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第4次ブータン調査結団式

 8月25日(火)11j時より第4次ブータン調査の結団式をおこなった。今年は教師のほか、修士1名、4年1名、3年2名の計5名が参加する。結団式といってもセレモニーがあるわけではなく、ヴィザやeチケットなどの重要書類の確認や調査道具の準備と分配をするだけのことである。
 例年、前期の途中から旅費の振り込みやヴィザの取得で悩まされてきた。今年は思いの外順調にことが運んだ。一昨年(第2次)は参加者が13名と多すぎたし、昨年(第3次)は来日した農林省の役人に振り回されてしまった。今回はそうした攪乱要素が少なく、参加する学生もフィールドワークに適切な人数で、みな真面目な学生ばかりである。ニュージーランドに英語留学した経験のある学生も含まれていて、通訳業の負担も減りそうだ。天気もよく、楽しい調査ができそうな予感がする。
 27日深夜出国、9月4日早朝帰国予定。

 調査道具は揃えてみると、頗る多い。新たに参加する学生はみなスーツケースや登山靴を新調している。そんなスーツケースも調査道具でいっぱいになってしまった。みんな、がんばれよ!
 今回もまた崖寺と瞑想洞穴の調査が中心となる。できれば、ダカルポのような普通の山寺で、住職の人生を聞き書きしてみたい。また、『炎たつ湖』『ブータンの民話』の作者、クンザン・チョデン女史と面会することになっている。チョデンさんは「炎たつ湖」に近い小さな博物館に勤めているという情報を得たので、主たる調査地を中央ブータンに設定したのだが、我われの滞在中、チョデンさんは会議などで首都ティンプーに居ることが分かった。もちろん我われもティンプーに1~2泊するので、きっと会えると確信している。調査地については、「炎たつ湖」の近くにニンマ派(古派)を中興したペマ・リンパにゆかりの深い僧院が少なくないので、決してわるい選択ではなかったと思っている。

 昨年は出国前から嫌な予感がして、いきなりバンコクで社長がスーツケースを取り間違えるアクシデントが発生し、アッサムのグアハチ空港には軍隊がうようよいてブータン人の迎えが入ってこないし、それから国境を越える道のりは言語に尽くしがたいほど危険であったし、メラクの高地では高山病と大雨に悩まされ続けた。モンベルで買いそろえたゴアテックスのウェアや登山靴がなかったら死んでいたかもしれないと思うほど過酷な行程だった。しかし、あれはあれで良い経験であり、ブータンという国を知るよい手助けになったと今はポジティブにとらえよう。
 今年はきっと上手くいく。みんなブータンと調査を楽しんで帰国するだろうと祈りつつ・・・

  行ってきま~す!

摩尼寺紅葉コンサート2015にむけて(5)

2015長谷川きよしコンサート01_03web 2015長谷川きよしコンサート01_04web


限定100席

 8月24日(月)午後からドリームプリジェクト(DP)、大雲院との打ち合わせが詰まっていたが、前夜のメダカ壊滅の衝撃があまりにも強烈だったため、ケントとわたしはなによりまずカインズに足をむけた。カルキ抜き、砂利、酸素の出る石などのメダカグッズを買いあさったのだ。そして、ただちに摩尼寺門前へ。ブリーダーのご夫妻に事情を説明すると、どうぞどうぞとばかりにメダカを掬ってくださる。水槽が小さいから数を少なくしてと頼んでも、田舎の人はほんに親切ですね、あれよあれよというまにペットボトルに大小30尾以上のメダカが移し込まれた。買ったばかりの「酸素の出る石」をポトンと落とす。
 そのままDPへ。結構長い打ち合わせとなった。大きな改善が一つある。それはコンサートを「限定100名」にしたことである。コンサート会場となる善光寺如来堂の面積を鑑みるに、快適な視聴・音響環境を確保するためには「限定100名」は適切な配慮であろう。客席は昨年と同様、畳座・椅子座併用になる。低いストゥール系の椅子を50座用意する予定。背面の壁際にパイプ椅子を並べて椅子席を多少多くするか。元気な方は畳座でお願いします。


150824 メダカの水槽 新メダカ


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摩尼寺境内建造物の総合調査(Ⅸ)

150817 座敷飾り1   座敷飾り2(サムネ)


 8月17日と22日の調査活動報告です。

庫裡内部の調査

 8月17日(月)。私とココア君のふたりで摩尼寺へ。この日は雨が降っていたため、庫裡内部の座敷飾を伴う座敷の展開図を実測した。
 摩尼寺の庫裡は2部屋に座敷飾があるため、計8面の立面図を描かなければならない。机などの家具が置いてあったため、別の場所に移動させながら実測・撮影をしていった。前回と違って孤独ではなく、2人での調査だったため断然作業スピードが違う。テキパキと採寸し、一面ずつ描いていった。
 調査最中に気づいたのだが、広縁(廊下)で雨漏りが起きていた。早急な修理が必要だと改めて感じた。15時過ぎに一通りデータを集め終えたので、この日の調査を終えた。


150817 作業風景1 081517 雨漏り(サムネ)


サインボード設置場所の検討と渡り廊下・庫裡側面の調査

 8月22日(土)。晴れときどき曇り。教授と私を含めた4人で摩尼寺へ。教授は最初門前で打ち合わせがあり、途中から境内に上がってこられた。既報のとおり、登録文化財認定プレート掲示ボード設置場所の検討が大きな課題であり、わたしたちは設置場所の候補となり地点を次々撮影していた。
 結果、本堂斜め前の絵馬掛けを掲示ボードに差し替える案が最有力になった。本堂前という最適の位置に加えて、境内の景観を崩さない点、絵馬掛けの機能を継承する点など、まったくもって素晴らしいアイデアだと思った。大雲院の方もこの案に賛成だととのことだが、今の絵馬掛けは大きすぎるので、掲示ボードは一回り小さいものにすべきという意見が出たそうだ。、また、教授はその後「絵馬掛けの修復再生」による掲示ボード案も構想するに至っている。


150822 ボード設置の会議中


 設置場所の協議を終え、わたしとココア君は庫裡側面の実測に移った。前回、側面を実測調査していたが、ひとりだったため、コンベックスで数値を採取できる部分は限られていた。今回は巻尺と高さ測り器を駆使し、ふたり協力して、無事側面を細部まで測り終えた。続いて、本堂と庫裡をつなぐ渡り廊下もラフスケッチと採寸をおこなった。かつて渡廊下は本堂から善光寺如来堂までのびていたそうだが、今は庫裡~本堂間のみで傷みもひどくなっている。庫裡同様、早急の修理が必要であろう。

 この2日間で詳細な寸法データを集めることができた。協力してくださったココア君や管理人さんのおかげで、スムーズに調査ができたと思っている。立面図・展開図完成に向けて頑張っていきたい。(バス男)


150822 渡廊下(表) 150822 渡り廊下裏(サムネ)

地蔵盆 -倉吉河原町

0824地蔵祭7 地蔵祭


そしてまた都市に

 8月23日に4年生5人は倉吉市河原町で行われた地蔵祭にボランティアとして参加してきました。この日は空も晴れ晴れ、絶好のお祭り日和でした。倉吉に到着したのは14時頃でしたが、本格的に支援活動を始めるのは17時以降の予定だったので、到着してからしばらく「祭礼」に参加したり子供たちと「数珠巡り」を行ったりしました。


0824地蔵祭2 0824地蔵祭3 祭礼  


 祭礼では経文を全員で読み上げ、最後に左肩を経典でたたき、お経の力を体に入れて一年間の無病息災、悲願成就を願います。数珠巡りでは子供たちに混ざり、大きな数珠を持ち河原町をぐるっと一周しました。


0824地蔵祭8 数珠巡り


 

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地蔵盆 -大雲院

0823大雲院01地蔵盆03


コイの季節

 8月23日、地蔵盆の日である。研究室の4年生以上のメンバーは2隊に分かれた。わたしとケントは大雲院、4年生5名は倉吉河原町の地蔵盆に向かったのだ。4年生5名は車をもっていない。敢えて車で送迎しないことにした。車のない学年は車のない現実を克服すべく動くしかない。仮にケントの車を1台用意したとしても、軽自動車に乗れるのは3人だけ。2名は列車で行くしかないのである。だから、全員列車にしてもらった。倉吉駅には会長が迎えに行ってくださるという。お言葉に甘えるしかない。
 日建を終えたケントと大雲院で合流したのは午後7時半ころ。ファミマから遠望する大雲院は運動会のように大きなテントを立て並べていた。その向こうに本堂と大師堂の灯りが煌めく。本堂、大師堂の順で参拝する。大師堂の向拝から、読経するご住職の袈裟姿がみえた。本堂にあがると、おもちゃで溢れている。この日のために住職は大阪のマッチャマチまで行っておもちゃを買い集めるのだと聞いた。


0823大雲院01地蔵盆001 0823大雲院01地蔵盆00


 それでは、いよいよ金魚掬いへ。否、ここでは鯉掬いでした。錦鯉の稚魚が水槽の中を勢いよく泳いでいる。ポイ(紙を貼った掬い網)は1枚100円、子どもは50円だが、大人はその倍の値段ということだ。なにも文句はありませんよ。さっそく5枚注文した。ケントと二人、鯉掬いに勤しむ。錦鯉は威勢がよく、なかなか掬えない。しかし、ここのポイは強くて破れにくい。だんだんコツも分かってきた。手前に向かってポイを引き寄せるのではなく、遠いほうに向かって斜めにポイを動かすと、いちどに2~3尾の稚魚が難なく掬えてしまう。対面の少年に声をかけた。

   「まだコイの気持ちは分からないかな?」

 気がつけば、おわんのなかに10尾以上の鯉がたまっている。が、まもなくポイがひび割れ、破れ始めた。天(そら)から声がする。

   「下手やな・・・破れてからが勝負やで」

 作務衣に着替えた住職ではないか。たしかに、破れてからも3尾ばかり掬った。が、わたしの記録は20尾に達さなかった。その場合、我がモノとなる鯉は4尾だけである。大きめの鯉を選んでビニール袋に移し、いざ2枚めに。


0823大雲院01地蔵盆06 大師堂


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摩尼寺紅葉コンサート2015にむけて(4)

0822ボード設置候補地03絵馬掛け02 0822ボード設置候補地03絵馬掛け05看板


灰色の瞳

 チラシ原案完成後、さっそく深夜の盛り場で2軒営業しました。1軒めでは、56歳の男性客が「長谷川きよし」と聞いて目をぎらつかせ、食い入るようにチラシを読みこんでおりました。ところが40代から下はさっぱり反応しない。これは予想されたことです。悲観すべき要素ではありません。鳥取は少子高齢化の代表県だから、高齢者の占める割合が高い。55歳から60代後半の高齢者は長谷川きよしさんのことをよく知っています。「別れのサンバ」や「黒の舟歌」を聴いて青春を過ごした世代です。
 蹴球酒場のマスターは40代ですが、やはり長谷川さんを知らなかった。しかし、いったんサッカー中継の映像を中断し、youtubeで「別れのサンバ2012」を流してくれました。そして、椎名林檎に反応し、長谷川&椎名の「灰色の瞳」も50インチの大画面で視聴させてくれました。やはり迫力がある。マスターはむしろ裏面のトレッキングにご執心の模様。もともとトレック好きで、一人で樗谿~摩尼寺をトレックした経験もあるそうです。だから今回は、摩尼寺門前からラッキョウ畑を横切り砂丘に至るショートコースに参加したいとのこと。精進弁当も楽しみにしておりました。翌日も食事や休憩を兼ねて何軒かのカフェ、レストランを訪問し、営業に邁進しました。


0822ボード設置候補地01位牌堂01


掲示ボード設置場所の検討

 日が改まって8月22日(土)。久しぶりに摩尼寺を訪れ、関係者にイベントの説明をして、さらに登録有形文化財認定証掲示ボードの設置場所をとともに検討しました。掲示ボードのデザインはまだ秘密ですが、設置場所については、頭のなかで本堂と三祖堂のあいだのスペースをイメージしていました(↑)。米逸処(こめいっしょ)の『稲葉佳景無駄安留記』(1858)や昭和戦前の絵図に「位牌堂」が描かれており、「位牌堂跡地に掲示ボードを設置しました」とすれば、一種の遺跡表示にもなってわるくないと思っていたのです。ところが、現地を訪れると、水子供養像がすでに建っている。これはまずいですね。その後、鐘楼と閻魔堂のあいだの垣根に沿うスペースが候補となりました(↓左)。しかし、崖の際で地盤沈下が発生していることが判明し、こちらも断念(↓右)。


0822ボード設置候補地02鐘楼横 0822ボード設置候補地02地盤沈下


 最終的に最有力候補となったのは、本堂の左手前です。いま大きな絵馬賭けのボードが建っています。表にも裏にも数多くの釘が打ち付けてあるのですが、絵馬はほとんど掛かっていません。表面に18枚、裏面にゼロです。サイズを測ると、設計中の掲示ボードより一回り大きいけれども大差はない。ここで全員が一つの思いを共有することになります。
 
  1)古くなった絵馬掛けのボードを撤去して、登録文化財掲示ボードを建てる。
  2)掲示ボードの裏面には釘を打ち並べ、絵馬賭けとしての機能を継承する。
  3)絵馬賭けに隣接して立っている「お願いごとを絵馬に託して」の白い看板
    (いちばん上の写真)は撤去するが、フレーズは新しい掲示ボードの背面
    に残す。

 こうすることで、①境内の景観を維持・向上した状態で、②本堂脇に登録文化財認証プレートを掲示でき、③絵馬掛けの機能も継承できます。この案が完全に承認されたわけではありませんが、非常によいアイデアであろうと自負している次第です。


0822ボード設置候補地04サイズ01 0822ボード設置候補地04サイズ02
↑絵馬掛けの採寸。幅210センチと大きめ。 ↓絵馬掛けの背面
0822ボード設置候補地03絵馬掛け03 0822ボード設置候補地03絵馬掛け04背面サム

摩尼寺紅葉コンサート2015にむけて(3)

2015長谷川きよしコンサート02圧縮 2015長谷川きよしコンサート01圧縮01


チラシ原案(裏)-大雲院・樗谿~摩尼寺・砂丘 巡礼トレッキング


 続いて、チラシ原案裏面の文章を抜書きします。


               平成27年 11月 7日(土) 
    大雲院・樗谿~摩尼寺・砂丘 巡礼トレッキング
                 ジオパークをつきぬけて

 鳥取市立川の大雲院は鳥取東照宮(樗谿神社)の別当寺として藩内で最高の格式を誇っていました。摩尼寺、三仏寺、長谷寺などはみな大雲院の末寺だったのです。なかでも摩尼寺との関係が深く、大雲院から派遣された住職の墓が山麓に残っています。明治の神仏分離令によって大雲院は樗谿(おうちだに)からの退去を命ぜられ、いまや「忘れられた寺院」の一つになってしまいました。しかしながら、貴重な古文書・美術品が大量に所蔵されており、本堂は18世紀前期に遡りうる鳥取市内最古の建造物と思われます。今秋のトレックでは、大雲院~東照宮~摩尼寺の歴史を遡るルートを基本に設定しました。このルートに摩尼寺門前から砂丘にぬけるトレイルを加えたのは、山湯山集落と砂丘の間に広大なラッキョウ畑がひろがっているからです。赤紫に咲き乱れるラッキョウ花の満開期に潮風に吹かれて歩きませんか。
 全体の行程は「大雲院から樗谿・摩尼寺を経由して砂丘に至る」ロングコースですが、いくつかのショートコースも設けています。たとえば、以下のような短い参観・トレックを楽しんではいかがでしょうか。

    A)大雲院のみ参観    
    B)樗谿~摩尼寺の山歩き    
    C)摩尼寺門前~砂丘(ラッキョウ花畑コース)

 出発・解散地点を予め申告していただければ、大雲院・樗谿・摩尼寺・山湯山・砂丘のどこで参加・離脱してもかまいません。

【スケジュール】  11月 7日(土)  参加無料 雨天中止   
  ①ロングコース 
   10:00 大雲院集合(本堂・元三大師堂を見学)   10:30 大雲院発   
   11:00 中国自然歩道「樗谿」遊歩道口(茶屋の前) 12:00 太閤ヶ平  
   13:30 摩尼寺門前着(昼食休憩)
     *甘酒サービス、精進弁当・田楽など販売、屋台も並びます。
   14:30 摩尼寺門前発 15:00 山湯山着 15:30 砂丘オアシス広場(解散) 

  ②ショートコース  
   上記ロングコースのうち、A)B)C)などを選択
    *精進弁当等お買い上げの参加者は茶屋のマイクロバスで市内までお送りします。

 申し込み用紙は「続き」をご覧ください。


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摩尼寺紅葉コンサート2015にむけて(2)

2015長谷川きよしコンサート01圧縮01 2015長谷川きよしコンサート02圧縮


チラシ原案(表)-長谷川きよし Solo コンサート

 まる1日かけて、チラシの素案をパワポで作成しました。ひどい出来ですね。上の圧縮データをご覧いただければ分かりますように、文字が多すぎます。ただし、これはたたき台でして、すでにデザイナーにパワポデータを送り、作業をバトンタッチしています。去年のチラシをしのぐ出来栄えに進化することを期待しています。なお、いま使っている写真・MAPなどはすべてダミーです。長谷川さんの写真もグーグルの画像検索でダウンロードしたものです。おそらくスクショか何かの画像でして、50~60kbしかありません。さきほどご本人に本物の画像データの送信を依頼したところです。ルートマップはNobody君が作成中です。また、後援機関も確定していません(交渉準備中の機関名は灰色にしてみえなくしています)。
 というわけで、チラシ案を大きな画像でアップできません。確定している文章部分だけ抜書きしておきます。


            摩尼寺紅葉コンサート2015
   如来堂で歌う 長谷川きよし Solo
      平成27年10月24日(土) 13時半開場 14時開演

 摩尼寺本堂・鐘楼・山門の国登録有形文化財認定証掲示ボードの設置を記念して、除幕式と長谷川きよしさんのソロコンサートを開催します。善光寺如来堂内の異空間で「別れのサンバ」「黒の舟歌」などの名曲をご堪能ください。

      料金 ¥5,000(前売) ¥5,500(当日)

 摩尼寺本堂等国登録有形文化財認定証掲示ボード除幕式
     会場:境内本堂前広場
   13:15~ 住職・来賓挨拶 テープカット
  *身障者・高齢者の方は門前から境内まで車で送迎します。

 長谷川きよし Solo コンサート  
    会場: 摩尼寺境内 善光寺如来堂
 第Ⅰ部 14:00~ (開場13:30) 
   トーク・セッション 14:40~
   休憩 15:10~ 
 第Ⅱ部 15:20~16:00

 主催: 摩尼寺保存会   TEL 24-6630      
      鳥取市覚寺619-1 門脇茶屋内
 共催: 摩尼寺
      鳥取市覚寺624   TEL23-5300
     大雲院
      鳥取市立川町24  TEL22-5608
 後援: 鳥取市教育委員会等(予定)
 事務局: 鳥取環境大学 保存修復スタジオ
     Fax 38-6775   [email protected]
 協力: (有)ドリームプロジェクト 
 チケット販売所: 門脇茶屋、源平茶屋等(予定)
   * 窓口以外では、eチケットも提供する予定です。

神々の祈り(ⅩⅠ)

0810雄勝01てらっぱだげ01


「てらっぱだげ」と「かんの」

 車はさらに北へ向かう。南三陸町まで43キロぐらいだったろうか。24歳の若い妊婦さんが警報を発し続け、津波に呑まれたあの町である。リアス式の三陸海岸に沿う国道は曲がりくねって同じような風景を繰り返した。いくら走っても、カーナビに映し出された到達地点までの距離と時間が少なくならない。そうこうしているうちにドライバーは猛烈な睡魔に襲われてしまった。無理はできない。路肩の空き地に車をとめ、小一時間仮眠をとった。そしてまた出発。しばらく走ると、大規模な高台造成地があり、車道を登っていくと、一件の蕎麦屋を発見した。ログハウスのような店構えの手打ち蕎麦「てらっぱだげ」である。
 蕎麦に目のないわたしは壱も弐もなく車をとめ、店の戸を叩いた。店に人影はない。が、戸はあいている。まもなく主人があらわれた。

   「あ~ぁ、すいません。今日は終わりなんです・・・」

 時計に目をやると、すでに夕方5時をまわっていた。二八、三七、四六、いろんな配合の蕎麦がここでは食べられるようだ。不覚にも睡魔に負けて眠ってしまったばかりに最上級の蕎麦にありつけなかったんだな・・・無念です。
 亭主に道を訊ねた。南三陸に北上すべきか、仙台に帰るべきか、悩んでいたのである。ここは雄勝だ。しばらく走って左に折れ、道なりに進むと、まもなく東北自動車道の河北インターに出ると教えられた。疲れた身体は被災地よりも帰途を選んだ。まだ二日ある。明日かあさって、気仙沼から南下して南三陸町をめざせばいいんだ。


0810雄勝01てらっぱだげ02


 そう自分に言い訳して仙台に帰ることにした。2時間ばかりの運転でレンタカーは花京院のホテルに戻った。前夜はホテルの斜め前にある牛タン焼「かんの」で定食に舌鼓を打った。ここの塩焼きはべらぼうに美味しい。若い店員が人なつっこく、「また明日の晩も来てくださいね」と言って別れたのが24時間前。わたしは二日目もまた「かんの」の暖簾をくぐる。若い店員はポカンとしている。「ほんとに来たんですね?」

   「もう年だからさ、ホテルの遠くまで出るのは面倒くさいんだな。
   それになにより、この店の牛タンはすごく美味しいから。」 

 青年は微笑んで、グラスワインをなみなみと注いでくれた。昨夜の倍の量である。カウンターの向こうでは、オヤジが牛タンを手にもって網焼きしている。衛生的にみれば、トング(tong)でタン(tongue)を焼くべきであろう。ここのオヤジはトングを使わない。背をかがめ手焼きしている姿になんとも味があり、しかも、その顔が大きなタンのようにみえる。さらに観察を深めると、人懐こい青年はオヤジの息子にちがいないと思われた。


0810雄勝02宅地造成01


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神々の祈り(Ⅹ)

0810石巻03 0810石巻01


復興まちづくり

 瑞巌寺を離れ、一路石巻へ。川の上に鯉のぼりが泳いでいた被災地には大きな建物がいっぱい建っていた(↑)。ところがこれらの建物も仮設であり、まもなくほとんどの施設が移転するという。
 大きな新しい車道を車は北に急いだ。女川に入ると、記憶の底に眠っていた風景がよみがえってくる。瓦礫の山は消えてしまったが、そこが大津波の被災地であることは一目で分かる。


0810女川01希望の丘あすなろ通り04津波高02横 0810女川01希望の丘あすなろ通り04津波高01縦


 女川町地域医療センターの高台に上る。ずいぶん高いところに建っている病院だが、玄関柱の高さ195センチのところに津波到達地点の表示があった(↑)。建築家が設計したとしか思われないこの現代的な病院も1階は津波に呑まれズタズタにされたのだ。それが修復され、元の機能を取り戻している。駐車場と接する部分にはデッキ上のモールがあり、「希望の丘あすなろ通り」と名づけられていた。デッキ廊下の奥に土産物屋兼レストランがある。ホヤ塩のソフトクリームを食べた。磯臭い塩の粉をふりかけたソフトである。美味いというほどではないけれど、たしかに海と風土の匂いはする。


0810女川01希望の丘あすなろ通り03慰霊碑03ベンチ01 0810女川01希望の丘あすなろ通り03慰霊碑03ベンチ02サムネイル
↑上段の慰霊塔周辺  



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摩尼寺紅葉コンサート2015にむけて(1)

 昨秋の摩尼寺本堂・鐘楼・山門等国登録文化財答申記念イベント「摩尼寺紅葉コンサート2014」(11月29日)に引き続き、今年も摩尼寺保存会主催のイベントが動き出した。今秋のイベントは2日に分けておこなう予定である。

  10月24日(土): 摩尼寺本堂等国登録有形文化財認定証掲示ボード開幕記念事業
              摩尼寺紅葉コンサート2015
    13:15 摩尼寺本堂等国登録有形文化財認定証掲示ボード除幕式
        (本堂前広場) 住職・来賓挨拶、テープカット
    14:00 長谷川きよし ソロコンサート 第Ⅰ部 (会場:善光寺如来堂)
    14:40 トーク・セッション(含休憩)
    15:20 ソロコンサート 第Ⅱ部
    16:00 終演 

  長谷川きよし氏(1949 - )は、日本を代表するシンガーソングライター兼ギタリストであり、「別れのサンバ」「卒業」「黒の舟歌」などのヒット曲で知られる。シャンソン、ボサノバ、ジャズ、クラシックなどから、ときに「黒の舟歌」のような演歌風の楽曲までも持ち歌にする独創的かつ幅ひろい楽風で多くの聴衆を魅了してきた。清澄な歌声とともに、ガットギターによる伴奏と独奏の力量は他を圧している。東京都出身だが、現在は京都に在住し、本年5月に清水寺大舞台でのライブで大成功をおさめたばかりである。




  11月 7日(土): 大雲院・樗谿~摩尼寺・砂丘 巡礼トレッキング
                -ジオパークをつきぬけて-

 昨年は摩尼山一周のトレッキングに引き続き、摩尼寺・大雲院・鳥取東照宮(樗谿神社)の歴史を遡る巡礼トレッキングを企画した。5~6時間のロングコース(大雲院~砂丘)と2~3時間のショートコース(樗谿~摩尼寺)を分離融合のスタイルでおこなう予定である。詳細はいずれまた報告します。
 運営組織は以下のとおりです。

   主催:  摩尼寺保存会
   共催:  摩尼寺・大雲院
   後援:  鳥取市教育委員会等(予定)
   事務局: 鳥取環境大学保存修復スタジオ 
         [email protected]   Fax.38-6775
   協力:  ドリームプロジェクト

神々の祈り(Ⅸ)

0810瑞巌寺01庫裡01 0810瑞巌寺01庫裡02


瑞巌寺と円通院

 仙台縄文の森広場での会議だけの東北出張はもったいないので、三陸海岸の被災地復興状況をみてまわった。被災地の視察はこれで4度目。2012年のGW以来だから、3年と3ヶ月ぶりのことになる。
 伊達政宗建立の瑞巌寺は松島が防波堤になったことで、津波の被害がほとんどなかった。先回訪れたのは2012年の11月で、本堂内の発掘調査をお伝えした。その発掘調査はもちろん本堂の解体修理に伴うものであり、大変重要な成果がもたらされつつあった。その記録「独眼龍の窟」をいま一度お読みいただければ幸いである。じつは正式な発掘調査報告書もこの春に宮城県教委から送られてきている。それもあって、修理も終わったと勝手に思いこんでしまい、修復後の本堂を参拝しようとしたのだが、どうやら竣工は来年のようで、またしても庫裡(↑)と仮本堂の拝観にとどまった。


0810円通院03
↑円通院三慧殿の厨子  ↓三慧殿周辺のヤグラ
0810円通院04


 このたびの視察は瑞巌寺に隣接する円通院が中心となった。円通院は伊達政宗の嫡孫光宗の霊廟として、正保4年(1647)に開山された。その際に建立された三慧殿(重要文化財)は「御霊屋(おたまや)」とも呼ばれ、17世紀中期の様式をよく伝えている。また、周辺の崖面には連続してヤグラ墓が掘りこまれている(↑)
 本堂にあたる茅葺きの大悲亭は光宗公の江戸納涼の亭を解体移築したものである。また、山門近くの枯山水庭園は松島を表現したものと言われる。枯山水の奥に腰掛待合いがあり、その壁に丸窓を設えている。その背面から丸窓を通して枯山水を望むことができる。これが寺名「円通院」の由緒であろうと思ったが、定かではない。

0810円通院01 0810円通院02
↑腰掛待合の丸窓から枯山水を望む ↓枯山水庭園
0810円通院02庭01

平成27年度環境大学教育研究特別助成に新規採択!

 今年度も4ヶ月半が過ぎてしまいましたが、不可解な事態が研究者を苦しめています。県環境学術研究費の採択可否が決まらないのです。例年5月末~6月中旬には採否の伝達があるのですが、今年度はいつまでたっても音沙汰がない。確かな情報筋によれば、盆明けに審査会があり、採択可否の公開は9月にずれ込む可能性があるとのことです。
 9月に採否が決まるとして、2月末までに成果をまとめなければならないので、実質の研究期間は半年ばかり。また、おまえ怒り狂ってるんじゃないの、と勘ぐってる方もいるかもしれませんが、今回はそうでもない。半ばギブアップ状態です。申請者の多くがこういう心境に陥っている。辞退者すら出かねない情況であろうと思われます。怒髪天を衝いているのはむしろ事務局のほうであり、一部の職員は「怒鳴り込みに行きたいほどだ」と息巻いておりました。
 こうした外部研究費の状態を憂いてか否かは知りませんが、に続いて2回めの学内研究費募集が先月末にあり、強欲なわたしは2本も申請しました。3日ばかり前、そのうち1本の採択通知がありましたので、ここに報告しておきます。


平成27年度環境大学教育研究特別助成

  課題名: 中国青海省におけるチベット仏教系寺院の予備的調査研究
  研究費: 860,000円(満額)

 さっそく9月中旬に青海省を訪問する予定です。研究概要については、次ページに掲載します。


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「仙台市縄文の森広場」開園10周年(Ⅰ)

0811山田01 0811山田03


乾いた竪穴住居

 仙台市の山田上ノ台遺跡(縄文中期末)が整備され「仙台市縄文の森広場」として開園して10年が経った。8月11日(火)、仙台市教委の要請により、2012年以来3年ぶりに現地を訪問した。
 3棟の復元竪穴住居は健全そのもの。10年を経過して、部材の綻びはほとんどなく、内部は乾ききっている。竪穴住居の内部が乾いていること自体が奇跡であると言っていい。周堤の下に隠したRCの擁壁、樹皮と土屋根の間に張った二重の防水シートが予想以上の効果を発揮している。御所野が縄文土屋根住居の先駆でありながら、防水処理を怠ったために解体等の修理を繰り返し、修理をしてもなお防水処理を施さないため「式年造替」状態に陥っているのに対して、山田上ノ台はなお10~20年は現状の維持が可能であろう。


0811山田05 0811山田07


 もちろん山田上ノ台の復元住居にも微細な補修が必要な部分がないわけではない。正面妻側の土押さえ丸太より外側の樹皮の劣化が目立ち始めているし、煙抜きの部分でもこれに類似した傷みが認められる。また、床面のタタキにもヒビが入り、一部は凸凹状態になっている。しかし、それらはいずれも軽微な修復で十分対応可能である。むしろ気になったのは、借景の変化である。隣接する私有地で竹林・樹林が伐採されたため、高速道路や住宅地が復元住居周辺から一望されるようになったのである。これについては、敷地境界のフェンスの前に植林するか、フェンスに縄文系の蔓性植物を巻きつけるか、なんらかの修景が必要になるであろう。


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↑(左)床面のタタキ (右)桁端に露出した樹皮の劣化

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↑(左から)住居群からみた景観、ガイダンス施設2階展望室からみた景観、元の景観(パネル)


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摩尼寺境内建造物の総合調査(Ⅷ)

150811 摩尼寺トレック隊 圧縮   


めざせ、ブータン!

 8月11日(火)。ブータン調査の参加予定メンバーが摩尼山に集結。摩尼寺庫裡の立面図作成のため、バス男も門前までは同行しました。
 私たちは、ブータンでの調査を想定し、測量器具一式とカメラを手に持ち、トータルステーションを背負子で背負って、参道脇道から「奥の院」遺跡、立岩を経由し、山を一周して境内へ下りてきました。境内ではトータルステーションの実習です。メンバー全員が機材を扱えるようになることがこの日の目的であり、みんなそのミッションをクリアしてくれました。ブータン調査まであと2週間余、万全の状態で調査に臨みたい。(ケント)


庫裡の細部調査

 8月11日(火)、晴れ時々曇り。準備を整えた「奥ノ院」トレッキング組を見送り、私は摩尼寺庫裡に向かった。この日は写真だけでは描きにくかった細部を計測した。日差しが強く、先日同様、熱中症対策を心掛けて調査に臨んだ。
 調査の前半は、正面の立面図を完成させるべく、あいまいだった部分を中心に寸法を計測した。大きな建物のため計測は大変だったが、大方必要なデータを集めることができたと思う。途中でトレック組と合流したので一旦休憩した。休憩後、トレック組は機材の練習を開始、私はある程度データが集まったので立面図の下書きを進めた。現場では対象をじっくり観察しつつ描き込めるが、線がぶれることが多く、なかなかうまくいかなかった。昨年の先輩たちのように、現場で完成させるスピードと技量を身につけねばならない。それが私の課題である。
 今回の調査では、正面の立面図を完成させるデータ収集ができた。次回の調査は、協力者を募り、側面・背面の計測を終えたいと思っている。庫裡内部の展開図も作図しようと考えているため、着実にひとつひとつの作業を片づけていきたい。
 夕方5時前に、この日の調査を終えた。(バス男)


150811 調査風景1 圧縮

金魚掬い(Ⅳ)

蓮酒016 (2)



蓮酒と土曜夜市

 スタジオに水槽が二つ設置されたことはすでにお知らせしたとおりです。黒メダカは数が多く、金魚は5尾とお伝えしましたが、金魚は早くも3尾にまで減ってしまっていました。

 先週末、わたしは若輩ながら大雲院での納涼会にお呼ばれしました。体調不十分の先生と会長は禁酒中につき、わたしはお二人に代わる呑み係として抜擢された模様です。いきなり蓮酒から。大きな蓮の葉っぱに酒を注ぎ、茎の下からチュウチュウ吸います。これは効きました。高田渡が、缶ビールの底に孔をあけて吸うとよくまわる、と言っていたあのやり方ですね。
 わたしを含む4名は大酒呑みです。どうしても飲む側に勢いがでるので、先生までもが守勢にまわる始末。おかげで、ご住職のライフヒストリーを細かに知ることができました。
 それはオープンキャンパスの夜のことです。同じ時間、八頭町に住むTAKEは市内の土曜夜市に繰り出していたようです。

    「金魚救いしてきて」

という先生からの密命を受けての出陣であります。


150811 金魚の水槽5


 納涼大飲酒会の翌日、スタジオに顔を出すと、金魚は8尾に増えていました。大きな赤い金魚が4尾、色違いの金魚が1尾、計5尾が加わっていたのです。先住金魚より一回り大きい5尾が大きな顔をして水槽を泳いでおり、先住魚たちは岩場に隠れてますます表に姿を出さなくなりました。

 翌日、大きな赤い金魚が早くも1尾亡くなりました。メダカ水槽に比べて、金魚水槽の水環境がよくないのでしょうか。スタジオで作業をしていても、金魚が生きているか心配になり、ついつい水槽に目が行ってしまいます。
 23日は倉吉河原町と鳥取大雲院の両方で地蔵盆が開催されます。両者、金魚救いはあるとのこと。学生を2隊に分け、漁獲高をあげようと目論んでいます。 (ケント)


150812 金魚の水槽2

樗谿~摩尼寺門前ミニトレイル(Ⅳ)

0805 トレック4 休憩舎うらじろのきから摩尼寺門前 歩行軌跡


休憩舎「うらじろのき」から摩尼寺門前まで

 「うらじろのき」から先は冒険的要素が増していく。樗谷から太閤ヶ平まではアスファルトで舗装された道を歩いてきたが、本陣山からは道幅の狭い山道ばかりである。まずは、摩尼寺への距離を示すサインボードに従い、森の奥へ進んでいく。木々との距離が近くなり、セミなど虫たちの鳴き声を近くで感じることができる。鳴き声は少々うるさいが、樗谷から太閤ヶ平までのトレイルに比べると自然との親近感があって新鮮である。トレッキングの際、案内板をもとに進まれる方が多いと思う。ただ、中国自然歩道では、新しい標示と古い標示が共存しており、目的地までの距離が異なり、前後する。「環境庁」制作の案内板はとくに古いもので、距離情報は残念ながら信頼性が低いようだ。古い標識は撤去したほうがよいのではないだろうか。


0805 トレック4 植生の違い 植生の狭間
 

 休憩舎から出発してしばらくすると、植生が道の左右で異なっていく。左側は広葉樹の原生林、右側は針葉樹林(植林)である。もともと左側のように原生林が広がっていたのであろうが、ある段階で植樹を施したわけだ。このあたりでGPS機能付きのカメラを使っていると、クレー射撃場の近くを歩いていることが分かる。


0805 トレック4 広大なスギ林 
等間隔に並ぶスギの植林 
0805 トレック4 垣間見える景色 
下り階段から垣間見えた摩尼山


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樗谿~摩尼寺門前ミニトレイル(Ⅲ)

0805 トレック3 本陣山休憩所から見た鳥取市街地


本陣山で休憩

 道中、先生からいろいろなアングルで写真を撮る方法を教えられた。それ以前の写真があまりにも即物的で見るに耐えない、と評されていた私は、教えられたばかりの撮影方法に夢中になってしまい、歩調が著しく遅くなって、先行する3人をずいぶん待たせてしまった。摩尼寺門前では午後4時過ぎにケントさんとロンさんの迎えが来ることになっており、そういう時間感覚をすっ飛ばして行動していたため「モノゴトを総合的に考え判断しなさい」と注意された。
 ブータンが思いやられる。
 本陣山の休憩ベンチでは、先生が持参された「塩トマト」(ミニトマトを干したもの)を全員でいただいた。程よい塩味がミニトマトの甘さを引き出していて、とても美味しかった。本陣山からは久松山や市街地が望める。非常に良い景観なのだが、PM2.5の影響のせいか、靄がかかっていた。


0805 トレック3 本陣山休憩棟から休憩舎うらじろのき 歩行軌跡


本陣山から休憩舎「うらじろのき」まで

 太閤平から山道に分け入って摩尼寺をめざす。舗装されていない中国自然歩道である。トレッキング好きの方にはたまらないトレイルであろう。道中には原生林と針葉樹の植林が混合している。若干の上下はあるけれども、しなばらくはなだらかな道が続く。しかしながら、すでに先生はグロッキーぎみで、坂道では後ろを歩いていた3年生に道を譲られた。若さあふれる3年生は私たち二人をおいてどんどん先へと進んでいく。
 摩尼寺ルートを歩いてしばらくすると植林地が見え始めてきた。植生はイラストマップに反映させるので、前回の摩尼寺→樗谿トレック時とは異なり、原生林と植林の境界など植生の変化に注目した。さらに先へと進むと、広大なスギの植林地帯へ突入する。風景として、あるいは体感としては、広葉樹の原生林には劣るかもしれない。
 道から少し外れた植林地に「西鳥48号次代検定林(ヒノキ)」という古びた看板が前のめりに傾いて立っていた。その看板には「面積1.0ヘクタール 植栽年月日 昭和61年11月28日』という記載と配置図が描かれていた。その配置図には現在地と遊歩道、作業道、No.1~No.3の区画、そして区画ごとに植えられた樹種(E:精英樹、C:一般)が記されていた。こういった配置図や情報はイラストマップに有効に使えるだろう。


0805 トレック3 本陣山休憩棟から見た鳥取市街地と方角 
↑本陣山からみた鳥取市街地     ↓:本陣山からみた久松山
0805 トレック3 本陣山休憩棟から見た久松山と方角



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樗谿~摩尼寺門前ミニトレイル(Ⅱ)

0805 トレック2 みはらし峠付近のベンチ みはらし峠付近のベンチ


1号休憩棟から太閤ヶ平まで

 休憩所を出発すると道沿いの斜面擁壁にログハウスのような木組が用いられているのが目についてきます。通常であれば、コンクリートや石垣を使用するところですが、景観に配慮して自然素材で化粧したものでしょう。この辺りからシダの群生する路肩法面が多くなってきます。時々標示される案内板を眺めるのもトレッキングの楽しみ方の一つだと思います。また、休憩所以外でも時折転がっている丸太などに腰かけて休んでみるのも
一興でしょう。

0805 トレック2 市街地


 鳥居から1.5km過ぎた後、灌木の丈が短い所にでると、鳥取市街を遠望できるポイントがちらほらでてきます。ところで、あちこちに距離を示す案内板が立っているのですが、接近する場所の看板でも距離が異なっていることが少なくありません、これは鳥取自然休養林鳥取森林管理局(四角い柱上のタイプ)と環境庁、林野庁などで測定にずれがあったものでしょう、基本的には林野庁のデータが正確だと思われます。
 さて、肝心の眺めですが、5日はpm2.5が拡散しているのか、空が白んでいてはっきりとは見えなかったのが残念です。またしばらく歩くと見慣れないものが目に入ります。ネットがかけてあるだけで申し訳程度に下草が生えている斜面(法面)ですが、これはがけ崩れ発生場所の応急措置と思われます。今回のコースでは2~3ヵ所ありました。鳥居から1.7km地点の手前に休憩地点があります。


0805 トレック2 みはらし峠からの景観 0805 トレック2 樗谿舎10周年記念碑
 左: みはらし峠からの景観 右:記念碑


201211022景勝地トライアングル23224206
↑ご存じ、「摩尼山を中核とする景勝地トライアングル」


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樗谿~摩尼寺門前ミニトレイル(Ⅰ)

0805 トレック1 スタート地点


灼熱の景勝地トライアングル

 8月5日(水)、Asalabのメンバー5名は樗谿公園から摩尼寺門前までミニトレイル(約7㎞)を走破した。砂丘-久松山・樗谿-坂谷神社を頂点とする「景勝地トライアングル」のうち中継点たる摩尼山と久松山・樗谿をつなぐ重要なトレイルで、これまで4度歩いている。今回のブログは私と3年生で分担することとなった。役割分担は以下のとおりである。

  1.樗谿から1号休憩棟まで【武田】
  2.1号休憩棟から太閤ヶ平まで【木村】
  3.太閤ヶ平から休憩舎「うらじろのき」まで【山本】
  4.休憩舎「うらじろのき」から摩尼寺門前まで【大石】

 多くの風景を複数のGPS付デジタルカメラで撮影した。とくに拠点的な地点については、その座標を地図上に示し、その地点から眺めた方位を赤の矢印で示している。


0805 トレック1 樗谿から1号休憩棟 第1話の歩行軌跡


樗谿公園~最初の東屋(休憩地点)まで

 太閤ヶ平とは、天正9年(1581)羽柴秀吉の鳥取城攻め際に造営された付城(前線基地)の跡地です。摩尼寺は、鳥取東照宮と一体となって建立された別当寺「大雲院」の末寺でもあり、東照宮と摩尼寺は大雲院の存在から強い繋がりを持った寺社であることは自明でしょう。今回のトレイルは、自然豊かな山道を堪能すると同時に、史跡や寺社の繋がりを訪ね歩くコースでもあります。


0805 トレック1 原生林 0805 トレック1 案内板


 スタート地点である鳥取東照宮(旧樗谿神社)から太閤平に向かう道は、↑右の案内図(要クリック)に示されているとおり、鳥居から公園内に続く北側の道と、公園内の南側を進む右道の2つがありますが、今回は後者の道を辿ってトレックしました。比較的なだらかな舗装された坂道であり、左手には大宮池を俯瞰する形で望めます。道の両脇の植生は広葉樹の原生林(↑左)が主体で、初めのうちはスギ等針葉樹の植林は目立ちません。木陰が多いので、涼しくトレックできます。


0805 トレック1 大宮池
 ↑大宮池 


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Sugar 08

食事療法

 健康診断を終えた。体重・血圧は前回(3月19日)とほぼ同じですが、痛風後にリバウンドしていた4㎏を消滅させました。そして、腹位は-2.5㎝。連日の筋トレでようやく2~3㎝腹が凹んだ。
 今回の健康診断を意識しボクシングに気合を入れなおしたのは3週間前からで、とりわけジムに足繁く通い始めたのは10日前から。同時に食事療法も開始しました。以下、要点です。

  1)夕食は「きんぴら」「ひじき」「かぼちゃ」などのお惣菜を3種類、専用の
    プレートにのせて、ノンアルコールビールとともに食べる。
    肉なし、魚なし、ご飯なし。アルコール厳禁!
  2)レストラン、カフェはもちろんコンビニを極力避け、買い置いた蕎麦や豆腐など
    「家にある」モノを食べる。
  3)夜食・間食は控えるが、どうしても食べたくなったときのために、0カロリー
    のゼリーを買いためておく。
  4)デザートは、ヨーグルトもしくはカットフルーツのみとする。

 コンビニのおにぎりすら食べなかったということです。検診後、ペースノートに駆け込みハンバーグランチを注文。10日ぶりに肉とご飯を腹に納めました。少し人間らしい気分になった。


 

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金魚掬い(Ⅲ)

0731金魚01


 先週末、ジムに行こうとして家を出ると、近所の公園で美保地区の夏祭りをやっていた。わたしは誘惑を断ち切れなかった。金魚掬いがしたかったのである。昨年も同じ夏祭りで金魚掬いしたのだが、1尾も掬えなかった。しかし、何尾かを参加賞として頂戴し、そのまま奈良にもって返っていま黒出目金など3尾が大きく成長し、すでに水槽のボスと化している。
 このたびは1回50円で4枚チャレンジし、1回につき2尾ずつ掬った。またしても黒出目金をゲット、ほかに紅と黒のまだらになった金魚もいる。全部で8尾、ジムで汗を流すあいだ、下宿のシンクのボウルに8尾を移しておいた。ジムに入ってまもなく日建人に電話した。先に帰るというので、家の金魚を預けることにした。大きな間違いであった。金魚の飼育に係わるケントの迷走ぶりは白帯を彷彿とさせるほどであった。驚いたことに、8尾の金魚は小さなどんぶりの中に押し込められていたのである。わたしがスタジオに到着し、ただちに金魚をメダカの水槽に放り込んだ。大きくなると、金魚はメダカを食べてしまうが、今はむしろメダカの容積が金魚を凌いでいる。これで、酸素とカルキ抜きと微生物が安定化した水環境を生活空間として、とりあえず金魚たちは生活できる。
 黒メダカの水槽を作ったきぃとテングサは作業に慣れていた。それが証拠に、黒メダカはいまだ1尾も死んでいない。一方、金魚はすでに3尾が永眠した。1尾が亡くなった段階で事態の深刻さを悟り、きぃ所有の水槽を拝借し、ポンプなどはわたしが買い込んで、メダカと金魚を分けた。要するに、スタジオの水槽は二つに増えたのであった。それからもまた金魚2尾がこの世を去った。
 いま学生に指示を出している。週末の土曜夜市や地元の祭りで金魚救いしてこい、と。一定量を確保すれば、1年後まで生き延びて大きく成長する金魚が何尾かは残るだろう。


0731金魚03


 さて、明日(7日)はついに健康診断。昨日(5日)は学生を連れて(連れられて?)、樗谿から摩尼寺まで歩いた。摂氏35度の昼下がり、約7㎞の山道を約3時間かけて歩いた。ふらふらになった私は日の丸温泉をめざした。まず体重計にのる。痩せていました。今年度前半の最低値を記録した次第です。それから、いつものように、湯船と更衣室を行ったり来たりし、何度もなんども体重を量ったのです。がんばれば、500グラムは減るんだ。
 問題はそれからでね。疲れた体を元に戻そうとしてバカ食いしたら元も子もない。帰宅して口にいれたのは野菜ジュース、飲むヨーグルト、タニタの(低カロ)プリン。そうこうしているうちに、東アジア選手権の日韓戦が始まった。海外組のいない日本代表はかくも弱いという現実を受け入れながら、床に就いて眠りに落ち、目覚まし時計におこされた。まだサッカーをやっている。時刻は9時に迫ろうとしていた。わたしは着替えてジムに向かった。
 日の丸温泉の鏡に映る自らの裸体はたしかにむくみをなくしていたが、下腹だけは相変わらずでている。3月の健康診断では「尿酸値」と「腹位」に問題があると指摘された。前者は下がっている。問題は後者だ。筋トレする以外にないのです。


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2015居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(その5)

現状


裏山菜園の収穫

 前回の発表で、大学裏山の茶室裏側に畑を拡張し、野菜の栽培を始めことをお知らせしました。苗植えから2か月以上経過すると、どの作物も大きく成長していました。7月15日に一斉に収穫し、その後も成長した作物から順に収穫していきました。7月15日の一斉収穫の日は猛暑だったうえ蚊が活発に活動していたため、暑さと虫刺されに悩まされながらの収穫となりましたが、みんな笑顔で収穫をおこないました。
  その際の収穫は以下の通りです。

    ・ブロッコリー 0個
    ・パプリカ 4個●
    ・イチゴ 0個
    ・ナス 3個
    ・トマト 2個●
    ・セロリ 1株●
     ・きゅうり 1個●
     ・しそ  3枚
     ・ししとう  多数●
     ・とうがらし  多数●
     ・パセリ  1株    ※2015年7月31日現在 ●は現在も成長中


収穫風景


 中間発表では夏野菜を中心にブロッコリー、パプリカ、イチゴ、ナス、トマト、セロリ、かぼちゃ、キュウリ、シソの9種の合計34株の作物を植えたと報告したのですが、成長して収穫の段階になってもう一度確認したところ、上記のような作物が成長していました。ししとう、とうがらし、パセリも植えていたのです。
 ここからは育った作物、収穫した作物について紹介していきます。こちらはセロリ、ブロッコリー、しそです。ブロッコリーはゼミ生の確認不足により収穫時期を逃してしまい、肥大化してしまいました。セロリとしそは収穫できました。


作物①


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2015居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(その4)

武田スライド2改 図1


実測作図の成果

 我々が手掛けた大雲院の実測図とその清書の図面を紹介します。図1は大石君が作成した土蔵一階の実測平面図です。二階は四年生の山本さんが担当しました。これらの実測図をもとに大石君がCADで清書しました。CADで描いた図面は正確ですが、手描きの実測図もなかなか味わいがあります。
 図2は私と木村君が作成した鐘楼の実測平面図です。今回はCAD経験者の浅木君に平面図の清書を担当してもらいました。鐘楼の四本柱は、構造の安定を図るため、すべて内転びになっています。柱の基礎部分は礎石と礎盤を併用する禅宗様にしています。


武田スライド3改(訂正) 図2


 図3は私と木村君が描いた土蔵の実測立面図です。前回の野帳にケラバ(桁端)の出の寸法と軒の出の寸法などを書き足しました。ケラバとは妻壁から屋根の側端までの出の部分です。また、隣り合う垂木と垂木の芯々寸法を「枝(支)」といいます、この土蔵では一枝の寸法は470mmを測り、ケラバも一枝外に出ていますが、その寸法は404mmでした。軒の出というのは、外壁(本当は柱芯)から垂木の下面の隅までの寸法を指し、1568mmを測りました。これらの寸法をもとに手描きで清書した立面図が図4です。

武田スライド5改
↑図3   ↓図4
武田スライド4改jpg



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2015居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(その3)

s大雲院本堂 平面図


大雲院本堂平面の分析

 これから大雲院本堂の平面について分析した内容について発表します。なお、大雲院の調査は研究室全員でおこなったものです。そのため、先生や先輩の成果も活用して報告させていただくことをご了承ください。
 大雲院の本堂は享保六年(1721)に霊光院の本堂として建立されたものです。現在は、中央に阿弥陀三尊、周囲に西国三十三観音を安置しています。まず柱筋の名称を説明します。一番外側から、もこし(裳階)柱筋、側柱筋、入側柱筋、そして阿弥陀三尊を囲む四天柱(丸柱)が確認できます。
 ところで皆さん、この平面図に少し違和感を覚えませんか。柱と柱をつなぐ線が一直線ではなく、折れ曲がっていまね。もこし柱、側柱、入側柱、四天柱、どれも一直線上に柱が並んでいません。線の形にも規則性がなく、てんでバラバラです。先生によると、これほど柱位置のずれた建築にお目にかかったことはないそうです。


s長谷寺 摩尼寺本堂 平面図


 大雲院本堂との対比として、長谷寺本堂(倉吉市)と摩尼寺本堂(鳥取市覚寺)の平面図をみてみましょう。柱筋がグリッドパターンできれいに並んでいます。通常、このように柱筋は一直線であり、だからこそ、桁・梁・貫などの水平材を柱間に通すことができるわけです。なお、ごく少数の柱のずれがまったくないわけでもありません。そういう場合、たとえば、大瓶束で梁を受けたり、柱上に台輪をまわして水平材の荷重を分散させたりします。しかし、それは平面全体のごく一部にみられる現象であり、大雲院のように4つの柱筋すべてで柱位置がずれる例はほぼありえないと言って過言ではないのです。
 では、なぜ大雲院本堂の柱筋には、このような大きな屈折が生じてしまったのでしょうか。わたしたちは霊光院の創建から今に至るまでに、焼失・再建・修理・増築等か反復した結果ではないか、と推定しています。この仮説について順を追って説明します。


s年表 享保元年


 田尻住職が作成された大雲院の年表から、修理・建て替えに関する記述を抜粋しました。霊光院第一文書によると、享保二年(1717)に建立された当初の霊光院には四間四面の「弥陀堂」と七間×五間半の「観音堂」が並存していたと考えられます。しかし享保五年の石黒火事で境内の堂宇は全焼してしまいます。「弥陀堂」と「観音堂」の両方が灰燼に帰したということになるでしょう。そして、その1年後の享保六年(1721)に堂宇の再建がなされるわけですが、棟札には「清淳山大雲寺霊光院」という山名寺名は裏面にみえますが、建物名称を示す記述は表裏どちらにもありません。つまりこの棟札は霊光院という寺院の再興を記す史料であり、本堂の再建を示すものではありません。表面中央の主文は「南無阿彌陀佛南無大悲観世音」とあり、阿弥陀如来と観音菩薩を合祀していたことが分かります。ですから、じつは1棟の本堂を建てたのか、弥陀堂と観音堂の2棟を改めて建て直したのかは棟札のみからは読みとれないのです。ところが、田尻住職が大雲院所蔵史料によって作成された年表には、享保六年(1721)に1棟の「本堂」を再建し、その規模は七間×六間であったと記されています。どの史料によって、七間×六間の本堂の存在があきらかなのかは分かりませんが、この年表を信頼するならば、「弥陀堂」でも「観音堂」でもない「本堂」がこの段階で成立していたことになるでしょう。



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2015居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(その2)

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絵様・蟇股の様式編年

 絵様とは社寺建築の部材に施された彫刻や模様をさします。模様に和紙を被せ上から墨や鉛筆で擦って写し取った資料が拓本です、拓本はスケッチや写真に比べて模様を正確に写し取ることができるので、資料価値が高くなります。近世社寺建築の場合、たとえば絵様の渦線が細く、正円に近いほど年代が古いと言われています。例として、17世紀末、18世紀、19世紀前半の3つの絵様を示しておきます。
 研究室では、これまで近世社寺建築の絵様・蟇股の編年研究を続けており、その成果に基づいて、大雲院の絵様と蟇股について考察しました。
 下の年表は、先ほど大石君が紹介した棟札などに基づいて、大雲院の建築・修理事業をまとめたものです。


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大雲院本堂の絵様と蟇股

 拓本は下の図の●部位を採取しました。大石君が指摘したように、正面の向拝や縁の部分は明治の増築と考えられるため、今回はまず、内陣部分の絵様を分析します。


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 ↓左上は和様仏壇高欄の絵様、↓左下の拓本は来迎壁上虹梁の絵様です。上の方が下よりも正円に近く線も細いので、年代は古いと思われます。ところが棟札によると、昭和10年に須弥壇は修復されています。上の絵様は古式を示すものであり、古い時代の部材を継承した可能性が高いでしょう。下の虹梁については、昭和10年まで下るとは限りませんが、やや新しい部材と推定されます。


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 こちら↓の蟇股は本堂四天柱上虹梁の中備ですが、他の社寺建築の例と比較すると、十八世紀にさかのぼる可能性があります。蟇股の上にのる実肘木の渦も正円に近いものです。18世紀にさかのぼるとすれば、享保6年(1728)の棟札に対応する可能性もありますが、実肘木の絵様は18世紀の前期よりも新しく感じられます。


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2015居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(その1)

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大雲院と霊光院

 中間報告会(2)で詳しく述べたように、大雲院は慶安三年(1650)に樗谷の鳥取東照宮を管理する別当寺として建立されました。江戸時代の鳥取藩にあってもっとも重要な寺院でしたが、明治維新の神仏分離令によって樗谷から立ち退きを命令されます。明治三年、大雲院は現在の立川にある末寺の霊光院に境内を移し、霊光院を吸収しました。ところで、大雲院には七枚の棟札が所蔵されています。わたしはその内容について簡単に分析しました。
 棟札とは、その建物の由緒や建築関係者、建築年代などを記した札で、一般的には屋根裏の棟木や棟束に張り付けられます。建築の歴史を物語るもっとも重要な史料です。大雲院には七枚の棟札が所蔵されています。まずは、享保六年(1721)の棟札から説明します。


棟札の一覧


霊光院の再建棟札

 元禄から享保にかけて活躍した米村所平という信心深い武士が市内立川にいました。米村所平は、亡くなった息子を供養するため、享保二年(1717)に霊光院を建立したのですが、まもなくその堂宇は火事で焼けてしまいます。創建から4年たった享保六年(1721)に霊光院は再建されます。その再建を示すのがこの棟札です。表側中央に「南無阿弥陀仏南無観世音」と書かれており、阿弥陀如来と観音菩薩を合わせて祀っていたことが分かります。後で石田さんが述べますが、霊光院は享保元年の創建当初には、阿弥陀堂と観音堂の二つの仏堂を備えていたようです。


大雲院の歴史


近代の修理棟札

 ここからは霊光院ではなく、大雲院の棟札になります。明治三九年(1906)の棟札には「修繕本堂」と書かれています。木村くんがあとで報告しますが、この棟札は本堂正面の向拝と縁の改修を示すものと推定しています。
 下は昭和五年(1930)の棟札です。「修覆霊牌堂」とあり、本堂裏手の米村家霊堂を修理(もしくは増築)した記録と思われます。5年後の昭和十年(1935)の棟札もあります。この棟札には、「修覆須弥壇瓦屋根」と書かれており、仏壇の修理と瓦屋根の葺き替えをおこなったことが分かります。鐘楼もこのときの建築だと聞いています。


昭和5年


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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