はてなキーワード: 戦略的撤退とは
つまり、基本的に南部からはロシア軍も侵攻することができんわけよ
と考えると、何故ウクライナ軍が南部からの侵攻を試みたのか俺には分からんという話でして
だって南部のロシア軍が侵攻してくる危険はそれほどないわけだから
しかも、元々そこには地雷原があることはある程度分かっていたにも関わらず敢えて南を主戦場に選ぶセンスが俺には分からんということでして
どちらかというと、ロシア軍の主力攻撃軸は東部なんじゃないかと思うわけ
だって南に地雷原作っちゃったから東からじゃないと攻めれないもんね
とは言え、バフムトが五月に失陥した以外には、東部戦線におけるロシア軍の進展は、あんまりなかったわけだし
東部戦線に配備されたロシア軍がそれほどの脅威なのかというと、俺にはそうは思えないんだよなあ
八年くんだり掛けて増強したバフムトの要塞都市が失陥するくらいなんだから、ワグナー(構成員には元スペツナズ部隊の精鋭が含まれてるらしい)らを主力とする東部戦線の戦力も、そりゃ馬鹿にはならんのだろうけどさ
今はそのワグナーもいないわけだし、東側から攻めたら良かったんじゃね? って思うわけ
なんかバフムト近くのクリシチウカとかアンドリウカとかクリュディミウカとかの集落では、結構ウクライナ軍が押してるらしいじゃん? 少なくともウクライナ側メディアによれば。
だったら、初めから主な攻撃軸を東側に設定しとけばよかったんちゃうかなって俺は思うわけ
勿論、ウクライナ軍(あるいはそのウクライナ軍を監督する立場にある某国の軍人たち)は考えなしにこの選択をしたわけじゃないんだろうけどね
というわけで、以下、彼らの思惑について幾つかの仮説を立ててみることにしました
そもそも南部攻勢は囮であり、本命は東部のバフムト付近を攻めてるアゾフの第三突撃旅団を中心とする勢力なんじゃないかって話
だからこそ、東部戦線におけるバフムト南部では現状ウクライナ軍がある程度の優位を確立できてるのかもしれんね(ロシア軍は戦略的撤退して砲撃戦に切り替えており、ウクライナ軍はその分厚い砲撃のせいで苦戦してるという噂もあるっちゃある)
先程言った通り、南部はそもそも地雷原化してるのでロシア軍にとって攻勢を掛けにくい場所になっている。
だからこそ、ロシア軍の軍備は南部ではなく主に東部に偏っているはずである
ウクライナ軍及び某国の軍隊はそのような戦力の偏りを突きたかったのではないかな、という説
ロシア軍は基本的に南部を地雷原化してるんだけど、いざという時に南部からの攻勢を可能するために、地雷原化していない地域を敢えて作っているのではないか説
そのような説を確認するために、南部攻勢を仕掛けている可能性はあるかもな、と思いました
ロシア軍だって、南部を完全に攻撃の軸として放棄したくはないだろうから、ひょっとして地雷原化せずにいざという時の攻撃軸として使用できるルートを作ってるのではないか、という話です
もしそういうルートがあるならば、そのルートはウクライナ軍にとっても侵攻可能なルートになりえます
言わば、それはロシア軍の南部戦線における缺欠、弱点にほかなりませんからね
ですから、ウクライナ軍はそういうルートを見つけて、そこから攻撃を仕掛けたかったのかもしれませんね
あるいは、そのようなロシア軍の侵攻ルートを、ロシア軍は露見する前に塞いでしまうかもしれません。自軍の弱点たりうるルートを、つまり地雷原化してしまうかもしれません。
だって、もしそうやって地雷原化されてない地域が露見されることを恐れるあまり、ロシア軍がそのようなルートを封鎖して地雷原化するのであれば、それ以降南部戦線からロシア軍が突破を試みることはなくなりますからね。
となれば、今後の戦争において南部におけるロシア軍の脅威は激減するわけで、それはそれでウクライナ軍にとってはOKということになるのかもしれません
つまり、幾つかのシナリオを検証すると、今後の主な戦線は南部戦線ではなく、むしろ東部戦線になるのではないかという話です
ロシアが地雷原化していないルート、つまり東部からの進入路の方が、ウクライナ側にとっては危険性の大きな場所ということになります。そのため、ウクライナはむしろ東部へと今後戦力を大きく割くのではないでしょうか
実際、ロシア軍も最近東部のゼレベツ川付近やクピャンスク方面、またビロホリフカ、トルスケなどの東部都市において侵攻を加速させています
そのような東部の戦力に抑えを利かせるためにも、ウクライナ軍は寧ろ東部に主力を充当するのではないかと個人的には考えています
仮に、ロシア軍が現状行っている東部からの攻撃を成功させてしまうと(例えばクラマトルスク、クピャンスク、コンスタンティノフカ、リマン、イジュームといった都市の防衛に失敗してしまうと)、ロシア軍は現在南部で頑張っているウクライナ軍の背後を突ける形になります。そうなれば、ウクライナ軍は大きく戦線を縮小し、撤退せざるを得なくなってしまうでしょう。
すると、更にたくさんの都市が陥落させられ、難民が発生し、その難民はキエフやハリコフへと押し寄せるかもしれません
そうなれば、ウクライナ軍は詰みです
そうならないためにも、ウクライナ軍は現状南部よりも、むしろ東部を重視しているのかもしれませんね
こういうのは大抵現場みたら原因分かるんだけど辞めちゃうって話が両方出てるからそうなんだろうな
この辞めさせるっていうのも優秀なのがわかりきってる子供を親から見てわざわざ明らかな逆境のある世界に行かせる旨みがないし
できるなら他のジャンル極めさせた方が有利っていう戦略的撤退っぽい
優秀な女の子を育てた親だからこそまず健全に機能してなさそうなところに進ませないんだろう
すごく悪いこと言うんだけどシステム的にこれを打破したかったら将棋を自分からやらないような貧しい家庭の子供に向けて優先的に将棋を教える仕組み作って家庭でキャリアプランとか持たない層から優秀な女の子を拾ってくると良いと思う、奨学金とか設定してさ
エヴァの劇場版公開がコロナ感染拡大を理由に公開を延期したことに対して、ちらほら「鬼滅から逃げた」という人(結構本気で卑怯だと思っているニュアンス)がいたことに対して驚いている。
「逃げた」ということはおそらく「勝負を恐れた」という憶測であろうが、ということはそれを口にする人々は「エヴァが鬼滅と売り上げで拮抗する」と思っているということだろうか。
エヴァのことは好きだし大きなコンテンツだと思っているが、流石に最近までジャンプ連載していた漫画と20年選手のエヴァでは売り上げ的に競るのはむずかしいと私は考えている。優劣の問題ではなく「昔からのマニアとそこそこいる後発のマニアがきっちりついている作品(逆に言えば彼らを喜ばせることに腐心しているので新規層はとりこみにくく天井がある程度予測できる)」と根強いファンプラス一回は見に行かなきゃという空気が出まくっている作品では、比べ物にならないとまではいかないが少し逃げた、戦略的撤退をしたところで勝ち筋が見えるとは思えない。そう考えると、まだまだ自分が思うよりエヴァは期待されているとみていいのだろうか?そうだったらうれしい。
タイトルのとおりなんだけど
小学校はサッカー部で先輩後輩なく楽しくやってたんだけど、中学校になってどうもおかしな気配を感じた。
普通の公立中学校だったからなのか、サッカー部なんかド不良の集まりで、先輩は絶対みたいな雰囲気だった。
パシリとか当たり前で、体育会系でよくある理不尽な命令みたいなのも普通にあった。
最初はみんなで「先輩怖いね~」みたいな話ししてたような気がするけど
なんか途中から同級生同士でも力関係みたいなのが発生して、クソ雑魚の僕はすぐにいじめみたいな感じになった。
もともとサッカーは特別好きではなかったし、はじめた理由もちょうどJリーグ開幕の年前後に小学校に上がったからみたいな感じだったと思う。
未練はなかったし、
何より怖かったのが、先輩>同級生>僕 みたいな非常に明確な構図ができあがってしまっていた事、
さらに先輩の上には先輩がいてさらにサッカー部顧問の先生がいる。さらにその上に外部から監督が来てて
その監督見た目はジーコみたいなんだけど、キレたら頭のテッペンから声が出る狂犬みたいなヒステリーおっさんだった。
まあ何が言いたいかというと、順当に順位を上げるのはムリダナと思ったわけです。
あまりに壁が高すぎる。とても正攻法では太刀打ちできない。と中1にして悟ったんですね。
くわえて以前から親父にも「お前は闘争心がない」とのご指摘を再三賜っていたので、その自覚はあったし特に悪いことだとも思わなかった。
幸いにしてそれほど頭は悪くなかったので、ぴゃーっと部活をやめて勉強にシフトすることにした。
で難なく進学校に進んで、今度は好きなことしようと思って
男女がいたからなのか、マイナースポーツゆえなのか、先輩後輩の関係もゆるく、待ち時間に漫画読んだり、ゲームしたり、夏休みに生徒だけで勝手に合宿したり、女の子に好きになられたり、そのまま仲良くなったり、楽しく過ごしました。
で、肝心のお勉強の方なんですけれども3年になると雲行きが怪しくなって来るんですね。1,2年時は強化クラスみたいなところにいたんですけれども、3年で普通クラスに落ちたんですね。
理系には有能男子学生が集まり、頭が悪くないくらいで勉強しない僕のような生徒が第一線張れるようなところではありませんでした。そういう環境では順当に行けば勉強頑張るか、となるんでしょうけれども、僕は戦いませんでした。そう文転です。
中学の経験から逃げが身についているのか、僕はさらに逃げます。そう私大です。
センター併用とかなんとかでごまかして、有名私大文系学部にするりと合格してしまうわけですね。下手に頑張って駅弁大学いくよか随分良い選択をしたと我ながら思うね。
これはもはや弱者の戦略と言って良いでしょう。勝敗が決する前に別の戦場に移るという画期的な戦法を身に着けてしまったわけです。その姿は強い相手と対戦しないように減量する計量前のボクサーのような美しさがあります。
でですね、大学でも難を避けて暮らして、今度は就活なんですけど、やっぱり理系企業に行きたいんですよね。ほんとはIT関連に行きたいんですよね。
無謀ですよね。競争ですよね。勉強してないのに。なのであきらめました。
じゃあどこいこうかなと思ったとき、僕が選んだのは女性が活躍できる職場(男性が誰も入ってこないくらいのブラック企業)でした。当時はブラック企業情報などもあまり溢れていない環境だったかと思いますが、親兄弟からも反対されるほど名のしれたブラック企業でした。
なぜそこに入ったのか。おそらくそこしか入れなかったのでしょう。規模が大きく、成長性があり、労働環境最悪―――というのは、なんとなく自分には向いてそう、という感覚がありました。実際その会社の労働環境は凄惨を極め、朝から夜まで働き詰めで1年めの年間休日は30日とかだったと思います。(もち全部サビ残だよ)
なんか書くの飽きてきたな。増田に長編書くモチベってなんなの?
で何が言いたいかというと、女性が多い職場にうら若き男が入ると、めっちゃかわいがってくれるんですね。んでもって女性が多いからといって女性が出世できるわけではないので、大卒の男性なんて勝手に出世するんですね。女の人って大変ですね。
しかも、もともとが時代遅れのブラック企業なので、成功した他社のやり方持ってくるだけでポンポン成績が上がるわけです。面白かったですね。
そんなこんなで出世して20代のうちにちゃっちゃっと結婚して子ども生まれて、まさにヌルゲー人生を謳歌しているわけですけれども。ここでふと気づくわけですね。
なにか仕事でヤバいトラブルがあったとか、乗り越えられない壁があったとか、めっちゃすごい人物にあてられたとか、一切そういうことはなくて、ふと振り返ったときに自分の歩んできた道の軽薄さに恐怖するんですね。
今までは「戦略的撤退」だと言い聞かせてきたんだけど、今、退路を探してもどこにも見当たらないんですよ。スキルも積まず、努力もせず、社会の盲点みたいなところ一点突破してきた自分が、出世だけして家族を背負い、綱渡りしている事に気付いてしまったんですよ。
手に職つけず。年だけ食って。もう35だよ。転職するにも公務員試験も受けられないよ。
退路がないと言ったけれども、僕、前進する方法も知らないんですよ。
どうしたらいいですか?
僕は何を恐れてるんだろうか?
どうしたらいいんだ。
こんなオチにするつもりで書いてたんじゃなかったのに。
「嫌なら逃げればいいじゃん」っていう軽い感じで書いてたはずなのに。
なんだこれ。最悪じゃん。
もう寝よ。最悪だ。
これは叩けと言わんばかりの話なので思わず飛びつこうとしたのだが躊躇している。
彼ら擁護派は何やら例えを持ち出してサイバー大臣パソコン歴不要説を説いている。
それについて「いやその例えはおかしい」という人もいる。
しかしそれに対して別の人が「おやおや、君じゃ分かんないかな」と言っている。
どこを見てもそこから話が発展してないので、もしかしてやせ我慢以上の何かがあるのでは?と疑っているのが今の自分である。
もし自分が大臣を叩いた後に未知の論理武装で奇襲されたら、戦略的撤退を余儀なくされるだろう。
それは指揮に関わる。心の。
または彼らの釣りである可能性もある。釣りをする意味がそもそも不明だが、「釣れた!」など宣言されるのは正否に関わらずある程度は不快である。
孫氏曰く、彼を知り己を知れば百戦殆うからず。
とりあえず彼らのTwitterアカウントはミュートしておいた。
家庭が不安定で、父は何か気に触ることがあると、声を荒げ、物に当たり散らす人だった。
母は子どもたちを守っては白い肌にアザを作っていた。
そんな家庭で育った私は妙に達観した子供で、大人におもねるのがうまく、空気を読むのが得意だった。
家庭では自然と自分が調整役を担い、何でもない風に明るく振る舞うようになった。
小中学校では同年代の子との付き合いに苦手意識がありつつも、部活の部長も任されたし、友達とはなんとなく合わせてうまく付き合ってきた。
(同級生女子の好む話題に乗れないのと、女子のねっちょりした付き合いが苦痛だった。)
そうやって家でも学校でもいい子の仮面を付けてうまくやってきていたのに、次第に身体の方が拒否し始めた。
大きな物音や男の先生の大きな声を聞くと、震えが止まらなくなった。
次第に朝、息が詰まって動けなくなり、無理やり足を一歩踏み出すたびに涙が出た。
もう無理だった。
当時、たった1年間だけスクールカウンセラーを配置しようという試みが私を救った。
カウンセラーの先生は「とりあえず休もうか」と休学を提案してくれた。
行きたくなったらもう一回1年生したらいいんだよ、フリースクールだってあるし、大検受けたら大学にも行けるよ、と。
「このままだとこの子は死にますよ」と母を説得してくれ、私は1年間の休養を与えてもらった。
そして、母もまた父を説得してくれたのだと思う。
1週間に1回、カウンセラーが来る水曜日には登校して面談する以外は、ひたすら寝て、ひたすら本やマンガを読みまくった。
働く母に代わって家事をしたり、一日本屋や図書館で過ごしたりもした。
誰も何も言わなかった。そっとしておいてくれたことに感謝している。
あるとき、学校に行ってみようかな、行けるんじゃないかなってふと思い、次の春から二回目の1年生に挑戦した。
精神的に不安定になることも多かったが、たくさんの先生の助けや、理解ある友人を得て、休みがちながらも卒業することができた。
大学でもカウンセリングを利用して、自分を噛み砕いて受け入れコントロールする術を身に着けていった。
今では死にたくなることも、精神的に揺らぐこともない。
大人になれないと思い込んでいた、あの頃には信じられない。
一度止まってしまったらなかなか戻れないのが日本の学校制度であり、高校をドロップアウトした者が休学留年してまで、やり直すケースはあまりないと思う。
希死念慮は自覚していなかったが、ここで止まってしまったらもう将来は無いのだから自分は死なないといけないなと漠然と思っていた。
カウンセラーの先生はその絶望をすくい取って「ちょっと休んで、力をためて、それから次に進んだらいいんだよ」って言ってくれた。
この逃げは、将来のことを何も考えていない、その場限りの無責任な勧めだとあなたは言えますか?
追記
「安易に逃げろなんて言うな」って流れにちょっと意見したくて書いてしまった。
もちろん、復学は容易ではなかったし、たった一年で容易に自分が変えられたわけではない。
復学初日の自己紹介で「留年して二回目の一年生です」ってさっさとカミングアウトしたら、周りに無駄に人が寄ってこなくて楽だったのは作戦勝ち。
クラス替え初日、仲良く慣れそうな人を見極めババっと磁石がくっつくみたいに、グループ作る流れが苦手だったので。
女子は初めての昼休みに誰とお弁当食べるかがその先を決定するんだよね。
1年の休学という区切りがあったのも良かったと思う。
母も先生たちも一年休学したところで、そのままドロップアウトして引きこもりコースかなって思ってたと思う。
何よりも自分が一番状況を打開しないと、という焦りがあったけど、区切りがなかったら外に出るのが怖くなって惰性で引きこもっていただろう。
逃げる、休む、戦略的撤退でもなんでも、それは一時的なもので、元に戻る道、別の道を選んでいかないといけないことには変わらない。
少しずつでも挑戦して、自信をつけていくことが大事で、あまりに長い休養はかえって毒になると思っている。
とにかく私は周りの人に恵まれていたのだけは確か。
でも、自分でも心の許せる人を周りに集めて、自分の居心地の良い環境を作るのが大事だと思う。
優しい言葉をかけてくれる人ではなくて、ときに叱ったり発破をかけてくれる人。
ちなみに父自身も癇癪を抑えられない自分が嫌だったのか、少しずつコントロールできるようになり、力も衰えた今ではすっかりおとなしくなった。
私も父を客観的に見れるようになって、距離を保ってうまく付き合えるようになった。
昔のことは許せないけど、父を受け入れることは私の成長の一部となったと思う。
何の取柄もなく人に好かれないなら死んじまえ
悪いことは言わない
生きたところで負け犬
生きるなんてどうせくだらない(映画「ファントム・オブ・パラダイス」より)
現代において自殺防止が推進されるのは、社会を維持していくために必要だから。
苦しくなったら死んでもいいってのが肯定されたら、道徳も倫理、規範も崩壊して、
悲しいことに、世の中には生きることの適性が全くない人種が一定数存在する。
協調性も無く、競争にも向かないタイプの人間はどうしたって幸せになるのは難しい。
集団から排他され、ピラミッドの底辺で勝ち組を引き立たせるためだけの踏み台を延々と演じ続けるだけ。
天寿を全うしても、せいぜい80年やそこらの人生。
それを多少前倒ししたって、来るべきタイミングが少し早く来たってだけ。
ある程度まで生きて、自分の可能性に見切りが付けられるなら、自分の終わりは自分で決めたって悪くないんじゃないかな?
無数の動植物を犠牲にして、成り立ってる命なのに、死にたいどうでもいいって惰性で生きるのはある意味すごく僭越な事だし。
そうは言いつつ、オレも家族や友人が自殺するってなったら、実際は殴ってでも止めるんだろう。
大切な人に死なれたら、残された側はたまらなく悲痛になる。
人生の終わりは生物的な限界よりも自分の意志で決定すべきって考えていながら、
自殺はして欲しくないことになる。
http://anond.hatelabo.jp/20160808150834
以前、COJSがオワコン化が決定した2016年8月に上記の日記を書いたがまさに予言通りに順調に無人気になり、
撤去が進むコードオブジョーカーS(COJS)。
遂には過去SRカードを無料配布するというアップデートまで行った。
しかし戻ってこない人。
ばら撒き。
でも来ない。
なおさら離れていった層も帰ってこない。
さらにばら撒き。
分かってない調整。
どうもこうも無かった。
年内…いや4月までも難しいだろうと予想している。
◆追記
「では前日記を書いてから具体的にCOJSは何をやってきたの?」かを振り返ろう
単純に言うと新規が増えないどころか減ったので、
これに尽きる
根本的に見直すとかゲームバランスを改善するとか広報に力を入れるとか
何かイベントを開催するとかではなくて
まあ、これも予想していた通りの結末だけど
要は残っている固定客に欲しかったけど得られなかったカードを格安で販売して
恐らく早ければ3月で、もったとしても6月頃にはサービス終了するだろう
夏までは絶対もたない
人口の多い東京とか辺鄙な田舎ならまだやってる人がいるだろうが
普通の都市部ではどんな時間帯でも全席埋まってる店を探す方が難しい
そしてSEGA直営店はクレサしづらいために客足は遠のく一方だろう
既に電気代の金食い虫と化しているところだって少なくないはずだ
(その前に撤去されるが)
きっかけは『冷たい熱帯魚』という映画をこの女と一緒に見たことです。
その映画では子供がグレてるので「自分の子供があんなのになったら俺、無理だわ」って言ったことで子供の話になりました。
俺の最悪だった少年時代の記憶から、大きなトラブルを起こさずに子供時代を乗り切ることなんて奇跡みたいなものだという認識で話してます。
俺「子供の世界は常に戦いだから対応する自信ないわー」 女「え?なにと戦ってるの?」 俺「なにとって、攻撃してくる奴と」 女「攻撃してくる奴なんているの?」 俺「いるよ。俺の子供時代はどの時点でも常に敵がいたよ」 女「変なのー」 俺「変ってw おまえには敵がいなかったのかよ?」 女「いないよー。みんな仲良しだったよ」 俺「うそ?一度も?」 女「うん。たぶん私の妹も敵なんていなかったよ」
そんな馬鹿なと思いましたが、
や
男女差が影響してるのかも?
とか
でも少なくとも妹には、彼女には敵が居ただろう
などと、この時点では考えていました。
女「どうして敵になるの?」
どうしてだろう?
と考えて説明しようとしました。
俺「だって子供の世界は大人以上に階級社会じゃん。スクールカーストじゃん」 女「え〜、そんなことないよー」 俺「ないことないって。ラノベとかのテーマになってるぐらい共通認識じゃん?あるあるー、って感じの」 女「ほとんどないから小説になってるんでしょ?」 俺「いやいや、そもそも俺の子供時代はずっとスクールカーストを意識してたよ」 女「えー、それってあんたがおかしいんじゃないの?」 俺「そんな事ないって。誰が強いか、偉いか、みたいなことは誰だって認識してるでしょ」 女「そんなことないよー」 俺「女の子はそうなのか? いや、でも女だってブランド物とかスペックの良い彼氏が欲しいのはカーストを登りたいからでしょ?」 女「わたしはブランド物なんて欲しくないもん」
こんな感じで、まったく話がかみ合いません。
敵までいかなくても、殺伐とした空気になったことぐらいはあるだろうと思って、話を戻しました。
俺「じゃあ子供時代に友達同士で修羅場というか、何か悔しかったり嫌だったことは無いの?」 女「う〜ん」 俺「ない?」 女「あ!そう言えば友達と3人ぐらいで公園に行った時に池にボートがあって、初めてだったから乗りたいって言ったんだけど あんたが漕いだらひっくり返りそうだから嫌だって言われて乗れなかったのが嫌だった」 俺「あ〜、それは理不尽だねー」 女「理不尽?何が?」 俺「いや、だっておまえが漕いだらひっくり返るって決めつけられたら理不尽じゃん」 女「え〜、そうなのかなー。わたしドン臭いからひっくり返りそうだよ」 俺「え?じゃあ何が嫌だったの?」 女「だから、せっかくボートがあったのに乗れなかったから」
一生懸命思い出した嫌な思い出がこれとは!
しかし、そんな事があるだろうか?
この話だって、例えばこの子のカーストが低いせいで、せっかくボートで遊びたいって提案したのに、
この件以外にも常にそういう扱いだっただろうと想像できて、
読むだけで嫌な気分になる人もいるレベルじゃないだろうか?
この時点で「もしかしてこの女はカーストを認識できてない?」と思い至りました。
俺「会話の細かいニュアンスで、こいつはこいつより上とか下、みたいな事を感じることはない?」 女「え〜、そんなこと一度も考えたことないよ。なんでわざわざそんな事を考えるの?」 俺「いや、考えなくてもわかるじゃん。動物にはそういう能力がみんなあると思うよ」 女「そうかなー。よくわかんないや」
こいつ変だ!と思いました。
でも同時に、ひょっとして変なのは俺の方なのか?
とも思いました。
増田で聞いてみようと思った次第です。俺と彼女どっちが変でしょうか?どっちも変でしょうか?
この時点でふと、もしかして俺の少年時代が殺伐としてたのは、環境のせいじゃなくて俺のせいなのかも、
と考えるようになりました。ここからは俺の話です。
俺は傷害で少年院に入った事があります。いじめっこの首をナイフで刺しました。親兄弟には多大な迷惑をかけました。
でもそれは俺が悪いんじゃなくて、あの状況では仕方が無かったと思っていました。
俺は常にスクールカーストの最底辺に居ました。クラスで下から2〜3番目が俺の定位置でした。
頭も顔も悪くて、恐怖心が強く性格も弱い、運動もできない、というタイプです。
それなのに常にカースト上位の人間と同じ扱いを受けないと、ものすごい怒りを感じるタイプでした。
例えば小学校の掃除の時間に、奇麗なホウキを取り合いになる場面で常に上位の人間と競り合っていました。
恐怖を押し殺しながら。
でも絶対に従いません。カツアゲされても絶対にお金を渡しません。
でも学校を休むのは負け犬だと思い、そんな状態でも皆勤賞です。
ある時、給食の中にうんことおしっこを入れてみんなに食べさせたのがバレて地元に居られなくなり、
転校しても状況は変わりませんでした。
最初は頑張ったのですが、すぐにカーストの最底辺にポジショニングされ、また怒りと恐怖で気が狂う。
この頃から頻繁にカッターナイフや小型ワイフを携帯するようになりました。
でもいじめられても相手を刺す勇気が出ません。親にこれ以上迷惑をかけるのが嫌だったし、捕まるのも怖かったのです。
自殺するか相手を殺すか、そんな事をずっと考えるのが日常でした。もちろん学校は皆勤賞です。
ナイフを持ってない時にカツアゲされたら、相手の目をつぶせば良いと思っていました。
その場合も人差し指では失明させられないから親指を突っ込もうと考え、相手の頭を掴んで親指を目に突っ込む練習をしていました。
でも実行できません。
実行できない自分を情けなく思い、毎日「自分は気違いで人を殺したくてしょうがない」のだと自己暗示をかけていました。
ある日、高校に可愛い女の子が転校して来ました。俺の隣の席になり、いろいろ教えたりしている内に好きになっていました。
でも俺の顔は自律神経がおかしくなったのかニキビだらけで、元々不細工な顔が更に醜悪になっていました。
それに成績も最低で運動神経も鈍いし、ずっといじめられている人間です。
絶対に自分が好かれることは無いのだから関わってはいけないと、できるだけそっけなく対応していました。
でも授業中などについチラチラ見てしまうんです。
それをカースト最高位の不良に見つかりました。
そいつのグループとは絶対に関わってはいけないと思い、距離を取っていたせいか、
それまではほとんど交流が無かったのですが、これをきっかけにいじめられるようになりました。
その頃の俺は日課みたいに毎日4時間目の休み時間にトイレに行っていました。
1時間目からひどい下痢に襲われ、4時間目まで我慢するのですが、耐えきれずに油汗を流しながらフラフラとトイレに行くのです。
学校でうんこをしてはいけない、という鉄の掟をなぜか高校生にもなって継続していたので、
お昼ご飯を食べれば不思議と腹痛が治まるのもあって、なんとか耐えようとした結果、そういうルーチンになっていました。
そこを狙われました。
あまりの事に固まってしまい「え?え?」とか言ってる内にズボンのチャックに手をかけられました。
ちゃんと殺すつもりで頸動脈を狙ったのですが、断続的に出てくるうんこが気になって狙いが外れ、そいつは死にませんでした。
女子は泣き叫ぶし、そいつは血まみれで呻いているし、うんこで臭いし、
こんなカオスな現場もそう無いよなー、などと考えながら大に入り鍵をしめて続きをした冷静な自分がおかしかったです。
あそこまで行くと人間って開き直ってしまい、恐怖も何もなく、むしろ謎の達成感がありました。
「おい開けろ!!」とか怒鳴りながらドアに体当たりしてくる先生に
「開けてやるからジャージ持って来い」とか偉そうに命令してました。
もちろんそれまではそんなキャラじゃなかったです。
ちょっと本題からズレ過ぎたので、俺の黒歴史はこのへんにしときます。
俺の中では「俺だけがこうなんじゃなくて、みんなこういう苦しみをかかえながら、
なんとか生きている。この世こそが地獄なんだ」という認識でした。
たまたま俺は運が悪くて向こう側に行ってしまったけど、みんなギリギリのラインを生きているんだと思っていました。
でもそうじゃない可能性に思い至りました。
俺の問題は、
だと思います。
そのせいで無駄な反抗をしてしまい、本来はそこまで悪質じゃない人を煽っていたのです。
これを回避するのは簡単です。相手を煽らないようにすれば良いだけなんです。
それを可能にする為には、理不尽な扱いを表面上受け入れても、そこから逃げても、それは負けじゃないんだ、という事を理解すれば良かったのです。
戦略的撤退ということを学べば良いんです。
「自分はゴミだから何をされても良いんだ」などと自暴自棄になることさえ避けられれば、
人間は弱いものだから、悪い気持ちを抑えられないものなんです。
攻撃対象になったからと言って、自分だけが弱いわけでは無いし、ゴミだなんて事はあり得ないんです。
みんな弱いからしょうがないんだと理解して、頭を使って、なんとかその場からだけでも逃げられればそれで良いんです。
カッコ悪くても良いんです。そもそもいじめてる人の方がもっとカッコ悪いんです。
たとえ相手の方が力が強かったり、勉強ができたり、ルックスが良かったり、金持ちだったりしても劣等感は不要です。
なぜなら、恵まれているのに、いじめという低俗なことをしてしまうんですから。
だからいじめられてる人はダサくも無いしカッコ悪くもないんです。お互いに弱い部分がある、という、それだけの事なんです。
さて、成人してから迷惑をかけた彼女に謝罪しようと思い、色々調べたところ、その子は実家のある関東に戻っていました。
彼女にはショックだったようで、あれから高校に通えなくなっていました。
「その話は私じゃなくて妹にして。あの子はショックで高校に行けなくなったんだからちゃんと謝ってね」
と言いました。そこに彼女は居ませんでした。
俺はこの女を一生守ると誓います。
身バレが怖いので少し脚色したつもりですが、少しじゃなくなってしまったのは謝ります。
たくさんブックマークがついてて驚きました。コメントありがとうございます。コメントを読んで書き漏らしがあった事に気がついたので修正しました。
そのせいで長い文章が更に長くなってしまいました。すみません。
それと、俺は変に反抗的だったので、一番ひどい扱いを受けていましたが、俺以外では最底辺よりも、中間層から上ぐらいの人間の方が、ひどいいじめを受けていたように思います。ひどいと言っても、みんなの前でオナニーとかでは無くて、殴られたりとか集団で無視されたり、レベルですが。
中田考さん(イスラム法学者でムスリム)が叩かれてるようなので、ちょっとだけフォローしたい。
(なお自分はムスリムではないし、かの美しいと有名なクルアーン(コーラン)も注釈でしか触れたことがない)
六信五行なんて訳されることもあるが、ムスリムは義務としての決め事が多い。
判りやすいところでいくと、ザカート(Zakat)というのがあって、これは義務的な施しにあたる。
翻訳の難しいところで、これは税金として解釈されることもあるし、喜捨つまり寄付の一種と看做されることもある。
財産税による社会福祉と言うのが実体に近く、アッラーフに寄進して、それを皆が使う、という再分配機能になっている。
と、言うようにイスラームというのは宗教であるのだが、その根幹が社会制度になっている。
王様が世捨て人を経て悟った宗教とか、大工の息子が突如悟って国教になっちゃった宗教とは違い、
砂漠のど真ん中で戦国時代やってたような連中をまとめ上げてサバイブしてきた宗教なので、
政(まつりごと)やってる連中に好きに利用されちゃう宗教とは違って、
なので、イスラーム共同体を作り守り広げるぞ、いう感じなわけだ。
ウンマ・イスラーミーヤ(ummma islamiya)とか言われるものがそれになる。
で、ジハードのことを聖戦と訳すとまたややこしいことになるんだが、
「アッラーフのための奮闘努力」が多分一番近いニュアンスになる。
意外(?)な事に、大ジハードとは個人的な内面の戦いになる。現実の戦争とか小ジハードなのね。
ラマダーン(断食月間)だとか、宗教的に正しい行いをするのはより困難で重要である、というわけ。
これは、大体の法学者が見解を一致する数少ない部分でもあって、かなり重要な概念なのです。
宗教というよりは生活様式というかまんま国是みたいなものですというのを理解してもらった上で、
さらにムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、というのが義務として五行に組み込まれていて、
ムスリムはみんなそれを守るのは重要だと考えている、という前提をおいた上で、
ダール・アル=イスラームと呼ばれる、イスラーム世界というのがあるわけです。
ダール・アル=ハルブと呼ばれる、非イスラーム世界というのもあるのです。
自分たちのルールとは、違うルールを使ってる世界、というニュアンス。
すると、当然、自分の家を守るのは義務、ということでイスラーム世界を守るのは義務なわけです。
宗教は自由なので無理強いはしないけど、イスラーム世界のルールには従おう、みたいなのがあるのです。
結果、非ムスリムは許容するけど、非イスラーム世界をイスラーム世界に組み入れる努力を怠ってはならない、
という、ワリと複雑なことになっているわけです。
まあ、正確にはアラビア語のクルアーンを読むべきなんだけれども、
不信仰者の攻撃を受けて背を向けてはならない、戦略的撤退等を除いてはアッラーフの怒りを被り地獄に住むことになる、とか書いてある。
そうすると、非イスラーム世界からの攻撃に、ムスリムは防衛する義務があって、背を向けてはならないわけです。
そして、非イスラーム世界の代表例とも言えるのがアメリカ合衆国で、これに背を向けられないと。
ただし、害がない場合(イスラーム世界と和平を結びたがってる異教徒)には、和平を結んでも良い、とされている。
ムスリムである中田考さんの会見は、同胞であるムスリムに対する呼びかけになるわけですね。
イスラーム国をムスリムでないと断定できれば攻撃したり非難したりすることは簡単なんだけど、それは出来ない。
すると、非イスラーム世界と戦っている!と言われれば、背を向けよ、とは声掛け出来ない。
日本政府側には「ムスリムは異教徒と戦って背を向ける事は出来ない(地獄に落ちる)ので、戦うとか言わないで」とまず言ったと。
テロリスト、非テロリストという枠組みではなく、まずイスラーム世界と非イスラーム世界との枠組みの話ね。
で、トルコ経由で人道支援に限って渡すことも出来るよ、仲介するよ、と。
「日本政府の資金は、人道支援に限ってるよ(戦うために使っているわけではない≒非イスラーム世界だが敵対中ではない)」
「(君らも知ってると思うが、安部総理はトルコ・レバノンへ支援すると言ってるわけで)トルコ経由で渡すこともできるよ」
「双方にとって時間が短すぎるよ、そこはなんとかならんかね。自分もそっちに行くよ」
「ヤージディー教徒は解放したよね。そういう態度の方が、主張は通りやすいよ」
ムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、という前提のもとでは、攻撃に折れよとは絶対に言えないわけです。
ただ、テロリストとは交渉しない、テロリストに金を払わないという日本政府側の前提も曲げられないと。
すると、日本は非イスラーム世界だが、人道支援に限って金を出しているので敵対中ではなく、和平を望んでいると、
イスラーム国もムスリムなら、小ジハードを止めろとは言わないから、異教徒に寛大でも良くないか、
そもそも時間も短すぎるし、ちょっとムスリムの法学者たる自分が間に入るから話を聞いてくれまいか、
と、そういう声掛けになるわけです。
質疑応答でも、身代金を払うんじゃない人道支援だ、と繰り返し言ってるのが、板挟みの回答になってるわけですよ。
まあ、ワリと中田考さんはイスラーム国側に立った物言いしてるわけですね。どちらかと言うとメッセージになってる。
敵対すると同じ派閥であっても即処刑する人達なので、非難して即斬首とか困るわけですよ。当然ながら。
(もちろん、ムスリムがみんなこうかとういとそうじゃなくて、過激派は認めないとか、イスラムの名を利用した単なる侵略だ、とか言ってるトコロも多くある)
とういわけで、ワリと詰んでる状況で、譲歩を引き出す限界ギリギリのところだったんじゃないかなあと思うわけです。
だって、日本は米国と協調路線で、ガッツリ名前出してISIL壊滅の為にイラク政府に手を貸すとか言っちゃってるわけで。
本来なら政府はテロリストと交渉しないので、引き伸ばしつつ救出(奪還)作戦を展開して成功させないといけないわけで。
家族とか所属会社経由で身代金に応じるっていう裏取引(政府は目をつぶる)も、時間が短すぎると。
http://anond.hatelabo.jp/20140211194145
多数の方がブックマークくださり、またコメントも書いてくださる方も居て、感謝しています。ありがとうございました。
>どのテレビ番組なのか
日付は失念しましたがフジテレビの「とくダネ!」です。偶然録画されていました。
>女子供を外に置く
特段性差を意識していたわけでもなく、元のテレビ番組からの連想です。現代社会において生きる人、コミットメントを持つ人はそれを忘れられる場所が必要なんだと教えられました。逃げる、とはまた違って戦略的撤退というか補給のようなものでしょう。家族が、家庭がその役目を果たさないのは悲しい現実だとは思います。また仕事においても達成して当然という姿勢がこのような「補給」を必要としているのではないでしょうか。自身を顧みてですが。
>後半が愚痴
これまもうしわけない気持ちでいっぱいです。先のテレビ番組を惹起としての小文でしたので、思うまま思考の流れるまま綴った結果です。読んでくださってありがとうございました。年々仕事が辛くなってるように感じています。求めるほうが過酷というか。責任範囲の定義が明確ではないです。よく言われる「全員が経営者目線で~」というのはそれぞれの職分、責任範囲の自己規定を求める姿勢となり望ましいとは考えられません。少なくとも、私が理解している自分の能力を超えた対応を求められていると感じて萎縮します。萎縮しています。
また、私の雑文からご自身の意見をブログで書かれた方も読ませていただきました。あの駄文が誰かになにかを書かせる元になったかと思うと胸が熱くなりました。
> http://anond.hatelabo.jp/20140212113748
とりわけこの増田が心に響きました。
昨日も大雪のなか、仕事でした。帰り道に書店に寄りました。気持ちとしては書店によるついでに仕事をしたようなものでしたが……。また明日から仕事で、帰り道にいろいろ立ち寄って、同じような人(男性以外も!)を見て、同士、戦友だと1人思い込んでこようと思っています。飲みたいわけじゃない、でもどこかに寄らないと帰れない、という気持ちを囲って。
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20130303/1362290841
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20130327/1364352994
いかにも叩かれそうな、ここで話題になっている本質とはズレまくったことを書きますが、そんなに性別越えたいんだったらホンマに性転換でもしたらいいんじゃない、と思ってしまいます。
わたしはしましたが、それはそれで決して楽ではないですよ。
男は男で実に面倒くさいことが多いのはよく知っていますが、女は女でこれも面倒臭いです。
さらに性転換して社会に再度埋没するというのは、これも実に面倒臭いです。
要するに逃げ場などありません。これも当たり前ですが、皆んなそれぞれに戦ってるでしょう。
戦ってると言っても、速攻日本刀で切られるほどではないし、まぁそこそこ戦いつつ、そこそこダラダラしつつ、生きていくんじゃないですかね。
まぁあの文章で言わんとしていることは分からないでもないですし、それはそれで面白い指摘だと思いますが、性別を超越とか、かっこ良く言い過ぎじゃないですか。単に逃げてるだけでしょう。
三十六計逃げるにしかずですから、逃げたっていいと思いますけれど。別に性別がどうとかいう大げさな話じゃない。
かっこつけたいというのはよく分かるので、戦略的撤退とか何とか言ったら良いんじゃないでしょうか。実際、そういうのはアリだと思います。
先に断っておくが、このエントリでは当事件の事実関係や市や学校の対応、ネット上の意見などに一切関与せず、「いじめ」と「自殺」について個人的な意見を述べるものである。
滋賀県大津市で起きた男子中学生の自殺を巡って世間に様々な声が上がっている。
Twitterを眺めていても、数は少ないながらも多種多様な人たちが共存する僕のTL上ではこの件を巡って、「いじめ」あるいは「いじめと自殺」を巡って活発な意見交換が行われており、日々感服するばかりである。インターネット上において「いじめ事件」が大々的に取り上げられるのは何も昨今に限った話ではない。何年も前から日本の各地で痛ましい「いじめ」についての事件が起こるたびにインターネットではそれについて激しいレスポンスが生まれてきた。それらは基本的に「いじめ」について批判的な意見なのだが、時にそれらは過剰すぎるといっていい反応に発展し、自称「正義の味方」たちが暴走したりすることはあるいみネット界隈においては日常茶飯事であった。僕自身は事件の経緯や事実関係などとはまったく別に、それらの激しい反応が巻き起こるたびに辟易したことを覚えているが、ここ数年でその状況は大きく、とは言わずともかなり変化したと考える。一昔前なら、こういった痛ましい事件が起きた場合、インターネット上での反応はほぼほぼ一種類だった。すなわち、「いじめた奴をぶっ殺せ」である。もちろん、言葉や表現、論調や論点の違えど、その大体は「いじめた奴をぶっ殺せ」だった。もちろん、感情論で言えば、そうだ。だが、はっきり言ってしまうが、今回のような「自殺」というキーワードが俎上に上がるほど苛烈で、悲惨な「いじめ」の事例に関して言えば、そんな短絡的な方法では問題の根は解決しない。
それはなぜか?
答えは単純である。
たとえ「その子」をいじめた連中が全員死のうが、少年院送りになろうが、ネットで晒し者になろうが、
いじめられた「その子」はもう大概「普通の人生を普通に生きる権利」を奪われているからだ。
何年か前に話題になった「いじめられているキミへ」の寄稿文らしいのだが、思うところあるので引用させていただく。
死なないで、逃げて逃げて
あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。
あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げ続けることです。学校に行かない自分をせめる必要はありません。大人だって、会社がいやになったら、会社から逃げているのです。
次にあなたにしてほしいのは、絶対に死なないことです。
そのために、自分がどんなにひどくいじめられているか、周りにアピールしましょう。思い切って、「遺書」を書き、台所のテーブルにおいて、外出しましょう。学校に行かず、1日ブラブラして、大人に心配をかけましょう。そして、死にきれなかったと家にもどるのです。 それでも、あなたの親があなたを無視するのなら、学校あてに送りましょう。あなたをいじめている人の名前と、あなたの名前を書いて送るのです。
はずかしがることはありません。その学校から、ちゃんと逃げるために、「遺書」を送るのです。
死んでも、安らぎはありません。死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません。
だいじょうぶ。この世の中は、あなたが思うより、ずっと広いのです。
あなたが安心して生活できる場所が、ぜったいにあります。それは、小さな村か南の島かもしれませんが、きっとあります。
僕は、南の島でなんとか生きのびた小学生を何人も見てきました。
どうか、勇気を持って逃げてください。
「いじめられる方に問題がある」
最早時代錯誤過ぎて目が泳いでしまうようなおサムい台詞だが、これはわりと最近まで(ここ重要)いじめられっ子に対する教師や親の言葉として一定の説得力を持っていたことは悲しいことながら事実である。
んなワケねーだろボケ!!
「いじめられる方に問題がある」
→まず、これは最も頭が悪い意見だ。が、実際のところ「なぜいじめが起きるのか?」という答えに対して、ほとんどの人間がこの馬鹿みたいな空虚な言葉を目を伏しがちに言うのである。いいか、それは断じて違う。なぜかといえば、この論理は、「いじめられる」と「問題がある」というふたつの出来事が、あたかも因果関係があるかのように触れられているという点だ。「あの子には問題がある」→「だからいじめられる」という理屈だ。だが、こんな馬鹿な理屈があってたまるだろうか。確かに、人間だれしも社会的な人間関係を営むに際して「問題」を抱えているものだ。「空気が読めない」とか「性格が悪い」だとか「ええかっこしぃ」だの、はっきり言って枚挙に暇なんかない。そして、その「問題」を抱えていない人間も、この世界には一人もいない。誰だってできる限息がしやすい場所、陽の光があたりやすい場所にいたいと思うし、少なからず利己的になることだってある。もしくは、そもそも人間関係を営むことについて不得手だったり、嫌いな人間だっている。それは「社会的な(笑)」観点から言えば問題なのかもしれない。気に入らない人間だっているかもしれない。はっきり言えばムカつくかもしれない。だが、それだって仕方のないことだ。どうやっても自分には受け入れられない性格の人間というのは存在するし、そういう人間とどうしてか同じ空間で過ごさなくてはいけない場合だってある。そういう場合はもう、仕方のないことだから、適度な距離をとって「うまくやる」しかない。それはもう、どうしようもないことだ。だが。だが、である。
「(自分にとって)その人に何らかの問題があったから」といって、その人をいじめていい理屈なんかこの世界のどこにもないんだよ。
仮に、ものすごく性格がよろしくなくて、みんなに鼻つまみ者にされている人がいたしても、それははっきり言ってしまえばその人の「問題」だ。
社会的な営みをする以上、共同体において「邪魔」な存在というのはどうしても出てくる。それも仕方のないことだ。
もっと具体的に言えば、共同体において「ぼっち」の存在が生まれてしまうのはごく自然なことであり、それ自体は何の問題もない。
何のことはない、単にその人がその共同体に「合わなかった」だけの話だ。その「問題」ということについてだって、現実世界側のインターフェースが引き起こしたバグのようなものだと考えればたいしたことはない。コミュ障? キモメン? んなことは別に「問題」じゃない。もしそれで自分にコンプレックスやルサンチマンを抱えている人たちがいるのならば、もう素直に意識を別に向けるべきだ。今はインターネットという素晴らしい道具があり、その他にも数えきれないほどの環境や世界がある。はっきりいって現実世界なんかあまたある世界の表層のひとつにすぎず、僕達が保持している肉体はたんなるいちインターフェースに過ぎないわけである。だから、「あ、ここ自分には合わないな」と思ったらさっさと身を引いて別のコミュニティなり世界なりを探すことが自分にとっても相手にとっても健全だ。
だから、もし「いじめ」られている子がいるのであれば、その場から黙って去ることが最善の索なわけである。
僕は、「いじめられる方に問題がある」とも、「いじめる方に問題がある」とも思っていないので、「いじめ」が起こりそうな状況になったらデウス・エクス・マキナよろしく「席替えたーいむっ!」とする方がいいと思っている。
ならばこそ、すべての「いじめ」は上記の引用文のように「逃げて逃げて生きる」ことをすればある意味解決するのではないかと思われる方もいるだろう。
だが、そうは問屋が卸さない。というか、そんなにこの問題が単純であればこんなに酒によった勢いでエントリを書いていないわけで、ここからが本題である。
問題は、「逃げて逃げて生きた」として、その子が「普通の人生を普通に生きる権利」は依然として不当に奪われたままであるという点にある。
確かに、いじめられて、その結果自ら命を絶ってしまう事例があったとしたら、そんな悲しい話はない。
だが、それにもまして「逃げて逃げて生き抜いた」としても、そんなものは「死ぬ」のちょっと手前くらいの選択肢であり、最後の手段なわけである。
一口に「逃げる」と言っても実に様々な手段がある。
不登校になる、引きこもる、グレる、転校する、引っ越す、留学する……いろいろだ。
だが、どれにも共通しているのは「確実に人生が狂った」という厳然たる事実だ。
もし「いじめ」なんかがなければ、「その子」の人生が外的要因によって狂うことはほとんど無かったはずだ。
自分の命に対する自衛手段として、上記のどの手段をとったとしても、その子の人生はその時点を以てルナティック・モードにとつぜんモードチェンジする。
不登校にしろ引きこもりにしろ、その延長線上にあるのは学校の中退であり、すなわち人生の落伍である。「学校を辞めたくらいで『人生\(^o^)/オワタ』だなんてとんでもない!」とおっしゃるかたもいるだろう。じゃあ逆に言ってやる。あなたも、今の仕事なり学校なりを今すぐ辞めてみろ。転職のあても、転校のあてもなく、たったひとり殺伐とした世界に取り残されたとして、「よーし! 人生これからだぜ!」と思えるというのか。ただでさえどん詰まりの袋小路に迷い込んだこの現代日本で、大卒の就職率が5割だとか6割だとか言われている時代に、無職の高校(中学)中退者が「普通の人生を普通に生きる」ことができるというのか? 立場を変えて発言しよう。僕が中小企業の採用担当だったのなら、昼食無職職歴なしの人間なんか、なにがどうあっても採用したくない。感情論なんかじゃない、ごく合理的な数理的な判断だ。
転校だって引越しだって、かなりハードルの高い「逃走手段」である。というのも、なによりもまず、家族の協力が必要不可欠だから。
親御さんだって、もしかしたら仕事を辞めざるを得ないかもしれないし、お金の問題だってある。少なくとも「普通の人生を普通に生きていたら」かかる必要のなかった負担を負わなくてはならない。要するに、この時点で「いじめ」というのは「いじめっ子」と「いじめられっ子」の問題ではなくなるのである。ちょっとした「ムカつき」や「面白半分」が、一人、ないし数人、いや、ともすればもっと大規模な人間の「普通の人生」を狂わせるのだ。これが「いじめ」が「普通の犯罪」なんかよりも数段質の悪い点だ。「窃盗」であれば、早い話盗まれたお金が戻ってきて、犯人が警察に検挙されればひとまずは解決する。「器物損壊」だって、家裁か何かで妥当な損害賠償が請求されればそれ以上の発展はない。被害者にとってはたまったものではないが、少なくともそれ以降は「普通の人生」を送ることは可能だ。だが、「いじめ」に関しては――はっきり言ってしまうが――いかなる手段をもってしても、すでに起こってしまった「いじめ」を、それが発生するより前の状態に復元するのは不可能だ。いや、これについては語弊がある。「いかなる外部からの干渉をもってしても」いじめの根本的な問題は解決などしないのである。教師がいじめっ子に謝罪をさせたり、クラス替えをしたり、退学や停学処分をしたとしても、「いじめっ子」が「いじめ」たという事実は消えやしないし、「いじめられた子」が「いじめられた」という事実だけは覆しのしようがないし、取り返しも、補填も、まったくできやしないのだ。
「いじめた側が、本気で反省して、その後の人生のすべてをかけていじめた子が『普通の人生を普通に生きられる』ように全力で奉仕する」
より陰湿化が進む現代のいじめにおいてこんな奇跡みたいなことが果たして起こるのかどうか、僕は知らん。多分、99%の確率で起こらないだろう。
世の中の90%のいじめは、「なんとなく」「特に理由なく」「おざなりに」して、審判のホイッスルなくして「終わったっぽい」感じで終わる。
理由は分からない。とりあえず、台風が温帯低気圧になって北海道の上の方に消えて行くように、いつの間にかなくなってたりする。
残りの9%は「いじめられた子」の自殺なり「逃走」によって終わる。なんとも救いのない話である。
もしあなたがいじめられていることに対して何か負い目を感じているのであれば、とりあえずそれは忘れてください。
自分がいじめられることに対して、「仕方ない」だとか決して思わないでください。
あなたも生きている人間ですから、人間関係について至らない点、至らなかった点だっていくつかあるでしょう。
ですが、はっきり言いますが、そんなことで、地球上の誰一人だってあなたをいじめていい理由なんかにはならない。
あなたが、あなたの人格や過去の行動、家庭環境や趣味嗜好、思想信条によって、いじめれていい理由など、これっぽっちも、ありません。
そして何より、あなたは、「普通の人生を普通に生きる」権利を持っています。
そりゃあ、誰もがオリンピックに出たり、アイドルになったり、東大に入ったりはできないのも事実です。
ですが、本当はそんなことはどうだっていいんですよ。
あなたは、学校帰りに友達とマックに行ってダベっていいし、家に集まってモンハンをみんなでやっていい。
絵を描いて褒められていいし、ご飯が美味しいと感じていい。かわいい女の子を、かっこいい男の子を好きになっていいし、告白して振られて泣いたっていい。
好きなアニメを見て、好きな本を読んで、好きな場所へ行って、眠くなったら寝て、眠くなくなったら起きて、生きて、生きていいんです。
普通に勉強して、普通に進学して、普通に就職して、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子供ができて、普通に生きて、普通に生きて、普通に死んでいいんです。
もし普通が嫌なら、人一倍頑張って、自分が特別だと思える人生を手にいいれればいい。
ですが、それ以前に、あなたは、およそこの国の人間が「普通だ」と感じているあらゆることを手にする権利を持っています。
だから、あなたは自分を責める必要などまったくない。あなたは何も悪くない。もっと言えば、あなたをいじめた人間すら、悪くないのかもしれない。
僕には起こってしまった「いじめ」を解決する魔法のような手段はしらないし、これから起こるであろう「いじめ」を未然に防ぐ奇跡のような手段も知らない。
だけど、あなたが、「いじめられて損なわれた」からといってあなたが「普通に幸せと感じられるような人生」を生きる権利を失ってしまったわけではありません。
だから、自分勝手なことを言えば、本当はあなたは「逃げて、逃げる」必要なんてないんだ。表面上は「戦略的撤退」をする必要があるかもしれないとしても、
あなたの人生が「嵐のような不運」によって損なわれ、汚され、失われる必要などない。
それどころか、あなたは、その「普通の人生を普通に生きる権利」を人一倍、もっともっと今まで以上に傲慢に、尊大に主張していいんですよ。
「いじめられた」ことを理由に、あなたが自ら自分の可能性を閉じてしまう必要なありません。
もっと自分勝手に、生きればいい。でも、引きこもってもいいことは「何も」ないので、何かしらのキッカケで外にでるといいと思うよ。
そんでいまいじめてるお前。
まー今のお前なんかには分からないだろうけど、お前のやってることはおよそ人間がなす行動のうち、もっとも悪辣で、非道で、無意味なことだからな。しかし人間ってのは残酷だよな。自分の利益にならないことでも、何かのキッカケさえあれば、人を嬉々として苦しめることができるんだからな。俺はお前のことなんか知らないし、お前の生い立ちや人生観なんか知らない。お前が何かお前の中で正当な理由をもって「それ(とあえて言う)」をやってるとしても、それも知らん。だが、結果としてお前はお前と同じ、一人の人間の「普通の人生を普通に生きる権利」を「奪いかけて」いるということを考えろ。今日お前が美味しいと感じた夕食、今日お前が面白いと感じたテレビ番組、今日お前が楽しいと感じた帰り道。その子のそれら全部を、他ならぬお前が奪おうとしているっていうことを考えてみろ。俺はお前なんかに同情しない。お前の中にどんな理由があるにせよ、それはお前が「それ」をやる理由にはなりえない。なんの妥当性もないし、なんの解決手段にもならない。だからといって、お前が考えてること、感じていることがまったくの間違いであるとも言えない。だが、「それ」と「これ」とは別問題だ。お前の中でいかなる繋がりを持っていたとしても、それは、本質的なところで無関係だ。だから、やめとけ。お前がそいつのことを嫌いならそれはそれでいい。だったら関わるな。何もするな。意識を別のところに集中させろ。暇だったら黙ってオナニーでもして寝ろ。そんで、もしお前がかつていじめられっ子だったのなら、なおさら、やめろ。お前にも色々な事情があるのか知らないが、それはもう忘れろ。許さなくて良い。ただ、忘れろ。それ以外は何もするな。そんで、自分の好きなことだけ考えてろ。好きな本だけ読め。好きな音楽だけ聞け。好きな場所にだけ行け。好きなやつとだけ絡め。だから、決して「それ」を生きるモチベーションなんかにするな。そんな人生、悲しすぎる。
どうか気負わないでください。それを自分のせいだと思わないでください。
自分を無力だと嘆かないでください。自分を卑怯者だと罵らないでください。
何か特別なことをする必要なんかないんです。ただ、黙って、普通に、普通に接してあげてください。
いじめられている子が何より苛まれているのが、「ひとりぼっち」という孤独感です。
どんな暴力や陵辱よりも、「ひとりぼっち」というのは辛いです。
誰も味方がいない、誰も自分のことを助けてくれない、そういう状況こそ、危険です。
過剰なことなど何も必要ありません。ただ、声をかけてあげてください。
人の目が気になるのであれば、メールでも、なんでもいいです。
とにかく、その子を孤独にさせないでください。その子が、そこにいていいことを、示してあげてください。