はてなキーワード: 作業場とは
話は母がガンになったところから始まる。
就職と共に家を出て2年ほどして、母がガンにかかっていることを知った。最初はガンと言ってもピンキリだろうと呑気に構えていたら、余命半年も無いらしい。
母が心配していたのは、典型的な昭和世代の価値観をもつ父のことだった。今でこそ男性も家事をするのが当たり前の風潮があるが、私の親世代は全く異なり、母は専業主婦で父は家のことは何一つ出来ないような人だった。
医者の話によると母は半年以内には亡くなる。その後、父がどうなるかを想像すると、
・二人暮らしから一人暮らしになる(下手したら後追い自殺するんじゃね?)
・酒に溺れる(弱いくせに酒飲み)
・まともに食事をしないので体調を崩す(仕事が忙しいと昼食を取らないなどのため痩せ型)
と、ろくな未来が想像できないため、仕事を辞めて実家に帰ってきた。
まだ社会人3年目だったため、不安もあったが、「親の余命が残り少なかったので親と過ごすため仕事を辞めた。親は死んだ」となった場合に次の仕事を探す時に「家族思いの良い人」になるし、たいして不利にもならないだろうという計算もあった。「自分の人生の時間のうち、1年位を母のために費やしてもいいか」という気持ちがあったのも確かだ。
結局、実家に戻ってから2ヶ月ちょいで母は亡くなってしまった。
母が亡くなってからは「やるべきこと」が多くて悲しんでいる暇はなかった。保険やら役所やら銀行やらの手続き。抜け殻になってる父は役にたたないので、全て代行した。その後、実家の片付け。母が居た痕跡を消したい訳では無いのだが、とにかく”母が居たそのままの家”は良くない。父には生き続けてもらわないといけない。時々思い出すのは良いが、感傷に浸りすぎない環境を整えないとまずい。母に思い出の中で生きてもらうのは良いが、父には今を生きてもらわないと困る。このため二人暮らしで家事の分担を決めて、家計の管理をどうするかなどを父に相談し、実際に家事を分担することで、今後、私と二人で生活していくことを想像させた。運動不足の父に散歩を促すように犬ももらってきた。文句を言いながらも犬にねだられて毎日散歩するようになり、身体的には母と暮らしていた頃より健康になった。
生活を立て直している最中に父方の祖父が亡くなった。祖父は母が無くなる前から寝たきりで病院でただ寝かされて”生きているだけ”の状態だった。父は「できる限りのことは行ってほしい」と望んだため、いわゆる延命治療を行っていた。意識もなく寝たきり。胃ろうを行い、無理やり栄養を流し込まれててただ生命を維持されているだけだった。そんな祖父を見て思ったのは「自分はこうはなりたくない。ここまで延命してほしくない」という事。父は普段から「わしは70歳くらいでころっと逝くわ」と言っていて、延命治療などは望んでいない。ただ、それでも自分の親には長く生きていて欲しいらしい。本人がどうしたいかと、自分の親に対する対応のずれに違和感を感じたが私が口を出すことでもないので、何も言わなかった。
あとから考えると、この頃は色々と大変だった。父と二人暮らしになったのだが、私は父の事をそれほど知らない。とにかく仕事人間だったため、子どもの頃の記憶に父が居ない。平日は私が寝てから帰ってきて、起きる前に出社する。日曜は家には居るがとにかく寝ている人だった。小中高と大きくなるにつれ、家族より友人との付き合いのウェイトが大きくなり、父への興味は薄れ、父の事を知らないまま育った。1つ父に関して大きな出来事というと、リストラされたこと。銀行員だったのが関連会社に飛ばされた。何年かは銀行に席を置くが、その後は関連会社の在籍になり、給料がかなりダウンするとの事。私が高校生の頃だったた、家計の心配などに回す頭はなく、落ち込んでいた父を見て、単に「でかい会社は信用できない」という印象だけが残った。この頃から"絶対的な親"というより"それほど強くない一人の人間"として父の事を見ていたように思う。
母が亡くなってからはとにかく父に話しかけた。幸いにも私は仕事で独立できたので、その話。ひとり社長の会社だが、父は独立したことを喜んでくれた。父はとにかく新聞を読んでいた印象だったので、私も日経新聞を読み時事の話などをふった。銀行員だったから経済には詳しいだろうと経済の話をふったら思ったほど知識が無くて驚いたこともある。父との関係は成長過程で作られたものでなく、母が亡くなってから作った割合が大きい。二人で暮らしているので、調理が面倒になると頻繁に二人で飲みに行った。週1ペースでは飲みに行ってたので結婚するまでに父とサシ飲みしてる回数は200回は超えるんじゃないかな?
そこから私が結婚して家を出るが、実家に作業場を残し日中は実家で仕事をしていた。一緒に昼飯を食べにくことで父が一人にならないように気をつけてた。趣味がなく、人付き合いもない父。一人にすると間違いなくボケる。とにかく人と関わらせなければならない。それを言い訳に子育てに使いまくった。自分の仕事が忙しいときは子どもの面倒を頼み、余裕があるときは父と一緒にあちこちに出かけていた。
母が亡くなってから15年経った頃、父の様子がおかしくなった。トイレでしょんべんを撒き散らしていてズボンがしょんべんで濡れている。外出した際に赤信号に気づかずに渡ろうとする。認知症だった。
父に言われていたので、すぐに施設を探した。区の相談窓口に行きケアマネージャーさんを紹介してもらい、入所可能な施設を探してもらう。幸いにもすぐに施設は見つかり入所させた。ここから父の電話攻撃が始まる。自分がどこにいるかわからない父はすぐに私に電話をかけてくる。「なんか部屋が変わってるねんけど」「飼ってた犬がいないけどしらんか」話す内容は毎回同じ。1ヶ月の電話の回数をカウントしたら150回を超えている。1日5回のペース。精神的にかなりきつい。余裕がある時は普通に話せるのだが、仕事が詰まっている時に電話がかかってくると本当に切れそうになる。こちらがまいってしまい一時的に父の電話を着信拒否したら、施設を出ていき行方不明。幸いにも警察に保護されて無事だったが、電話の拒否もできなくなる。結局、電話攻撃が落ち着くまでに1年以上かかった。
定期的に見舞いに行き外食に連れて行っていたが、認知症が進むと父を外に出せない。ランチで寿司屋に連れて行ってる時にゲップ、屁をこく、しつこく酒をねだるなど、行動が制御できなくなっていく。医者に酒量をコントロールするように言われているので、日本酒1合で止めるが、我慢ができない父。大将に「飲ましたりーや、可愛そうやで」と言われたのには本当にムカついた。結局、コロナの流行もあり、外食するのも止めた。このあたりで「父はなんのために生きているんだろう」と考えることが多くなる。妻をなくし、好きだった酒もタバコも私が止めさせ、美味しいものも食べに行けない。残っている楽しいことは、正月などに孫と会えるくらいだろうか?ただ、認知症が進むに連れ、会話ができなくなる。短期的な記憶ができないため、会話が続かない。「(孫の名前)、もうこんな大きくなったんや」という話が10分おきにループする。孫側からしても会話に付き合うのが大変だと思う。それでも家族が集まって賑やかな状態の中に居ることが楽しそうには見えていた。楽しませることが出来て良かったと思ったまでは良いんだけど、施設に戻るのを本気で拒否して声を荒げられるのは勘弁してほしい。
この後、脳梗塞、大腸がんなどがあり、その都度「ああ、もう寿命かな?」と思いつつもなんとか生きていたのだが、少し前に大腿骨を骨折して動けなくなった。肺炎などを併発してなかなか骨折の手術が出来ず、ベッドに寝たきりになってる間に筋力が極端に落ちた。肺炎が収まり骨折の手術は出来たが、食欲が戻らずほとんど食事をしていない。延命治療を拒否し胃ろうは行っていないため、現在は点滴にカロリー摂取を頼っている。点滴の管が太いために腕からではなく、首に点滴の針をつけている。認知症の父に状態が把握できるわけもなく、意図せず外そうとしてしまうため、手を拘束せざるをえない。見舞いに行くと部屋に入る前から「助けてください、助けてください」と父の声が聞こえる。自身の状況が把握できず、拘束されているのは本当に怖いと思う。非人道的だと思うが、看護師さんからしてもどうしようもない。説明をしても5分すれば忘れる。誰かが立ち会っている間は拘束を解いて問題ないため、見舞いに行き拘束を解いて状況を説明しているが、私が帰って5分すれば忘れてしまうのだろう。何年かの間に、私も同じ話をすることにすっかり慣れてしまっていた。
父の状況を見て、自分が将来、安楽死する方法を調べていた時に知ったのだが、日本でがん患者などが自死しようとする場合は餓死する方法があるようだ。水分だけを取り、食事をしないと体を動かすためのエネルギーが足りず、緩やかに亡くなるらしい。
「食えなくなったら終わり」と父本人が言っていて、今すでにその状況にある。何らかの病気の対応のための一時的な絶食ではなく、本人が食事を拒否している状態。カロリー摂取のための点滴を止めれば、父は緩やかに亡くなるだろう。
もう死なせてあげて良いかな
追記:
認知症になった後の治療行為が全て延命か?と問われると難しいです。
大腸がんになった際にかかりつけ医に相談しましたが、そのまま放っておくと腸閉塞になり苦しむことになると聞きました。今回の骨折も、理想的な話をするのであれば、すんなり手術が済み、リハビリが順調に進み、骨折前の生活に戻る可能性もあったと思っています。尿路感染もあったため、救急で運ばれた病院で「延命治療を望むか?」の確認をされ、本人も家族も望んでいないことを伝え、胃ろうはしないで欲しいことを伝えました。その際に「途中で止めれない治療、止めることが殺人になってしまう治療は行わないで欲しい」ことは明確に伝えています。骨折の手術のため、一時的に食べれなくなる事はあると思いますし、その間に栄養を点滴に頼ることもおかしいとは考えませんでした。点滴を取る可能性に関しては担当医に相談し「医師としては勧めれないがそういう判断もおかしいとは思わない」と回答を頂いています。このため、法的に点滴を外すことは可能と考えています。(このあたりは対応してくれる医師とそうでない医師がいるのでは?と推測しています)
両方ですね。自身の判断が客観的にどのように見られるんだろうというのを知りたかったので、ある程度目に止まるようにキャッチーなタイトルを付けました。ただ、自身の判断や行動が人の命に関わるのに、それを直視せず、柔らかな言葉に変えて誤魔化そうとする事が単純に嫌でした。母の時は気づいた時には手遅れで、運命だとか、体調が悪いのにきちんと病院に行かなかった自己責任だと思いながらも、ほとんど恩返しのような事が出来なかった心残りがあります。父に関して単純に流されるままに医師の指示に従うということもできるとは思いますが、最後まで向き合い続けるほうが、自分の心残りが少なくなるのでは無いかと考えています。
心配頂きありがとうございます。ただ家の事は何も出来なかった父ですが、そういう時代に生きた人なので、そこに対して何か不満もなく、搾取されているとも思わないです。介護の話だけを取り上げて書くとしんどい話ですが、子どもが生まれた事を喜び、友人と飲み会にも行っているので、自分の人生にはそれなりに満足はしています。
しんどくて、やりたくないならやらなくて良いと本気で思っています。実際に動いてみて思ったのですが、幸いにも今の世の中それなりに福祉サービスは充実しています。関与したくないならできる限り関与しない方法を探せば良いです。例えばですが、私はシモの世話はやりたくないですしアクシデントを除いて対応したことはないです。目の前のことにいっぱいいっぱいになってる人には、周りが逃げる方法を教えてあげてほしいです。あとできれば、介護している人に対して「かわいそう」、「ちゃんと面倒みたってな」というような言葉は本当に心をえぐるので避けて欲しいです。
優しくかわいい娘と思って読んでた方、すみません。中年のおっさんです。意図的に男女をわからなくしたつもりはなかったんですが…
Bugman Hegel
@FedPoasting
In 2011, my papa was laid off from a Whirlpool manufacturing plant, the kind that had for so long made America great. In the wake of the financial crisis, the C-suite had decided to offshore operations to Mexico.
The plant they shuttered was a 1.2 million sq ft manufacturing plant, and overnight, 1,000 people lost their jobs. Many of whom had been working there for decades.
My papa was 57 years old when he got laid off. He had worked at that very same plant for over 30 years, and snap just like that, it was all gone.
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2011年、私の父は、長年アメリカを偉大にしてきたワールプール社の製造工場から解雇されました。金融危機を受けて、経営陣はメキシコへの事業移転を決定しました。
閉鎖された工場は120万平方フィートの製造工場で、一夜にして1,000人が職を失った。その多くは数十年にわたってそこで働いていた人たちだった。
父は57歳のときに解雇されました。父は30年以上同じ工場で働いていたのですが、突然すべてが消えてしまったのです。
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When I was a little girl, from as far back as I could remember, my papa woke up at 3:30 am and drove the 40 minutes to the plant from the rural 1,200-person town every single day. And for 30 years, he worked what were often 10-12 hour shifts with no complaints.
I grew up a Navy brat, so I didn’t get to see my grandparents except for a few months during the summer, but I remember my papa exerting the last drop of his energy so he could spend time with us going to the creek, building us a tree house, riding horses, and playing cowboys and Indians.
Every evening, starting from when I was in grade school, my papa and I would sit in the living room and watch the History Channel, Animal Planet, and Bill O’Reilly and hee-haw together about what the Democrats were doing, as much as an eight-year-old can.
My papa and my nana had been together since they graduated high school; they got married at barely 18 and had my mom less than a year later and my aunt soon after that.
They had a small homestead, owned most of what they had outright, and they were poor, but poor doesn’t have to mean that much when you can work the land.
My nana worked as the local school’s secretary, and my papa had good benefits with his manufacturing job. They only ever went out to eat on special occasions. McDonald’s was a birthday-only type of affair. They had a one-acre garden, a few head of cattle, would can fruits and vegetables at the end of every summer, and freeze chopped okra, blueberries, meat from wild hogs and venison in an old chest freezer in the workshop.
私がまだ子供だった頃、物心ついたころから、父は毎日午前 3 時半に起きて、人口 1,200 人の田舎町から工場まで 40 分かけて車で通っていました。そして 30 年間、父は不満を言うことなく、10 時間から 12 時間のシフト勤務をこなしました。
私は海軍の子供として育ったので、夏の数か月を除いて祖父母に会う機会はありませんでしたが、父が最後の力を振り絞って私たちと一緒に小川に行ったり、ツリーハウスを作ったり、馬に乗ったり、カウボーイやインディアンごっこをしたりして時間を過ごしていたことを覚えています。
小学生の頃から、毎晩、私とパパはリビングルームに座って、ヒストリーチャンネルやアニマルプラネット、ビル・オライリーを見て、8歳の子どもができる限り民主党が何をしているのか一緒に大笑いしていました。
私の父と祖母は高校を卒業して以来ずっと一緒にいました。彼らは18歳になるかならないかで結婚し、1年も経たないうちに母が生まれ、その後すぐに叔母が生まれました。
彼らは小さな農場を所有し、所有物のほとんどを完全に所有していましたが、貧しかったです。しかし、土地を耕作できるなら、貧しいということはそれほど大きな意味を持つ必要はありません。
私の祖母は地元の学校の事務員として働いており、父は製造業で良い福利厚生を受けていました。外食するのは特別なときだけで、マクドナルドは誕生日にしか行かなかったのです。彼らは 1 エーカーの菜園と数頭の牛を飼っていて、毎年夏の終わりには果物や野菜を缶詰にし、作業場の古いチェスト型冷凍庫で刻んだオクラ、ブルーベリー、野生のイノシシの肉、鹿肉を冷凍していました。
Despite never having been on a plane and seldom ever having been outside of Arkansas, they managed to put both my mom and aunt through college and graduate school without requiring them to incur even a dime of debt. This was the 1990s.
Then at the age of 57, my papa and 1,000 of his coworkers were thrown away like a piece of trash after giving that company decades of their lives. And what were they told to do? What was their consolation prize?
Learn. To. Code.
My papa and nana were born in the 1950s in a place that was quite literally the Wild West just mere decades before their birth.
Growing up, neither of them had running water—they drew water from a well, washed up in a tin tub heated over a fire, and went to the restroom in an outhouse. They were both educated in a one-room schoolhouse and both came from families that relied on their farm’s livestock to feed themselves. People like my grandparents built this nation. They built this nation for their children.
But because the thing they sought to build wasn’t a stock portfolio or real estate portfolio, the preservation of their homes and communities was not something that Wall Street nor Washington saw as having enough value to be anything more than apathetic about blowing up.
飛行機に乗ったことも、アーカンソー州から外に出たことがほとんどなかったにもかかわらず、両親は母と叔母を一銭も借金せずに大学と大学院に通わせることができました。1990年代のことでした。
そして、父と1,000人の同僚は、57歳で会社に何十年も捧げた後、ゴミのように捨てられました。そして、彼らに何をするように言われたのでしょうか? 慰めの賞品は何だったのでしょうか?
Learn. To. Code
私のパパとおばあちゃんは、1950年代に生まれましたが、彼らが生まれるほんの数十年前までは、そこはまさに「ワイルド・ウェスト」でした。
両親ともに水道のない環境で育ったため、井戸から水を汲み、火で沸かしたブリキの桶で体を洗い、離れのトイレで用を足した。二人とも一教室の学校で教育を受け、農場の家畜に頼って食料を得ていた家庭の出身だ。祖父母のような人々がこの国を築いた。子供たちのためにこの国を築いたのだ。
しかし、彼らが構築しようとしていたのは株式ポートフォリオでも不動産ポートフォリオでもなかったため、彼らの家やコミュニティの保全は、ウォール街やワシントンにとって、破壊することに無関心以上の価値があるとは考えられなかった。
ああ、これは典型的な先延ばしとの戦いです。先延ばしに取り組むことは、特に複雑なデータ分析を伴う場合は、かなり難しい場合があります。これを段階的にポモドーロアプローチして、やる気を出す方法を見つけましょう。
1. タスクを認識する**: MWE コードを拡張して、測定データをOO率に変換する実際の問題に適応させる必要があります。
2. 障害を特定する**: 先延ばしの原因が具体的に何であるかを考えます。タスクの複雑さでしょうか? どこから始めればよいかがわからないからでしょうか? 興味が足りないからでしょうか?
小さくて管理しやすい目標を定義します。タスク全体について考えるのではなく、小さなチャンクに分割します。
少し時間を取って、自分の先延ばしのパターンを振り返ってみましょう。なぜ先延ばしをするのかを理解することで、将来それを克服するための戦略を立てることができます。特定のアプローチがうまくいかない場合は、柔軟に対応して戦略を適応させましょう。
完璧であることではなく、着実に進歩することが大切であることを忘れないでください。最初のコードを書くことですでに大きなスタートを切っており、それを基盤に構築していく必要があります。
試す準備はできましたか? 🚀pomodoro
長いです。
中学1年生のとき、太ってて肌が汚いブスってことでいじめられて不登校になった。
派手で性格がキツい同じクラスの女子Aが主犯で、教師も誰も助けてくれなかった。
高校は通信制に行ったけど、2年からがんばって地方国立に進学して、今は税理士になって働いてる36歳です。
派手な復讐じゃないけど、Aを見返すことができてやっと人生を取り戻せた気がする。
昨年末、とある顧問先の企業の年末調整をチェックしていたら、Aを見つけた。
中学の同級生とは全く連絡をとっていないので、Aの近況は知らないんだけど、アルバイトとして働いているようである。
年収は200万円にも満たないから結婚して扶養に入っているのかと思ったが、苗字はそのままで配偶者なし、住所を検索してみると築40年の軽量鉄骨1DKアパート。
私を苛めて学生生活を壊した女が低年収で安アパート住まいなのかと思うと笑ってしまいそうだった。
Aと似た名前や容姿の人にまで怯えて生きてきたこれまでを思うと、この現実だけでもかなり爽快だった。
その会社は先輩税理士から引き継いだばかりで挨拶にすら行ってなかったので、事務員が持っていくはずだった年末調整書類を私が持っていくことにした。
スーツはセミナー講師をする時や壇上に立つ時用に作った一番良いセミオーダースーツを着て、一昨年買った中古のレクサスは洗車してピカピカにした。私自身はいまだにチビのデブなんだけど、身だしなみには気を遣っているから清潔感はあるつもりだ。
引き継ぎの挨拶も兼ねたいと事前に伝えていたからか、顧問先の社長は専務の奥さんと共に歓待してくれて、税理士である私がわざわざ年末調整ごときの書類を持参し挨拶してくれて嬉しいと言うので少し申し訳なさを感じる。
バイト込みで15名程度の大手下請け製造業なので、応接スペースに隣接する作業場で従業員さんたちが働いている。今年買った機械設備の確認と称して作業場にお邪魔してすぐにAが分かった。
Aは中学生の頃、別に美人ってわけではないがイケてる女子だった。しかしなんと今は女版チー牛としか言えない容姿で、更に私よりも太っていて汚らしい。さらにこちらをガン見している。
私の苗字は難読で珍しいので、顧問税理士として話題になった時にでも気づかれていたのかもしれない。Aを見分けたとき、私は気づかないふりをしようと瞬時に判断した。
これは無視するのが一番良いと思った。勝った、と思ったから。アラフォーで低年収アルバイトの汚らしい女。私の10代はこの女に壊されて鬱屈したものだった。通信制高校でも大学でも、怯えや卑屈さが先立ってしまって友達なんかできなかった。なんとか生きていきたかったから税理士資格をがんばって取って、お前の雇用主から丁重なおもてなしを受けているよ。
Aの表情からして私に気づいていることは確実だったけど、顧客企業の初対面の従業員に微笑んで会釈するポーズを上手くやれてたと思う。
なんでAがそんな状況にいるのか経緯を知りたい気もしたけど、客観的に見て私の方が何もかも「上」の人間だと感じた。Aは私に再会したことにすら気づけてもらえず、歯牙にもかけられなかったと思っているはずだ。
事務所への帰り道、これまでの人生で味わったことがないくらい心が晴れやかで、雨が降っていたのに景色が明るく見えた。
事務所に帰ると1月から産休に入る年下の事務員さんが出迎えてくれて、彼女のことが突然心配になった。うちの事務所は古くて段差が多い。いまさらだけどつまずいたりして怖くはなかっただろうか。工事するには遅すぎるけど、不安なところがあったら教えてほしいと言うととても喜んでくれた。社長が持たせてくれたお土産のシュークリームを一緒に食べたら、それもおいしいと喜んでくれてとても可愛かった。
年末の税理士事務所は繁忙期で、みんな疲れきっていたから、初めて使うUberでスタバのドリンクとおやつを頼んだ。私がそんなことをするのは初めてだったので、事務員さんも先輩税理士もとても驚いていた。シュークリームを食べた人たちも含めてみんな喜んで飲み食いしてくれて、楽しい気持ちになった。
この時からなんだかとても人の役に立ちたいと思えるようになった。
私の人生を壊しかけた女の惨めさを見て、そいつを取るに足らないものとして扱った程度のささやかな復讐だったけれど、私のことを凝視していたあの醜い顔はとても胸のすくものだった。
尊厳の回復ってこういうことなのかな、と思った。自己肯定感を取り戻したことで、自分の部下である事務員さんにも思いやりをかけられるようになれて、やっとマシな人間になれそうな気がする。
苛められている私を抱きしめて何度も謝って泣いた母は税理士試験に合格する前に死んでしまったし、父は若年性認知症でかなり前から施設にいる。
孤独な一人暮らしだけれど、新築マンションに住んでレクサスに乗れているし、顧客からの信頼を得られていると思う。従業員さんたちとはシュークリーム・スタバ以降、なんとなく関係性が改善できできたように思う。
中学生の頃からきっとずっと固まり切っていた感情がやっと解けて、初めて人に思いやりをかけられるようになったんだと思う。
ボス税理士にも最近変わった、彼氏ができたか?と聞かれたので、とりあえずすごく良いことがあった、仕事のおかげだから感謝しているし頑張って働くと伝えた。
来週から産休に入る事務員さんが今日、私だけに挨拶のお菓子をくれた。産休クッキーか?とゲスな好奇心を持ったが、地元の有名洋菓子店の美味しいガナッシュだった。産休中に日商簿記2級を勉強するのだと言うが、3級取得に2年かかった彼女がそんな短期間で2級を取れるようになるはずもない。それはそのまま言えないので、産休中は体を労って、復帰してから一緒にがんばろうと伝えたら泣いて感動していた。ずっとバカなギャルだと思っていた彼女がなんだかとても可愛くて、来週から一年会えないのは悲しい。
朝
目が覚めた時すでに時計の針は6時を指していた
だがこうして目覚めることすら
なぜか今ではありがたい
言ってみれば薄汚い作業場だ
簡単に言うとまったくもって単純だった
だがそれでもそれが原因で工場は大混乱に陥った
まず原材料が届かなかった
工場長は冷静を装っていたが
誰もがその顔色を見てすでに不安を覚えた
数字の上では今日だけで3000個のパックを製造しなければならなかった
それもただの夢だ私の心臓はすでに速く打っている
どうにかしなければ午後のシフトに影響が出る
待つ間隣のラインで働く田中が何度も「これどうすんだよ!」と叫びながら
まったくどうしてこんなに毎回こういうことが起きるのだろう
もう何度も経験しているはずだ
私が日々耐えているのはこの絶え間ない不安定さだ
そしてついに届いた原材料
どうしてこんなに厄介なことが起きるのか
「本当にどうすればいいんだろう」
私は何度も呟いた
私の声が誰にも届かない工場の音が機械の音がすべてを圧倒していく
解決できない問題解決策が見つからない焦燥感が私を押しつぶしそうだ
そして昼食時
同僚たちと口を開くのが嫌だった
誰もが同じような愚痴を言い
また来週もこの繰り返しだろう
3つ目のトラブルは急に発生した
なんとか使えるようになったがトラブルの終わりが見えない
午後
製品はどうにか出荷できたが
それも全員が必死にやっている結果だ
結局私たちはどこへ向かっているのだろう
今日もまた何も解決していない机の上に積まれた書類を見るたびに
また明日が来る
誰かがまた何かを言う
私はその声にまた耳を貸すしかないのだろうか
12年無職からの派遣なんだけどやっぱ中小企業は潰れたほうがいい…というか大企業に買収されたほうがいいわ
50年ほど続いている工場だけど
・スマートさがない
・熱意がない人が多い
んだよね。
鉄鋼関係に機械オペレーターとして年単位で勤めているのに鋼の命名規則すら知らない、みたいな感じで基礎知識が欠落している。今やっている仕事について調べようとする熱意すらない。
機械もオンボロで大きいボタンを押すアナログの極み。専用の機械に部品を脱着してボタンを押すだけでデジタル要素皆無。
トラブル対応に出かける際に道具をカゴにまとめるわけでもなく、そのまま積み込むだけ。賢さ皆無。
作業場ももちろん汚い。ボロボロの木床板、ゴム板、それもホコリや金属カス塗れ、機械の操作基盤上や作業台が砂のようなホコリだらけ。5Sの精神皆無。
でも気持ちはよく分かる。流れ着いただけの工場で興味なんて持てやしないだろう。
作業場はすぐ汚れるし、掃除しなくなる気持ちも分かる。でも週5日数時間過ごす場所が汚くて嫌にならないのか?
何より汚い作業場を客が見たらどう思うのか?この時代にITも清潔も糞もない工場内を見て仕事を任せても大丈夫だと思ってもらえるのか?
派遣されて1ヶ月の俺がこう思うんだから、視察に来た取引先の担当者はもっとシビアに工場を見ているだろう。作業員の服装、作業場の備品、棚の整頓され具合、フォークの運転マナー。何もかも、担当者も会社内における自身の信用がかかっているから、なおさらシビアに見ているだろう。実際、再雇用されている生き字引的な方に話を聞くと仕事が減っているそうだ。
この工場はITにしても教育にしても何もノウハウがない。本気で危機感を覚えている中小企業は、職人が培ってきた膨大な作業経験をデータ化したり、知識を平準化すべく資料を整え勉強会を開いたり、IT化にも教育にも力を入れているというのに。
一応、危機感を持っている人は居る。熱意ある上司は居て、忙しい合間を縫って独自の資料を作り教育を施そうとしてくれている。3週間勤めて初めて開かれた勉強会で、3枚あるA4プリントのうち、覚えるべき内容は2行と1図しかなかった。教育の全体図を描いて体系的なカリキュラムを組んだ上での教育という感じではなく、何とかして仕事に興味を持ってもらいたい、でもどう教えれば興味を持ってもらえるか分からず苦慮している様子で、内容は散漫だった。
老朽化した設備と人材では仕事をピンポイントで奪おうと同業他社が出てきた際に負けるのは確実。少しでも作業員の知識レベルを高めたいし、作業を効率化したい。小企業の悪癖と慣習を脱ぎ捨てて中企業へと脱皮したい。足掻いてはいるがどうすれば良いかが分からない。どうすればいいか知識を仕入れるための時間も熟考する時間もない。それが現場の現実で、現場のスキルでは脱皮は遠い。
それなら。
ニッチを突いて成功し、周囲に同業他社が無いことに甘えて危機感も糞もなくヌルッと生き延びてこれた中小企業、設備投資が遅れた中小企業は、熱意とスキルと教育ノウハウとアイデアを現場に整備する技量のある人材を持った大企業に買収されたほうが幸せになれると思う。
お祭りがあり、いつもの通り地元のるガス屋さんに頼みにいったところ、
何とガス屋が「ガスは今年から別にした方がいいよ。イベントの時は○○さん(※地域で手広くやってるガス屋)が出張しているからそっちに頼んだ方が安いし楽よ」とか言う。
は?と思いきや
とのこと。はは~ん?
と言う事で聞いたら、なんと燃料商会を名乗っているのに、もう燃料売るのやめたんだと。マジか。
ガスや灯油もやってるけど、いつからか伝票だけ通して実際には別の業者に依頼して対応していて、概ね地元で手広くやっているガス屋が対応しているんだと。(お祭りにもそこが出張ってくる模様)
お祭り終わって、改めて聞くと
らしい。そんじゃ今どんな商売しているのかと聞いたら
らしい。燃料関係は規模の商売になってしまっていて、もう全然だめなんだと。
で、ワイも息子さんの商売を一緒にやってくれないかと頼まれた。考え中。
最近分かってきたのは、地域の零細企業ってネットワークになってて、いくつもの企業が束になって部門みたいに動くんだなってことだな。
https://note.com/sei_shun/n/n1d4b6243a90c
この記事を見て、似たような建物(場所はもっと山間の中)をリノベした時の別解をメモ
それ以外は特に弄らないつもりだったが、外で食事がしたいと言う需要が現れて、水道の追加は後からやった。
300万円ぐらい。そのうち水回りのプロへの依頼が80万、断熱に120万ぐらいかけている。
貸し出せるようになるまで半年ちょいかかった。ボランティアの協力者も入ってくださったが、ほぼ3人ぐらいで集まれるときに地道にやったため、人件費は入ってない。
周辺の似た建物とキャンプ場とグラウンドを一体運営して、民泊・貸しスペースとして運用中。一棟貸しで合宿利用をメインターゲットだけど、家族連れとか、企業利用とか、地道に営業しています。
オーナーさんが所有して、うちに管理を委託という形態。うちは黒字で補修費の積立も出来てるけど、オーナーさんが負担してくださった金額を入れると無理。
産経新聞が報じているクルド人ヤードで大騒ぎ問題に関して。因みに本稿では記事や事件そのものには触れない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20240818-Q7DJ43L7IVGBVIXACY4JX5FRBY/
産経の記事では冒頭に「過積載の(解体業)トラック」の写真が掲載されている。Xでもよく同じような写真が「クルド人解体屋の過積載トラック」として掲示され「何故か警察が検挙しない!」と指弾されている。
道交法は近年改正され、車両からのはみ出しの制限が緩和された。
後方については車両長の20%以下となった(はみ出しが後方だけの場合)。これはいすゞエルフ2t積みの場合、全長が4.7mなのではみ出しの最大は940cmとなる。写真のトラックはそんなにでっぱっていない。
側方については片方10%づつの両方で20%までが可能になった。
産経の写真のトラックは上の方が広い積み方がされている。一番上に畳が2枚並んであるのでこれを基準に幅を考えてみる。
畳は地方により寸法が違うが関東で使われる江戸間だと短辺は88cmだ。これが2枚で176㎝。真ん中に間隙があり、柱も一本挟まっている。また少し斜めになっている。それらを修正すると188cmくらいか。
エルフの全幅は1.7mなので両側合わせて34㎝まではみ出し可能だ。幅は1.7+0.34=2040㎝まで積載okであるから、全然余裕である。違反ではない。
では高さは?というと、実は規制がないのだ。いくらでも積んでいい。
でも道交法では「道路を運行する車両の最大寸法」が決まっていて、3.8mとなっている。だから荷台の高さに拘らずに全車3.8mまで積める。
しかし3.8mというのは観光バスの屋根とか電車の2階建てグリーン車の屋根の高さで、とんでもない高さだ。だから平トラックでそこまで積むという事はあまり無い。で、写真のトラックもそこまで積んでいない。見たところ3.2~3.4mくらいだ。
重量は?というのは測らないと判らない。でも間隙が多い廃材なので重量はそこまでいかない。2tくらいではないだろうか?因みに木造住宅の重さは30坪2階建程度で30t強といったところ。検索すると1600kg/㎡という数字が出てくるだろうが、これは家の積載荷重と耐雪荷重を合わせた重さで、自重は半分程度になる。また壁材のモルタルや石膏ボード、漆喰を合わせた重さだから木材だけだと大した事ないのだ。
平トラックに積む場合、まずはあおりの内側にコンパネなどで壁を造る。その中で安定するようにテトリスみたいにぴっちり積んで、時にTスピンなんかも駆使して動かないようにする。
コンパネ壁の上に来たら安定する大物を外側に積んで真ん中の方に小物を積んで行く。これもテトリスっぽいな。
いい所まで来たらロープを掛けて思い切り絞り完成。コンパネと大物が押さえになって荷崩れを防止する。
多分、Xとかで騒いでいる人らは平トラックの積み方知らないのだろう。なので解体屋のトラックを見たら全てで「過積載」と騒ぐ。しかも慎重に情報を流すという動機がない。
しかも後ろからではドライバーが何人かなんて判る由もない。クルド人かどうかなんて聞かないと判らない。更に言うと撮影場所がどこかとかどこナンバーかというのも確認しないしその動機もない。
「警察はなぜ検挙しない!」ってそれは平トラックの定積載だからだ。アホやね。
ヤードっていうのは物流基地の屋根のない構内をいうのだが、特に自動車解体屋の車両置き場の事も指す。最近ではそこから建築業の資材置き場や金属スクラップ置き場なんかのことも指す。これは自動車解体屋のヤードの誤用っぽい転用だ。
で、この自動車解体ヤードは簡易な壁で仕切られて中が見えない、中で盗難車解体しているのではないか?と言われ、それもクルド人問題として語られる事がある。
だがこれは無体な論難だ。壁を建てるのは法規制に拠る。
昔の自動車解体屋はテキトーで、その辺に廃車を積み上げ、外して売り物にするエンジンやボディーパーツをその辺に積み上げていた。
だがこれだと廃油や廃冷却水がタレ流しになって土壌にしみ込んでしまう。廃冷却水は河川に流れると魚毒性が高い。
・1.廃車置き場と作業場はコンクリ打ちして排水路を作り、オイルトラップを設置せよ
・2.1が難しい場合は作業場だけコンクリ打ち+排水路+オイルトラップとしてそこで全液体を抜いてから廃車置き場に置け
・十分な高さのある塀で囲って部外者が入れないようにせよ
最後の塀は子供が入り込んでかくれんぼをしてたら転落したり、車ごとプレス機に突っ込まれてキックアスの悪役みたいな死に方するのを防ぐ為の規制だ。
増田は学生時代、金がないからマイカーは買えなかったが整備の腕は幾分あるのでバイト先の友人に駆り出されて工具箱持参で解体屋にフォークリフトで86の廃車を下ろしてもらいミッションを自分たちで外したり、シルビアのノンスリップデフを外したりして金払って帰り、それらを交換したりしていた。日産のL型エンジンは重かったな。
でも今はそういうのは出来なくなっていて、勝手にヤードの中歩いたりさせてくれないしそもそも外から見えないから在庫が判らない。つまらん。
こういう仕事は当然がっつり汚れて暖房も冷房も無いところで働くから人気が無く、外国人従業員が多くなっている。
それで色の黒いガイジン=ヤバいとなって、「中が見えない=犯罪?」と連想ゲームになるのだが、法規制ぐらい知っておけという話である。
「本稿では記事や事件そのものには触れない」って書いがあれは嘘だ。やっぱ記事の中身に触れたくなったわ。というのも地理的条件説明したいから。
記事中に「(川口)市東北部」とあるが、市の東北側には人家がまれな地域があるのだ。一つは旧見沼、もう一つが木曽呂という地区だ。
江戸時代まで川口から大宮にかけて見沼という巨大な沼があった。土木工事狂の三代家光になると、見沼の下の方に堤を造って、今の川口市~足立区を開拓する事になった。その直接指示官は利根川東遷事業や荒川西遷事業を為した治水と土木界のチャックノリス、かの伊奈忠治である。
そこで八町堤が築造され、見沼は巨大溜池となり、その南は広大な田圃となって幕府の石高を上げ、財政情況を改善したのである。
ところで荒川はそれまで元荒川を流れていたので、上尾より下流は入間川だけが流れていた。しかしこの入間川下流は今の荒川と相当に違う所を流れていた。
指扇付近からは今の荒川の西を蛇行して流れ、中浦和駅→武蔵浦和駅→南浦和駅と浦和シリーズ駅スランプラリーしてるみたいな流路を取ってから浦和競馬場に踵を返して川口市を横切り今の外環道をクロスして、川口オート→毛長川→八潮という風に流れていた。地方競馬からオートレースのはしごかよ。
で当時綾瀬駅を流れていた利根川に合流して自由に氾濫し辺りをぐちゃぐちゃにしていた。オケラオヤジの大暴れみたいな奴である。
この川も荒川西遷で廃川になったので広大な土地を開墾でき、その辺は川が無くなったから見沼の溜池で潤すって感じだ。
河川跡は出水しやすいので田んぼとし、その横に形成された微高地(自然堤防、曽根)に集落を築いていたので川跡がくっきり残ったのだな。
で享保の改革の吉宗の時代になると、見沼に泥が溜まって貯水力低下。そこで、見沼を全部干拓しちゃえという事になった。でもそのままじゃ水が足りないね。そこで見沼代用水という用水路を作るのだが、どこから取水してるというと羽生なのだ。見沼から60㎞以上あるのだ。
途中には当然沢山の川がある。そこでどうしたかというと、全部立体交差で通したのだ。江戸時代なのにちょっとイカれた工事だ。舎人ライナーに見沼代用水親水公園って駅があるが、この代用水とは見沼の代わりの用水って意味なのだな。
それ以来、旧見沼は田んぼ地帯となっていて、地盤も悪いし土地が低いから都市化した後もそこに家を建てたり開発行為をしてはならないという規制が敷かれている。
武蔵野線東浦和~東川口間、東武野田線大宮公園~大和田、七里~岩槻で突然住宅街が途切れて田園地帯や荒れ地が広がるのを見た事ないだろうか?あれが見沼なんである。
で、八丁堤の下にあたる川口市の方は開発一切禁止というんじゃなくて調整地域という形になっている。これは一般の都市計画で建築物を規制するやり方で、住宅や工場などは建ててはならない。でも例外が設けられていて、学校、病院、特養ホームなんかはokなので、家は無くそういう建物ばかりが閑散に建つという風景になっている。
建物規制なので駐車場など建物がない用途では規制されない。すると、中古車屋(事務所は移動可能なプレハブ)、解体屋ヤード、建築資材置き場などは規制されないのでそれらが集まってしまい、景色としてはあまり良くない地域になっている。
一.
ワイフもらって 嬉しかったが
何時も出てくる 副食物(おかず)はコロッケ
これじゃ年がら年中コロッケ
こりゃ可笑し(おかし)
二.
開けて見たらば金貨が
株を買おうか 地所を買おうか
思案最中に 眼が覚めた
こりゃ可笑し
三.
芸者が嫌なら 身受けしてやろ
帶も買ってやろ
ダイヤもやろう やろう
いふて呉れるやうな客がない
こりゃ可笑し
四.
亭主もらって 嬉れしかったが
何時も出て行っちや滅多に
帰らない 帰らない
これじゃ年がら年中 留守居番
こりゃ可笑し
NHKドラマ「おしん」のなかで、大正12年9月1日、田倉商会の新しい工場の開業祝いの準備中に子守を任された源じいが歌っていたのが、このコロッケの唄(大正6年版)。wikipediaによるとコロッケの唄は、その後、昭和37年に浜口庫之助(五月みどり)版、平成版、令和へとなんどかリメイクされて歌い継がれてきたようだ。
大正時代のコロッケは、現代と違って、手ごろなお惣菜ではなく、東京などの洋食店でしか食べられない高級食品。この夫婦が富裕層であることがわかる。二番以降もあわせてみると、大戦後の好景気を反映し、一般投資家が増大した世相を色濃く映した、興味深い唄だ。
それはおしんの番外編。1983年放送当時の8月、おしんを演じていた田中裕子が過労静養のため撮影を中断せざるを得なくなった事態になって、急遽制作され、放送時間帯に15分ずつ6日にわたって放送された番外編「もうひとりのおしん」だ。これは、おしんと同時代を生きた山形や東京の女性に当時の話を聞くという番組。関東大震災前、おしんはラシャ問屋がつぶれたあと、子供服の店を田倉と始める。同番組では当時、日本橋横山町で子供服を始めたというおばあちゃん(放送当時90歳)の話を聞く場面がある。まさにこういう話を聞きたくて、わざわざDVDまで購入したのだが、見てよかった。
それまで和服に日本髪というのが当たり前だった日本人の服装が、洋服に変わっていったのは、関東大震災の後だといわれる。
このおばあちゃんはインタビューで「大震災があったでしょ、それからみんな裸になっちゃいましたから。それからだいぶん、服が変わっちゃいました」と答えている。この簡潔な一言に歴史のダイナミズムが凝縮されている。
おしんの物語では、田倉商会が時代を先取りする形で安価な既製服商品としての子供服のポテンシャルを見抜き、田倉の再起を賭けた。そのドラマの展開にリアリティを与えるインタビューだった。
もっとも、おしんは当初、夫である田倉竜三の羅紗問屋の事業失敗に懲りていて、大して商才もないのに夢ばかり大きい夫の行動が不安で仕方がなく、本当は手堅く地固めをしたい。子供服作業場の拡張には反対していた。だがやがて夫を信じようと思いなおし、夫の夢に賭けるようになる。
おしんのドラマは、10年に一度くらい再放送で目に留まって数話くらいずつ散発的にみていたのだが、今回、腰を据えて全297話をみていると、ドラマの演出がなかなか面白いことにも気が付いた。例えば、夫に商売の才能がない部分を自分の働きで夫婦の稼ぎをカバーしようと自分なりの仕事を始めて成功してしまう場面。プライドを傷つけられた旦那は「髪結いの亭主」さながら飲み歩くだけの怠け者になってしまう。夫を堕落させたのは自分だと気が付いたおしんは、あえて自ら稼ぐことをやめ、夫を立て夫がいつかまじめに稼いでくれるのを信じることにした。その結果、やがて今日明日の米に困るほど夫婦は追い詰められてしまう。田倉はようやく目が覚めて商人の道を諦め、勤め人として働きだすようになった。その様子をみて安心したおしんは、田倉商会の将来的な再興を目指して、子供服の商売のための子供服のデザインなどこつこつと準備を始める。おしんのデザインをみた田倉はおしんの才能を知り、いったんは勤め人として手堅く暮らそうとしていたのに、勤め人をやめて子供服の商売にまた再起を賭けようと夢を語り始めた。おしんに相談もせず勝手にミシンを購入したり、ひとを雇ったりとおしんを戸惑わせた。あげくは事業拡大のために借金をして工場建設をすると鼻息荒くしていう。
そんななか、ドラマの背景で、東京の街中で流れてくるのは「船頭小唄」。おしんの不安を象徴させる、にくい演出だと思った。
そして、大震災当日の朝、順風満帆で工場開業の祝賀を催す準備のさなか、田倉竜三の子供のころからのお目付け役である源じいが歌っていたのが冒頭の「コロッケの唄」だ。源じいは昼に発生した地震で亡くなってしまうので、源じいが幸せだった最後の瞬間だったといえる。その浮かれた雰囲気を、その時代の空気とともに、この歌はとてもよく演出している。
その後のドラマの展開は、田倉の本家である佐賀へ舞台をうつし、橋田壽賀子お得意の嫁姑地獄が待っている。
それは思った。
最近の農家は職住を別けるように作業場は農地の近くに、家はちょっと離れた便利なところに、って構えるのが基本だけど、当時の農家はそんなことしないはず。
ただ、こんな解釈はできる。
解釈って言うか、ワイの地元ではこんな感じで、住宅街の中にいきなり広い庭がある民家があったりする。
むかしむかし。
ある国に、新しい服が大好きな皇帝がいました。
ある日、城下町に一人の男が現れました。
男は母親の病気を治すためのお金を稼ぐためにやってきましたが身元が分からない怪しい男だと城の兵士が男を捕らえました。
男は皇帝の前に出され、なぜこの国に来たのかと皇帝に尋ねられました。
「自分の地位にふさわしくない者や、手におえない馬鹿者の目には見えない、不思議な布地をつくることができる」と。
そのとき皇帝の側近が耳打ちし、皇帝は男の言葉に大喜びし、大金を払いました。そして、男に新しい衣装を注文しました。
大臣がどうしたのかと尋ねると男はハッとし「ばか者には見えない布地を仕立てています」といった。
大臣の目にはまったく見えず、男は手になにも持っていないように見える。大臣はたいへん困るが、皇帝には自分には布地が見えなかったと言えず、男が説明する布地の色と柄をそのまま報告することにした。
その後、視察にいった家来はみな「布地は見事なものでございます」と報告する。最後に皇帝がじきじき仕事場に行くと「ばか者には見えない布地」は、皇帝の目にもさっぱり見えない。皇帝はただうなづき、布地の出来栄えを大声で賞賛し、周囲の家来も調子を合わせて衣装を褒める。
いよいよ、皇帝の新しい衣装は完成した。皇帝は男に大金を払い、そのお金を受け取ると男はすぐに国を飛び出した。
皇帝はパレードで新しい衣装をお披露目することにし、見えてもいない衣装を身にまとい、大通りを行進する。集まった国民も「ばか者」と思われるのをはばかり、歓呼して衣装を誉めそやす。
その中で、沿道にいた一人の小さな子供が、「だけど、なんにも着てないよ!」と叫び、群衆はざわめいた。「なんにも着ていらっしゃらないのか?」と、ざわめきは広がり、ついに皆が「なんにも着ていらっしゃらない!」と叫びだすなか、皇帝の表情はそれでも晴れやかでした。
めでたし。めでたし。