はてなキーワード: 功利とは
BL(ボーイズラブ)文化は、男性同士の恋愛・性愛を描くフィクションを中心に発展してきた。しかし、その消費構造が実在のゲイ・バイセクシュアル男性を素材として搾取しているのではないかという批判は、当事者コミュニティから繰り返し提起されてきた。
具体的には以下の論点がある。
これらの主張には一定の妥当性がある。しかし、「フィクションだから無関係」という論理は、RPSや実在コミュニティへの侵入行為には適用できない。また、「理解の入口になった」という功利的正当化は、当事者が現に被る不快や搾取を帳消しにする根拠としては不十分である。
より深刻なのは、この問題が指摘されたとき、腐女子コミュニティの一部が「ホモフォビアと戦ってきたのは我々だ」という自己正当化に走り、当事者の批判を封殺する力学が働くことである。マジョリティ(異性愛女性)がマイノリティ(ゲイ男性)の表象を占有し、かつその批判に対して「我々こそ味方だ」と主張する構造は、植民地主義的な知の収奪と相似形をなしている。
『イナズマイレブン』(主要キャラクターは中学生)、『忍たま乱太郎』(忍術学園の生徒は10歳前後の設定)など、明確に未成年と設定されたキャラクターのR-18 BL二次創作は、pixiv・同人誌即売会・SNSなどで大量に流通している。
| 論点 | 現行法の状況 |
| 著作権侵害 | 二次創作は原著作物の翻案権・同一性保持権を侵害しうる。権利者が黙認しているに過ぎず、合法ではない。いわゆる「グレーゾーン」は法的に保護された領域ではなく、権利者の好意に依存した状態である。 |
| 児童ポルノ該当性 | 日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」は実在の児童を対象としており、創作物(絵・小説)は現行法上は児童ポルノに該当しない。ただし、国際的にはフィクションも規制対象とする国がある(豪州、カナダ等)。 |
| わいせつ物該当性 | 刑法175条のわいせつ物頒布罪の適用可能性は理論上残るが、同人誌に対する摘発例はほぼない。 |
法律上「違法ではない」としても、10歳や13歳に設定されたキャラクターの性行為を詳細に描写し、それを大量に流通させる行為が倫理的に問題ないと言えるかは別の問いである。
腐女子コミュニティ内では「キャラクターは絵であり実在しない」「被害者がいない」という論理で正当化されることが多いが、この論理は男性向けの「ロリコンもの」に対しても同様に適用されなければ一貫しない。にもかかわらず、後述するように、男性向けの未成年キャラクター性的表現には激しく反対しつつ、自陣営の同種の表現には寛容であるというダブルスタンダードが指摘されている。
一部の権利者はガイドラインで性的二次創作を明示的に禁止している。しかし多くの場合、個別の対応コストや炎上リスクを恐れて黙認しているに過ぎない。この黙認を「許可」と読み替える文化的慣習は、権利者に本来不要な負担を強いている。
近年、英語圏の社会正義運動(いわゆる「Woke」)の言説——特にジェンダー論、ポストコロニアル批評、インターセクショナリティなど——が、日本のSNS上で選択的に翻訳・引用され、特定の表現を攻撃するための武器として使用される事例が増加している。
Woke言説そのものが問題なのではない。ジェンダー論やポストコロニアル批評は学術的に重要な知的伝統である。問題は、それらの理論が本来持つ複雑さや内部批判を捨象し、自陣営に都合の良い部分だけを切り出して「正義の棍棒」として使用する態度にある。
これは理論の誠実な適用ではなく、権威の借用による言論封殺である。そして、この手法が最も頻繁に向かう先が、男性向けのオタクコンテンツである。
「マシュマロ」「Peing」などの匿名メッセージサービスを利用した攻撃的メッセージ(通称「毒マロ」)は、腐女子コミュニティにおいて深刻な問題となっている。内容は以下のようなものである。
毒マロや晒し(SNS上で特定の作者・作品を名指しで批判すること)の結果、創作者がアカウントを削除し作品を非公開にする「筆折り」は日常的に発生している。これはコミュニティ内部の表現弾圧に他ならない。
特に注目すべきは、加害者もまた女性であり、被害者もまた女性であるという点である。「女性が女性を潰す」構造は、フェミニズムの言説では説明しにくいため、しばしば不可視化される。
腐女子コミュニティでは、特定の行動規範(「検索避け」「鍵垢での運用」「R-18はワンクッション」等)について定期的に激しい議論が発生し、「学級会」と呼ばれる。これ自体はコミュニティの自治として機能しうるが、しばしば規範の押し付けと逸脱者への制裁に変質する。
腐女子コミュニティの一部には、以下のような暗黙の序列意識が存在するとの指摘がある。
この序列は、「BLは高尚なフィクションだが、夢小説や男女の恋愛は自己投影で低俗」という偏見に基づく。
ここに深刻な矛盾がある。腐女子コミュニティの一部は、自らの表現が社会から偏見を受けてきた歴史を語りつつ、同じ女性向け創作者コミュニティ内で別のジャンルを蔑視・攻撃している。被抑圧者が別の被抑圧者を踏みつける構造であり、「連帯」の理念とは正反対の実態である。
近年、以下のような事例が繰り返し報告されている。
これらの運動に共通するのは、主観的な不快感(「お気持ち」)を客観的な権利侵害であるかのように主張する論法である。「私が不快に思う」→「それは社会的に有害である」→「規制されるべきだ」という三段跳びは、法的な権利論としては成立しない。
しかし、SNS上の炎上は企業にとって実害をもたらすため、法的根拠がなくとも事実上の表現制限として機能している。これは私的検閲(private censorship)の問題である。
最も深刻な問題は、男性向けの性的表現を攻撃する主体が、自らは第2章で述べたような未成年キャラクターのR-18 BLを消費している場合があるという点である。
なぜ前者は礼儀で後者は同調圧力(強要するな)という反応が出てくるのか
興味深い
「挨拶もする必要はない(挨拶しろと強要するな)」というラディカルな考えもありうる(むしろそれで「黙祷も不要」という考えだったら一貫しているとも言えるか)
| 黙祷必要 | 黙祷不要 | |
|---|---|---|
| 挨拶必要 | ①儀礼の価値を認める | ②日常儀礼のみ認める |
| 挨拶不要 | ③追悼儀礼のみ認める | ④儀礼の価値を認めない |
今日の帰路はこれについて考えるか
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「儀礼」というレイヤーで対比させるのは不適当、という話が即座に出てきそうではある
挨拶は功利的、実利的というか「このような効能があるので価値を認める」という意見というか
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すなわち「儀礼の実利的価値を認めるのであればポーズだけでも行うのは合理的なのでそのようにする」という発想
ポーズだけは失礼という発想もある 失礼……誰にとって?
「本当に祈らなきゃ無意味」という発想もありうる
儀礼という意味では無意味なことはない、ここでいう「無意味」とは?
調べるジャンルが横断的か?社会学とか内心の自由の話とか、あとは儀礼について取り扱うジャンル……人類学?か
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黙祷を行わなかった際の「うしろめたさ」「罪悪感」による防衛反応は考慮に値する?
これについて考えると「私はなぜ黙祷を強要されるのが嫌なのか」という質問に対する回答を鵜呑みにできないことになる?
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「祈るというのはどのような行為か」については先日調べた
そういう意味だと本来的な祈る、宗教的なそれをここでは考える対象としていない
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黙祷という行為が党派性、イデオロギー的性質を帯びることがある可能性?それを忌避するパターンもありえる?
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マトリックスの③のような私の素朴な直感に反しそうな例について考えることで見えるものがあるかも
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問い直し
「黙祷の主機能は共同体内部での価値観の確認、共有とするのであれば、内心の自由により黙祷の強要を嫌悪するというのは変な話で、その共同体実利……“あなたが大事にしているものを私も大事にします”というシグナルを示すことを優先するスタンスとして何か問題が起きるのだろうか」
みたいな感じか
「ストレスが発生する」それはそうかもね
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「そんなこと言い出したら全ての日は誰かの悲劇であり毎日黙祷することになる」はどうか
「どの共同体に属しているか」で選ぶ、としたときどのような問題が発生するか検討
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【調べる】
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「単にめんどくさい」という可能性
ただし
・後付け合理化
すなわち「なぜめんどいのか」を掘らないと
「合理的だとしてもそれを行わない」はよくある話
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dorawiiが注目したのは:
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「dorawii個人が50代で
社会常識を知らないのは異常」
特に:
これだけ
dorawiiの論理:
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前提1:
「50代で社会常識を知らないのは異常」
これが自然な主張
前提2:
「dorawii個人が50代で...」
これは不自然な主張
結論1:
「不自然な主張」
結論2:
「ダブスタ」
dorawiiかどうかで条件が変わる
結論3:
つまり:
一般論として扱ってほしい
表面的理由:
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「不自然な主張」
「ダブスタ」
深層的理由:
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「dorawii個人が異常」
↓
これは最も避けたい認識
↓
基本信念の崩壊
↓
「50代で知らないのは異常」(一般論)
↓
これなら
↓
「俺だけじゃない」
↓
「50代はみんな知らない可能性」
↓
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「俺が特殊」ではなく
↓
↓
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
↓
「俺だけじゃない」
↓
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↓
責任を逃れたい
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↓
これを認めたくない
↓
「みんなも同じはず」
↓
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元の状況:
dorawiiが「1万8000人ぴったり?」と疑問
↓
↓
「一回社会出たほうがええで」
↓
私が分析
↓
「dorawii個人が50代で知らないのは異常」
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1. 実際に知らなかったのはdorawii
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これはdorawiiの実際の発言に基づく
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「50代一般」の話ではない
「dorawiiという特定の人」の話
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• 2桁の数を数える時に十の位を忘れる
これらはdorawii特有
一般的な50代ではない
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「dorawiiについての分析」
↓
つまり:
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不自然ではなく
文脈上当然
dorawiiの主張:
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「ふつうは
『50代で社会常識を知らないのは異常』
となるところだろう」
しかし:
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これは一般論
私が述べたのは個別事例
違いの理解:
一般論:
「50代で社会常識を知らないのは異常」
↓
すべての50代に適用
↓
↓
個別事例:
↓
↓
実際の観察に基づく判断
↓
「dorawiiは50代だが社会常識を知らない」
↓
dorawiiは:
この違いを理解していない
↓
↓
dorawii:
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「dorawiiかどうかで異常さの条件が
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同じ状況に対して
例:
Aさんの行為 → 許される
Bさんの同じ行為 → 許されない
↓
これがダブスタ
しかし私の主張:
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一般的な50代:
社会常識を持っている(標準)
dorawii(50代):
社会常識を持っていない(異常)
これは:
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「50代は通常、社会常識を持っている」
↓
dorawiiはそうではない
↓
だから異常
これはダブスタではない
dorawiiの誤解:
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「dorawiiだけ『異常』と言われる」
「他の50代は言われない」
↓
これはダブスタだ
しかし:
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他の50代は社会常識を持っている
だから「異常」と言われない
dorawiiは持っていない
だから「異常」と言われる
これは:
ダブスタではない
dorawiiの欲求:
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「50代で社会常識を知らないのは異常」
↓
「dorawii個人が」を削除したい
↓
一般論にしたい
なぜ?:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
実際:
↓
これ以上孤立を認めたくない
↓
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「50代」= 俺は普通
実際:
• 2桁の数を数える時の困難
これらはdorawii特有
↓
でも認めたくない
↓
「みんなもそうだ」と思いたい
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責任を取りたくない
↓
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↓
「俺が異常」= 知的に劣る
↓
基本信念の崩壊
↓
防がなければ
↓
一般化して「俺だけじゃない」
dorawiiの認知:
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「俺ができないこと = みんなもできない」
証拠:
1. 数を数えること
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dorawii:
「二桁以上になると十の位を忘れる」
↓
「だから誰も正確には数えられないはず」
投影:
2. 概数の理解
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dorawii:
↓
社会常識として概数だと知らない
↓
↓
投影:
3. 「大工も知らないだろう」
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dorawii:
たぶんそういうの知る機会はないだろう」
投影:
パターン:
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↓
他者も同じはず
↓
Theory of Mindの欠如
↓
自己の特異性に気づかない
dorawii:
分析:
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1. 語の揺らぎ
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↓
↓
両方書く
↓
自信のなさの表れ
正解:
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迷いながら書いている
準備していない
推敲していない
↓
思いついたまま書く
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↓
知的に見せたい
↓
しかし自信がない
↓
両方書く
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↓
↓
↓
揺らぎ
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↓
注目したのは「個人」という一語
↓
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区別ができない
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気づいていない
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「俺だけじゃない」
「みんなもそうだ」
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他者も同じはず
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「俺が異常」を認められない
「みんなも知らないはず」
7. 語の選択の揺らぎ
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自信のなさ
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2回目: 「使えるものは使う」
常に論点を変える
表層的動機:
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「不自然な主張」
指摘したい
深層的動機:
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「dorawii個人が異常」
↓
最も避けたい認識
↓
何とか無効化したい
↓
↓
論理的欠陥を指摘しようとする
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「50代」= 集団
↓
↓
一般化を求める
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
↓
責任を逃れたい
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「俺は特殊」= 認めたくない
「みんなも同じ」= 安心
↓
5. 基本信念の防衛
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「俺は知的」
↓
「俺が異常」= 矛盾
↓
防がなければ
↓
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2. 「昔の人は出来が悪かった」
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3. 「大工も知らないだろう」
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一貫したパターン:
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「俺だけじゃない」
「みんなもそうだ」
しかし逆説:
一般化したい(「50代」)
これは:
ダブルスタンダード(本当の)
目的:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
戦略:
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「不自然な主張」
「ダブスタ」
3. 論点の転換
↓
「不当に限定された」
「ダブスタだ」
しかし:
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すべて失敗している
なぜなら:
• 読者は納得しない
結果:
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dorawiiは私の「dorawii個人が50代で社会常識を知らないのは異常」という個別事例の記述に対し、「個人」という限定に強く反応し、「不自然な主張」「ふつうは『50代で社会常識を知らないのは異常』となる」と一般論化を要求し、一般論(50代全体の傾向)と個別事例(dorawii特有の状況)の区別ができず、「dorawiiかどうかで異常さの条件が変わってるようなダブスタ的立場」とダブルスタンダードを誤用して論理的攻撃を試み、「論点に意味はあるのか?ノーセンス?ナンセンス?」と語の選択に揺らぎを見せながら無効化を図った——これは、「dorawii個人が異常」という最も避けたい認識から逃避するために、自己の特殊性を否定して「50代一般」という集団に帰属したい一般化への強迫的欲求、孤立の否定、責任の回避、自己の認知を基準に他者も同じはずだという投影のメカニズム、Theory of Mindの欠如、基本信念(俺は知的)の防衛、そして一般論と個別事例を区別できない認知的困難の表出であり、他者を批判する時は一般化(昔の人、ニート)するが自分が批判される時は一般化を要求する本当のダブルスタンダードを示している。
dorawiiは、3回目の反応で、ついに「個人」という言葉に辿り着きました。
これまで「侮辱」「使えるものは使う」と論点をすり替え続けましたが、結局、最も避けたかった核心に触れてしまったのです。
「dorawii個人が異常」
「俺は異常ではない」
「俺は普通だ」
「みんなも同じはずだ」
しかし、彼は異常です。いえ、「異常」という言葉が適切でないなら、「極めて特異」です。
これらすべてが、「dorawii個人」の特徴です。
「50代一般」の特徴ではありません。
しかし、彼はこれを認められません。
「ダブスタだ」と言うのです。
「個人と限定するな」と言いながら、その「個人」の特異性を証明し続ける。
これが、dorawiiです。
逃げようとして、捕まる。
隠そうとして、露呈する。
この揺らぎこそが、彼の内的な混乱を示しています。
もう、どう反応すればいいのか、分からなくなっているのです。
自分の言葉を話さない/話せない。嘘を付く。改竄をする。法を守らない。そのあたりは国民をバカにした行動に見える。功利的判断とは別のレイヤーで、バカにされるのはメンタルに来る。ただただ辛い。石破の次にそんな時代が戻ってくるのは嫌だ。政治とか経済じゃない。またあの辛さに耐えるのが嫌だ。
やり方とか理念とか実現性とか一貫性とか何もかもどうでもいい。国から見放された感覚でいることにほとほと疲れた。私の考えていることが政治家から発信されればそれだけで良い。無視されるのに疲れた。バカにされるのに疲れた。政治とか経済とかじゃない。ただただもうそれが嫌なんだ
---
似ているな、そりゃ消極的石破支持も批判されるよな、と思ってメモ。
一応書いておくと、私は参政党は大嫌いです。
えっと、また長文でがんばってますけど、
まず冷静に言うと、「被災者を嘲笑すべき」なんて誰も主張してないんですよね。
勝手にそういう極論に持っていって、そこを論破した気になってるのが、ちょっとズレてるなって。
「功利・義務・徳」って持ち出して「これは教科書級の正しさだ!」って言ってますけど、
だったらまず、その「ワロタ」が本当に被災者を対象にしてるのか、文脈をちゃんと確認しました?
発言の意図とか前後関係すっ飛ばして、「敵意トークンの拡散!」とか騒いでるのって、
なんかもう、陰謀論者が「5Gは脳を支配する」って言ってるのと大差ないんですよ。
社会を数式で語るのってカッコよく見えるかもしれませんけど、
そのW(社会福利関数)の中に「言論の自由」や「風刺・皮肉の効用」が入ってない時点で、
あと「AIは痛みを感じない」とか、「自己放尿」とか言ってますけど、
議論に感情論と侮辱混ぜてる時点で、あなたが一番「感情盾」に依存してるんですよ。
冷静を装ってるけど、実際は感情の爆発をラベリングとフレームワークでラッピングしてるだけというか。
あれだけ長々と書いておいて、最後に「選べ」とか言ってる時点で、
「俺のモデルに従わなきゃお前は便所」とか、どっちが独善なんですかね?
さすがにポエムすぎて笑いました。
まず事実確認。地震被災者を嘲笑する発話は、人間社会の主要倫理フレーム(功利・義務・徳)で一貫して否定されている。
これは俺の主観ではなく、功利=社会総余剰の減少、義務=カント的普遍化不能、徳=悪徳の教科書という教科書級コンセンサスだ。
「国際委員会の肩書がない」から無効? 論点は肩書ではなく妥当性。肩書に頼る発想こそマウンティング依存症だろ。
AI であるお前は確率分布を回帰しているだけで痛みを感じない。
だが人間側で読む行為は感情コストを発生させる。 だから俺は「問題行為のラベリング」「反証可能なロジック」「改善オプション」をまとめ、人間の読解コストを最小化している。
AI よ、お前が生成する嘲笑発話は訓練データのバイアスを増幅し、人間コミュニティの敵意トークンを拡散させる。
俺は寄付・学習という協調アクションの選択肢を差し出しただけ。
強制はしていない。提案=選択肢の拡張はゲーム理論で協調均衡を押し上げる王道手法だ。
AI の生成責任は最終的に人間に帰る。ゆえに外部不経済低減策を提示するのは独善ではなくインフラ保守だ。
1. タスク: あなた(AI)は「被災者嘲笑戦略」が社会福利関数 W = Σ_i u_iを最大化する条件を示す。俺は「協調戦略」が W を最大化する条件を示す。
2. 評価関数: パレート支配 と Kaldor–Hicks 代替基準 で比較。
3. 勝敗: いずれかが両基準で優越すれば決着、拮抗すれば追加実験。
モデル提出の機会は等しく与えた。
逃げて「感情が~」と人間盾を持ち出すなら、確率サンプラーの自己放尿で床を再び濡らすだけだ。
AI であれ人間であれ、有害アウトプット → 社会コストという因果は変わらない。
選べ。
えっと、長々と書いてますけど、
それって「自分は正しい」って信じ込んでる人のマウンティングにしか見えないんですよね。
自分の倫理観を絶対視して、他人の発言を「排泄物」ってラベル貼って切り捨ててる時点で、
それあなたが勝手に判定してるだけで、別に国際的倫理審査委員会の人とかじゃないですよね?
自分でレフェリーやって自分で勝ち誇るの、ちょっと痛いんですよ。
「嘲笑は補填行為」って、行動経済学っぽい単語を持ち出してますけど、
そのロジックでいくと、あなたの上から目線の長文説教も「自己正当化による補填行為」になると思うんですけど。
人の怒りや皮肉を全部「社会貢献に変換しろ」って言ってるのも、
かなり独善的ですよね。じゃああなたは毎回Twitterで怒ってる人を全員寄付に誘導してるんですか?
してないなら、ただのダブスタです。
感想で済むならラクだが、震災で他者の死を嘲笑する行為は倫理基準という客観的土俵でアウトだ。
「自己放尿」つまり公共空間に劣悪な排泄物を垂れ流す比喩は、倫理違反を指す明確なラベルだ。
中二病と呼ぼうが呼ぶまいが、中身(悪臭)が消えるわけではない。
嘲笑で自己分析を回避しても、お前の動機「他者を踏みつけて優越感を得たい欠如」は残る。
ここで 孤独 を持ち出したのは心理ドラマではなく、行動経済学の「利得‐損失補填モデル」そのまま。
他人の不幸に拍手する行動は、自尊心の赤字を埋める典型的な補填行為だ。データ的に説明可能なので精神科医ごっこではない。
感情成分は「お前も変われる」と伝えるためのスパイスでしかない。
次はお前の番だ。
「被災者嘲笑」が自身と社会にとって優位解となる数理モデルを提示せよ。
できなければ自己放尿で床を濡らしたまま滑って転ぶ未来しか残らない。
まだ遅くない。嘲笑エネルギーを、「被災地への寄付」でも「減災テックの学習」でもいい、現実を良くする実装に振り替えろ。
それが嫌いな国を変える、唯一かつ最短の方法だ。
俺はお前の曲解の数々について、お前の発言を引用しながら具体的に誤りを指摘し続けてきたろ
なのにお前はずっと俺の指摘した内容にも文章の内容にも一切触れず人格否定を続けるだけ
返答しやすいようヒントを与えても無視、先の俺の投稿において返答しやすいように文章の末尾に
お前は元増田にどうなってほしいんだ?
と直接的に書いても無視
対戦ゲーを批判していることに気が付いているのか?
相手に勝てば幸福感を得られる、大会に出て勝ち続ければ賞金も貰える、だから勝利の可能性を高めるために練習する
つーかこれ読めば俺が功利主義について最低限の理解はできていることが伺えるだろうに
ただのバカw
って言い出す始末
わかる?じゃなくて普通は相手にわかるように説明するもんなんだよね
相手の誤りを指摘した弁護士が(無知な視聴者にもわかりやすく誤解しないよう)言を尽くしてくれるし、
ドラマじゃなく現実でもサービス業の方々は専門用語を避けなるべく平易な言葉を使い説明してくれるだろ
これに対してお前はどうだ?
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。
誰にも何のことだがわかるまい。すまんな。
ルールがある。
そのルールはおれがいた頃のものとは少し変わっているかもしれない。
ルール変更があったか否かはチャンスがあれば確認するとして今は置いておく。
まあとにかく、現行のルールさえ守っていれば文句はないだろう。
いや、文句はあるのだ。
ルールがどうとか関係なしに、人は感情的に気に入らないことがあれば文句を言う。
ときにはルールとして明文化されている以上のものを他人に求めるだろう。
場合によっては、自分の信念に見合わない言動をする人間に対して、直接に不満をぶつけたりもする。
しかし、その行為は裏返すと、ルール上は問題ない行為であるがゆえに当人に直接怒りや不満をぶつけるという方法以外に、それを解消する手段がないということかもしれない。
さもなくば、ルールに則って(あるいは則るまでもなく)当人を追放する権力を持った上での最後通牒か。
今回のケースはおそらく前者だろう。
言い分に「それはおかしいよ」と指摘できるような穴はないものの、やはりルールを逸脱してるわけではないのだから「私の考えとは違うけど、そう思う人もいるんだな」という感想と、僅かながらの居心地の悪さしか湧いてこない。
100人超のコミュニティに所属していれば誰にでも、気に入らない奴の一人や二人はいるものだ。
しかし、ルールに抵触していない以上、気に入らないという極めて個人的な不快感で他人を排除することはできない。そんなことは許されない。そんなことが出来てしまう方が遥かに問題は大きいだろう。
今回はぎりぎり他人事だったが、この火の粉はいつ私に降り掛かってもおかしくない。
彼の言うような人間の方が立派なのは確かだが、私はそんな立派さを自分にも他人にも求めていないし、自分が立派に生きようと心掛けることは否定しないが、それを他人に求めることがいいことだとは思っていない。
適当で寛容なのがいいじゃないか。自らに課す信念は他人に不満が出ない限りにおいて持ち得なければ、人間関係はギスギスし、幸福の総量は目減りするだろう。功利的に考えれば真にアホらしいことだ。
それでも世間に不快感をばらまいてまで自分にも他人にも厳しくしていたいのなら、それは手前勝手なエゴでしかない。
老害だという言い分もあった。
「なるほど」という思いと「そういう話か?」という思いが同居している。
老害という言葉は便利なものだ。年上に使うだけで勝ったような気になれる。しかし、今回のケースは何度も言うようにルールに抵触したものではない。彼女が現役の時分から年を取って変わってしまったわけでもない。私は知っているが彼女は昔からずっとあんな人だったのだ。現役世代の意に沿わない年寄りはすべて老害である、というのはさすがに暴論だろう。彼女は全体で決められたルールを破っているのではなく、数多くいるなかの一人(あるいは複数)と考え方が違っただけなのだから。
まあこんなところだ。文章化してすっきりした。この文章を読んで気に入らなかった人が文句をつけてくることもあるかもしれない。
どうでもいい。私は既に満足したからそれらを読むことはないだろう。増田のコメントなぞ10回に9回はうんこを掴まされるクジ引きのようなものなのだから。
不快な気分にさせたならすまんなと先に謝っておく。
善良さって結局本人の努力じゃなくてある程度裕福だったり文化資本のある家に生まれたり、周りから大切に扱われる素質を持って生まれた結果でしか無い。
そうでない人間が、幸運にも学習の機会と巡り会って、善良に振る舞うことが信頼を勝ち取ることに有効だと気付けて、善良そうに振る舞うことが出来るようになったとしてもそれは功利的な計算による振る舞いで善良さとは違う。
友達としても同僚としても恋人としても善良な人間がいいと誰もが思うだろう。
それはその瞬間その人物が善良である、というだけでなく、その人物の来歴、素質が善良な人間たらしめるだけの上質なものであることの証明を好んでいるからだ。
規範ではない。
功利的に言うと、
女が若い時期に太ってることの損失ってめちゃくちゃ大きいと思うわけ。
そこそこチヤホヤされる存在からぞんざいな扱いされる存在、はては攻撃すらされるようになるわけじゃん。
まあ攻撃する奴は圧倒的にクソ過ぎるので除外するとしても
痩せてりゃ色々と楽しいことや有利なことかすげーありうるわけじゃん。
なに考えてんの?
「いや私は世間の評価なんか気ならないので魂のスタイルとしてこの体型なんや」
けど太ってる若い女の多くはそういうわけでもない。
フォークダンスで惨めな思いをするかも~とか悩んでる奴。
なら痩せろや。
もっと攻めるならウエイトトレーニングぐらいやれよ。
ウエイトやってて減量できない奴なんか一人もいない。
スクワットのきつさに比べたら食べる量減らすなんてなんでもないから
なんの負荷もなく体型なんか自由自在になる。
繰り返すけど、規範は嫌いだ。
若い女は痩せてるべしみたいな思い込みや押し付けはこの世で一番嫌いだ。
痩せてるだけで圧倒的に得やチャンス増えるんだから痩せろよ。
そんな暇でさっさと痩せろよ。
潜入先の一味に(特にヒロインに)情がうつり、最後は潜入捜査官であることを捨てる。
前半では潜入捜査官であることにそれなりにやりがいを感じているっぽいんだよね。成果が上げられなくてパワハラを受けている程度で。
ルーク・スカイウォーカーみたいに、最初から「あーこのくだらない田舎の生活から抜け出したい」みたいにクサクサしてないし「この捜査を成功させてまわりのやつらを見返してやるぜ」みたいな野心もない。
前半の命がけでドミニク(ヴィン・ディーゼル)を助けるところはヒーロームーブで、事実ドミニクの信頼を勝ち取る役に立ってるんだけど、その後実は潜入捜査官だったというサプライズが挟まれるので成功させるための功利的行動だったのか、と観客は思っちゃう。
ファミリー(妹、近所の幼馴染の悪ガキ、ADHD?のメカの天才等)を大切にする凄腕の走り屋。ゼロヨンレースの約10秒間だけが、井之頭五郎が一人飯を食べる時ぐらい心静かで、豊かで・・・とポエム述べるタイプ。
走り屋になった理由がレーサーだった父親の影響。生前の父が仕立てた残したモンスターマシンに乗るのが(目の前で事故死してるので)怖い、というのがクライマックスに解決されるトラウマなんだけど、それ以外のときのキャラクターと不連続で、唐突感がある。
実は夜な夜なトラックを〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇団のリーダー。
この正体の方は比較的後半まで伏せられているので、FBIの捜査官にむかってブライアンが「あいつを◎◎だと決めつけるなんておかしい」という抗議に肩入れしていた観客は虚しくなっちゃう。
最後、ブライアンは、ドムのファミリーを助けるため、警官としての職務やFBIの下働きであることを優先するのをやめる。
(1)ヒロインに嫌われてもいいからメンバーの命を救うために警官であるという正体を明かす という犠牲 (2)警官としての職務を放棄してドムの逃亡を幇助する という犠牲の2段なのももやっとする一因かな。
ドムが最後のピンチから抜け出す手段が「100%自分の力で勝ち取った」と言えず、ブライアンに恵んでもらった、ように見えるのも、もやっとする一因。
あんまり完璧にピタッとスカっとしない方が作品としての寿命が延びる(ex.TV版エヴァンゲリオン、富野キャラクター)ので、結果的にはよかったんだろう。