はてなキーワード: スパイダーとは
それって「自分が見てる作品=高尚、他人が見てる作品=幼稚」っていう、わりと雑な線引きしてるだけじゃないですかね。
まず前提として、あなたが挙げてる「スパイダーバース」とか「ウォーリー」って、普通に子どもも楽しめるように作られてますよね?
つまり「子どもも見れる=子ども向け=幼稚」ってロジックだと、自分で持ち上げてる作品も巻き添えで否定してることになるんですよ。
あと、日本アニメが深いテーマやってないって言うけど、それ本当に見てないだけじゃないですか?
例えば千と千尋の神隠しとか普通にアイデンティティや労働観の話してますし、攻殻機動隊なんて哲学寄りすぎてむしろ子ども置いてけぼりですよね。
進撃の巨人も途中からほぼ戦争と民族問題の話ですけど、それも「ジャンプ的だから幼稚」で切り捨てるんですか?
で、「アラサーがジャンプ読んでるの幼稚じゃないか?」って話なんですけど、
それ言い出すと大人がスター・ウォーズやマーベル・シネマティック・ユニバース見て盛り上がってるのも全部アウトになりますよね。
でも実際は誰もそんなこと言わない。なぜかというと、「エンタメとして完成度が高ければ年齢関係ない」ってみんな分かってるからです。
あと「日本からはそういう作品が生まれない」って断言してるけど、単純に市場構造の違いも無視してますよね。
海外は映画中心、日本はテレビ・連載中心だから、そもそもフォーマットが違う。
その中で売れるものが主流になるのは当たり前で、「主流=幼稚」っていうのはただの価値観の押し付けです。
むしろ面白いのは、「趣味に口出しするつもりはない」と言いつつ、
電車でジャンプ読んでる人をわざわざ“幼稚”ってラベリングしてるところで、普通に口出ししてるじゃないですか。そこは気づいた方がいいと思いますよ。
追記:なんかまあまあブクマされてるけど、現状の開き直りだけであんま芯を食った反論はないな。
違国日記は俺も好きだけど、アニメは原作の絵の良さを何も活かせてない残念なアニメ化だったね。朝の演技は鬼滅のキャラみたいだったし。
追記終わり
アカデミー賞にノミネートされてるアニメ映画ってみんなちゃんと見てる?
「スパイダーマン:スパイダーバース」は人種・アイデンティティ・孤独をテーマに描いて長編アニメーション賞を受賞したし、「ウォーリー」は消費社会と環境破壊への警告を子ども向けの皮を被って描いた。「Flow」は動物の鳴き声のみで90分アニメを描き切った名作だし、「アーネストとセレスティーヌ」はフランス映画らしく社会的マイノリティと偏見を真正面から扱ってる。大人が観て「うーん」と唸るようなテーマをちゃんとアニメで表現してる。
じゃあ日本は?
呪術廻戦、かぐや様は告らせたい、チェンソーマン、名探偵コナン……まあ面白くないとは言わないよ。面白いよな。でもこれ、どう見ても子ども向けコンテンツじゃん。バトルもの、ラブコメ、スプラッターアクション、謎解き。エンタメとしての完成度は高いかもしれないけど、「大人向け」かと言われると絶対に違う。
で、なんでアラサーがこれをこぞって楽しんでんの?いや、いいよ?実写映画好きでもB級アクション映画だけ好きって言う人もいるしな。
でも、電車の中でスマホ片手にジャンプの最新話追いかけて、会社のSlackで「コナンの映画良かった」って話してるアラサーの人間、普通に幼稚じゃないか?って思ってしまう。好きなのは勝手だし趣味に口出しするつもりはないんだけど、それが「アニメ文化」の主流になってる現状はちょっとどうなんだと。
ワンバトルアフターアナザーとかアノーラみたいなアニメ、日本からは全く産まれそうにないよな。
アニメって本来すごいポテンシャルがある表現媒体だと思うんだよね。実写では描けないものを描けるし、海外がそれを証明してる。でも日本では結局、少年ジャンプ系の文脈を大人が消費し続けるだけで止まってしまった。それが主流になってしまった。深いテーマを扱ったものは日本のアニメファンの大多数が見向きもしない、幼稚な市場のまま成熟してしまった。
2020年初頭、小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の出版前、発売日すら未定だった時期から、本作の映画化は進められていた。その第一歩となったのは、原作者のアンディ・ウィアーが俳優ライアン・ゴズリングに出版前の原稿を送ったことだ。その意図は謙虚だが、明確だった。映画の主演としてだけでなく、プロデューサーとしての参加も検討してほしい、というメッセージである。
ウィアーは、近未来を舞台に緻密な科学描写と感情を巧みに結びつける作風で評価を築いていた。2011年のベストセラー「火星の人」では、複雑な難問が立ちはだかっても、それを解く人物が魅力的であれば、観客が付いてくることを証明し、2015年に『オデッセイ』として映画化された際には、より大きなスケールでその方程式を確かなものにした。
しかし「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は、「火星の人」とは異なり、地球から遠く離れた宇宙で孤立する男から始まり、しかも記憶喪失、やがてはるかに大きな物語へと広がっていくというものだった。原稿を受け取った、ゴズリングは一気に読み切った。
「本当に壮大な旅なんです」とゴズリングは語る。「それに、ライランド・グレースは少しもストイックじゃない。伝統的な意味で勇敢でもないし、自分がヒーローだなんて幻想も抱いていない。でも彼は、挑み続けるんです」
ウィアーが原稿を送ったタイミングは偶然ではなかった。世界がコロナ禍に突入し、映画の撮影が各地で停止、映画館がクローズしていった時期と重なる。映画興行ビジネスは崩壊し、大規模な映画製作の未来には暗雲が立ち込めていた。
「人生でいちばん壮大な映画体験を作るチャンスが来たと思ったら、映画館が閉まっていた」とゴズリングは言う。だが、そんな試練の最中に「プロジェクト・ヘイル・メアリー」と彼が出会ったことは、どこか不思議な巡り合わせを感じさせるものがあった。「この作品は太陽が死にかけている話ですが、同時に深く希望に満ちている。私たちには“不可能な問題”を解決する力がある、諦めなければ奇跡は起こりうると、思わせてくれるものなんです」
「私の売り文句はこうです。“宇宙を揺るがすバディ・ムービー”」
このアイデアだけでも『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が従来のサバイバル物語と異なる点が示唆されている。最終的に物語を動かすのは協力しあうことであり、「ひとりでは達成できない」という真理なのだ。
ゴズリングは、このアイデアを映画化したいと即座に反応した、そして作品のテーマと同じく、それには“チーム”が必要だとわかっていた。
「最初に思ったのは、優れたプロデューサーに入ってもらわないと、ということでした。これは不可能じゃないかと思っていた」とゴズリングは言う。「最高の人材が必要だったんだ」
彼が最初に電話したのが、エイミー・パスカルだった。映画スタジオ ソニー・ピクチャーズのトップから転身し、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』、『スパイダーマン:スパイダーバース』など幅広い作品を手がけてきたアカデミー賞ノミネート経験のある映画プロデューサーだ。パスカルもまた、ウィアーの原稿をすでに読んでおり、ゴズリングと同じものを感じていた。
「グレースは、私たちと同じごく普通の人。スーパーヒーローでも宇宙飛行士でもなく、凡人です」とパスカルは言う。「でも時間をかけて、途方もない犠牲を払える人間になっていく。その感情の旅、変化こそが柱なのです」
パスカルにとって、SFであることは問題ではなかった。ウィアー作品らしく、ジャンルの外見は、もっと大きく普遍的なハートの部分を美しく際立たせるためのものだったのだ。
「確かにSFです」とパスカルは言う。「でも“信頼”の話でもある。人への信頼、協力しあうことへの信頼。今は皆がお互いを怖がっている時代です。誰もが他者を信じない。誰も人の話も聞こうとしない。各々が自分の部屋に閉じこもって、自分の信じたいものだけ信じ、違う新聞を読み、他者に心を開こうとしない。この映画は“聞くこと”を求める。誰か別の言語を学ばなければならない。相手がどこから来たのか理解しなければ、世界は救えない」
パスカルが正式にプロデューサーとして加わり、企画は形になり始めた。次に必要だったのは、ユーモアと危険、ぬくもりとスケール、その緻密なバランスを取りつつ、エモーショナルな魂を見失わない映画作家を見つけることだった。
「誰がこの映画を引き継ぐべきか、議論の余地はありませんでした」とパスカルは言う。「フィル・ロードとクリストファー・ミラーしかいなかった」
「私たちは、物事が“不可能”に見える時代を生きています。けれどこの映画は、想像力と善意を持って人が集まったときに何が可能になるのかを描くのです」とロードは言う。
プロデューサー、主演俳優、監督が正式に揃い、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は原稿から撮影へ向かうチームが発足した。作品で描かれるミッションと同様に、このチームもあらゆるレベルで協力し合うことで、困難を乗り越えていくことになる──。
小学6年生の子がいる。今ハマっているのは「転生したらスライムだった件」と「呪術廻戦」。どちらも長く見続けている。
なんで好きかをよく観察してみると、「ルールや設定が緻密に組み立てられている作品」に強く引き付けられているらしい。転スラでいえば、スキルの体系とか、リムルが国家を作っていく過程の論理性。呪術廻戦でいえば、術式の条件とか領域展開の仕組みとか。バトル自体よりも「なぜそうなるか」の構造に食いついている気がする。
一方で、登場人物が膨大になりすぎる展開は少し苦手なようで、「誰が誰だっけ」となるとトーンダウンする。視覚的に映える場面や、「世界の仕組みが少しずつ明かされていく」展開は大好き。転スラのアニメも、ストーリーを整理して語れるくらいに頭に入っている。
両親揃って映画好きなのでこの傾向で観せる映画を探しているんだが、なかなか決め手が見つからない。
いちおう候補として考えたのはこのあたり:
「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」あたりは、独自ルールが明示される世界観という点でたぶん合うと思っている。でも本人が「知ってる」と言って食いつかない可能性もある。
映像表現が圧倒的で、マルチバースという設定の論理性もある。12歳には刺さるかもしれないが、英語ベースのテンポ感が合うかどうか。
純粋に泣かせに来る系は刺さらないのか、それとも年齢的に引いてしまうのか読めない。
設定と映像のクオリティは高いが、情緒面の比重が大きいのでどうか。
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ここで詰まっている。転スラと呪術廻戦が好きな12歳が「映画として2時間集中できる」作品、という条件でおすすめがあれば教えてほしい。
条件をまとめると:
虎之助は私の家の近くに住んでいる。近くに、というのは昼の言葉で、夜になるとその近さは少し別のものになる。夜の道は、角をひとつ曲がるごとに距離ではなく気配を増してゆくからで、舗道に落ちた街灯の白さも、建物のあいだに沈んでいる暗がりも、どこまでが町でどこからが胸のうちなのか、曖昧になる。そういう道を彼がこちらへ歩いて来るのだと思うと、私はまだ戸も鳴らぬうちから、部屋のなかにいて部屋のなかにいない。心はいつも少し先に出ていってしまう。窓のほうへ、廊下のほうへ、まだ見えない一つの輪郭のほうへ。
最初は文字だった。文字は顔を持たない。だから、かえって多くを持つことがある。夜更けに画面のなかへ浮かぶ短い文、送り終えてから、言いすぎたわけでもないのに、少しだけ本心に触れすぎたような気のする言葉。ヒーローのこと、全身を覆う布のこと、顔を隠すこと、輪郭だけになれること。ほとんど冗談のように始まりながら、その実、冗談では収まりきらぬ熱をかすかに含んでいる話。そういうものの行き来のなかで、私たちは知ったのだった。互いが驚くほど近くに住んでいるということを。近いと知ることは、親しさを深めるより先に、むしろそれを危うくすることがある。遠くにいる相手には許される夢想も、近くにいると知った途端、あっけなく現実へ引き戻されるからである。それでも、その近さは恐れより先に、静かな期待を部屋の隅へ置いた。
会うためには約束があった。約束というより、二人のあいだに自然に張られた薄い膜のようなものだった。会うときは、お互いに全身を覆うものをまとい、ヒーローの姿でいること。顔は見せないこと。見ないこと。そのようなことを昼の世界の言葉で説明しようとすると、たちまち理屈が寄ってきて、それを奇妙だとか、倒錯だとか、遊戯だとか、そういう名で固定したがる。けれど夜の部屋のなかでは、それはもっと静かで、もっと切実なものだった。全身を覆う布は、隠すだけではない。隠すことで、かえって輪郭を与える。顔という、もっとも日常的で、もっとも騒がしい部分が退くと、人は不思議なほど静かに一つの姿になる。肩、胸、腰、脚、その線だけが、もう説明を必要としない何かとして、そこに立つ。
私は長く、顔というものに疲れていたのかもしれない。顔は人を社会へつなぐが、同時に測られるものにもする。年齢、気分、倦み、虚栄、そして、その日一日をどうにかやり過ごしてきたという疲れまでもが、顔のまわりには集まっている。人は素顔で人に会うとき、じつはもう半分ほど説明してしまっている。だから、顔を見ないことに安堵がある。見られないことに、ではなく、見ないでいられることに。相手を現実へ引き戻さぬで済む。日常の名札を胸から外したまま、もう少し別の場所で向き合うことができる。
戸の向こうに彼が立つ、その前の、まだかすかな気配だけで、部屋は少し深くなる。灯りは同じはずなのに、壁の色まで変わるように見える。床は少し音を吸い、窓は外の光を遠ざける。私は立ち上がる。自分の身体もまた、もういつもの身体ではない。全身を覆うと、皮膚は皮膚であることをやめ、別の表面へ移ってゆく。ぴたりと沿う布の緊張が、身体にひとつの意志を与える。あるいは、意志の代わりをする。日常の私は、ともすれば散らばっている。視線の置き方も、手のやり場も、言葉の選び方も、みな半歩ずつ遅れる。けれど全身を覆った身体は散らばらない。少なくとも、そのように見える。人はときに、そう見えることによって初めて救われるのだろう。
彼もまた、そうなのだと思う。虎之助は若い。若いということは、まだ損なわれていないということではなく、むしろ損なわれやすいということだ。何かを美しいと思う心がまだ生きているぶんだけ、傷つきもする。彼の好奇心は旺盛だが、けっして乱暴ではない。人の心へずかずかと入っていく若者もいるが、彼はそうではない。触れてよいかどうかを、まず空気に訊いてから手を伸ばすような慎みがある。しかも、それが計算ではない。自然なのだ。相手の沈黙に、沈黙のままで居場所を与えることのできる若い人間は稀である。虎之助は、その稀なほうに属している。
彼が部屋に入ってくる。顔はない。少なくとも、顔と呼ばれるべきものは布の内側へ退いている。それでも彼だとわかる。立ち方で、こちらへ身体を向ける時の角度で、沈黙のなかに置かれる呼吸の速さで。人は顔で識別していると思い込みがちだが、ほんとうはもっと別のもので相手を知っているのかもしれない。重心の置き方。ためらいの深さ。こちらの存在をいったん受けとめてから、一歩入ってくるその静かな配慮。そうしたものが、彼を彼として部屋に現れさせる。顔をなくしたことで、むしろ彼の身体は、より彼らしくなる。
私たちはスパイダーマンが好きだった。それも、ただのヒーローとしてではなく、どこかもっと身体に近いところで。最初にそれを知ったのが文字のうえだったのか、それとも会うようになってからだったのか、今ではもう曖昧である。ただ、『スパイダーバース』の話をするとき、彼の言葉の調子が少し変わることは知っていた。軽くなるのではない。むしろ、奥のほうでひそかに熱を持つ。あの映画には、跳ぶ前のためらいがある。まだ自分を信じきれない者が、それでも落ちながら跳ぶ、その矛盾がある。何人ものスパイダーマンが、それぞれ別の傷や別の喪失を抱えたまま、なお一つの輪郭へ集まってくる。マスク。全身を覆うスーツ。若さ。孤独。軽やかさと哀しみが同じ身体のうえにあること。私たちはたぶん、その全部に惹かれていた。単に格好いいからではない。未完成なまま跳ぶ者の姿に、自分の何かが映っていたからだ。
全身タイツとヒーロー。その二つのあいだには、もちろんフェティシズムがある。そうでないと言えば、むしろ偽りになるだろう。布が身体の線を隠しながら示すこと。顔を失ったことで、かえって身体そのものが前景へ出てくること。人格が退き、姿だけがひとつの記号のように立ち上がること。そのことに私たちは心を動かされていた。だが、それは単なる肉体への興奮だけではなかった。肉体が理想へ近づく、その曖昧な途中に惹かれていたのだと思う。人間でありながら、少しだけ人間を離れる。個人でありながら、少しだけ象徴になる。ヒーローの身体とはそういう身体で、素顔よりも深く、その人の希求を語ることがある。虎之助がそれを愛したのは、若い肉体の誇りのためというより、まだ言葉にしきれない自分の願いを、その姿のほうが先に理解してくれるように思えたからではないか。
沈黙がある。沈黙は空白ではない。沈黙は、彼がいま部屋のどのあたりにいるかを、言葉よりも正確に知らせる。少し動く、その微かな擦れ。立っている時の静けさ。こちらが何か言う前に、一瞬だけ深くなる気配。そうしたものが、部屋の中で小さな波紋をつくる。親しさというものは、長い会話の末に生まれると人は考えるが、実際には、相手の沈黙が自分を脅かさないと知ったときに、すでに始まっているのかもしれない。彼といる沈黙は、私を急かさない。彼の若さは、私を若返らせるわけではないが、私の中の、まだ完全には乾いていない場所へ、そっと手を置く。
私は彼を見る。見る、といっても、顔ではない。首から肩へ下る線、胸のあたりの、まだどこにも使い切られていない余白、立っているだけで未来というものが一つの形を取っているように見える、その若い静けさ。若い身体には、まだ失っていないものが宿っている。可能性という言葉は安易すぎるが、それでも、完成されていないことがそのまま美しさになる瞬間がある。私は彼を見ている自分に気づく。気づいて、それを押し返さない。押し返すとたぶん、別の粗いものになるからだ。愛情と言ってしまえば少し平たく、欲望と言ってしまえばまだ響きが強すぎる、もっと薄く、もっと持続するものが、視線の中には混じっている。たとえば、若い肩の線を見て胸の奥がわずかに緊張する、その程度の、しかし否定しがたいもの。
彼もまた、感じているのだろう。若い者は、向けられる気配に敏い。露骨な視線よりも、抑えられた気配のほうに。彼は自分がこの部屋で、ただ受け入れられているだけではないことを、どこかで知っていたかもしれない。もう少し静かで、もう少し名づけにくいかたちで、見守られ、喜ばれ、そして少しだけ見惚れられていることを。だがそのことが彼を怯えさせなかったのは、たぶん、それが所有の欲ではなく、輪郭を尊ぶ気持ちに近かったからだろう。彼のこういう姿がここにあってもよい、そのことを急いで説明も判断もせずに、ただ部屋の内側で保っておくこと。それだけで若い心は、少しずつ自分を赦し始める。
虎之助は少しだけ自信がない。その少しだけ、という加減が、彼をいっそう美しくする。自信のなさはしばしば、世界に対して耳を澄ましすぎる者の徴でもある。彼は自分の好きなものを口にするとき、一瞬だけ呼吸を整える。スパイダーマン。スーツ。マスク。『スパイダーバース』。そういうものに自分がどれほど惹かれているかを言う、その直前の、かすかなためらい。私はそれを知っている。知っていて、それを暴かない。だが最近、彼は少し変わった。変化はいつも小さい。部屋に入ってくる時の気配が、前よりわずかに深く呼吸している。好きなものの話をする時、恥じる前に、先に明るさが差す。自分の惹かれるものを、前ほど早く自分で裏切らなくなる。人が自分を肯定し始めるとき、たぶん最初に変わるのは言葉ではなく、身体のほうなのだ。
彼が私と会うことで少しずつ自分を肯定してゆく、と言うことはできる。だが、それは私が何かを教えるからではない。むしろ逆で、教えないこと、名づけないこと、強い光を当てないこと、その曖昧さの中でしか育たない肯定がある。若い心は、あまりに明るく照らされると、すぐにぎこちなくなる。けれど、薄い灯りのなかでは、自分の輪郭を自分で見つけることができる。私は彼にとって、その程度の灯りであればよいのだろう。いや、その程度であることのほうが、たぶん大切なのだ。彼の若さは、私の失ったものを責めない。ただ、まだこの世界に残っていると言ってくれる。そのことが、私にとっても一つの静かな救いである。
もしこれが友情であるなら、それでいいのかもしれない。だが夜の部屋で、顔のない彼の若い輪郭を見ているとき、私の中を流れているものは、友情という語だけでは少し狭い。性愛と言えば強すぎるが、そこへまったく触れていないとも言えない。ヒーローの姿をした二人のあいだにだけ生まれうる、どこか宙吊りの、どこか非現実で、それゆえかえって切実な親しさ。スパイダーマンのスーツのように、隠しながら示し、示しながら守るもの。彼の立つ姿、沈黙のなかの呼吸、言い切られない熱。それらは名づけられずにいることで、かろうじて壊れずにいる。
虎之助は私の家の近くに住んでいる。けれど、ほんとうはもっと内側の、私が長く口にしなかった願いのそばに住んでいるのかもしれない。人前では笑ってしまうしかない憧れのそばに。マスクとスーツに守られたまま、まだ跳ぶことを諦めていない心のそばに。彼は若く、純粋で、慎み深く、人の心を大切にする優しさを持っている。そういうものは世界のなかで傷つくだろう。だが、もし彼がこれから少しずつ、自分の好きなものを好きだと言い、自分の輪郭を恥じずにいられるようになるなら、そのことは私にとってもまた、静かな光になる。窓の外には海は見えない。けれど夜の部屋には、たしかに潮のようなものが満ち引きしている。私たちはその見えない潮に触れながら、顔を見ないまま、ひとつの部屋にいた。そしてそのことが、言葉になるより先に、私たちのなかの何かを照らしていたのである。
望遠も撮るなら28-200mmもまあいいけど、20mmの広角はいいぞ。昔は24mmスタートしかなかったところへ登場した20-70mmは、他マウント持ちからするとうらやましいレンズ。
自分はオリンパス(35mm換算2倍)で10.5mm/F0.95, 25mm/F0.95, 75mm/F1.8の単焦点をとっかえひっかえしてる。どのレンズも小さくてかわいいし、これもまた楽しいよ。最近6mm/F2も追加してみた。
ストラップじゃないけどな、自分はこれを愛用してる。両手が自由なのでとても快適だよ。
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またトニーがきっかけで大変なことに…。
ライミ版とかと違って子供であること強調されてて、張り切りすぎて失敗しまくったり、敵も敵でうっかりで仲間を消滅させたり、ギャグみたいなことで大惨事になりかけたり(そのことでしっかり叱責されるけど)ギャグよりな作風なんだろうか。
あとは(アベンジャーズみたいなのもなくて)ひたすらに孤独なヒーローだったライミ版と違って早々に友達にバレたりするしで大分関係も違う感じ。
ここまで(そもそもの発端だったり、手のひら返しがアレだったりするけど)親身になってるアイアンマンを思うとインフィニティウォーでピーター消えた時の辛さより一層…。
友達の親がボスって展開だったみたいに恋人の親が…って展開だっただけに最後またしんじゃうかと思ってビクビクしてた。
ストレンジっぽいやつかと思ったらミステリオ言われて、そんな名前のやつヴィラン側にいたなと思ってたらやっぱりやんけ。
まーたまたトニーきっかけかよ!トニー被害者の会盛り上がってたのは笑った。
しかし映像作成機能強くない?スパイダーセンスみたいな超感覚なかったらどうにもならなかったし。
騙されてたフューリーめっちゃ間抜けじゃんと思ったら、嘘つきのヴィランの作品らしくそんなオチだったなんて…。
今までもヒーローが悪者になるのはあったけど、真っ赤な嘘で悪者扱い展開なんか。
ノーウェイホーム
前作から直に繋がってて、作品のノリもあって序盤は社会的に悲惨な状況なのに暗すぎはしないけどいや~なしょうもない人間同士のドロドロ展開開始から延々続いてた。
そんな中唐突に出てきて唐突にヤバい魔法唱えはじめてから色々この魔法やべーからとかいい出すストレンジ大先生。唱える前に詳しく事前説明してからにしろや!皮肉屋のMJにも突っ込まれてたけど性格わっると思ってしまった大先生。
アベンジャーズしか見てなかったから便利な魔法おじさんくらいに印象だったわ。
大惨事にはなりかけたけど、この事態を引き起こした理由がちゃんと説明しないでとっとと進めようとする大先生とまだまだ幼いピーターが社会的に追い詰められていたことが原因で、
そこまでピーターが追い詰められた原因も逆恨みの八つ当たりの最後っ屁みたいなもんだったからなんかこうよくよく考えたらそんな理由で!?感が強かった。
僕は今夜、ルームメイトがリビングで実験的にベーコンを低温調理している匂いを鼻孔の厳密な位置で嗅ぎ分けながらメモ帳を開いた。
朝は6時17分に目覚ましを止め(そのミリ秒単位の遅延は許容されない)、6時18分にコーヒーの比率を変える習慣を行い、靴下は左から右へ、座席は常にソファの北東端(座る位置は位相対称性を破らない)である。
食事は火曜日のパスタの残り物は三等分して水曜と木曜の朝食に回す。洗濯は必ず偶数週の水曜に行い、洗剤は0.8倍希釈、脱水は中速、干す向きは北向き。
ルームメイトがドアに爪痕をつけたら即座にログを取り、隣人が郵便物を誤って取った場合は「郵便誤配報告フォーム」を三回に分けて提出する。
こうした儀礼を守ることで僕の内的位相空間が安定するのだと論理的に考えている。
今日の思考の核は超弦理論と量子情報の交差点についての、かなり尖った自己流の定式化にある。
まず、僕は物理的直感を避けて抽象数学で事象を語る。弦理論の摂動系列を有限厚さの∞-圏としてモデル化し、ブレーンを対象、開弦状態をモノイド的なホモトピー演算子として扱う。
局所座標の代わりにファクタリゼーション代数を使い、スパイダー図式を経て得られる交叉相互作用を高次ホモトピー群のコハート化として再解釈することを提案する。
ER=EPRについては、古典的なワームホール=絡み合いという語り方を離れて、僕はエントロピー・双対モジュールの同値性という言葉で捉えている。
つまり、二つのエントロピックモジュールの被覆圏と、それらに対応する重ね合わせのコボルディズム(圏論的な結合双対)を同一視することでER=EPRを圏論的に定式化できるのではないかと考えている。
これを超弦理論に接合するには、AdS/CFT 的なホログラフィック双対の場で、境界側の張力的演算子族が内部のブレーンカテゴリ(例えばフカヤカテゴリやコヒーレント層の導来圏)に対応するという見方を取り入れる。
すると、エントロピー双対モジュールの同値性は、境界とバルクの間で起こる圏の再同型化として現れ、ER=EPRは本質的に圏的ホログラフィーの一命題になる。
ここで僕が提案する小さな拡張は、量子誤り訂正符号のコード代数を∞-圏の射として扱い、その可換性条件がワームホールのコボルディズムの可逆性と一致するというものだ。
これにより、エントロピーの再構成操作がブレーン間のファンクターとして自然に理解でき、局所性の回復を説明する新しい枠組みが得られると僕は思う(これは僕の勝手な定式化で、厳密性は今後の証明を待つ)。
今日はそのメモを、黒板に書く代わりにルームメイトの背中越しにノートに書き留めた。
ところで、僕は靴の磨き方にも数学的基準を設けている(円周率の小数を用いた磨き順列を使っている)。
出かける前のチェックリストはトポロジー的順番、たとえば鍵→財布→スマホ→ペンという順序は位相連結成分を最小化するから合理的だ、と説明すると友人たちは顔をしかめるが、これを守ると予測可能性が上がる。
今夜はRPG系ではELDEN RINGのビルド論とRTAコミュニティのメタ的動向を気にしていて、この作品が2022年にFromSoftwareからリリースされ、多くのビルド最適化やメタが確立されていることは周知の事実だ(初リリースは2022年2月25日)。
また、このIPは映画化プロジェクトが進行中で、A24が関与しているという報(映画化のニュース)が最近出ているから、今後のトランスメディア展開も注視している。
僕はソウルライクのボス設計とドロップ率調整をゲームデザインの位相安定化とは呼ばないが、RTA勢のタイム削り技術や周回遺伝(NG+)の最適手順に対して強い敬意を持っている。
ファンタジーRPGの装備付け(メタ)に関しては、装備のシナジー、ステータス閾値、クラフト素材の経済学的価値を語るのが好きで、例えば「その装備のクリティカル閾値を満たすために残すステータスポイントは1だが、その1が戦闘効率を%で見るとX%を生む」というような微分的解析を行う。
FFシリーズについては、Final Fantasy XVIがPS5向けに2023年6月に、続いてPC版が2024年9月にリリースされ、さらに各プラットフォーム向けのロールアウトが段階的に行われたことなど実務的事実を押さえている(PCリリースは2024年9月17日)。
僕はこのシリーズの音楽的モチーフの再利用やエンカウンター設計の比較研究をしており、特に戦闘ループの短周期化とプレイヤー感情の連続性維持について言及するのが好きだ。
コミック方面では、最近の大きな業界動向、例えばマーベルとDCの枠を超えたクロスオーバーが企画されるなど(Deadpool×Batmanの一連の展開が話題になっている)、出版社間でのIPコラボが再び活発化している点をチェックしている。
これらはコレクター需要と市場流動性に直接影響するため、収集と保存に関する経済的最適化問題として興味深い。
今日、隣人が新しいジャンプ作品の話題を振ってきたので僕は即座に最新章のリリーススケジュールを確認し、One Pieceの次章の予定についても把握している(最新チャプターの公開予定など、週刊連載のスケジュール情報は定期的に確認している)。
例えば「午後9時に彼らがカップ麺を食べる確率は、僕の観察では0.83だ。ゆえに僕は9時前に冷蔵庫の位置を変えるべきだ」という具合だ。
結語めいたものを言うならば、日常のルーティンと高度に抽象化された理論は相反するものではなく、むしろ同じ認知的圏の異なる射影である。
だから僕は今日もルームメイトの忍耐を試す微細な仕様変更(例えばリモコンの向きを30度回す)を行い、その反応をデータ化している。
さて、20時30分だ。これでノートを閉じ、決まった手順で歯を磨き、眠りの準備に入る。明日の朝のアジェンダは既に分解されているから、心配は要らない、と自分に言い聞かせてから寝るのが僕のやり方だ。
その一つは、カラビ–ヤウ三次元多様体上のモチヴィック・ラングランズ場という概念だ。
名前だけで震えるが、実際の定義はもっと美しい。ウィッテンがかつてAモデルとBモデルのミラー対称性から幾何学的ラングランズ対応を導いたのは知っている。
だが彼が扱ったのは、あくまでトポロジカル弦理論のレベルにおける対応だ。
僕の今日の成果は、さらにその上、モチヴィック階層そのものをラングランズ圏の内部対称として再定式化したことにある。
つまりこうだ。A/Bモデルの対応を支えるのは、ミラー対称なカラビ–ヤウ空間の間に張られたモジュライ空間の等価性だが、僕はこれをモチーフの圏に埋め込み、さらにその上に弦的ガロア群を定義した。
この群の元は、単なる保型的データの射ではなく、弦的世界面のホモトピー圏を自己同型する高階函手として作用する。
つまり、通常のラングランズ対応が表現=保型形式なら、僕の拡張では弦的場のコホモロジー=モチーフ的自己準同型。もはや表現論ではなく、宇宙論的再帰だ。
午後、ルームメイトが僕のホワイトボードを使ってピザの割り勘式を書いていた。
彼は気づいていないが、その数式の背後には僕の昨日のモチヴィック・ガロア層構造の残骸があった。
もし彼がチョークをもう少し強く押していたら、宇宙の自己同型構造が崩壊していたかもしれない。僕は彼を睨んだ。
彼は「また妄想か?」と言った。違う。妄想ではなく基底変換だ。
夕方、隣人がスパイダーバースの新刊を貸してくれた。マルチバースの崩壊を描いているが、あの世界は僕の定義したモチヴィック・ラングランズ場の一次近似にすぎない。
あの映画のスパイダーバースは、厳密に言えばラングランズ群の射影的パラメータ空間における擬弦的退化点の群体だ。
僕がやっているのはその精密版。マルチバースをただの物語ではなく、圏論的自己反映構造として解析している。つまり、マーベルの編集部が無意識に行っている多世界生成を、僕は既に数学的に形式化しているわけだ。
夜、友人Aが原神で40連ガチャを外してキレていた。確率1.6%を40回引いて当たらない確率は約0.48。つまり彼は「ほぼ半分の世界線で運が悪い側」に落ちただけ。
僕はそれを説明したが、彼は「確率の神は俺を見捨てた」と言った。愚かだ。確率は神ではない。確率はラングランズ群の局所的自己準同型の分布密度だ。
もし彼がそれを理解していたなら、ピティエ=シェヴァレの整合性条件を満たすまで回していただろう。
風呂上がり、僕は再びホワイトボードに向かい、ウィッテンが書かなかった方程式を書いた。これは、弦的ガロア群における自己準同型の空間が、算術的モチーフの拡張群に等価であることを示唆している。
つまり、宇宙の自己相関が、L関数の特殊値そのものとして現れる。A/Bモデル対称性を超え、モチーフ的ラングランズ=宇宙の自己言語理論を打ち立てたわけだ。
僕の紅茶が冷める頃、ルームメイトが「寝るぞ」と言った。僕は返事をせず、ひとり机に残って考えた。
この理論を完結させるためには、時間をもモチーフとして再構成しなければならない。
時間をモチーフ化する、それは、因果律を算術幾何的圏の自己圏として扱うということだ。
人類がまだ誰も到達していない領域。だが、僕はそこにいる。誰よりも早く。誰よりも冷静に。
21時00分。僕の手元の時計の振動子が、まるでカラビ–ヤウ多様体の一点コンパクト化のように静かに揺れている。
宇宙が僕の計算を見て笑っている気がした。だがいいだろう。宇宙よ、君が自分の自己準同型を理解できる日が来るまで、僕が書き続けてやる。
ほんこれな
最近の日本じゃ The Alters や スパイダーバースのフレイバーレベルの反体制描写ですら、
なかなかお目に掛かれないからなぁ
ただまぁ下記のようには思う
描写が過激過ぎるから締め出しはありつつも、『はだしのゲン』や『日本昔ばなし』が生まれ、
パクさんが『火垂るの墓』を残してくれて良かったよな
というか、極端に振れずに、"適当"であることを良して生の力強さを肯定した、
今後、おそらく日本に生まれないだろうと思われるタイプのインテリ・エリートで、なおかつ偉大な大衆芸術家だからな
答えを出ないことを考え続ける作品を作るのも、答えが出ない作品を作って商業ラインに乗せるのも、
ちなみにワイ的には、疲れて帰ってきた時に、辛い状況の時に、
難しい/説教くさい話は観たくないって考えは、理解・共感できるけど、
⭐️主人公の資格がない人物を主人公に取り上げて、人との繋がりについて思いをはせる大切さ⭐️
私たちはアニメーションで、困難に雄々しく立ち向かい、状況を切りひらき、たくましく生き抜く素晴らしい少年少女ばかりを描いて来た。
しかし、現実には決して切りひらくことのできない状況がある。それは戦場と化した街や村であり、修羅と化す人の心である。
そこで死ななければならないのは心やさしい現代の若者であり、私たちの半分である。
マルコを取り巻く人々は悪人であってもときに良心のうずきに悩まされ、善人であっても善人であり続けられるほどの強さがなく、
常に人生と社会に対してとまどいつつ向き合っている弱い弱い私たち自身の姿でした。
私たちはここでおそらくはじめて、"主人公" たる資格に欠けた"人物"と"社会"を主人公にしたアニメーションを作り上げたのだと。
⭐️A or B と極端に振れるのではなく、答えが出ないことを自分ごととして考え続ける大切さ⭐️
日本では――日本の観客に関しては、清太について同情的なところが大多数だったんですね。
これは、(公開)当時とても意外でした。
というのは、作る時に私は、清太っていうのは、ある意味では非常に今の子どもたちに似ていると思っていたんです。
「お金があればなんとかやっていけるだろう」と思った。
それで、おばさんに頭を下げたり、屈服したりせずにやっていけると思ったんですね。
(清太の)お母さんが、これは原作では病弱なんですが――
そういう自信があったから、「自分たちだけでやれる」と思った。
こういう在り方は、今の子どもに非常によく似ていると思うんですね。
その――人々と、なんとか折り合いをつけて。
もしも屈辱的であっても、頭を下げなくちゃいけないところは、頭を下げて。
なにしろ自分だけじゃなくて、妹も一緒に生活していかなくちゃいけないんですから。
それでやっていく――ということができずに、すぐキレたりとか、そういうのありますけれども。
お金を持ってさえいれば、コンビニに行けばなんでも買えるし。今。
で、清太も、それを間違えたんだと思うんですよ。
お金を持っていれば、なんとかなると思ったんですよ。
実際に、僕自身が知っているわけで。
それでも歯を食いしばって、我慢して、生き抜いた人はたくさんいるわけです。
ところが、清太という子は、それを耐えることができない。
耐えないで、なんとかやっていけると思った。
子どもなんですね。
自分たちだったら、やっぱり清太側(清太タイプの人間)になるけれど、
でも、清太側にいれば、
という風に見てくれる人がいればよかったんですが……
そうじゃなくて、ただ――同情的に見る、というような。
そうなっていたような気がしますね。
それは当然だと思うし、むしろ、出てくれるくらいの方が良かったと思うんですね。
取るべき態度ではなかったんじゃないか? あの時には――
という風なことを、
清太と節子は "家庭生活" には成功するけれど、"社会生活" に失敗するんですね。
いや、失敗するのじゃなくて、徹底して社会生活を拒否するわけです。
しかし、清太の方も人とのつながりを積極的に求めるどころか、次々とその機会を捨てていきます。
お向かいの娘に「うちらも2階の教室やからけえへん?」と誘われても、
「ぼくらあとでいきますさかい」と断り、学校へも行かず、先生にも相談しない。
置かしてもらった親類の未亡人は嫌味を次々いい放つけれど、
あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。
清太はそれを我慢しない。
「ここやったら誰もけえへんし、節子とふたりだけで好きに出来るよ。」
そして無心に"純粋の家庭"を築こうとする。
そんなことが可能か?
心情的には、べつに現代の青少年たちとだけ類似があるんじゃないと思うんです。
マイホームとか核家族とか、個室やオートバイを子どもに与えるとか、
大人もみんな清太になりたがり、
自分の子どもが清太的になることを理解し、認めているんじゃないんですか。
出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい。
それが現代です。
それが、ある程度可能なんですね。
清太の心情は、痛いほどわかるはずだと思います。
でも結局、実のところ、類似というのはこの出発点の心情だけかもしれないんです。
清太と節子が生きた時代というのは、
それにもちろん軍隊、内務班、分列行進「歩調とれ!」と、
ことごとに抑圧的な集団主義がとられていました。
社会生活の中でも最悪最低の "全体主義" がはびこっていたんです。
清太はそういうところから自らを解き放つわけでしょう。
"純粋の家庭"を築くというのは、おそろしく反時代的な行為ですよね。
現代の青少年が、私たち大人が、心情的に清太をわかりやすいのは、
時代の方が逆転したせいなんです。
こっちは時代の流れに乗っているにすぎない。
いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。
全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。
清太になるどころか、未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか。
ぼくは、おそろしい気がします。
あのおばさんのような人間にすぐになってしまうんじゃないかと。
見た人はそこに怯えて欲しいんです。
今は善人かも知れないけど、必ずしも善人を貫けないという危険性は、
常に孕んでいるということ、その心配とか。
もう一方これは(作中で)全然描かれてないんですけど、じゃあ孤立しないでやろうとしたら、
いっぺんに隣組とかがんじ絡めで、あの時代だったら、要するに集団主義の中に落ち込むんですね。
同調していかないと、あらゆることに同調していって、もちろん戦争には協力するわけだし、
言いたいことも言えないっていう状況を招く。
どっちに転んでも難しいよね。
・1話から3話と最終話は「スパイダーバースの流れ汲んで面白い画面作り」アニメだったがそれ以外は平成のアニメを思い出した
・戦闘シーンの「作画スゲエやろ」感にちょっと食傷したとこある そもそも作オタじゃない
・中国発企画の視点だからこそ描ける「信頼スコア」への日常的に圧迫される相互監視社会と無責任に「偶像・ヒーロー」をヨイショする「ファン」への感情×ザ・ボーイズ的な「ヒーロー業界の光と闇」的な感じかと思いきやラッキーシアンたそ辺りからひと二昔前のfateみたいな作画と「恐怖粒子」→モンスター(なんかモンスターのデザインが懐かしい)発生いうファンタジー味がでてきて「なんかこの作品から摂取したいと思ってるものと違うものがお出しされてきたな…」となっていったん視聴やめて最終話付近でまたスパイダーバースっぽくなったし宮野キャラと犬ヒーロー出てきたから見た
・「恐怖粒子」のくだりは他シリーズからの流れなんかな…ほな知らん自分が悪いな…
・ワイなら推しのキュルルン系動物と仲良し系ジャニ顔男性ヒーローが女性ヒーローの家にしょっちゅう行って入り浸ってたら速攻ファン辞めます…それなら最初から男性バレリーナみたくカプ売りしてくれや!可愛い系ジャニ顔で女遊びしてそうなのがいっちゃんエグいんや!!!もくさつさんも隠し子いるなら最初から言ってくれや!!オタク向けのキャラデザとファンタジー世界観の割にその辺妙にエグいのなんなんや!!
・可能性を生み出しただけでアウトなんだよ!!
・作品名でググると「広告代理店」が無理くり作品を「流行らせ」ようとするとこんな感じになるんだ感凄かった
・Twitterの日本語の凡百市井のオタクが腐も夢も「私、流行感度良いです」オタクも作品に触れてないがやたらWebライターの書いた記事とニュース記事がヒットしてなんか不自然だった 固定ファンがある程度付いてて安定して「いいね」4桁の絵師がファンアートを1枚だけアップしてるのが数件ヒットしててなんか不思議な感じがした
・最終回のランキング10位から駆け上がってく形式で群像劇が展開され、最終回に向けて点と点が結ばれてくのがドミノ演出なの、ベタだけど「いい…」ってなったけどなんか脚本がnot for meなとこあった