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中欧紀行(Ⅶ)

0319ウィーン02オットーワグナー01 ←セセッション館


 3月31日。「笑っていいとも」の最終日にタケシが登場した。最近寡黙なタケシがしゃべくりまくる。ちょっとみてられなくなって、チャンネルを変えた。若い頃のタモリが好きだった。いちばん懐かしいのは「今夜は最高!」かな。ジャズ研トランペターとしての力量を示しながら、コントあり、トークあり、美女あり。「夢であいましょう」から「シャボン玉ホリデー」に至る正当派バラエティの構成を継承する最後の番組だった。ぜひ復活させて欲しい。昼番組よりずっとタモリにあってる。「笑っていいとも」は幕を閉じ、「TVタックル」は深夜に移行して「明石家電視台」の裏番組になった。困ったなぁ。「明石家」は奈良で録画し、「タックル」は鳥取のケーブルTVで録画するか。
 パソコンを開くと、「退職のご挨拶」のオンパレード。大半は非常勤職員からのメールである。みなさん、お世話になりました。とくにASALABの記事を大学のHPにアップし続けてくださったOさんには感謝の言葉もありません。敬礼!


0319ウィーン01シュテファン大聖堂100 0319ウィーン01シュテファン大聖堂103


世界文化遺産「ウィーン歴史地区」

 新学期も始まろうというのに「中欧紀行」が終わらない。まだウィーンが残っている。これは大変な都市です。ハプスブルグ家の帝都にして、音楽の都、いや芸術の都。マリア・テレジアが産んだ16人の子女のうち15番目がアントワネットなんですよ。「パンがないならケーキを食べたら」でギロチンされた姫君。音楽はヨハン・シュトラウス、ベートーベン、モーツァルト、絵画はエゴン・シーレにクリムト、建築はオットー・ワーグナー、アドルフ・ロース、ハンス・ホライン、おまけに心理学のフロイト。ぜんぶ似合わないね。田舎者の私には荷が重い都市です。というわけで、手っ取り早く片付けましょう。以下、半日で16000歩あるいた行程です。

   シェーンブルン宮殿 → シュテファン大聖堂(↑) → ケルントナー通 
   → 国立オペラ座 → 美術史博物館 → ブルク劇場 → 王宮 →
   ミヒャエラー教会 → コールマルクト通 → グラーベン通 


0319ウィーン02シュテファン大聖堂01


 今回の旅でいちばん印象に残った町並みはチェスキー・クロムロフだったが、建築単体ならばウィーンのシュテファン大聖堂が圧倒的な存在感を示していた。やっぱりゴシックだね。ルネサンスというのは、ゴシックを否定して生まれた当時のモダン建築なんだろうけれど、もう一つ魅力を感じなかった。後に続くバロック、ロココもゴシックほどの超越性はなし。この時代の西洋建築はオスマントルコに如かず。


0319ウィーン01ホライン03 0319ウィーン01ホライン02縦


 広場を挟んでシュテファン大聖堂の対面にハンス・ホラインのハース・ハウス(1990)が建っている(↑)。「ガラスと鉄」のポストモダン建築。現代バロックとでもいうべき造形ですかね。歴史的景観をぶちこわしにするということで、建設にはずいぶん反対があったらしい。よりによってシュテファン大聖堂の対面だからね。よく許可がおりたものです。ちなみに、ハンスホラインは学生時代のスターでした。東の磯崎、西のホライン。今思うに、両者イマイチかな(御免)。


0319ウィーン04美術史博物館01


 美術史博物館の入場料は2000円。値段高いけど、展示物は質量とも凄いの一言。とくに有名なのは、農民の画家ブリューゲルの「バベルの塔」「農家の婚礼」「雪の中の狩人」など。中世の絵画としては垢抜けしいて、ミュージアムショップではクリムトと人気を二分している。絵画展示は、昨夜述べたとおり、ガラスケースがついてないし、フラッシュなしの撮影可。信じられないね。いちばん驚いたのはカフェです。中央ドーム部分がそのままカフェになっている。飲み物がとくに美味しいわけではないけど、あの空間のなかでお茶できるんだから幸せです。カフェ・ミューゼアムやデメルなどの有名店にも入ったが、空間だけなら美術史博物館のカフェがピカイチでした。ザッハタルトは美味しいけれど、食べ物は総じて宜しくありませんし、ウィーンの従業員(ホテルやレストラン)はプライドが高くて愛想がない。そのなかで、ケルントナー通の屋台で食べた鉄板ヤキソバが美味しかった。醤油味のヤキソバにほっと一安心。出稼ぎにきているドイツ人とおしゃべりしながら、ソバを啜りました。ぜひ食べてみてください。


0319ウィーン04美術史博物館03ブリューゲル01圧縮 0319ウィーン04美術史博物館03ブリューゲル02バベル
↑(左)「雪の中の狩人」 (右)「バベルの塔」

0319ウィーン04美術史博物館02カフェ01 0319ウィーン04美術史博物館02カフェ02縦
↑美術史博物館のカフェ


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中欧紀行(Ⅵ)

0315ブランデンブルグ門01


田園都市ベルリン

 ベルリンを車で回っていて、エベネザー・ハワードの「田園都市」を思い起こした。とくに政府系の施設が集中するブロックでは建坪率が小さくて隣棟間隔が長く、建物と建物の間の緑地が広大にひろがっている。その姿は都市というよりも、郊外緑地公園のなかにある公共施設群のような趣きがある。最近訪れた例をあげるなら、宮崎のシーガイアに近いかな。とにもかくにも、人間居住の匂いがしない。緑地が広いのは結構なことだが、これだけ施設相互が離れていると使い難いよね。
 「ベルリンの壁」が崩壊してから、ベルリンは統合ドイツの首都となり、世界各国の大使館がおかれた。それらはブランデンブルグ門(↑)の近くに集中している。ここが結構な観光地で、馬車もいれば新型の三輪タクシーもいるし、なっが~いリムジンもうろうろ旋回している。おもしろかったのは、ビール・カウンター付きの足こぎ車。カウンターに陣取る男たちがいっせいにペダルを漕いで屋台が動き回っている(↓)。寒い午前にみなビールを飲んでいる。


0315ブランデンブルグ門02 


 ベルリンで宿泊したホテルがバウハウス風の設計作品であったことをすでにお知らせしたが、同じような「鉄とガラスの建築」は町中いっぱい建っている。センスが良いといえば良いのだろうが、なんだか少し寒々しくて、共産主義社会の匂いを感じないでもなかった。
 そう言えば、つい最近、坂本龍一の「スコラ」で現代音楽を取り上げていたね。前半がブーレーズとケージ、後半がクセナキスの話だった。クセナキスはル・コルブュジェのアトリエで建築を設計していた。数学が得意で、黄金比によるデザインもクセナキスの発案らしい。叙情性を排除した建築を数学によって作り上げる。クセナキスの音楽も数学をベースにしている。建築家にして作曲家である人物がこの世に存在し、『音楽と建築』(高橋悠治訳・1975)という著作を残したことをすっかり忘れてしまっていた。とても気になる。建築も音楽もロマン主義の時代から近代に入り込んで、前提は科学が宗教に取って代わった。それが普遍的な「近代」の芸術なのか、共産主義の影響を受けたものなのか、「鉄とガラスの建築」を視ていて、こんがらがったということです。


0315ブランデンブルグ門03


 ベルリンでは、叙情性を排除した近代建築をずいぶん目にした。こうした「鉄とガラスの建築」が様式建築と混在しているところがベルリンの風景のである。
 学生時代、よせばいいのに、ケージの曲を演奏する高橋悠治のLPを買った。そこに補助係として坂本龍一の名前をみつける。芸大の大学院生だったころだ。だから、坂本は高橋のような音楽人生を歩むのかと思っていた。YMOとか映画音楽は生計を維持するためのバイトであって、本気でやりたいのは現代音楽なのだろうと思い込んでいた。全然ちがいましたね。学者や評論家は現代音楽が大好きだが、かれはむしろ現代音楽を知って、その分野から逃げてった人のようだ。


0315ベルリン市街地01 0315ベルリン市街地02


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中欧紀行(Ⅴ)

0316ドレスデン01 0316ドレスデン02


ジグゾーパズルの町並み ードレスデン

 ザクセン州の州都ドレスデンは、第2次大戦中の英米軍による空爆で中世の歴史的市街地が壊滅した。戦後、東ドイツ政府は歴史的市街地の復興に着手し、1990年の東西ドイツ統合後、歴史的建造物の復元が大きく前進した。その手法はたんなる擬似的建造物の再建ではなく、瓦礫から掘り出した当初部材をコンピューターで可能な限り元の位置に組み込むもので、「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」と評価されている。ベニス憲章にいうところのアナスタイローシスを科学的に進めようとしたものと言えるかもしれない。この種の町並み復元はワルシャワがよく知られている。ナチス・ドイツの占拠により灰燼に帰した歴史的市街地を市民の手で「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現したものという。どちらも敬服に値しますね。復元嫌いの私ではあるけれども、ここまでやられるとぐうの音も出ません。素晴らしい仕事だと感嘆するのみ。


0316ドレスデン09ツインがー02広場 0316ドレスデン04


 ドレスデンを訪れたのは3月16日。どんよりとした曇り空に覆われて時折大粒の雨が額に落ちてくる。今冬は異常気象で晴れ間が続き、気温が高かったというが、この日の午前は寒かった。ゼンパー・オペラ(↑↑左)とツィンガー宮殿に囲まれた広場(↑左)を起点にして、ドレスデン教会(↑↑右・↑右)から「君主の行列タイル壁画」で知られる武芸競技場を経てフラウエン(聖母)教会まで歩いたが、あまりに寒かったので、いったん広場に戻り、エルベ河畔のカフェでルイボスティーを飲み体を温めた。アフリカ原産の針葉樹の葉を用いた健康茶で甘みがある。明日あたりアマゾンから茶葉が届く予定。


0316ドレスデン05
↑君主の行列タイル壁画  ↓フラウエン教会
0316ドレスデン07聖母教会 0316ドレスデン06



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中欧紀行(Ⅳ)

0315ポツダム01宮殿01全景01 0315ポツダム01宮殿01全景02背面02屋根の目


ツェツィリェンホフ宮殿とポツダム会談

 プロイセン王国の支配者、ホーエンツォルレン家が普請した最後の離宮がポツダムにある。それはヴィルヘルム皇太子とツェツィリェ妃の住まいであった。豪壮な石造の城郭にはほど遠い別荘のような木造建築で、ご覧のとおり、イギリスのハーフティンバーをほぼ直写したものである。英国王女を祖母とする皇太子には濃厚な英国趣味があり、帝国建築委員会の提案した宮殿設計案を受け入れず、テューダ王朝風アーチ型門を備える英国カントリーハウスを所望した。設計者はパウル・シュルツ・ナウムブルク(1869-1949)。1913~17年の建築である。


0315ポツダム01宮殿01全景02背面01 0315ポツダム01宮殿03案内板01


 ナウムブルグは建築の風土性や自然環境との融和を主張した建築家であり、プロイセンの法令「集落及び景観破壊禁止令」もナウムブルグの発言の影響のもとに1907年に発令されたという。1904~05年にヘルマン・ムテジウスが英国の山荘に関する著作を刊行したのを契機にして、当時のドイツでは、自然指向の英国住宅が脚光を集め始めた。ナウムブルグの設計案はノーマン・ショウがデザインした英国サセックス州のリーズウッド山荘(1868)に著しく似ているという。とはいえ、この建物は山荘ではなく、多くの人びとが集まる宮殿として機能しなければならなかったので、左右対称の配置を大きく崩し、会議場などの広大な部屋を確保した(↑右)。また、一部に石造の円塔を含む。これは、15世紀にフランケン地方の城伯として台頭したホーエンツォルレン家の歴史的なルーツを暗示させる。


0315ポツダム01宮殿09壁01 0315ポツダム01宮殿09壁02打ち込み栓
↑壁板と打ち込み栓
0315ポツダム01宮殿04船の部屋01
↑船室を模した部屋。ル・コルブュジェ「船としての建築」との関係が気になる。


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顔のない死神

ビッグコミック SPECIAL ISSUE
 『別冊 ゴルゴ13』 No.181
 2013年10月13日号


 「恐慌前夜」「誰がそれを成し得たのか」「顔のない死神」の3話を収録。「顔のない死神」を読みたかった。

 舞台はインド洋上の環礁、ディエゴ・ガルシア島。この島は16世紀にポルトガルが発見し、1814年からイギリス領になった。今は米英両軍の基地がおかれ、アラブ・南アジア方面を監視する重要な軍事拠点となっている。ここに武器密輸業者が捕らわれの身となり、取り調べを受けるシーンから始まる。213ページの科白に注目したい。

   ここ(ディエゴ・ガルシア)は特別だ!
   凶悪なテロリストを一時的に収容する要塞の島だ!
   更に、米軍と共に管轄しているこの島は、
   ステルス爆撃機まで保有した軍事基地で、
   一般人の渡航は禁止され、英米両軍の精鋭だけが
   駐留している・・・・・

 370便は偽造パスポートを有する二人のイラン人にハイジャックされ、タイの領空でUターンしてインド洋のディエゴ・ガルシア島に向かった。神風特攻隊として基地に突撃する自爆テロを仕掛けた可能性が高い。あるいは、収監されているテロリストと370便乗客の交換を要求したのかもしれない。ディエゴ・ガルシア島の滑走路に着陸し、乗客全員を解放する代わりにテロリストを奪い返し、給油した370便でアフガンかイラン方面に逃飛しようとした可能性もあるだろう。
 米軍はジレンマに陥ったはずだ。神風となった370便を放置すれば基地が破壊される。370便を撃墜すれば、中国人152名をふくむ239名の乗客・乗組員が海の藻屑となる。とりわけ、152名の中国人を米軍が殺戮したとなれば、米中の関係が一気に悪化するだろう。
 米軍は370便を撃墜し、米英とマレーシアの政府はこの事実を隠蔽した。「行方不明」ということにしておけば時間が稼げるし、墜落した機体はインド洋の荒波にもまれて発見が難しくなる。

 乗客5名の安否を気遣うオーストラリア政府は、米英の思惑を察知して自ら捜索を始め、衛星写真に長さ24mの物体を発見した。今日現在、インド洋南側の荒海で機体の残骸と目される120以上の破片が写真上で確認されている。かりに撃墜されたものでないにしても、ディエゴ・ガルシア基地からそう遠くない位置で入水した航空機のことを米軍が認知していないはずはない。通信が途絶えた後も軍事衛星で370便の進路を追跡していたであろう。米軍は時を稼ぎ、原因不明の墜落として事を始末しようとした。かりに爆破痕跡のある機体の一部が海から回収された場合、テロリストの自爆だと主張するだろう。

 以上が中欧滞在中にめぐらせた妄想の結論である。同じような見解をドイツのメディアも報じているようだ。



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一周忌

0314デブ命日01アマゴ03墳丘02旗


 デブの一周忌。あの日から一年が過ぎてしまった。なんだか、もっと昔のような気がする。墓上の五色旗を新品に替え、デブの好物を買いに行った。キビナゴとアマゴ。
 あのころ同居していた息子はいま大阪に住んでいて、命日の前夜10時に帰ってきた。手にバニラ・ヨーグルトをもっている。さっそく仏壇に香を立て、ヨーグルトを供えた。デブの好物、キビナゴの刺身はサツキがたいらげた。
 正月以降、息子と会うのは2回目。ウィーンで仕入れたヴィヴィアン・ウエストウッドのネクタイを渡すととても喜んだ。晩餐後、ザッハトルテとブルーチーズでお茶をした。器はマイセン。値段を伝えるとおののいた。割れたら大変だからね。滅多にテーブルに出せないな。猫に壊されるのがオチだ。茶葉はアールグレイのティーバック。これが美味しいのね。さして紅茶好きでもない息子が「ストレートでいける」と絶賛した。


0314デブ命日01アマゴ03墳丘01 0314デブ命日02紅ボケ01


 ドイツやオーストリアのティーバックはとてもよい味がする。クリムトの「接吻」をペーストした缶入りの茶葉と比べて、あきらかにティーバックの味がしっかりしているのだ。香りがよい。ずいぶん買いためたつもりだが、帰国後の消費量が著しく、残り少なくなってきた。紅茶だけでなく、ブルーチーズも、ザッハトルテも、モーツァルトチョコも・・・もっともっと買っておくべきだった。

 デブは川魚が好んだ。ザコツリストの私が釣り上げるオイカワ(シラハエ)をよく食べたし、なにより鮎が好物だった。スーパーで鮎を探したが見当たらなかったので、アマゴにした。26日の命日にアマゴを焼き、墓に供え、仏壇に供え、夕食でいただいた。サツキが黙っているわけはない。サンマの皮には見向きもしないのに、アマゴの皮をよく食べる。
 雨の一周忌だった。恵みの雨です、アーメン!


0314デブ命日01アマゴ02仏壇01縦 0314デブ命日01アマゴ01

0314デブ命日03五月01
↑サツキは元気です。少し大人しくなってきたかも?

中欧紀行(Ⅲ)

0318クロムロフ01全景01 0318クロムロフ01全景04


 「宮崎」と同じように「中欧紀行」もざっと概観しておきたい。

チェスキークルムロフ

 今回の視察はなにより町並み景観に重点をおいていた。すでに(Ⅱ)でも述べたとおり、最も印象に残ったのはチェコの田舎町、チェスキークルムロフである。チェスキーとは「ボヘミアの」という意味であり、クルムロフはドイツ語のクルマウを語源としており、「曲がりくねった湿地帯」をさす。その名のとおり、町はモルダウ川源流域の小川で包囲され、環濠集落の体をなしている。中世の定住は8~12世紀に遡るが、クルマウという地名の初見は1253年まで下る。1302年から1601年までローゼンブルグ家が町を支配する。ローゼンブルグ家の紋章は銀の地に赤いバラをあしらう。わたしが宿泊したホテル・ルージュのルージュとは「赤いバラ」のこと。クルムロフの老舗ホテルで、外壁はモダンに改装しているが、内部はクラシックな木彫の意匠で整え、レストランの給仕たちは民族衣装を身に纏う。1601年以降、オーストリアの領主ハプスブルグ家の統治するところとなり、ハプスブルグ家はエッゲンベルグ家をクルムロフ城主に封じた。1719年からはシュバルツェンベルグ家の統治となり・・・細かく書いていると切りがないので、近代史に跳びます。


0318クロムロフ04ホテル01 20140326ホテルルージュ03503352d


 第1次大戦後チェコ領となるも、第2次大戦ではナチスの侵略を受ける。Wikipediaは「ナチスドイツの軍の基地がおかれドイツ人兵士たちによって多くの建造物が破壊された」とするが、現地で購入した日本語パンフによると、「第2次世界大戦下、軍事作戦は行なわれず、町は損害を被らずに済ん」だ、とある。1945年、米軍によって解放され、2年後にすべての財産がチェコ政府に譲渡されるが、町は空洞化し、ロマ(ジプシーの一群)の居住地となり、チェコ人とロマの間で軋轢が絶えなかったようだ。現在の人口は500人ばかり。静かな町に年間100万人の観光客が押し寄せる。


0318クロムロフ05中景02 0318クロムロフ05中景01城01
↑町並みから城を眺望 ↓町並み
0318クロムロフ02町並み05 0318クロムロフ02町並み03


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2013年度研究実績報告(Ⅰ)

平成25年度鳥取県環境学術研究費助成

1.研究課題名:

   倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査
    -「歴史まちづくり法」よる広域的景観保全計画にむけて-

2.課題番号: B1301
3.研究年度: 平成25~27年度 
4.成果概要:

 倉吉は伯耆国府が置かれ、古代から中世にかけて鳥取県中西部の政治・経済・文化の拠点的地域であった。伯耆国庁跡・伯耆国分跡に加えて、国府に関連する官倉「不入岡遺跡」や国分尼寺「法華寺畑遺跡」などが市街地の北西に相接して分布し、市街地の東には大御堂廃寺跡が所在する。さらに、打吹山の中腹には奈良時代造営の寺伝を残す長谷寺が境内を構える。打吹山には中世の城跡があり、 一四世紀以降、山の北麓に城下町が形成されるが、それ以前の打吹山はむしろ信仰の山として、三徳山・摩尼山・大山寺などと類似する霊山であった。
 中世の打吹城は一国一城令によって廃絶するが、城下町は鳥取藩家老荒尾氏の統括する陣屋町に継承され、木綿・稲扱千歯などの特産品の流通により明治・大正期まで繁栄を続ける。こうした歴史を反映して、県内では最も文化遺産が集中する地区になっている。たとえば、旧陣屋町エリアの一部は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、上記の諸遺跡(古代国庁等)はいずれも国史跡に指定され、さらに長谷寺は懸造の本堂と仁王門が県指定、本尊十一面観音を安置する厨子が重要文化財指定を受けている。このように個々の物件は保護の対象となっているものの、それぞれの調査研究が十分なされているわけではなく、遺産相互の連携性も高いとは言えない状況にある。なにより時間の流れとともに高齢化や人口減少が進行し、担い手の不足などから良好な環境(歴史的風致)が大きく損なわれてきている。
 こうした課題を克服するため2008年、国交省・農水省・文化庁が共同で「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」(いわゆる「歴史まちづくり法」さらに略して「歴まち法」)を制定した。従来の文化財保護法、景観法、都市計画法には一長一短があり、必ずしも地域景観保全の救世主たりえなかったが、「歴まち法」では市町村が申請する「歴史的風致維持向上計画」にあわせて「歴史的環境形成総合支援事業」「街なみ環境整備事業」「まちづくり交付金」「まちづくり計画策定担い手事業」などさまざまな支援を受けることができる。上に述べたように、倉吉は古代から近代に至るまで歴史遺産が多数分布し、それらを連携しあうことで広域的に歴史的風致を向上させる可能性を秘めている。
 3年計画の初年度は、打吹山の山腹・山麓エリアの文化財を対象として調査研究を進めた。最も重要な研究対象は長谷寺であり、①本堂背後の巨岩の清掃と撮影、②寺蔵文書の翻刻、③境内建造物の実測調査と復原研究、④本堂部材の放射性炭素年代測定、⑤大絵馬と庶民信仰に関する歴史民俗学的研究などに取り組んだ。以上の調査研究のうち『長谷寺要用書記』前半部分の翻刻、長谷寺境内建造物の実測図作成、長谷寺本堂建築部材の科学的年代測定の成果を収録した1冊目の中間報告書『「長谷寺要用書記」翻刻 附録:長谷寺本堂建築部材の放射性炭素年代測定』を刊行した。この報告書は年報・概報の類に属するラッシュレポートではあるけれども、県指定文化財「長谷寺本堂」の再建年代が15世紀に遡り、重要文化財「厨子」に先行する可能性が高くなったことを報じており、今後の文化財保護に大きな影響を与えるであろう。
 2014年度は昨年の研究発表・講演の記録をもとに「倉吉の歴史遺産とまちづくり」と題する2冊めの中間報告を刊行するとともに、打吹玉川重要伝統的建造物群地区の拡張の可能性、倉吉と三朝地区の文化遺産の連携について検討する。
 

宮崎(Ⅱ)

0228みみづ02 0228みみづ01


美々津と飫肥

 美々津は重伝建らしい町並みを残している(↑)。漁村・港町型の妻入町家が多数を占めるが、平入も混じっている。雑貨屋やカフェに転用した町家も若干みられるが、観光客は少ない。静かな港町の風情が漂う。飫肥は宮崎県南部では有数の城下町だが、武家屋敷を囲むは石垣だけが目立つ(↓)。すでに武家屋敷は新装されており、国道の両側に軒を連ねる町家も伝統的な建造物は少ない。「日田豆田」以外の大分の町並み保全地区(重伝建になっていない)と似た、新しい疑似町家が多数を占めており、若干興醒めした。利根川と飫肥は他県の選定地ほど水準が高くない。住民の合意と行政のやる気こそが問題なのだろう。このレベルで重伝建になれるのなら、倉吉の未選定地や平田はもとより、若桜、鹿野、板井原も重伝建の資格を十二分に有するであろう。


0227飫肥01 0227飫肥02
↑飫肥城下町(武家屋敷)
0228高鍋町家老屋敷(黒水家)01
↑高鍋町黒水家住宅(家老屋敷)*飫肥ではありません。

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宮崎(Ⅰ)

0301椎葉01利根川01


九州の文化的景観巡り

 去る2月27日~3月2日の4日間、宮崎県を訪問した。
 九州は2年ぶりになる。文化的景観に係わる科研費と県環境学術研究費の助成研究を進めていたころ、冬休みになると、九州・四国の重要文化的景観と重伝建地区を訪ね歩いていた。いまブログを読み返すと、2008年に佐賀・福岡、2009年に大分、2010年に愛媛・高知、2011年に熊本を訪れている。このたびの宮崎訪問はこれらの視察の延長線に位置づけられる。
 以下に示すとおり、宮崎県では、重要伝統的建造物群保存地区が3ヶ所、重要文化的景観が1ヶ所選定されている。
 
  重要伝統的建造物群保存地区
   1.日南市「飫肥(おび)」【武家町】1977年選定
   2.日向市「美々津(みみづ)」【港町】1986年選定
   3.東臼杵郡椎葉村「利根川」【山村集落】1998年選定
  重要文化的景観
   4.日南市「酒谷の坂元棚田及び農山村景観」 2013年10月17日選定

 本来なら1ヶ所ずつ丁寧に紀行文を書くべきであろうが、いま時間的余裕が乏しく、とりあえず今回の訪問地を一括してとりあげておく。


0301椎葉01利根川03 0301椎葉01利根川02


 福岡、佐賀、大分、熊本の重伝建地区及び重伝建以外の町並み保全地区は観光開発に力を入れている。重伝建というブランドを利用して、過疎の進む歴史的市街地に旅客を呼び込もうとするエネルギーを強く感じた。ところが、宮崎の町並み保全地区では、そのような地域振興の力をほとんど感じない。観光と町並み保全が切り離されている点では、大阪の富田林や奈良の五条などと似た匂いがしている。大阪・奈良の場合、大都市のベッドタウンとしての性格が強いため商売に熱心でないのだが、宮崎の町並み保全地区はそうした特性があるわけでもない。ただ静かな町並みがそこにある。

椎葉利根川

 熊本との県境にある平家落人伝説の村、椎葉は宿場町に民宿が軒を連ねる。そこは重伝建地区ではない。宿場町から数キロ山間に入った「利根川」が竿屋造民家の山間集落として重伝建に選定されている。利根川は探しにくい。下椎葉の宿でパンフなどを漁ろうとしてもないし、看板もない。宿場にある鶴富屋敷(重要文化財)を見学して帰ってしまいかねないほどだ。なんとか利根川に辿り着いたが、人影はまったくなかった。しかし、道路沿いの倉を修復中だった。源氏の血をひく那須家の倉庫。民家は現代化している。鶴富屋敷に比肩しうる竿屋造の古民家はどうやら1棟もないようだ。ただ石垣と棚田の景観が素晴らしい。これをみるだけでも利根川に行く価値はある。しかししかし、これが重要伝統的建造物群というのは如何なものか。むしろ重要文化的景観にふさわしい地域だ。対象範囲をひろげて重要文化的景観に鞍替えしては如何なものか。九州南部に所在するにも拘わらず、冬の積雪が50㎝に達する山間寒冷地で、交通も不便なところに立地しており、人口が極端に少なくなっている。この点、鳥取の県選定伝統的建造物群保存地区「板井原」を彷彿とさせる。信じてもらえないかもしれないが、建造物だけなら「板井原」のほうが上だと思った。板井原は国選定に格上げできる。評価者が変われば不可能ではない。【続】


0301椎葉02鶴富屋敷03
↑↓鶴富屋敷(重要文化財)
0301椎葉02鶴富屋敷01 0301椎葉02鶴富屋敷02平面


中欧紀行(Ⅱ)

0317プラハ100バンド01


 無事帰国しました。
 今回の訪問先はどこも文明国だから、毎夜ワイファイに接続できたの。でも、原稿は書けなかった。iPadで情報を集めました。とくに気にしていたのはSTAP細胞の問題と消息不明のマレー機の件。わたしのなかでこの二つの問題は解決してしまった。たぶん間違いないというところまで想像を逞しくしております。これについては、いずれまた。
 iPadで検索を続けていると、しぜん眠りに落ちる。ブログを書く元気は残っていない。ぐうぐうよく寝て、朝は5時起きで活動してました。我ながら信じられない。

 町並みに主軸をおいていました。ドレスデン、プラハ、ウィーン。どこも町全体が世界遺産です。なかでも、チェコが良かった。共産主義時代に生産が停滞していたから開発が進まず、歴史的な町並みをよくとどめている。石畳の道やチンチン電車も風情がある。首都プラハも良かったけど、チェスキークルムロフは「魔女の宅急便」のモデルになったところではないか、と思うほど綺麗な田舎町でした。町ごと世界遺産です。ドイツとオーストリアもわるくない。ロマネスク・ゴシック・ルネサンス・バロック・ロココからアールヌーボー、分離派、バウハウスに至るモダンまで、ありとあらゆる建築芸術を楽しめます。建築だけでなく、絵画・彫刻・音楽はみな超一流。鑑賞に時間がかかる。
 ところが、食文化が貧困でしてね。毎日ジャガイモさんです。イモが主食なの。オカズは豚肉と鶏肉・・・イギリス・アメリカとともに、ゲルマン系の食事は駄目ですね。
 ただ、ビールは美味い。どこの地ビールも気に入りましたが、ドレスデンの黒ビールがとくに印象深かったかな。ワインもいい。酒がウマイ夜が続きました。楽しい酒でしたよ。

 日本に戻って、家族で大戸屋へ。日本料理は本当にヘルシーで美味しいね。今夜の飯はうまい。
 メシウマッ!!!


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↑プラハのガレル橋。ジャズ・バンドの橋上ライブを発見! ふる~いスィング・スタイルで「枯葉」を演っていた。注意してほしいんだけど、ギターはドブロなの。スィングなんだから、ボトルネックは要らない。リズミックなコードワークとソロ・リードをドブロで普通にやってる。しばらく視ていて分かりました。アンプをいっさい使っていないのね。生ギターでホーンやベースに対抗できる音量を確保できるからドブロなんだ。CD買いました。「チャールズ・ブリッジ・スィング・バンド1」。10ユーロ(約1400円)。良いですよ。スタンダードばっかり14曲で、ドブロのリズムギターが効いてる。フレディ・グリーンを彷彿とさせます!

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中欧紀行(Ⅰ)

 この記事がアップされるころ、たぶんわたしはヘルシンキ経由でベルリンに辿り着いているはずです。ポツダム、ドレスデン、ウィーン、プラハ方面をまわるの。年末にミャンマーから帰国後、なんとなく、春休みは東ブータンをイメージしてたんですが、例の「ドイツ語会話」の番組に刺激を受けて、突然、ドイツに行こうと思い始めて、気がついたら、ウィーンとプラハをめざしていた。本当はブタペストにも足をのばしたかったんですが、これは次の機会にします。

 ずいぶん紀行文が溜まってます。ミャンマーの後半をまだ書いていないし、2月末からしばらく宮崎の重伝建と重要文化的景観、洞窟社殿もみてきました。なんにも書いていない。「原始大社造」の本文をあげましたが、「倉吉の町家と町並み」の講演原稿もまだ校正してません。 
 中欧で少しのんびりしてきます。あんまりガツガツしたくない。町並みやカフェや雑貨をとても楽しみにしているんですが、クラシックは苦手だからな。でも、こういう機会にクラシックに目覚めることだってあるかもしれない。
 早く寝よ。


0315ベルリン01壁01
↑ベルリンの壁、東ベルリン側。全世界の芸術家が絵を描いている。最も有名な絵画はブレジネフとホーネッカーのディープキス。厚さわずか20㎝。壁の向こうに西ベルリンの町並みがみえる。

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出雲市青木遺跡の「原始大社造」に係わる復元的考察(Ⅶ)

5-3 三田谷Ⅰ遺跡SB06の復元
 (1)遺構 
 SB06: SB05は2間×2間の九本柱建物で、やや縦長の平面をしている。SB05ほどいびつな形をしていない。細かにみておこう。
  【東西総長×南北柱間】 南(X1-X3)3400㎜ × 東(X3-Z3)3730㎜
              中(Y1-Y3)3450㎜ × 中(X2-Z2)3750㎜
              北(Z1-Z3)3460㎜ × 西(X1-Z1)3600㎜
  【東西柱間】南: 西側(X1-X2)1780㎜-東側(X2-X3)1620㎜ = 160㎜
        中: 西側(Y1-Y2)1820㎜-東側(Y2-Y3)1630㎜ = 190㎜
        北: 西側(Z1-Z2)1860㎜-東側(Z2-Z3) 1600㎜ = 260㎜
  【南北柱間】西: 北側(Z1-Y1)1770㎜-南側(Y1-X1)1830㎜ =  60㎜
        中: 北側(Z2-Y2)1820㎜-南側(Y2-X2)1930㎜ =   90㎜
        北: 北側(Z3-Y3)1750㎜-南側(Y3-X3)1860㎜ =  110 ㎜

 これにみるように、側柱筋での柱間の寸法差は60~260㎝であり、心柱(Y2)を含む中心軸では90~190㎜の寸法差が生まれている。柱掘形の規模はS05と同様の傾向が確認できる。すなわち、心柱(Y2)と一部の間柱(Y1・Z2)の規模があきらかに他の柱掘形より小さくなっている。床束の痕跡とみるべきだろう。
 以上、S05・S06で確認した①いびつな平面形、②同一柱筋における柱間寸法の長短、③平面の中心からずれる心柱の位置、④一部の間柱と心柱の掘形の小ささ、などは三田谷遺跡の九本柱建物にほぼ共通する特徴である。

 (2)板甲倉への復元
 SB06は2間×2間の九本柱建物で、桁行総長3730㎜×梁行総長3460㎜に復元した。やや縦長の平面で、やはり桁行・梁行ともに柱間寸法が均一ではなく、20㎝前後の差がある。入口は南辺東柱間の上部に設けたが、床上に柱は存在しないので、戸口の幅はX2-X3=1620㎜の遺構寸法にはまったく規定されない。真束の真下に方立をたて、幅3尺の戸口を設けた。
 SB05が神明造と大社造の複合形式を素朴にしたものであるのに対して、SB06は伊勢神宮外宮御饌殿と大社造を複合して復元した。9本柱すべてを床束(束柱)とし、その上に台輪をわたし根太を架け板床を張る。屋根は切妻造茅葺の妻入(南面)で白木造、可動式の刻梯子を採用するところもSB05と同じ。床上に柱はなく、井籠組の壁で屋根を支える。今回の復元実験により、板倉よりも板校倉のほうが復元しやすいことが判明した。


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出雲市青木遺跡の「原始大社造」に係わる復元的考察(Ⅵ)

5 Ⅰ区未掘地における高床倉庫の復元
5-1三田谷Ⅰ遺跡と九本柱建物
 はじめに述べたように、Ⅰ区とⅣ区の境には生活道路があって発掘調査をおこなっていない。道路下の遺構はⅠ区東半(執務・管理ブロック)の東端にあたり、高床倉庫が存在したと仮定して、三田谷Ⅰ遺跡の九本柱建物を2棟復元することにした。

 (1)三田谷Ⅰ遺跡の概要
 三田谷Ⅰ遺跡は、島根県出雲市上塩冶町の丘陵地帯に位置している。神戸川右岸から北東に谷間がのびた全面に遺跡がひろがる。地方官衙(役所=郡家)の倉庫群とされる。
 調査では権限山に挟まれた谷底から木簡・墨書土器・建築部材などの遺物が出土しており、存続年代は7世紀後葉~9世紀代と推定されている。また、墨書土器にみえる「麻奈井」、木簡にみえる「高岸郷」「八野郷」などからみて、奈良時代における神門郡衙の出先機関であったと推定されている。
 三田谷Ⅰ遺跡では1~4期に編年される計36棟の建物跡がみつかっている。それらの遺構は神戸川に近い南西側と谷奥の北東側に分かれている。形式的には総柱建物17棟と側柱建物19棟に区分できる。南西側は総柱建物6棟・側柱建物12棟、北東側は総柱建物11棟・側柱建物7棟である。谷奥岩盤の隙間から溢れる湧水SK62も発見された。墨書土器にみえる「麻奈井」の可能性があるだろう。斎串・鉄鉢形土器・托・灯明皿なども出土した。

 (2)三田谷Ⅰ遺跡の九本柱建物
 谷奥側の掘立柱建物(18棟)は以下のように分類される。 
  【側柱建物】(8棟)
   3間×2間(6棟): SB08・SB09・SB14・SB15・SB17・SB18
   2間×2間(1棟): SB13     全容不明(1棟):SB16
  【総柱建物】(10棟)
   2間×2間(9棟):SB01・SB02・SB03・SB05・SB06・SB07・SB10・SB11・SB12
   3間×2間(1棟):SB04
 総柱建物は高床倉庫、側柱建物は倉庫の管理施設もしくは作業施設とみられる。 2間×2間の九本柱建物が9棟あり、青木遺跡の九本柱建物と比較すると、以下のような相違点が認められる。
 ①規模は三田谷Ⅰ遺跡の方がわずかに大きめである。
 ②平面形がややいびつで、コーナーが必ずしも直角になっていない。
 ③心柱が平面の中心になく、推定直径が側柱と同じか、側柱よりやや小さいので、床束の可能性が高い。
 ④各辺の柱間寸法が左右で均等になんっていない。

 (3)板倉と板校倉の実験的復元
 『西大寺資財流記帳』に代表される寺院の資材帳や伊予・和泉などの正税帳に「甲倉」「板倉」「板甲倉」「丸木倉」という倉庫の呼称を確認できる。使われている文字からみて、構法を基準として分類した高床倉庫の形式を示すものであろう。これについて、植木久(1988)は「甲倉」を面取三角形断面校木の校倉、「板倉」を通柱に横板落込壁の高床倉庫、植木久(1988)は「甲倉」を三角形断面校木の校倉、「板倉」を通柱に横板落込壁が複合した高床倉庫、「丸木倉」を累木式の高床倉庫と整理している。「板校倉」については不詳との意見もあるが(海野2012)、「甲倉」が「校倉」であるならば、「板甲倉」は「板校倉」と読み替えることが可能であり、常識的には、伊勢神宮御饌殿のような構法をもつ高床倉庫であろうと筆者は考えている。今回のジオラマでは、何の根拠もないが、未掘地の北側に立地させる北側の三田谷Ⅰ遺跡SB05を通柱・横板落込壁の「板倉」、南側の三田谷Ⅰ遺跡SB06を床上に柱のない「板甲倉」とし、実験的な復元を試みた。


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出雲市青木遺跡の「原始大社造」に係わる復元的考察(Ⅴ)

4-2 Ⅰ区東半(執務・管理ブロック)礎石建物SB05の復元

 Ⅰ区東半の執務・管理ブロックは流路SD16に西壁を沿わせる東西棟が2棟(SB05・SB04)建ち並んでいる。二つの東西棟は約7m隔たってほぼ平行な位置関係にある。南側に建つSB05がこのブロックの正殿にあたる「管理棟」と想定した。
 (1)遺構
 Ⅰ区SB05: 東西3間(7920㎜)×南北2間(6220㎜)の礎石建物(49.3㎡)。方位は真北に対して西に17°振れる。礎石自体は確認できないが、据付柱穴に根石を残す。床束の痕跡はない。礎石据付穴は径45~55cm・深さ18~45cmを測る。南側柱より南1.7mの位置に小さな柱穴を2基検出している。この二つの穴の性格は不透明なところがあるけれども、身舎に付属する南面庇の柱痕跡の可能性が高いと思っている。また、Ⅰ区SB05の北辺と東辺において、側柱から約80cmほど離れたところで、板材で構成された木組の溝状遺構がみつかっている。北辺基壇側面に残存する板材は、総長約9800㎜、板幅150~400㎜、深さ約200㎜を測る。東北側の板材は、北端から長さ6.3m分を残し、より先は石が貼られていた。溝内部については砂礫層などの確認はできなかったが、基壇土(地業土?)と同じ土で被覆されており、開渠ではなく、暗渠の雨落溝と推定される。

 (2)一面庇建物の屋根
 Ⅰ区SB05は桁行3間(7920㎜)×梁間2間(6220㎜)の身舎の正面に庇を設けた平面に復元できる。間面記法で表記すると、「三間一面」の平面形式である。このような一面庇の建物の屋根は正面側が長く、背面側が短い招き屋根形式に復元できる。それは神社本殿における流造のイメージで捉えうるが、SB05の場合、身舎の柱径に対して、庇の柱径が極端に小さいので、身舎と庇で屋根葺材を替える必要があるだろう。今回は身舎を檜皮葺、庇を板葺とした。檜皮葺と板葺を併用する一面庇建物の現存例を知らないのだが、筆者(浅川)が復元に取り組んだ平城宮東院庭園西建物(現ガイダンス施設)がまさにこのような平面であり、身舎を檜皮葺、庇を大和葺(奈良地方の古代の板葺)に復元した。今回はこの経験を踏まえてⅠ区SB05を復元設計した。
 軸組・小屋組は九本柱建物と同じ折置組・豕叉首とした。庇は身舎の側柱外側に垂木掛を打ちつけ、下屋柱上の桁と垂木掛に庇の垂木をわたす。庇屋根の板葺は大和葺は使えないので、伊勢神宮幄舎の葺き方を参考にした。軒の出とケラバの出は溝状遺構や流路の位置から割り出した。棟飾は、伊勢神宮御饌殿の千木と鰹木を取り去り、甲板のみ借用した。檜皮葺屋根は、他の神殿建築と差別化するために、転びのない蓑甲付のものとした。

 (3)壁と建具など
 Ⅰ区SB05は東西両側に溝状遺構および流路遺構(図81)が確認されているので、東西の妻壁は遮蔽性を強めたい。実際、妻柱筋に敷石が遺存しているので、土壁に復元した。正面の庇は、遺構南側にひろく分布する拳大の礫が庇内部にも確認できることから開放とした。身舎の平側は南北両面とも、中央間に両開戸、脇間に窓を設けた。細部の復元手法を以下に示す。
 柱高: 桁行方向の中央間での寸法2780㎜を側柱高さとした。
 :  窓は正面を連子窓、背面を蔀戸にしている。両開戸および連子窓は法隆寺伝法堂前身建物を参考に建物規模との比率でディテールを決定した。蔀戸は三田谷Ⅰ遺跡で出土した部材から復元した。
 小屋組: 伊勢神宮御饌殿に倣い、妻壁を豕叉首、内部の梁上を妻梁上にのみ小屋束が取り付く。
 垂木と枝割: 三田谷Ⅰ遺跡で出土したφ90㎜の材を丸垂木と推定し採用した。疎垂木として柱間均等割付とすると、1枝=293㎜(1尺)となる。
 

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3.11

 黙祷。

 今年もまた被災地を必ず訪れます。4度目の訪問か・・・
 ベイシーにもね。

出雲市青木遺跡の「原始大社造」に係わる復元的考察(Ⅳ)

3-4 側柱建物SB05の復元
 側柱建物SB05は南北に軒を連ねる2棟の九本柱建物SB02・SB04とその正面のスペースの真南に位置する。本殿SB03からみると南西方向にあたる。

 (1)遺構
 Ⅳ区SB05は桁行3間(6340㎜)×梁間2間(3940㎜)の東西棟で、真北に対して西に4°振れる。柱掘形10基のうち8基に柱根が残る。8本の材種はクリ(4本)・ツバキ(2本)・クスノキ(1本)・バラ(1本)で、すべて面取りが施され、うち6本の柱根基底部近くにメド孔を伴う。柱根を残さない2つの柱穴に抜取穴を検出している。SB05西側に火処土坑SK01がある。「火」に係わる祭祀、神饌などの準備、儀礼に際しての貴人候所の採暖などの機能が想定される。

 (2)拝殿か着到殿か
 SB05は、すでに述べたように、拝殿もしくは着到殿のイメージで復元した。出雲地方の神社の場合、大社造の本殿はすでに相当な研究蓄積があるけれども、拝殿に関する研究は皆無に等しい。そこで、復元模型設計中の9月4日、神魂神社と真名井神社の拝殿を調査した。神魂神社拝殿は梁間1間×桁行3間の南北棟妻入で、低い基壇の上に建つ。当初は1間×2間に復元され、本殿木階正面に拝殿の中央が接続する。真名井神社拝殿は本殿と棟を直交させた3間×3間の東西棟切妻造で四面開放とする。本殿との関係は青木遺跡のSB03とSB05の配置に近い。一方、3棟の神殿(九本柱建物)に礼拝するための控室であるとするならば、春日大社の着到殿がモデルとして想定される。春日大社着到殿は一面庇をもつ流造であり、正面を開放とする。Ⅳ区SB05には庇がないので平面形式は異なるが、平入で正面開放の平面に復元することはできる。今回の復元設計では、拝殿か着到殿のどちらかに機能を決めつけることはしない。真名井神社拝殿のように四面開放にするアイデアも検討したが、正面のみ開放の平面は拝殿としても機能するという発想から着到殿の平面をモデルにする。

 (3)構造形式の全体像と細部
 桁行3間×梁間2間の平入建物で、柱間寸法は桁行方向が2130㎜等間、梁行方向が1980㎜等間に揃える。春日大社着到殿に倣い、正面のみ開放、屋根は切妻造檜皮葺とする。従前の建物と同様、柱間寸法と柱高を一致させる。SB05では桁行方向の柱間寸法2130㎜を柱高寸法としても採用した。柱径は柱根P108~P114・からφ265㎜とした。軸組(折置)・小屋組(豕首叉)・屋根勾配・壁・扉などは、Ⅳ区SB03と同じ考え方で復元した。若干異なるのは以下の2点である。
軒の出・ケラバ出: 住吉大社本殿の木割を採用し708㎜とする。
 垂木・枝割: 神魂神社本殿に倣い疎角垂木とするが、柱間均等割付とすると、1枝=305㎜(1.03尺)となる。
 棟飾: 千木・鰹木はつけない。
以上よりSB05を復元すると、軒高1674㎜、棟高3850㎜となる。

3-5 Ⅳ区掘立柱塀の復元
 木柱群のうち、大基壇の東側に12本の木柱が壁位置に対して千鳥に並んでいる。柱間隔に規則性が認められず、柱根の径も一定ではない。横板壁を左右の杭でとめた板塀であったと推定している。囲形埴輪をみると、横板壁を左右一対の杭でとめているが、それよりも簡素な造りと言える。塀の高さについては、年中行事絵巻にみえる板塀や伊勢神宮の板塀を参考に復元した。


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出雲市青木遺跡の「原始大社造」に係わる復元的考察(Ⅲ)

3 Ⅳ区神殿ブロックの復元

3-1 建物の配置関係と動線の復元
 Ⅳ区はその全体が東側の神殿ブロックに相当する。本殿に相当する中心施設は大基壇上に建つ九本柱建物SB03で、基壇の西側に隣接する2棟の九本柱建物SB02・SB03はやや小ぶりの摂社クラスの社殿と考えた。南側の東西棟SB05は平屋の建物で、拝殿もしくは着到殿のような機能を想定している。通常の拝殿は本殿の正面に配されるが、上に述べたとおり、九本柱建物内の御神座(内殿)は南面するので、御神体に対する礼拝は南側の施設からなされた可能性がある。ヒトは南からSB05にアプローチする。本殿SB03の正面に回るには、SB05から東行した後、基壇の南東隅で北に折れ、舌状張り出しから昇壇することになる。

3-2 九本柱建物SB03の復元
 (1)遺構
 Ⅳ区SB03は低平で不整形な大基壇上に建つ九本柱建物である。南北2間(東辺3020㎜・西辺3120㎜)×東西2間(南辺・北辺とも3320㎜)で、床面積は10.2㎡を測る。主軸方位は真北に対して西に6°振れる。側柱建物SB05と方位は近いが、2棟並列の九本柱建物SB02・SB04とはわずかに違えている。また、平面形はわずかに東西に長いものの、ほぼ正方形を呈している。Ⅰ区・Ⅳ区でみつかった5棟の総柱建物のなかで最も平面規模が大きい。柱材にはクリ(6本)・ケヤキ(2本)・カヤ(1本)を使用する。クリ・ケヤキ材側柱根の最大径230~330㎜、カヤ材心柱P35柱根は最大径380㎜を測る。柱材9本の残存長は、
   P31=900㎜  P32=760㎜  P33=880㎜
   P34=690㎜  P35=1130㎜  P36=500㎜
   P37=690㎜  P38=690㎜  P39=900㎜
であり、心柱が最も深く、次いで隅柱P31・P33・P39が深い。心柱の柱根が9本のなかで最も太く長い(深い)点はとりわけ重要であり、たんなる床束ではなく、床上にまで立ち上がる心柱の柱根とみるべきであろう。
 九本柱の掘形以外にもSB03に係わる可能性を示唆する遺構がある。すでに述べたように、SB03東面北側柱間と基壇舌状張り出しの中間に須恵器の大甕が舗設された土器溜りDT03が検出されている。DT03とSB03の前後関係は明確でないが、DT03がSB03廃絶後に形成されたとすれば、階段の簓桁の抜取穴に土器を廃棄したとも捉えられよう。

 (2)平面の復元
 遺構では東辺(3020㎜)と西辺(3120㎜)で100㎜の寸法差が認められるが、これは誤差とみなし、南辺・北辺(3320㎜)に近似する3120㎜を東辺・西辺の設計寸法とする。この結果、平面は桁行総長3320㎜×梁間総長3120㎜に復元される。限りなく正方形に近い縦長長方形だと言えよう。柱間寸法は桁行方向が1660㎜等間、梁行方向が1560㎜等間で、心柱は平面の中心に位置する。

 (3)構造形式の全体像
 SB03は四方を石列に囲まれており、Ⅳ区建物群の中心に位置していることから、いわゆる「本殿」に相当するヤシロの中心施設と想定される。2間×2間の総柱形式で、心柱が側柱より太いので、上部構造の形式は、近世大社造神社本殿から縁と向拝(と宇豆柱)を取りさった「原始大社造」がイメージされる。戸口の位置は、出雲大社本殿に倣い、正面左側の柱間に設け、その正面に木階を架ける。屋根は切妻造檜皮葺妻入とする。奈良時代~平安時代初期の建築であるから貫を用いることはできない。縁の存在しない神社本殿の代表は住吉大社本殿(1810年造替)であり、床の構造はこれに倣う。大引の両端を柱に大入れとし、クサビを打ち込んで固定する。大引上に根太を渡し床板を支える。床板・根太・大引を隠す化粧材として長押を四周にまわす。古代建築では柱間と柱高の寸法がほぼ一致し、木階が矩勾配(10/10)であることから、床高は梁間総長にあわせ3120㎜とした。この寸法はSB03東面とDT03の距離ともほぼ一致する。DT03が簓桁抜取穴であるとすれば、木階は矩勾配となる。
 九本柱はいずれも通柱であり、床上軸部の構造・寸法も住吉大社本殿に倣う。住吉大社本殿の柱間/柱高の寸法比に基づき、SB03の床上柱高を2065㎜、軒と螻羽の出を944㎜とした。柱頭部は出雲大社に倣い折置組とし、小屋組は伊勢神宮正殿に倣い豕叉首を採用した。妻柱・心柱ともに通柱を梁下でとめ、梁上に豕叉首を組む。檜皮葺の屋根は、神魂神社本殿に倣い、勾配を8.5/10とした。この結果、軒高は5185㎜、棟高が6512㎜に復元される。
以上述べた構造形式の骨格は、Ⅳ区SB03だけでなく、他の4棟の九本柱建物についても原則として共通させる。

 (4)細部の復元
 : 神魂神社本殿・伊勢神宮正殿等に倣い横板落込とする。「神郷図」に描く杵築大社の色彩を参考にして、柱は赤色、壁は白色に塗装する。
 : 伊勢神宮正殿に倣い両開板戸とする。
 垂木・枝割: 神魂神社本殿に倣い疎角垂木で柱間均等割付とする。この場合、1枝=327㎜(1.1尺)となる。
 棟飾: 千木・鰹木等の棟飾は伊勢神宮正殿に倣う。千木は男千木、鰹木は3本とする。
 

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出雲市青木遺跡の「原始大社造」に係わる復元的考察(Ⅱ)

2 復元の前提

2-1 Ⅰ区・Ⅳ区のゾーニング
 青木遺跡の場合、Ⅳ区に九本柱建物が3棟集中するにも拘わらず遺物が少ないのに対して、Ⅰ区は東寄りに礎石建物2棟(SB04・SB05)が建ち並び、遺物の大半がⅠ区で出土している。とりわけⅠ区SB04・SB05に近い廃棄土抗SX50から多数の木簡が出土し、記録や帳簿など文章管理に関するものが含まれている。これらの事実を踏まえ、従来、Ⅳ区を神殿ブロック、Ⅰ区を執務・管理ブロックとして遺構群を二つのゾーンに分けて把握する傾向が認められたが、Ⅰ区は南北に通る流路SD16によって東西に二分されている。一方、Ⅰ区においてもトレンチ西壁に沿って流れる水路が存在し、Ⅰ区・Ⅳ区は3つのブロックに分けて理解すべきと考えた。すなわち、流路・水路に挟まれた2棟の礎石建物を含む執務・管理ブロック(Ⅰ区東半)を中心におき、その東側(Ⅳ区)と西側(Ⅰ区西半)に九本柱建物を複数含む神殿ブロックを配するゾーニングが確認されるであろう。この神殿ブロックが仮に『出雲国風土記』の社(ヤシロ)に対応するものであるとすれば、同名社の存在と係わるかもしれない。その一方で、二つの神殿ブロックを伊努社と美談社に見立てることも不可能ではない。墨書土器の出土分布を振り返ると、「伊」「伊努」の墨書はⅠ区で262点、Ⅳ区で10点を数えるのに対して、「美」「美社」の墨書はⅠ区で22点、Ⅳ区で11点となっている。この分布を尊重するならば、Ⅰ区西半は伊努社とみるべきであり、Ⅳ区は伊努社と美談社の両方の可能性があるけれども、わずかに後者の可能性が高いと言えるかもしれない。

2-2 九本柱建物の機能と正面性
 すでに述べたように、平面が2間×2間の総柱建物(九本柱建物)の遺構はすべてが神殿に復元されるべきものではない。高床倉庫と神殿の両方の可能性がある。青木遺跡の場合、神道系の祭祀遺物や社名を示す文字資料が少なからず出土していることから、Ⅰ区とⅣ区のほぼ全域が神社と係わる施設であるのはほぼ疑いないけれども、5棟の九本柱建物すべてが神殿であるという保証はない。5棟の九本柱建物のうち、低平な大基壇上に建ち心柱が側柱よりも太いⅣ区SB03を神殿とみる見解に異論は少なかろうが、他の4棟については、中心施設に付属する高床倉庫と理解することもできるであろう。このことを承知の上で、著者らはこの5棟すべてを神殿であると想定した。その根拠は、次項に述べる三田谷遺跡の九本柱建物との平面上の相異が鮮明に読み取れたからである。これについては最後にもう一度整理することになるけれども、三田谷遺跡の九本柱建物はいびつな平面を呈しており、心柱が平面の中心になく、左右の柱間寸法が等間ではない。また、心柱の直径は側柱よりも小さめであり、床束とみなすべきものである。これらは郡家に付属する正倉(高床倉庫)の特徴と考えられる。一方、青木遺跡の九本柱建物は対称性の強い規格化した平面をしている。心柱は平面の中央に位置し、その直径は側柱とほぼ同規模である。側柱筋においても、桁行・梁間とも左右の柱間寸法は等間となる。また、青木遺跡の九本柱建物は梁間規模が相互に近接しており、三田谷遺跡の九本柱建物よりも一回り小さいことが明らかになっている。これらを神殿であるが故の規格性と考えた。
 加えて、建物の正面性に係わる特徴を指摘できる。Ⅳ区神殿域の本殿にあたるSB03の東面北側柱間の基壇延長上に舌状張り出しがあり、基壇の入口部分に比定される。また、舌状張り出しとSB03の中間には土器溜りDT03がみつかっている。位置的にみて、木階簓桁端部の抜取穴に土器を廃棄した可能性がある。以上から、Ⅳ区SB03の正面は東側にあったと推定される。SB03の背面に並列するⅣ区SB02・SB04は前方にはSB03の大基壇を切り欠いて広場風のスペースを設けており、ここに木階を架けていたとすれば、やはり二棟の正面は東にあったと考えるべきであろう。
 Ⅰ区西半の神殿域に隣接するSB06・SB16については、Ⅳ区の3棟ほど顕著な証拠はみいだせない。Ⅰ区SB06・SB16の東南方向に位置する湧水の井戸SE01(の聖水)が神殿の祭祀対象なのかもしれないが、Ⅳ区の3棟(SB02・SB03・SB04)とⅠ区の2棟(SB06・SB16)がほぼ方位を揃えていていることを評価し、Ⅰ区SB06・SB16も東に正面があると考えた。この前提に立つ場合、青木遺跡の5棟の九本柱建物(神殿)はいずれも日の出の方向を向く。それは伊勢神宮の方位であるとも言えるが、杵築大社(出雲大社)との相関性も無視できない。杵築の境内から約10km南に青木遺跡の九本柱建物群は所在する。東を建物正面とみれば、御神座(内殿)は南面する。礼拝者は御神座を通して北方(日本海の方向)にある杵築の境内を遙拝することになるのである。すなわち、建物が東面することで、東に<日の出=伊勢神宮=太平洋>、北に<日の入=杵築大社=日本海>が意識される。こうした空間意識のもとに、神殿の方位と配置が決められたのではないだろうか。


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出雲市青木遺跡の「原始大社造」に係わる復元的考察(Ⅰ)

 古事記編纂1300周年にして出雲大社遷宮60周年を記念する「大出雲展」(京都国立博物館、2012年7月28日~9月9日)に陳列する出雲市青木遺跡ジオラマの建物復元を依頼され、2011年度に復元設計に取り組んだ。以下、その考察のプロセスを述べる。

1.青木遺跡の概要
1-1.立地環境
 出雲市東林木町の青木遺跡は、北山山系山裾を走る国道431号線バイパス建設工事の事前調査で発見された。青木遺跡の所在する島根県出雲市東林木町は、北山山系山裾と斐伊川に挟まれた幅600mほどの狭い低地が東西にのびる地域である。遺跡は山裾から300mほど離れた小扇状地上に立地している(標高5.4~6.0m)。この扇状地は、湯屋谷川の土石流が堆積したものである。遺跡はこのような湯屋谷開口部の微高地上に形成されているが、その範囲は東西400m、南北300mほどに限られる。

1-2.青木遺跡Ⅰ区・Ⅳ区の概要
 青木遺跡のⅠ区とⅣ区で計8棟の建物跡がみつかった。土器・木簡などから、建物遺構の存続年代は奈良時代~平安時代初期とされる。
 Ⅰ区: 西側のⅠ区からは掘立柱の総柱建物2棟(SB06・SB16)と礎石建物2棟(SB04・05)の計4棟がみつかった。敷地の西寄りに建つⅠ区SB06・SB16は2間×2間の所謂「九本柱建物」である。敷地東寄りの南側にⅠ区SB05、北側にⅠ区SB04が配される。Ⅰ区SB04から西側5mの位置に木簡廃棄土坑(Ⅰ区SX50)が遺存する。Ⅰ区SX50は浅い土抗で、付札のほか木端や木簡を削った断片、ゴミ類などが出土している。事務的な作業に伴う廃棄物という印象が強く、2棟の礎石建物の性格を反映している可能性が高いとされる。
 Ⅰ区SB05の南東端から南約1.2mの位置では、平行に隣接する状態で木組の溝状遺構を検出している。底板は確認できなかったが、転用材と思われる板材を使用し、溝の側壁部分を構成している。Ⅰ区SB05の雨落溝と推定される。
 Ⅰ区SB05北東約2mの果実埋納土壙内からは果実を充填した土師器甕5個が出土し、西側には流路(Ⅰ区SD16)が2条検出された。この溝に接するようにして、柳の根株や石敷きの貼石・井戸枠・泉、鉄釘などもみつかった。Ⅰ区SB05の南東隅部分から南辺側にかけては拳大程度の礫が敷き詰められており、建物跡周辺から須恵器、土師器が出土し、Ⅰ区SB05と関連深い遺物と考えられている。また、北西側約5mの位置からは絵馬や赤色顔料が付着した金属製品の鉄鋲M26・27、鉄斧M15も出土しており、やはりⅠ区SB05となんらかの関係がある遺物と推定されている。
 Ⅳ区: 掘立柱の九本柱建物が3棟(SB02・SB03・SB04)、側柱建物1棟(SB05)の計4棟を検出している。これらはすべて柱根を原位置に残している。貼石を施した方形基壇上にⅣ区SB03、その西隣に並列してⅣ区SB02・SB04、南側にⅣ区SB05が配置されている。比較的狭い範囲に密集する形で4棟が位置し、ほぼ方位を揃えていることから、同時併存の建物群であった可能性が高いとされる。


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男女代表戦

 久しぶりに代表の試合をみた。
 ハーフタイムにヤフコメを覗いたところ、みんなえっらい剣幕で怒り狂っている。ニュージーランド(NZ)なら日本の高校選抜のほうがマシだぁ、こんなの強化にならんぞ!! だって。なんの、なんの、今のザックJAPANにこれほどふさわしいチームもなかったではありませんか。前半の半ば過ぎからNZのペースになって、日本はサッカーをしてるのかどうか怪しいぐらいのレベルに堕してしまった。全体を俯瞰して思うに、完全に走り負けている。白衣を纏ったNZの若者たちは出足が早く、球際に強く、長い距離をよく走った。日本の高給取りのプロ選手たちは歩いている。動かないと、ボールを奪えないし、トライアングルが作れないからパスは通らない。当然のことながら、自分たちのペースにならない。前にも書いたように、バルサやレアルのスター選手が猛烈に走っているこの時代に、日本代表の選手が歩いていてどうするの? 欧米列強の2倍は走ってくれないと未来はありません。
 再び思うに、ザックJAPANと称する集団は2年前にピークに達してしまったのではないでしょうかね。アジア杯優勝からパリでのフランス代表戦のころが最盛期で、以後、下降線を辿り、現在は新旧メンバーの交代期にさしかかっている。ベテランたちは衰え、新人たちは十分な力を蓄えていない。
 とくに問題視すべきは守備だよね。記憶はやや曖昧だけれども、ここ2年ばかり、8割以上の試合で2点以上の失点をしているのではありませんかね。「2点取られたら3点以上取って勝てばいい、その方がゲームがスリリングでおもしろい」なんていう意見もあるだろうが、ワールドカップ・レベルのトーナメントでは1失点が致命傷になりかねないからねぇ。NZに2失点なんだから、本戦で通用するはずがありません。日本の攻撃陣はエースたちが不調をかこっているけれども、本戦ではおそらくそこそこの活躍は見込めるでしょうが、センターバックだけは改善の余地がない。このままグループリーグに臨むのか、それとも、4-3-2-1のような(イタリア型の)守備的オプションを用意しておくべきなのか・・・なんだこの悩みは南アW杯のときと同じだね。しかし、4年前のセンターバックは強かった。今回は、ほんと、洒落にならない。走りまくってボールキープで圧倒しない限り、守備ラインはぼこぼこにやられるでしょう。となると、グループリーグ敗退か・・・3位予想の藤井さんと4位予想の社長に大金が転がり込むではないの??

 撫子も苦戦を強いられていたが、澤と大儀見を下げた後半途中から日本のリズムになった。後半半ばまでザックJAPANと同じように完全な走り負けで、米国に圧倒されていた。ところが、控えの選手をどしどし投入すると流れが変わった。走力が米国を上回り始めたんだ。そして、宮間が40メートルのFKを決めて同点引き分け。トーナメントの初戦に優勝候補筆頭のアメリカとあたり、引き分けたのは大きい。やはり撫子は運をもっている。若いGKは大収穫だね。日本に187㎝の守護神があらわれたことで、他国は日本に対する攻め方を変えなければいけない。非常に大きな戦力で、失点になったミスにめげることなく成長していって欲しい。

木綿街道報告書、TUESレポートに掲載!

 環境大学のTUESレポートに『雲州平田 木綿街道の町家と町並み』報告書の記事がアップされました。宮崎で2度校正して、先月末には公開されていたのですが、ネット環境がいまひとつだったもので、ブログへのアップが遅れた次第です。
 URLは下記のとおりです。

  ・学外のネットワークでご覧になる場合、学外の方へご案内する場合
    http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2013nendo/20140227/

  ・学内のネットワークでご覧になる場合
    http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2013nendo/20140227/

 現在トップページ「TUESレポート」の一番上からもアクセスできます。
    http://www.kankyo-u.ac.jp/ 

 報告書を入手ご希望の場合、このブログにコメント、もしくは拍手コメントいただければ幸いです。


裏 平田報告書
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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