はてなキーワード: 山月記とは
リアルの知り合いや友人に対しては絶対にやらないのだが、こと好きな作家については好きな子に意地悪するようについつい悪口を言ってしまう。悪口というか、作家自身や作品そのものの特徴を面白おかしく書いたり話したりしてしまう。たとえばドストエフスキーなんかだと、「ギャンブル狂いの作家が、クソデカ感情を抱えて人の話を聞かないヤバい奴の話を書いている」と描写してしまうし、三島由紀夫だと「マッチョを目指しながらも繊細な感受性を備えた作家が、もしもこうだったらという想定を観念的に構成してそれを人工的で息苦しい文体で表現する」なんて言ってしまうし、グレッグ・イーガンだと「理系は文系よりも一段階上の場所にいると隠さない、人間の肉体や精神に手を入れまくる究極の理詰めなワールドビルダー」だとプレゼンしちゃう。
よした方がいいとわかっているのだが、物事をざっくりと要約して伝えるのが癖になっており、そこで妙なウケを狙ってしまう。愛情ゆえに作品の批判すれすれまで行き、時々それを増田に投稿しては怒られたりしている。「夏目漱石の長編は人付き合いと金の話だ」となんてうそぶいたりするが、そういう作家は他にもいるだろう(ちなみに漱石はそれ以外の小品が好き)。
それでもどういうわけか、中島敦だけはいじる気にならないので、自分の中では彼をどこか神聖視しているのだろう。全集を読んだ数少ない作家だし、残りの人生を一人の小説家だけ読むことを許すと言われれば、選ぶのは彼だ。
俺はこれを娘と見ていたのだが、娘が「猫背のまま虎になりたい?どういうこと?」と聞いてきた。
いきなり娘に山月記の話を始める自意識歪めママにはなりたくなかったので「虎みたいに強くなりたいってことだよ」と説明した。
ああ、なんてことだ、本来の意味の3割ぐらいしか伝わっていない。
「猫背のままで?」と娘は返してくれなかったので、ただ「強くなりたい」という歌だと思ってしまったかも知れない。
でもそこで掘り進めるのは感想押し付け狭量ママみたいだから辞めた。
でもそれは弱いままの自分に対して否定と肯定を織り交ぜた強さだ。
李徴のように自意識過剰な自分の存在に対して「心が弱いままでも、物理的には強くなれるなら、そんな不健康な強さを自分のロックとして貫きたい」と宣言している、はずだ。
ギターヒーローとしての強さと、後藤一人としての弱さ、その二つを合わせた自分を「ぼっち・ざ・ろっく」として肯定してくれたことで、走り出した思いを載せた歌詞、のはずだ。
だから「虎」が意味しているのは「強くなりたい」では不正解なのだ。
「猫背のままで」と合わせて2回分の弱さと1回分の強さで、2:1で弱いに偏ったままの歪な強さ、それしか出来ないならそれを目指すという決意なのだ。
たとえば世の中によくあるのは「健全な精神と健全な肉体の両立。つまり強くなることで両方手に入れる!」という完全に前のめりな精神、最終的に0:1で強さが圧勝する強さ、それを目指すことが肯定されがちだ。
そんな世界に押しつぶされ、自分を偽りながら手に入れた見た目だけは0:1だけど実際には1:1の強さなギターヒーロー、そして結局残った1:0で切り捨てた弱さばかりの自分の心、それらを混ぜ合わせて生まれる2:1の弱さ多めの強さ。
「ぼっちちゃんのロックを」と背中を押されたことで、弱さ成分多めなままの自分を光の下に曝け出すことを選らんだから手にした1:0じゃない自分、それが「猫背のままで虎になりたい」なんだって、俺は思ってるから。
でもこんなこといきなり言われても相手は困るだろうな。
一生始まらないんだ。
なんてことだ。
物質的にすら満たされない「何ものでもない」不安とないまぜになったお前らのシニカルごっことは次元が違う。
勘違いしないでおこう。
臆病な自尊心と尊大な羞恥心!まさに俺のことを書いてくれてる!気持ちいいいい!
じゃねえんだよ。
身につまされろよ。
そういう精神性がほぼ否定される文脈で書かれてるんだよ。ロクなことにならねえぞと言ってくれてるんだよ。
お前らの場合は自尊心も羞恥心も尊大なんだよ。臆病であることを誇り羞恥心を尊大に見せびらかしてるんだよ。李徴と逆だ。
お前らみたいなのはいつでも虎視眈々と自分の傷口に塩を塗り付けてそれを人に見せびらかす機会を狙ってる。
山月記にかこつけてそれをやるな。
本当に自分が李徴だと言うのなら自分にとっての袁傪を大事にしろ、今からでも。
※最近山月記を読んだ感想を公開していた某氏のことではない。その人の反応は上で書いた内容には当てはまらない。それにかこつけて山月記うおお!しているあなたたちに言っている。
李徴は人虎の王となり、中国大陸じゅうの虎を従えるようになった
彼らは人々の村や街を襲い、人々が恐れる存在となっていた
その噂を聞き、李徴の元に赴いた袁傪だったが、李徴は、おまえなど知らぬ、とマジで記憶を失っていた
しかし、袁傪と李徴が会話を繰り返すうちに、一瞬過去の記憶がよみがえる李徴、
「俺に!この俺に人としての記憶が残っているうちに!俺を殺せ!袁傪!」
というありがちな展開を迎えるも、懐に飛び込んだ袁傪は再び人としての記憶を失った李徴に逆に殺されてしまう
虎たちの勢力拡大の勢いは衰えを知らず、中国大陸どころかシルクロードを伝って西方まで、虎の勢力圏は拡大する一方であった
人間たちは従属の証として、女豹の顔をしたようじょを李徴に献上した
ロリペドであった李徴はたいそうお喜びになったが、そのようじょこそが人間が女豹のマスクを被った刺客であった
教養に何の意味があるか分からないと言ってるのを見かけたが教養はその人の育ちを手短に判断するための情報だぞ。
昔欧米ではシェイクスピアが分かるか分からないかで育ちや知的レベルが分かってしまうので、日本人はその辺りの暗黙の教養がない状態で留学して苦労した人がいたりする。
日本でも春はあけぼのだとか山月記だとか吾輩は猫であるとか走れメロスだとか国民が広く共有している教養としての文化があるわけだ。
先に述べた春はあけぼのレベルだと小学校中学校の教科書で学ぶから日本の義務教育程度は受けていると分かる。
もうちょっとレベルが上がると戦国武将や歴史に関わる教養になってきて、それが分かるとある程度ちゃんと勉強してるなというのが分かる。
格言を使えば何を言いたいかをショートカットして伝えられたりする。
ネットのスラングで例えるとggrksはショートカットされてて何を伝えたいか詰まってる。
ggrksが分からない相手だと、こいつはネットリテラシーが低いからこいつとこの話題に付き合ってもしょうがないとか判断ができたりする。
教養というのは当たり前に我々の文化に浸透して根付いているものなのでその有益性や活用について自覚してない人が多いかもしれないが、昔は非常に重要だった。
教養の有益性を感じにくくなったのは日本の教育レベルがある程度高くなり普遍的になったため、育ちや知的レベルを手短に判断するのに活用しにくくなっただけだ。
現代ではもうちょっと違うものが教養の判断に使われていくだろう。
ビジネス用語だとアジェンダとかアサインとかイニシアチブとかエスカとかある。
相手が分からないと、ビジネス用語が必要な界隈にいないのだなと判断できる。(逆に自分がビジネス用語を使う界隈にいるなどの余分な情報を相手に与えるケースもある)
教養が指すのが何かは文脈によって時々変わりあまりにも広い範囲の単語として使われているケースもあるが、本質としては相手のランクを手短に判断したり、お互いのランクが一定水準以上だと確認し合うために使われたり、そういう用途になっていると考えて良い。
なんか、山月記の感想で多いのは、偉い悪人に頭を下げる公務員職が嫌だからって安易に辞するべきではない、みたいなのが多すぎるんだけど、
でも、公務員やってて、俺は汚職に関わるぐらいなら仕事辞めるから、みたいな人は、そもそもその仕事向いてないわけでしょ?
どんな仕事でも表に出せない裏側があるのは分かるけど、それを飲むのも仕事の適正なわけで、李徴はまあ潔癖だったんだろうけど、向いてないことには変わりないよね
ビッグモーターの社員だったとして、街路樹の切断を担当させられても、それをそつなく実行できる人がビッグモーターの社員に向いてるんであって、
俺、法に背くぐらいなら仕事辞めるわ、という人は仕事無理に続けてもつらいだけでしょ
でも、そんな社会に嫌気がして、詩で生きると決めた割に、人虎という中途半端な姿になってしまうということは、まだ虎になりきれていないということ
もう元の公務員に戻ることはできないのだから、残る道はただひとつで、それは徹底して人を捨てて、虎になるということだと思う
仕事を捨て、世間体を捨て、家族を捨て、世を捨て、詩だけに狂う、狂人になれということだと思う
逆に言うならば、究極の詩を作るためには、詩を作るマシーンというか、人生全てを詩に捧げる狂人になるしかないということだと思う
悲しいかな、これがなろう系とかであれば、人虎になった李徴は悪い役人をやっつけて、地方領主にまつりあげられたり、
そのうえ詩人として成功したり、モテたり、異世界ハーレムだったりするのだろうけど、
ブルースカイやミスキーに移行や分散したとしても、そこで存在感出せないと伸びないってのは変わらないからXのせいじゃなくね?
壁打ちだけで伸びる天才の域ではないとの自覚がありながら、営業は創作としては邪道でやりたくない。
己の内なる創作魂が抑えきれなくて絵を描いてしまうわけではなく、承認欲求と金のために創作している。
人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆んど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨みがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。