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画像検索結果

 まれに自分の名前をネットで検索することはありませんか。昨日、久しぶりにグーグルまわしてみたんですが、大きな変化があって、ちょっと驚いたの。
 まず こちら をクリックしてみてください。

 このページの5項目めに「・・・・の画像検索結果」というサイトが紹介されています。この春までこんなサイトはなかった(と記憶してます)。クリックすると、このページ が開きます。
 
 なんだ、これは!?
 よくもまぁこれだけ写真を掻き集めたものだね。しかしながら、私の顔写真は多くない。本学の同僚や友人・知人の写真が含まれているし、目をひくのはマキムクの復元図やら『建築考古学の実証と復元研究』などの著作の表紙、猫(デブ)やビアンキの写真・・・このあたりまでは理解できるのだが、ずっと下に行くと、謎の人物の写真が掲載されている。

謎の女

 この女(ひと)誰ですか? 
 私のまわりには、こんな別嬪さん、おりませんぞ。タレントデータバンクって書いてあるから、タレントなんでしょうね。それにしても、これだけの写真コレクション、だれがどうやって集めたんだろう。「自分でやれ」と言われても、とてもやる気にならない。それほどのエネルギーが必要ですよね。


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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(Ⅰ)

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清水庵の空間

 昨日報告したとおり、新規の鳥取県環境学術研究費で「倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査-歴史まちづくり法よる広域的景観保全計画にむけて―」と題する3年計画の研究がスタートすることになり、24日(金)のゼミを利用して、さっそく倉吉まで足を運びました。先生と白帯さんは授業があるため、ぼくたち3年生が一足早く倉吉に向かい、庁舎で会長さんと合流して倉吉の町並みを散策しました。
 まず「清水庵」へ。いつもなら夕食はここ清水庵で「餅しゃぶ」の流れになることも多いようですが、この日は別のお店を予約しており、見学のみとなりました。切妻造平入の町家で、表から裏まで通り抜けるが土間を「通り庭」と呼んでいます。通り庭にそって表の間、中の間、奥の間が縦に並び、中の間が吹き抜けになっています。明治期に平屋から2階建に増築され、表と裏に2階ができるとそれを廊下でつなぎ総2階になったそうです。
 この、中の間の2階にあがると1階の座敷がよくみえます。大変気持ちの良い空間だなと思いました。また、天井に灯り採りもあります。なんとも垢抜けた空間構成ですが、先生は「置屋」や「遊郭」の系譜につながるのではないか、と考えられているようです。そうなると、むしろ空手部顧問のN教授のほうが詳しいかもしれませんね・・・ダハハ
 それから玉川沿いの白壁土蔵群の町並みを歩き、本町通り商店街から河原町の小川酒造まで行きました。途中、先生のご所望で「苗」もたくさん買いました。先生は研究室の緑化計画を企てておられます。昨年、ある学生に依頼して多くのハーブを鉢植えしたのですが、見事に枯らせてしまい、今年こそはミントやバジルで研究室を彩りたいそうです。


0524倉吉01円形校舎


打吹山長谷寺

 午後4時すぎ、予定より半時間近く遅れて、先生と白帯さんが到着しました。いま保存問題で揺れている「円形校舎」で落ち合ったのですが、円形校舎の内側には入れませんでした。そして、この日のメインテーマである打吹山の長谷寺に上がりました。長谷寺は天台宗寺院で、伯耆三十三番札所、中国観音霊場の一つです。縁起によれば、養老5年(721)の創建で、法道上人を開祖とし、今の本堂は長谷(ながたに)村(今の倉吉市北谷地区)にあったものを現在地に移築したと伝えています。

 
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 本堂は瓦葺寄棟造妻入で、いわゆる懸造(かけづくり)になっています。本堂と仁王門は平成19年に県指定保護文化財になったばかりです。また、内陣の禅宗様厨子は室町時代後期のもので、重要文化財に指定されています。先生からいきなり「ここにみられる禅宗様の要素を答えてください」という問題が出されました。学生は答えることができません。先生がおっしゃった厨子の特徴は以下の点です。
 ①隅のみ扇垂木になっているので、この点は禅宗様系というよりも大仏様系と言える。
 ②尾垂木は直線形ではなく、禅宗様特有の強い反りをもつ。
 ③頭貫に台輪をのせて詰組(中備にも組物を配する)にするのも禅宗様。
 ④柱頭に粽(ちまき)があり、背面の木鼻も禅宗様系。
 ⑤総合的にみると、禅宗様系だが、和様や大仏様の要素も混入している。

 ぼくは知識不足を実感させられました。これから研究活動をするにあたり、このような基礎知識の復習がかかせないと思います。

0524倉吉02長谷寺05厨子 0524倉吉02長谷寺01内陣01


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鳥取県環境学術研究費 新規採択!

 鳥取県環境学術研究費の新規申請が採択されました。環境大学公立化後、採択率が著しく下がっておりましたが、なんとか難関を突破できたようです。「歴史まちづくり法」をテーマとして、倉吉打吹山麓の歴史的風致を向上させるための基礎研究に3年がかりで取り組みます。全県をあげてのご支援をお願い申し上げます。


研究課題名:       倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査
          -「歴史まちづくり法」よる広域的景観保全計画にむけて―


課題番号: B1301
研究期間: 平成25~27年度
県助成額: 2,137,000円
        (直接経費1,943,000円、間接経費194,000円)

研究課題の必要性
 倉吉は伯耆国府が置かれ、古代から中世にかけて鳥取県中西部の政治・経済・文化の拠点的地域であった。伯耆国庁跡・伯耆国分跡に加えて、国府に関連する官倉「不入岡遺跡」や国分尼寺「法華寺畑遺跡」などが市街地の北西に相接して分布し、市街地の東には山陰を代表する古代寺院「大御堂廃寺跡」が所在する。さらに、打吹山(標高204m)の中腹には奈良時代造営の寺伝を残す長谷寺が境内を構える。打吹山には中世の城跡があり、 14世紀以降、山の北麓に城下町が形成されるが、14世紀以前の打吹山はむしろ信仰の山として、三徳山・摩尼山・大山寺などと類似する性格を有していたのである。
 中世の打吹城(山城)は一国一城令(1615)によって廃絶するが、城下町は鳥取藩家老荒尾氏の統括する陣屋町に継承され、木綿・稲扱千歯などの特産品の流通により明治・大正期まで繁栄を続ける。こうした歴史を反映して、県内では最も指定・登録等文化遺産が集中する地区の一つになっている。たとえば、旧陣屋町エリアの一部は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、上記の諸遺跡(古代国庁等)はいずれも国の史跡に指定され、さらに、長谷寺は懸造の本堂と仁王門が県指定、本尊十一面観音を安置する厨子が国重要文化財指定を受けている。このように、個々の物件は保護の対象となっているものの、それぞれの調査研究が十分なされているわけではなく、遺産相互の連携性も高いとは言えない状況にある。なにより時間の流れとともに高齢化や人口減少が進行し、担い手の不足などから良好な環境(歴史的風致)が大きく損なわれてきている。
 こうした課題を克服するため、平成20年(2008)、国交省・農水省・文化庁が共同で「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」(いわゆる「歴史まちづくり法」さらに略して「歴まち法」)を制定した。従来の文化財保護法、景観法、都市計画法には一長一短があり、必ずしも地域景観保全の救世主たりえなかったが、「歴まち法」では市町村が申請する「歴史的風致維持向上計画」にあわせて「歴史的環境形成総合支援事業」「街なみ環境整備事業」「まちづくり交付金」「まちづくり計画策定担い手事業」などさまざまな支援を受けることができる。現在、全国で35市町村、中国5県で6市町村が「歴まち法」の認定地となっているが、鳥取県では取組の申請すらしていない。
 上に述べたように、倉吉は古代から近代に至るまで各時代の歴史遺産が分布し、それらを連携しあうことで広域的に歴史的風致を向上させる可能性を秘めている。本研究では、打吹山とその山麓の旧陣屋町エリアを中核に据えながら、小鴨川の外周域に散在する古代遺跡群(国史跡)と周辺田園地域をも包含した広域的エリアを対象に、「歴まち法」認定のための基礎資料の整理・分析と「歴史的風致維持向上計画」の叩き台を示そうとするものである。初年度は打吹山に焦点を絞り、古代巨巌信仰と長谷寺の文化資産、山城の遺跡、山麓の文化財建造物についての基礎資料を整えたい。


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2012年度実績報告(Ⅱ)

平成24年度科学研究費基盤研究(C)

1.研究課題名
  石窟寺院への憧憬―岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究―
2.課題番号  22560650
3.研究年度  平成22~24年度 

4.成果概要 
 最終年度は岩窟仏堂と係わる「山のジオパーク」「山の世界遺産」等を歴訪した。まず8月末から中国福建省の「中国丹霞」を訪問し、泰寧の岩窟複合型懸造仏堂「甘露寺」を調査した。甘露寺は南宋紹興年間造替の古刹で、岩陰・岩窟前面の大きなプラットフォームを巨木柱1本で支え、その上に複数の仏堂を構える。平安末の東大寺大仏殿再建にあたって日本人が視察に来たという寺伝も残っている。残念なことに、1960年代に火災で全焼しており、現在の建物はその後の再建による。甘露寺は「南方の懸空寺」と称される中国の代表的な懸造寺院だが、懸
空寺は絶壁に張り出し、甘露寺は岩陰・岩窟内に納まる点で異なる。三仏投入堂や不動院岩屋堂と類似点が多いのは甘露寺の方である。甘露寺調査の後には、福州市に残る南方中国最古の木造建築、華林寺大殿(北宋)も調査した。大仏様と禅宗様が複合化しているが、やや大仏様の色彩が強い。
 9月にはブータン仏教発祥の地であるタクツァン僧院を始めいくつかの洞穴僧院を調査した。今回滞在したパロ/ティンプー地区には数千の寺院があり、山の斜面におびただしい数の懸造式洞穴僧院が残っている。これらは僧の生活空間であると同時に瞑想修行の場であり、インドで仏教が発生した当時の姿を彷彿とさせる。このブータンでの体験から、「チベット系仏教及び上座部仏教の洞穴僧院に関する比較研究」を構想し、平成25~27年度の新規科研費に採択された。12月にはトルコのカッパドキアでキリスト教の洞穴住居・洞穴僧院を調査した。文明の十字路と呼ばれる地域の洞穴住居・洞穴僧院と中国・インドのそれに系譜関係があるか否かは今後の課題と言えよう。
 9月末にはアジア石窟寺院研究会を主催し、雲岡石窟及び西インドの初期石窟に関して討論した。以上の成果を『聖なる巌-窟の建築化に関する比較研究-』という題目の報告書にまとめ刊行した。これが3冊めの科研報告書である。


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マニーさん修行記(Ⅱ)

報告書『聖なる巌』刊行!

 2010~2012年度科学研究費補助金基盤研究C「石窟寺院への憧憬-岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究」及び2012年度鳥取環境大学特別研究費助成「摩尼寺奥の院遺跡の文化資産保護と環境整備計画」の成果を複合した報告書をこのたび刊行しました。科研の成果報告としては、『大山・隠岐・三徳山』(2011)、『摩尼寺「奥の院」遺跡』(2012)に続く3冊めです。余談ではありますが、マニーさんが編集補助で大活躍してくれました。以下に目次を示します。


         聖なる巌(いわお)
   -窟(いわや)の建築化をめぐる比較研究-


 第1章 聖なる巌 -霊山の奥宮・奥の院と巨岩信仰 [浅川2012]
 第2章 山林寺院の研究動向 -建築史学の立場から [箱崎他2013]
 第3章 クチャの千仏洞を訪ねて -中国最古の石窟寺院 [眞田他2013]
 第4章 岩窟・岩陰型仏堂と木造建築の関係についての調査ノート [岡垣他2012]
 第5章 山中の仏教寺院 -西インドの石窟寺院を中心に [岡村2012]
 第6章 摩尼寺「奥の院」遺跡の文化資産保護と環境整備計画
  6-1 摩尼寺「奥の院」木彫仏の放射性炭素年代測定 [浅川他2013]
  6-2 山のジオパークにむけて(1)
     -摩尼山と摩尼寺「奥の院」遺跡 [浅川他2012]
  6-3 山のジオパークにむけて(2)
     -摩尼山を中核とする景勝地トライアングルの構想  [中島2013]

 附録: 建築考古学関係英語論文など

 1.Innermost Sanctum Ruins of Mani-temple -Excavation and Reconstruction Study
    [The 9th ISAIA, 2012:USB(6p)]
 2.Reconstruction of the largest building in Makimuku site-Applied study on building
   members excavated in Aoyakamijichi site (Ⅰ)  [The 8th ISAIA、2010:p.435-440]
 3.Reconstruction of large buildings and rectangle division in Makimuku site-Applied
   study on building members excavated in Aoyakamijichi site (Ⅱ)
   [The 8th ISAIA、2010:p.441-446]
 4.Reconstruction Study on the Shinato-shrine Building Remnants in the Ancient Times of
   Political System based on the Ritsuryo Codes -A Case study on Aoki Ruins in Izumo-  
   city-  [The 9th ISAIA、2012:USB(6p)]
 5.律令時代の神社遺跡に関する復元研究―出雲市青木遺跡のケーススタディ
    [檜尾2012; 附録4論文の日本語原本]
                      *裏ポケットに「摩尼寺奥の院ルートマップ」付


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第7回「めざせ、ブータン!」其弐

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激辛エマ・ダツィ (1)

 今回の活動で、私たち4班(2年女子5名)は、ブータン料理のレシピの情報を収集した。私たちはブータンの典型的な家庭料理であるエマ・ダツィ、赤米について調べた。というのも、先生が昨年の訪問でヤク牛のチーズ、赤唐辛子、赤米を仕入れて帰ってこられたからだ。なんでも、峠の出店で農民から直接買われたらしい。
 エマ・ダツィとはエマが赤唐辛子、ダツィがチーズを意味しており、唐辛子とチーズを煮込んだだけの料理である(上の2枚の写真は他のサイトから借用したものです)。これをベースに他の野菜や肉を入れたりする。たとえば、じゃがいも(ケワ)が中心になればケワ・ダツィ、きのこ(シャモ)が入ればシャモ・ダツィと呼ばれる。一般のブータン人は毎食エマ・ダツィでも飽きることがない。日本で言うとお味噌汁にあたるオカズである。
 先生が用意してくださったヤク牛のチーズはとても硬かった。まずチーズを溶かしてみようと思い、赤唐辛子を一つ洗って皿に入れ、その上にチーズを乗せ電子レンジで温めてみた。一分もしないうちにチーズは初めより膨らんだが、溶けるどころかカキモチのようになってしまった。本番では、日本のチーズで代用するしかないかもしれない(先生は水か湯で「戻す」方法を検討中)。


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 ところで、焼けた赤唐辛子の破片をプロ研メンバー数名が試食した。まず、先生。「あっ、辛ぁぁ~」と叫んで、教育研究棟の自動販売機までダッシュし、ペットボトル2本を飲んでもまだ「辛い、辛い」の連呼。続いて一年生有志も試食したが、ほぼ同じ反応でみな自動販売機へ。ところが、最後に洛陽出身の中国留学生Lくんがぱくりと食べて、「辛くないよ、ぜんぜん」というので、みんな仰天した・・・
 このように、ブータンの人は激辛の唐辛子料理が大好きで、毎食たべている。唐辛子は、日本では薬味の一種にすぎないが、ブータンでは野菜として扱われる。辛くなった長いピーマンと思えばいい。一般の家庭ではおかずは唐辛子料理1品だけのことも多く、これだけで主食のお米を大量に食べる。伝統的には赤米が食べられており、西岡京治の農業振興にともなって白米も普及した。しかし、今でもブータン人じゃ赤米を好んでいる。赤米のヌカの部分には赤色系色素(タンニン)を含んでおり、白米に比べたんぱく質や各種のビタミン・ミネラルが多く含まれているという。その赤米は日本の白米のようにしっとりしたものではなく、パサパサしている。


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第7回「めざせ、ブータン!」其壱

 5月23日(木)は講義室で活動しました。まず全員が2回めのアンケートに答えました。これまでの訪問地で印象に残った所、興味あるテーマ、発表希望、打ち上げの希望、ブータン調査の参加希望などについて全員が答えました。この回答に即して来週からグループを分けて活動していくそうです。
 この日の活動はブータンまでの格安航空券の確保とブータン料理の試作についてです。以下の4班に分かれて情報を集めました。

  1班(1年男子): 関空~バンコク~パロ(ブータン)往復の格安チケット情報
  2班(1年女子): 関空~シンガポール~パロ 往復の格安チケット情報
  3班(2年男子): 鳥取~東京~直行便~パロ 往復の格安チケット情報
  4班(2年女子): ブータンの伝統的料理のレシピ情報収集


【バンコク経由】 関空~パロ往復の運賃積算

 【9月8日(日)出国~18日(水)帰国】という設定で、関空~バンコク(タイ)~パロ(ブータン)往復の格安の経路について調べました。私たちの調べた経路の中で、現在(5月23日17時)最安の経路は以下のとおりです。往きの関空~バンコクまでは、中国東方航空便の9月8日16時50分関空発 MU748便で昆明空港へ、そこでMU2025便にトランジットしバンコクへ。バンコクからはKB141便に搭乗しゴハティ(イン ド)経由でパロ空港へ、という経路です。帰りは9月17日(火)10時50分パロ空港発のKB130便に搭乗しバグドグラ(インド)経由でバンコクへ。そこから翌18日午前1時20分発の中国東方航空のMU9854便に乗り換え上海へ。上海からMU9821便で関空に18時30分に着くという経路です。
 料金は関空~バンコク往復で一人49,960円。バンコク~パロ往復はブータンのツアー会社[KEYS TO BHUTAN]のプランで日本円にして一人約50,500円。フライト運賃の合計は100,460円になります。この結果はあくまでも5月23日現在のものですので、変わる可能性もあります。個人的には、もう少し安くなってほしいです。(環境学科1年K.K)


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【シンガポール経由】 関空~パロ往復の運賃積算

 5月23日(木)、5回に及ぶ屋外での活動を終え、いよいよブータンへの渡航方法、加えてブータン料理について4班に分かれて調べました。私たち2班(1年女子)は関空~シンガポール~パロの往復格安チケットの情報を収集しました。作業は想像以上に難しく、かなり苦戦しました。よく利用されているというスカイゲート社でもシンガポールまで往復で70,570円もかかります。先生曰く、ブータンでの宿泊費用だけでも10万を超えるためこの価格はかなり厳しいです。私は今日のアンケートで予算の上限を10~15万と書いていましたが、正直、舐めていました。反省。今回調べた中で、一番値段が低かったのは中国国際航空でシンガポールまで往復47.760円でした。やはり、北京経由で行くと価格は安くなるようです。シンガポールからパロへ飛ぶ便がなかなか見つからず、Drukairのホームページも調べてみましたが、残念ながら目ぼしい情報は入手できませんでした。関空~バンコク~パロの格安チケットを調べていた1班によると、一番安かったのは中国東方航空で、53.000円だそうです。
 「案外シンガポールの方が安いかもしれないなあ」と先生はおっしゃっていました。なので、もう少し調べてみればもっと良い価格のチケットを見つけることができるかもしれません。ブータンに向けて、「上手なチケットの取り方」を身につけたいです。
 余談ですが、昨年先生がブータンで購入した赤唐辛子を実食しました。とにかく辛い!
 あまりの辛さに咽ました。水を飲んでもしばらくの間は口の中がヒリヒリして痛かったです。これを日常食としているブータンの人達は凄いですね。(環境学科1年K.F)


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猫の寝言(Ⅳ)

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四月のさつき

 18日の午後6時を過ぎたころだったでしょうか、ついにブリーダーさんがカフェ黒田に到着しました。待ちに待った子猫ちゃんの登場です。そのときみんなでカレーをいただいていました。だから、子猫は食卓に近づけません。しばらくブリーダーさんとそのお友達たちがさっちゃんのお相手をされていました。いちどわたしが抱きにいったのですが、恥ずかしながら、抱き方がそれほど上手いわけでもなく、カレーが冷めてしまってもいけないので、さっちゃんを預けて席に戻ったしだいです。


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 珈琲を飲み終えたころ、ついにさっちゃんがテーブルにやってきました。最初は卓の床下をうろちょろしていて、どういうわけか野郎の靴下にすりよってくる。こいつぁ不味い、てことで、テーブルに上がってもらいました。長いテーブルクロスが赤いランウェイとなって、モデルのキャットウォークにフラッシュの嵐!
 ちょこまかちょこまかよく動いてくれました。そのあいだ閃光はとめどなく、「可愛いねぇ」の猫なで声が50回以上こだましました。その後、ちょっと疲れたみたいで、ブリーだ-さんのまいかけポッケにすっぽり納まっちゃった。


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↑体の両側にニコニコマークの毛並み文様あり


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民家と民芸をあるく

福田家住宅1 0517福田家02


福田家住宅の大壁と真壁

 こんにちは、前回は残念ながらハンドルネームが決まっていなかったので、改めて、ハンドルネーム「たく庵」と名乗らせていただきます(元は匠2号)。
 18日のゼミでは、N研究室(構造系)と合同で、福田家住宅を訪れました。福田家住宅は鳥取環境大学から比較的近い紙子谷(かごだに)という集落にある重要文化財の古民家です。
 この日いちばんのテーマは「木舞壁」でした。大学から福田家までの途中に土蔵を伴う木造の住宅があり、土蔵の「大壁」と主屋の「真壁」の違いについて学びました。そうこうしているうちに、茅葺き屋根に覆われた福田家住宅に到着。現在、福田家は屋根葺き替えの最中であり、ご家族の事情もあって内部には入れませんでしたが、先生は二つの研究室の学生に福田家の「壁」をみせておきたかったようです。
 福田家住宅は1650年前後に建てられた古民家です。江戸時代に村役人を勤めた旧家で、千点前後の文書が残っています。主屋は西に面しており、桁行17.8m×梁間9.8mの茅葺き入母屋造平入の構造形式をしています。鳥取県下に広く分布するヒロマ型三間取り農家のうち最も古い例で、因幡地方の民家の伝統を伝える貴重な遺構とされます。

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 まず住宅を囲む土塀の真壁について教えられました。柱や貫に木舞となる細竹・割竹を絡め土を塗る小舞壁ですが、真壁の場合、壁は柱の一辺よりも薄く、柱形と壁の両方を確認できます(↑)。一方、主屋の壁は大壁になっています。構造で庭の塀は真壁構造に分かれています。大壁とは、壁は柱の一辺よりも厚く、柱形がみえないか、みえにくい木舞壁でして(↓)、土蔵には当たり前のように使われますが、住宅に使う例は少なく、建築の古い中世的?な要素を示すものだと言われているそうです。このほか福田家住宅には、江戸時代初期以前の様式として注目される要素があります。たとえば、以下の2点です。

  1)部材に台ガンナを使わず、チョウナ仕上げとする。
  2)本来の小屋組にサスを使わず、オダチ(棟束)組とする。
   【今はサス組に変わっているが、梁中央に棟束を落としこむホゾ穴の痕跡が残っている】


福田家住宅2


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第6回「めざせ、ブータン!」其弐

0516マニ001犬 ←龍之介と遊ぶ


ルートマップ追加

 5月16日(木)、摩尼山に登りました。車で移動中降っていた雨も門前に着くころにはやみ、登山前に門脇茶屋喫茶部で可愛い柴犬と黒猫、元気なご夫婦に出迎えられました。先生が挨拶すると、「センセ、ルートマップがなくなったでぇ」と奥様がおっしゃいます。先生はちゃんと追加のルートマップを用意されていて、喫茶部と二軒の茶屋に一束ずつ追加分を渡されました。最近ルートマップを手に「奥の院」まで上るお客さまが増えたそうです。環境大学の活動が少しずつ摩尼山と門前を活性化の方向に導いているのかもしれません。余談ですが、精進料理のお茶屋は、まるで「千と千尋の神隠し」の屋台のような店が並んでいて、とても落ち着く、雰囲気の良い場所でした。
 犬たちと別れて山を登り始めました。山道は舗装のない野径で、いきなり一本丸太橋を渡るなど、なかなか足場の良くない状態でひたすら歩き続けました。道中、先輩たちが制作したサインボードがあり、案内の指示に従って山道を歩きました。サインボードがないころは、道に迷う人も少なくなかったそうです。


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 門前と「奥の院」遺跡の中間あたりの路上に「門跡」と推定されている石敷がありました。先生によると、山の斜面に平場があり平らな石が敷かれている場合、かつてそこに建物が建っていた可能性があるそうです。門跡もたしかにそうなっていました。
 半時間ほど山道を歩き、摩尼寺「奥の院」遺跡に到着しました。そこには巨巌がそびえ立っています。とても立派な大きな岩で、すごいとしか言いようがありません。また、巨巌の下の平場を2009年に発見したとき、先生はただちに建物跡だと直感したそうです。2010年には大学院生を中心に発掘調査をおこなって復元研究に取り組み、その成果がルートマップに掲載されています。


めざせ!ブータン(6回目)13 0516マニ003ツリーハウス
↑(左)椎茸原木栽培 (右)ツリーハウスも健在


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第6回「めざせ、ブータン!」其壱

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仮想タクツァン僧院 -摩尼寺「奥の院」遺跡

 2013年5月16日(木)、天候はくもり。私たちはブータンとの関連性を求めて摩尼寺「奥の院」遺跡を訪れた。登山路でみつけた「奥の院」への案内板は、昨年、環境大学生が廃材を利用して作ったものである。「奥の院」遺跡の訪問者は山で道に迷うことが多かったが、ルートマップとこの案内板があれば、道を間違えることはないだろう。登山を開始してまもなく、大量の倒木を道の両脇に発見した。大雪によって倒れてしまったスギである。摩尼山は積雪150㎝以上になる豪雪地帯だという。少しばかり積もった雪で普段の生活に支障が出る私には想像ができない。中国自然歩道に倒れ込んだ樹木は国や県が除去してくれるが、摩尼寺所有地にある道の倒木は放置されるので、昨年は環境大学の学生が除去したのだという。


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 「奥の院」まであと690mのサインボードの横に「慈覚大師創建」伝承を説明する案内板がある(↑)。慈覚大師とは伝教大師最澄の弟子、円仁のことである。先生によると、円仁創建伝承のある寺院は全国で600以上に及ぶという。しかし、その大半は江戸時代の縁起書の記載であり、後世の附会(書き足し)であって史実を物語るものではないらしい。先生たちの発掘調査によると、「奥の院」境内の造成は10世紀後半以降のもので、円仁の生存期(9世紀)より100年ばかり送れるというから、摩尼寺においても円仁創建伝承の信頼性は高くないようだ。
 慈覚大師の案内板から少し上がったところに石敷がある。山道なので石があるのは当たり前なのかもしれないが、落ちている石とは違って、表面が平べったい。こういう平らな石の上には柱がのった可能性が高く、先生は『因幡民談記』にみえる門の跡ではないか、と説明された。


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 険しい坂道を登りたどり着いたのは巨巌の袂の大きな平場である。この一郭こそ、18世紀前期まで摩尼寺の境内があった摩尼寺「奥の院」遺跡だ。平場の縁にはツリーハウスと椎茸原木栽培の棚があった。これもまた環境大学生が作ったものである。来春には大きな椎茸が収穫できるかもしれない。この場所でなにより目を引きつけるのは巨巌である。山の斜面に巨巌、地面には平べったい石。平べったい石が規則正しく並んでいるということは、ここにも建物の柱か壁のようなものがあったのだろう。そして、巨巌は人為的に堀削され、凹凸の激しい形状をしている。岩窟、岩陰には千手観音、地蔵菩薩などの仏像や五輪塔が祀られている。これまでの研究成果によると、この場所には2棟の楼閣式仏堂があったと推定されている。『因幡民談記』(1688)が描くように、手前は平場の上、奥側は巨巌に張り付くように建てられていた可能性が高いという。2010年に環境大学が巨巌正面の平場を発掘調査したところ、下層で平安時代後半以降、上層で室町時代後期~江戸時代前期の遺構がみつかった。上層の建物跡は『因幡民談記』に描かれた手前側の楼閣式仏堂とみなされる。
 巨巌の説明を聞いた後、私たちは遺跡の清掃活動をおこなった。昨年まで毎週上って活動した摩尼山なのだが、先生は今年最初の登山であり、もっと草ぼうぼうになっていると想像されていたらしい。しかし、雑草は少なかった。男子学生は放置された枯木の移動、女子学生は除草作業に勤しんだ。20分ばかりでいずれの作業も完了した。短時間の草取りだったが、「数は力」で、遺跡はそれなりに綺麗になったと思う。


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尾崎家住宅建造物、重要文化財に!

2013年5月18日毎日新聞(22面) 毎日新聞5月18日(22面)


 一昨日、大々的に報じられたとおり、尾崎家住宅建造物の重要文化財指定が確実になりました。思い起こせば、ミヤモトの第1回調査が2005年10月、2006年度にホカノやキタノさんが本調査をおこなって、報告書を刊行したのが2007年11月、2011年1月に県指定保護文化財となり、このたびようやく国の重要文化財の答申がなされる。あしかけ8年か。
 これで、なんとか先代御当主の御恩に報いることができたかもしれません。尾崎家の皆様及び関係者ご一同に深く感謝申し上げます。新聞記事にもあるように、尾崎家では現在、重文指定に伴う公開を検討されています。10日ばかり前、尾崎家を訪ねたのはその打ち合わせのためでした。幸い、今年はゼミ学生が例年より多いので、研究室をあげて支援させていただきます。
 草むしりでもなんでもやります。一般公開を成功させましょう。


読売IMG圧縮02 2013年5月18日山陰中央新報(27面) 2013年5月18日日本海新聞(23面) 2013年5月18日アサヒ新聞
(左から)読売新聞、山陰中央新報、日本海新聞、朝日新聞の記事


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サテンドール(ⅩⅥ)余話

ロゴス食堂

 
 サテンドールは、私が知らないだけで、鳥取ではとても有名なレストランなんですね。一昨日の記事にコメントをいただいたり、メールで「行かれたのですね」という報せが届いたりしております。
 いま子猫の仲介役をお願いしているサテンドールの常連さんからは、こんなお知らせをいただきましたよ。

   以前は鳥取市内に出店されていました。
   (今は、駅前にあった「ビリーブ」さんが入っている建物でした)。
   こちらのシェフのお祖父さんは、帝国ホテルのコックを務めた後、鳥取市の「ロゴス食堂」
   でフレンチを提供されていた方です。ロゴス食堂は、「鳥取の丸善」のような役割を果たし
   ていた山本尚文館の経営者、山本鉄太郎が若桜街道に出していたレストランで、昭和初期
   には、与謝野晶子の歓迎会とか尾崎翠の出版記念会とかが開かれるなどの名店でした。
   鉄太郎は、建築家の山本浩三氏のお父さんだったかお祖父さんだったと思います。
   柳宗悦には疎まれていた節もありますが、銀座の「たくみ工芸店」の経営にも参画しています。
   という鳥取の近代史の一コマとかかわるお店として、また、ちゃんとした料理を出される
   お店として愛用していたのですが、数年前に今のお店に移転されました。
   それからも、年に1回くらいはお邪魔しています。

 
001サテンドール看板


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サテンドール(ⅩⅥ)-2

10サテンドール09大山 


続・サテンドール

 バラードを1曲弾き終えて席に戻る途中、マダムが「ジャズですか」と問う。
  
  「いえ、ビートルズ・・・」
  「それは分かってますけど・・・(アレンジが)?」

 恥ずかしながら、パット・メセニーのコピーでしてね。耳コピというよりも、youtubeコピだね。タブの類はいっさい使ってません。とても弾きやすいアーチトップだ。なんでも、ハワイアンをやっていた友人から譲りうけたギターだという。ヘッドに Kay の3文字がみえる。いま調べてみたところ、日本エレクトロ・ハーモニックス株式会社の制作するエレキギターで、1950~60年代のロックバンドで多用されていたようである。ところが、手にしたギターにはピックアップがついていない。今まさに、マスター自らピックアップを制作し、ボディにくっつけようとしているところらしい。


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 前菜を食べ始めると、今度はステージの前にマスターがやってきた。話が弾む。「マスターもどうぞ1曲」とお薦めすると、待ってましたとばかり、アコギをとってマイクの前に坐り、2曲続けて弾き語りしてくれた。すごい声量をしている。ポール・アンカのクラシックなロカビリーを見事に歌いきった。ギターは始めてまだ数年なんだそうだが、弾き語りの伴奏としては十分な力量をもっている。
 2曲を歌い終えたマスターは厨房に戻り、しばらくして私のニジマスがムニエルになって食卓にあらわれた。とても美味しい。体にやさしい味がする。生まれてきてよかった。学生にも食べさせてあげたい・・・が、少々値が張る。学生向けバージョンを用意してくれませんか、と頼むと、「相談に応じます」とのこと。「ここをギター仲間の集まりに使わせていただけますか、貸し切りなら高いでしょうが」という問いにも、「相談に応じます」。


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サテンドール(ⅩⅥ)-1

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サテンドール
 
 山陰ギターオフ会を終え、車に乗ってカーナビの「自宅に帰る」ボタンを押す。さて、GPSはどの道を選ぶか。そのナヴィゲーションに従ってハンドルを切っていると、1時間ばかりして関金に辿り着いた。時刻は6時。夕飯の時間だな。そういえば、1年前初めて西谷新田のパン工房アイを訪れた際、壁に貼り付くチラシをみて、関金に「サテンドール」という名のレストランがあることを知った。「サテンドール」シリーズを連載する身としては一度訪ねてみなきゃいけないと思っていたんだ。このさい行ってみよう。旧役場の駐車場に車を停めて104に電話し番号を聞く。0858-45-1603。週末の夕刻、サテンドールはもちろん店を開けていた。


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 鏡ヶ成に向かう田舎の道沿いにレストランは建っていた。あとで分かったことだが、この2階建RCビルも旧役所関係の施設だったという。市町村合併後、そのビルがフランス料理の店に生まれ変わったのだ。フランスには一度しか行ったことがないけれど、入店すると、フランスの匂いがする(ように感じる)。店内に、客は一人も居なかった。おまけにステージがある。そこにギターが2本。1本はアコギで、もう1本はアーチトップだ。
 メニューをみて地産ニジマスのムニエルを注文し、ただちにマダムに訊ねる。

  「ギター、触らせてもらっていいですか?」

 マダムはマスターにお伺いを立て、了承を得た。さっそくアーチトップを手にとってウォーミングアップの後、「アンド・アイ・ラブ・ハー」を弾く。こういうことやると、たいてい嫌がられるものだが、今回はどうもそのような気配がない。マダムだけでなく、厨房のマスターまでフロアに出て来て演奏を聴いている。有り難いことだが、私のニジマスはどうなっているのだろう? (続)


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↑(左)ナッシュビル (右)ケイ

山陰ギターオフ@赤碕

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いつのまにか、iPad

 六弦倶楽部が開催されないまま半年が杉田二郎。そのあいだ、老人ホームの慰問演奏を始めるべく準備しつつあったが、ノロウィルスと悪性インフルエンザの蔓延で頓挫した状態になっているのは既報のとおりです。このたび赤碕で久々に山陰ギターオフ会が開催され、PA音痴を脱したいという想いから参加してきました。六弦倶楽部の練習会は発表会に近いものですが、オフ会はむしろマニアックな雑談を楽しむ井戸端会議のような集まりです。演奏する者をほぼ無視してギターやPAに関する知識の交換に没頭し、その一方で、演奏者はギターとPAとの相性を確認しつつ雑談者の邪魔にならない曲をさらりと弾く技量が要求される・・・わけでもないか。
 最初、黒本の見開きコピーで練習している「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」と「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」をウォームアップで弾いてみたところ、「ジャズはやっぱり夜の音楽ですねぇ」とのコメントあり。サニーサイドでも夜なんか。一休みしてから、mifuさんの鉄弦アコギを拝借して、「アンド・アイ・ラブ・ハー」「木蓮の涙」「サンデーモーニング・オーヴァーキャスト」を続けて弾いた。気持ちよい。


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 ともかく、この日は機材の写真を撮影し、情報を集めるのに集中しました。私の場合、基本的に一人の演奏もしくは弾き語りなので、必要な器材はアンプとマイクとマイクスタンドだけでよいそうです。ミキサーやエフェクターは要らないだろうとのこと。そのアンプについては、写真にみえるローランド(↑右)がお薦めだが、やや重くてかさばるので、小型のアレシス(↑左)を使う手もある。ただ、値段からみると両者大差なく、その点ではローランドに分があるかもしれない。なるほど。


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↑↓ミキサーとエフェクター
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八幡神社(米子)の建築年代

0511八幡神社03拝殿本殿全景01 0511八幡神社02本殿側面01


 注意深い読者ならすでにお気づきのことと思うが、4月26日に「建築彫刻の見方」と題するコメントが入っている。コメントされた記事は2012年6月14日の「米子の八幡神社を訪ねて」で、執筆は白帯が担当した。昨年、米子の環境大学西部サテライトでの公開講座の後、白帯が単独で訪問しレポートしたものであり、もちろん私の校閲を経て公表している。ただし、わたし自身は八幡神社を訪問したことがなかったので、このたび別件で米子に宿泊する機会を利用して自ら社殿を視察した。ここに感想を記す。まずコメントを転載しておこう。

   建築彫刻の見方 (by neko8)
   米子八幡神社の建築年代は、本殿は天保12のもので、彫刻のそれに類する。
   が、拝殿は、時代がグーと古く、特に彫刻類は、その建物よりも更に古い。
   というのも、はめ込み式の蛙又が使われており、その年代が室町期のもの、
   安土桃山期を下るものでは無い。---国の技官の調査報告。
   かっては、朱塗りの社殿の可能性がある。最近、戦国期の棟札も発見された。
   -------コメント【筆者注:ブログの文章】の訂正をお願いします。

0511八幡神社05案内板 上のコメントにリプライする前に、米子市制作の案内板の記載にも触れておかなければならない。左のサムネイル写真をクリックしていただけば全文を判読できるが、社殿の建築様式に係わる説明は以下のようになっている。

   社殿の建築様式は室町時代、安土桃山時代の両様式にわたっていることが、
   「本殿の彫刻」や「蛙股」などから推定され、神仏混淆による独特の八幡造り
   である。

 この説明には初歩的な誤りがある。米子の八幡神社はいわゆる「八幡造」ではない。以下に正しい構造形式を示す。

  本殿: 流造(たぶん3間社)銅板葺
  拝殿: 入母屋造千鳥破風付 平入 向拝1間切妻造妻入軒唐破風付 銅板葺

 本殿の細部様式、とくに虹梁絵様はあきらかに幕末~明治初期の意匠を示しており、天保12年(1841)の上棟とみてまず間違いない。白帯は誤った見方をしていない。


0511八幡神社02本殿側面02細部

0511八幡神社02本殿側面04妻飾 0511八幡神社02本殿側面03


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子守神社(青谷八葉寺)

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子守の謎 -八葉寺との関係

 こんにちは。2年後期に引き続きASALABの配属になりました。ハンドルネームは「C.O」改め「セツ」とします。よろしくお願いします。
 5月10日のゼミでは、鳥取市青谷町八葉寺(はっしょうじ)の子守(こもり)神社を訪ねました。ブログの担当者が見学前日に訪問先の資料を作成することになっているのですが、子守神社に関する情報があまりなく、資料作成に骨を折りました。実際に行ってみると、鳥居から視野に納まる岩崖は異常に迫力があり、吸い込まれてしまうような錯覚を覚えました。 鳥居のすぐ後ろには大イチョウの木があり、神社後方には幅約100m、高さ約30mの岩窟があって、この2つは鳥取市の天然記念物に指定されています。


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 子守神社は、鳥居からみて左手に古社の本殿と拝殿、中央に小さな権現社、向かって右にやや大きな摂社が高大な石垣上の平場に並列しています。いわゆる岩陰型の社殿であり、玄武岩?の山肌をえぐるように形成されたくぼみの中に社殿が納まっています。『青谷町誌』によると、「子守大明神」は鎌倉時代の初期(1262年)に大己牟遅命(おおなむちのみこと=大国主命?)を祭神として八葉寺東村に勧請と伝えられ、明治元年、現社地に奉還し、熊野権現、稲生(いなり)大明神、字大井手鎮座祭神大山祇命の山の神を合祀して、社号を「子守神社」と改称したそうです。


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 子守大明神の本殿は一間社流造で、木鼻や虹梁に絵様がなく、先生はとても不思議がられていましたが、会長さんが基壇石の側面に「大正11年」の刻字を発見され、近代の造替であることが判明しました。石段を上がった正面に小さな権現社があります。450年ほど前に地区の人が紀州の熊野大社から「分身」を授かって持ち帰り建立したと伝えられる高さ80センチ、幅60センチほどの社です。切妻造妻入の板葺き屋根で、正面に原始的な鳥居がおかれ、鰐口が吊るされています。男子学生たちは少し性的な風情?を感じ取っているようでした。


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 向かって右側の摂社は、『青谷町誌』にいう稲生大明神と思われます。切妻造妻入で、向拝は切妻造軒唐破風付になっています。かなり珍しい形式ではないかということです。本殿と全く異なり、木鼻や虹梁などに獏・獅子・龍など多くの彫刻が溢れています。また、虹梁の絵様は、渦の線が細くて円弧を描いており、彫刻の摩耗の激しさなどを考慮すると、18世紀の中期かそれ以前の建築ではないか、と先生は仰っていました。ちなみに、この社には左目のない龍神伝説が伝わっており、向拝妻飾りとしてその竜神が彫られています。気になったのは軒の傷みです。軒背面の垂木はすでに湿気で腐り折れてしまっています。早急の修理が必要だろうと思いました。


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第5回「めざせ、ブータン!」其弐

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とんぼの見える家

 5月9日(木)、ぼくたちは鳥取市智頭町にある西谷新田を訪ねました。昨日の報告にもあるように、西谷新田は集落全体をNPO法人化している数少ない自治体です。新田地区は、澄んだ空気と清らかな水、そして町の93%が森林という非常に豊かな環境に恵まれた地域です。ここでは「都市と農村の交流」がキーワードとなっており過疎化が心配される中、さびれていく村をどうにか復活させようという村の人たちによる絶え間ない努力が日々なされています。例えば、農業体験などの交流事業を進めると同時に「人形浄瑠璃の館(清流の里)」、ロッジ「とんぼの見える家」を経営しています。さらにこの村では5ヵ年計画を継続させて4期が過ぎようとしています。平成5~10年の第1次計画では、ハード面の充実化を図るべく上のような施設を作り多くの人を迎えれるようにしました。第2次計画では、ソフト面の充実化を図るべく、講演会をおこなったり、子どもたちに気軽にこの村を訪れるようなイベントを企画しました。第3次計画では「合併」をテーマに村の活性化を検討した結果、大きくなった自治体では、末端まで配慮が行き届かず、細かい土木工事こ(水路の修復など)が後回しにされるというデメリットが発生したので、「自分のことは自分でやる」という発想をもつようになったそうです。そして平成20~25年の第4次計画では、高齢者対策に力をいれており、福祉施設を設けることで高齢者の介護をしつつ若い世代の介護士を雇用し、介護・雇用の一石二鳥の効果を期待しいます。

 西谷新田は他県から移住者を迎える過疎地として脚光をあびています。昨日紹介されたパン屋さん、茅葺き民家の居住者さんがその一例ですが、3棟のログハウスで構成される「とんぼの見える家」には、北海道の北見市、広島県の福山市、東京都の調布市から移住者は暮らしておられます。西谷新田のみなさんが自分たちの村をよりよくするために一生懸命努力している姿はとても素敵だなあと思いました。


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西岡京治のこと

 先週今週と続けて「棚田」をみました。同級生たちが作成した配付資料にはネパール、中国雲南、フィリピンなどの広大な棚田の写真が掲載されたいました。ブータンもまた見事な棚田があるそうです。その棚田の関係深い日本人が西岡京治(にしおかけいじ)さんです。
 西岡さんは、坂谷神社で話題になった照葉樹林文化の提唱者、中尾佐助さんの弟子にあたる方で、1962年に中尾さんを隊長とする大阪府立大学東北ネパール学術探検隊に副隊長として参加されました。64年から、海外技術協力事業団(JICA=現在の国際協力機構)の農業指導者として夫人とともにブータンに赴任し、以後28年間、白米などの穀物・野菜の栽培および品種改良、荒地の開墾などに尽力されました。1980年には、ワンチュク国王から、民間人に贈られる最高の爵位ダショーを授かりました。外国人では初の受爵者であり、今なおダショーの爵位を得た外国人はいません。
 1992年、ブータンで亡くなり(享年59歳)、国葬が執り行われ、パロ盆地が見渡せる丘陵上に埋葬されました。いま、そこに西岡京治記念チョルテン(ストゥーパ)が建っています。西岡さんの在ブータン28年の生きざまは、西谷新田20年のNPO法人活動とどこか共鳴しあうところがあるように思えてなりませんでした。(経営学科1年K.Y)


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第5回「めざせ、ブータン!」其壱

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集落型NPO法人 西谷新田

 5月9日(木)。私たちは今回、智頭町の西谷新田を訪ねた。山間部にひっそりとたたずむこの集落は、全国初の集落型NPO法人という一風変わった場所である。なぜ集落をNPO法人化しなければならないのかは後に説明するとして、私たちはまず、「清流の里 新田」に足を踏み入れた。そこで出迎えていただいたのが、この集落型NPOの理事の一人、Oさんである。Oさんは新田の活性化のため、日々村づくりに尽力なさっている。と言うのも、新田は高齢化・過疎化が非常に進んでおり、村の人口が50人ばかりまで減っているからだ。村づくりの活動の一つとして、「都市と農村の交流」プログラムが進められている。都市居住者が農業体験できるプログラムだ。それは、大阪いずみ市民生活協同組合(大阪府堺市)との出会いが発端である。当時、組合員向けの保養地を探していた生協の方は「芋堀りや田植え、稲刈り等の農業体験をしたい」という相談を智頭町に持ちかけた。そこで白羽の矢が立ったのが西谷新田である。1991年のことだった。これを機会に1991 年から都市部の消費者をターゲットにした、体験型交流事業の集落活性化の取り組みが始まった。


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 その他にも、かつての村を賑わいを取り戻すため、4次にわたる総合計画を打ち出した。第1次で施設(ハード)面の充実、第2次でソフト(教養講座等)の向上を目指し、第3次で「小さな自治体」構想を計画。そして第4次で事業の拡大により雇用の場の創出を打ち出した。なかなかうまくはいかなかったそうだが、私は非常に画期的な計画であると感じた。そして、都市との交流を進めて行くための体制として1991 年に立ち上げていた「新田集落振興協議会」を、1998年に「新田むらづくり運営委員会」に組織改変した。さらに、2000 年にはNPO法人格を取得し、NPO法人「新田むらづくり運営委員会」とした。これが集落をNPO法人化した理由である。すべて村の活性化のためであったのだ。ここでブータンと関連付けてみる。ブータンも時代と共に人口が農村部から都市部に流れ、山間部では過疎化が進んでいるという。ブータンでも過疎に対する対策が必要であり、実際、先生はパロからの帰国便で日本の過疎問題調査隊と相席になったそうだ。


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 他にもブータンと共通するものがある。ずばり棚田である。清流の館でOさんと別れた私たちは、棚田などの景観をみるため、村の中を散策した。一面にひろがる棚田はとても美しい。とくに、石垣で作られた畦畔(けいはん=あぜ)が際立っている。傾斜の緩い土地に作られる棚田の畦畔は土で固められるだけだが、傾斜の強い棚田では石垣で固めるようだ。前回訪れた「舂米(つくよね)の棚田」にも石垣があったため記憶に新しい。石垣が水田に映えていた。前回、今回の棚田見学のいずれにおいても、先生はブータンで28年間農業指導した西岡京治さんを話題にされたが、西岡さんのことについては、明日の1年生に任せたい。
 村の中の道沿いには茅葺きの屋根の家々があった。昔はすべての民家が茅葺き屋根の家だったらしいが、現在では茅を覆う鉄板を被せたり、2階を立ち上げて瓦葺きにする例が増えている。茅の露出している家は2棟しかないが、使われなくなった茅葺き民家の保存を目的として、Iターン移住者の方が借家するという取り組みをしている。



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Times They are a-Changin

 庄屋に日野川大ナマズの刺身はやはりなかった。唐揚げはあるが、刺身がない。ナマズの刺身がない庄屋は普通の居酒屋だね。日野川の大ナマズの刺身は美味かった、という話をすると、タクヲの奥さんは怪訝な顔をした。本当に美味かったんだ。このサイトの映像をみてくださいよ。
 いま検索してみると、2011年2月に「ナマズの消えた庄屋」という記事をアップしている。
 時代は変わる。





Please its Urgent

送信者: "S**** F***"
宛先 : undisclosed-recipients:
件名 : Please its Urgent..........S**** F***
日時 : 2013年5月7日 9:28

 I really hope you get this fast, am really in big problem and need your help, my family and I didnt inform everybody about our trip to Scotland UK and really it was unannounced, but unfortunately things went bad when we were robbed last night of all our cash and cell phones and I sustained some cuts on my leg which I am currently treating at a local clinic.
 We've reported the incident to the embassy but their response was just too casual, my problem is our return flight leaves in few hours, but I am out of cash to settle our hotel bills, Please I need your help with some money, I promise to repay you immediately i get home. All i need is $1500. let me know if you can help me out ?
We are running out of time.  

S**** F***
--

 ご理解いただけますでしょうか。内密でスコットランドに家族旅行しているんだけど、泥棒にあって有り金すべてと携帯電話を盗られた。足に切り傷もある。大使館に届け出したんだが、冷淡にあしらわれた。帰国のフライトが2~3時間後に迫っている。1500ドル必要なんだ。助けてくれるかどうか知らせてほしい。


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猫の寝言(Ⅲ)

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 子猫ちゃんの写真が送られてきました。5月2日の誕生で、撮影は7日です。さっそく家族全員に転送。
 めちゃくちゃ可愛いね。それに、毛並みがデブによく似ている。きっと生まれ変わりだ。
 「名前を早くつけて欲しい」という依頼がありましてね。親許にいる間に名前で呼ぶようにして、うちで引き取ってから懐きやすいようにするためだそうです。

 うちは一家をあげて浅田真央のファンだから「マオ」はどうかな、と提案すると、どうしたことか全員が「えぇぇ」という拒否反応を示した。そういえば、本学にはマオなる男性教員もいるな・・・ちょっとヤニくさいか。
 あっ、そうだ、「マニーちゃん」はどうかな?
 家族はさらにヤな顔をした。娘が「五月だから さつき にしよう」と提案。
 「メイでもいいぞ。さつきだと、愛称は、さっちゃん だな?」と私は答える。

 待てまて、最近、姓名判断に凝っているんだ。ネット上の字画占いで調べてみよう。すると、「浅川さつき」は大吉でありました。これで、決まり。

  本名は さつき、愛称 さっちゃん です。
 
 よろしくお願いします。
 いつ会えるかな。すぐ大きくなっちゃうからな。なんとか来週には面会したいものです。


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ホカノさん来鳥講義(Ⅰ)

ハンディ指導岡野6


ハンディトータルステーションを学ぶ

 ゴールデンウィークの後半、東京からASALAB卒業生のホカノさんが来学され、ハンディトータルステーションの操作方法をご教示いただきました。今夏、ブータン高山の絶壁に建つ懸造(かけづくり)の洞穴僧院郡を測量することになっていますが、GPS付デジカメとトータルステーション(TS)の併用を予定しています。一般的な大型のTSならば、なんとか操作できるのですが、ブータンに持ち込むのは不可能と思われ、ハロン湾水上集落の測量で大活躍したハンディトータルステーション(HTS)を携行しようと考えています。HTSについても、自分で操作方法を調べるべきなのですが、説明書は英語で書いてあるし、ネットにも詳細な使い方が載っていません。そこで先生がホカノさんに電話でお願いしたところ、快くレクチュアを引き受けてくださいました。英語の苦手なぼくにとっては、まことにありがたいかぎりです。ただ、連休なので、ゼミの大半のメンバーは帰省してしまっていて、今回は鳥取市在住のヤマガくんと二人で指導を受けました。


ハンディ指導岡野3 ハンディ指導岡野2

ハンディ指導岡野1


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アップルミント

 GWも終わってしまいましたね。

 連休と言えば、苗を30株ばかり買い込んで、園芸農耕に勤しむのが慣習になってましたが、今年は3月末から暖かく例年より2週間ばかり早く苗植えを始めたばかりに、枯れた苗の植え替えをのぞいて仕事がなくなり、一部の苗はすでによく育って収穫にさえ至っております。
 ルッコラはもう食べました。ハーブ類は毎日葉っぱを摘んでおります。ミントに新種あり。スペアミント、ペパーミント、レモンミントに加え、アップルミントを初めて育てているんですが、この葉はたしかにほのかにリンゴの味がする。鼻をとおるミントの爽やかさとリンゴ風の甘みが複雑なハーモニーを奏でています。いつものように、出がらしの紅茶に入れて一晩おくと、まろやかなアイスティーになります。
 リンゴ・スターのアップルミント・・・


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3年前に植えたテッセンが今年もまた大輪の花を咲かせた。テッセンは我が家にふさわしい花なんです。

マニーさん修行記(Ⅰ)

マニーさん02圧縮

 摩尼山を徘徊する謎の修験者マニーさんがGWに一働きしてくれました。以下のページを作ってくれたんです。

   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%B7%9D%E6%BB%8B%E7%94%B7

 項目羅列的な味気ないページですが、どうやら余計なことは書けないようです。趣味やら学風やら書いてしまうと、

  「この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、
   ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報
   に基づいた論争の材料は、すぐに除去する必要があります。」

という警告がたちまち画面にあらわれ、何度も修正・注釈を余儀なくされるのですが、なかなか承認を得るのが難しく、最終的に落ち着いたのが上のページだとのことです。
 ついでに、以下のサイトまで書き直してくれました。書籍情報のページなので、たしかに報告書一覧を掲載するのがふさわしいでしょうね。「子猫探し」の広告も出していましたが、アメリカン・ショートヘアーの赤ちゃんが生まれてしまった今となっては不要ですしね。
 マニーさん、お疲れ様でした。

   http://www.amazon.co.jp/-/e/B00CHP05GA

第4回「めざせ、ブータン!」其弐

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懸造とブータン

 不動院岩屋堂は昭和28年(1953)、鳥取県内では数少ない中世の寺院建築であることから重要文化財に指定された。不動院岩屋堂へ行く手前には欄干付きの真っ赤な橋があり、「千と千尋の神隠し」にでてくる橋、息をしてはいけない橋のようだった(↑)。
 その橋を渡ると岩山のむこうの岩窟に不動院岩屋堂がすっぽりと納まってみえた。不動院岩屋堂のいちばんの特徴は、岩窟から迫り出すように建つ「懸造(かけづくり)」の構法である。懸造といえば、京都の清水寺本堂が有名だが、清水寺のまわりには岩山も岩窟もない。岩窟と複合するところが山陰の懸造仏堂の特色だと先生は説明された。
 私たちのプロジェクト研究のテーマは「めざせ、ブータン!」である。なぜ不動院岩屋堂を訪れたかというと、ブータンの高山の崖にはおびただしい数の洞穴僧院があって、それがすべて懸造になっているからだという。ただし、日本の場合、不動院岩屋堂のように仏像を祀る本堂であるのに対して、ブータンの洞穴僧院は文字通り「僧の住まい」であり、瞑想修行の場所である点に違いがあると教えられた。


01岩屋堂01階段01


 若桜町境域委員会と管理人の山根さんのご配慮により、不動院岩屋堂の内部も見学させていただいた。堂の内部に「びんずるさん」という神が奉られていた。「びんずるさん」はとてもにこにことしかわいらしい顔をしていた。

 不動院岩屋堂と岩屋神社の間の岩肌には裂け目がはいっていた。巨岩の裂け目は、熊野神社遺跡でもみたが、なにか宗教的な意味があるかもしれないと私は感じた。(経営学科1年I.F)


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↑びんずるさんとその配置場所(↓)
01岩屋堂04内部01


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第4回「めざせ、ブータン!」其壱

01岩屋堂02遠景01


不動院岩屋堂と岩屋神社

 こんにちは、他の3年生と同じように2年後期に引き続きASALABの配属になりましたフジィです。今週は3日(金)が祝日で3年ゼミのフィールド演習は休みとなり、2日(木)のP1&P3の第4回「めざせ、ブータン!」で訪れた不動院岩屋堂と岩屋神社について、おもに建築的な側面からレポートしたいと思います。

 不動院岩屋堂は八頭郡若桜町字岩屋堂にある真言宗の仏堂です。修験道寺院の建築として知られており、岩窟内にある「懸造(かけづくり)」の建物で、昭和28年に国の重要文化財に指定されました。懸造とは、急な斜面や段差のある場所に建物を建てる場合、その床面を水平に保つため床束(ゆかづか)の長さを調整して、床の高さを揃える構法のことです。山側では床は地面に接し、谷側では床束はとても長くなって大きな高床建築にみえます。有名な懸造として京都の清水寺本堂があり、その様式は「舞台造」とも呼ばれています。


01岩屋堂04内部03


 岩屋堂は昭和30~32年に解体修理がおこなわれ、柱や舟肘木、花頭窓及び須弥壇の形式などから室町時代初期(南北朝時代)の建築と推定されています。本堂の不動明王は弘法大師33歳の時に刻んだもので「日本三大不動明王」の一つだと言われていますが、先生は、この寺が空海と関与しているとは思えないと仰っていました。身舎(もや)は間口・奥行ともに3間(約5m)で、屋根は前方が入母屋造、後方が切妻造のトチ葺となっています。建物はコウヤマキの木1本で建てられているという伝承もあります。
 今回私たちは普段入ることができない建物の内部を見学させていただきました。床下をくぐってはしご段を上って縁にでると、まず大きな花頭窓に目にとまりました。花頭窓は禅宗様のシンボルです。先生によれば、花頭窓の横幅が広いほど古い傾向があるそうです。柱には面取が施されています。面取も幅が長い方が古いと聞きました。舟肘木や垂木にも面取りが確認できます。
 組物は斗(ます)のない単純な舟肘木だけで、さらりと納めています。斗が無いせいなのか、垂木は通常は柱心を跨ぐところをそうはせずに芯を揃えて「芯垂木」としてありました。全体的に装飾が少なく、質実な印象を受けました。内部に入ると、内陣は外部と異なり円柱の柱となっていました。円柱は仏堂的で、面取角柱は住宅的な意匠です。


01岩屋堂03組物 CIMG0281.jpg


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猫の寝言(Ⅱ)

 GWの後半に入りましたね。いきなり、朗報あり。まぁね、12,000円もする本をあちこちにばらまいてりゃ、なにがしら御利益があるってもんだ。今朝のメールです。

  ブリーダーの方から「女の子(アメリカンショートヘア)が生まれた」との
  お知らせがありました。親許で2~3カ月過ごしてからお渡しとなりますが、
  それまでにも面会はしていただけます。

 4月初旬に郡家(こうげ)の家カフェを訪ねた際、デブ猫を失った私の落胆ぶりをみかねて、女将さんがブリーダーさんへ連絡してくださっていたのだ(「猫の寝言(Ⅰ)」参照)。あれから4週間、猫って子供産むの早いのね。あぁ、なにか新しい人生が始まるような気がしてきた・・・女将さんご一家とブリーダーさんに深く感謝します。

 というわけで、さっそくアマゾンの「著者セントラル」を大改訂したんです。3日連続の「アウトレイジ」引用でね、だはは・・・

   http://www.amazon.co.jp/-/e/B00CHP05GA

 おもしろいねぇ。GW後半は「ウィキペディア」にもページ作るかな。



著者セントラル

 米子・出雲方面をのぞき、新刊した拙著の郵送をなんとか終えた。献本+自主購入の計50冊を抱えていたのだが、黒猫メールなら送料は1冊80円か160円で済むはずだから、悠長に構えていた。ところが、ファミマにのりこんで計測すると、厚さ2センチを超えていて、黒猫メールは完全アウト。仕方ない、350円のレターパックだな。郵便局に移動した。そこで厚さを計ると3センチをも超えている。「レターパックなら500円の方ですね」ときた。「冊子小包(Printed Matter)ならどうなんですか?」と訊ねる。

  「あぁ、『ゆうメール』ですか・・・1キロを超えているので、450円ですね」

 あいた口がふさがらない。1340グラムもあるのだ。

   450円×50冊=22,500円   500円×50冊=25,000円

 公立化して給料も研究費も大幅減を強いられている身としては、辛い。手渡せる人には極力手渡すしかない。だから、米子・出雲方面の関係者には未だ配布できていないんだ。米子・出雲方面のみなさん、もう少しお待ちください。この春から島根県庁で働き始めた元院生の論文が書き上がったら平田に赴いて打ち合わせすることになってんです。そのときもって行きますから、どうか勘弁してやっておくんなさい。


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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