」に対しては、
「息子がチー牛でなにが悪い?」という主の意見はわかる、わかりはするんだが、
一旦冷静になって、「悪い」のニュアンスを分けて考えるべきだと思う
チー牛っぽい特徴を持っていることは人格的に、もしくは社会的に、「悪」なのか?というと、これはもちろんそんなわけがない。そういう意味で、主の意見通り「息子がチー牛なのはなにも悪くない」。善悪の概念では、悪ではない。
が、チー牛っぽい特徴を持っていることが、今後何か不利益に働くか?と言われると、これは「だいぶ不利益に働く」と言わざるを得ない。良不良の意味では、不良。
そういう意味で、「なにか対策を打つべきなのでは?」という妻側の意見の方に賛同する。
そうだな、「学歴差別は不当」と「低学歴は苦労する」は両立するのに似てるな。
主は「生理的に無理」とか「キモい」とかそういう言葉を即物的だと言って一笑に付してるけど、
人間は理屈や正しさよりもかなり感情や第一印象や先入観で動きがちで、なんならたとえ理性的であろうと心がけている人でもなんだかんだ生理的感覚に引っ張られるものなので、
「生理的に無理」「キモい」と感じられてしまうような人間に対する世の中からの扱いはかなり悪くなってしまう
これが不当な差別だっていうのはわかる、わかるんだが、人種差別とかと違って、本能に根差したものとして指摘すればなくなるわけじゃないんだよ ある程度根拠のある差別と言ってもいい
学歴差別を無くしたからといって、学力方面での高学歴と低学歴の差がなくなるわけじゃないのと同じ
妻がいう通り、チー牛という言葉がそういう「感じ」を上手く言い表しているんだよね
昔は「ネクラ」とか「オタク」という言葉にその「感じ」が含まれてたけど、「オタク」がもっと価値中立な言葉に浄化されたから、代替としてチー牛という言葉が生まれただけ
チー牛という言葉を無くしても、その「感じ」がなくなるわけではない
妻はなんというか、チー牛というスラングがそこまで差別的な言葉だっていう認識が薄いんだろうね
だからもちろんチー牛という言葉を使うこと自体は咎めたほうがいい
ただその「感じ」があること、その「感じ」に世の中から差別的な目が常に向けられていることとは別に議論した方がいい
じゃあどうすりゃええねん、と言われると、
そうだな、そうだな……
ただなんとなくは、「父性」が鍵のような気がしている。
母親が過干渉で父親が無関心気味の家庭が「そう」なりがちというのは各所で言われがちで、
やっぱり教育家庭における「男らしさ」の不足が原因の一端なんじゃないかな?とは思う
男らしいとか女らしいとかそういうのはジェンダー平等に反してるだろ、と言いたいのはわかるが
なんだかんだ現代でも男は男らしい方が得するんだよな
男女平等を主張してる女たち自身が男らしい男を嗜好するし、男同士であってもそうだから、
男女平等、ジェンダーバイアスの解消というのはお題目としては立派であっても現実に即してはいないんだな
優しさとか誠実さとか生真面目さは世の中を渡っていくにあたってそこまで大きなプラスになる「見た目」ではないんだよな
これらを持つこと自体を否定してるわけじゃなくて、もちろん大事なものなんだけど、無害性のアピールにしかならないから、
必要な時に(時として他者のために)他者に対して強く出られる能力、責任を引き受けたりする能力、リーダーシップやイニシアチブを取る能力と見かけ上相反してるから、やっぱりなにかしらそういう芯の強さを育む機会が必要だと思う 無害性オンリーでは人間的評価だと下の上止まりになってしまう おそらく中の下にもいけない
運動部に入れろとかそういう感じに近いけど、部活を強要するわけにもいかないし、親にできることってどれぐらいなんだろうな……
まとめると、
•「チー牛」はその「感じ」を端的に表していることばではあるが、かなり差別的なので息子に向けるのはやめたほうがいいと伝える
•息子がチー牛的素質を持っていること自体は、すこしなんらかのアプローチを考えた方がいい
って意見かな。
主と妻の論点が異なってるし、どっちもそこそこ正当なことを言ってるから、主と妻がお互いどの領域でなにを言いたいのか冷静に整理しないと先に進めなさそう
妻の主張
①息子がチー牛かもしれん
②子育てのやり方を見直すべきでは?
主の主張
①(嫁に対して)チー牛とかいう差別的ネットスラングを(特に家族に)使う人間になるな。
②息子がチー牛の特徴に当てはまっていたとして、それのなにが悪い?
って感じで、議題が噛み合ってる箇所が②しかないし、
その②も簡単に論じれるような話題じゃないから、もっと慎重に論点を切り分けながら個別に意見のすり合わせをしていく必要があると思う
以下それぞれに対する俺の感想
まず主①の主張、これは賛同できる
チー牛とかいうかなり差別的なネットスラングをあろうことが子どもに対して向ける妻の精神性はかなり「それはやばくないか?」と思わざるを得ない
そして妻①の主張、「息子がチー牛かも?」これはまあ判断できる要素が書かれてないからなんとも言えないが、主が否定してる描写も無いしそこそこ当てはまっているのでは?と感じた
で、主妻それぞれの②の主張、まとめると
「チー牛っぽい特徴を持っているかもしれない息子に対して今後どうアプローチするべきか?」に対しては、
「息子がチー牛でなにが悪い?」という主の意見はわかる、わかりはするんだが、
一旦冷静になって、「悪い」のニュアンスを分けて考えるべきだと思う
チー牛っぽい特徴を持っていることは人格的に、もしくは社会的に、「悪」なのか?というと、これはもちろんそんなわけがない。そういう意味で、主の意見通り「息子がチー牛なのはなにも悪くない」。善悪の概念では、悪ではない。
が、チー牛っぽい特徴を持っていることが、今後何か不利益に働くか?と言われると、これは「だいぶ不利益に働く」と言わざるを得ない。良不良の意味では、不良。
そういう意味で、「なにか対策を打つべきなのでは?」という妻側の意見の方に賛同する。
そうだな、「学歴差別は不当」と「低学歴は苦労する」は両立するのに似てるな。
主は「生理的に無理」とか「キモい」とかそういう言葉を即物的だと言って一笑に付してるけど、
人間は理屈や正しさよりもかなり感情や第一印象や先入観で動きがちで、なんならたとえ理性的であろうと心がけている人でもなんだかんだ生理的感覚に引っ張られるものなので、
「生理的に無理」「キモい」と感じられてしまうような人間に対する世の中からの扱いはかなり悪くなってしまう
これが不当な差別だっていうのはわかる、わかるんだが、人種差別とかと違って、本能に根差したものとして指摘すればなくなるわけじゃないんだよ ある程度根拠のある差別と言ってもいい
学歴差別を無くしたからといって、学力方面での高学歴と低学歴の差がなくなるわけじゃないのと同じ
妻がいう通り、チー牛という言葉がそういう「感じ」を上手く言い表しているんだよね
昔は「ネクラ」とか「オタク」という言葉にその「感じ」が含まれてたけど、「オタク」がもっと価値中立な言葉に浄化されたから、代替としてチー牛という言葉が生まれただけ
チー牛という言葉を無くしても、その「感じ」がなくなるわけではない
妻はなんというか、チー牛というスラングがそこまで差別的な言葉だっていう認識が薄いんだろうね
だからもちろんチー牛という言葉を使うこと自体は咎めたほうがいい
ただその「感じ」があること、その「感じ」に世の中から差別的な目が常に向けられていることとは別に議論した方がいい
じゃあどうすりゃええねん、と言われると、
そうだな、そうだな……
ただなんとなくは、「父性」が鍵のような気がしている。
母親が過干渉で父親が無関心気味の家庭が「そう」なりがちというのは各所で言われがちで、
やっぱり教育家庭における「男らしさ」の不足が原因の一端なんじゃないかな?とは思う
男らしいとか女らしいとかそういうのはジェンダー平等に反してるだろ、と言いたいのはわかるが
なんだかんだ現代でも男は男らしい方が得するんだよな
男女平等を主張してる女たち自身が男らしい男を嗜好するし、男同士であってもそうだから、
男女平等、ジェンダーバイアスの解消というのはお題目としては立派であっても現実に即してはいないんだな
優しさとか誠実さとか生真面目さは世の中を渡っていくにあたってそこまで大きなプラスになる「見た目」ではないんだよな
これらを持つこと自体を否定してるわけじゃなくて、もちろん大事なものなんだけど、無害性のアピールにしかならないから、
必要な時に(時として他者のために)他者に対して強く出られる能力、責任を引き受けたりする能力、リーダーシップやイニシアチブを取る能力と見かけ上相反してるから、やっぱりなにかしらそういう芯の強さを育む機会が必要だと思う 無害性オンリーでは人間的評価だと下の上止まりになってしまう おそらく中の下にもいけない
運動部に入れろとかそういう感じに近いけど、部活を強要するわけにもいかないし、親にできることってどれぐらいなんだろうな……
まとめると、
•「チー牛」はその「感じ」を端的に表していることばではあるが、かなり差別的なので息子に向けるのはやめたほうがいいと伝える
•息子がチー牛的素質を持っていること自体は、すこしなんらかのアプローチを考えた方がいい
って意見かな。
少子化対策に一夫多妻制という話が出てきたので、いろいろ考えてみた。
一言で一夫多妻制といっても、子供をどうやって育てるかによってパターンが違うと思う。大まかに分類するとこの3つ
1. 人口が減り助け合いが必要な時代において妻妾同居制はある意味理想的だと思う。原始時代ってそんなだったのかもね。猿山みたいな感じで。しかし人間には独占欲とか嫉妬心とか我が子びいきとかそういうものがある以上むちゃくちゃ泥沼になるのは目に見えてる。そもそもの価値観自体を塗り替える必要があるし無理があるのでは。核戦争の後なら実現できそう。
2. は、まあ割とスタンダードなパターンだし、これが時間差で発生しているのが現状かとも思う。しかし、妾の立場になりたい人ってそんなにいないよね。「愛人に子供ができたから離婚してくれ」という決まり文句が成立する程度に養育には父親が必要というのが常識であり、お金はわけられるけど父親はわけられない。最初から自分のほうは父親不在であることがわかってて産む人はレアだと思う。
3. これ、子供をどの程度夫に関与させるかでもめるやつなので、結婚制度解体したほうが早そう。女系の血のつながりだけで家族が規定されるイメージ。男に生まれたら一律に自分の子供を持つことはできないという点である意味平等。女の子が生まれれば家は存続できるし、女の子が生まれなかったらどこかから養子にもらわない限りはその家は断絶する。 すべての子供に平等に父親不在が確定してたら、さほど惨めでもない気がする。養育費用は人頭税とってそれを母親と祖母に還元するだけだからシンプル。
やっぱり夫婦揃って子供を育てる=幸せって幻想があるから、それを解体しないと難しいだろうね。
個人的には親の権利と義務を両方減らすのがいいんじゃないかと思ってるんだよね
やばくなったらすぐ児相が子供を取り上げるかわりに、子供が変に育っても親は悪くないという風潮にする。
もし犯罪者になっても「子ガチャ外れたねー」みたいな感じで、タコ部屋みたいなとこに送ればノーカウント、親子の縁が切れるシステムにしてほしい。
婚姻制度をなくす=多妻多夫だよね。親子関係の規定が「誰から生まれたか」だけになるのはシンプルだし、ベーシックインカムと組み合わせたら養育費とかも不要になるからいいよね
そのかわりむちゃくちゃな税率になると思うし、女と縁がない男が荒れて犯罪率は上がりそう。多産多死っぽいデザインになれば少子化自体は改善されるけど。
彼は結婚すると子供を授かり、その娘を溺愛している。娘の方も友人のことが大好きで、父親にいつもべったりくっついているそうだ。
そんな日々を過ごしていると友人はハッとした。彼は自分のことをロリコンだと思っていたが、どうやらそれは違ったらしい。彼曰く「俺は小さい女の子が好きなのではなく、小さい女の子から頼られるのが好きだったのかもしれない。母性愛のような、いや、言うなれば父性愛のようなものがあったのだと思う」。それを聞かされて大いに感心し、もしかしたら自称ロリコンの人のなかにも本当はロリコンではなくこの友人のように父性愛のようなものを抱いている人も居るんじゃないか?そう思ってこれを投稿しました。
ただただ、あなたの自律性と自立性、すなわち尊厳を冒さないように、侵入しないように自らを自制する事だけだ
何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。
その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。
隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。
単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
ただそれだけです。
理不尽に産み落とされ、苦しみ喘いで生きていき、恐怖と後悔に苛まれながら果てていくような、
そんな地獄が、現世には顕現している
「もう無理なのに ですか?」
「後でできないと 知ったら余計に 傷付くんじゃ…」
「そうかも しれません」
「でも 亮介君の 生き方は 亮介君に 決めさせて あげたいんです」
友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じています。セラピストは理論上は、非指示的であり続けましたが、一般の西欧のセラピストと同様、孤独な状態もしくは真空の状態の治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。
友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実の人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」
友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます。
―中略―
母性的尽力的配慮は相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮は相手を支配したり、奴隷化するものでしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります。
「人」ができることは、本当に少ない、殆どない
神でも仏でもならざる我々の手や腕は、あまりにも短く細い
半径85cmの範囲ですら「すくえない」のが、我々という生き物の現実なのだ
だから、できる事は祈り、願い、目の前にいる相手を「人」として扱う事だけなのだ
「物」ではない、「人」として
それは非常に難しい
生きていることは素晴らしい、働くことは凄い、人に優しくできるのは偉い、頑張っている人は美しい
それに沿って生きる事が善いとされる
苦しんでいるなら無理をしなくてもいい、休んでも良い、人にはできないこともある、人にはそれぞれの価値観がある
「やさしい」言葉がある
これも、また「正しい」のだろう
けど、何もかもに納得できないまま生きていくこともある
何が正しく、何が善く、何が良いものなのか分からずに、それでも人生が続いてしまうことがある
「裸も」
今思えば、いつかこうなってしまうと、はじめから解っていたのだと思う。
でも、もし駄目になってしまうとしても、その前にゴールに駆け込むことさえ出来れば、何も問題が無いとたかをくくっていたんだ
ゴールはまだ見えない。あの頃想像していたより、僕たちは長生きしすぎてしまったんだろう。
一時停止ボタンなんかどこにもなくて、力一杯全部を出し切った、その瞬間に都合よく存在が消えてなくなったりもしない。疲れ切ってしまって、戦う気力なんか全然なくなって、勇気と書き棒とか自分を守ってくれるものが全部失われてしまって、映画だったら「終」とテロップが出るような場面が過ぎても、生活は続いてしまう。けして止まらない。
そこからが本当に人間が生きるということなのだろうと、最近はそう思ったりもする。
ドラマが終わって、興奮から冷めて、何も心を守ってくれなくなって、これからはもっと大変な毎日が続くだろう。でも、どんなに苦しくても、心が死んだようになって、痛みも喜びも何も感じることが出来なくなってしまって、何をしても無意味に感じられて、もうダメだと思っても、諦めないで、自分に耐えて、もう少しだけ頑張って欲しい。
小さなころに見ていた者は、まだ何も知らなかった時代のまぼろしなんかではなくて、いまでも見ることが出来るずっとそこにある変わらないものだった。辛くなるからって無理に忘れてしまわなくても良かったんだ。僕は気がつくのが遅すぎた。必要なものを、自分で隠していたんだ。でも、こんな僕でもまだすべてを失ったわけではなかった。
時間が過ぎて、僕の事は忘れてしまっても構わないけれど、僕が今ここに書いている言葉のいくつかをときどき思い出してくれるなら、それより嬉しいことはない。
追伸。今までありがとう。
出来る事ならば、誰も憎まないで生きてください。
正しくないことは悪いことだったのか?
それでも正しさを追い求めたり、苦しむことは悪いことだったのか?
諦めたり、やっぱりあきらめきれないことが悪いことだったのか?
善悪の果実を植えておきながらも、そこから取って食べてはならないとも定める、矛盾したことにすら正しさを与える存在であったという
どうか、本当の幸いを与えた給え
性欲って言うから分かりにくいだけで、恋愛感情がある場合は「友達/娘として見ている」っていうのは絶対ついてはいけない嘘なんだよ。
だからといってリアルの人間関係でいきなり付き合ったら〜とか結婚したら〜とかは尚早すぎるし(逆に怪人とクリスティーヌぐらいの関係ならそれは匂わせておくべきだけど)、相手の体のパーツに言及したりセックスを匂わせるのはペニス出過ぎてる。
いかに「好きです」とは言わないで「好きです」を伝えるかのゲームなんよ。「その服似合ってるね、可愛い」とか「君が話してた〇〇、興味が出たから教えて」とか、「夜道を歩くのは心配だ」とか。
だからこそ恋愛ですよという宣言のために、父と娘のような関係になることは全力で否定しなければならないのだ。自分から言うなんてもってのほか。
でもチンチン入れるとかそんなことは全然なくてせいぜいおっぱいの端っこが当たったことあるだけで
相談乗ってたら好きだよとか言われて嬉しい俺もだ大好きとかのやりとりあって
でもチンチン挿れるとかそんなことは全然なくて
そのこの同僚から○○のことどう思ってるん? あのこは結構本気っぽいよ? とかの雰囲気出されて
まあ直接的な言い方じゃないから、こっちの認知がおかしくなってんだろうなと適切に判断して(あと一時の気の迷い。父性を求めてるとか)
俺が正面から向き合えばあのこは幸せになるのか? なるわけないやんと正しいジャッジを下して
みたいな日々で狂わないから、凄く自分は色々狂わない自信あるし、狂うとしたらとっくに狂ってるし、昨日まで狂ってなかったのに唐突に狂いだすほうの自信もなくはない
フリーレンを選んだ貴方は→ ロリコンです。実年齢よりも体型を重視する体目当てのロリコンです。
フェルンを選んだ貴方は→ ロリコンです。JKからは一般性癖と思っているのでしょうが、世間一般的にはロリコンです。
アウラを選んだ貴方は → ロリコンです。小柄な女性に一方的に支配されることを願う、飼われ願望ロリコンです。
リーニエを選んだ貴方は → ロリコンです。一見すると影が薄い美少女を選ぶのは、マイナー趣味自慢型ロリコンです。
フランメを選んだ貴方は → ロリコンです。老いていく人間の姿に哀愁を感じてしまうのは、子供の成長を素直に喜べないロリコンです。
シュタルクを選んだ貴方は→ ロリコンです。若者の恋愛に強く惹かれ竿役の側に感情移入してしまう、夢見がちなロリコンです。
ヒンメルを選んだ貴方は → ロリコンです。相手を尊重する強い意思を持ちながらもストーカー気質な、ノータッチ見守り系ロリコンです。
ハイターを選んだ貴方は → ロリコンです。幼少のフェルンに思わず父性を発揮した姿に共感する、同好の士なれ合い型ロリコンです。