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雷龍の彼岸(Ⅴ)-ブータン仏教紀行

12パロゾン01 12パロゾン02


民家のモデル(1)

 入国検査の時から同じ列に並んでいて、たぶん韓国人のカップルだろうと思っていた。男は賢そうなメガネ君、女はお人形さんのような美人で、ひょっとしたら整形かもしれない。となれば、韓国だろう。パロの国立博物館で、3人組らしいことに気づいた。男女二人のまわりを、もう一人の男がうろちょろしている。
 かれらは博物館の先客だった。クローク棟にカメラやバッグを預けていたので、展示をみたあと取りにいくと、3人組もそこにいた。厠に行きたくなって、係員に場所を訊ねると、リーダー格のメガネ君もついてきた。トイレに行く道で、恐るおそる国籍を訊ねる。香港だという。韓国もやばいが、香港も同じだ。尖閣問題のねじれが先鋭化し始めた時期だったので、自分の国籍を名乗るのがためらわれた。再び恐るおそる「君たちの嫌いな日本人だよ」と自己紹介した。かれは、「香港人は日本が嫌いじゃない。日本料理も漫画も大好きなんだ」とフォローしてくれた。


11民家04デルモ01屋根


 美女はブータンの民族衣装を纏って、いっそう艶やかになっている。おそらくリーダー格のガールフレンドなのだろう。中国語で3人に別れ告げ、パロ城(ゾン:いちばん上の写真)に向う。凄い建築。木造化したチベット建築に酔いしれた。
 そして、待ちにまった民家の見学へ。バター茶と地酒を振る舞っていただけると予め聞いていた。うきうきしないわけはない。民家に着くと、すでに香港の3人組がいて、附属舎の屋根の上で茶を飲んでいた。オモヤの内部には別の外国人観光客もいるようだ。後発の私たちは、オモヤ周辺の施設から見学することになった。まず通されたのは浴室棟である。ストーン・ボイリングの板風呂だ。石を焼く小屋がある(一番下の写真)。ここで石を真っ赤になるまで焼く。隣が浴室。中に蒸籠組の浴槽が8つ整然と並べられている。浴槽は約1:5の比率で二分されており、まず水を張って、境に穴の開いた板を嵌め込む。そして、狭い方に焼け石を放り込むのである。これで湯が沸く。北米先住民のストーンボイリング調理と同じ原理だ。家族用の大きな浴室以外に、新婚夫婦用の浴室もある。よくできているではないか。


11民家02風呂01石焼
↑石焼き小屋  ↓浴槽
11民家02風呂02 11民家02風呂03縦



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中国自然歩道を往く(Ⅲ)

撮影した場所が地図上に表示される


久松山から摩尼山へ

 9月26日(水)、本日の天気は晴れ。絶好のトレッキング日和だ。ここ数日、鳥取では雨天が続いていた。旅に出て外で遊びたいが、何もできないことに歯がゆさが募る。インドアの生活が続いたせいか、今日のトレッキングが楽しみで仕方なかった。
 鳥取市街地にある久松山は、鳥取城のあった国指定史跡でもある。今日はここを出発して、摩尼山経由で福部町箭渓(やだに)を抜け、立岩山坂谷神社(県指定天然記念物)を終点とするコースを歩く。このルートは、前期のプロ研発表会で提案した摩尼山を中核とする景観保全トライアングル(↓)のひとつだ。あのとき資料作りを担当したこともあり、前から気になっていたコースを実際に歩くことができるのは、とても誇らしい。ただ楽しむだけでなく、ルートマップ作成の基礎情報を得るための調査でなければならないという自覚をもった。


摩尼トライアングル


 10時、県立博物館の駐輪場にバイクを駐め、白帯さんとまずは久松山の頂上を目指す。3日間籠もりっきりの生活をしたせいか、足が鈍っていて辛い。20日に富士山を楽勝で制覇したとは思えない足取りだったが、30分後には何とか山頂へ到着した。ここへ来るのは、個人的に2回目となる。この4月、山岳同好会の新歓で訪れて以来だが、その日は曇りで視界が良くなかったから、初めて市内を一望でき、その光景にちょっと感動した。山頂までは市街地から気軽に登れるため、多くの登山者が見受けられる。登山者と言っても、軽い運動程度の服装で、荷物もなく熊避けの鈴しかつけていない人ばかりだ。逆にザックを背負った格好のほうが場違いに見えてしまう。


久松山5合目から市街地を望む


 その後、北東へ十神林道東坂道ルートを進むが、登山者はまるっきりいなくなってしまった。考えてみると、その後のルートで誰とも出会っていない。一応久松山から摩尼山までは国指定の中国自然歩道なのに、この現状にがっかりした。山頂を下り始めてすぐに大きな休憩舎がある。昔運行していた久松山ロープウェーの山頂駅を再利用したものだ。ロープウェーがあったことなど何も知らなかった僕にとってはかなりの驚きで、調べると1976年に廃止されている。ちなみにもう一つの山麓駅は鳥取市埋蔵文化センターの倉庫として再利用されているそうだ。確かに立派な休憩舎だが、廃墟化しつつあるし、ただ駅舎があるだけで結構不気味だった。少し工夫するだけで、名物スポットになりそうな予感がするだけにもったいない。


旧ロープウェーの休憩所
↑旧ロープウェーの休憩所


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雷龍の彼岸(Ⅳ)-ブータン仏教紀行

10西岡04リンゴ001


西岡京治のこと

 ティンプーからパロに至る山道の峠に農民たちが出店をして、野菜やチーズを売っていた。そこで一休みし、私はでっかい赤唐辛子とヤクのチーズと赤米を買った。いまそれらは下宿の冷蔵庫の中にある。
 運転手がリンゴを買って、一つ分けてくれた。「美味いよ」と自慢げにいう。ガイドのウータンさんが続けて語る。

  「西岡さんが日本から苗をもちこんで栽培するようになったリンゴですよ。
   ブータンにはこの半分くらいの小さいリンゴしかなかったんです。
   西岡さんのおかげで、こんなに大きなリンゴができるようになったんです」

 ほんとうに美味しいリンゴだった。甘さと酸っぱさのバランスがちょうどいい。なにより新鮮で瑞々しい。
 パロに入り、丘の上にある西岡京治メモリアル・チョルテンを目指した。山道から谷底を見下ろすと、一面に棚田がひろがっている。


10西岡05棚田


  「この棚田で、西岡さんが白米の栽培をひろめたのです」

とウータンさんが教えてくれた。ブータンの水田は白米と赤米の田が入り混じっている。エンジの穂が赤米(↓)、緑の穂は白米だ。ブータン人は伝統的な赤米のほうが好きだという。が、白米の導入により、米の生産量が著しく向上したのは言うまでもない。白米にくっついてきたのが案山子(かかし)だ。ブータン語(ゾンカ)で「かかし」にあたる言葉はないらしく、会話では英語の「スケアクロウ」がもっぱら使われる。ちなみに、ブータンでは英語も公用語の一つであり、みな英語が上手い。この点、異国の旅行者には楽な国である。

10西岡01赤米01


 山上の駐車場に着くと、近代の建物が横にあった。看板に英語が書いてある。

      National Seed Centre
   Ministry of Agriculture and Forest 

 「農林省国立種苗センター」か。おそらく西岡さんが設立に係わったのだろう。そこから、ダルシン(経文旗↓)たなびく参道が続く。マニ車殿を経て、まもなく西岡京二(にしおかけいじ)メモリアル・チョルテンに到着した。いまさら私が説明しても仕方ないので、看板に掲示された日本語の解説文を転載しておく。


10西岡01旗なびく

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雷龍の彼岸(Ⅲ)-ブータン仏教紀行

05マニ車01タイガーズネスト


摩尼車

 あれは2010年11月末の発掘調査公開検討会の日だっただろうか、倉吉在住の建築家から、「摩尼(まに)とはどういう意味なのですか」と問われた。これは大変難しい質問である。いまグーグルで「摩尼寺」を検索したところ、鳥取市覚寺の摩尼寺が一発でヒットした。ページをめくっていくのだが、他県の例はまったくない。「摩尼」を寺名に冠する寺は、日本で一ヶ所しかないのだろうか・・・と書いたら、さっそく会長よりメールで以下の回答があった。

  平凡社の『分類索引』(日本歴史地名体系50)によりますと次のようでした。
   1 摩尼院(大阪府)  2 摩尼院(香川県) 3 摩尼王院(新潟県)
   4 摩尼山(鳥取県)  5 摩尼玉院(香川県) 6 摩尼寺(鳥取県)
   7 馬庭山寺(奈良県)

 その摩尼とは何か。マニという音声は、サンスクリット的というか、ラマ教(チベット仏教)的というか、なんだか分からないけれども、南アジアの密教に係わるだろうという思い入れが拭えない(汎アジア的ひろがりをもったマニ教とも係わるのかもしれないが、ブータンは分布範囲の外にあるようだ)。

 
04マニ車01パロゾーン寺院01

 1992年のラサ。高山病に苦しみながら、ポタラ宮に上り、寺を巡り、民家の実測をした。敬虔なラマ教徒が寺に押し寄せ、仏堂の前に跪いて仏像を拝み続ける。線香もあったかもしれないが、針葉樹の葉を大量に燃やしていた印象が強い。そして、マニ車がくるくる時計まわりに回っていた。もちろんわたしも回した。その次は2009年3月のネパール。いまlablogの紀行文を読み返していた。結構おもしろいね。ブータンと比較できる資料を自ら書いているんだ。その後、さらに中国山西省五台山の塔院寺大白塔の下で学生がマニ車を回したという記録も残っている。五台山は中国仏教とチベット仏教の両方の聖地であるから、ラマ教系寺院にマニ車があるのは当然のことだが、それらは大掛かりなものではない。
 チベットおよびネパールのマニ車については、回廊と複合するイメージがある。仏堂やストゥーパを囲繞する回廊にマニ車が取り付けられており、それを時計まわりにくるくる回して、仏に近づいていくのだ。マニ車の数は108だったはずだ。除夜の鐘の108。五台山の石段も108。煩悩を消す108のマニ車。


04マニ車01パロゾーン寺院02

 そもそも、マニ車とは何なのか。マントラを描いた円筒のなかに経文を納めており、いちど回せば、その経文を1回唱えたことになり、回した数だけ功徳を積む。日本語では「摩尼車」あるいは「転経器」、中国語では「如意宝珠」、チベット語で「マニコロ」という。昨日紹介したボン教にも同類の「マシモ車」があり、こちらは反時計まわりに回す。ラマ教の境内で左に回すと、ボン教のしきたりに倣ったことになり、異教徒の仕業となじられるから、素人の旅客に対しても時計回りをガイドは強く指示する。
 マニ車におけるマニとは経文のことだが、しばしば「真言」と訳される。


03第3代国王メモリアルチョルテン03
↑ 第3代国王メモリアル・チョルテンの摩尼車。大きなマニ車を右手で回し、小さなマニ車を左手でまわす。
↑↑【上の2枚】 パロゾーン(パロ城=市政府)のマニ車
↑↑↑↑【いちばん上】 タイガーズネスト(タクツォン僧院)の遙拝地点でインド旅客と記念撮影

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雷龍の彼岸(Ⅱ)-ブータン仏教紀行

01タイガーネスト01


山野の匂い

 ハードディスクに溜まっていた勝新太郎の座頭市TVシリーズを、毎日録画でみている。ロバート・デ・ニーロに比肩しうる役者が日本に居たという再発見の驚きとともに、画面を通時的に埋め尽くす風景に魅せられている。江戸時代の風景は、昭和になってなお日本の各所に温存されていた。だからこそ、ああいう映像を撮れたのだろう。そして、座頭市の風景や服飾をみていると、ブータンの旅を思いだす。
 ブータンの民家はチベットのそれを石造から木造(+版築壁)に変えたようなもので、日本民家の系統とは大きく異なるけれども、散居村的に建物を山野にばらまいて生まれた風景の印象は、ひどく昭和の日本-江戸時代の日本というべきか-を彷彿とさせる。
 懐かしい何かがそこにあり、その上に日本とは異なる何かが匂っている。その匂いのもとは、どうやら仏教の違いにあるらしい。


02ブータン山野03パゴダ

 インドからチベット、ブータン方面に仏教が伝来したのは8世紀で、ご存じのとおり、チベットでは「ラマ教」と呼ばれるようになる。これらヒマラヤ周辺地域は、仏教が普及する以前からボン教という特殊な宗教に支配されていた。ボン教は中央アジアに起源する世界最古の宗教(の一つ)であり、自然崇拝をベースにしているが、いわゆる無文字社会のアニミズムとはことなり、仏教にも似た宇宙観をそれなりに体系化していたようだ。
 西暦747年、パドマサンバヴァ(グル・リンポチェ)がブータンにニンマ派仏教を伝えた。ここにいう「グル」はオウム真理教における用語と同義であり、チベット仏教における「ラマ」すなわち高僧を意味する。ボン教を信仰する土地の人びとが難なく仏教徒に変わっていったわけではない。それなりの抵抗もあっただろうが、宣教のため、グルとその弟子たちはボン教の用語をもちいて仏教の説明をした。その結果として、ボン教と仏教が習合していく。当然のことながら、ブータンにおけるニンマ派仏教はボン教の要素を多々含むようになるのである。このあたり、日本の修験道にも似た宗教の融合を感じさせる。
 11世紀になると、チベットからラマ教諸派がブータン地域に浸透し始め、次第にドゥク派が勢力をひろげてゆく。ドゥク派は14世紀にティンプー周辺、17世紀に領土のほぼ全域を制圧して、独立国家の誕生を導いた。山野にあって、私たちの目を惹きつける古刹の多くは、14~17世紀の創建にかかるという。


02ブータン山野01牛

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サテンドール(ⅩⅢ)

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あかり舎 cafe

 2010年10月の「遥かなまち、くらよし探訪(ⅩⅣ)」という記事をまずは参照してください。きっかわ嬢と竹蔵が倉吉の「看板建築」の実測をおこなっています。この実測には、現4年生のおぎんちゃん(当時2年生)も参加しており、看板建築を町家の外観に修景しつつ、内部をカフェにコンバージョンする計画案を彼女たちは提案しました。ちなみに、そのカフェの名はGorinto(五輪塔)でした。「Gorintoで花林糖!」を売りにして、大衆和菓子喫茶だ、なんてことを言ったような、言わないような・・・よく覚えてません。実際の修理工事は今春から始まり、6月の「環境学フィールド演習」では約50名の1年生が現場を視察しています。

 たしか武夷山でだったと思うんですが、そのカフェが竣工している、という話を会長から聞きました。
 会長から、今回の淀屋における六弦倶楽部の練習会を聴きに行きたい、ついては時間を教えてくださというメールを頂戴しました。わたしは、「えぇぇい、まかりならぬ」と要請をはねのけたんです。だって、恥ずかしいもん。


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 というわけで、練習会終了後、会長に電話し、二人は営業中の町家カフェをめざしたのです。建物のことは言うまいか。同業者が泣くもんね・・・やっぱり、一寸愚痴をこぼしておくか。ガラス窓の意匠をもっと大正・戦前風にしてほしかった。ここは、わたしたちが非常にこだわったところでしてね。もうちょっと数寄屋が入っているのですよ、もうちょっと。曲線が欲しい。そのモデルは本町通り商店街にいくらもあります。

 建物はさておき、問題は紅茶葉だ。紅茶の店だと聞いて楽しみにしていたのですが、なんと、「とっとり紅茶」を売りにしているではないの。マスターに言いましたよ。「地物」であればよいという発想はあかん。地産地消で成功する場合もあれば、そうでない場合もある。地物の紅茶が「紅茶」と呼ぶに値しない茶葉であることを、紅茶の通はみな知っています。紅茶の通がよりつかないような紅茶の店になりたいのなら、それでもよいけれど、鳥取市内某登録文化財のカフェもまた「とっとり紅茶」を使って店が傾いた。二の舞になりますよ。


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↑修景前(2010)

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嘲笑 -第22回六弦倶楽部練習会

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 既報のとおり、倉吉市の指定文化財「淀屋」で六限倶楽部の練習会が開催されました。半年ぶりの会に大勢の参加者があり、一般の来場者も畳座敷に坐って演奏を聴いてかれました。
 それはさておき、鳥取の下宿に戻ったら、BSフジで放送中の「座頭市」シリーズが34話もたまっていて、視はじめたら止まらない。睡眠不足で、練習もままならず、なんとか淀屋にかけつけましたが、準備していた楽譜の一部を下宿に置き忘れてしまった(いつものことですね)。かくして楽譜はなく、ぎっくり腰の症状が癒えぬまま、たけしの「嘲笑」、青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」、高田渡の「仕事さがし」、細野晴臣の「恋は桃色」を2回に分けて弾き語りしました。前回に続き、またインストなしです。以下、簡単に解説しておきます。


1.嘲笑

 作詞 北野武、作曲 玉置浩二(安全地帯)による1983年の作品。4次元的宇宙を感じさせる素晴らしい曲ですね。カラオケでよく歌います。ネット上で簡単に楽譜が手に入りました。イントロや間奏、エンディングはピアノによるものですが、そのままギターに置き換えました。コード進行もよく練れている。弾いてみれば分かりますが、聴いてる印象よりずっと難しい曲です。とくにやっかいなのは、2回めの間奏の高速アルペジオ。ピアノでは楽かもしれんが、4フィンガーのギターで弾くのは骨が折れる。キーはAですが、一度めの間奏でいきなりFに落とし、G7を経由してAに戻していきます。アンドリュー・ヨークやニール・ヤングが得意とする転調を玉置が使っているので、少々驚きました。
 もう少し淡々と歌いたかった。


2.伊勢佐木町ブルース

 前回の不完全な「伊勢佐木町ブルース」を少しでも完成形に近づけたいと努力したわけです。で、また、やっちゃった。間奏とエンディングを考えたの。アドリブではいけない。やはり、ちゃんと音を選んで練り上げておこう、ということで、そうしたつもりです。ここまで1回め。


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福建丹霞逍遙(Ⅵ)

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 9月4日朝、泰寧を発ち、「丹霞」地形を背にして福州へ引き返した。昼前に市内へ到着して、まず華林寺へ。

華林寺大殿

 華林寺は福州市街北部の屏山南麓に境内を構える。北宋乾徳2年(964)の創建で、大殿のみ当初の姿をとどめている。長江以南の南方中国において最古の木造建築である(全国重点文物保護単位)。
 福建省の古建築は禅宗様と大仏様の両方の要素が混在しており、年代が古いほど大仏様の要素が強いと聞く。中国での古建築視察となれば、恒例の「抜き打ちテスト」が必ずある。3年前の「晋の道-山西巡礼」や一昨年の「隴の道-甘粛巡礼」では、訪れた寺院で一人ずつ建築的特徴を順に挙げていった。教授からのプレッシャーと、メンバーとの駆け引きでエアポートや部長・黒帯とともに四苦八苦したのが懐かしい・・・この旅でも密かに予習をしていたのだけれど、今回は環境学部のイッポが参加していたこともあって、テストはなし。白帯ともども一安心だった。

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 大殿は、桁行3間×梁間4間の寄棟造で、日本流の間面記法(けんめんきほう)で表現すれば、「一間四面」となる。この場合、身舎は1間×2間と特異だが、その1間(中央間)は脇間にくらべてはるかに長い。明・清代に修理されているものの、小屋組と組物は創建時のものである。柱はすべて丸柱で粽はなく、柱頭を円形断面の虹梁でつなぐ。組物は通肘木と尾垂木を用いた四手先の禅宗様詰組だが、台輪を省略している。巻斗だけでなく、大斗にも皿斗がつく。尾垂木には大仏様繰形を上面に彫る。軒は一軒隅扇垂木で、垂木先には鼻隠板が取り付く。内部は化粧屋根裏で、長い入側柱の柱頭に大斗をおくところは大仏様と異なるが、中間部に挿肘木(さしひじき)を多用。大斗上の小屋組は北方的な「擡梁」式(虹梁積み上げ)としている。


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 このように、円形断面の梁・通肘木・繰形・一軒隅扇垂木・鼻隠板・挿肘木・皿斗付巻斗など大仏様の要素が基調をなすが、組物・礎盤・四半敷などは禅宗様であり、小屋組は北方風の?様式を継承している。泰寧の甘露寺(戦後再建)は、東大寺再建に係わる日本人が「東大寺大仏殿再建前に視察にきた」という寺伝を有するが、大仏様の要素は希薄であった。華林寺大殿の場合、重源の訪中年代に福州に存在したのは間違いなく、「日本人が視察した」可能性がないとはいえない。しかし、3間×4間という小型の仏堂を大仏殿の参考にしたとは考え難い。華林寺の場合、福州における有力な寺院でなかったからこそ、今日まで当初の姿を維持したのであり、日本人が視察したとすれば、もっと大きな仏堂(やアクロバティックな大型の懸造?)を参照したのではないだろうか。


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↑大殿の平面を略測

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淀屋でギター

 昨日、ぎっくり腰やっちまいましてね、とほほ・・・
 理由がよく分からない。この夏はトレッキングとスロージョギンをずいぶんやりました。一昨日ホームドクターに診てもらったら、血圧がぐぅ~んと下がっていて、喜んだばかりです。上がマイナス30,下がマイナス15。夏休み前と比べると、体調は上向いているはずなんすが、やはり車の長距離運転は疲れる。新しい車と腰があわないのかも。
 ぎっくり腰のままソファに腰掛け、弦を張り替えたの。厳密に言うと、4弦が切れたままのエレガットに新しい弦を6本張って弾ける状態に復しました。今回はじめてアーニーボールの黒いナイロン弦を使ったんですが、根元にひっかけがついている。ブリッジに結びつける必要がなく、楽でしたね。

 というわけで、この日曜日、六弦倶楽部の練習会が倉吉最古の町家「淀屋」で開催されます。
 な~んにも準備してません。練習しようとすると、配偶者に叱られてしまいます。「近所迷惑だ」の一点張りですが、まぁたしかにそうだな。

 詳細は六弦倶楽部のサイト( こちら )をご参照いただきたいのですが、以下に要点だけ整理しておきます。
 
 
 第22回六弦倶楽部練習会

   日時:9月23日(日) 午前11時~
   会場:倉吉淀屋(旧牧田家住宅=倉吉市指定文化財)
   住所:倉吉市東岩倉町 
   電話:0858(23)0165

福建丹霞逍遙(Ⅴ)

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上清渓筏下り

 9月3日の午後、泰寧遊覧の名物「上清渓筏下り」を体験した。上清渓とその流域の「丹霞」も世界ジオパーク・世界自然遺産に登録されている。岩山(砂礫岩の巨岩)・洞穴と峡谷が織りなす景観を楽しめる。渓流の総長は約16.5km、浅瀬が多いが最深部の水深はおおよそ4mという。川幅は狭く、最も狭い場所では両手をひろげると両岸の岩壁に手が届きそうなほどで、ちょっとした探検気分を味わえる。もちろん救命胴衣着用で、安全安心の筏下りである。筏は2台を並列連結されており、前後2名の船頭さんが筏を操る。
 艫(とも)側の船頭さんがずっと解説し、その前に坐ったガイドの林さんが日本語に訳してくれて、それを録音した。まず、急流ではないという説明があった。それを知って僕はホッとしたが、ラフティング・インストラクターの資格をもつイッポは物足りなさそうな顔をしている。筏下りは出張前から楽しみにしていたので、乗船後、ずっとワクワク感が止まらなかった。


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 他の場所でもそうだったが、岩山・岩肌や洞穴の形をコブラやワニなどいろんなものに見立てている。どう見てもそうは見えない例えもあったが、面白かった。先生によると、岩山地形・地肌・洞穴そのものは自然遺産だが、そこに「見立て」が加わると文化遺産の対象になるそうだ。筏下りの所要時間は2時間。もうたっぷり「丹霞」を堪能できたのだが、いくら名物と言えども、自然遺産ばかりではやや飽きてくる。これに寺院や民家集落、茶畑などの文化遺産が加わればいうことないのに、と思った。ちなみに、十二支それぞれの形をした洞穴もあるらしく、自分の干支を見つけられたら幸せになると言われている。僕はそれを信じて探してみたものの、どれがどれだか全く分からず下り終えてしまって、少し残念だ。


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↑河原に下りて記念撮影
 

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石窟寺院研究会のお知らせ

 このたび平成24年度鳥取環境大学特別研究費助成「摩尼寺奥の院遺跡の文化資産保護と環境整備計画」の一環として、「アジア石窟寺院研究会」を9月30日(日)午前に開催することになりました。講演者は岡村秀典教授(京都大学人文科学研究所)です。岡村教授は中国考古学の大家ですが、今回は西インドの石窟寺院についてご報告いただきます。
 会場は家カフェ「カフェ黒田」の座敷で、10~15名程度の会を想定しております。参加ご希望の場合、浅川までご連絡ください。本ブログのコメント欄、もしくは拍手コメント欄を活用いただいてかまいませんが、その場合は、ご自身のメールアドレスをお知らせください。



  1.会の名称:アジア石窟寺院研究会

  2 講演者: 岡村秀典 教授(京都大学人文科学研究所)

  3 演 題: 山中の仏教寺院 -西インドの石窟寺院を中心に

  4.日 時: 平成24年 9月30日(日)
          09:30~12:30 講演~討議

  5.会 場: カフェ黒田
          鳥取県八頭郡八頭町郡家360-1
          TEL.0858-72-0159
          交通アクセスは こちら を参照


木彫仏のサンプル採取

 連休明けの火曜日、自宅の駐車場拡幅工事が入る予定だったのだが、雨で中止。研究所に出向くと、中国出張が中止になったという話を耳にした。飛行機代戻ってこないとか、なんとか・・・戻ってこないとしても、いま行くべきではないよね。日常会話レベルの中国語が話せない日本人はとくに危ない。デモにもぐりこんで、不審に思われたとする。

   「おまえ、どこのもんや?」
   「広東や」
   「広東のどこや?」
   「神的ちうところや」
   「そんなん、知らんで」
   「小さい漁村やがな」
   「釣魚島まで漁に行くんか?」
   「いんや、西沙のほうや」

ぐらいの会話ができれば大丈夫かな。下手な標準語を話す南方人で通用するかもしれない。

 年代学研究室に預けておいた摩尼寺「奥の院」の木彫仏、結局、古い方の1体は広葉樹、他の1体は針葉樹だが年輪数が少なく、年輪年代測定は不可能と判断され、チップを放射性炭素年代測定することになった。ウィグルマッチングするのがいちばん良いと言われたが、その場合、1体で4~5点必要だそうで、まぁざっと30万円の支出を覚悟しなければならない。2体で60万円か。今年は無理だ。小銭入のなかに残っている末吉の御神籤を読み返すと、「学問が危ない」と書いてある。ほんと、そういう年になってしまった。ただし、末吉ならば、年の後半で運気が上昇する可能性もあるわけだな。

 測定にかける木彫仏の破片は米粒程度の大きさであり、本体から剥落した破片にしようかとも思ったのだが、年輪との関係を知る上で採取部位が重要とのアドバイスをうけ、目立たない部分をカッターで切り取った。いわゆる「破壊分析」になるわけで、ご批判を頂戴することになるかもしれないが、諸般の事情を勘案するならば、仕方ないだろうと思う。以下、採取部位の記録です。

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【木仏1】 正面↑

試料採取部位
 木仏1-1:広葉樹材像 左袖下端部
 木仏1-2:広葉樹材像 台座右側面

 仏教美術史の専門家によれば、「平安末?」という会長の鑑定には頷けるとのこと。「帝釈天」像の可能性があるという。下層の本尊なら大ヒットですが・・・

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↑↓ 木仏1-1 試料採取状況
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福建丹霞逍遙(Ⅳ)

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大金湖と甘露寺 

 9月3日(月)。武夷山から賽下大峡谷まで2万歩近く歩いた体は悲鳴を上げている。その疲労も癒えぬまま「大金湖」を訪れた。大金湖遊覧のゲートに「世界自然遺産」と「世界地質公園」の標識を発見。今回訪れている泰寧県では赤い砂礫岩による丹霞地形が集中してみられ、泰寧のほか6カ所9件を範囲として2010年に世界自然遺産に登録されたばかり。地質・地形がとくに顕著な泰寧、丹霞山、竜虎山は、2005年の段階で世界地質公園(ジオパーク)になっていた。前日訪れた賽下大峡谷もこの範囲に含まれる。
 めざす甘露寺は大金湖畔の岩山の大きな窪みにあるため、船で向かう。団体遊覧船ではなく、小型の高速船をチャーターしたおかげで、15分ほどで着いてしまった。


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 波止場から甘露寺までの道中に「鐘鼓山」や「如来仏祖」などの奇岩が連続する。上の写真をみていただきたい。如来の横顔にみえませんか。歩を進めるも甘露寺は姿を見せない。岩山の麓にある「浄手池」で手を浄め、石積みの塀をくぐると、ようやく岩窟にそびえ立つ堂宇群が目に飛び込んできた。最後の最後まで全容を隠す演出は、三仏寺投入堂を連想させる?


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 甘露寺は、南宋紹興16年(1146年)創建の古刹だが、1961年、僧の失火により境内が全焼し、現存する建物は1964年以降の再建である。大雄宝殿の虹梁下端には「公元壱九六四甲辰年九月吉旦」の墨書が残る。かりに南宋の懸造が現存するとなれば、国級重点文物保護単位は間違いない。世界自然遺産内に所在するからには「世界文化遺産」と評価され、このエリアは世界複合遺産となっていたであろう。今の評価は「三明市重点寺院」である。岩窟の地質は赤色の砂礫岩で、高さ80m、幅は上部約30m、下部約10mを測り、逆三角形を呈している。奥行きは30m以上ある。窟の上方に竜頭の形をした鍾乳石があり(確認できなかった)、甘美なしずく(甘露)が年中垂れている。寺名の由来はここにある。


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福建丹霞逍遙(Ⅲ)

0902巨大な峡谷


寨下大峡谷

 2日の午後、武夷山から泰寧県に移動した。泰寧は福建省三明市に含まれる面積約1400キロ平方メートル、人口約14万人の県。丹霞地形はこの県を覆い尽くしている。ただし、世界複合遺産ではなく、世界自然遺産のみの対象地。もちろん世界ジオパークでもある。泰寧は製鉄業が盛んで、杉の産地でもあり、材木工場が多い。「蛇の王国」とか「竹の海」とも呼ばれている。「蛇」は閩菜(福建料理)の名物として知られる。学生一同食べたいという意向を示したが、あまりに高価で断念した。
 寨下大峡谷は城鎮(市街地)と大田郷が境を接す泰寧世界ジオパーク公園の中核エリアである。福建省の邵武から広東省の河源に走る地質断層の一部を占める。今から約6500万年前に形成し発育した青年期の丹霞地貌(赤色岩山)の峡谷景観が連なる。泰寧県内部の景勝区の面積は約2k㎡で、地形は蜷局を巻く1匹の竜に見立てられる。奥深い山中は植生が豊かで、渓流が縦横に走る。「この世の桃源郷」とも言われる。歩道は3本あり、それぞれ同じ出入口で3本の峡谷が三角形になっている。その三角形から天に通じるので、「天に上る峡谷」と考えられている。出入口近くの川には、村(寨)の代表的な風水樹の楓がある。ウッドデッキの階段を登ると2本の樹木によって自然の門のようになっているところがあり、少し進むと竹林がひろがる。

0902左右の地質が異なる
↑左右の岩肌が異なる

 今から4億年前、寨下大峡谷は海の底にあった。そのため岩に多くの穴があいている。丹霞の地形を水が削っている。水流が地形変化の要因で峡谷を作り出した。峡谷を挟む二つの岩山は地質・地肌がちがってみえる。一方は崖に草が生い茂り、他方は植生のない岩山なのである。先に隆起してできた古い岩山に草が生え、新しい方には草が生えていない。谷は大きさによって呼称が異なる。幅1.5m以内のものを「線谷」、幅1.5~3m以内なら「巷谷」、それ以上の大きなものを「峡谷」と呼ぶのだ。

0902堰塞湖
↑堰塞湖

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福建丹霞逍遙(Ⅱ)

0902茶畑


 9月2日。朝早くホテルを出て、武夷山の水簾洞景区、武夷宮景区、一線天景区を巡る。一昨日も述べたように、武夷山は世界ジオパークから「世界双遺産」(世界複合遺産)になった希有の遺産である。丹霞のカルスト地形だけでなく、「朱子学」「岩茶畑の文化的景観」「古代閩越文化」が評価されている。崖や洞穴・岩陰と係わる古代文化は閩越よりもさらに古く、「船棺葬」の習俗もよく知られている。絶壁のあちこちに洞穴や岩陰があり、そこに古代人は船形の棺をおいた。洞穴、岩陰は非常に多いが、日本のように仏教と結びつく傾向が武夷山にはみられない。武夷山では神仙思想(あるいは道教)と朱子学の影響が強く、平場の仏寺も多いとは言えない。


0902水簾洞 2012水簾洞01


武夷山水簾洞

 水簾洞は武夷山最大の洞窟がある絶壁。海抜は200メートル前後で石段は少なく、平べったい道ばかりで歩くのは楽だったが、入口から徒歩で1時間はかかる。岩山の周辺には茶畑が棚田状に展開し、武夷山特有の文化的景観を堪能できる。武夷山は「岩茶」の茶葉(非常に高価)の産地であり、その原木を今も保存している。ここの茶葉は年に一回の春摘みのみとされる。水簾洞景区の中心は三賢祠の正面を流れ落ちる滝であり、それを「水の簾(すだれ」と称しているわけだが、渇水期のため流水が少なくなっている(↑左)。それでも、迫ってくるように反り返った断崖絶壁は圧巻だった。崖壁の上から一本のロープが下に伸びている。それを伝っていくと水溜めの方池がある。方池から石段をあがると基台があり、そこに三賢祠が建ち、その脇に泉がある。水汲み用の湧水池であり、以前は農民が生活水として利用していたようだ。
 滝の落水が多くなるのは3~5月の雨季で(↑右:クリックすると絵葉書拡大)、他の季節は降水後に「滝」らしくなる。滝の奥に鎮座する三賢祠は木造平屋建平入、屋根を木片葺とする。せり出した崖の岩陰の奥にあるため、雨水が建物にかからないので瓦がいらない。内部は一室で、中央に朱熹の師匠「劉子」、左に朱熹、右に朱熹の友人「劉甫(屏山先生)」の像を祭る。この建物はもともと屏山先生祠として南宋の1147年に建てられたものであり、後に劉甫と朱熹の像が加わって「三賢祠」と呼ばれるようになった。棟木には民國十二年(1923年)と記されており、この年の重建である。
 水簾洞の景観は鰐淵寺蔵王堂と浮浪滝が著しく巨大化したイメージだ。


0902階段の途中に休憩スペース
↑水簾洞に向かう石畳の道と休憩スペース。ジオパークと世界遺産をめぐる登山道の整備として参考になる。

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今日関注(Ⅵ)

0904今日01


 14日早朝、ブータンより帰国した瞬間、中国公艦6隻の尖閣領海侵入の報に接した。一夜あけて、中国内の反日デモが至上最大規模に拡大。私の読みは間違っていたのだろうか。「右翼」的勢力ではなく政府が尖閣を買って島内に施設は一切作らせないようにする。だから、中国も大人しくしてくれと民主党政府は裏取引していたからこそ「国有化」が一気に進んだと思っていたのだが、中国は「国有化」に対して荒れ狂っている。島を買おうとした都知事の息子は、総裁選のインタビューで何度も「民主党政府が根回ししていなかった」ことを非難しているが、かりに東京都が買って施設計画をぶちあげていたら、どうなっていただろう。こんなレベルの反発では済まない。武力衝突もありえたかもしれない。民主党政府が頼りないとはいえ、外務省が中国の政府筋とパイプをもっていないはずはないのであり、「国有化」の理由を説明しなかったとは思えない。本当に根回しがなかったとすれば、民主党政府の間抜けぶりは想像をはるかに超えている。今の展開には、中国政府も驚いているのではないか。しばし「棚上げ」としておけば、両国の国益を損なうことはない。両国とも時間をかけて策を練るしかないだろう。以後、どちらの策が上回るか。


0904今日02


 出張中に録画しておいた番組を何本か視た。9日の「鷹人委員会」はちょっとひどいね。この日は上から下まで右寄りの論客をズラリ並べて「韓国も中国も思い知らせたれ!」という好戦的発言が正論のようにして踊りまくった。いつもなら但馬先生が一人ブレーキをかけるのだが、この日は招かれていない。私は但馬先生の信望者というわけではなけれども、彼女の意見が正しいと感じることもしばしばある。まずはなにより外交に努力しなければならない。無駄だと分かっていても尽力する。抑止力としての軍備増強はやむをえないかもしれないが、それは戦争を避けるための手段であって、戦争の準備であってはならない。この日、慎重論を述べたのは中田前市長のみ。尖閣への上陸や施設配置などは中国を刺激するだけからしばし控え、八重山諸島への自衛隊駐屯と関連法整備を急ぐべきとする主張には頷ける。

 福建滞在最後の夜(4日)に戻ろう。一昨日述べたように、「今日関注」の前半は日本政府の尖閣国有化に議論が集中した。この段階では、まだ政府は島を買っていない。買うことになりそうだ、という報を受けての予測であるが、「都であろうが、国であろうが、どっちが買っても茶番にすぎない」という論調であった。


0904今日07

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福建丹霞逍遙(Ⅰ)

0901一歩 九曲溪を下るいかだ


武夷山天遊峰

 9月1日、中国滞在2日目。福州市内の高級ホテルを7時に起床。7時半からテラスで優雅な朝食をテラスでいただいた。目をまともに開けていられないほどの陽射しと南国特有の蒸し暑さがある。福建省は台湾とほぼ同じ緯度だから、この暑さも頷ける。
 8時、ワゴン車に乗り、目的地である南平市の武夷山へと向かう。武夷山へは高速道路を飛ばして5時間はかかった。道のりは約350キロ。東京〜名古屋間とほぼ同じ距離だ。半日の移動はかなり体の負担が大きく、車中の大半は爆睡だったものの、武夷山到着後の僕の足は完全に硬まっていた。この状態で午後は往復2時間半ほど山歩きをしなければならなかった。


0901一歩 頂上に登る石段


 武夷山の街は、まだまだ発展途上の段階と言った感じ。2〜3年前に建てられた建造物ばかりで、ホテルのある繁華街以外は農家を中心とした田舎の風景がひろがっていた。山奥の小さな街という印象を受けたが、海抜は100m以下。蒸し暑さも福州とさほど変わらない。
 武夷山の山間部一帯は「丹霞」地形の一部としてまず世界ジオパークになり、後に「世界双遺産」に登録された。「世界双遺産」とは自然遺産と文化遺産の両方に登録された世界複合遺産のことで、現在の世界遺産1000ヶ所以上のうち、複合遺産として認定されているのは25ヶ所に限られる。武夷山の場合、土地の自然保護に加え岩茶の原木を残す茶畑の文化的景観、「朱子学」誕生の場、古代「閩越」文化などの文化的要素を評価されている。


0901一歩 武夷山茶葉研究所

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今日関注(Ⅴ)

0904ヒラリー02


 ヒラリー国務長官が中華の地に降り立った9月4日、私たちは泰寧から福州に戻って華林寺大殿を調査した。長江以南では、最古の木造建築である。
 1990年代に何度かアモイ~泉州~福州をツアーした。福建は山西と並ぶ古建築の宝庫であり、芸術系の振興基金助成を得てそれを調査したのである。鎌倉時代に南方中国からの強力な影響のもとに成立した大仏様と禅宗様は、様式を大きく異にする。大仏様は福建、禅宗様は江南の色彩が強いのだが、禅宗様が南宋五山の禅林を直写すべく日本に導入されたのとは対照的に、大仏様にはモデルとなる寺院が福建に存在しない。重源(と陳和卿)が福建の様式を母胎にして独自に「大仏様」を考案したという見方が有力になっている。アモイ~泉州~福州には五代から宋・元に至る石造と木造の堂塔が相当数残っており(石造の細部は木造に準じる)、すべての遺構に大仏様と禅宗様の要素が混在している。そして、古くなればなるほど大仏様の要素が強いことが調査であきらかになった。その最古の遺構はたしか石造の塔だったように記憶しているのだが、木造に限ってみれば華林寺大殿が最も古い。ただし、その大殿にしても、純粋な大仏様というわけではない。大仏様に非常に近い存在だと以前感じたのは、風雨橋(屋根の架かった橋)や都市住宅や客家土楼など民間建築の細部である。時代は明末以後とやや新しくなるけれども、案外、大仏様成立背景の鍵を握っているかもしれない。


0904福州01茶店01


 調査終了後、市内の茶店へ。ガイドの林さん行きつけの店である。一同またしても鼻の下をのばし、茶を啜った。色白で涼やかな目をした娘さんで、東南アジア的形質の強い「閩粤」の特性が消えている。北方の匂いもするが、小柄で瞼は大きく、新モンゴロイドというほどではない。聞けば、四川出身だという。なるほど、蜀の人か。両親の仕事の関係で福州に引っ越し、今の職を得たのだという。
 彼女もまた数種類の茶を淹れてくれた。岩茶と鉄観音と紅茶にはすでにみな飽いている。ジャスミン茶と高麗人参茶に人気が集まった。滅多に財布の紐を緩めないイッポまでもが「買いたい」と言い出した。2缶買えば3缶めはサービスという口上に総崩れとなり、5人全員がジャスミン茶と高麗人参茶のどちらか、もしくは両方を買った。ちなみ、茶葉にジャスミンの花を混ぜる茉莉花茶は華北で好まれる。烏龍茶の本場、福建においてジャスミン茶を愛飲する福州は例外なのだ。ただし、福州のジャスミン茶に花弁は含まれない。ジャスミンのエキスを茶葉に染み込ませている。沖縄でもジャスミン茶が飲まれる。福州との距離は近いが、茶葉に花びらを含む華北系である。


0904福州01スタバ04中島

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今日関注(Ⅳ)

金魚甕


 9月3日。今回の調査の目玉ともいうべき甘露寺を訪問。大金湖の対岸に所在するため船でアクセスするしかない。団体専用の大型船では50分しか滞在できないというので、高速船をチャーターし、心ゆくまで調査することにした。甘露寺は丹霞地形に形成された巨大な岩陰・岩窟に構築された懸造の寺院。詳細は学生のレポートに委ねる。
 昼食後、まずは2時間の筏下りで丹霞を堪能し、夕方近くに泰寧の老城(歴史的市街地)を歩いた。ここに巨大な四合院「尚書第建築群」(全国重点文物保護単位)がある。中庭の大きな金魚鉢(甕)が羨ましく、「日本に持って帰ろう」と白帯に頼んだが断られた。広大な第宅を足早に眺め、表通りに戻る。ここで茶店に入った。近くにパン屋があり、エッグタルトとロールケーキを買い込んでの入店である。ここの看板娘は、娘さんではなく、お母様であった。彼女は「鉄観音」を私たちに薦めた。昨夜鼻の下をのばして恐るおそる買ったばかりの「鉄観音」である。安めの葉から高価な葉まで順に茶を淹れてくれた。試飲している当方の感想はと言えば、最後の最高級クラスよりも2番目が美味しいという意見が多数を占めた。


泰寧お茶


 さて、だれが買うのか。手をあげたのは、昨夜沈黙のタクオ。この店では1回分の茶葉7グラムを真空パックし、欲しい数だけ分けてくれるという。学科の先生方のお土産にしたいということで、1番目の茶葉を7グラム×10袋=100元(約1300円)で購入。それをみていた私は、「なるほどそういう手もあるのか」と思考をめぐらせ、2番目の茶葉を5袋仕入れた。単価は倍。7グラム×5袋=100元になる。この茶は、ほんに上品な味わいがあり、いまブータンまで2袋もってきている。これは効果があった。朝食のテーブルに白湯のポットを用意してもらい、茶葉の1/3袋分を浮かべて飲む。梅干とよくあうのね。体がしゃきっとします。また、モンベルの水筒に茶葉をいれてミネラルウォーターを注ぐと美味しい冷茶になる。2日間はもちます。


0903今日1

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今日関注(Ⅲ)

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 9月2日。ついに東京都が尖閣を調査する日を迎えた。調査は朝早く終わったらしく、中国のTVは繰り返し日本「右翼」の活動を映像で報じ続ける。
 私たちは午前に再び武夷山を歩いた。なんの騒ぎもない。「水簾洞」「 武夷宮」「一線天」の山道は平和そのもの。ただ、熱い。蒸し暑い。昨日は長袖長スボンの厚着をしたが、この日から軽装に切り替えた。道は石段と石畳の舗装で安定感があり、なにより虫がいない。蚊に喰われることがない。午後から泰寧に移動し、今度は「大峡谷」を2時間半ばかり歩いた。こちらではウッドデッキの歩道を周遊した。壮大な岩山の地形に圧倒されるばかりで、言葉にならない。人妻の現地ガイドさんによると、日本人が来ることはほぼないという。超穴場の景観に心躍るが、足はどんどん棒と化していく。会長持参のタニタ万歩計によると、この一日の総歩数は18700歩、歩行距離13km、消費エネルギー2100kcalだそうだ。このデータ、昨日と比べると、やや変ですね。一歩80㎝だとすると、18700歩は15㎞弱となる。1歩70㎝だと約13kmですが、山歩きをした実感では13㎞は短すぎるように思う。15㎞は歩いたでしょうね。


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 この夜はホテルロビーの茶店に入った。全国数百のチェーン店を展開する大企業のショウルームである。前夜とは打って変わって、娘さんが洗練されている。容姿端麗、仕草は女らしく、声が小さい。「鉄観音」を淹れていただいた。鉄観音の原産地は福建省泉州市安渓県であり、その娘さんも泉州の出身であった。日本茶に近い緑茶系の烏龍茶で、台湾の「凍頂」にも通じる味だ。発酵を3割でとめている。だから緑茶の色と味が残っており、おそらく日本人が最も好む中国茶の一つであろう。ちなみに紅茶の発酵は100%、岩茶は80%ぐらいだと思われる(間違っているかもしれない)。 みな鼻の下をのばして、高級茶を啜った。それにしても、こんな高価の茶葉をだれが買うのか。一同熟考し、3箱1セットの鉄観音を1セットだけ買い、3名で分けることにした(もちろん割勘)。ここで大物を逃す。月餅である。中秋節が近づいており、早くも月餅を売り出しているのだ。茶葉の店らしく、鉄観音の茶粉を混ぜた月餅と岩茶の茶粉を混ぜ込んだ月餅をラインナップしている。一同食指を動かしたが、値段を聞いて諦めた。詰め箱も大きく、荷物になる。おそらく免税品店で買えるという期待があり、断念したのが裏目に出た。免税品店のどこにも月餅はみあたらなかったのである。


IMG_08942.jpg



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雷龍の彼岸 -ブータン仏教紀行(Ⅰ)

 NOVOTELという名のエアポートホテルにいます。ここはバンコク。先の福建でもそうだったんですが、初日だけは宿舎が豪華なんだ。スィートルームみたいな部屋でキーボード叩いてる。
 さきほどスクンヴィットで屋台のラーメン食べてきました。タイのラーメンは美味しい。量が少ないからおかわりしたくなるんだけど、ぐっと堪えました。スロージョギングの成果が無になるっちまうからね。福建調査前後の10日間で、1時間コースを10本走ったんだから。昨日なんか、また脱水症状があらわれて、ふらふらのまま体重計にのったら、今夏の最低記録を更新してしまった。あの苦行を無にしてはいけない。

 会長の影響もあり、アマゾンで万歩計を取り寄せ、ポケットに入れて一日過ごしました。最新の万歩計はベルトにひっかけなくても、鞄やポッケにいれとくだけで正確な記録を残してくれます。歩数だけでなく、走行距離(一歩80㎝と入力した)、消費エネルギーが分かり、1週間前までのデータがメモリに保存されます。
 それによると、昨日は10635歩、距離8.5㎞で、479kcal消費したことになる。うぅぅん、消費カロリーが少ないな。ラーメン1杯分にもならない。1万歩では足らぬということですな。ブータンでは2万歩/日をめざそうかな。たぶん、ブータンもお酒が禁じられてるんじゃないかな。それもまた良し。最低体重を更新できるような生活をしてきますよ。

 というわけで、明朝4時起床、7時前の飛行機でブータンの首都ティンプーに向かいます。関空で買った『地球の歩き方』を読んで仰天してましてね。「日本の江戸時代を旅していると思え」と書いてある。写真をみる限り、たしかにそうみたいだね。望むところだ。昨年のミャンマーにも魅せられたけど、ブータンも期待できそうだ。ちなみに万歩計は健康のためだけじゃなくて、山道の走行距離を測るために有効だと考えたから入手したんです。ほかに、精度のたかい高度計とGPS内蔵デジカメももってきてるんですが、機械音痴の私が使いこなせるでありましょうか。
 

今日関注(Ⅱ)

0901今日03


 9月1日。5時間かけて福州から武夷山に移動した。曖昧な記憶だが、私は1992年に武夷山を訪れている。そのとき「曼庁山房」という山荘風のホテルに宿泊した。いまは新しい町ができている。コンクリートの疑似的歴史的景観の町並みでやや味気なく、できれば山房にもういちど泊まりたかった。
 1日午後、標高404mの万游峰に登った。一山一岩の代表格。「絶景」の一言に尽きる。会長は夏ばての後遺症で体調が芳しくなく、山頂で半死寸前。冷えたペプシを2本飲んで血糖値をあげ、私が持ち込んだ特効薬2錠を服して、なんとか精気を取り戻したが、夕食後ただちに休むと言う。残りの4名は夕闇の街にでた。目当ては茶店である。岩茶の街は茶店だらけ。何処も似たようなものだが、ある店を選んで中に入った。普通、愛想のよい看板娘が茶を淹れてくれるものだ。その店の売り子は娘さんではあったが、なかなかきつい目つきをしている。私たちが日本人ということで驚いた様子をみせた。それでも、もちろん茶葉を売りたいから、何種類もの茶を淹れて飲ませてくれた。この店に鉄観音はなく、岩茶と紅茶を数種試飲した。福建の紅茶は、良いものにあたると度肝を抜かれる。インドやスリランカとは全然ちがう紅茶の極楽がそこにある。キームンの癖をご存じであろうが、いかにも福建紅茶という茶葉に昨年の北京であたり、みな驚愕して一袋(500g)6000円の茶葉を買い漁り、帰国後、だれもがその味にまた唸った。


0901今日04茶01


 武夷山の紅茶は、唸るほどの味がしない。武夷山はやはり「岩茶」の産地であり、その代表格「大紅袍」を買った。買って帰ろうとすると、その女性はさらに高級の茶葉を選び、湯を注ぎはじめた。もっと試飲しろ、ということだが、顔付きがやや歪み、微かに嗤いながら、突然、

   「日本人は戦争したがっている」

と口にした。寝耳に水。現代日本人ほど「戦争」から遠い位置にいる民族もなく、むしろ中国が国境のあちこちで戦争してきたし、今もなおどこそこに焦臭い匂いがする。少なくとも、そういうイメージを世界は抱いているだろう。中国民間人の感覚はちがうようだ。彼女は、日帝時代の中国侵略を持ち出した。そして、こうも言った。

   「アメリカがいちばん戦争したがっている。日本に戦争させて武器を売りたいんだわ」

 馬鹿なことを言ってはいけない。日本政府も中国政府も「戦争したい」などとは思っていない。一部の過激な連中が過激な行動をとろうとしているだけであって、あくまで基本は「日中友好」だ。とくに今年は日中国交回復40周年だということを忘れないでほしい。周恩來と田中角栄がなしとげた国交回復を、こんなことでおじゃんにしてはいけないのですよ・・・などと反論。彼女の歪んだ笑みはいくぶんまともになった。


0901今日05
↑日本メディア: 日本は釣魚島に「専属警備隊」を組織し、配置しようとしている。

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今日関注(Ⅰ)

0831茶01


 今回の訪中(8月31日~9月5日)の目的は、武夷山を中核とする世界遺産「福建丹霞」の視察である。一山まるごと砂礫岩のカルスト地形がひろい範囲に展開しており、その迫力を堪能し圧倒された。調査の詳細は、同行した3名の学生が別に連載することになっている。わたしはあるTV番組を「茶」と絡めながら、お話ししたい。
 それにしても、危うい時期の訪中であった。訪問地は尖閣に近い福建省である。どんな扱いを受けるか不安でなかったとは言えない。が、ガイドさんを始め、おおかたの中国人は友好的だった。この問題を「口にしない」というのが双方暗黙の了解であり、唯一の例外がいたことを後でお伝えするが、なにより驚いたのは毎夜9時半から30分間放送される国際時事番組であった。CCTV(中国中央電視台)4チャンネルの「今日関注」という番組である。「関注」とは「関心と注意」であり、「本日の注目」とでも和訳すればよいだろうか。もちろん話題は「尖閣」に集中している。東京都の調査からヒラリーの訪中まで連夜目は画面に釘付けとなった。帰国後ネットで検索すると、制作はCCTVの香港支局?で、軍事専門家の過激な発言で視聴率を集めているようだ。


0831茶04


 日々の活動がトレッキングで、9月2日には13キロ以上の山道を歩いた。ビールは美味いが、食事は不味い。「農家飯」と呼ばれる地元の田舎料理屋に連れていかれては、「山の幸をどうぞ」と言われる。キノコや山菜だけではなく、アルマジロ、ウサギ、イノシシ、カエル、ヘビなどが「山の幸」である。ごく普通の野菜炒めや豚肉のほうがよほど美味かろうに、野生動物を「食え食え」と五月蠅い。省都福州の味はさすがに洗練されているけれども、山間部に行くと、味は塩辛く、油が多い。若者たちはそれでもよく食べた。私と会長はげんなりして、食が進まない。体がうけつけないのだ。もっぱら楽しみは茶店めぐりである。武夷山はウーロン茶の最高級「岩茶」の産地として知られ、いまもその原木を残している。岩茶の文化(と朱子学と古代閩越文化)が評価されて世界文化遺産にもなった。世界ジオパークから始まって、自然遺産と文化遺産をともに評価され「世界双遺産」(世界複合遺産)にまで登りつめたのである。


0831茶05

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斐川平野の築地松(Ⅲ)

DSC07328.jpg


築地松の財政問題

 「築地松案内人」。市役所から委託された、ほぼボランティアの仕事です。斐川在住の方と平田在住の方の2名をご紹介いただきました。今回わたしは、平田在住のIさんに市役所を通してアポをとり付けました。Iさんは農業をされていて、電話連絡をしたときも畑仕事の真っ最中。午後2時すぎ、約束していたI邸でヒアリングさせていただきました。

 自分の宅地を守るため雑木を植えたのが、築地松のはじまりだとIさんはおっしゃっいます。雑木とは、タブやマテバシイ、モツなどです。時代を経て、雑木よりも松のほうが雨・風・虫に強い、ということで、アカマツやクロマツが植えられ、「築地松」が形成されたようです。このあたりの築地松を有する民家は昔から、ほぼ100パーセントが農家でした。今や農家も築地松も数を減らしていますが、この地区でまだ保全されている築地松は、「みんなで大事にしていこう」「残していこう」と呼びかけながら活動しておられるそうです。とても良いことだと思いました。

 築地松に関する助成金もあり、事業費の1/4が支払われます。しかしながら、I邸の場合、20本ちかくの築地松があり、その剪定だけでも莫大な費用がかかります。事業費の1/4と言ってもほんの少しだと嘆いておられました。また、一番お金がかかるのが、松くい虫の防虫剤(↓)です。I氏によれば1本¥3500ほどするそうですが、樹齢60年以上にもなる太い松だと、防虫剤を5~6本使用しなければなりません。敷地内に松は20本。・・総額を見積もれば、途方に暮れるばかり。築地松の減少には、やはり財政的な問題を軽視できません。

DSC07312.jpg

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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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