予稿初稿(6)
5 「邸閣」再考
松原田中の集中式倉庫群
鳥取市の湖山池湖岸南側の松原田中遺跡で、2010~15年に計15棟の布掘建物が発見された。掘立柱建物は一般に1本の柱にひとつの掘形(柱穴)が対応する。こうした基礎の穴を「壷掘(つぼぼり)」という。これに対して、複数の柱を溝状の掘形に納める基礎を「布掘(ぬのぼり)」という。布掘溝の底に地中梁を水平に置き、その梁に柱の根元を噛ませて立ち上げ、溝の内側全体を硬質の土を填圧して土壌を改良する。基礎の堅牢さと地盤改良により建物の不同沈下を防ぐ効果を期待しているのである。
山陰地方では弥生後期から布掘建物が出現するが、内部に納まるべき地中梁は土壌化するか抜き取られて未発見であった。古墳時代前期と目される松原田中は、旧湖岸に近い砂質の土壌に立地し、地下水位が高いことから15棟中8棟に地中梁を残し、梁を失った掘形でも柱根や枕木を残す遺構が大半であり、基礎の構造を明瞭に復元できる。
遺構の年代観については、布掘から出土した土器片は古墳時代前期(3世紀後半~4世紀初)に編年されるが、地中梁の年輪最外資料が弥生時代後期に遡る。材は芯去・心材型なので土器年代と必ずしも不整合ではないが、上部構造の復元にあたっては、青谷上寺地出土建築部材(弥生中後期)の復元研究との関係もあり、まずは弥生後期の上屋構造をベースとして設定し、それに家形埴輪などの様式等を加味することで古墳時代前期の姿を再現した。
4区の建物3は地中梁の長さが725cmに及ぶ。両端と中間2ヶ所の計4ヶ所に抉れがあり、その位置の穴の底で柱根のあたり痕跡が認められるので、平面は桁行3間(630cm)×梁間1間(290cm)に復元できる。一般的に梁間が3m以下で、堅牢な基礎をもつ場合、高床倉庫と認定されるが、建物3はその典型と思われる。以上を基礎情報にしてまずは青谷の建築部材から「弥生様式案」を復元し、弥生様式案をもとにして、大阪の玉手山1号墳や美園1号墳(4世紀後期)、兵庫の人見塚古墳(5世紀)などの古い家形埴輪の細部等を取り入れ「古墳様式案」を作成した。おもなポイントは以下の2点である。
1) 弥生様式においては切妻屋根妻側の屋根の転びを緩くし、破風板はつけない。対して、古墳様式では家形埴輪に表現されているように、妻側の屋根の転を強くし、破風板をつける。
2) 床の縁にあたる部分に「へ」字形の台輪をめぐらす。古墳時代の埴輪に常用されているが、古墳時代の現存遺構は存在しないので唐招提寺宝蔵など奈良時代の校倉に残る台輪を参照した。
双倉と水辺の群倉
結果としてみれば、松原田中の古墳様式案は青谷上寺地から長瀬高浜(湯梨浜町・5世紀)へ至る過渡的形式を示すものとなった。建物4は溝状の布掘が一条確認されたのみで、相対する一条はトレンチ外に存在したと推定される。規模は桁行3間(560㎝)×梁間1間(330㎝以上)に復元できるが、中央間の間口は80cmしかなく、その外側に戸柱のような入口の痕跡を伴う。これは倉庫室ではなく、通路のようなものだと判断し、律令期に盛行した「双倉(ならびぐら)の原型」だろうと解釈した。双倉の代表例は東大寺正倉院正倉(756)だが、むしろ注目したいのは法隆寺網封蔵(平安初)である。3室横並びの中央間を中空にして左右の倉の入口にしている。建物3でも中央間に入口を設け、左右の倉庫にアプローチする復元案を作成した。松原田中の他の3間倉も、あるいはこういう網封蔵的な空間構成をしていたのかもしれない。
湖山池は日本海に散在した潟湖(ラグーン)の一つである。妻木晩田は淀江潟、松原田中は湖山潟、長瀬高浜は東郷潟の周辺に営まれた拠点集落であり、弥生・古墳時代の文化はこうした潟湖を経由して北上していったとみる意見がある。そうした拠点的集落の水辺近くに大型倉庫群を集中させる配置は奄美大島のボレグラ(群倉)を想起させる。大島大和村の海岸近くにかつて約80棟のボレグラが存在したが、昭和10年の火事で多くが焼失し、いまは9棟を残すのみになっている。内陸の集落から離れて海辺に近い場所に立地する群倉は「防火」機能を強くイメージさせるが、それまた青谷のような「流通」と係わる配置とみなすこともできなくはない。湖山池(潟)の近くに集中して配された倉庫群も防火と流通に係わる施設であった可能性があるだろう。