はてなキーワード: 二律背反とは
今はなんかラブコメとかなろうとかウケ狙いの作品作ってるタイトルばっかりだけど、さすがに2012年投稿作となるとあるていど独自設定の創作興行バトル物をお出ししてきた。
第18回電撃小説大賞銀賞
読んでみて、うーん銀賞。といった感想。
いや、100ページでギブアップしたんですが。100ページで主人公タッグが二日過ごしたかな。
出会って、主人公を無理やり従わせて、学校いって、ヒロインの過去戦を見て、もっかい学校いって、主人公の初期ステ確認して、あとは世界や名前やゲームや金回りのを設定ペラペラペラとつまびからにしていって…
100ページ。
ここまで盛り上がる部分無し。
あ、ヒロインも金回りで束縛されやらなきゃいけない理由あるんすね。うん、そういう話まだ続くの?あーじゃあもういっか。
みたいな。
文章はね、読める。とても読める。クセもなくて読みやすい。グッド。
年収200万以下地下住民、1億以下地表中流住民、1億以上で天空住民。
地下住民は白髪赤目のアルビノ人種になるぐらい地下世界で進化してるし名前もカタカナでわかりやすいぞ!
主人公は中流行きの裏パスを買ったやつから奪い地上に出てすぐそばの屋敷に忍び込み即ヒロインに捕まったぞ!
ラノベなんてそんなもんでいーんだよ。主人公が高等教育も受けてない地下住民でもそういうキャラだっけ?とそこらの不良レベルに落ち着いても、中流以上の世界の先端技術やシステムを紹介されても頻繁に「地下で長に聞いたことがある」とかで物分りよくされてもいいんだよ。
そんなんでも、読めるんだよ。
無表情無関心キャラいいよね!ボクも大好きだ!
だからこそ二人ともたいして重要視してない学校にいかせるなんてことに尺を使わないで、もっと能動的に動いてほしかったよね。学校はヒロインが有名であるってところや過去片鱗を見せる程度で別に無くてもよかったなぁと。
せっかくの西遊記システムなんだからもっとヒロインに首輪をグイグイひっぱらして脅して競技や競技道具の店を回らせるとかで設定説明と交流を同時進行すればいいのに、第三の大人メインキャラクターがかなりでしゃばっちゃって、二人のキャラがうっすーーくなっちゃってる。ぼかんメールで脅すところはまあよかったよ。
その物語を円滑に回す操り大人となんか知らんが他人から奪って年収億り人になって天上に行きたいなるほど低知能な主人公がなんか喋ったり考えたりしてるうちにページが進んでいっちゃった結果、これ作者はキャラやゲームより経済格差や搾取構造とかに興味があって気持ちよくなってんな?と邪推を募らせていく。
そんなんを100ページかけて対人タッグ戦の「ウィザード&ウォーリアー・ウィズ・マネー」WWWMはヒロインの過去の一戦をビデオ観戦するだけなんだけど。
んーまぁ、面白くなりそうな気配がある設定ではある。インタビューにもあるけど、やっぱりMTGとかを連想するよね。
才能や属性は生まれつきでありつつスキル(カード)は生まれつき固有と金を出して買う汎用スキル(カード)があるってTCG部分を入れ込んでるよね。でも現実のプロの競技シーンでは全てのカードプールが前提で、金次第ってのは下々の一般享楽プレイヤーの視点だし。
属性でコストが増減するし反対属性もあるし、でも2属性持ちはレアだしとやや複雑な設定で、5枚のスキルで戦う公平な知略的部分と、鍛錬による基礎バフと生まれの属性制限の属人的部分があって面白そうではあるけど、どこに入れ込んで見ればいいのか短い描写ではわからなかった。
5枚スキルもプロなら公開しない秘匿に割くのが常道、とワールドトリガーでシールドやバッグワームにスロットさかれがちでショボーン…みたいな気持ち。
さらに興を削ぐのがスキル発動。額につけたハチマキの台座の溝にスキルカードを走らせる。
テイマーズ、いいよね。剣、いいよね。
うーんしかし、額のハチマキにカードを走らせる。どうイメージしても、カッコよくない。
描写を読んでも
「頭に巻きついた機械である。ハチマキのように巻かれているのだが、額の部分に台座の出っ張りがあり、細い線が引かれている」
よくてナルトの額当てをイメージしてみても「出っ張りがあり」となんだかレジのカード読み取り機のような外付け機器的やぼったさがある。
動作も、アイドルがするような横ピースを目の位置で走らせるやつを額でしたり、野球帽の鍔を回すように親指と人差し指でさっとする姿をイメージしてみたのだが…でもやっぱり額はないよ。
イラスト担当も苦労したのかあまり魅力的なデザインにはなっていない。耳に月と太陽のピアスをつけている設定もあって、結構頭部がごちゃごちゃしている。
そんなヒロイン、狂える二律背反の死神(ルナティック・ザ・デス)の!太陽と月の相反属性を唯一持つヒロインの!代名詞スキル「太陽と月の女神の気まぐれ」の効果とは!
そしてヒロインはなんと毎回これを有利に決めてくるのだ!
……
パルプンテで毎回良い効果でますよ。みたいな感じなんでしょうか。
いやーこれ、魅力的か?チート能力と解釈しても、魅力的なチートか?
互いの身体能力をランダムに変化させるユニークスキルヒロインです!
面白いのならそれを100ページ、全体の1/3までに描写してほしかった。
文体で2連敗したあとに読んだ作品で、読めるだけでありがてぇと読んだが流石に一章まるごとでこれはつまんない時間が長かった。
ガマン強い人やシステムにワクワクする人、徐々に盛り上がるのが好きな人なら余裕で読めると思う。
私には没入するための、ページをめくるための燃料が足りなかった。
でもこれから「友達の妹が俺にだけウザい」とか「義妹生活」とか売れる作品書いていくんですよね。わからんもんです。
お金がなくてもカードゲームで勝てる!? 第18回電撃小説大賞銀賞受賞『ウィザード&ウォーリアー・ウィズ・マネー』三河ごーすと先生インタビュー
「声優と絵師の大半はフリーランス故に、一人でも関係者に嫌いなやつができてしまうといつ自分の作品がゴミクズにされるかわからない」
「にも関わらず、悪徳商法顔負けの期間限定商法、特典商法がまかり通っている」
というところだ。
とあるサークル主の声優さんにはお抱えのイラストレーターがいた。
今は、そのお抱えイラストレーターとは袂を分かっているからその声優さんには恨みがないのです。
ところが、そのイラストレーターが人気サークルから仕事をもらえなくなったことで、ところ構わず仕事を受けた中に…過去に私とトラブルがあったシナリオライターにこえをかけてしまったサークルの仕事を請けたのです。
そのシナリオライターにとっては、初めての大手の仕事ということで、宣伝も頑張った結果「ブロックしているのに目に入ってしまう」「目に入った結果、そのイラストレーターの作品で抜けなくなった」という事態が起きました。
「そんなん言い出したら、自分と相容れない人がシナリオライターになった時点で、シナリオライターが仕事を請けるほどたくさんの声優さんが嫌いになるんじゃないの?」
むしろ、有名な声優さんを支えきれるほどシナリオライターに作品を売る力がないから
「やったぜ!声優さんが高額なギャラを請求してるから、シナリオライターが爆死しとる」
とメシウマになれるからいいんです。声優自身がギャラを明確にしていることで、作品の売上を見れば「ライターやサークルが、見合っているかどうか」がわかることで、声優を嫌いになることを避けられるのはありがたいです。
(まして、見合わない声優さんを起用して、嫌いなライターが作品が出せなくなる方向に追いやられていく姿は、最高です。…まぁ、そのライターとの私的な付き合いをアピールして、出演してもない作品まで宣伝しまくってたやつは許してないけどね)
ところが…絵の場合って「明確に赤字/黒字」がわからない上に、目はイメージを記憶するじゃないですか…。
だから、「絵がそのアレなライターのイメージになってしまったのはすごくヤダ」という状態で…当時はブチ切れて抗議のメールを声優ともども送りつけましたよ。
作品買ってるんだから「お前のせいで楽しめなくなった」「表示されるたびに、イライラする」ぐらいに思うのは当然ですよね?抗議に意味があるかどうかはともかく、当時はそのぐらい腹が立ちました。
とはいえ?
これ読んでる人の大多数は「お前精神状態おかしいよ」と思ってることでしょう。
私だって、自覚はありました。どこまで行っても悪いのはライターなのですから…絵師や声優にキレても、解決できる範囲は限られてきます。
ところが、そのライターからされたことはそのぐらい納得のいかない理不尽なことだったのです。
ましてや、「見ないようにしよう」と心がけても、向こうからこちらのテリトリーに入ってきたわけですから「じゃあ俺はどうすればいいんだよ」とキレたい気持ちが湧きますよ…。
この二律背反の「どっちの言い分もある」という状態に孤独感を感じていました。
今回の大統領選挙で、同じ目に遭う人がたくさんいたみたいです。
なんと、アベンジャーズの知名度を使って、ハリウッド・セレブたちが民主党を訴えたのです。
https://www.youtube.com/watch?v=Jgnh28X4efI
オタク文化には「作品と作者は別物」という言葉がありますが…そんなものは理想論です。
作品を出す人間に同意できない?楽しめなくなるようなノイズがあれば、多くの人は残念に思い、避けてしまうのです。
他人を嫌いにならないのが一番良いです。
好きだ嫌いだと判断しないのが一番お互いにとっていいでしょう。
自分の存在を否定されたり、全く違う考えだったり、いくら検証しても正しくないことで虐げられれば…キレます。
そもそも、ライターは作品が赤字続きで「そろそろマイナスイメージが、本人の力ではどうにもできない所まで来ている」ので…ライター自身もそろそろ退場することになるでしょう。
「これをやられたらずっと生き残ってしまう」という最悪のパターンはいくつか考えてましたが…私の想像の下をくぐり続けたので、そろそろみなさんも買いかぶりに気づく頃でしょう。
私が逆の立場だったら取るべき手はまだ少しだけ残ってますが…どれも取らないだろうなぁ…。
これ以上被害者が出る前に、止まってくれるといいんだけどね…。
6桁7桁単位でダメージ受けてる人がいて、他人ながら見ていられないよ…。
「私怨がある相手に加担したんだから因果応報」だけを思えるほど、今の私は性格が歪みきってない。
むしろ、「儲かったり、楽しかったりする活動をしたかったはずなのに、それが続けられないパートナーを選んでしまってかわいそうに」と思っているぐらいだよ。
私の私怨とはまた別に、「赤字のクリエイターに引っかかって活動が続けられない人」が少しでも減ってほしい。
性格が私と合わなくても、その人がちゃんと仕事して成功できて、必要とされてるなら、まだ「悔しいがこれも世の摂理」と飲めるわ。
ところが、その人を信じて仕事を振った人にすら負担を強いている現状はさすがに「うわぁ、俺と同じ被害者じゃん」ってなりますわ。
弱者男性が言いがちなことに対していちいち真面目に反論してみる企画
これは明らかに間違ってる
っていうか暴力的な男が好きなのは頭の悪い底辺DQN女だけであり、普通のまともな女は優しい男のほうが好きだろう
なお、ここでいう優しい男とは小さな変化によく気が付き、相手の気持ちにも敏感で、気遣いがスマートであることを意味する
相手の気持を察するのが苦手なうえ自己主張も苦手なコミュ障は優しい認定をされることはない
弱者男性の認知の歪みは、おそらく過去の経験と酸っぱい葡萄理論によって形作られたものだと思われる
すなわち、弱者男性は過去いじめられるか何かして「社会性のある普通に優しいまともな男」のことまでDQNの暴力的な男だと誤解するようになった
加えて、非モテ弱者男性は内心で女性を見下していながらセックスの相手を求めるという二律背反を抱えており、酸っぱい葡萄理論を無意識に適用した結果「彼氏のいる女はもれなく底辺DQN女」といった認識を形成した
こういうプロセスで、弱者男性は「優しい男はモテない」などという間違った考えを身に着けたのだと思われる
現実は優しい男の方がモテているし、彼女のいる男は大概彼女に対して無類の優しさや気遣いを発揮しているし、女を殴るような男に寄ってきているのは底辺DQN女か自己肯定感激低のメンヘラだけであるし、弱者男性は別に言うほど優しくない
「恋愛においてブサイクかどうかは関係ない、清潔感の有無が問題なのだ」といった言説を見た弱者男性が言いがちなことである
弱者男性は「清潔感というのは生まれ持ったステータスに他ならず自分のようなブサイクはどれだけ努力を重ねようが清潔感を身につけることはできないし恋愛はできない」等と盲信している
言うまでもなく清潔感の有無と顔面のレベルは全く関係のない概念である
イケメンであっても清潔感のない男はいるし、ブサイクであっても清潔感を身につけることで普通に恋愛を謳歌している人もいる
まず、恋人のいる男だって、坊主頭にして眉毛も全剃りすれば非モテ弱者男性と同程度の顔面レベルをしていることがわかる
ただ、普通の男は「どういった服装をしていると他人からの好感度が高まるか」ということについて小中高大の間にしっかり学んで把握しており、他人から見られても恥ずかしくない髪型、服装を選択するスキルが備わっていると言うだけの話なのだ
ただ、スキンケアを怠り肌が汚くて、眉毛も整えないから全体の印象としてアホ面になっていて、歯磨きが下手くそなのか歯も黄ばんで汚いし、髪の毛もろくに櫛で梳かさず、髪型はもみあげが伸びた気色悪い髪型をしていて、表情も暗くてのっぺりしていて、いい歳して英字のプリントされたシャツを身に着け、着合わせをろくに意識せずに使い古した真っ青なジーパンを身に着け、フケの付着した似合わない四角い眼鏡を装着しているから不気味な印象になっているってだけの話である
いま彼女を連れている人だって中学高校時代に似合わないファッションをしたりしてきちんと恥をかきながら「周りからどう見られるか、どう見られたいか」を学習して今の外見にたどり着いている
令和になっても「ただイケ」なんて死語を使うのは本当にみっともないことなので、そのあたりきちんと自覚すべきだろう
YouTubeチャンネル経由で発生した、ストーカー(以下Sで統一)の時系列まとめ
Sは1000通以上の一方的な長文メールを送り、「不同意性交等罪がまだなかったけれど訴えたい」「70万円欲しい」「警察署に相談へ行くよ」と脅しを掛けてきて、無限に複数アカウントを作って、迷惑行為を配信中にしておきながら、「そっとしておいてください」と居直り、どうしようもない状態になっている。
こちらの要望としては、「今後一切関わらないでくれ」の一点だけである。
ちなみに僕自身は、YouTube26000人/TikTok10000人、無名で細々と生きる男だ。
Sが自発的に、「〇〇見たい?」「〇〇したい」「やりたい」などと書き、脱いだ写真/動画を送信してくる
この時点では、『ちょっと積極的な普通の明るい子』だと思っていた為、不快感はなし
■札幌で会う
流れで枕を交わす
翌日以降、ご飯を食べて街巡りし、電話/DMを続けてみたが、生い立ち、会話のテンポ感、文化的ベクトルなど、相性が合わなかった為、付き合うには至らず
■自然消滅(SがLINE/Twitterをブロックしてきた)
■会って半年後に突然、長文で告白DMが送られてくるが、「彼女は作らない」と断った
元カレからの求婚に悩んでいる、ホストにナンパされて添い寝した、茨城出身の彼氏ができた、男の車に乗り込んだらホテルに連れて行かれた、うつ病になった、休職するなど
「やりたい」「結婚してください」「会えなかったら自〇する」など、一方的な感情の暴走が始まる
遠距離だったが、顔と性格と生き様が可愛かった為、復縁や曖昧な状態も含めて、長い事、仲が良かった
この事を、事後的にYouTubeで語ると、「同い年の子を選んだのが悲しい!」と、Sの暴走はますます過激化
■会う約束もなしに、Sが飛行機で札幌に来たが、完全に無視をした
■昼夜問わず長文DM、求めてもいない自撮り画像/18禁動画が届く
YouTubeライブの際も、何十回もブロックしたところで、「責任をとって」「捨てられた」などと、複垢を用いて、長文の迷惑発言を連発する
※4年で3回しか会っておらず、恋人関係にもセフレ関係にも、一秒もなっていない
「付き合う事は100%ない。他者との境界線について学んで、ちゃんと自分の人生を生きて」と説得するべく会う
関わりの拒否を求めたかったが、聞き耳を持たない様子だったので、「あくまでも友達ね、100%、絶対確実に、何があっても、恋が発展する事はないよ。両想いになれる相手を探してね」と強めに伝えた
「当時は、不同意性交等罪がなかった。そのせいで、わたしの悲しさをみんなに伝えられない」「警察署に相談へ行きます」「訴えて70万円くらい欲しい」といった風に、脅しを掛けてくるようになった
そう考え、実行するのは自由だが、枕を交わすまでのDM/LINE/Skypeのやり取りはすべて、SSDに保存してある為、むなしい訴えになるだろう
あまりこんな事は言いたくないが、会う前から、ほぼ全裸の動画を送ってきたり、Sから馬乗りになって来ておいて、望み通りの関係に至らなかった瞬間、曖昧ながらも金銭的な願望を口にして、『不同意性交等罪』を連呼するのは、脅迫行為なのでは?
さらには、「わたしの考えを否定して、関わりを拒否をするのは人権侵害だと思います」などと、暴論までぶちまける始末だ
■「一度デートしてくれたら終わりにする、この関係を忘れられる」との事で、短時間ながらも、最後の最後に会う
この時、僕の失敗として、「わたしはストーカーじゃないよね?」の問いに、Sの心を落ち着かせるべく、「ストーカーではないけれど、どんなに連絡して来ようと、会うのはこれが最後だし、どうしてもタイプじゃないから、恋愛の可能性は0.1%もない。ちゃんと自分の人生を取り戻してね」と伝えてしまった事で、Sは都合良く、前段の言葉、『ストーカーではない』だけを脳裏に焼き付け、自己正当化を覚えてしまった
■そうこうして今に至るまで、「二度と関わるな」と伝え続けているが、「これは関係の前進だ」「どんなに怒られてもエンタメだ」と歪んだ解釈をする為、心底迷惑している
まず一つ言える事として、僕は社会の道外れ者、本名/顔出しの配信者として生きている為、こんなリスクは織り込み済みだ。
山もあれば谷もあり、光もあれば闇もあり、躁もあれば鬱もある。
そら持たざる者が、ありったけの力でネット世界を走っていりゃ、大問題の一つや二つ、当たり前に発生するだろう。
でもその分、心優しき視聴者さん達が、ヘリコプターに乗せてくれたり、タクシーを貸し切りにしてくれたり、焼肉や寿司をご馳走してくれたりと、数々の救いを与えてくれる。
僕は元より社会不適合者であり、ずっと不安定な人生を歩んでいる為、なんなら、明日死んでも良いと思っている。
……と言ったように、狂いを受け入れている僕だから、アホみたいなストーカーが出現しようと、「こんなもんは人間社会のちょっとしたエラー」と捉えて、心を守れる訳だが、もしもこれが、普通の生活をする労働者だったら、どうなるのだろう?
こうした、ごくごく一般的な男女関係において、自分の思い通りにならないと分かった瞬間、『不同意性交等罪』を叫び、金銭的な願望を喚き、「裏切られた」「捨てられた」と集まりの場で騒ぎ立てる。
そのような女性に引っ掛かった場合、相当に苦しいのではないだろうか?
ちなみに僕自身、社内恋愛、ブログオフ会、チャットサービス、ネット掲示板、ホスト、ストリートナンパ、YouTube、TikTokなど、あらゆるところで、様々な女性と絡んで来たけれど、ここまでおかしい奴には、はじめて遭遇した。
本件のストーカーは、「わたしは一途な乙女」という自己認識があるのかもしれないが、はっきり言って、かなり醜悪なモンスターでしかない。
神学校がルーツの中学/高校に通っていたらしく、意識的には、「純潔なわたし」を保とうとしているが、育ちによる自己愛の不全や、現状に対する不満により、無意識に野蛮になってしまい、その二律背反を解消すべく、「わたしを汚した!」という幼稚なピュアさを誇るのだろう。
表現の自由がある国ゆえ、何をどこで叫ぼうと、どうぞご勝手にといったところだが、出会い頭のホストと添い寝し、街でナンパされて雑に付き合い、求めていない卑猥な写真を大量送信し――など、純潔とは程遠い行為をしておいて、自分に不都合が生じた時だけ、「純潔なわたしをもてあそんだ」「レペゼン地球みたいな奴らと同類」などと、高潔さを気取りながらヒステリーを起こす。
そして、数え切れないほど、「タイプじゃないから付き合えない」と伝えているのに、「理由が分からないから辛い」とゴリ押しして、被害妄想を膨らませ、悲劇のヒロインになってゆく。
『タイプじゃないから付き合えない』を曖昧な言葉として許さないなら、残酷非道なワード選定でもって、地獄の果てまで叩き込んでしまうが大丈夫か?
もちろん、対人関係はリスペクトありきゆえ、そんな愚かな真似はしない訳だ。
その為、仲良くなれない理由を問われるたび、「話のテンポ感が合わない」「文化的ベクトルが違う」「雰囲気がマッチしない」「好きになれるキャラじゃない」などと、小出しの答えを投げ込むのだが、「あの時のわたしは、本当のわたしじゃない。本心で接していないから、そう思うのは間違っている」といった寸法で、可能性を無限拡張してしまう。
はっきり伝えておくと、無限のパラレルワールドに、無限なるあなたが存在していたとしたら、こちらも無限のお断りをするくらい、根本からタイプじゃないので、「あの時に、ああしていれば」と考えるのは無駄でしかない。
ここらで、一度と言わず、何十、何百、何千、何万度と冷静になって考えて欲しいのだが、この約4年間で3回しか会っておらず、元彼でも元セフレでもなく、何かを貢がせた訳でもない、すこぶる浅い関係にも関わらず、一方的に配信を見て、妄想して、暴走して、「貴重な時間を奪われた!」「なぜ責任を取らないんだ!」などと、いつまでも発狂するのは、幼稚園児の駄々っ子と変わらない。
なにをとち狂っているのか知らないが、『デートして枕を交わす』=『絶対に付き合う』という異常なる図式が、大脳に刻み込まれているのだろうか?
肉体的な相性が合わなかった場合は?
そうした諸条件がうずまく中で、運命が味方する事もあれば、死神が舞い降りる事もある。
それこそが男女関係――残酷なる色恋沙汰……本能の営みって奴だ。
『愛とは差別』なる言葉もある通り、誰かを好きになる世界とは、誰かを嫌いになる世界でもある……という事を、ゆめゆめ忘れるな。
こちらとしてはこの数年、散々、DMや配信のコメント欄で、好き勝手に言われ、それでもSの本質には触れず、傷つける事なく、なんとか去ってくれるのを期待していた。
しかし、Sの蛮行はおさまりを見せない為、致し方なく、こうした文章を書いている。
また、ストーカーの狂った解釈で、「これだけ本気で書いてくれるのは、きっと愛が残っている証だ」などと、さらに厄介な存在になるかもしれない。
だからこそ伝えておくが、容姿、人格、雰囲気、脳内メカニズム、あなたの発する生物情報のすべてが嫌いだから、好きになる事は不可能だ。
動物的にも人間的にも受け付けない為、今後一切、関わらないで欲しい。
さらに言えば、僕をイメージする事で生じる、あなたの微弱な波動すら不快でしょうがない。
一刻も早く、僕に関わろうとするのを辞め、自分の道を歩んで欲しい。
※ストーカーへ、本文に関する、あらゆる感想/意見/反論は、断固として受け付けません。
個人情報も記載しておらず、なんの名誉毀損にもならないゆえ、たとえ、「わたしの本心と少し違う」などと感じても、知ったこっちゃない。
そもそも論、あなたは家族でも友達でもありませんから、あーだこーだと御託を並べたところで、一文字残らずノイズでしかなく、まったくもって興味を持てません。
強迫観念と収集癖が同居してた人がストレスでおかしくなった結果のように見えるので、至極稀ではないが多くはないといったところだろう
私は元々エロマンガやAVのコレクターで、「蜜室」や「淫魔の乱舞」を持っているなどといえばそのコレクター度合いが分かるだろうか。
現在エロ同人を含めると約3700冊のコレクションがある。これは一覧表をエクセルで作ってちゃんと数えたので間違いない。
人生で一番好きだったエロマンガ家は月野定規で、・・・あ、いやこの話どうでも良い?間違いなくおっさんってことは分かったでしょ。
エロマンガの在庫が豊富な専門書店に足繁く通い、コミケのたびに袋がはちきれそうになるほど同人誌を買い続けてここに至った。
現在も完全に「負」モードである。つまりエロマンガコレクションなんかを見てしまうと「ウプッ」となる。
だからと言ってラブライブのスカートの影にイライラしたりはしないのだが、女性というものを汚らわしいと感じるというか、性的な目で見ようとしても見られない。
当面結婚する予定はないのだが、もし例えば婚活するとして、「いや、男だけど性欲がないのでセックスとか無理かもしれません」と言ったらどうなるのだろうか。
大好きなエロマンガ家の大好きなシチュエーションでもシナシナなのに、いざ女を相手にして突撃一番できるのだろうか。
よしんばバイアグラなどを使用してムクムクできたとして、それは気持ち悪くなるだけなのではないだろうか。
この深刻な悩みはどうも理解されないらしい。性欲が過剰で困っている人はいるが、逆は「とりあえずバイアグラ飲んどけ」ぐらいの勢いで切り捨てられている。
医者にこのことを相談したら、「そうかぁ・・・しゃあないなぁ・・・でも打てる手はないわ・・・」とギブアップ宣言を頂いた。
新しい推しのエロマンガ家も発見したし、AVも買っているし、コレクションは増えるばかりである。
部屋に踏み入った人間を瞠目させるほどのエロマンガを持ちながらこの体たらくだ。
私の死後、部屋に踏み入った人間はよほど性欲が有り余った人間なんだろうなぁと想像させてしまうかもしれない。
だが現実にはもう半年も射精していない。一回の射精につき必ず記録を残しているのでこれも間違いない。
でもコレクションも記録もやめられないのである。一方で女性を気持ち悪いと思う感情もある。
このような二律背反に苦しんでいる男性は、意外に多いのではないだろうか。
何かと言うと、10年ほど前にとあるセンセーショナルな事件があった場所を見に行ってきたのだ。女子高生による同級生殺人事件である。今回は、そのレポとそんな悪趣味な聖地巡礼を決行するに至った経緯の2点を、書き手である私の過去の自語りを多大に含めながら書いていこうと思う。事件の現場を特定して見に行ったイチ野次馬の実録として読んでもらえれば幸いである。
はじめに言っておくが、私はこういった事件が起きるたびに容疑者の地元は出身高校は云々……と嗅ぎ回るような野次馬ではない、とだけ表明しておく。しかしこういった行動に出ている以上、完全否定はできないところはあるが。
はじめに、その事件の内容を説明する。2014年に起きた、女子高生による同級生の殺害事件である。当時15歳の加害生徒Aが、同級生であるBさんを自室に連れ込んで絞殺。動機は「体の中を見てみたかった」「人を殺して解体してみたかった」といったものだった。(以下、それぞれ加害生徒=A、被害生徒=Bさんと表記)
事件の具体的な名称・地名については関係者に迷惑をおかけしてはいけないので伏せさせていただいたが、手口が特徴的なため、調べれば聡明な読者諸君においてはすぐピンとくるであろう。
事件の現場となった場所は、事件発生からほどなくしてネット上では特定されていた。私は現場となったマンション名をgoogleマップで検索、自宅からのルートを検索し向かった。
(ちなみに事件現場のマンションは、事故物件掲載サイトの「大島てる」さんにも掲載されている。Aの実家も)自家用車を走らせ、現場に到着した。所要時間は割愛させていただく。
現場は国道に面しており、すぐ近くには駅や大きなアーケード街があった。駅が近い故か、市営のコインパーキングが現場マンションの向かいにあった。車をそちらに止め、徒歩で現場に向かった。
ここで、あらかじめ大事な前提を記載しておく。現場の敷地内には立ち入っていない。
敷 地 内 に は 立 ち 入 っ て い な い
そこまですると流石に不法侵入になってしまうので、面した道路から歩いて観察するだけにとどめた。私もそんなことでお縄になりたくないので、その点はご理解いただきたい。
現着し、まずはマンションの外観を観察してみる。10階建てでおそらくオートロック。今ではどの部屋にも人が住んでいる気配がある。現場となった5階にもまた、どの部屋にもカーテンがはまっていた。10年も経ってしまえば、その近くの人々の生活もすっかり元通りのはずだろう、という考えが自分にはすっぽり抜け落ちていたことに気づかされた。
マンションの裏手には駐車場が2台分ほどある。ただしもしかしたら、隣のビルに入っているクリニックの患者用かもしれない。駐車場付近から見上げると、当然マンションのベランダが頭上にずらっと見える。AはBさんの殺害後、証拠隠滅のためにスマートフォンを5階のベランダから投げ落としたのだという。彼女のスマートフォンが落ちていたのはこの辺りだろうか、と思いをはせる。
駐車場からさらに路地を入ると、住宅が斜面に立ち並んでいた。ここから先は進んでいない。途中で引き返したのは、非常に坂道が急でその後の体力を考慮したためだ。この町の特徴的な地形ではあるが、国道から一本細い路地に入っただけで急峻な坂道になる。西側には海があり、その海岸線近くまで山地が迫ったこの街の地形故だ。
マンションに数秒黙祷し、周辺の探索に移った。国道の向かい側には小さな商業施設があり、昔ながらのブティックを中心に、1フロアだけのイオンやダイソーが入っていた。ブティック中心だからか、店内は年配の女性が多い。日本のどこにでもある、田舎の商業施設の風景に心が安らぐ。商業施設の1Fからはアーケード街に通じており、今どき珍しく賑わいのある商店街が広がっていた。雰囲気で言うなら、福岡市天神の新天町商店街にかなり近い。
商店街は今どきのカフェや居酒屋といった飲食店から、昔ながらの八百屋にかばん屋、チェーン店のドラッグストアにアニメイトまであった。筆者は商店街と言えばシャッター街と化した薄暗い故郷の商店街しか頭になかったためまあまあ驚いた。にぎわうアーケードの喧騒の中で、AもBさんもここで一緒に買い物を楽しんでいたのだろうか。楽しい時間をすごしたのちに、あのような凶行に及んだのだろうか。そんな、彼女と一緒にお出かけを楽しんだ後にお持ち帰りして夜はムフフなことをして、じゃないんだから……と下世話で邪な形容をした。凡人かつ俗物の私にはそういった想像が限界だった。勿論、真相はAにしかわからない。
横断歩道を渡り、マンションのある側に戻る。国道沿いに北西に進むと、5分もせずに県の弁護士事務所が見えた。Aの父は敏腕弁護士だったと聞く。Aの父は、Aの母が亡くなった後まもなくして若い女性と再婚した。それがトリガーになったかは知らないが、2014年3月にAは父の殺人未遂事件を起こしている。Aと一緒には住めないと判断したAの父は、Aの戸籍を外してAの祖母の養子にし、マンションで一人暮らしをさせることに決めたという。この事実だけ見ると父親もAの扱いに手を焼いていたのと同時に、法的には娘を切り捨てた薄情者、という印象を受ける。
しかし、現地を歩いてみると、現場の近くには県の弁護士事務所があり、父の職に大いに関係していたであろう場所がある。2014年当時からあったのかはわからないが、もしかしたら父は、自分の業務で関わることの多い場所の近くに娘を住まわせようと、ひいては見守りたい意思があったのかもしれない。娘のために駅の近くかつオートロック、自分の職場からも近い賃貸物件を見繕って用意してあげていたのかもしれない、と思いをはせる。やはりやるせなさを覚える。
結果としてAの父親は2014年10月に自宅で首を吊っているのが発見され、そちらの実家もそれで「大島てる」さんに掲載されている。Aの父親の行動には怒りを覚えるところも多いが、同時にどうにもできなかったのだろうと痛ましさを覚えた。
ここまで想像を巡らせたのち、私はマンション近辺を後にした。名物のハンバーガーが食べたくなった、ヤニを吸いたくなった。そういったその時湧きあがった欲求が、私を2014年から2024年へと引きずり戻してくれた。
参考程度に記載するが、賃貸サイトによる2024年2月現在の家賃相場は、その市はワンルームで3.72万円。現場となったマンションはワンルームだが4Fの家賃が4.9万円と、その地域では少しお高めな印象は受ける。築年数も浅く何より駅近物件だからだろう。ちなみに、現場となった502号室はどの賃貸サイトにおいても今は入居者募集されていなかった。
では、なぜそのような不謹慎な聖地巡礼を決行したのか? その理由は、「私がこれまでの人生で1番執着した事件だったから」にほかならない。少し回りくどいが、私自身について、この増田の匿名性を損なわない程度にお話しする。
筆者である私は、Aと同年齢である。そして2014年に何をしていたかというと、やはり高校1年生をしていた。私とAの経歴には非常に共通点が多い。もっとも、Aの方が実家は太く彼女自身の才能も豊かなのは間違いないのだが、その内面には非常に共感できるところが多かった。Aも私も、住んでいる県も学校もまるで違うのだが、だいたい同じくらいの偏差値帯の公立中高一貫校に中学受験で入っている。抜けきらない中二病で一人称は女なのに「ボク」だったし、Aのようなかなり短いショートヘアをしていた。高1の途中から不登校児になったのまで同じだった。(一つだけ自慢。今でこそ私はうだつの上がらない無職だが、高1当時は県内模試で2ケタの順位につけるくらいには学力もあった。)
問題はここからである。高1当時の私は、少年事件について調べるのが大好きで、それをモチーフにして同級生を殺しまくるお話をケータイ小説で執筆・投稿していた。今思うと二重に恥ずかしい子どもである。
事件発生当時まず何を私が考えたか。「A、私の書いたの読んだの?」である。今考えると普通にそんなのはあり得ない確率であるし、ほぼ妄想の域だった。しかしそれくらい手口が酷似していた。後ろ暗い喜びと同時に、思考回路が同じという点でかなり精神的に追い詰められた。二律背反で感情が板挟みになっていた。学校に行っても、やはり同じ高校1年生が起こした事件ということでクラスでの関心も高く、「キ〇ガイだよね~(笑)」とクラスメイトが笑っているところも見かけた。今でも思い出して動悸がする瞬間である。
そしてそのケータイ小説の掲載に関しては、投稿を削除した。そのうえで、もう創作はしないと筆を折った。
そしてその後、連日ニュースがそれを報じてどんどん事件の全容が見えてきた頃には、私はネットでAの情報を漁りまくっていた。私はもともといじめられっ子で、当時はいじめっ子たちのピグやTwitterを特定して、特にアカウントは作らず毎日のように静観するという人聞きの悪い趣味を持っていたから、そういうのが大好きではあった。また、AにはASD(自閉スペクトラム症)があり、その点も考慮して医療少年院送致がふさわしいとの判決が出た2015年頃、実は私もASDの診断を受けていた。偶然にしてはあまりにも近すぎると、一方的にシンパシーを感じていた。
そしてそのうちに、Aに対してどんどん惹かれていったのだ。Aのような人の内面の深淵をのぞき込みたい、という気持ちになり、進路希望調査では心理学部のある大学を書くようになった。その後、急速にメンタルの調子を崩して精神科医療にかかったり、卒業も危ぶまれるくらいには学校に行かなかったりしたが、どうにか高校は卒業した。
犯罪心理学をやりたいです!と意気揚々と心理学部のある大学に入り、臨床心理学系の大学院にまで進み、少年司法の分野に行きたいと思い公務員試験を受け、児童相談所に勤務した。今振り返ると、「心理学がやりたい!」の起点はさかのぼればすべてAへの関心に行きつくと思う。我ながらどうかしている。
そして現在、2024年2月。児相勤務は上司や先輩からの陰湿ないやがらせに遭い、私はひっそりと公務員を退職した。今は退職してから3か月が経つ。公務員時代の蓄えでギリギリなんとか食えているが、正直来月以降の生活は先が知れない。なんでこの分野に焦がれ続けて10年間走ってきたのか? その疑問を問い詰めた時、この事件の存在が頭をよぎった。2024年のあの現場を、Aが生きていた町の2024年を見れば、私のこの思いを終わらせられると思った。以上が、私がこんな不謹慎な聖地巡礼をもくろみ、決行した理由である。
ちなみにわたしは結局、大人になってから二次創作という形で再び筆を執るようになった。どれだけ思考回路が狂気の側に近く、そのリビドーを表出させたいと願ったとしても、創作という法に触れない表現方法を選ぶことができた。私はその点で非常に適応的でポジティブな強みを持つことができたのだと、今は肯定出来ている。
話を本筋に戻すと、私はこの旅で、ようやくAへの執着に諦めがついたように思う。私は間違っていたかもしれないとはいえ、10年間走り続けてきた。そしてきっと、AはAで、医療少年院かあるいはどこかで、償いとAの人生を生きているのだろうと思い至った。やっと私は2024年の自分を生きていけるようになったと思えた。不謹慎だろうが、ようやく私はこれで前を、未来の方を向いて歩いていけそうな気がしたのだ。
最後に、被害者の方のご冥福をお祈りすると同時に、Aの更生と治療がうまくいっていることを祈る次第である。
ちなみにこの後、普通に私はその街の名所を一通り回り、観光して帰宅した。軍港の町なので、港に停泊している米軍の大きな船を眺め、海上自衛隊の博物館を見学してきた。他にも、ネイルチップが取れて応急処置にシールを買うためダイソーに入ったら、パンキッシュな服装のマダムと談笑したり。名物のバーガーを食べていたらバラエティ番組のロケの一団が店に入ってきてびっくりしたり。〇本雅美に似ていたが、声が違ったのでおそらくローカルタレントかなにかだろう。
数年前の大学時代、クィアの講義でLGBTQの歴史と差別について色々学んだ結果として
「LGBTQは『社会が受け入れ』ればそれで済む問題で、実際そういう流れになってて羨ましい」と思ったのを思い出した
それは自分が多様性に興味を持つようになったきっかけはADHD当事者として悩んできたからで、
ADHDは永遠に治ることのない「マイナス」な特性を持っていて生きてるだけで損失や問題が起き続けることが確定してるから
他のマイノリティを学んだことで、「生きてることが罪」に近い自分のマイノリティの救いのなさがより明確にわかったようだった
この増田の話は、多分相談員の結論が「正しい」んだけど、いわゆる二次障害に対応できてないタイプの相談員なんだなと思った
(「LGBT相談」より「臨床心理カウンセラー」の方が向いてる人がいるか? そもそも個人的に、電話相談は繋がらなさすぎるしあまり信用はしてないけど)
LやGの例でも、キリスト教では明確に「罪」だから、敬虔なキリスト教徒かつ同性愛者の場合、生きてることが罪って二律背反に酷く苦しむケースを聞いた覚えがある
まぁ……結局、まずは自分を洗脳し直さなくちゃいけないんだろう
統一教会を脱退して反対派になって何年経っても、裏切者の自分は地獄に堕ちるんだという教えのイメージが決して消えないという人の話もあった
多分、幼少期に根付いた思想や感覚を完全に拭い去って自己洗脳することは不可能なのかもしれない
多様性についての現代の「進歩」は、あくまで「社会の側が多様性を受け入れる」ということに焦点が当たってる
まぁもちろん、歴史的には社会が徹底的に迫害と抑圧をしてたわけだから、何も間違ってはないし進歩なんだけど
(それ自体もそうとう難しいし、100%になることはそうそうない)
ただ、なんていうか、「自分自身が呪われた人」にとっては社会がいかに変わっても、それだけじゃ救われないこともあるよなぁと感じた
この投稿はNISAを活用している方々に向けて書かれたものである。ただし、その中でも「わたしは新自由主義の信奉者です」という方々は除外する。その人たちに伝えるべきことは何もない。対象としては、NISAを活用しているが新自由主義の跋扈するこの世界と社会に改善すべきところがあるのではないかという疑念を抱いている人たちに向けて書かれたものである。
NISA(ニーサ)とは、個人の資産形成を応援する国の税制優遇制度です。通常の証券総合口座の投資では、株式・投資信託の売却益や配当・分配金に20.315%の税金がかかるのに対し、NISA口座での投資ではそれらの利益に税金がかかりません。
出典: NISA(ニーサ):少額投資非課税制度 | 楽天証券
国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視を特徴とする経済思想。
資本移動を自由化するグローバル資本主義は新自由主義を一国のみならず世界まで広げた ものと言ってよい。
国家による富の再分配を主張する自由主義(英:liberalism、リベラリズム)や社会民主 主義(英:Democratic Socialism)と対立する。
子どもへの性犯罪では、犯人が巧みに被害者の心をつかんで接近する準備行動をいう。幼い子どもの従順さや思春期特有の悩みにつけ込み、被害者と「信頼関係」を結ぶため、周囲も気付かないまま加害行為が長期化することもある。
出典: 性暴力の前に巧みにつけ込む 忍び寄る「グルーミング」:朝日新聞デジタル
NISAとは少額投資非課税制度であり、これは国民に投資を推奨する政府の施策であることは言うまでもない。投資がギャンブルであるか否かといった議論はここではしない。
資産は何もせずに金銭として持っていても目減りするから、別の形(不動産、証券、純金etc)で持っておくことはある種賢い選択であろうから有効と考えられる。ただし、それらの資産は逆に価値が下がるというリスクもあるが、これは政府も広報していて公正な態度だと言える。
ただし、NISAという制度を使って政府は投資という相場に国民たちを参加させたいのだということは再度認識しておくべきだ。
1970年代から始まったこの経済・政治思想は英国ではサッチャリズムと呼ばれ米国ではレーガノミクスやレーガニズムと呼ばれた。日本では中曽根康弘が始め、小泉政権下で顕著に推進された施策だ。
現在の自由主義諸国で新自由主義とグローバリズムが猛威をふるっていることは言う必要がないだろう。しかし新自由主義者たちはまだ足りないのだ。あらゆる世界市民が新自由主義の旗の元にあつまる世界を夢想している。
世界では貧富の差が拡大し、一部の富裕層の持つ資産は下位50%の持つ資産を大きく超えている。新自由主義が富者を肥えさせ貧者をより細らせていることは明白なのに彼らはまだそれを推進しようとしている。宗教のようにその思想を伝道し、経済的ダーウィニズムがこの世界に浸透することを望んでいる。
何故か。
彼らは捕食者であり被食者を求めている。市場に碌な知識もないまま資産をさらけ出す愚か者を求めている。
更に彼らは自分たちの主義主張がこの世界を過酷なものにすることを知っているから、その反対勢力が興隆することを危惧している。経済的弱者が連帯することを恐れている。それなら、まだ敵ではない人々は味方につけてしまえば敵になることはない、そう思っている。だから新自由主義を啓蒙しその成果が分け与えるようなふりをして味方につけてしまおう、洗脳してしまおうと思っている。
そしてNISAはその策謀のひとつだ。少額で始められること、非課税であることなどを呼び水として参入ハードルを低く設定し、投資という行為に忌避感がある層にもこの競争に参加させようとしている。経済的弱肉強食、金銭的適者生存のサバンナに放り込もうとしている。クスリの売人が最初の一服を無料でサービスし、甘言で誘惑して顧客に仕立て上げることを思い出そう。
あなたたちはその被食者になるかも知れないのに夢を描いて自分だけはそうならないと無駄に楽観的な見通しで投資に手を出すことになる。運良く被食者にならずに済み、捕食者となったあなたたちはどうなるのかと言えば新自由主義を支える一員に成り果てる。そう、新自由主義に加担するのだ。
NISAを活用しているけれど新自由主義に疑念を持っている人々はここで矛盾を味わうだろう。個人としてNISAを通して投資を行うことは生活の防衛であり、一市民としてのより賢い選択でしかない、新自由主義を肯定するものではない、と。しかしそのような君たちの個人的な心情をあなたたちが出資した資産は主張しない。あなたたちが預託した資産は新自由主義者に大いに利用されるのだ。あなたたちは彼らに燃料を供給している。兵站を担っていると言っても過言ではない。
「我々は新自由主義の弊害は認識しているし、その改善も必要だと考えている、そして貧者に対しても博愛の情を持っている」と。そして「そのこととうまくNISAを利用することは別だ」と。
別ではないのだよ。あなたたちは別だと思っているかもしれないが、あなたたちの選択は結果的に新自由主義を推進している。正確に言えば、新自由主義を推し進める政府の政策に乗せられて加担させられている。
こんな風に批判されればカッとなって
「家族と生活を守ってより良い生活をしようとすることのどこが悪いのだ」と主張するかも知れない。中には
「新自由主義だって悪いことばかりじゃない、それらの施策によって現実的に世界は豊かになっているというデータもある」などと言い出す者もいるだろう。
あなたたちは新自由主義に対して批判的な気持ちを持っていたかもしれないが、NISAを利用することにより新自由主義に加担させられ、そのことを批判されると新自由主義に対する疑念を打ち消す方向に考えを改めてしまう。己の選択と行動を正当化したいが為に。
性犯罪の被害者が加害者を擁護してしまうのと同じ行動だ。加害者に洗脳されて、自分たちの行為は悪くない、そうなった事情さえある、だからいけないことだとしてもそれほど悪いことではない、加害者さえ弁護してしまう、そんな風に考えるように仕向けられる。
だからNISAというものは投資のリターンを期待させたり、その利益が非課税であるといった甘い言葉で誘惑し、自陣に引き込み加担させ、そして新自由主義を肯定するように洗脳してしまう施策なのだ。取り込まれてしまっている。これをグルーミングと言わずして何と言えばいいのか。経済的、若しくは思想的グルーミングとでも言えばいいのだろうか。
そのような事例は、はてなでも大いに認められる。新自由主義や現代日本の政治にブックマークコメントで批判的な人物でも投資やNISAという話題になればせっせと肯定する。もう手懐けられてしまっている。
「へーそーなんだ、じゃわたし生徒会行くね」とミームで返すのかも知れない。
あなたたちは加害者になろうとしている。新自由主義を支え格差を拡大し経済成長の名の下で環境破壊を推進する加害者の一員になろうとしている。そのことだけは覚えておくべきだ。
俺はNISAなんてやらない。俺は俺の責任として加害者にだけはならないから新自由主義に加担するなんてことはしない。生活者として賢い選択ではないだろうが馬鹿でいい。口座に積立するくらいならその金で安い酒を買う。そんな金さえ無いがな!金持ちにはなれないだろうし貧乏なままだろうが、知ったことか。人間は主義主張というものをそういう生活態度で示すものだ。「新自由主義には反対ですが投資は生活防衛のために行います」みたいな二律背反していても平気でいるような小狡い態度はとらない。狡いってのは卑怯ってことだからな。絶対にNISAなんかやらない。絶対にだ。
仮に「相手が錯乱していたら思いっきり頭をぶん殴るべきだ」という対処法があったとして
あっ、相手が錯乱してる!全力でぶん殴ってやろう!って即行ける奴がどんだけいるんだよ。
普通の人間だったら「え?本気で?マジ?大丈夫かな?無理じゃない?」ってなると思うよ。
なぜなら「人を思いっきりぶん殴ってはいけない」と幼少のころから教え込まれているから。
「人を殴ってはいけない」という倫理と「人を殴らなければならない」という倫理が
心の中で二律背反を起こしている、それを処理する時間がどうしたって必要になるんだよ。
これはフェミとか関係なく、男は幼少のころから「女性の身体を無許可で触れることはよくないことです」と教え込まれてるわけ。それが他の人もいるような野外であればなおさらダメ。これは普通に生きてきたらそれなりの頻度で繰り返し教育される。
つまり普通の男性であれば「女性の身体に無許可で触れてはならない」という倫理観を持ち合わせているわけ。
じゃないと女性も困るでしょ。
それに対して「救命活動であれば女性の身体に触れてもよい」という教育は驚くほどなされていない。
俺は住んでるマンションの子供会でそういった救命教室みたいなのに毎年通わされてるから多少は理解してるつもりだけど、正直、それに通うまではそういった教育を受けた記憶が一切ない。
「女性の体に触れてはならない」という倫理に対して、「救命活動であれば女性の身体に触れてもよい」という倫理の強度は非常に低いといってもいい。
もちろん「俺は女が倒れててもAEDしないぜ!」みたいな露悪趣味のバカはどうしようもないけど、現実に「女性が倒れていたが周囲の男性が躊躇してしまい、救急車が到着するまで適切な対処が行われなかった」みたいなとき、そこで起こっているのは「女性憎悪」ではなく「倫理と倫理のバトル」なんだよ。
これを解決していくのに必要なのは男性対女性の構図に持ち込むことではなくて、救命に関する知識をもっと積極的に植え付けていって「救命であれば女性に触れてもよい」という倫理観の強度を高めることしかない。
「女性の身体に無許可で触れてはならない」という倫理観を薄めることに何の正当性もない以上、もう片方のより重要な倫理観を高めていく。そのためにはおそらく時間もかかるし、男性側の協力も必要になる。
Flash動画黄金時代のBUMP OF CHICKENの天体観測やKのような動画を作りたいという想いが強くあったことを今でも懐かしく思う。
PSPのコンポジット端子AVケーブルでカラオケ店のディスプレイモニタとAVアンプへ出力して歌ったのだ(後にJOYSOUNDがこの学生文化に気づいてアニソンやボカロ曲を積極的に配信、DAMがそれに追従する)。これらの学生文化からニコニコ生放送でもカラオケ配信をするようになり、そこから歌ってみた文化が興隆する。
懐かしい!マジで何者なんだ
そのような状況を傍目から見ていた自分は2ちゃんねる内の様々な製作系板やスレなどへ常駐し、HTML/CSSスレなどで素材提供などをし、更にはCGIゲーム罪と罰++ 二律背反のホスティングをしていたが、当時のDTM雑誌であるDTM magazineで1つの告知記事を見る。それが「プロ歌手デビューのオーディション(VOCALOID中の人採用特典付き)」だ。
そうつまりこれKAITOとMEIKOがデビューしたオーディションであり、当時の2ちゃんねるDTM板でVOCALOID評価はそこまで高くなく、たいていは「ボコーダ/ボーカルシンセの代わりにはなるのではないか?」程度の評価だったのだ。
ゲッサンでどうやら同世代が当時を振り返る漫画を連載開始したようなので、別視点で語らせて貰おうか。
めぐり合わせが良かったのかパソコン通信終焉期に同世代としては比較的早期にパソコンを手に入れ、パソコン通信をやっているお兄さんたちからプログラミングを習うようになる。
このお兄さんたちは今の40代、公開されているプログラムの改造についてフォーラムで質問したことをきっかけに、会話の中で自分が小学生であることがバレてしまい、お兄さんたちは面白がって僕にBASICとCを二次関数も知らない小学生へかなり丁寧に教えてくれた。
お兄さんたちは次第に「これからはインターネットの時代だぞ」「大学にはJUNETがあって」などと教えてくれるようになり、インターネットやUUCP、TCP/IP、WWWなどの知識を小学生に詰め込むようになり、指導される言語にPerlやHTMLが増えたものの我が家にはまだインターネット環境がなかった。
Windows 95が我が家に導入されるタイミングでインターネット環境も敷かれ、ここでCGIゲームに出会いプログラミングへのめり込んでいくこととなる。
師匠たちの教えは素晴らしく当時のCGIゲームの主要開発言語はPerlであったため何も不自由なく改造がはかどり、負荷を高めても叱られが発生しにくいCGI対応ホームページスペースを提供してくれているプロバイダを探すこともよくやった。
その初頭(02年くらいから)にAdobe Flash方面で大きな動きがあり、いわゆる「FLASH黄金時代」を迎える。
Adobe Flashの派手に動くアニメーションと音楽に衝撃を受け、そして我が家のPCのビデオメモリの貧弱さに絶望をした(お年玉全額投資した上で親に拝み倒してビデオメモリいっぱい積んでるPCへ新替した)。
2000年代以前もMML(Z-MUSICなど)でDTMを軽く触る程度やっていたもののAdobe Flashの自由自在なマルチメディア感へ完全に影響され、本格的にDTMやCGへ手を出すようになる。
当時主に使っていたDAWはSinger Song Writerで、これは当時の師匠たちの主な環境がミュージ郎であったため影響を受けた弟子である自分はDAWにおいてSinger Song Writerしか知らなかったという意味合いが大きい。結局、手に馴染んでいたMMLを完全に排除するまではいっておらず併用する形でDTMをやっていた。
当時のインターネットと音楽事情を振り返れば今だから言えることだが、BOSSのエフェクターの回路図などがネット上に出回っており、おそらく電気関係を学んでいたであろう師匠たちの手によってミニ四駆改造を主とした電子工作の手ほどきを受けていた自分は師匠たちから渡されたエフェクターの回路図によって自作し、最終出力をMTRなどでレコーディングするという手法を取っていた。
当時のソフトエフェクターは音楽ド素人の自分でもわかるくらいに品質が悪く、何なら最終段をPCM音源出力するわけでなくFM音源でのみ仕上げるときは疑似ディレイや疑似デチューンなどの手法によってエフェクター表現するしかなく、ソフトエフェクターはハードエフェクターを超えられないことが常であった。
Adobe Flashでは主にMotionSWFとSodipodiを利用して作成しており、Sodipodiは後にInkscapeとして派生していくことになり今でも使用しているが、MotionSWFはSWiSH2が登場すると直ぐに乗り換えた。MotionSWFは連番画像を事前に生成する必要がありActionScriptの扱いにも難があったためだ。
Adobeが公式でLiveMotionというFlashアニメーションというのをリリースしていたものの学割が効くとは言え高価で、師匠世代の方々は学割が使えないのでSWiSHを使っていたこともあり影響された。
このあたりにTVアニメなどで使われる背景動画はモーショングラフィックスという技術の括りに入るものと知る。まぁつまりモーショングラフィックスとは静止画をアニメーションさせる技術の総称なのだ。
この時点で自分は中学生、自分の肌感覚だがこの時点でがまだ「オタク」へ対する風当たりは強く、中学校でもイジメと殆ど変わらないであろう扱いは散見されており、自分の姉たちからもオタクっぽい趣味は良くないよみたいなことをよく言われたものだった。
まぁ姉たちも思春期だし、部屋にこもってパソコンへ向かってフヒヒとか言ってたり、電子工作で謎の機械作ってたり、Marshallのジャンクなアンプをどこからか拾って来て修理してる弟は気持ち悪かったんだろう。
ただ運良くも両親が身体デカく産んでくれたおかげで、自分自身はイジメられた経験がほぼ無く、というか面白いものを生み出すオタク友達をイジメる不良が大嫌いだったので思春期だったこともありやり合っていたというのが実情だった。
なにせ一次産業家庭の生まれだったので早朝は実家の手伝い、親父の男子たるものスポーツくらい出来なければという保守的な思想によって野球部へ所属し、帰宅後も実家の手伝いをしていたため身体が鍛え上げられる環境だったのだ。ツルんで威張り散らかし調子に乗ってタバコや酒をやるようなナヨナヨした不良に喧嘩で負ける道理は無い。
親父や教師たちは自分を正義感溢れる少年だと思って度々喧嘩をしても大目に見てもらっていたが、実際のところはオタク友達が「イジり」に遭ったことに腹を立てて「俺たちに構うんじゃねぇ!」と思春期の自分が怒っていただけだ。
ただこの不良たちとも仲直りをした。時代はビジュアル系バンドとインディーズバンドが流行り、そして青春パンクが注目され始めるとき。そんなときにエフェクターやアンプを自作修理し軽音楽部の部室へ持ち込んでいたので軽音楽部にたむろする不良たちが「えっ増田ってアンプ作れんの!?」となるのは別におかしな話じゃない。
不良たちもそのような状況でオタクグループをイジるのがバカバカしくなったのか次第に何かやるとき絡むようになり自分の通う中学校からはイジメが無くなった。
イジメという娯楽はモノ作りという娯楽に勝てない。
イジメを根絶する力をボクは師匠たちから学んだ。今の世を見れば不良の一部はオタク側へ吸収されてしまっているし、そのような流れを作ったのは自分の世代へ憧れを抱かせた40代になった今のアナタたち師匠だ。
Flashの影響が落ち着いてきたあたりでインターネットには新しいコンテンツ配信システムが注目される。インターネットラジオだ。
これは爆発的に普及し、当初個人サイトだった「らじちゃんねる」は「ねとらじ」となりつつも個人運営では負荷処理が追いつかずlivedoorへ譲渡されlivedoorねとらじになる。
奇しくもほぼ同時期に2ちゃんねるでは若年層が新しく設置されたニュー速VIP板へ集うようになりVIPPERもインターネットラジオ配信をほそぼそと始めるようになった。
この頃のニュー速VIP板は明らかに自分と同年代が集っており、Flash黄金期の影響を如実に受けておりクリエイティビティの発露が著しく様々なネタスレが生み出され安価スレはその代表格で、更には涼宮ハルヒの憂鬱を発端とする深夜アニメブームからクリエイティビティは極限まで達しSSスレやゲーム製作スレなどが大いに賑わうようになった。
そして負の側面も表に出るようになり女神スレや女VIPPERによるインターネットラジオ配信が定番化すると、ニュー速VIP板内でのパートスレによるスレdat落ちが問題視されるようになり、女VIPPERはヘイトを集めるようになった。
それ以前から2ちゃんねるでは主に801板住民による板違いスレ違いや同性愛サロン板での荒らしが問題視されており、女VIPPERによるインターネットラジオ配信によってBLファンであることが多いことが明らかとなっていたため、ニュー速VIP板内でも女VIPPER、特に腐女子に対して風当たりが著しく悪くなった。
そこでパートスレを嫌うVIPPERは腐女子へのカウンターとしてふたば☆ちゃんねるから2ちゃんねるへ輸入されたくそみそテクニックから作られたAAを使って女VIPPERによるインターネットラジオ配信スレを埋めるという連投荒らしをするようになる。
この動きは当の801板住民へも影響を与えたのか、801板では同人サイトの作成を奨励されるようになり、それ以前から評価の高かったYahoo!ジオシティーズや携帯勝手サイトの魔法のiらんどが同人界隈で注目され同人サイトの開設が爆発的に増えた。
しかしながらこの動きにも負の側面があり、同人サイト運営を行っている主に学生内で無断転載やホームページ素材サイトからの直リンク問題が発生。Web系の技術者やホームページ素材サイト運営者からのヘイトを加熱させるという現象が起きてしまった。
特に怒り狂っていたのはいわゆるツクール系のゲーム製作者・ゲーム素材サイト運営者であり、当時のゲーム素材はまだGIFなどのドット絵素材が多かったため当時の携帯電話と相性がよく、同人サイトを運営する学生が無断転載や直リンクするという行為に走ったのだった。
当時のHTML/CSSにも問題があった。携帯電話各社でHTML/CSSの仕様が違い、自身の同人サイトを彩りたい学生からすると携帯電話によって表示にバラつきが起きることは悩ましいことであり、画像素材はそのバラつきを最小限に留めることが可能である。
さらに言えば魔法のiらんどなどで利用者が使えるストレージサイズが小さいという問題もあり、装飾にストレージ容量を消費すると自分のイラストやSSを投稿できる量が減るといった悩みがあって直リンクへ手を染めていた。
もっと言えば当時の学生はあまりにも送信量が多いとプロバイダやレンタルサーバ、レンタルホームページ事業者からホームページ運営者が怒られたり、送信従量課金制契約の場合は実際にホームページ運営者が実費を負担していたという事実を知らなかったのも無断転載や直リンクへの拍車をかけていたと思われる。
現在は社会人となっっているであろう同人サイト運営していた学生だった者はおそらく今まさに素材サイトの管理人へ金銭負担させていた事実を知って驚いていると思うが、何故あんなにも注意され、素材差し替えなどで当時は嫌がらせと思うようなことをされたのか?を理解していることだろう。管理人は怒って当然なのだ。
そのような状況を傍目から見ていた自分は2ちゃんねる内の様々な製作系板やスレなどへ常駐し、HTML/CSSスレなどで素材提供などをし、更にはCGIゲーム罪と罰++ 二律背反のホスティングをしていたが、当時のDTM雑誌であるDTM magazineで1つの告知記事を見る。それが「プロ歌手デビューのオーディション(VOCALOID中の人採用特典付き)」だ。
そうつまりこれKAITOとMEIKOがデビューしたオーディションであり、当時の2ちゃんねるDTM板でVOCALOID評価はそこまで高くなく、たいていは「ボコーダ/ボーカルシンセの代わりにはなるのではないか?」程度の評価だったのだ。
様々な音楽制作系雑誌でもVOCALOIDの扱いは非常に小さく、例えば当時のPC系雑誌で定番の特集だったフリーソフト100選みたいなノリでVSTプラグイン100選の中にVOCALOIDがボコーダ枠で入ってるくらいの極々小さな扱いであった。むしろ登場時に言及していた名無しが評価の仕方は別としてVOCALOIDに触れているだけでもスゴイまである。
シュレーディンガーはアインシュタインに宛てて、量子力学のコペンハーゲン解釈の重大な欠陥を明らかにするために、架空の実験装置を作った。この解釈では、量子系は外部の観測者と相互作用するまで、2つ以上の状態の重ね合わせに留まるとされる[1]。
この効果を、原子というミクロな世界の特殊性として片付けることはできるかもしれないが、その世界が、テーブルや椅子、猫といったマクロな日常世界に直接影響を及ぼすとしたらどうだろうか。シュレーディンガーの思考実験は、それを明らかにすることで、量子力学のコペンハーゲン解釈の不条理を明らかにしようとした。 粒子が重ね合わされた状態にあることは、一つの事実だ。しかし猫はどうだろう。猫はどちらか一方にしか属さないし、死んだり生きていたりもしない。
ガイガーカウンターの中に、ほんの少しの放射性物質が入っていて、1時間のうちに原子の1つが崩壊するかもしれないが、同じ確率で1つも崩壊しないかもしれない。このシステム全体を1時間放置しておくと、その間、原子が崩壊していなければ、猫はまだ生きていると言うだろう。システム全体のΨ関数(波動関数)は、その中に生きている猫と死んだ猫(表現は悪いが)が等しく混ざり合っていることで、このことを表現している。
この思考実験の意味合いについては、多くの現代的な解釈や読み方がある。あるものは、量子力学によって混乱した世界に秩序を取り戻そうとするものである。また、複数の宇宙で複数の猫が生まれると考えるものもあり、「重ね合わせられた猫」がむしろ平凡に見えてくるかもしれない。
通常の話では、波動関数は箱入りのネコを記述する。QBismでは、箱を開けたら何が起こるかについてのエージェントの信念を記述する。
例えば、Aさんがギャンブラーだとしよう。ネコの生死を賭けたいが、量子波動関数が最も正確な確率を与えてくれることを知っている。しかし、世の中には波動関数のラベルがない。自分で書き留めなければならない。自由に使えるのは、Aさん自身の過去の行動とその結果だけである。なので結果として得られる波動関数は、独立した現実を反映したものではない。世界がAさんにどう反応したかという個人的な歴史なのだ。
今、Aさんは箱を開けた。死んだ猫、あるいは生きている猫を体験する。いずれにせよ、Aさんは自分の信念を更新し、将来の出会いに期待するようになる。他の人が不思議な「波動関数の崩壊」と呼ぶものは、QBistにとっては、エージェントが自分の 賭けに手を加えることなのだ。
重ね合わせを形成するのはエージェントの信念であり、その信念の構造から猫について何かわかる。なぜなら、波動関数は、エージェントが箱に対して取り得るすべての行動(相互に排他的な行動も含む)に関する信念をコード化しており、Aさんの信念が互いに矛盾しない唯一の方法は、測定されていない猫に固有の状態が全く存在しない場合だからである。
QBistの話の教訓は,ジョン・ホイーラーの言葉を借りれば参加型宇宙であるということである。
2. ボーミアンについて
量子力学のコペンハーゲン解釈によれば、電子のような量子粒子は、人が見るまで、つまり適切な「測定」を行うまで、その位置を持たない。シュレーディンガーは、もしコペンハーゲン解釈が正しいとするならば、電子に当てはまることは、より大きな物体、特に猫にも当てはまることを示した:猫を見るまでは、猫は死んでいないし生きていない、という状況を作り出すことができる。
ここで、いくつかの疑問が生じる。なぜ、「見る」ことがそんなに重要なのか?
量子力学には、ボーム力学というシンプルでわかりやすい版があり、そこでは、量子粒子は常に位置を持っている。 猫や猫の状態についても同様だ。
なぜ物理学者たちは、シュレーディンガーの猫のような奇妙でありえないものにこだわったのだろうか?それは、物理学者たちが、波動関数による系の量子的な記述が、その系の完全な記述に違いないと思い込んでいたからである。このようなことは、最初からあり得ないことだと思われていた。粒子系の完全な記述には、粒子の位置も含まれるに違いないと考えたのである。 もし、そのように主張するならば、ボーミアン・メカニクスにすぐに到達する。
シュレーディンガーの猫の本当の意味は、実在論とは何の関係もないと思う人もいる。それは、知識の可能性と関係があるのだ。問題は、量子世界が非現実的であることではなく、量子系を知識の対象として安定化できないことである。
通常の知識の論理では、私たちの質問とは無関係に、知るべき対象がそこに存在することが前提になる。しかし、量子の場合、この前提が成り立たない。量子力学的なシステムに対して、測定という形で問いを投げかけると、得られる答えに干渉してしまう。
これらの本質的な特徴は「反実仮想」であり、何があるかないか(現実)ではなく、何が可能か不可能かについてである。実際、量子論の全体は反実仮想の上に成り立っている。反実仮想の性質は、量子論の運動法則よりも一般的であり、より深い構造を明らかにするものだからだ。
量子論の後継者は、運動法則は根本的に異なるかもしれないが、反実仮想の性質を示すことで、重ね合わせやエンタングルメント、さらには新しい現象が可能になるだろう。
シュレーディンガーは、仮想的な猫の実験で何を言いたかったのだろうか?現在では、シュレーディンガーは、量子論は、猫が死んでも生きてもいない浮遊状態にある物理的可能性を示唆していると主張したと一般に言われている。しかし、それは正反対である。シュレーディンガーは、そのようなことは明らかに不合理であり、そのような結果をもたらす量子論を理解しようとする試みは拒否されるべきであると考えたのである。
シュレーディンガーは、量子力学の波動関数は、個々のシステムの完全な物理的記述を提供することはできないと主張したアインシュタイン-ポドロスキー-ローゼンの論文に反発していたのである。EPRは、遠く離れた実験結果の相関関係や「spooky-a-distance(不気味な作用)」に着目して、その結論を導き出したのである。
シュレーディンガーは、2つの前提条件と距離効果とは無関係に、同じような結論に到達している。彼は、もし1)波動関数が完全な物理的記述を提供し、2)それが「測定」が行われるまで常に彼自身(シュレーディンガー)の方程式によって進化するなら、猫はそのような状態に陥る可能性があるが、それは明らかに不合理であることを示したのだ。したがって、ジョン・ベルの言葉を借りれば、「シュレーディンガー方程式によって与えられる波動関数がすべてではないか、あるいは、それが正しくないかのどちらか」なのである。
もし、その波動関数がすべてでないなら、いわゆる「隠れた変数」を仮定しなければならない(隠れていない方が良いのだが)。もし、それが正しくないのであれば、波動関数の「客観的崩壊」が存在することになる。以上が、Schrödingerが認識していた量子力学的形式を理解するための2つのアプローチである。いわゆる「多世界」解釈は、1も2も否定せずにやり過ごそうとして、結局はシュレーディンガーが馬鹿にしていた結論に直面することになる。
シュレーディンガーの例は、量子システムの不確定性をミクロの領域に閉じ込めることができないことを示した。ミクロな系の不確定性とマクロな系の不確定性を猫のように絡ませることが考えられるので、量子力学はミクロな系と同様にマクロな系にも不確定性を含意している。
問題は、この不確定性を形而上学的(世界における)に解釈するか、それとも単に認識論的(我々が知っていることにおける)に解釈するかということである。シュレーディンガーは、「手ぶれやピンボケの写真と、雲や霧のスナップショットとは違う」と指摘し、量子不確定性の解釈はどちらも問題であるとした。量子もつれは、このように二律背反の関係にある。
ベルが彼の定理を実験的に検証する前、量子力学の技術が発展し、もつれ状態の実在性を利用し、巨視的なもつれシステムを作り出す技術が開発される前、形而上学的な雲のオプションはテーブルから外されるのが妥当であった。しかし、もしもつれが実在するならば、それに対する形而上学的な解釈が必要である。
波動関数実在論とは、量子系を波動関数、つまり、死んだ猫に対応する領域と生きた猫に対応する領域で振幅を持つように進化しうる場と見なす解釈のアプローチである。シュレーディンガーが知っていたように、このアプローチを真面目に実行すると、これらの場が広がる背景空間は、量子波動関数の自由度を収容できる超高次元空間となる。
6. 超決定論について
不変集合論(IST)は、エネルギーの離散的性質に関するプランクの洞察を、今度は量子力学の状態空間に再適用することによって導き出された量子物理学のモデルである。ISTでは、量子力学の連続体ヒルベルト空間が、ある種の離散的な格子に置き換えられる。この格子には、実験者が量子系に対して測定を行ったかもしれないが、実際には行わなかったという反実仮想の世界が存在し、このような反実仮想の世界は格子の構造と矛盾している。このように、ISTは形式的には「超決定論」であり、実験者が行う測定は、測定する粒子から独立しているわけではない。
ISTでは、ISTの格子上にある状態は、世界のアンサンブルに対応し、各世界は状態空間の特別な部分集合上で進化する決定論的系である。非線形力学系理論に基づき、この部分集合は「不変集合」と呼ばれる。格子の隙間にある反実仮想世界は、不変集合上には存在しない。
アインシュタインは、量子波動関数は、不気味な距離作用や不確定性を持たない世界のアンサンブルを記述していると考えていたが、これは実現可能である。 特に、シュレーディンガーの猫は、死んでいるか生きているかのどちらかであり、両方ではないのだ。
シュレーディンガーの猫の寓話に混乱をもたらしたのは、物理システムが非関係的な性質を持つという形而上学的仮定である。 もし全ての性質が関係的であるならば、見かけ上のパラドックスは解消されるかもしれない。
猫に関しては、毒が出るか出ないか、猫自身が生きているか死んでいるかである。 しかし、この現象は箱の外にある物理系には関係ない。
箱の外の物理系に対しては、猫が起きていても眠っていても、猫との相互作用がなければその性質は実現されず、箱と外部系との将来の相互作用には、原理的に、猫がその系に対して確実に起きていたり確実に眠っていたりした場合には不可能だった干渉作用が含まれる可能性があるからだ。
つまり「波動関数の崩壊」は、猫が毒と相互作用することによって、ある性質が実現されることを表し、「ユニタリー進化」は、外部システムに対する性質の実現確率の進化を表すのである。 これが、量子論の関係論的解釈における「見かけのパラドックス」の解決策とされる。
8. 多世界
物理学者たちは古典物理学では観測された現象を説明できないことに気づき、量子論の現象論的法則が発見された。 しかし、量子力学が科学的理論として受け入れられるようになったのは、シュレーディンガーが方程式を考案してからである。
シュレーディンガーは、自分の方程式を放射性崩壊の検出などの量子測定の解析に適用すると、生きている猫と死んでいる猫の両方が存在するような、複数の結果が並列に存在することになることに気づいた。実はこの状況は、よく言われるように2匹の猫が並列に存在するのではなく、生きている1匹の猫と、異なる時期に死んだ多数の猫が並列に存在することに相当する。
このことは、シュレーディンガーにとって重大な問題であり、量子測定中に量子状態が崩壊することによって、量子系の進化を記述する方程式としての普遍的な有効性が失われることを、彼は不本意ながら受け入れた。崩壊は、そのランダム性と遠方での作用から、受け入れてはならないのだろうか。その代わりに、パラレルワールドの存在が示されれる。これこそが、非局所的な作用を回避し、自然界における決定論を守る一つの可能性である。
普通に考えたら、自分のことも他人のことも等身大で見つめて、肩肘張ったり上辺を飾り立てたりしない自然体で接するのが 、人として魅力的になれることだと思う。
でも現実的に年齢も年齢だしってことになってくると、マチアプや相談所の類に頼らないと出会いそのものがない。
そうすると今度は、お互いがお互いを値踏みしあう人肉市場に出ていくことになり、そこで必要なのは自分に対しても他人に対してもドライな割り切りであったり、ある意味ゲーム的な「勝てるコツ」になってくるだろう。
素直な自分で行くのか。仁義なき恋愛市場に適応していくのか。非常にアンビバレントな二律背反。
元増田は(だけでなく多くの人が)そこで立ちすくんでるのだと思う。
リベラルは男性差別を認めないだけではなく、さらに男らしさも出せとか二律背反丸出しだもんな。
しかもマスキュリズムは右翼とな舐めたこと言うやつもいるくらいだし(定義のすり合わせ位しろよ無能どもが)。
男らしさというものを出してくる保守的な人間のほうが合わないと思うが、なんぼかフェミニズムっぽいところも受け入れしている部分もあるからマスキュリズム的なものも受け入れている。
実際に共同親権や表現の自由(主に男性向けの表現について)でも協力する人もいるくらいだし。
ほんの少し包摂しようとするだけでも、保守連中のほうが優しいんだよな。
ごくありふれた、あと2, 3年で30歳を迎える交際経験ゼロの童貞男性。
昔から性嫌悪や男性嫌悪の傾向があって、元々強い方ではなかったが最近、性欲を完全に失ったのではないかと思う。
友達が少なく、こういう下の話をする機会がなく、一般的な男性の性欲がどんなものか分からないので聞いてみたい。
同い年の唯一の友人はまだまだ現役で、年間1000回も自慰をするというから驚きだ。
性欲減退について、MSDマニュアルにあるように「性的思考を抑圧する考え方が身についていること」これは非常にあてはまる。
自分はいわゆる「賢者タイム」の影響を強く受けやすいタイプなのもあって、幼少期から自慰行為そのものに罪悪感を覚えていた。自慰をしたことで何か罰が当たるのではないか、という思考だ。
「性的思考を抑圧する考え方」を持つに至ったきっかけを説明するとかなり長くなる(読む人がいればだが)。
兄が中学生になって性に興味を持ち始めた頃、小学生だった自分もエロサイトを(半ば強制的に)見せられた。
内容の理解は出来なかったが、こうして性知識を得たのは小学2, 3年生とかそれくらいだったろう。
その当時(20年くらい前)はフラッシュ全盛期で、AVよりもアニメ調のエロフラッシュに多く触れたということが後の志向に影響していると思われる。
小学生・中学生の頃はまだ、好きな女子をオカズに自慰をすることがあったが、中学3年生の時に好きになった女子のことをどういう訳か神聖視するようになった。
(自分が厳格な家庭環境で育った、あるいは宗教的背景があった、などが一切ないことを述べておく)
自分の中で勝手に彼女を美化して穢れのない女性だと認識し、この子で自慰をしてはいけない、と強く思うようになった。受験期だったのもあるが、中3の1年間は一切自慰を行わなかった。
自分が高校生になって、アニメを見始めると自慰のオカズに二次元キャラクターを多用するようになった。
(そもそも、AVの成人女性よりも自分と同年代のJC, JKに興味があったが、無論そのような児童ポルノが存在するはずもなく…)
その反面、無垢で可愛らしい二次元の女の子に、己の薄汚い性欲をぶつけることに強い罪悪感と嫌悪感を抱くようになった。性欲と相反する罪悪感・嫌悪感の二律背反に苛まれ、自慰の度に自己嫌悪を増していった。
次第に、自分の愛着のある作品のキャラクターのエロ二次創作を避けるようになり、全く知らない作品へ、更にはオリジナルイラストへと範囲を狭めていく。
そんなことを繰り返していくうちに、「可愛いアニメキャラクターを正当に愛するためには、エロから脱却しなければならない。(オリジナルだとしても)裏で二次元の女性に欲情するのは不誠実である」との思考に至り、自慰行為を控えるようになる。
意思が弱く、なかなか自慰を完全に絶てなかったが、大学院で研究・社会人で仕事が忙しくなると自然と回数が減った。そして最近、コロナ禍でテレワーク環境が生まれたことで家に常に親がいる環境になり、完全に自慰を絶つことに成功した。
ところで性嫌悪に関する記述がすっぽり抜けてしまったが、自分の見てきた二次元のエロの世界では
女性が凌辱されたり、あられもない姿で羞恥を受けたり、(和姦であっても)太った気持ち悪いおじさんと性交していたり、
煽情的な仕草をしている(させられている)という風に、極めて男性が喜ぶように歪められた世界のように見えた。
(初めて観たエロアニメが、「奥手な両想いの男女関係に対して、降って湧いたチャラ男が強姦して無垢な処女を快楽漬けに寝取る」というもので非常にショックを受けたのも大きいと思う)
また、生きていくうちに自然と、「女性は慎ましく淑やかでいなければならない」という思考が染み付き、スラット・シェイミング的にAVに関しても嫌悪感が強かった。
獣のように腰を振り、はしたなく懇願して嬌声を上げる男女の姿が非常に醜く映った。
自慰による自己嫌悪とともに、性に対する嫌悪も強まっていった。
2次元・3次元同様に、性に対する男性の「加害性」のようなものを強く感じ、己の男性性(女性を性的な目で見てしまうこと、性的消費すること)にも嫌悪している。
自分を棚に上げているように見えるかもしれないが、自己嫌悪を拡大させて男性嫌悪しているということだ。
話が長くなったが、つまるところ本能的な性欲を理性で押さえつける構図が成立したことで、性欲を失った。
正直なところ性欲が全くない訳ではなく、経験として一度は性交してみたいという感情も恥ずかしながらある。
前述の性嫌悪と相反する感情であり、だからこそ己を恥じて、よりいっそう自己嫌悪を深める原因なのだが。
しかしながら、やはり二次元の女の子を愛するには童貞を守り、性から離れ、女体を知るなどということは避けるべき禁忌である。それに(今は後ろめたい理由で仕方なくやっているのではないのかもしれないが)風俗など「金で女を買う」という行動も、そちら側の人間になってしまうと一生二次元の女性を愛する資格を失ってしまうため、これもまた禁忌だ。