はてなキーワード: ショッキングとは
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ロシア・ウクライナ戦争の戦場より、ロシア人をターゲットにしたドローンでの爆撃。胴体から真っ二つになるも、すぐに逝けず苦痛が続くショッキングな映像。
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ロシア・ウクライナ戦争の戦場より、ドローン爆撃により負傷した2名のロシア兵の最期を捉えた映像が話題に。ロシア兵は負傷した仲間をライフルで射殺し、その後自らも命を絶った。
正直、こんな死に方をするなら日本が滅んだほうがマシだと思う。
自分の命より国家の存続の存続のほうが大切なんてとても思えない。
これは他の人にとっても当てはまると思う。
自衛隊の人も戦わなくていい。
国を存続させるためにこんな死に方をする人を生んでいいはずがない。
先日妊娠した。
生理が来なくて、パートナーと話して検査薬をしたら陽性だった。
意気込んでクリニックに行ったら正常着床しており妊娠6週ですよと言われた。
嬉しかった。
こんな奇跡的なことがあるのか。
ただ早すぎたのか心拍が見られないので、2週間後に再受診だそうだ。
なるほど、分かったぜ。
仕事も調整しなければならぬし、妊娠出産の知識も蓄えならばならぬ。
やる事は山積みだった。
大変だったけど、自分が親なるのだと思うと全て苦ではなかった。
調べるとこの時期つわりが来るらしい。
一切なかった。
ただとにかく食欲は湧いた、モリモリ食べ続けた。
2週間後病院に行った。
着床した卵子が育ってないと言われた。
要約すると卵が死んでるそうだ。
モリモリ食べていたのだが実は中身が空っぽだったらしい。
虚無かよ。
あぁ本当に流れるんだな。
塊が出るだろう、
トイレに行った際に出たらそのまま流して良いと言われた。
自分の子供を流産してそのまま下水に流す、とはかなりショッキングな体験だ。
恐らく着床した胎嚢が剥がれてそのまま出てきたのだろう。
命になれなかった私の卵だ。
運良くナプキンで受け止められたが、先生は破棄して良いと言った。
ナマモノかよ。
疲れすぎて脳死していた。
その後私は2週間ナマモノを家に置いたが、
赤ん坊ってこんな風に手放さないといけない事もあるのか、知らなかったよ。
なんだよ燃えるゴミって、命じゃないのかよ。
私は何も出来なかった。
結論から書くと不妊治療は終わった。結果として2人の子供を授かることができた。妻は妊活前から子供を3人欲しがっていたが、今日、3人目を目指して最後に残っていた受精卵が着床せず、3人目の可能性はなくなり、うちの不妊治療はすべて終わった。
妻は40代半ば、自分は30代後半の5歳差夫婦だ。これは自分の記録の掃き溜めでもありつつ、どこかの誰かの参考になるかもしれないと思って深夜に書いているだけのものだ。読み物としてのログだが、結果的に多少の資料的な価値はあるかもしれない。
やり切ったという達成感は特にない。ただ終わったという感覚に近い。妻は3人欲しいという意思をはっきり持っていたし、その気持ちも理解している。ただ現実として負担が大きいので、途中で何度も本当にやるのかという意思確認はしていた。金銭的な負担だけでなく、身体的な負担や、今いる子供たちを含めた生活のキャパの問題もある。それでも最終的には受精卵を全部試すという方針で進めた。
妊活初期は、まず自然妊娠を前提にした一般的な方法で試していた。タイミングを見て性交するという形で、特別な医療介入はまだ入っていない。この状態が約1年続いたが結果は出なかった。この期間を通しても妊娠には至らず、徐々にまだ時間が必要という感覚というよりも、そもそも自然妊娠の成立確率自体が低いのではないかという認識が現実側に寄っていった。
その後、妻が不妊外来を受診する判断をした。この判断について自分は特に止める立場ではなく、進めるなら進めるというスタンスで、治療へ移行すること自体はそのまま受け入れている。受診後に各種検査や問診が行われ、その経過と結果を踏めて、医師からは体質的に自然妊娠の確率は高くない、もしくはかなり厳しいという評価が提示された。
この評価を受けて、妊活は自然経過を待つ段階から、医療的なステップを前提とした進行へ切り替わった。排卵誘発などの軽い介入から始まり、段階的に治療が進む流れになった。その過程で、医師から受精卵を事前に複数確保しておくという方針についても説明があった。年齢的な要素を踏まえると、若いうちに採卵して受精卵を可能な限り確保し、それを時間をかけて順番に移植していく方法が合理的だと判断し、この方針を採用した。
妻が30代後半のうちにこれが最後のチャンスだろうということで受精卵をまとめて作った。若いうちに数を確保した方が確率が上がるという考えは自分から提案したが、医師の見解や妻の意思も踏めて相談の上で進めた。最終的に実行するかどうかを決めたのは妻で、実際に身体的な負担を引き受けたのも妻側になる。
目標として10個程度の受精卵を確保するという計画を立て、採卵を進めた。実際には採卵の効率は一定ではなく、想定よりも難易度の高いプロセスになった。結果として、この採卵フェーズが身体的にも精神的にも最も負荷が大きい期間となり、時間や労力ともに最も密度の高い工程だった。
確保した受精卵の移植を始めて、最初の方で1人目が生まれた。全部で10個弱あった受精卵を、時間をかけて一つずつ戻していった。当然ながら治療は妻だけのものではなく、毎回同意書を書いて精子の提供もしているので自分も当事者ではある。ただ身体的な負担の大半は妻側にある。
子供が生まれると周囲の反応はかなり変わる。もともとかなり悲観的なことを言っていた親も、子供の顔を見せた途端に態度が柔らかくなって普通に笑うようになった。頼んでもいないのに金銭的な援助や贈り物も増えた。妻も不妊治療中はかなり情緒が不安定だったが、出産後は単に不満を言う程度の状態に落ち着いた。波はあるが、いわゆるメンタル的な不安定さはかなり軽減された印象がある。
周囲の扱いも変わる。子供がいるという事実だけで前提として理解されるようになる。妻は不妊治療の段階で職場に説明して配慮を受けていたが、自分は特に説明していなかったので、子供が生まれてからは一般的な子持ちとして扱われるようになった。育休も積極的に取るように勧められた。職場環境による差はあると思うが、少なくとも自分の周囲では取得はかなり前向きに受け入れられている。妻は育休を制度上の上限まで取得した。
途中で後期流産もあった。半年以上妊娠が続いた状態での流産で、手術で取り出して、小箱に入れて、そのまま葬儀と火葬までやった。死亡届も必要になる。妻はその後しばらく精神的にかなり不安定な状態が続いて、落ち着くまで時間がかかっていた。自分は正直そこまで感情が動いたわけではなく、状況として受け止めていた。その温度差はあったと思う。
初期の流産も経験している。こちらは家で大量の出血とともに排出される形で、血の塊のようなものが出てくる。見た目としてはかなりショッキングだったし、その後の回復に数ヶ月かかった。流産といっても一種類ではない。
前提として、年齢によって妊娠の難易度やリスクは変わる。一般的に言われているのは、加齢によって卵子の質が低下することで、妊娠しにくくなるだけでなく、染色体異常の確率も上がるという点だ。ダウン症などはその代表例として挙げられることが多い。このあたりのリスクをどこまで許容するかも含めて、不妊治療や出生前検査の判断に影響してくる。
NIPTも受けた。母体の血液を採って、その中に含まれる胎児由来のDNAから染色体異常の可能性を調べる検査だ。比較的安全に受けられるが、あくまでスクリーニングで確定診断ではない。この検査の段階で、夫婦間でかなり強い意思の非対称があった。妻はどんな結果であっても産むという前提で、検査そのものの必要性も低いという考え方だった。一方で自分は、結果によっては堕胎せざるを得ないという考えだったため、検査は意思決定の前提として必須だった。
自分がそう考えた理由は、ダウン症などによる早期死亡の可能性や、育児の難易度が跳ね上がることによる家庭崩壊のリスクを無視できなかったからだ。子供の生存確率や、残された家族の生活が破綻するリスクを計算に入れた時、自分にとって検査なしで進むことは選択肢になかった。
そのため検査は自然な合意ではなく、自分が強く必要性を主張し、お願いして折れてもらって実施したものになる。陽性判定が出た際のその先の選択について合意がないまま情報だけが増えていく状態だったことが一番のリスクだった。
この構造は単なる医療判断ではなく、結果次第でどちらかの価値観を強く否定する可能性を含んだまま進んでいた状態だった。振り返ると、検査そのものよりも検査後に合意が存在しない状態が続いていたことが構造的に危うかったと思う。
結果としては、検査を通しても夫婦関係が破綻することはなく、また子供はいずれも染色体異常なく出生した。ただこのプロセスは、運良く無事に収束しただけで、意思決定構造としてはかなりギリギリのラインを通っていた感覚がある。
不妊治療はこうした個別の判断だけでなく、全体を通してコストが重くのしかかる。NIPTだけでも20万円前後、採卵や体外受精、移植それぞれでも数十万円単位の費用が発生する。非認可で安いものもあるが、方式や精度がバラバラで、医療側からはかなり批判の対象になっている印象だった。
それ以外にも細かい費用が多くて、全部は把握しきれていない。補助金を受けるための書類を書いてもらうだけで3000円くらいかかることもあって、そういうものが積み重なっていく。正確に記録しているわけではないが、補助金や保険適用を含めた上で、純粋な手出しの総額としては300万円前後、もしくはそれより多少上振れている可能性もある。
不妊治療については、治療内容や年齢などの条件によって国や自治体の補助を受けられる場合がある。適用されると体感で3分の1から半分程度まで費用が下がるケースもあった。ただ制度変更の過渡期だったこともあり、条件や対象が頻繁に変わっていて都度調べるのがかなり面倒だった。一番費用がかかっていた時期は確定申告で医療費控除も使っていた。受精卵の凍結保存にも費用がかかる。採卵のロットごとに保管費用が発生し、年間で5万円前後だった。
不妊治療は想像していたよりずっと時間がかかる。生理周期に合わせてしか進められないので、採卵も移植も1ヶ月単位でしか試せない。採卵だけでも半年から1年近くかかったと思う。1回で取れる数はまちまちで、取れる時もあれば全く取れない時もある。それを繰り返して受精卵を集めた。全体としては数年単位の話になる。
受精卵の数がそのまま試行回数にはなるが、試行の頻度や速度には強い制約がある。妊娠、出産、流産いずれの場合も回復期間が必要になるので連続して試せるわけではない。結果として全てを試し切るまでに想定以上の年月がかかる。通院も多く、週1ペースで電車で専門クリニックに通っていた時期が長かった。金額以上に時間コストも大きく、生活が長期間固定される。
妊娠や出産自体も普通にリスクがある。うちは2人とも帝王切開だった。妻の体質的な理由もあって自然分娩よりそちらの方が母体と子供のリスクが低いと判断されたためで、結果としてその選択になった。帝王切開は医療としてはかなり確立されていて安全性も高いと説明されている。ただし当然ながら身体への負担は大きい。術後の傷も見ているし、テープでのケアを続けながら半年近く痛みが残る状態だった。
こういう回復期間も含めて、不妊治療は思った以上に時間がかかる。実際に想定より時間はかかっていて、気がつくと当初考えていたよりも年齢が上がった状態での出産になっていた。始めるなら早い方が選択肢が多いというのはこういう意味でもある。
個々の処置については安全性の説明があるが、回数が増えれば当然母体への負担は累積する。そのため後半になるほど、同意書にサインするたびにリスクの確認と本当に続けるのかという意思確認は何度も行った。身体的負担を負わない側としてブレーキをかける役割は自分しかいないが、最終的には後悔しない選択として妻の意思を優先する形になる。自分には身体的な負担はない。当たり前だが主役は女性側で、自分は直接的にしんどいことは何もない。
ただ見ていて大変そうではあったので、その範囲でできることはやっていた。葉酸を買って飲んでもらったり、食事で気をつけるべきことを調べたりする程度ではある。できることはその程度で、あとは妻が話したがっている時に話を聞くことくらいだ。他には何もできない。負担の大きさ自体はどうしても非対称になる。
自分のスタンスは最初から変わっていなくて、できたら運が良いし、できなくても仕方ないというものだった。やるかどうかは基本的に妻の意思で決めることだと思っている。このスタンスはプレッシャーをかけない意図だったが、温度差として受け取られることもあって衝突はあった。こういう場面で論理はあまり役に立たない。
不妊は女性だけの問題ではなく、男性側の要因もある。自分も運動率や数の指摘は受けた。検査をしないとわからないことが多いので、子供を考えるなら早めに検査を受けた方がいいと思う。卵子の年齢はかなり影響が大きい。
不妊治療を終えて思うのは、お金は補助金などの制度もあって致命的に困るほどではないということだ。それよりも、時間と体力は明確に有限であり、そちらの損耗の方が遥かに大変だった。生理周期に縛られ、通院に拘束され、身体的なダメージからの回復を待つ。失われた時間は二度と戻らないし、削られた体力もすぐには回復しない。この有限なリソースをどう配分するかという視点こそが、治療を続ける上では最も重要だったと感じる。
こういう話を一通り経験して思ったのは、そもそも知識として知られていないことが多すぎるということだった。体外受精や顕微授精といった選択肢、受精卵の凍結保存、着床前や妊娠中の検査、補助の条件。知らないと普通に取りこぼす。職場環境によって難易度もかなり変わる。男女や夫婦間での考え方の違いも大きい。どこまでやるか、どこでやめるか、どこまでリスクを取るかは事前に想像していないと普通にぶつかる。
こういう情報は当事者になる前に一度体系的に知っておいた方がいいと思う。選択が変わるわけではないかもしれないが、早く動けて結果が変わったかもしれない。結果が同じでも妻の身体的、精神的な負担は軽減できたかもしれない。これは義務教育で教えるべき話だと思う。
受精卵をすべて使い切って終わった。やれることはやったというより、やれる範囲のことをやって結果が出ただけという感じに近い。運の要素も大きいし、コントロールできる部分はそこまで多くない。
ここまで書いたのは、自分の整理でもあるし、これから考える人が何か判断する時の材料になるかもしれないと思ったからだ。別に正解を押し付ける気はない。
俺は別にモテるわけでもモテないわけでもない普通の30代だが、進化心理学(evolutionary psychology)のオタクだ。ピンカー、トリヴァース、ダンバー、バス、このあたりの本は原著で読んでる。日本語で読める本もだいたい読んだ。
で、最近またTLに「若者の恋愛離れが深刻」「日本の恋愛は終わった」みたいな記事が流れてきて、そのブコメが地獄みたいになってるのを見て、もう我慢できなくなったので書く。
まずこの前提からして間違ってる。
1960年代まで日本の婚姻の過半数は見合いだ。見合い。当事者の恋愛感情で結婚してたんじゃなくて、制度的マッチングシステムが高効率で回ってただけ。昔の高い婚姻率は「恋愛力」の高さじゃなくて、社会的圧力の強さを反映してたにすぎない。
つまりお前らが「昔はよかった」と思ってるのは、認知心理学でいう衰退主義(declinism)——過去を自動的に美化する脳のバグだ。ついでに言えば「未婚率3割!」みたいなショッキングな数字ばかり記憶に残るのは可用性ヒューリスティックのせいだ。お前らの直感は二重にバグってる。
進化心理学の基本中の基本だが、人間の配偶者選択(mate choice)は自由にやらせるとアソータティブ・マッチング(似た者同士の組み合わせ)を強く志向する。知能と知能、社会経済的地位と社会経済的地位が引き合う。
見合いシステムはこの自然な選好を部分的にオーバーライドしてた。「とにかく結婚しろ」という圧力で、本来ならマッチングしなかった組み合わせまで婚姻に押し込んでた。
それが消えた。
見合いの消滅は「恋愛力の低下」じゃなくて、抑圧されてた個人の選好が解放されたプロセスだ。選択の自由度が上がった結果としての非婚は、多くの場合、合理的な意思決定の帰結。これを「問題」と呼ぶなら、お前は自由そのものを問題だと言ってることになる。
ここからが本題。ブコメで「男がだらしなくなった」「女が高望みしすぎ」って言い合ってるやつら、両方間違ってる。
トリヴァースのパレンタル・インベストメント理論(1972)。哺乳類のメスは妊娠・授乳という巨大な生物学的投資があるから、配偶者選択においてより選り好みする(choosier)。これは人間でも同じ。
で、女性が経済的に自立して結婚の「必要性」が消えた社会で何が起きるか。女性の選択基準は下がるんじゃなくて上がる。もう生存のために妥協する理由がないから当然だろ。
一方の男性側は、かつて「安定した職と収入」だけで市場に参入できたのが、それに加えて「情緒的知性」「家事育児へのコミットメント」「身体的魅力の維持」まで要求されるようになった。
出生動向基本調査(2021)の「交際相手のいない未婚男性が約7割」ってデータ、これは怠惰な若者の増加じゃなくて、配偶者市場の参入障壁が構造的に上がったことを反映してる。ジェンダー平等の進展がもたらした論理的に不可避の帰結であって、誰が悪いとかそういう話じゃない。
ここで「じゃあ男を鍛えろ」とか「女は妥協しろ」とか言い出すやつ、お前は進化の力学に対して精神論で対抗しようとしてる。無理だ。
これ言うやつ多すぎるので潰しておく。
反証その1。マッチングアプリの利用率が日本よりはるかに高い欧米では、未婚率の上昇は日本ほど劇的じゃない。テクノロジーが原因なら、より浸透してる社会でより深刻になるはずだろ。なってない。
反証その2。リクルートの調査では2020年代に結婚したカップルの約4分の1がアプリ経由。テクノロジーは出会いを殺すどころか、出会いのチャネルを史上最大に拡張した。
「でも選択肢が多すぎて決められないんだよ」って反論が来るのはわかる。バリー・シュワルツの選択のパラドックス。確かにそれはある。だがそれは豊かさと自由の副産物であって、テクノロジーの「罪」じゃない。選択肢が少ない時代に本気で戻りたいやつ、いるか? いないだろ。
ここが一番言いたいこと。
「草食系男子」は2006年に深澤真紀が作った言葉だが、国内外のメディアで「男性性の衰退」「覇気のなさ」の象徴として消費されてきた。
ピンカーが『暴力の人類史(The Better Angels of Our Nature)』で論じたテーゼ。人類社会における暴力の長期的減少は、共感力の拡大と自制心の文化的涵養によって達成された。男性の「攻撃性」の低下と性的な積極性の低下は同じコインの裏表だ。
つまり「草食化」は男性の劣化じゃなくて、文明化プロセス(civilizing process)の日本的な発現だ。ノルベルト・エリアスが中世ヨーロッパの宮廷社会で記述したのと同じ力学——衝動の抑制、他者の感情への配慮、暴力的手段の忌避——が、21世紀の日本の若い男性にかつてなく深く内面化された。
ハラスメントの感度が上がり、同意(consent)の概念が浸透し、「しつこく口説く」ことが社会的制裁の対象になる社会で、男性がアプローチに慎重になるのは正常で合理的な適応(adaptation)だ。病理じゃない。
それを「覇気がない」って笑うやつ、お前は暗に「もっとハラスメントしろ」って言ってるのと同じだぞ。気づいてるか?
言葉が強くなるのは許してほしいが、これは本気で言ってる。
出生率の低下は恋愛頻度よりも、養育コストの経済的・心理的上昇とはるかに強い相関がある。合計特殊出生率が高い先進国——フランスや北欧——は「恋愛文化が活発だから」じゃなくて、充実した育児休業、公的保育、住宅政策で養育コストの社会的分散を実現してるから出生率が高い。
日本の少子化対策が自治体の婚活イベントやマッチング事業に予算を突っ込んでるの、あれはパイプの漏れを直さずに蛇口の水量を増やしてるのと同じだ。子育てのコストとリスクが個人(とりわけ女性)に集中する構造を変えないかぎり、出会いの場をいくら作っても出生率は動かない。
ここにブコメで「正論」ってつけるだけじゃなくて投票行動に反映してくれ。頼む。
ここまで読んで「じゃあ全部終わりじゃん」って思ったやつ、待て。俺は進化心理学オタクであって悲観論者じゃない。
データをちゃんと見ると、日本は親密性(intimacy)の新しいモデルを世界に先駆けて実験してる社会だ。
その1:非婚パートナーシップの多様化。 事実婚、週末婚、LAT(Living Apart Together)。法制度が追いついてないだけで、実態としては着実に広がってる。「結婚できない」じゃなくて「結婚という制度がニーズに合ってない」ことへの合理的応答。
その2:親密性のポートフォリオ化。 恋愛的親密性のすべてを一人のパートナーに集中させるモデルから、友人関係、オンラインコミュニティ、趣味のつながり、ペットとの関係など、複数ソースから情緒的充足を分散調達するモデルへの移行。投資理論のポートフォリオ分散と同じ構造。リスクヘッジとして合理的。
その3:テクノロジー媒介型の親密性。 VTuber、推し活、AIコンパニオン。「代替恋愛」「現実逃避」って嘲笑されがちだが、人間の脳は社会的絆を形成するとき、相手が物理的に存在するかどうかを厳密には区別しない。オキシトシン系の神経回路は声や文字のやりとりでも活性化する。テクノロジー媒介型の親密性を「偽物」と断じるのは、社会脳(social brain)の可塑性を舐めてる。
二つだけ確実に言えることがある。
1. 婚姻率と出生率が1960年代に「回復」することはない。 個人の選択の自由が拡大した社会が自発的にその自由を返上した前例は歴史上ほぼ存在しない。社会は新しい均衡点を見つけるのであって、古い均衡に戻るんじゃない。
1. 恋愛が消滅することもない。 ロマンティック・ラブの神経基盤——腹側被蓋野(VTA)のドーパミン報酬系、前帯状皮質の愛着回路——は数十万年の進化で配線されたものだ。数十年の社会変動で消えるわけがない。変わるのは恋愛の「インフラ」であって恋愛への「衝動」じゃない。
日本の恋愛の未来は、崩壊でも回復でもなく、再構成(reconfiguration)だ。進化が俺たちに与えた欲求と、文明が俺たちに与えた選択肢のあいだの、終わりなき交渉の最新章にすぎない。
そしてこの交渉の結果を、あらかじめ「衰退」と名づけてしまうのは、人間という種の創造性に対する、あまりにも安い賭けだと俺は思う。
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追記:ブコメで「お前がモテないだけだろ」って書くやつが絶対いると思うので先に言っておくが、俺の交際ステータスとこの分析の妥当性は独立事象だ。それを混同するのは人身攻撃の誤謬(ad hominem fallacy)な。進化心理学の前にまず論理学やってこい。
前回(https://anond.hatelabo.jp/20260318165937)
3回目です。ささやかな抵抗として米国系インデックスへの投資を止めました。いくらか今まで儲けさせてもらった分は支援の意味も込めて日本市場に回そうと思います。
あまりにもいろいろ目まぐるしいので、ささっと思いつく部分をなぐり書きしていきます。
・3/27午後現在
本格的に材料系の値上がりや減産の話が揃ってきた。各種業界紙や日経新聞とかで確認してください。
ここ2-3日でホルムズを通峡する船が若干増えた。パキスタン、インド、中国などイランと敵対してない国向け。昨日はブラジル向けのバルカーも1隻。ブラジルは一貫して反トランプを主張しているのでそのためだと思う。マレーシアもいけそう?
日本以外のアジア各国でロシア原油購入の動き。苦しいけど仕方ない。ただウクライナがロシアの大規模精油所を破壊したので、どのような調達になるか不明。
日本の原油代替調達も僅かだが実績がつき始めている。ゼロじゃないこと自体が希望。
韓国は政府主導で節約モードに移行。これまで輸出していた精製品も国内向けに止めてきているので、日本にも影響あり。
日本はパニック買いや節約不況を警戒しているように見えるが、石油関係の事業者や閣外の議員からも節約すべきという意見が出てきている。個人的にも同意見。
ただコロナ初期のような厳しい自粛ではなく、ちょっとした家庭の無駄遣いや自家用車の節約といったスモールスタートでいいと思う。とはいえ来月からすべてが値上がりしまくって勝手に節約モードになると思うけど。
物品の生産は夏までが勝負になりそう。あまりモノがないと治安も心配になるので、細く長く生き延びる社会体制を整えてほしい。
そして世界トップクラスの備蓄体制を進めてくれた50年前の人たちに感謝。
・戦況
今日の夜(=アメリカの金曜の日中)にアメリカがどう動くか。今朝からペンタゴンへのピザデリバリーが売れまくっているようなので、地上侵攻だけが大きな懸念。ど素人から見れば全く楽勝に見えないんですが本当にやるんですか?
一方で周辺国からのイスラエルへの非難も増えており、アメリカだけを気にすればいいものでもないことは世界中で理解されているように思う。
・情報源
大手ニュースサイト以外で増田がチェックしている情報源は以下のとおり。
LogisticsToday(物流全般のニュース 解説も詳しいが、若干悲観寄りに見える)
赤沢りょうせい(経産大臣 トランプ関税以来ずっと日本経済の柱)
妙に石油に詳しいフリーザー(石油現場に近そうな人 大変そうだがいつも冷静)
とし山とし夫(何やってる人かよくわからないけどいつも前向きなので、落ち込んだ時に見る)
毎日どころか数時間ごとに特大級のニュースがあるせいで、アルジャジーラやロイターですら情報の粒度を揃えられずなんでもかんでも速報扱いで流している。時々不正確なニュースもあるので、ショッキングな内容ほど気をつけたい。
それと時差のせいで日本時間の深夜に新しい情報が入るので日本の夜のニュース番組が1日遅れくらいになっている点は留意したい。既に周回遅れになっているのを何度か見た。
かといって深夜に海外ニュースに張り付くのも精神によくないので、節電と割り切って少しでも早く寝た方が良いでしょう。
株や金融関係のアカウントもあまり見ないほうがいい。全体的に悲観的、大げさな情報発信が多くメンタルに良くない。
それにトランプの発言に対して市場の反応も鈍くなってきているので深追いしないほうが精神に良い。アジア圏にとって今大事なのは市場ではなくモノの流れです。
・やることと希望
さっきの早く寝るのにもつながりますが、事故や病気には気をつけたい。病院で大きな怪我や病気がうまく治療されない可能性も上がってきています。こういう時こそ心身の健康大事です。
あとは官民の最前線の人たち(とその家族)の力を前向きに信じましょう。増田も仕事を通して0.000001%くらい社会貢献するような雰囲気になってきてます。
無も知らぬ皆さんにおかれましてもなんとかやっていきましょう。
サンシャインシティが建っている場所は、かつて「巣鴨プリズン(東京拘置所)」があった場所です。
A級戦犯の処刑場: 戦後、東条英機らA級戦犯の死刑が執行された場所であり、隣接する東池袋中央公園には現在も「平和の碑」が建てられています。
心霊スポットとしての噂: このような歴史から、「呪われている」「幽霊が出る」といったオカルト的な噂が絶えず、何かトラブルが起きるたびに過去の歴史と結びつけて語られやすい土壌があります。
実際にサンシャインシティ周辺や内部で、ニュースとして大きく取り上げられた事件がいくつか存在します。
2階の「ポケモンセンターメガトウキョー」で、男が女性従業員を刺した後に自らの命を絶つという凄惨な事件が発生しました。多くの買い物客がいる中での出来事だったため、視覚的な恐怖とともに強く記憶に刻まれています。
高層階に入居する法律事務所内で、従業員が同僚に刺殺される事件がありました。
58階のレストランで準暴力団組織「チャイニーズドラゴン」のメンバーら約100人が乱闘騒ぎを起こし、大きなニュースとなりました。
サンシャインシティ自体だけでなく、池袋エリア全体が非常に人口密度の高い繁華街であることも関係しています。
年間数千万人が訪れる巨大施設であるため、統計的にトラブルに遭遇する確率や、目撃者が多くなる傾向があります。
池袋駅周辺はもともと犯罪発生件数が比較的多いエリアであり、その象徴的な施設であるサンシャインシティにネガティブなイメージが集中しやすい側面があります。
「殺人事件が多い」という点については、実際にショッキングな事件が続いたことに加え、かつての「処刑場跡地」という強力な都市伝説が組み合わさることで、「あそこは不吉なことが起きやすい場所だ」という強い心理的バイアスが人々に形成されているといえます。
2025年6月25日頃、オランダ・ハーグでのNATO関連の場で、イラン核施設への米軍攻撃についてトランプ大統領が記者団に語った。
「あの攻撃が戦争を終結させた。広島や長崎をたとえにしたくはないが、本質的に同じものだ。あの攻撃が戦争を終結させた」と述べ、イランへの攻撃を正当化する文脈で、第二次世界大戦末期の原爆投下と「戦争を終わらせた」という点で本質が同じだと主張しています。この発言のポイントは:トランプ氏は「使いたくないが」と前置きしつつ、あえて広島・長崎を引き合いに出した
アメリカ国内では今でも「原爆投下は日本を降伏させ、さらなる犠牲を防いだ」という見方が一定数根強いため、その論理をそのままイラン攻撃に当てはめた形
結果的に「核攻撃/大規模破壊攻撃による戦争終結」という思考回路を公然と示した
日本側、特に被爆地からは強い反発がありました。被爆者や広島・長崎の首長・団体は「到底受け入れられない」「人道上許されない」「撤回を求める」と批判
日本政府(当時の林官房長官など)は「原爆投下に関する我が国の考え方は累次に伝えてきた」と述べるにとどまり、直接的な抗議や名指し批判は避けた形
この発言は、トランプ氏の「結果オーライ」「強硬なディール」の思考が、極めてセンシティブな歴史問題にまで及んでいる典型例として、日本ではかなりショッキングに受け止められました。
民事賠償訴訟の判決の記者会見がマスコミ記事になって、みんな初めて「こんな酷い内容の事件があったんだ」と知ったわけだよね?
一連の事件では、漫画家は一度逮捕されていて、被害者との行為の写真の存在でもって児童ポルノ禁止法違反のみ有罪となり罰金刑を受けていたが、さらっと調べた限りは、逮捕の時も罰金刑の略式命令が出た時も報道記事は無かった。
ネット配信していないだけで、北海道ローカルメディアでは数行のベタ記事くらいは出ていたかもしれないが、ちょっと待って、これ漫画家以前に高校の教師(講師)が生徒に手を出した事件だよ?、もともと小さなベタ記事で終わらせていい事件ではないでしょ(その記事も見つかっていないが)
これが公立高校の教師だったら、北海道教委が記者会見するレベルの不祥事であり、大々的に全国ニュースにもなっていたはず。今まで報道されてこなかったのは私立高校ならではでは(私立高校無償化が来年度から始まって、今後維新を始めとする教育民営化勢力によって公立高校がどんどん潰される予定だが、そうなるとこういう事件が報じられなくなることが多発するんだよ)。
それはそうと、重要なのは事件について全国的に報道がなかったことなんだ。民事訴訟の判決記事が出るまで、事件の中身は外野は誰も知らなかった。
では誰がどこまで知っていたのか。
編集者と編集部は漫画家の逮捕は知っていただろう、では容疑事実も知っていたのか?
被害者から賠償訴訟を起こされた、原告の主張はどこまで知っていたのか?
被害者の話で一番ショッキングな内容は、「排泄物を食べさせられた」ことを含めて数多くの変態的行為を高校生が教師にさせられていたという点だ。
しかし刑事司法で有罪となったのは児童ポルノ禁止法違反の罪だけである。しかも裁判無しの略式命令の罰金刑。
漫画家は社会人として逮捕勾留された経緯や結末を仕事先である編集部に説明はしても、有罪になっていない高校生との変態的性行為について自分から話すことはしないだろう。
「児童ポルノで罰金の略式命令」という話だけだと、「るろうに剣心」作者と同じである。あっちは略式命令が出て数カ月後に連載再開している。
前例があるので、それだけ説明されたら出版社が連載再開を認めてもおかしくはない。
問題は、編集者が示談交渉に同席した時に、どこまで踏み込んだ説明を加害者、被害者双方から受けたか、であるが、これは今後予定される第三者委員会の調査で明らかにされるだろう。
性加害事件の全貌について報道は今まで全くなかった。誰もが知らなかった。
もし最初の逮捕で、ちゃんと報道されていれば。高校が記者会見を開いて第三者委員会の調査などをして全容発表していれば。SNSでも大きく炎上して、週刊誌等が深堀りして凄惨な性加害も報じられ、その時点で、講師が漫画家であることが明かされ、小学館も即座に連載停止して漫画家を出入り禁止に出来たはずだ。
要約:スレ主の主張通り「友人の体験談」なら他人の体験を簒奪して戦争被災者になりきって自己陶酔する卑劣漢だし、完全な釣りなら実在の戦争をオモチャにするゲス野郎だと思います。
ボスニアでの戦争中の残虐行為を知りたいなら佐原徹哉『ボスニア内戦』、凄惨な戦場を体験した子どもの話を知りたいならヤスミンコ・ハリロビッチ『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』を読んでほしいです。
ボスニア紛争の体験者を騙ったVIP のスレッド「戦争の体験談を語るわ」が16年ぶりにバズっていて、はらわたが煮えくり返るくらい怒っている。
スレ主が創作をゲロった後の「留学先で出会った「彼」の体験談」だという弁明が事実かどうかはひとまず置いておいても、このスレの後半の流れを読めば、こんなクソスレに感動したり「名作」「出来が良い」と褒めたりしてる場合じゃないと思うのですが。
ボスニア紛争って、当たり前だけど実在した戦争で、カリノヴィクやフォチャやゴラジュデも実在する町で、戦争に関わった人たちや被害を受けた人たちは実在するわけじゃないですか。なんでその体験者を騙れたのか、あまつさえその体験で今も苦しんでいる当事者かのように装えたのか、その神経がわかりません。 スレ主は最後まで読んでもらうためだったとかなんとかうだうだ言い訳しているけど、言い訳しようのない卑劣な行為だと増田は思います。
実在のできごとをもとにした創作なら、最初から創作と明示したうえで、当時流行ってたやる夫スレなんかの形でやるならわかるんですよ。「戦争を題材にしたフィクション実際に起きた戦争を含めて、実話をもとにしたフィクション」なんて世に数多あるんだし、創作だとわかってても「考えるきっかけ」になるものだって多いしね。
仮に本当に知人の体験談なら、最初からそう明示すればよかったと思うんですよ。なんで数日間にわたって自分が戦争被災者になりきってんの? このスレに肯定的な評価をしてる人たちは、これがもっと自分に身近な事件を題材にした釣りだったとしても「考えさせられるきっかけになったから良い」なんて言えますか?
たとえば「性的虐待の体験談を語るわ」というスレで、自分は◯年前にA県B市に住んでて、C学校に通ってて、D、Eという友達がいて……と詳細に身の上を述べたうえで、被害の苦しみやおぞましい虐待の詳細なんかをショッキングな描写とともに感情たっぷりに語って、ストーリー上のドラマティックな山場を用意して、途中「書くのがつらい」なんて吐露したりもして、しばらくしてから「実は自分が被害を受けたのではなく、友人に託された体験記の転載でした。ドラマティックな場面は創作です」「性的虐待の恐ろしさを考えるきっかけにしてほしい」なんて言い出したら?
たとえば「震災の体験談を語るわ」というスレで、自分は福島県〇〇町に住んでいたと言いながら津波のショッキングな描写、友人の死、原発事故による避難、避難所での軋轢、その他ドラマティックな山場がモリモリのストーリーを臨場感たっぷりに自分の体験のように語って、語り手自身もPTSDになってるかのように仄めかして自死を匂わせておいて、挙げ句の果てに「フェイク入りの友人の体験談です、自分は被災者じゃありません」「被災地に想いを馳せてほしい」なんて言い出したら?
「勉強になった」「釣りかどうかなんてどうでもいい」なんて言えますか? 増田はそうは言えません。
「他人の凄惨な体験を自分ごとのように騙って、ただでさえ悲惨なできごとをドラマティックに脚色して自己陶酔して、何様のつもりだよ?」「実在する事件や被害者たちをおもちゃにしているのか?」「自分が注目を集めるために、事件を利用しているのか?」って思います……。
そしてもしも「知人の体験談」というとってつけたような弁明すら嘘で完全な釣りだったら、このなりきりはVIPで自分(あるいは自分が執筆したフィクション体験記)に注目を集めるために実在の戦争を利用するという、さらに卑劣な行為だと思います。
こんな自己陶酔たっぷりの騙りを挟むまでもなく、ボスニア紛争が悲惨なものであったことは疑いようがないし、その事実を広めたいと言うなら、仮に媒体を2ちゃんに限っても、もっとマシな方法はいくらでもあった。「きっかけになる」からってこんな騙りを許すのは、「『正しい目的』のためならどんなやり方で注目を集めてもいい、創作を実話と偽ってばら撒いたっていい」って言ってるのとそんなに違わないんじゃないですか?
とはいえ、こんな卑劣なやり方でバズったスレで「知るきっかけ」が得られたって人もたしかにいるでしょう。そういう人には、ぜひこんな騙りを超えて、事実をまとめた本や本当の体験記から情報を得てほしい。
ボスニア紛争の経緯や虐殺について知りたい人は、佐原徹哉『ボスニア内戦』(ちくま学芸文庫)を読んでほしい。2010年当時でも読めたけど、最近文庫化して入手しやすくなりました。Kindleもあります(https://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B0FX8RXJZP/)。
ボスニア戦争を経験した子どもたちの証言集としては、2015年に角田光代さんが訳した、ヤスミンコ・ハリロビッチ『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』(集英社インターナショナル)という本があります。ハリロビッチさんは1988年生まれで、自身がサラエボ包囲のサバイバーで、同じ立場の(元)子どもたちの証言を集めた本。
どちらも読み進めるのがつらくなるような内容は多いけど、ボスニア紛争やその体験者(とくに子どもたち)に興味を持った人は手にとって損はないはず。
以下憶測多めの蛇足。増田は、友人の体験談の原稿の翻訳がベースだというのもかなり怪しいと思っている。書かれたものを訳したはずなのに、「外国人が耳で音だけ聞いた単語をカナに直したような表記」と、「スペルだけ知ってて音を知らない単語をカナに直したような表記」が入り混じっているし、「実在した」と挙げられている登場人物の名前にボシュニャク人・セルビア人・クロアチア人にしてはかなり珍しいであろう名前が複数あるから。
①「スルツキ」という表記。おそらく現地語の「srpski」のことだろうけど、この単語は普通日本語だと「スルプスキ」と書かれるし、「スルツキ」という表記はありえない(2010年当時の機械翻訳にかけてもありえないだろう)。ただ、Wiktionaryで発音を聞くと、スペルを知ることなく耳で音だけ聞いたら「スルツキ」にも聞こえうるのはわかる。https://en.wiktionary.org/wiki/srpski
しかしスレ主の言い分では、英語で書かれた友人(父親がボシュニャク人、母親が日本人)の体験記を訳したのだという。長大な原稿を英語から日本語に訳せる語学能力のある人が、渡された原稿に「srpski」と書かれているのを「スルツキ」とカナ表記するだろうか? 他の2民族を指すときの言葉(フルヴァツキ=hrvatski、ボシュニャチ=Bošnjaci)は正しくカタカナにしているのに、なぜsrpskiは「音だけ聞いて、スペルを知らない」かのようなカナ表記なのか?
もっと言えば、「スルプスカ」(srpska)はちゃんと「スルプスカ」と正しく表記しているんですよね。同じ単語(の女性形)なんだけど……。
なぜこんな表記なのかはわからない。あえて拙さを演出したのではないかと思うけど、そうだとしたら英語で書かれた体験記を訳したという後半の弁明とは辻褄が合わない。
②「カミーユ」という名前。いや、これフランス語Camilleですよね? フランスにルーツがあるわけでもないボスニア現地の人で、「カミーユ」という名前の人を見たことがない……。
現地語のカミル(Kamil)という男性名ならありえるが、これを「カミーユ」と聞き取るだろうか?
それに、スレ主が最後に「実在人物」として挙げているスペルはKamilではなくCamil(現地語読みならツァミル)。ツァミルという名前はあまり聞いたことがないが、英語の体験記から訳したとしたら、スペルが近いĆamil(チャミル)という男性名がいちばんありえるだろうな。でも、「ツァミル」や「チャミル」を「カミーユ」と聞き取るとは思えない。
これは、最大限好意的に見れば「スルツキ」とは逆に、「文字で見た単語を、スペルに引きずられて違う音でカナ表記した」ように見える。そうでなければ、スレ主がボスニアらしい名前を創作したときに、うっかりフランス語の名前を混ぜてしまったというところだろうか。
③サニャとカミーユの名字。Googleでいろいろと検索しても、旧ユーゴどころかスラヴ系のEdu姓の人が見つからなかった。カミーユのTrpkovaという姓も不思議。北マケドニアの女性ならわかるけど、ボシュニャク人の男性でそんな姓になることがあるだろうか……。
【3/2追記】読み直したら意図が伝わりにくい書き方のところがあったので、修正しました。増田の怒りの発端は「自分自身が体験者かのように装ったこと」「創作を実話と騙ったこと」にあります。だから、このスレは大河ドラマや朝ドラや火垂るの墓など「実話をもとにしたフィクションと明示されている作品」とはまったく別の話だと思っているよ。「ドキュメンタリー映画しか許せないのか」という反応があったけど、その比喩に沿うならこのスレはむしろ「ドキュメンタリーだと謳っていたのに実はフィクションだった」とか「ドキュメンタリーに「当時の体験を証言する」と言って出演した人が後から「あれは自分の体験じゃない」と言い出した」みたいな事例ですよね。
id:cloverstudioceo 「クロアチア在住のもんですが、スルツキはsrpskiだったのね。でもそれはセルビア語で、セルビア人はSrbin. あと、ボスニア人はBosanac(男性単数) Bosanci(複数) だよw Bošnjaciなんて聞いたことねー。」
→おっしゃる通り、srpskiは「セルビアの、セルビア人の」という形容詞ですね。srpski jezikは「セルビア語」、srpski narodは「セルビア民族」。hrvatskiも形容詞で、名詞の「クロアチア人」はHrvat。Bošnjaciは名詞「ボシュニャク人(Bošnjak)」の複数形です(https://en.wiktionary.org/wiki/Bo%C5%A1njaci)、調べてみたらたくさん用例が出てくると思います。Bosanac(Bosanci)は民族にかかわらず「ボスニア国民」という意味での「ボスニア人」を指します。
都心と北関東をつなぐ15両の車両は、関東平野という地形の恩恵を浴びて突き進んでいく。
烟った空気のはるか奥、ぼんやりと白けて見える稜線はどこか心細さがある。
六本木や横浜のほうが、よほど高低差があり山というものを感じるのだが、はて、不便な土地がこれほど栄えたのは私の知らない積み重なった歴史があるのだろう。
春を目前にしたある晴れた日、私は片道4時間かけて18年過ごした地元へと向かっていた。18年。私の積み上げた年月の半分以下。ここまで離れていると自分の根源だという意識は薄れ、体に染み付いたノスタルジックな反射が微かに呼応するのみだ。
おそらく父が死んだ。
おそらく、というのは現在DNA鑑定中だからだ。公的に証明されるまではブラックボックス、未確定、シュレディンガーの父である。DNAってのは本当にすごいものだと感心した。顔がわからない状態でも当人を証明できるのだ。
DNA鑑定には数週間かかるとのことで、心の片隅にまだ処理できないもやもやを抱えながら、来たるべき処理に向けて2週連続で地元へ向かっているというわけだ。なんと施主は私だ。家を離れて20年ほど、親族との交流もまったくない、家庭もない、貯金もない、大人とも子供ともいえない存在が施主である。まあ、ギャンブル依存症だった父にはおあつらえ向きの施主かもしれない。これがあなたの人生のリザルトだと思い観念してほしい。
両親の離婚は15年ほど前と記憶している。以降、父は一人で暮らしていたわけだが、孤独死、という聞き馴染みのある事象が身近にぽつんと、あらわれた。回されることのない回覧板に近所の方が不審がってみつけてくださったようだ。ショッキングな体験をさせてもうしわけないとともに、回覧板というシステムはとても有益なものだと感じたものだ。
なんでこんな文章を書こうと思ったかというと、誰かに聞いてほしかったからだ。すごい悲しい、とかはないのだが、なにかしかの衝撃をうけているのか、本調子ではないのだ。心を吐き出さないと身体の中が腐ってしまうような心地なんだ。
人に自分の心を、自分の口を通して伝えるのが苦手だ。相手のことを考えて、結局は自分の心をフィルターにかけて、違う心を伝えている。
文字であれば、眼の前に人がいなければ、心は心のままでいられる。
そういうことだ。
最近発達障害ないし知的障害を持つ、またはグレーゾーンにある女性のことをみいちゃんと呼ぶことについて、当事者の1人が声を上げたことで、SNS上でさまざまな意見が飛び交っている。
https://x.com/i/status/2022847696424644921
私も当事者(言語性IQと動作性IQの差が40ある)なのでこの件について考えてみたが、私の結論としては『真面目に対処する必要はない』だ。
そもそもなぜみいちゃんと言う呼称が差別に当たるかと言うと、みいちゃんは漫画内で『救いたいと思えない弱者』のシンボルとして、自己中でクソ迷惑な障害者として描かれており、それと等しいとみなす行為だからである。
ショッキングな展開やグロテスクな切り抜きが何度もバズり作品とキャラの認知度が上がった結果、いまや"みいちゃん"は社会的に必要とされないどころか周囲に害をなす敵と言う共通認識が形成されており、その文脈を踏まえたうえで悪意を持って障害者ないしグレーゾーンの女性らをみいちゃんと呼ばないでほしい、という意見は真っ当に思える。
しかし私としては、みいちゃん呼ばわりを取り締まったところで言葉狩りに過ぎず、また第二第三のみいちゃんに代わる侮蔑語が産まれるだけで、意味がないと考える。
これは白痴、足らず、低能、池沼、でんちゃ、ガイジ、ハッタショ、🫚👨⚕️、ジンドクと、差別用語が禁止されるたびに新しい差別用語が生まれてきた歴史的事実から見ても明らかだ。
かの金田一先生も、差別用語そのものを取り締まったところで悪意的に言葉を用いる人間がいる限り、いたちごっこになるだけだと対談で話されている。
では差別的に言葉を使うこと自体を取り締まれるか、と言ったら無理だろう。
そもそも差別しているという意識すらなくほんのジョークや事実確認のつもりでとんでもない侮蔑語をこぼす人など山ほどいるし、それらに道徳的振る舞いや理性を求めるのも難しい。
また平均的な健常者視点では『公的支援の存在またはつながり方を知らず、無治療または全額自腹で社会適応を頑張っている障害者』ですら自分たちの税金で養っているという認識は大なり小なりあり、障害者と健常者の立場が本来は平等であるという認識もそこまで広がっているとは思えない。
もちろん傷つくという声明を上げること自体は否定しないが、差別そのものをなくすことが困難である以上、『来店中はその手の発言を控えてほしい』や、『店の評判を落とす発信は辞めてほしい』以上のことを求めるのは現実的とは言えないのではなかろうか。
そして個人的に気にかかるのが、『性逸脱をせず、倫理観を持ち、指導教育環境を当店では整えており、真面目に働いている私達や他の発達障害の女性にむけて「みいちゃんだ」という言葉を浴びせられることは、とても悲しいことです。』という点だ。
みいちゃんも一応作中では真面目に働いているし、みいちゃんに倫理観がないというのはそもそも作中の描写的に、生育環境や知能の限界で身につけられなかった結果であり、みいちゃんの落ち度と認識することは難しい。
これは恐らく『みいちゃんは努力を怠る自己中で無能な障害者』と認識していて、その意でみいちゃん呼びを好む層に向けての発信かもしれないが、この書き方はさすがに誤解を招くというか、私は初見で『あなたもその立場で能力が不足している障害者をかなり差別してないか!?』と読んでしまった。
もちろん店のサービス品質や従業員の評判を下げないのも店長の仕事とは言え、他を下げて自分たちを上げるような印象を受けてしまうので、それこそ『みいちゃん』という呼び名のスティグマ化に加担していないだろうか……。
この投稿のツリーにて他のスティグマ化する侮蔑語について言及を控え、当事者が声を上げろと言っているあたり、他のスティグマ用語を用いた差別を軽んじているような印象を受けてしまうのも、また……。
https://x.com/i/status/2022937994668487107
筋異常愛者の弱者女性としては、同じく社会的に弱い立場にある人への差別発言にも平等に反駁すべきだと思うし、そこを誤魔化して自分が属する集団への偏見にのみ声を上げるのは、自己中心的な発信に思えてしまう……。
(みいちゃんよりも悪辣かつ人非人かのように描写されているつばさくんあたりにノータッチなのも思うところはある)
(これだから『発達でも女はチン騎士理彼湧いてヌルゲー、男は自殺しかない』って認識が強固になるんだよ!でも実際そうだしな……)
作中のみいちゃんやその他障害者と見なされる文脈で登場するキャラたちの描写について色々とツッコミどころはあるが、ひとまず呼び方の問題については以上とする。
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
ALTがお気持ち表明のワンクッションみたいに使われてるケースが多いけど、目が不自由な方にとっては、ワンクッションどころか何の心の準備もないところにショッキングなお気持ちが直撃してしまいうるというのは問題だと個人的には思ってる。ブラクラみたいなもんだよ
萌えイラストと詩という例を挙げているけど、そもそも目が不自由な方は萌えイラストだということすらわからないんだから、絵についての説明がなければその詩が何についての詩かもわからないわけで。説明と詩をALTに併記すればいいじゃんという意見なら賛同できる気もするけど、それでも健常者なら絵だけ見て詩はスルーという選択が取れるけど目が不自由な人は絵の情報と一緒に強制的に詩も摂取させられることになるから、詩が嫌いな人にとっては辛いのでは
ALTは健常者が当たり前に得ている情報や選択の自由を目の不自由な方にも保障しようというマイナスをゼロにしようとするものであって、ディスインセンティブないんだから間違った使い方でもいいじゃんという意見はあまりに健常者中心の考え方である上にレイヤーがずれている
今見るとちょっと物足りないところもありつつ、classicってこういうことだよなとも思った。
74点。
何より颯爽と表現するしかないような佇まいのスタローンがよい。後の筋肉ダルマになる前のスマートに絞り込まれた機能性に優れた(ように見える)肉体に強さに説得力があった。今となってはこいつずっと眠たそうな顔してるなってなるちょっと垂れ目の顔も、ヴェトナム帰還兵の悲哀を感じられてよい。
内容としてはベトナム帰還兵としてフラフラしてるランボーがたまたまある街の保安官に目を付けられネチネチといびられ最終的に逮捕されてしまう。留置所で拷問を受けた結果、ヴェトナム戦争でのトラウマを発症しブチ切れ。保安官をボコボコにして脱出、山に逃亡し山狩りに合うわ州兵は出てくるわでてんやわんやの結果、いろいろあって街を破壊して泣きながら大演説して逮捕されて終了。
今作のランボーは基本的に人を殺さない。一歩間違えたら普通に死ぬトラップを仕掛けたり銃を撃ちまくったりするけど一応人は死なない、死なないんじゃないかな、ちっとは覚悟しておけ。なんか急にイチャモンつけられて投獄されて拷問されて逃げ出したという形なので、積極的に戦いたいというよりはランボーは静かに暮らしたい、降りかかる火の粉は払わねばなりますまいという感じ。
なので、なんだかんだあって廃坑から逃げ出した後に軍用トラックを盗んで街を破壊しまくる展開は正直違和感があった。廃坑に閉じ込められる中で一般にランボーは死んだことにされていたので(ランボーはそれを知らないけど)、ランボーは普通に逃げればよかったのに、急に一転攻勢に出てもうテロリストでは?ってくらい街を破壊しまくるから「お前そんな感じだっけ?」とはなった。
まぁ、あんだけやられたら怒って当然だよなとも思うんだけど。
あとこれが当時の空気感かぁってなるのが、途中でランボーが戦争の英雄でグリーンベレーで殺人マシンだったことが分かったときに保安官ズが「戦争の英雄殺したらマズくない?」ってならずに「グリーンベレーって怖くね?」ってなるところ。
あ、そっちなんやってなったね。あくまで敵としての強さに注目するんだって言う。今だったらイラク戦争の英雄を追いかけてるってわかったら「マズくない?」ってなりそうだけど、当時は「ヴェトナム帰還兵?知らんわ!」って感じだったんだなって。最後にランボーもそれでブチ切れてるし。
アクションはもう40年前の作品だからモタモタしてるシーンも多くて逃亡チェイスのところとかも、ある意味リアリティがあるもったりしたシーンが続き火薬の使い方もけっこう雑だなぁあと思いつつも、ランボーが絶壁から飛び降りるシーンだけはマジですごい。
飛んだ瞬間に「あれ?ランボー本当に落ちてね?」ってガチでなる。割と真面目にショッキング映像。調べてみたら本当に落ちてて骨折しまくったらしい。なぜそんなことを……ここはすごい気合入っててよかった。
後は最後の大演説シーン。俺の中で作品のテーマを台詞でペラペラしゃべらせる作品はよくないと思うんだけどさ。今作ではランボーがずーーーーーっと耐えてるのね。まぁ、暴れてんだけど。ずっと理不尽な目にあわされ続けて耐えに耐えて、あらゆるものを破壊した最後の魂の慟哭。さすがに点を引く気にはなれなかった。
原作ではあのシーンなかったらしいんだけど、あのシーンなかったらランボーが今でも愛されるシリーズになってなかった気はする。なぜランボーは戦うのか、戦わなければならなかったのか。トラウト大佐は「ワイがランボーを作った」って言ってたけど、「ランボー」を本当に作ったのは戦争であり、国であり、何もしなかったくせに口だけはデカい一般市民であり、経済であり、要するに俺たちだったんだといういい演説だったと思う。
まぁclassicになるだけのことはある作品だと思った。
アクションを求めてみると古臭い感じは否めないが、若いスタローンを見るためだけに見てもいい傑作のひとつだと思う。オヌヌメ。
昨今の日本の村ホラーの中ではかなり頑張ってる方だと思うんだけど。
それが逆にテーマ性との接続を損なってる気がして集中できなかった、59点。
「誰かの不幸の上に自分たちの幸せが成り立っている」というありふれたテーマを不条理村ホラーに落とし込んだ作品。とにかくこの不条理な村ホラーの部分のアイデアの豊富さや演出がよくて「なんかキモくて怖い映画見たいな」って人には普通におすすめできる。
不条理な村ホラーってのはアレね。「なんかこいつらの会話おかしくね?」「なんかこの住民の行動おかしくね?」みたいな心理的生理的な嫌悪感を含む違和感が徐々に大きくなっていって事件が起きてヒャーってなるやつ。今作ではこの住人が主人公の家族なんだけども、この家族のキモさ、異常さが本当によくて。よくこんなにキモいアイデア詰め込んだな~って感心させられる。
内容的には
主人公が祖父母の家に行ったらなんか様子が変で探ってたら2階に目と口が縫い合わされた老人が幽閉されてて、実はその老人を不幸にすることでこの家は幸福を保っていたことがわかる。主人公がその老人を逃がすが、老人は交通事故で死亡。家族は急に不幸になり主人公は新しい贄を連れてくるように家族に頼まれて~
的な話。
実際には主人公の家だけではなくその村全体がそうで、もしかしたらこの世界中で本当に起こっているかもしれないよ的な感じで、弱者を搾取するこで成立する世界を強烈に風刺している。そしてこの作品のメッセージ性の優れているところとしては「お前らも弱者を踏みつけにしてるだろ」というだけではなく、幽閉されていた贄の老人のように「お前らも目と口を塞がれて幸福を搾取されてるぞ」という加害者被害者両方の立場を提示してくるところ。
ただこのメッセージ性と村ホラーの接続が俺の中ではイマイチだったと感じた。
まず祖父母の家に入った瞬間から祖父母の行動がヤバすぎて、例えば「なぜか2人して主人公の指をしゃぶりまくる」「暗い廊下の奥から祖母が走ってきてそのまま壁にぶつかる」「突然豚の鳴きまねを始めて豚は幸せだみたいな説法を始める」等々、テーマと関係ない部分のアクが強すぎて話が入ってこんのよ。
もろちん、指しゃぶるのは若者をしゃぶりつくす老人の比喩かもしれないし、豚説法は「弱者を食い物にすることを肯定する」意図があるんだろうしわかるんだろうけど、それらの普遍的なテーマと「頭のおかしい家の話」という個の事象が衝突しているように感じる。
昔、ホラー脚本家の三宅隆太が「ホラー映画の登場人物はなるだけ普通であるべき」みたいな話をラジオでしていて、「主人公が常に赤いマフラーでギターを抱えている人間だったら、怖い目に合うのはこいつが異常だからで私たちには関係ないと思われてしまう」という話をしていたが、まさにそんな感じ。
同じく、主人公家の贄が死んでしまった(死ぬシーンもめちゃくちゃ見晴らしのいいあぜ道でノ―ブレーキで突っ込んでくる軽トラもよくわからんけど)結果、祖父も祖母も弟も母親もみんな耳とか目とか口とかから血を噴出しまくって「早く次見つけてこないと間に合わなくなるよ」と主人公を追い込む展開。いや、それは自分たちの幸せが他人の不幸の上に成り立ってるとかじゃなくて、もう「他人を不幸にしないと死ぬ呪い」じゃん。
いや確かに今日本が東南アジア圏の後進国の人たちからの搾取をやめますってなったら死ぬかもしれんけどここまで急激にめちゃくちゃなことにはならんやろ。
しかもこの作品には「代々贄がいなくて幸せになれない幼馴染」が出てくるんだけど、そいつの親父は普通に老衰だし幼馴染本人も「本当は絵描きになりたいけど貧乏だから農業しなきゃだよね~」くらいの不幸度合いなんだよ。贄いなくてもぶっちゃけどうにでもなるだろこれ。なんで主人公家はあんだけ急激に不幸通り越して破滅しそうなんだよ。
まぁこれも贄に頼り切った結果、もう贄なしでは存続不可能な状態になってしまっているという先進国を鋭く風刺しているんだよ!!!と言われたらそうかもしれんけど、風刺内容としては妥当でも作中のルールとしての整合性としてはおかしくなーい?って感じ。
あとは贄システムを拒絶して出て行った叔母が山奥で頭おかしくなってていろいろあって主人公が彼女を殺害してしまう展開、特にいらんかったな。まぁ「贄システムは拒否できない」というダメ押し展開ではある、殺害シーンのショッキングさは「めっちゃ撮りたかったんやろなぁ」ってのはわかるんだけど、叔母の現状や思想がテーマにはコネクトしてなかったので、逆にノイズに感じた。
全体的に「見せたいもの」「言いたいこと」をかなりうまく表現できているんだけどそれをうまく盛れていないいない印象だった。めっちゃおいしいチキンカツと肉じゃがと白身魚のムニエルを全部ご飯にかけてどんぶりにしました!みたいな感じ。
この奇妙さをしっかり味わえる和ホラーはめったにないので見てみるといいとは思う。