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予稿初稿(6)

松原06


5 「邸閣」再考

松原田中の集中式倉庫群
 鳥取市の湖山池湖岸南側の松原田中遺跡で、2010~15年に計15棟の布掘建物が発見された。掘立柱建物は一般に1本の柱にひとつの掘形(柱穴)が対応する。こうした基礎の穴を「壷掘(つぼぼり)」という。これに対して、複数の柱を溝状の掘形に納める基礎を「布掘(ぬのぼり)」という。布掘溝の底に地中梁を水平に置き、その梁に柱の根元を噛ませて立ち上げ、溝の内側全体を硬質の土を填圧して土壌を改良する。基礎の堅牢さと地盤改良により建物の不同沈下を防ぐ効果を期待しているのである。
 山陰地方では弥生後期から布掘建物が出現するが、内部に納まるべき地中梁は土壌化するか抜き取られて未発見であった。古墳時代前期と目される松原田中は、旧湖岸に近い砂質の土壌に立地し、地下水位が高いことから15棟中8棟に地中梁を残し、梁を失った掘形でも柱根や枕木を残す遺構が大半であり、基礎の構造を明瞭に復元できる。
 遺構の年代観については、布掘から出土した土器片は古墳時代前期(3世紀後半~4世紀初)に編年されるが、地中梁の年輪最外資料が弥生時代後期に遡る。材は芯去・心材型なので土器年代と必ずしも不整合ではないが、上部構造の復元にあたっては、青谷上寺地出土建築部材(弥生中後期)の復元研究との関係もあり、まずは弥生後期の上屋構造をベースとして設定し、それに家形埴輪などの様式等を加味することで古墳時代前期の姿を再現した。


松原01


 4区の建物3は地中梁の長さが725cmに及ぶ。両端と中間2ヶ所の計4ヶ所に抉れがあり、その位置の穴の底で柱根のあたり痕跡が認められるので、平面は桁行3間(630cm)×梁間1間(290cm)に復元できる。一般的に梁間が3m以下で、堅牢な基礎をもつ場合、高床倉庫と認定されるが、建物3はその典型と思われる。以上を基礎情報にしてまずは青谷の建築部材から「弥生様式案」を復元し、弥生様式案をもとにして、大阪の玉手山1号墳や美園1号墳(4世紀後期)、兵庫の人見塚古墳(5世紀)などの古い家形埴輪の細部等を取り入れ「古墳様式案」を作成した。おもなポイントは以下の2点である。
 1) 弥生様式においては切妻屋根妻側の屋根の転びを緩くし、破風板はつけない。対して、古墳様式では家形埴輪に表現されているように、妻側の屋根の転を強くし、破風板をつける。
 2) 床の縁にあたる部分に「へ」字形の台輪をめぐらす。古墳時代の埴輪に常用されているが、古墳時代の現存遺構は存在しないので唐招提寺宝蔵など奈良時代の校倉に残る台輪を参照した。



松原02


双倉と水辺の群倉
 結果としてみれば、松原田中の古墳様式案は青谷上寺地から長瀬高浜(湯梨浜町・5世紀)へ至る過渡的形式を示すものとなった。建物4は溝状の布掘が一条確認されたのみで、相対する一条はトレンチ外に存在したと推定される。規模は桁行3間(560㎝)×梁間1間(330㎝以上)に復元できるが、中央間の間口は80cmしかなく、その外側に戸柱のような入口の痕跡を伴う。これは倉庫室ではなく、通路のようなものだと判断し、律令期に盛行した「双倉(ならびぐら)の原型」だろうと解釈した。双倉の代表例は東大寺正倉院正倉(756)だが、むしろ注目したいのは法隆寺網封蔵(平安初)である。3室横並びの中央間を中空にして左右の倉の入口にしている。建物3でも中央間に入口を設け、左右の倉庫にアプローチする復元案を作成した。松原田中の他の3間倉も、あるいはこういう網封蔵的な空間構成をしていたのかもしれない。
 湖山池は日本海に散在した潟湖(ラグーン)の一つである。妻木晩田は淀江潟、松原田中は湖山潟、長瀬高浜は東郷潟の周辺に営まれた拠点集落であり、弥生・古墳時代の文化はこうした潟湖を経由して北上していったとみる意見がある。そうした拠点的集落の水辺近くに大型倉庫群を集中させる配置は奄美大島のボレグラ(群倉)を想起させる。大島大和村の海岸近くにかつて約80棟のボレグラが存在したが、昭和10年の火事で多くが焼失し、いまは9棟を残すのみになっている。内陸の集落から離れて海辺に近い場所に立地する群倉は「防火」機能を強くイメージさせるが、それまた青谷のような「流通」と係わる配置とみなすこともできなくはない。湖山池(潟)の近くに集中して配された倉庫群も防火と流通に係わる施設であった可能性があるだろう。



松原03


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予稿初稿(5)

マキムク01航空写真


4.卑弥呼の宮室

纒向は邪馬台国か
 2009年に奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で日本の考古学・古代史界を震撼させる発見があった。纒向周辺には日本で最も古い二基の前方後円墳が存在する。最古の前方後円墳がホケノ山、次が箸墓古墳であり、年代はいずれも3世紀前半~中ごろと推定される。魏志倭人伝には「正始八年(247) 卑弥呼が死に塚(墓)が作られた」と記載されることなどから、箸墓を卑弥呼の「塚」とみる考古学研究者は以前から少なくなかった。ここで再び魏志倭人伝に注目すると、「正始元年(240)魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた」とみえる。倭を統括する邪馬台国の王権の象徴たる金印は今なお発見されていないが、近畿各地の前方後円墳から数百枚に及ぶ三角縁神獣鏡がみつかっている(九州では未発見)。三角縁神獣鏡については諸々の論争があるけれども、これを魏の皇帝が卑弥呼に授けた「銅鏡」とみる意見は根強くあり、邪馬台国大和説を側面から補強する物質文化として注目され続けてきた。


マキムク02前方後円墳


 そうした背景のある纒向遺跡で弥生時代最大規模の超大型建物(建物D)が2009年にみつかった。後世の攪乱を含むものの、復元的にみれば床面積は238㎡に及ぶ総柱式の建物である。この巨大建物の背面西側にはすでに3棟の建物が発見されており、それらは東西方向の中軸線を共有し、さらに方形の柵列に囲まれている。纒向以前のランダムな弥生式建物配置から大きく中国的シンメトリーの配置に脱皮した姿であり、方位こそ異なるが、律令期の内裏地区の空間を彷彿とさせる。纒向こそ、後の天皇が居住した内裏(だいり)の原型として理解すべきと考える。


マキムク04宮室



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予稿初稿(4)

青谷上寺地環濠集落復元CG


3.日本海の真珠

異端の弥生集落-青谷上寺地遺跡
 弥生時代の山陰地方(鳥取・島根)に環濠集落は少ない。中期の段階で田和山(松江市)や妻木晩田洞ノ原地区の山上で環濠がみつかっているけれども、それらは住居群を包囲するものではなく、天空に近い神聖な領域の結界として機能している。言わば、社稷を守る環濠である。いわゆる倭国争乱の時代にあって、北部九州や近畿などの先進地では渡来系の環濠集落と松菊里型住居が広域的に普及する一方で、山陰や北陸など日本海側では山に住む高地性集落が一般的であり、そこに営まれた住まいは縄文系の土屋根竪穴式が主流を占めた。弥生後期の妻木晩田遺跡が高地性集落と土屋根居住地の代表である。
 そのような山住みの集住形態が普遍化する弥生中後期の山陰にあって、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は圧倒的に異端の風情を誇示している。それは環濠集落ではあるけれども、北側に日本海が近接し、他の三方ははじめ湿地帯であり、後に水田化する。当初のイメージは入江内に浮かぶ小島のようであり、出土品は内陸側の集落と大きく異なって多彩多量かつ豪華であり、故に遺跡は「弥生の正倉院」と呼ばれている。
 

交流


 なにより日本人の耳目を驚かせたのは弥生人の脳の出土であった。水分を多く含む溝の中に2000年前の人の脳が残っていたのである。鏃が突き刺さった人の腰骨や結核によって変形した脊髄も出土した。海外との交流を示す遺物も少なくない。王莽(新王朝)の時代の銭貨や銅鏡、斧や刀子(とうす)などの鉄器、ひび割れ状態で吉凶を占う卜骨、朝鮮半島系の土器などである。国内品も鳥取産にとどまらず、能登(石川)、近畿、岡山、九州北部などの木製品や土器が数多くみつかっている。こうした国内外との交流を示す出土品の多さは、青谷上寺地がたんなる定住集落ではない「交易」の拠点としてのイメージを強化している。
 

ドゥブロヴニク(クロアチア) ドブロヴニク


 ここで唐突かもしれないが、2016年春にバルカン半島を旅した際の印象を語っておく。アドリア海に面するクロアチアのドゥブロヴニクやトロギールは、ヴェネチアと覇権を争った中世の海洋都市国家であり、当初は出島のような性格をもつ租界島であった。そこは大陸に近接しつつ海で隔てられた自然の環濠集落であり、強力な防御性を備える一方で、開かれた海外交易の拠点でもあった。海から運び込まれる物資と陸で生産される物資が島で入れ替わる。島と陸は交流を望みながらも、互いに警戒する間柄だったので、両者の結節には橋を使ったが、日の入りとともに橋は引き上げられる。その後、島と陸の関係が融和するとともに海岸線を埋め立てし、島を陸地側に取り込んでいった。こうした海洋港湾都市のあり方は、出島(長崎)やマカオ(澳門)、アモイ(厦門)などの近世~近代租界都市にも似ているが、わたしは現地において、弥生集落として圧倒的に特異な座標にある青谷上寺地に想いを馳せた。ドブロクニクが「アドリア海の真珠」ならば、青谷上寺地は「日本海の真珠」と呼びうる人工島だと感じたのである。青谷上寺地が「租界」と「交易」の拠点だったと断言できる段階に未だあるわけではない。しかしながら、篠田健一らの分子人類学研究グループが青谷人骨からDNAの分析を開始しており、その結果次第では上の憶測に一定の裏付けを得られるかもしれない。


楼観と屋室-七千点の建築部材から
 青谷上寺地の環濠より内側のエリアでは、小規模の建物跡が少数みつかっているにすぎない。にも拘わらず、環濠の内側に投棄された建築古材や溝の護岸に転用された建築材が大量に出土している。あるいは当時の人びとは環濠に隔された「島」の中ではなく、内陸側の山沿いに住んでいて、海の彼方からやってくる交易者と「島」で交流していたのかもしれない。【続】


建築部材出土状況 建築部材出土状況

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予稿初稿(3)

図30_三国_01 3世紀の東アジア


2.邪馬台国への途

南北方位の反転
 日本の弥生時代は朝鮮半島からの渡来系稲作文化の伝来によって北部九州では前10世紀ころに萌芽し、前5世紀ころに環濠集落が成立するとされる。しかし、そのころの他の地域はいまだ縄文時代晩期にあたり、前3世紀~後3世紀が弥生文化の存続期であって、中国における漢の時代にほぼ併行している。漢魏の時代、西日本は「倭」と呼ばれていた。倭という地名に関する最古の記載は『漢書』地理志まで遡るが、生活文化に関する具体的な描写を含む最初の記載は『三国志』魏書・東夷伝の倭人の条、いわゆる「魏志倭人伝」である。『三国志』は後漢滅亡 後、魏・呉・蜀が鼎立した時代(220~265年)の正史であり、晋の陳寿が280年ころに編纂したものである(『後漢書』編纂は5世紀前半までくだる)。その時代は、西日本で弥生時代が終焉し、前方後円墳をメルクマールとする古墳時代がまさに始まらんとする時代であった。陳寿は朝鮮半島の付根に漢魏が置いた楽浪郡・帯方郡の集積した情報を書き写したものと推察される。倭を支配した女王、卑弥呼がいた邪馬台国の所在地については九州説と畿内≒大和(奈良)説の両説が激しい論争を繰り広げてきた。魏志倭人伝の冒頭部分を以下に抜粋して引用する。(以下、おもに小路田泰直氏の新説に従って記述する)
 
  倭人は帯方の東南、大海の中にあり。 山島によりて国邑をなす。 旧百余国、
  いま使訳通ずる所三十国。帯方郡より倭に至る。海岸をめぐりて水行し、韓国をへて、
  あるいは南し、あるいは東し、其北岸、狗邪韓国に至ること七千余里。
  始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る。また南に一海を渡ること千余里、 
  一支国に至る。また一海を渡ること千余里、末盧国に至る。東南のかた陸行五百里にして、
  伊都国に至る。東南のかた奴国に至ること百里。東行して不弥国に至ること百里。
  南のかた投馬国に至る。水行二十日。五萬余戸ばかりあり。南のかた邪馬台国に至る。
  女王の都する所なり。水行十日陸行一月。七万余戸ばかり。 


混一疆理歴代国都之図(1402)龍谷大学蔵 混一疆理歴代国都之図


投馬国「出雲」説
 朝鮮半島南端にあったであろう狗邪韓国から南に水行し、対馬国(対馬)、一支国(壱岐)、末盧国(松浦半島)まではほぼ同定できる。その次にあらわれる伊都国が糸島半島であるのもほぼ間違いないが、方位に矛盾があらわれている。末盧国から「東南のかた陸行五百里にして伊都国に至る」とあるけれども、実際の地理関係をみると、糸島半島は松浦半島の東南ではなく、東北に位置している。かくして魏志倭人伝に記された日本列島の方位認識は南北反転の可能性を読み取れるわけだが、東アジアを広域的に描く「混一疆理歴代国都之図」(1402・龍谷大学蔵)に日本列島が南北反転して表現されていることからも、倭人伝にいう「南」は「北」を意味する可能性が高いと思われる。
 さて、伊都国が糸島半島にあり、その「東南」(じつは東北) にある奴国が「漢委奴国王印」出土の志賀島あたりとみるのは妥当であるとして、その次に記される不弥国、投馬国については所在地に諸説あり、これを九州とみれば邪馬台国は九州中南部に存在し、これらを瀬戸内の諸国とみれば邪馬台国は畿内(近畿)に所在することになる。こうした九州説と畿内説の論争は、後に詳述するように、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で2009年に超大型建物群が発見されるに至り、纒向周辺を邪馬台国とみなす考古学者がかなり多くなってきている。その場合、北九州から奈良に至る経路については、従来推定されていた瀬戸内海よりも日本海が重視され始めている。対馬・壱岐は東シナ海の北限であると同時に日本海の西限でもあり、日本海自体が古代極東地域の地中海であって、交通と流通の幹線とみなされるからである。楊先生もこの点を強調されている[浅川編1998]。
 

mukibannda.jpg




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予稿初稿(2)

1996年12月楊先生クリスマス03 1996年12月楊先生クリスマス01
 

紫竹院の茴香餃子
 その後も楊先生は京大人文研や奈文研の招聘によりしばしば来日されることとなり、ときに我が家で夕食のおもてなしをした。96年の12月には奥様の王秀蘭先生を同伴され、我が家でクリスマスイブを過ごされた。忘れがたい幸福な想い出である。一方、私は90年代以降、年に1~3度のペースで中国を訪問するようになり、出張の始めか終わりに楊先生にお目にかかるようにした。楊先生はしばしば北京市紫竹院のご自宅に私を招かれ、奥様の手料理でおもてなしくださった。とくに茴香の餃子が私のお気に入りであった。セリ科の茴香(フェンネル)は消化や血行を促進し、ダイエットにも効ある漢方薬の一種であり、「良薬口に苦し」の諺のとおり、それ自体にはえぐ味があるけれども、豚肉のミンチに擦り込むと油気をそいであっさりした苦味が仄かに残る。ビールによくあう最高の餃子だが、残念なことに、日本で食べることのできる場所を寡聞にして知らない。王秀蘭夫人手作りの茴香餃子は、私にとって懐か しい中国料理の代表である。


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↑楊先生自宅での茴香餃子夕食会(1997年12月)


大山・隠岐・三徳山シンポジウム
 私は2001年に奈文研を退職し、故郷に新設された公立鳥取環境大学に転職して今に至る。奈文研を辞したのは、なにより平城宮の発掘と整備に疲れたからとしか言い様がない。とくに後者については、朱雀門・東院庭園・大極殿の復元事業が併行して進んでいたことによるが、建築考古学を専攻する者にとっては極楽ではないかと誤解されている節がないわけではなかろう。敢えて説明しておくと、両者は基礎研究の部分では重なりあうが、実践的には似て非なるものである。発掘調査を経ているとはいえ復元の根拠となる痕跡はきわめて限定的であり、その結果、復元には不確定性がつきまとうため権力者の意見が通りやすい。また、大地震に耐えうる構造補強が尋常なレベルではなくなるので本来の伝統構法から大きく遠ざかり、その構造と施工の複雑さゆえにゼネコンに支配される度合いが増す。政治世界における右傾化が復元事業の背景にあることも一研究者にとって耐え難い苦痛であった。
 かくして故郷の鳥取に職場を移したわけだが、それを機会に私自身の研究的関心は東南アジア(主に水上居住)、シベリア(狩猟・漁労民住居)、東ヨーロッパ(木造建築)等へとひろがる一方で、訪中の機会は著しく減っていった。北京五輪が開催された2008年、北京で日中韓建築学会合同の「第7回アジアの建築交流国際シンポジウム(7th ISAIA)」が開催され、ハロン湾の水上居住に関する発表をした。そのときももちろん楊先生に連絡をとり、8年ぶりの再会が実現した。宴席の会場は景山公園前の「大三元」である (↓)。


20081016大三元 20081016大三元02


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予稿初稿(1)

1992楊先生(民族飯店)02asshuku 1992@民族飯店


      2018年杨鸿勋建筑史学国际学术研讨会予稿 
  Yang Hongxun International Architectural History Symposium 2018 Proceedings


           日本の建築考古学
     -魏志倭人伝と3世紀前後の大型建物-

                 浅川滋男@福州大学建築学院  4月28日

1.楊鴻勛先生の想い出

建築考古学の中日交流
 楊鴻勛先生(1931-2016)と初めてお目にかかったのは1992年のことでである。その年、奈良国立文化財研究所(奈文研)から日本学術振興会に特定国派遣研究員を申請し採択され、北京の中国社会科学院考古研究所(考古研)を拠点にして「中国早期建築の民族考古学的研究」に4ヶ月間取り組んだ。そのときの指導教官が楊先生である。中国では1982~84年の留学時に同済大学建築系の陳従周先生に江南の民家・庭園についての教えを受けたが、92年の楊先生は私の研究人生後半の中核となる建築考古学の方向性を導いていただいた大恩人である。楊先生は清華大学建築系を卒業後、考古研の夏鼐所長に請われ入所し、全国各地の遺跡で建物跡の復元研究を手がけられた。遺構の解釈と文献の精緻な考証、さらには芸術作品にも劣らぬ迫力ある復元パースに読者は度肝を抜かれる。その成果をまとめた最初の専著が『建築考古学論文集』(文物出版社1987、増補版は清華大学出版社2008)であり、2001年に「20世紀で最も優れた文博考古図書の人気投票」論著類部門で、郭沫若や夏鼐をおさえ全国第1位に輝くわけだが、弟子筋にあたる私からみれば至極当然の評価だと思っている。日本が世界に誇る中国建築史の大家、田中淡氏(京都大学人文科学研究所名誉教授・故人)ですら、楊先生には一目おいており、「不如您(あなたには適わない)」の賛辞を惜しまなかった。


頭塔(楊先生)圧縮


頭塔の即興復元
 奈文研は1993年に楊先生を正式招聘する。研究会での先生は大変な早口で饒舌であり、通訳に苦労したが、いちばんの想い出は頭塔の復元である。東大寺の真南に位置する頭塔は、聖武天皇の大仏鋳造~開眼供養会(752)、大仏殿造営(758)などと係わる一連の事業と相関し、僧実忠によって造営されたと伝える特殊な「土塔」である(東大寺要録)。壁面に石仏を配した正方形のテラスを5段重ねる姿はジャワ島の世界遺産ボロブドールを彷彿とさせるものであり、戦前の発見当初から上座部仏教やチベット仏教に特有な方形段台型仏塔との類似性を指摘されていたが、1986年より発掘調査を継続していた奈文研はむしろ華北の磚塔の系譜上にあるものとの見方に傾いていた。
 楊先生には奈良町方面の寺院見学のかたわら半時間ばかり頭塔の遺跡を見学していただいた。その後、いったん奈文研の遺講製図室に戻ってくつろいでいたのだが、楊先生は思い立ったようにソファから離れてドラフターの席につき、「4Hの鉛筆をもってきて」 と指示された。それから楽し気に鉛筆を走らされ、20分ばかりの間に3つの頭造復元案を描かれたのだった。驚いたことに、3案のうち2案はすでに失われた頭塔最上層に伏鉢状の構造をともなうものであり、当時の日本人研究者は一人として思いついていない復元案であった。そのうちの一案はボロブドールに似ており、他の一案は日本の多宝塔が多層化した造形にみえた。中国西域方面の類例を知る私はそうした先生の復元案に仰天し、強くひきつけられたが、多くの日本人研究者は日本建築史の常識からはみ出した復元案を「根拠がない」として退け、耳を貸そうとはしなかった。ところが、まもなく頭塔と同時期の大阪府堺市大野寺「土塔」で13段のテラス状遺構の最上段に伏鉢状構造物の地覆痕跡が確認され、楊先生の復元案は一躍脚光を浴びることになったのである。
 考えてみれば、東大寺大仏殿の供養には天竺(印度)や扶南の僧が参列しており、また毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ=光明遍照)が密教の新しい教義を反映する「大日如来」と同義であることを踏まえるならば、インド方面の密教や上座部仏教と関係する方形段台型仏塔が聖武天皇の時代にもたらされたとしても決して不自然ではなかろう。それは、空海の密教に先行して導入された巨大な宝塔あるいは多宝塔であったといえるかもしれない。かくして楊先生の即興的な頭塔復元案は、「華北磚塔」説に流れていた頭塔系譜論を、石田茂作らが古くから主張した「インド新様式を取り入れた最先端な仏塔」説に振り戻し、さらにその核心に近づいたという点で重要な意義があり、古代日本建築史に新しい視界をひろげるものであった。【続】


1997年02月鳥取03燕趙園01
↑燕趙園(鳥取)。鳥取県と河北省は姉妹都市の関係にあり、河北省建築設計院が庭園の設計を担当した。楊先生にコメントを求めたところ、「中国庭園らしくみせているが、建築史・庭園史の仕事ではない」と喝破された。

大根島から美保関へ

180418美保神社05 0414松江02中村元記念館01


美保神社造替中

 4月14日(土)。強風が吹き荒れるなか大根島の中村元記念館に立ち寄り、1時間ばかりの会合を済ませました。先生はご覧のとおりの正装です。
 大根島から美保関まで足をのばしました。島根半島東端にあたる美保関の山側に美保神社は境内を構えています。車から降り美保神社へ向かって歩こうとすると、目の前の定食屋のマダムから声をかけられました。海鮮丼がおすすめとのことですが、値段が高く、ここでの昼食を断念し参道へ。


180418美保神社03 180418美保神社04 


 境内に入って鳥居をいくつかくぐると、「美保神社大造営中」と書かれた看板に目が入ります。その隣には手水舎があります。そして、階段を上がると神門が見えてきます。神門入口上には注連縄(しめなわ)が飾られており、聖域であることをアピールしています。


180418美保神社01 180418美保神社09

180414美保神社05


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松平東照宮-松江神社

180413松江神社09


松江神社は近代の権現造か

 4月13日(金)、3月に続いてまた先生と松江を訪れました。目的は今年度のブータン・チベット調査の打ち合わせですが、午後の時間を利用して松江城内にある松江神社を訪れました。松江神社は、松平直政を御祭神として明治10年(1877)に西川津村に「楽山神社」として創建されました。一方、寛永5年(1628)、朝酌村(現松江市西尾町)に造営された東照宮の御神霊を明治31年(1898)に合祀し、翌年現在の松江城山二之丸に遷座して、社名を「松江神社」と改めたそうです【境内案内板参照】
 とすれば、松江神社は明治の和風建築ということになりますが、気になるのは「権現造」のスタイルをとっていることです。権現造とは、文字どおり、東照大権現(御神体化した家康の尊称)に因み、本殿と拝殿を石の間(相の間=廊下)でつなぐ平面形式をもつ神社・霊廟をさします。松江神社はあきらかに権現造の霊廟であり、寛永5年に造営された東照宮の形式を継承している可能性が高いと思われます。年代を確認すると、本殿はすでに述べたように寛永5年(1628)、 拝殿は寛文元年(1661)となっており、この建物を移築したとするならば、重文指定がなされているとしても不思議ではないのに、自治体指定はおろか、登録文化財にすらなっていません。おそらく「楽山神社が明治10年の創建、同32年遷座」という史実が災いしているのですが、本殿・拝殿の細部にみえる特異な装飾等を専門家はどうとらえているのでしょうか。


0413松江神社asa003 本殿


 組物は拝殿が平三斗(隅は三斗組)、本殿が出組ですが、木鼻が特異な形状を呈しています。拳鼻の変形のようで、どこか獏の頭を思わせる抽象的な造形をしているのです。
 様式的な年代を特定するのは容易ではありませんが、木鼻や向拝虹梁に刻まれた渦をみると、細くて縦長の楕円形をしており、摩尼寺の本堂・山門・鐘楼にみるような幕末~明治中期の野太い線とはまったく異なっています。あるいは、寛永~寛文造営の東照宮の材が転用されているの可能性すらあるのではないか、と勘ぐりたくなるのです。松平直政が信濃より転封し松江藩主になったのは寛永15年(1638)のことであり、その十年前に勧請された東照宮は前任の京極氏よりもひとつ先代の堀尾氏の時代のものです。鳥取藩の東照宮勧請(1650)に先んじること12年、様式的にはいっそう桃山様式に近かったこと疑いありません。
 上の木鼻や絵様をそこまで遡らせるのは困難かもしれませんが、それにしても、松江城二の丸の松江神社は見事な権現造です。権現造の省略形でしかない鳥取東照宮に比べると、あきらかに正統的で格式高く、さすが徳川親藩の家柄を誇示しています。


0413松江神社asa002 0413松江神社asa001
↑↓拝殿細部
0413松江神社asa005 0413松江神社asa004


 ちなみに、私の卒業論文は、鳥取東照宮の別当寺である大雲院に係るものであり(「大雲院宝塔厨子と徳川将軍家墓所」)、松江神社が同じく家康を祀る東照宮であるということで大変興味をもちました。松江神社に至る城内お道には、多くの樹木が植えられておりとてもきれいでした。社殿の蟇股や境内の石灯篭など、所々に徳川家の「葵御紋」家紋があしらわれています。この点は鳥取東照宮や大雲院と共通していると思いました。


180413松江神社04 180413松江神社12 葵御紋




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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(24)

師弟関係

 登録記念物「摩尼山」標柱・案内板除幕式の報告が本学HPのTUESレポートにアップされました。

   http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2018nendo/20180413/

 今回の記事では年度末に八面六臂の大活躍をしたMr.エアポート(5期性)を褒めちぎりましたが、写真に映っているのは社長(2期生)の方です。その社長はといえば、ここだけの話ですが、昨秋突然父親になったのです。さっそく実家に出産祝いを贈ったのだけど一言の謝辞もない。まもなく奈落に堕ちるでしょう。その一方で、1期生のタクヲからは「4月16日早朝に第2子(男児)誕生」なる連絡がありました。懲りることなく出産祝を送りましょう。
 しかしまぁ、若い親父どもの子煩悩ぶりは親ばか丸出しで品がみっとも恥ずかしいぜ。おれも、ああだったんだろうか。かつてDT松本が新幹線で泣き散らす赤子の親をしばき倒したいと週刊誌のコラムに書いていましたが、たしかに他人の赤子なんざ、文字通り、他人事にすぎないわけです。これが生徒と教師の師弟関係になると、また変わるのだけれどもね。

 そういえば、今夜(明夜?)は内蔵助が鳥取に来るらしい。OK牧場(鳥取)と公爵だっしょ(松江)を激励するためで、全員がOK牧場に宿泊すると聞いている。鮎魚女と鱒の夜になりそうだね。

第2回ようなし会

 4月17日(火)、たけちゃんで第2回ようなし会(パリンカの会)が開催されました。この夜は倉吉からハンガリーの留学生(及び母君)をお招きし、パリンカやワイナリーの情報をたくさん提供いただきました。そして、ハンガリーへの出発日は6月20日、ブタペスト到着後は初日がホーロッケーと近隣のパリンカ・ファクトリー、2日めがトカイ・ワイナリー、3日めがブタペスト市内での世界遺産視察と決めたのですが、後日、参加メンバー1名の御母堂の体調が急変・入院の運びとなり、渡航は秋以降に延長されることになりました。しかし、ハンガリーの方々との交流は今後の活動の大きな光となりました。パリンカの夢が一歩前進したと喜んでいます。


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松原田中遺跡Ⅲ

 昨年度の業績は少ないです。報告書なし。これはまぁ予算の関係です。チベット・ブータンでお金を使いすぎてしまい、報告書を刷るだけの予算が残らなかった。紀要論文もなし。新しい紀要の制度ができて、委員会とバトルです。「査読なし」などという信じがたいカテゴリーを設けてきたので、それに乗っかろうとしたら、和気藹々運動会グループから著作権侵害だの、ゴーストオーサーだの、ギフトオーサーだの、これまで言われたこともないいちゃもんをさんざんつけられて、いったん破談になったんですが、大学のトップと交渉したところ、ただちに再投稿の運びになり、まもなく審査が始まります。今年度は、3本ぐらい投稿してやろか、と企んでいるところです。

 そんなこんな後厄の一年でしたが、1本論文を書き上げました。松原田中です。以前に書いたかもしれませんが、執筆は夏のバンコク空港で着手し、ブータンの民宿で書き続けていました。それを氷下魚さんがうまいこと編集してくださったんです。自分でいうのもなんですが、とても良い出来になりました。だから、「ここまで分かった、日本人の起源!」講演の前座にもしましたし、今月末の福州での国際シンポジウムでも講演の一部に含める予定です。
 報告書そのものも素晴らしい出来だと思います。電話帳3冊分の分厚い報告書です。感服しております。そんな氷下魚さんも、すでに鳥取を離れていまは大阪の地で働かれています。ずいぶん遠くに行ったようでじつはご自宅は生駒だそうだから、わが平城ニュータウンの近所と言えないわけではありません。
 いつかまたお目にかかる機会もあるだろうと思っております。

 論文の図書情報を以下に記しておきます。

  浅川滋男・宮本正崇・中田優人(2018)
   「松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁に関する復元的考察」
   『松原田中遺跡Ⅲ』第2分冊【本文編2】pp.951-985、鳥取県教育委員会

 抜き刷りはありませんが、当該部分のpdfならありますので、ご希望の方はお知らせください。

新3年生歓迎会

180411顔合わせ01


 4月11日(水)。2018年度のゼミが始まりました。今年は3年4名(1名欠席)、4年3名、大学院1年1名の計8名で活動していきます。先生から2種類のケーキの差し入れがあり、ルイボス茶をいただきながら、自己紹介と成績報告をしました。残念なことに1名は卵アレルギーなのでケーキが食べられませんでしたが・・・

 今年は茶室横の畑での野菜栽培はおこなわないことになりそうです。昨年、あまりの不作に先生はがっくりされたようで、人数も少ないし、やめたほうがいいと考えられたようです。
 その後、学年ごとに今後の予定などを決めました。4年生は先生と個人面談をし、就職状況や卒論のテーマについて話しあわれました。ずいぶん長い時間を要した先輩もいました。3年生と二人の先輩は、フィールドワークのやりにくい雨の日は能海寛『世界に於ける佛教徒』を輪読し、現代語に書き換える作業を進めることになりました。
 来週から輪読が始まります。昨年までとは質のちがう「晴耕雨読」のゼミ活動を励んでいきたいと思います。(谷)


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↑3年生  ↓4年生
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男はつらいよ-倉吉長屋物語(5)

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文化財行政の曲がり角

 春晴れのなか、倉吉市河原町の長屋群跡地を視察しました。ごらんのとおりです。中部地震以前の計画では、小川財団は5軒長屋を壊して大型自動車(バス・トラック)の駐車場にする計画でした。ところが、そもそも旧道(八橋往来)は大型車両乗り入れ禁止でありまして、当初の計画は変更せざるを得なくなった。この空き地をいったいどう使うつもりなのか。
 2016年の県中部地震以前、奥にみえる土蔵をレストランにする予定だったと聞いていますが、いまはどうなっているのか、さっぱり分かりません。5軒長屋の撤去に公金が投入されたのか、あるいはまた土蔵は登録文化財でも県指定文化財でもないのに、補助金によって改修がなされるのか、いっさい情報が公開されません。
 下の写真は左が最近、右の写真が昨年11月のものです。微かに残されていた重伝建の夢はこの長屋群の撤去で完全に潰えました。卒業したパディさんにフォトスキャンのオルソ写真を作成しておいてもらったのが唯一の救いです。パディさん、ありがとう!


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 すでに何度か述べたとおり、文化財保護を任務とする市教委文化財課が少なくとも中部地震以前の段階で文化遺産撤去の指導的役割を果たしたことが今も残念でなりません。その責任者はこの四月で開発側の部局に異動してしまいました。後任は文化財の専門家ですが、町並みに愛着があるかどうかわかりません。日本の地方自治体で文化財行政を牛耳っているのは考古屋さんたちです。考古専門の技師さんたちの大半は史跡と埋蔵文化財にしか興味がない。建造物・町並み・美術工芸・民俗・名勝・文化的景観など多岐にわたる文化財保護の課題を抱えているのに、頭の中にあるのは発掘現場のことばかり。もちろん例外的な専門家もいます。われらが会長さんなどは文化財を多面的に俯瞰できる例外的な考古学者ですが、鳥取県内にこういう人材は本当に少ない。


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↑昨年度末に登録文化財申請した旧O家土蔵の壁は相変わらず剥落し、屋根にはブルーシートが被さったまま。県中部地震から一年半が過ぎてなおこうなんです。これが地方の実情です。しかし、未来がないわけではない。河原町の未来を託すべき建物になったと言って過言ではありません。


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2018年楊鴻勛先生建築史国際学術シンポジウム招聘講演(1)

 3月末のこと、2年ぶりに奈良のリーさんから連絡があった。2年前は我が師、楊鴻勛先生の訃報をお知らせただいた。なんだかとても恐ろしくて、何もできないままでいた。淡さん、町田さん、楊先生が次々と旅立っていかれる。チャイナロビーとまで呼ばれたあのころ-敢えて平城全盛期と呼ぼうか-が海辺の砂の城のように音も立てずに崩れ去っていくように思えた。中国に対する気持ちも尖閣以降ますます萎えていっていたのだが、そうした心理が少しだけ和らぎ始めたのは年末に家族全員で上海に遊んだことによるのかもしれない。

 上海の発展と成熟に接し、この国と向き合えないことはない、となんとなく思い始めていたところだった。
 リーさんは王秀蘭先生(楊先生夫人)のご依頼を手っ取り早く説明してくださった。楊先生を記念する国際シンポジウムが福建省の福州大学建築学院で開催されるので、講演してほしいという依頼であった。準備の時間がないなら出席だけでもいい、おまけに旅費はすべて先方が負担するという、至れり尽くせりの依頼である。もちろん二つ返事でお受けすることにした。シンポジウムは4月27~29日に開催される。原稿(予稿)の締切は25日。あと十日しかない。残念なことだけれども、ここしばらくは予稿と発表パワポの作成を最優先するしかない。

   日本の建築考古学 -弥生・古墳時代の大型建物-

 青谷上寺地の建築部材研究をベースにして、最近取り組んだ松原田中遺跡と纒向遺跡の復元を話そうと思っている。もちろん魏志倭人伝の話を絡めたい、と思っていたら、今度は京大人文研の「3世紀の東アジア」研究班から「正史東夷伝にみえる住まいの素描」の発表依頼が届いた。3年間の厄年を終えて、科研の採択など、少しずつ自分らしい姿に戻りつつあるのかもしれない。
 それにしても、ブログなんか書いてる場合じゃないよね。原稿までは無理かもしれないが、綺麗なパワポにまとめて福州大学建築歴史研究所(事務局)に送信しなければ。


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【開催通知】中英併記。クリックすると拡大します。

今年も、寅さんの風景(1)

 プロジェクト研究1&3がスタートしました。昨年に引き続き、テーマは「男はつらいよ-寅さんの風景」です。今年もまた鳥取を舞台とした第41作「寅次郎の告白」をみてロケ地での再現撮影を試みます。昨年は上方往来河原宿、稲常、若桜橋周辺を撮影地としましたが、今年の目標は倉吉と若桜鉄道安部駅です。
 このほか、視聴する作品も昨年とは変えています。1回めの雰囲気はとても良い感じでした。きっと良い期末発表をしてくれると思います。以下、シラバスを抜粋しておきます。

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授業の概要
 渥美清主演、山田洋次監督の映画『男はつらいよ』全48作(1969-1995)は、作品数世界最多の映画シリーズとしてギネス認定されています。テキ屋の車寅次郎(フーテンの寅さん)が故郷の東京下町(葛飾柴又)と全国各地の田舎町を往来しつつ、旅先で出会ったマドンナと必ず恋に落ちては大騒動をまきおこし、最後は一人さみしく故郷を去っていく笑いと涙の人情劇です。本プロジェクトでは「風景」から寅さん映画を読み解いていきます。晩年の第44作「寅次郎の告白」が鳥取篇であり、倉吉、砂丘、若桜鉄道、河原などの風景が流れ続けます。山田洋次監督はなぜこれらの場所を選んだのでしょうか。映画を鑑賞し、現地を訪ねて考えてみましょう。

授業計画
01.オリエンテーション-寅さん序説
02.鑑賞① 第13作(1974)「寅次郎恋やつれ」吉永小百合 @島根(温泉津・津和野)
03.鑑賞② 第19作(1977)「寅次郎と殿様」真野響子@伊予大洲
04.鑑賞③ 第27作(1981)「浪花の恋の寅次郎」松坂慶子 @大阪・生駒・対馬
05.鑑賞④ 第38作(1987)「知床慕情」竹下景子 @知床・斜里・岐阜
06.鑑賞⑤ 第44作(1991)「寅次郎の告白」後藤久美子・吉田日出子 @鳥取
07.鑑賞⑥第48作(1995)「寅次郎紅の花」後藤久美子・浅丘るり子 @津山・奄美大島
08.鑑賞⑦【寅さん追悼作】(1996)「虹をつかむ男」西田敏行・田中裕子 @徳島(脇町)
09.「寅次郎の告白」ロケ地再現撮影(1)-倉吉白壁土蔵群(重要伝統的建造物群保存地区)
10.「寅次郎の告白」ロケ地再現撮影(2)-若桜鉄道安部駅(登録有形文化財)
11.発表のためのミーティング
12.パワーポイント作成(1)
13.パワーポイント作成(2)
14.発表会リハーサル
15.発表会


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(23)

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摩尼山もスティ・ポジティブ!

 4月12日(木)、午前10時より摩尼寺門前で「国登録記念物(名勝地関係)摩尼山標柱及び説明板の除幕式」が執り行われました。式には、摩尼寺の田尻住職や教授、会長さん、そして県市教育委員会・自治会関係者などが参列されました。住職のご挨拶のあと教授がスピーチされました。

  この案内板等の設置でようやく登録記念物の整備事業が出発点に立ちました。しかし、
  今後の見通しは決して明るいとは言えません。そういう事情は踏まえつつも、
  カーリング日本代表の口癖であったスティ・ポジティブ!の精神をもって、前向きの
  気持ちを保ちながら、今後の調査・研究・整備に邁進したい。

と宣言されました。  
 ところで当初、教授は説明板の黒地を気にされていましたが、参加者の方々の評価は上々のように感じました。


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 除幕式には新聞記者や日本海ケーブルネットワークなどメディア関係者もかなり取材に来られていました。事業概要を概説された市教委文化財課の岡垣さんはASALABのOBで、摩尼寺「奥の院」遺跡の発掘調査で修士論文を書かれたこともあり、メディア関係者からの人気は教授を凌ぐほどでした。


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 この標柱・説明板が設置されたことを期に、もっと摩尼山が多くの人に知られ訪れてほしいです。秋には、立岩と賽河原を舞台とした石積イベントを企画しています。今から紅葉の季節に想いを馳せています。
 この勢いのまま摩尼山・摩尼寺がもっと活気づけうことを心より願うばかりです。(OK牧場)


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180412摩尼山記事
↑4月13日地元紙の記事

太中画伯からの手紙

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日本南画院展に出品

 昨年の青海・チベットツアーに同行し、青蔵鉄道では同じコンパートメントだった太中(おおなか)誠さんからお便りが届いた。ご覧のようにラサのポタラ宮を水墨画に仕上げられており、日本南画院展に出品されるとのことである。太中さんには最後の晩餐で似顔絵まで描いていただき、このたびはまたこういうお誘いまでいただいて感謝に耐えません。伏して御礼申し上げます。
 東京店はすでに終わってしまったが、京都展・大阪展はまだまにあう。ぜひ行ってみたいとは思っている。ただし年度末に突然、中国建築史学会からの招聘講演の依頼があり、GW前には原稿を提出して福州にむけ出発することになっているので、事案的な猶予は非常に厳しいところがある。
 うまく時間を捌きたい・・・


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科研新規採択!

ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴

 エイプリルフールにお知らせした新規科研採択内定から正式に交付申請書の作成に移行し、昨日学術振興会に送信しました。小さな科研ですが、なにぶん科研自体が通りにくい地方の小大学なので勇気づけられます。6年間ブータンに通った労苦が少しだけ報われた気がします。以下に概要を記します。

   研究種目: 基盤研究(C) 2018~2020年度
   課題番号: 18K04543
   研究題目: ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴 -ポン教神霊の浄化と祭場-
   代表者:  浅川滋男(共同研究者無)
   経 費:  4,299,000円 (直接3,300,000円 間接999,000円)

研究の目的
 仏教における調伏とは魔女・悪霊等を修法によって浄化し、仏教側の守護神として再生させる行為である。こうした邪神浄化のプロセスは、仏教拡散のあらゆる過程で限りなく確認できる。ブータンでも谷筋に1柱以上の守護神が存在し、そのルーツは仏教以前に信仰されたポン教の神霊に起源する。仏教の側からみればネガティブな存在でしかないポン教の女神や神霊が洪水・厄災などを引き起こす原因だと認識され、これらを調伏するため僧侶は黒い壁の瞑想洞穴で長期間の瞑想修行に専心する。その結果、魔女・悪霊は浄化され、谷の守護神として生まれ変わる。本研究は、〈1〉仏教僧院の縁起を聞き取りして「悪霊」の悪行を把握した上で、〈2〉黒壁瞑想洞穴などで「悪霊」を調伏したプロセスを調べ、〈3〉谷の守護神として再生した後の性格と本堂・仏間における祭り方を明らかにする。この問題をブータンにとどまらず、チベット側でも調査しブータンと比較したい。

研究計画
 上記〈1〉〈2〉〈3〉については調査時に僧侶や村人からヒアリングを重ねて明らかにする。この場合のヒアリング情報は「歴史的事実」ではない。それは、村人や僧侶が無意識に共有する歪曲した疑似歴史情報である。その集団幻想のなかに、ブータン人の自然観や精霊信仰、「悪霊」調伏の過程が埋め込まれている。歪められた認識の固まりこそが本研究の最も欲する文化的情報である。これに類似した情報は民話にも含まれている。民話・縁起を通してポン教系神霊の調伏に係わる情報を収集する。
 ヒアリングによって得られた擬似的地理情報(風水)を実際の地形と対比するため、仏教僧院周辺の地形をできるだけ正確に把握する必要がある。これについては、Agisoft フォトスキャン(研究室所有)を活用し、多重撮影した写真から地形の3Dモデルを作成し分析を試みる。このため高性能のパソコンTegara PC-3419(350千円)が必要である。
 現地調査では、僧院本堂や民家仏間の図面を作成する。本堂の場合、内部の写真撮影と実測調査は原則禁じられており、滞在時間も制限されるので、歩測によって略図を作成し、神仏の像とタンカ(掛軸仏画)の配置を野帳に描き込み、壁画についても制作年代や内容に係わる記録をとる。神仏の現地呼称はインフォーマントに正確な表記で書いてもらう。
 僧院だけでは十分な情報を得られないので、民家仏間の詳細な調査もおこなう。仏間は撮影・実測が可能である。まずポラロイドで神仏の像・画を撮影し、油性黒マジックで現地呼称等の情報をポラロイドに書き込んでから、一眼レフで仏像等を写し込んでいけば、神仏の像やタンカなどの画像情報を誤りなく網羅的に収集できる。実測についても、時間的余裕があるので、平面図・立面図すべてを描き切って採寸し、室内展開図を作成する。神仏等の配置がひと目で理解できるように、最終的には考現学的な室内パース図に仕上げたい。とくに重要な点は、調伏された守護神の性格と配置を正しく理解することである。
 瞑想洞穴ドラフは、部外者の入室を厳禁しているが、ブータン各地には、廃墟となった瞑想洞穴跡が散在する。その実測とヒアリングから当初の状況を復元する。調伏のためドラフ内部でおこなう修行の内容については、僧侶からヒアリングするしかない。以上の僧院本堂や瞑想洞穴掛屋等については建築年代を判定する必要もある。所有者の許可を得ながら、木造部材の年輪サンプルや版築壁に残る炭化材等を抽出してAMS法による年代測定を試みる。
 調査対象地は、初年度がハ地区を中心にした西ブータン、第2年度は中央ブータンのタン渓谷、最終年度はチベット・雲南に近い東ブータンを予定している。また、ブータンのチベット仏教ドゥク派と比較するため、初年度もしくは第2年度にブータンと生態系の近似する中国西蔵自治区・雲南省の境域を調査して、ゲルク派の僧院本堂・仏間と比較したい。

猫と昼寝のマルタな日々(3)

0325ムナイドラ神殿01 0325ムナイドラ神殿04案内板01 ムナイドラ


マルタの巨石神殿群

 わずか5日間の滞在であったが、マルタのあらゆる側面に魅了された。地球の未来を感じた。それほどの場所であったと振り返って今も思う。まずは世界文化遺産「マルタの巨石神殿群」のお話からしよう。3月25日(日)、タクシーを1台チャーターし、島中の名所を駆け巡った。ちょっと駆け足すぎたので、最終日にもういちど訪れたところもある。ゴザ島を訪問したのは二日後の27日。
 マルタとその離島にあたるゴゾ島の約30ヶ所で新石器時代に遡る巨石神殿遺跡が確認され、うち6神殿が世界文化遺産に登録されている。最初に登録されたのはゴザ島のジュガンティーヤ(Ġgantija)神殿で、年代は前3600~2500年に遡る。巨石建造物にはさらに古いものがあり、6500年前に遡る世界最古の巨石建造物であり、イングランドのストーンヘンジ(前2500~2000年)をはるかに年代で凌いでいるし、構造も複雑であり、「建築」であるのは間違いない(ストーンヘンジの機能は不明)。


0325ムナイドラ神殿03 0325ムナイドラ神殿02


 日本に置き換えるならば、縄文時代の前期から中期に移行するころであり、気候学的にみると、いわゆるヒプシマール(気候温暖)期にあたる。縄文海進がひろがる日本において、高台に広大な集落が開発され、縄文文化の最盛期を呈したのと併行して、中国でも複数の地方文化が花開き、地中海でもマルタ島周辺に世界最古の石造建造物が造営されたのである。
 学生たちにはいつも説くのです。気候が温暖になって人類は死滅するわけじゃない。ひょっとしたら、さらに栄えるかもしれない、と。
 25日に訪れたのはマルタ島のハジャール・イム (Hagar Qim)神殿とムナイドラ (Mnajdara)神殿。両者数数百メートルしか離れていない。ごらんのとおりドーム屋根で巨石モニュメントを覆っている。レンゾ・ピアノの関空を小さくして被せたような構造で、のどかなマルタ島の自然景観には不釣合いだが、海岸近くの強風厳しい場所なので劣化・転倒を避けるためには仕方ないだろう。


0325ハガールイム神殿02縦01 0325ハガールイム神殿01 0325ハガールイム神殿03案内板01
↑ハガールイム ↓石偶(国立考古学博物館)
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激震ーハリル解任

 ハリルホジッチ監督が解任される見通しという報道がヤフーニュースで流れています。驚いて、コメントを読み漁っていたところ、部屋が激しく揺れた。震源地はタクヲの住む石見地方のようですね。震源地では震度5強、鳥取県東部は震度3です。
 先週は毛沢東語録問題で大学は揺れにゆれており、震源の一人であるが故に非難したりされたりだったものだから、週末の奈良で猫に癒されるのを楽しみにしてたのですが、とつぜん義父の体調が悪化し、近くの病院に入院したため、奈良から家族全員やってきて結構な騒動になりました。しかし、医者のいうことなどアテになりません。義父はこのたびもまた回復の兆しをみせている。

 わたしはハリル解任をかなり前から主張していました。開幕まで2ヶ月になっての解任は遅すぎるとは思いますが、あの為体ですから仕方ない。普通なら、ホームで韓国に1-4の惨敗を喫したとき解任されるべきだったのですが、日本人は心根がやさしく辛抱強い民族なので、今回もまた不本意な監督のまま本番に臨むのか、と諦めていたところでした。
 遅きに失したとはこのことですが、それでも選手選考の前に更迭したのは正解だと思います。わたしは前から森保監督の3バック(5バック)で臨むべきだと主張しています。欧米の屈強なストライカーを4バックで抑えるのは難しい。とくに初戦のコロンビアはフランスとの打ち合いを制する攻撃力をもったチームであり、5バック、1アンカー、2ボランチの8人で守るぐらいでなければ引き分けは難しい。攻撃は2枚だけでいい。まぁ、大迫と中嶋でしょうかね。8人で守りに守って、前線の二人に託す。たとえば下のような布陣です。
 森保でないなら、協会で責任とって西野かな。西野も名将ですよね。マイアミの軌跡の立役者だし、レイソルやガンバで好成績を残している。いちどは代表監督をやらせても良いのではないかな。


        大迫(本田)
                 中嶋(久保)
  
       井手口        大島(南野)

 長友(乾)                  岡崎(内田)       
             長谷部(柴崎) 

     昌司              吉田

             今野   

             川島

 前にも述べましたが、守備陣のイメージは90年代中ごろのアヤックス。リベロのブリントが今野、アンカーのライカールトが長谷部。岡崎は4年前のカイトのイメージ。


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(22)

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国登録記念物(名勝地関係)摩尼山 標柱及び説明板の除幕式について

 時下ご清祥のこととお喜び申し上げます。
 平成29年度に国・県・市より支援を得て、摩尼寺において設置を進めていました国登録記念物(名勝地関係)摩尼山の標柱及び説明版3ヶ所(門前、立岩、奥の院)について、皆様のご協力を得て、このほど無事完成することができました。
 つきましては、下記のとおり除幕式を行います。ご参集いただければ幸いです。

            記

 日 時  平成30年4月12日(木) 10時~11時
 会 場  摩尼寺門前(石段前・現地)
 次 第  
   1.主催者挨拶(摩尼寺住職 田尻光照)
   2.文化財の説明(公立鳥取環境大学教授 浅川滋男)
   3.事業概要の説明(鳥取県教育委員会文化財課)
   4.除幕(主催者、保存会長、覚寺区長)
   5.祝辞(鳥取市教育委員会教育長)(文化財課長代読)


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世界の何だコレ!?ミステリー

 ところで、みなさん、昨夜(4日)のフジ関西系TV「世界の何だコレ!?ミステリー」ご覧になりましたか?
 鳥取の「山奥」にある摩尼山が、あたかもナスカの地上絵のごとき「謎」の巨石建造物として扱われていました。わたしにも市教委にもまったく取材なし。国の登録名勝がただただ「謎」の存在としてアピールされている。そこはとんでもない山奥の秘境で、県民すら知らない謎の神霊地だという設定です。若干差別的な眼差しがないとは言えない。最後に住職がちらりと登場し、「帝釈天降臨の聖地」であることをのべるだけで、テレビサイドは「現在も研究が続けられている」と締めくくった。映像を視る限り、案内板の跡形もないので、おそらく昨秋以前の撮影と思われます。


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 ヤフーニュースのコメント、すなわちヤフコメには安部首相≒日本会議を熱狂的に支援するネトウヨの偏向した批評が溢れかえっていますが、その極右勢力が日本のマスコミを反日売国奴の「マスごみ」と酷評します。ほんと目に余るネット上での誹謗中傷ですが、上のような番組づくりをみていると、真実を隠蔽した捏造の数々に呆れるばかりで、これでは現政権の隠蔽・改竄工作を批判できませんね。「マスごみ」の謗りを免れ得ない。バラエティだから許されるわけではない。こんな取り上げられかたをしても、観光客や参拝者が増えるわけでは決してありません。県市教委は、こういう不適切な放送を軽く受け流すのではなく、フジTVに対して正式に抗議してほしいと思います。


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猫と昼寝のマルタな日々(2)

0324ヴァレッタ01ベニーグリマ01 0324ヴァレッタ01ベニーグリマ02CD01sam


エイプリルフール

 マルタから帰国して3日経ち、新年度を迎えました。昼前に目覚め、iPadを開いたところ朗報あり。科研費採択の発表が1日付であり、昨秋申請していた課題が採択内定したとの報せに喜んだんですが、待てよ・・・今日はエイプリルフールじゃないの・・・だまされて嗤われるのはたくさんだと学振のサイトを自ら確認したところ、たしかに以下の課題がリストに含まれておりましたよ。まさか学振のウソなんて??

   ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴-ポン教諸神霊の浄化と祭場-

 平和千点を和了したようなものかもしれません。しかし、この千点は大きい。明日につながる千点です。


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↑世界遺産「ヴァレッタ歴史地区」の大道芸人ベニー・グリマさん。フラットマンドリンで「第三の男」「みつめていたい」「スタンド・バイ・ミー」「上を向いて歩こう」などのスタンダードを緩く聞かせてくれます。マルタにぴったり。

0326スリーマ01猫村02オブジェ01 0326スリーマ01猫村01
↑↓スリーマの海岸線は海も空も清潔で美しい。岸辺の公園に猫村がある。近づいても微動だにしません。
0326スリーマ02海岸01


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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