はてなキーワード: 牧歌的とは
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
削除されてしまいましたが、先日、スタートアップ界隈で話題になったQiitaのアドベントカレンダー記事はお読みになられましたか。
『チンパンジーが配属されてきたら、あなたはどうマネジメントする?』という、パンクなタイトルの記事でした。
内容は、とあるスタートアップの開発チームに、社長の鶴の一声(と投資家への忖度)で、文字通りの「チンパンジー(パンジくん)」が配属されるというお話。
記事では、マネージャーが奔走してパンジくんを隔離し、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎える「成功ルート」が本線として描かれ、一方で、対応を間違えた場合の「失敗ルート(IF)」では、パンジくんが暴れて社員の指を食いちぎるというショッキングなバッドエンドも提示されました。
「不適切で消されちゃったけど、チンパンジーが配属されてきたらどうマネジメントするか?の話、勉強になった。ただの匿名記事だと思ったら企業Blogだったのかww」
「マネジメントしようなんて思わずにそっと転職準備を始めるよ…」
その不条理さに頭を抱え、あるいは共感した人々が見られました。
しかし、かつて大学で動物行動学を専攻し、チンパンジーの社会構造を研究してからこの人間社会というジャングルへ足を踏み入れた身として、あえて言わせてください。
「たった一頭のチンパンジーで大騒ぎするなんて、スタートアップの世界はなんと平和で、牧歌的なんだろう」
私たちパンピー(一般人)こそが檻に押し込められ、燃料としてくべられる。
それが、生物学的に見たこの社会におけるマネジメントの「正解」なのです。
世の中には、元記事で「最悪のIF」として描かれた地獄絵図が、「日常(デフォルト)」として機能している業界が存在します。そう、永田町(国会議員秘書)、大手広告代理店、そして学校の世界です。
私たち「多頭飼育」のプロフェッショナルたちが導き出した、残酷な最適解。それは、猛獣を隔離することではありません。
「猛獣(カネと権力の源泉)を守り、その価値を最大化するために、人間(一般社員や生徒)を燃料として燃やし続けること」
なぜ、そんな理不尽がまかり通るのか?
それを理解するには、少しだけ「チンパンジーという生き物の仕様」について、講義をする必要があります。
皆さんはチンパンジーを「バナナを食べる動物」だと思っていませんか?
動物行動学の視点では、それは間違いです。チンパンジーとは、餌よりも先に「序列」と「権力」をめぐる動物だと定義したほうが、その本質を理解しやすくなります。
野生の群れに関するフィールド研究では、オス同士が同盟を組み、毛づくろいや餌の分配をテコにして「誰が誰の味方か」を積み上げ、厳しい序列を作ることが報告されています(Goodall 1986, de Waal 2007)。
恐ろしいのは、彼らの生理機能そのものが、このゲームに最適化されている点です。
優位なオスほどテストステロン値が高く、地位争いが激しい時期には、群れ全体でコルチゾール(ストレスホルモン)が上昇します。彼らはリラックスしているのではなく、筋肉維持と闘争準備のために、常時エンジンを吹かしてアイドリングしている状態なのです(Muehlenbein 2010, Wrangham 2004)。
彼らの社会は一枚岩ではありません。日中は小さなサブグループに分かれ、餌場やメンバーの顔ぶれに応じて離合集散を繰り返す「フィッション・フュージョン(離合集散)社会」です(Arcadi 2018)。
この流動的な派閥構造の上に、オス中心の強固な序列が重なる。これ、何かに似ていませんか?そう、人間の「派閥」や「部署」そのものです。
3. 「戦争」をする隣人
そして、彼らは他群れの個体に対して容赦のない暴力を振るいます。
オスたちがパトロール隊を組んで隣接群を襲撃し、時に相手を殺害して縄張りを拡大する「小規模な戦争」が、自然状態で起きていることが確認されています(Goodall 2019, Gilby 2014)。
この「生物学的な仕様」を頭に入れた上で、私たちの住むジャングル(日本社会)を見渡してみましょう。
そこには、驚くほど忠実にチンパンジーの生態を再現した「多頭飼育現場」が広がっています。
まず、国内最大級かつ最も危険な飼育現場が、永田町周辺の「国会議員秘書」という聖域です。
ここでは、高いテストステロンと強固な血縁同盟を持った猛獣たちが、「公設秘書」という名の檻の中で放し飼いにされています。
公設秘書の給与は、最大で月給百数十万円ほどが税金から支払われます。そして、その席に座っているのは「妻」「息子」「兄弟」、あるいは「愛人」です。
これは生物学的に言えば、血縁個体への資源分配(Kin Selection)」と「配偶者防衛」です。
さらに最近話題になった、「秘書給与のピンハネ疑惑」のように、群れのボス(議員)が構成員のエサ(秘書給与)を強制的に寄付させ、自分の懐に還流させる行為。これは、霊長類特有の序列確認行動(マウンティング)に他なりません。
パンジくんはバナナを食べるだけでしたが、彼らは国民の税金を二重にも三重にも貪り食うシステムを構築しているのです。
ここで燃料としてくべられるのは、コネのない「一般秘書」たちです。
彼らは政策立案という実務をこなしながら、猛獣たちの汚物処理(不祥事の揉み消し、愛人対応)をさせられます。
チンパンジーの生態学的に見れば、彼らは「劣位個体のストレス生理」を強いられています。
野生でも、いつ殴られるか分からない劣位個体は慢性的にコルチゾール値ストレスのパラメーターが高くなります(Preis 2019)。一般秘書たちが心身を壊していくのは、精神的な弱さではなく、長期間の捕食恐怖にさらされた生物としての正常な反応なのです。
ここには、社会心理学でいう社会的支配志向(SDO)」の高い個体が集まりやすい傾向があります。
SDOとは、社会の序列や不平等を肯定し、それを維持しようとする心理傾向のことです(Sidanius & Pratto 1999)。
広告業界のヒエラルキー構造は、高いSDOを持つ個体にとって居心地の良いジャングルです。
そこに、「大口クライアントの社長令嬢」「政治家の息子」といった、生まれながらにして最強の「体格(資本)」を持った個体が投入されます。
彼女たちは、一般社員が過労死ラインで働いている横で、経費を使って優雅に飲み歩きます。なぜなら、チンパンジー社会において「高順位個体がリソースを独占するのは自然の摂理」だからです。
猛獣が人を殺めても、檻には入れられない
過去には、有力者の息子である社員が同僚に危害を加え、死に至らしめた事件さえありました。
なぜなら、群れの論理において「高順位オス(太客)の機嫌を損ねること」は、群れ全体の生存(売上)に関わる最大のリスクだからです。
パンピー一匹の命より、群れの序列維持。これが代理店というジャングルの掟です。
学校:一校に一頭、必ず紛れ込む野生
永田町や代理店という「群れ」のお話をしてきましたが、学校では「フィッション・フュージョン社会の末端」として、全国津々浦々に野生のチンパンジーが配置されています。
私立校なら「母校愛(同盟)」で採用された卒業生が、公立校なら「教育委員会の親族(血縁)」枠の教員が、授業をサボっても誰にも注意されず、腫れ物として扱われています。
生徒や保護者に暴言を吐くモンスターティーチャーがいても、せいぜい異動で済まされ、数年後には別の学校で何食わぬ顔で教壇に立っています。
完成された「隠蔽の仕組み」
そして最も恐ろしいのが、「性犯罪(野生の発露)」に対する隠蔽システムの完成度です。
かつて学校現場では、教員が生徒にわいせつ行為をしても、懲戒免職ではなく「依願退職」させることが通例でした。
懲戒なら記録に残りますが、依願退職なら残りません。それどころか退職金まで支給され、ほとぼりが冷めれば免許を再取得し、再び他校で子供たちという獲物を物色することが可能だったのです。
最近になってようやく「わいせつ教員対策法」や「日本版DBS」といった法整備が進みましたが、現場の「事なかれ主義」や「校長による口止め」といった文化までは消えていません。
これは、群れが「不都合な個体」を一時的に視界から外すことで、群れ全体の体面(なわばり)を守ろうとする防衛本能の発露と言えます。
その過程で、子供たちという最も弱い個体が燃料にされているのです。
さて、これら生物学的知見を持って、Qiitaの元記事を振り返ってみましょう。
記事の本線である「成功シナリオ」で、あのマネージャーはパンジくんを隔離し、リモートワークで接触を断ち、見事にハッピーエンドを勝ち取りました。
「相手がたった一頭で、たかだか月額5000万円の案件だったから」
一頭なら、専用の部屋を用意して閉じ込めることができます。
しかし、永田町や代理店のように猛獣が群れをなし、学校のように全国規模で配置され、動くものが「国家予算」や「数十、数百億円規模」になった時、隔離などという選択肢はハナからありません。
檻に入りきらないほどの猛獣が溢れかえった時、誰が檻に押し込まれるのか?
研究室にいた頃、私たちは猛獣を管理するために、何重もの鍵がかかった檻と、緊急用の麻酔銃を用意していました。対象が危険であればあるほど、隔離を徹底するのが「飼育」の鉄則だったからです。
しかし、人間社会という多頭飼育の現場における「飼育」の実態は、全く異なります。
「猛獣の持つ価値(票、カネ、権力)を最大限に搾り取るために、周囲の餌と燃料(パンピー)をどう配分するか」という選別に変質しています。
永田町で公設秘書の椅子に無能な親族を座らせるとき、そこに「税金の無駄遣い」という倫理的な悩みは考慮されません。それは「血縁同盟の強化」という生物学的合理性に基づいているからです。
広告代理店で一般社員を使い潰すとき、そこに躊躇はありません。「劣位個体のストレス」など、高順位個体の繁栄の前では些末な問題だからです。
そして、授業・部活・事務・保護者対応に追われる「一般教員」と、理不尽な指導を受ける「生徒」は、まとめて燃料にされます。「学校の評判」を守るために。
おわりに:あなたはどちら側に立つか
畜産学徒の目で見ると、あの牧歌的なスタートアップに限らず、人間の職場の多くは「チンパンジーの群れの変種」として読むことができます。
集団を支配する少数の高順位個体が、票や広告費といった餌場を押さえ、血縁やコネで自分の周囲を固める。
その外側に、慢性的なコルチゾール過多とストレス生理を抱えた多数のパンピー個体が、燃料として並べられている。
この社会システムは、最初から「パンピーが何人か死んでも、猛獣が生きている限りは問題ない」という、野生の論理で組まれています。
マネージャーの仕事とは、「部下を守ること」だけではないのかもしれません。
「システムの冷酷な設計図(生物学的仕様)を理解したうえで、自分の体と部下の体をどこまでその燃料として差し出すかを、自分で決めること」。
知恵を絞って隔離施設を作れるのは、まだ規模が小さく、守るべきものが明確な「幸せな時期」だけかもしれません。
群れをなした猛獣が押し寄せ、数十億円利益という組織論理とテストステロンで迫られた時、あなたは部下を守れますか?
「たった一頭で大騒ぎできるうちは、まだ幸せだ」
それはビブリオマニアです、私もです、
列記とした病気、神経症、買い物依存などに類するものとも思われます…😟
「ビブリオマニア(Bibliomania)」とは、**強迫的に本を集めすぎる「蔵書癖」や「書籍狂」**を指す言葉で、単なる健全な「愛書家(ビブリオフィリア)」とは異なり、社会生活や健康に悪影響を及ぼすほどの病的収集行動です。日本語では「蔵書狂」「愛書狂」とも訳され、本を「所有する」ことに強い衝動を感じ、その収集が生活の支障となる状態を指します。
本を並べるだけで喜んでしまう
聖書と評価されるような、評価の高い本を途中まで、最初の方だけ読んで、
この本は素晴らしい!と絶賛し、ついそれと同じ本を一、二冊買ってしまったりします
予備とか、布教用とか言い訳してますが、本を買うのが目的化してる
棘の米にあるように、自分も段々と、本当に自分がやりたかったのは本屋なのではないか?と思うようになりました
でも、真面目な話、個人での書店経営は色々と大変、日本の独特の商習慣もあります、
アメリカみたいに、書店が本を買い取っちゃって、売れなければ安値で店頭ワゴンしてもいい、
というのも、それはそれで自己責任で大変ではあります、どちらがいいのか分からない
音楽もヤングギターよりは上の、楽器弾く系とか理論とかを重視したい、
アイドルグラビアみたいなのには興味ないので、だって、眺めて終わっちゃうじゃないですか…😟
まあ、エロ、所詮人間なんて、男だけでなく女性でもエロ、コアなBLとか並べてもいいのかもしれないけど、
あと、万引き、特に子供の万引きとか、いちいち見張るのがめんどくさい、トイレにも行けない
昔は子供の頃はド田舎に住んでたんで、数少ない本屋、ぼろい木造の建物、
ほぼ地べたに漫画雑誌が並べられてたり、
パソコン雑誌立ち読みしてたら、店のおばちゃんに掃除のハタキで叩かれたり、
もう、神田の伝説的な書店も、みんな店じまいして今はネット通販やってますよ…😟
リアル本屋は終わり
Amazonとかで、せどりしてる大手は、みんな田舎に会社を立てて、
田舎は潰れた靴流通だかハローマックだか、色々放置されてる店とかあるんで、
そこを倉庫にしたり、貸倉庫を借りて、そこに本を入れてますよね
自分も含めて、死んだりしたら断捨離で、大量の本が便利屋とか処分する会社に回って、
その本がそういった、せどりの会社に行って、またAmazon経由とかで誰かが読む、
というサイクルもなくはないんでしょうけど、基本的に紙の本は終わりです
大阪から御坊駅は、特急の乗り場が分からなくて死にかけるがなんとか間に合い
しかも御坊駅から西御坊までの乗り換えがわからん、というかそこにあるはずの紀州鉄道の駅がない!???
と思ったら、御坊駅の中にホームがあり、料金も車内で払うらしい
駅にはそのまま入れる
おっさんが乗り込んできて、こいつも巡礼者ではあるまいなと警戒する
で、結構すぐに西御坊駅。例の橋は写真撮るとオタク丸出しで恥ずかしいからスルー…でも結局帰りに撮った
なんか急に晴れる。よかった
道沿いに歩けば海、みたいに聞いたがどこに行った行けばよいかわからず
川沿いにすすむがなかなか海に付かず
川の逆側の方が開けてるし船もあるしそっちが海じゃね?川の流れ?満潮だから逆流してんじゃねーかな…で歩いても歩いても海につかないので引きかえす。
で暫く歩いてると…オワーっ海だ!!蒼い~!香住町も行ってさ、町の感じつかノドカさはそれっぽいけど海がね~日本海だし堤防もあると、スゲーでかい湖みたいになっちゃうのよな!
で、実際の堤防はかなり遠くにあるが、海沿い歩いてると大分満足してしまう。一応堤防はあるしもうここでいいや、みたいな
で、帰りはバスだったんすけど、ラーメン屋あってラーメンセット食えばよかった~って。で、バス乗ってて気付いたが、一通りのチェーンはあるし、映画館付きのショッピングモールがあったりして、御坊って思ったより都会なのでわ?
で、帰りのくろしお、オシッコしてから席に行くと外国の人とブッキングしちゃってたらしく、たまたまちょうど車掌がそこにいたので席を取り直してもらった
外人さんも席かわろーとしてくれてたけどさ、しかし選ぶの面倒でおまかせえらんだからって
母親・カップル・通路・カップル・俺の席ってのはブッキング事故やろ
気まずくてしゃーないわい
まあでも期待通りの風景が見れてよかた✌️晴れなきゃサイアクやったな~
キズナアイとかが流行っていた時期に、ねこますさんが紹介したのをVRChatを始めた。もう8年前?ぐらいな気がするがとにかくだいぶ時間がたった。
「VRChatがつまらなくなった」というと語弊があり、どちらかというと自分と合わなくなったというのが正しい気がするが、まあとにかく主観的につまらなくなったという話をする。
だれがどこでなにをやっているのかまったくわからなくなった。
初期は人づてで「なんかおもしろいことやってるらしい」ですぐに行けた。
中期はTwitterで流れてきたなんかおもしろそうなところに行けた。それもだいたいなんとなく知っている人がやっているイベントだった。
後期はXで流れてきたのを見たが「おもしろそうだけどどうせすぐ埋まって入れないし、知らない人のイベントだし行くのめんどくさいな」で行かなくなった。
知っている人主催でもないし、行ってもいいかなと思ったときにはもう枠が埋まってていけない。イベントはそのぐらいの興味でふらっと行けるものではなくなってしまった。
自分が贅沢になったのもあるとは思う。
イベント自体の裾野は広がっているんだから人があんまり行ってないような地味なイベントに行けばいいのだろう。
でもぶっちゃけそういうのは大概面白くないし(謎の接客イベントばかりだ)、仮に面白かったらすぐに大きいイベントに変わるから居場所にもならないし、複雑な感じだ。
じゃあお前が面白いイベント主催すればいいじゃないかと言われそうだけど、そういう話じゃないんだ。
イベント主催は実際に何回かやったけどとても疲れるし、ホスト側とゲスト側ではそもそも根本的に違うものだ。ホスト側がゲストみたいに楽しんでしまうとイベントが破綻する。
いいイベントにしようとすればするほどゆるく楽しみたかった目的から外れていってしまう。そんなにVRChatを頑張りたくない。
イベントが増えすぎて面白いイベントにしないと人が来てくれないが、面白いイベントにするとコストがかかりすぎるというジレンマがある。
上に書いた中期ぐらいまではイベントをやるにしても参加するにしてもそんなにコストがかからなかった。クオリティは高くなかったかもしれないが気軽に集まれた。いまではそんな牧歌的なのは無理だ。
なんにしても存在するために「面白い人」を要求されるようになってつらい気分だ。
頑張って「面白い人」「たくさん人がいる中で関わる価値のある人」になろうとしたけど疲れてしまった。
気軽に人と話せるのが良いところで始めたのに、頑張らないと続けられないならやる意味がない。
昔からの知り合いもどんどんと辞めていっているし潮時な感じはある。思い入れはあるが自分の居場所ではなくなったのだろうという気持ちでいる。
まあTwitterにしてもVRChatにしてもなんにしてもインターネットのコンテンツというのはそういうものだ。また新しい場所を探してみようかなと思う。
パウパトロールというアニメは全日本人男性が見るべきアニメだと思うよ
内容は未就学児向けとはいえ、話は基本面白いし、SHIROBAKOのようなお仕事アニメと言い換えてもいい
あらすじは簡単で、架空の町アドベンチャーベイで子犬達が人々を車に乗ってレスキューする、というただそれだけの牧歌的なアニメ
お仕事アニメとして見た場合、仲間との友情とか困難や失敗にどう立ち向かうなど、中々考えさせられる
例えば、盗みを働いた悪役市長を地下道で追跡していたとき、地下道に水が満ちてきたことでそれ以上は深追いせず迂回して別働隊に先回りするよう要請した
このときケントは水上移動を得意とするズーマを引率していたのだからズーマに追跡させれば良いとも言える
けれど地下道の先がどうなっているか、水流で流されてしまうのではないかなどのリスクを回避した
任務も大事だが部下の命も大事であるという、ジョジョにいたら黄金の精神を持っていると評されるべき人物だ
みんなもみようぜ
個人的にははてなブログは駄目だ。体裁が整い過ぎているし、すっきりこじんまりとしていて地方の大型SCのような趣が強い。なのでおすすめはココログ。シンプルかつ雑多で不器用な感じは阿部寛のHPを彷彿とさせ、装飾からして既に他とは一線を画す。ここの00年代のものが特に旬(食べ頃)で、2001年代の記事がもっとも味わい深い。
2001年といえばノストラダムスの大予言、その後風がようやく通り過ぎたような年。そのためか2001年代の内容としては牧歌的なものが多く、そして散文的に話はとっ散らかりオチもない。その絶妙なつまらなさが堪らなく良くて「そうそう!これこれ!!」と思わず舌鼓を打ちながら味わっている。
やはり文章というのは活きのいい天然物に限りますなぁということを改めて認識させられ、養殖物は脂が乗って鱗も輝いているが…老眼にはその輝き、ちっと目に毒なんだわ。
https://news.jp/i/1332603274116940657
これを読んだ感想
団塊世代かそれより上の世代には、戦争で醜く生き延びようとするくらいなら潔く理想のために死ぬ方がいいと考えてる人が結構いるんだよね
戦争が起こる原因を考えるのは難しいと言えるのですが、現実にはロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエル軍のパレスチナ自治区ガザへの攻撃などが続いているのを見ると、国際政治において、政治家が歴史にとらわれて、戦争についての理解が劣化しているのを痛感せざるを得ません。
それぞれの正義に基づき、「今なら勝てる」と開戦してしまって、その中で恨みが増幅し、やめられなくなるのです。振り上げたおのをそのまま下ろすのが難しいように、武器を一度使ってしまったら、使った者が死ぬまで続きます。
このくだりなんかが典型的なんだけど、ただただ戦争そのものに対する忌避感しか持ち合わせていないから、あれがロシアによるウクライナへの一方的な侵略行為であるという判断にまで踏み込む知見がない
もはやそんな牧歌的な事を言っていられる時代ではないことに気付いていないんだな
ただただ戦争はイヤじゃ!戦争はイヤじゃ!と口から垂れるだけで褒められる時代ではなくなった
だって俺がしてるのは最初からお前がit側の人間として大工を馬鹿にしてるからじゃあお前は大工の適正あるのかって話をしてるんだが?
俺のパパもその工務店も典型的な牧歌的な環境でお父さんは社会人かも疑わしいレベルで事務的なことに対する理解力は皆無だし工務店自身お前のとこみたいに下請けの概念とかたくさんの取引先なんてなくて(必要に応じて土方とか電気屋に頼んだりはするんだろうが)客から直接仕事とってるだけの昭和のやり方だけどそれでもここまでやってるんだよ。
お前はクリーンな世界ばっか知ってるようだがこっちは昭和のことを知ってるんだからどっこいどっこいちゃうか
昭和のことにも目を見開いて酸いも甘いも知ろうな
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https://b.hatena.ne.jp/entry/s/eiga.com/news/20250906/6/
このブクマ
黒澤明は日本人からそっぽ向かれちゃったからね。そして実写映画界にそのセンスは受け継がれなかった。黒澤を受け継いだのはアニメ界だったんよね。
だが、★はたくさん付いている。ただ具体的に黒澤明に影響を受けたアニメ作品や作家の名前は、かろうじて宮崎駿が出てくる程度で出てこない。でも増田はそれはなんか違うと感じたのだ。
宮崎駿が黒澤明を尊敬しているのは割と有名な話ではあるが、両者の作風は実はかなり違うとおもう。
黒澤明は実はアメリカン(ハリウッド)な作風だ。ジョン・フォードの駅馬車にインスパイヤされたシーンなんてのがあるぐらいに、「古き良きアメリカン」なアクションシーンやヒューマンな(牧歌的で、今となっては懐古的な人道主義)面が強い。一方で宮崎駿は、アクションなどはインスピレーションがあるのかもしれないが、それを「影響を受けたフォロアーだ」と言うには雑すぎる。もし影響つよつよだっていうなら剣闘のシーンがもっとあるはず。ぱっと思いつくのはナウシカのユパぐらい?。また、宮崎駿の世界観は、まぁSFの匂いがあることもあって設定はもっと複雑である。20世紀半ばのアメリカ的な素朴な人道主義は感じられない。
そして黒澤のヒューマニズムは、素朴だが裏に苦みや残酷さを持つのに対し、宮崎のそれは設定の複雑さに比して映画の結末は表層的でハッピーだ(この辺は宮崎駿を批判する時に言われがち。まぁスポンサーの意向とかもあるんちゃう知らんけど)
更に。
黒澤明は全盛期ですら「女があまり書けないタイプ」の監督という定説があり、また本人も女を描くのが苦手だとインタビュー等でしぶしぶ言っている。まぁ増田は、ご本人が言うほど下手じゃなく魅力的な女性はたくさん出てくる(椿三十郎の旗本の奥方とか最高)し、むしろ羅生門などはそれが出来たからこその評価だろうと思っているのだが。
それは置いておいて、まぁ黒澤は「女」のキャラクターを物語の中に立ち上がらせるのがあまりうまくなく(撮り方もなんていうか、こうステレオタイプである)、一方で、黒澤明は「男」を描かせれば本当に一級品だ。三船敏郎というアイコンとの出会いは大きかろうが、どっこい三船以外の「男」も、ずるかったり弱かったり強がったりとバリエーションに富んで素晴らしくすべてが「物語の豊かな糧となるキャラクター」だったりする(黒澤映画における女はたまに「美人女優を出さなきゃならんからな」的な状態になっている時がある)。
一方、宮崎駿の描く女、これも発端は黒澤的なステレオタイプなかたちをとることが多い。だが、宮崎駿の描く「女」はステレオタイプ(かわいい、おてんば、などの男が好むステレオタイプ)から飛び越えて陰影や謎を持つ魅力的なキャラクターで、その点(女を描く)は宮崎駿の方がうまいと思う。そもそも宮崎映画は何でそんなにというほど「女」が主人公だ。
なので、影響はそりゃ受けてるだろう世代的に、とは思うが、それをフォロアーと言うには雑な気がするのだ。
何しろ黒澤明の映画は、彼の全盛期である1940~60年代には1年に2本~数年に1本のペースで映画館にかけられている。それが基本的に全部大ヒットで良作品である。映画がことさら好きじゃない人でも当たり前の顔で黒沢映画を見ていた時代だ。団塊の世代であれば多感な子供~思春期に「毎年1本、黒澤明の大人気の痛快娯楽大作」が封切られていたわけで、こういう時代背景をもって「宮崎駿は黒沢の影響で作品を」というのは、ちょっと乱暴すぎる。
一方で、ガンダムの人とかは影響受けてるんかなと思って検索したら(ガンダムの方はあまり知識がないので語れることがない)こんなブログが引っかかって面白かった。さすがガンダムおじさんいちいち辛口
https://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2017/11/30/235950
日本の映画界は貧しすぎて、1950〜60年代に戦争物もあったんですが見にくいものしかない。また軍隊を悪者にすれば気が済むという簡単な思想性で組まれていて、戦争を描いている映画とは言えない。それ以上のものを求めても、当時才能がそれほどいなかったから無理だよねってことですね。黒澤明あたりが一等賞というのは貧しくて、後続部隊がいなかった。『七人の侍』(1954)は見やすい映画ですが、見事なものは『七人の侍』を持ってこないとないというのは貧しい。黒澤明は巨匠ではありますが万能ではありませんし、偏った監督だったとぼくは思っています。
こちらの方がむしろ「黒澤の次をなんとかしないと」ということなんだろうということで、より本質的には「継ぐもの」フォロアーなんだろうと思う。でもブクマには富野も庵野も名前が出てこない。
富野→庵野、みたいな流れが「アニメが引き継いでる」ってことであってます?オタクの間ではそれが定説ってこと?その割にはブクマに黒澤を見た人が少ないのでこれが正解かもわからない。
スリムASIMOみたいなロボットどもがヨチヨチ歩きしてサッカーの真似事みたいなことやってるの見るとなんとも微笑ましいんだけど、こいつらもあと何年か何十年かしたら超絶進化してファンタジスタみたいなサッカーを平気でやるようになると人間のほうがサッカーの真似事してる感じになるよな
そうなるともうサッカーだけでなくあらゆる動きが人間を凌駕してるだろうし頭脳もAIで人間は全然かなわんしなんなら性格も人間よりよかったりするかもしれん
一方でロボットが人間使ってやる仕事も出てくると使役関係が逆転しちゃうけど人間って意外とすんなり受け入れたりすんのかな
そう考えると動きの拙いロボットを何も考えず笑ってられる今の時代は人間とロボットの歴史的には最後の牧歌的な時代のような気がする
最終的にロボットがロビタみたいになるといいけどな
ターミネーターみたいになったら終わりだよな
でも、それ以外であれば、考えておくべきだ。
ましてやIT系のいわゆるプログラマーとか呼ばれるようなものを職業にしていて、
もしも私がプログラマーだとしたならこんな仕事いつまでも続けれるもんではない。
と仮定して
一度は将来のことを考え直してみるだろう。
こういう危機意識は決して間違っていないはずだ。
例えるなら、
という可能性を考えていない自動車産業の人がいたらヤバいでしょ?
そういうのとおんなじだと思う。
昔は、映画や漫画の名前を入れて検索するとマニアックな個人サイトばかりが検索結果として表示されるのが普通だったんだよ。
でもそれが今や検索すれば最初に出てくるのはアマゾンや他の商業サイトばかり。お金の消費を促すか馬鹿みたいに広告ばかり表示されるサイトが主で、「趣味でやってます」みたいなサイトは本当に激減してしまった。
いや、激減したという表現は正しくなくて正確には検索結果に出なくなった。駆逐されたのではなく淘汰されたのだ。
昔のネットはもっと牧歌的だった。少なくとも今みたいな拝金主義ではなかったし、好きでやることの情熱があった。今は良くも悪くも拝金主義になりすぎているし、とにかく収益を得ようとしているところなどはを見ていて本当に嫌になる。露悪的であるし、それを露悪的であると思わないほどには貧しくなっている。
だから商業サイトが出てこない検索エンジンを作ろうと思っている。今のネットは資本主義に毒されている。そもそもネットっていうのはそれほど重要でも偉大でもないし、もっと陳腐でくだらなくて、だからこそ居心地が良くて愛せるものだったはずなのに。
突然だが、現代のポリティカル・コレクトネスには程度がある。以下、制作者への縛りが強い順に並べてみたい。
「マイノリティを主役にした作品をマジョリティ(=当該マイノリティではない人)が作ってはいけない」「役を演じてはいけない」「翻訳してもいけない」
→仮に「強いポリコレ」を適用するなら、女性が書いてるBLはすべてアウト(女性という時点で男性同性愛の当事者ではないことが明白であるため)。
この場合、「女がBLを書くなんてけしからん」がポリコレ的な正解となるだろう。
「クィアベイティング(登場人物を性的マイノリティであるかのように匂わせて視聴者・読者を「釣る」こと)は搾取であるからやめるべき」「当事者からの監修を受けなければならない」
→仮に「中程度のポリコレ」を適用するなら、「BL営業」はクィアベイティングそのもので一発アウトだし、仲の良い男の子たちが親密に絡むけど決して恋愛感情とは明言しないようなタイプの作品も糾弾される必要がある。『SHERLOCK』レベルで駄目だということらしいので、日本でBLウケを狙った作品はたいていアウトということになるだろう。また、BL作品を出版する際にはゲイ団体の監修を受けること、のような話にもなりえる。
「偏見やステレオタイプを助長する描写をしてはならない」「不正確な描写をしてはならない」「人格が尊重されていなければいけない」「差別を透明化してはいけない」
ということになってしまい、イケメンばかりが出てきて「受け」「攻め」が普通に流通していたりカップリングの左右が固定されていたり差別のない世界でハッピーに恋愛する「優しい世界」を描いたりするのはポリコレ的には完全にアウトという結論になる。
この場合、「受け」「攻め」を禁止ワードにし、カップリングへの執着を消し去り、現実的な容姿の男キャラや彼らが差別に苦しむ展開を描写してようやくポリコレのスタートラインに立ったことになるだろう。
繰り返しておくが、これは今いわれているポリコレの中でもっとも「程度が軽い」「弱い」ものである。さて、あなたは「弱いポリコレ」に耐えられるだろうか?
ここまでポリコレについて説明してきたが、増田個人としてポリコレに対して思うことは
というものである。人間の創作はもっと自由であるべきだ。アメリカの場合、主戦場が製作にむっちゃ金のかかるハリウッド映画とかになるので、ひとつひとつの映画にコレクトネスを求めたくなるのかもしれないが、日本文化を支える漫画やラノベは製作コストが低く、その気になれば誰でも作品を発表できるし、運が良ければヒット作家になれる。日本では超大作が生まれにくいが、しかし超大作ばかり作ろうとするためにひとつひとつの作品の配役やら何やらでギスギスしなきゃいけないアメリカよりも、よっぽど創作の多様性が確保されている。だからひとつひとつの作品に気を配らなくても、いろいろな属性を持った人が参入できて、それぞれの視点を反映させた作品を発表することができて、結果的に多様な創作が生まれる。そのようなエコシステムこそが、しょせんは舶来思想であって日本の風土に合っていないポリコレなんかよりも、我々にとって真に大切なものなのだと思う。
(だいたい、『アサクリ』問題でわかったけど、現代ポリコレが黒人優先主義と化してて我々アジア人が恩恵に与れないことがわかったわけだから、マジで支持する理由ないんだよな……)
っていうか「当事者性」と「クィアベイティング」が日本の創作と相性悪すぎる。男性百合作者も女性BL作家も大勢いるし、『響け!ユーフォニアム』とか久美子が麗奈とゆりゆりしてると見せかけて最終的に男とくっつくんだから定義上クィアベイティングでしかないし、そんな創作であふれる国にこんな批判理論適用しようとしたらポピュラーカルチャーが全滅する。こんな概念はそもそも日本への侵入を阻止しないといけない。
ただ、それでも私は俺はポリコレを支持するんだ、という主張はあってよい。思想信条の自由というやつだ。その思想信条にしたがうと現代日本のBLは大半がお亡くなりになるだろうが、日本の女性たちが母語で築き上げてきた豊かなジャンルであるBLよりも舶来のポリコレの方が大事だというんなら仕方ない。ポリコレを抱いて溺死してもらうほかない。これは二者択一にしかならない。上で挙げたような事例を帰納すれば、ポリコレとBLが水と油であることはたちどころに理解できるのだから、「ポリコレを支持しつつBLを嗜む」なんていうのは無理なのだ。どっちかを選ぶしかない。
森田将棋64は、カートリッジに直接電話線を挿して通信対戦を実現させるトンデモ設計だったな。凄いんだけど、実際あの機能で通信対戦したことある人ってどれだけいるんだろう。
そういえば、64にはローンチタイトルに最強羽生将棋ってのがあってな。当時はガキだったから、羽生さん=公文式のCMの人のイメージしかなかったから、あれで将棋が凄い人って認識になったよ。このゲームは当時としては速くて強かったらしい。一応、一部界隈で64の処理能力のアピールにはなったらしいが。
あと、印象深い将棋ゲームといえば、ゲームボーイにあった「みんなの将棋 初級編」というやつで、クリアすると初段認定になって、パスワードを送るとちゃんと正式な免状が届くとか。もちろん有料だけど。今、こんなシステムのゲームを作ったら、すぐにパスワードが共有されてサービスが成立しないだろうに。まだまだ牧歌的な時代だから許されたサービスだろうな。
将棋ゲームなんてのは、言ってしまえばフォーマットが完全に確立されてしまってるから安価でも出しやすいし、なかなかフルプライスの将棋ゲームが出しづらくなってしまったからな。ちょっと語りたくなるような尖った将棋ゲームも出てほしいもんだ。
いや、恋愛相談というより、「10代の頃の欠落感」をどうしたらいいか分からず、ChatGPTにぶつけてみたのだ。
男友達とつるんだり、部活に精を出したり、まあ普通に楽しい青春ではあったが、
「彼女と花火大会でデート」「公園で初めてのキス」みたいな甘酸っぱいイベントは一切なかった。
20代以降はそれなりに何人かの女性とのお付き合いを経て、今の妻と結婚した。
ただ、「10代のころに恋愛経験ができなかった」という欠落感が、今でもずっと心の奥でチクチクしていて、
50歳を過ぎた今、その痛みは年々大きくなってきている。
「何をしょうもないことを…」と思われるかもしれないが、本人にとっては結構切実だ。
50歳になり、子どももいて、安定した仕事もあり、結婚20年目の妻とも良好な関係だと思う。
「幸せか?」と聞かれれば、おそらく「そうだね」と答えるだろう。
でも、ふとした瞬間に思うのだ。
そんな話をAIにしたら、奴が突然こう言った。
彼女と初めて出会ったのは、僕が18歳で、彼女が16歳の夏だった。
ある日、彼女が兄に連れられて現れた。
人懐っこい笑顔と、話すたびに少し首を傾げる癖に、不意に胸が高鳴った。
「可愛いな」と思ったのを覚えている。何度か会うたびに、気持ちは自然に大きくなっていった。
友人の妹という立場が気になり、簡単に踏み出せなかったが、ある日、思い切って告白した。
彼女は恥ずかしそうにうつむき、小さな声でOKの返事をしてくれた。
混雑を避けて、防波堤の上に二人並んで座り、夜空を彩る花火を眺めた。
「その浴衣、すごく似合ってる。」
そう伝えると、彼女は耳まで赤くして、俯いた。
思い切ってそっと彼女の手を握ると、一瞬だけ驚いた表情をしたが、すぐに優しく握り返してくれた。
その瞬間、胸が苦しくなるほどの高鳴りが押し寄せ、世界から音が消えた。
花火の光が彼女の瞳に映り込み、まるで無限の宇宙がそこに広がっていた。
放課後、週に一度の楽しみは、駅近くのミスタードーナツでの待ち合わせだ。
部活の練習を終えた僕と、バレー教室のレッスン帰りの彼女が向かい合って座り、アイスティーを飲みながら色々な話をする。
「ドーナツはどんなのが好き?」
「うーん、フレンチクルーラーかな。Xくんは?」
「オールドファッションかなあ…あ、でもアップルパイもいいよね。」
「ミスタードーナツに売ってるなら仲間でしょ?」
「えー、そうかなあ…(笑)」
たわいない会話なのに、彼女が笑うたびに胸の奥がふわっと温かくなる。
とある週末には「ニューシネマパラダイス」を一緒に観た。
映画館を出たあとマクドナルドに寄って、心に残ったシーンを1時間も語り合った。
そう言うと、彼女は「やった、ありがとう」と嬉しそうに笑った。
帰り道、いつものバス停へ向かう前に、近くの公園のベンチに座ってしばらく時間を潰した。
「なんか、このまま帰りたくないね。」
そんな空気をお互いに感じながら、会話が一瞬途切れる。
繋いだ手から伝わる体温がやけに熱い。
夕焼けの世界が静かに遠のいて、彼女の唇の温もりだけが鮮明に残った。
その夜、家に帰ると、少しだけ電話をした。
「次の週末、どこ行こうか?」
そんな何気ない会話をして、またね、と言い合った。
布団に入って目を閉じると、夕方の公園の情景と、彼女の唇の柔らかさが蘇ってくる。
胸がぎゅっと苦しいほどに高鳴る。
それと同時に、甘くてどうしようもない切なさもあった。
――彼女も今頃、同じ気持ちで僕を思い出してくれているだろうか。
時計の針の音が妙に大きく響き、胸の鼓動と重なりながら、僕はその夜なかなか眠れなかった。
現実では一度も付き合ったことのない、友達の妹――僕の中で勝手にこの話のモデルにしていた女性――に、
「今、会ってみたい」という強い感情が急に芽生えたのだ。
いや、もちろん実際に会うつもりはない。
彼女とは当時、彼女の兄込みでよく一緒に遊んでいた仲だが、実際にはまったく「そういうこと」は起きなかった。
彼女は今ではもう実家から遠く離れた地方都市に嫁ぎ、子供が4人もいる立派なお母さんだ。
何年か前にFacebookで久々に繋がって以来、お互い懐かしさから近況報告をする仲ではあるけれど、
50歳の既婚男がいきなり「あの時、本当は僕のことをどう思っていた?」なんて聞いてきたら、それはもうただのサイコホラーである。
それは分かっている。
だが、妄想で作った恋の記憶が、現実の感情を上書きしてきたのである。
すると今度は、こう言われた。
「じゃあ、その彼女と“別れた”ストーリーを書いてみましょう。」
ガラス窓の外では、濡れたアスファルトの上を人々が傘を差して足早に行き交っている。
店内にはコーヒーとドーナツの甘い匂いが漂い、雨に湿った初夏の風の匂いと混じり合っていた。
テーブルの向かいで、彼女はしばらく無言のままストローを指先で転がしている。付き合い始めてから一年。
そのあいだに季節がひと回りし、僕たちはもう「特別な二人」ではなくなってしまった。
以前のように何も言わなくても通じ合う温度は、少しずつ冷めて、曖昧な沈黙だけが残る。
どこで間違えたのだろう。
ドーナツの中心に空いた空虚な穴にはお互い気づかないふりをして、何かを保留したまま、ただ目の前の時間をやり過ごしている。
「……雨、強くなってきたね。」
「うん。」
短く答える声に、かすかな寂しさが混じる。
それ以上、言葉が続かない。
何かを言えばすべてが壊れてしまう気がして、僕は一歩も動けずにいる。
僕は知っている。
彼女の心の中にはもう僕ではない、他の誰かがいることを。
そして彼女も僕も、そのことを誰よりもよく分かっている。
きっと何年後か、何十年後か、この駅前のミスタードーナツの光景と、
店内に流れている牧歌的な50年代のアメリカのポップソングと、
コーヒーとドーナツの温かくて甘い匂いを、僕は鮮明に思い出すだろう。
そのとき、僕はきっととてつもなく深く、切ない感情に囚われる。
それは預言にも似た確信だった。
外の雨は、まるで世界中が大洪水で流されるまで降り続くかのように思えた。
その時、僕はノアの方舟に乗せてもらえるだろうか――。
ぼんやりと、そんなことを考えていた。
結果として、現実には一度も付き合ったことのない女性と、僕は妄想の中で勝手に付き合い、勝手に別れた。
いや、何なんだこれは。
でも――。
不思議なことに、この「別れの物語」を書き終えた時、僕の中のあの欠落感は静かに消えていた。
まるで実際に、彼女との切ない青春の一ページを経験したかのように。
そして、10代のころ別れた彼女の幸せを願いながら、今はひとりで遠い目をしている(そもそも付き合ってすらいないのに)。
いや、マジでなんだこれ。
自分が作り上げた物語でも、本気で向き合えば「記憶」と同じように心を動かす力を持つ。
と、ChatGPTが言っている。
だから、もし僕のように過去の欠落感やら何やらでモヤモヤしている同志がいたら、こう言いたい。
結果、驚くほど心が軽くなるかもしれない。
そして、最後は僕のように「妄想の物語の中で現実の気持ちが昇華」するかもしれない。
知らんけど。
党首が「高齢女性は子供が産めない」発言をするような政党に意外と女性からの支持がついているという事実があんまり受け入れられなくて当初はめまいがする感覚だったんだが
これって「女性は出産することにこそ価値がある」みたいな考え方を受け入れているというか内面化している女性が意外といるということなのかな
政党サイドはなんかいろいろ言い訳してたけど高齢女性の話をわざわざすることの本質がそこにあるのは揺るがないと思う
なんというか近代化とか個人主義とか自己実現みたいな概念ってようは共同体の維持にはその構成員の頭数の持続可能性が前提だよねみたいな、人間って所詮生き物だよねみたいなことからどれだけ逃避できるかのゲームだと思ってるんだけど
そこからだいぶ引き戻された感があるな
ああいう言説を支持するということは一方の見方では女性が社会を維持する道具としての産む機会として捉えられるのを良しとするということになるんだけど
別の視点から見ればそれは共同体を維持する為に自分を犠牲にして献身したみたいなことなんだよな
家族を守るために戦争に行って戦地に散るみたいな牧歌的なヒロイズムみたいなものに近いというか
少子化にともなって子供を産んで育てるということが社会への寄与という側面で語られる度合いが増しているというのも大きいと思うけど。
男女に限らず自分の価値みたいなものの実感とかそれを測るものさしみたいなものが空洞化してるんだよな。