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ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産-クブン寺とベンジ村を中心に-《2023年度修論概要》前編

修論スライド1(東) スライド1


 こんにちは、滅私こと、院生の東です。2月16日(金)修士論文発表会、2月23日(金)東鯷人cafeの発表内容を報告させていただきます。私の取り組みの遅さ、準備不足により、修論発表会の出来は不満足なものとなりました。教授には、挽回の機会を与えていただき感謝いたします。この2年間教授には、フィールドワークから研究発表・論文作成まで多くの指導をして頂きました。心より感謝申し上げます。また、修士研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。


題目: ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産
       -クブン寺とベンジ村を中心に-
Some Heritages of Bonism or non-Buddhism in Bhutan
- Mainly focused on Kubum Monastery and Bemji Village -【中間発表1】【中間発表2


1.ボンとは何か

 研究室では、これまで10回のブータン調査をしている。私は、コロナ禍終焉後の2回の調査に参加したので、その成果を発表する。チベット・ブータン地域は失われた古代インド仏典の直訳を体系的に残す仏教の聖地である。とりわけブータンは大乗仏教を国教とする唯一の国家であり、敬虔な仏教徒の集合としてイメージされるが、実際には後期密教と多様な土着信仰が融合・併存しており、非仏教系の信仰が予想をはるかに超えて強力であることに衝撃を受け、その実態を理解したいと考えた。


修論スライド2(東) スライド2


 ヒマラヤ地域の土着的な信仰を話題とする場合、ボン教の問題を避けて通れない。ボン教の歴史は複雑で曖昧であるが、一般論的に述べるならば、自然崇拝的な原始のボンは西チベットの象雄(シャンシュン)地区に起源し、主に葬送儀礼に係る民間信仰であったとされる。ここにいうボンとは「法」を意味し、中国語では「笨」と書いてベンと読む。象雄地区のカイラス山はヒマラヤ第一の霊山であり、ボン教・仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の聖地として多くの巡礼者が訪れる。
 ボン教など自然崇拝的信仰が支配的であったヒマラヤ地域に仏教が伝わるのは、7世紀初に吐蕃を統一したソンツェンガンポ王の時代であり、8世紀後半には北インドの僧パドマサンバヴァ(後のグルリンポチェ)が後期密教を伝える。この古い宗派をニンマ派(古派)といい、ボン教と相互に影響し合っていた。11世紀以降、チベットで仏教諸派が林立し、ボン教もその覇権争いに加わることで、逆に仏教化が著しく進む。この時期以降の仏教化したボン教はユンドゥン・ボン(永遠のボン)と呼ばれる。ボン教は3度、吐蕃国王より強い弾圧を受けて東遷し、寺院の多くが四川高原ギャロン地区への東遷を余儀なくされた。ただし、総本山メンリ僧院はカイラス山の近くにあるネパールのカトマンドゥ、ついで北インドに機能を移している。


修論スライド3(東) スライド3

 
 昨年、ボンに関する新しい論考が発表されたので紹介する。12世紀に古典チベット語で書かれた『デンパの布告』は、7~9世紀の吐蕃王朝時代にあって、仏教がチベットに伝わった経緯と理由を、ボン教の視点から語った最古の記録である。その記録の全文がこのたびクバーネとマーチンによって現代文に翻訳された(Kvaerne and Martin 2023)。その翻訳によれば、仏教化したボン教は10~11世紀に中央チベットで生まれ、チベットにおける仏教の後継者たる立場をとっていたが、その時代のボン教徒たちは、前仏教的信仰の信者だったようである。クバーネとマーチンは翻訳書の序文で、ボンの時期区分を示している。すなわち、

1)7~9世紀の吐蕃王朝とその直後、チベット高原において行われていた、体系性に欠ける非仏教的信仰 
2)10~11世紀における地域レベルの信仰 
3)上記1)、2)からの諸要素を取り入れながらも、仏教的思考を大々的に借用し、自らを「ユンドゥン・ボン(永遠のボン)」と称した宗教。 
4)現在でもヒマラヤ山脈の辺境地域で行われており、「ボン」と称される民間信仰

 本稿はこの最新の分類に従って考察を進める。調査例と係るのはⅢ期とⅣ期だが、伝承としてはⅠ期・Ⅱ期にも触れなければならない場合があると考える。フランソワ・ポマレも、やはり現在のブータン各地で語られるボンは、歴史/哲学的にはユンドゥンボンと異なることを強調しながら、非仏教系の信仰ならば何でもボンと呼ぶ傾向がある、としている(Pommaret 2014)。 


修論スライド4(東) スライド4


 ブータン史の大家、カルマ・プンツォ博士も大著『ブータンの歴史』(Karma Phuntsho 2014)で前仏教/非仏教系信仰をボンと混同する傾向に懸念を示している。2023年9月にティンプーでカルマ博士と面談する機会があり、その際、ボン教と他の信仰との違いを訊ねてみた。カルマ博士は、以下のように分類している。

①ボン:著しく仏教化したユンドゥン・ボンのこと。ブータンの場合、ポプジカのクブン寺のみこのタイプだったが、仏教に改宗した。
②ヒマラヤ山麓の広域的守護神(ゲンイェン神、ゲンポー神等)
③ブータン国内の流域的守護神(チュンドゥ神、ムクツェン神等)
 
 この場合、①のボンと②③の守護神は区別すべきだが、重なる部分もなくはない、ということである。わたしは以上の諸先達の教えに従いながら現地で見聞きしたままを報告する。民族学的な情報の記述によって、ブータン文化の一側面を浮かび上がらせたいと考える。


修論スライド5(東) スライド5


2.ブータンの民話/民俗的世界

 ブータンの民話/民俗的世界は、神仏の住む天上界、人間の住む地上界、地霊の住む地下界に分かれる。湖や川などの水中も地下界に含まれ、地下界を支配する王をルゥ、水中の女神をツォメンという。その体は、上半身が人間、下半身が蛇の姿をしている。地下に棲む蛇はときに地上にあらわれて人間に危害をもたらす悪い地霊であり、住居内への侵入を防ぐため、外壁外側の角地・入口などにルゥカン(蛇の家)という小さな祠を設置する。それは一種の魔除けとして機能する。ルゥカンの大きなものはルゥポダン(蛇の宮殿)と呼ばれる。プナカ城を建設する際、何度も川が氾濫したため、ルゥポダンを建てて地下王ルゥを供養したところ災害は鎮まった。ルゥの偶像はなく、顏を描いた神札を祠の中に貼るのみだが、年に一度の大祭では張りぼての大きな偶像をつくり、宮殿内の広場に持ち出して盛大に祝う。一方、水神ツォメン姫は、偶像化しており、仏堂内の片隅に祀られている。


修論スライド6(東) スライド6


 ルゥカンとともに、不吉な蛇を駆逐する役割を担うのが神鳥ガルーダである。天上界より舞い降りて、地を這う蛇を瞬時に銜え空中で食いちぎる。そういう絵画が建物の壁に描かれる。この場合のガルーダは「魔除け」の鳥だが、同じような役割を期待し、外壁に巨大なファルス(ポー)を描く。小型の木彫を軒先に吊るしたり、門のマグサに突き刺したりする場合もある。ファルスは本来「魔女」の侵入を防ぐ厄除けである。もともとヒマラヤの全域は「魔女」に支配されており、吐蕃王ソンツェンガンポは、大地を浄化するため各地に仏教寺院を造営し「魔女」を大地に磔にしたという伝承がある。この場合の「魔女」とは前仏教的(母系?)社会の「女神(土地神)」もしくは「有力者」であり、それを仏教側が否定して「魔女」と呼んだものと推定される。


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今年度最後の講演-米子北高校出前授業@本学

ブータンの崖寺と黒い秘奥の空間-魔女・悪霊・土地神の変化と不変

 以前少しだけ仄めかしましたが、高校生対象の講演依頼がきています。本学の出前授業の一覧から、たまたま選ばれたようです。受けようか断ろうか、少々悩みました。わたしの後任になる人は、同じ講義は絶対できないからね。わたしの学術的座標はとてもおかしな位置にある。モンゴロイドで言えば、チベット人のような、変なクラスターの中にぽつりといる存在だから、代替は効かない。その点、前近代的な研究者なのかもしれませんね。かつて晩年の村田治郎は、学生に向かってこういったらしい。「君たちは卒業してから私の偉大さを知るだろう」、と。まっ、そういう感覚が自分にもないわけではありませんでね。今は分からないかもしれないが、時間が経って高校生たちも「あっ、あの先生の講義を聴いた」と思うことがあるかもしれない。
 で、やろうと思います。講義内容は本学3年次後期の教材を転用します。本学の場合、優秀な学生なら1年も3年も理解度は変わりません。1年が理解できるのだから、進学クラスの高校生だって理解できるでしょう。ただし、自主BANが必要なスライドも出てくるかもしれないな。
 日時等を書いておきます。メモ代わりです。

1 日 時 3月6日(水) 今回 13:05~14:05 
2 場 所 本学100講義室
3 参加者 米子北高校30名(進学コース等)+教員2名
4 講義名 ブータンの崖寺と黒い秘奥の空間-魔女・悪霊・土地神の変化と不変

 3月8日(金)からは、香港経由でマカオに飛びます。4泊5日。テイ君に会うんだ。昨日は、ライン電話がつながりましたよ。マカオの路地裏長屋群「囲屋(ウェイオッ)」に興味があります。とくに、豊臣・徳川の弾圧から逃れた日本人キリシタンが定住したという茨林囲をみてみたい。久しぶりにポルトガルの微発泡ワインを嗜める。たしなむだけですので。


ベンジのギョンカン
トンサ地区ベンジ村のボン教徒旧封建領主宅ナグツァンのギョンカン(土地神ムクツェンを祀る)


《関係サイト》
遥かなるNews250
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2779.html
今年度最後の講演-米子北高校出前授業@本学
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2797.html
ブータンの崖寺と黒い秘奥の空間-魔女・悪霊・土地神の変化と不変
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2803.html
       

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東鯷人cafe(第1回)満員御礼

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かつて「東鯷人」を読んだ学生と会場設営

 2月23日(金/祝)の東鯷人cafe(第1回)を控え、21日から準備を始めました。発表者は準備に忙しく、わたしと家内に加えて小錦くんの三人だけの準備を翌22日まで続けたのです。小錦くんは2019年後期のプロジェクト研究「漫画と文献で読む魏志倭人伝」に参加した経営学部の学生です(当時2年次)。1回めの記録を調べてみると、彼は「後漢書倭伝・宋書倭国伝」現代語訳の6回目を担当しています。『後漢書』倭伝は『漢書』地理志を引用しているので、東鯷人も出てきたはずですが、わたしに記憶がないので、彼が覚えているはずもないでしょう。非常に朗らかな学生で、3年次以降も学内ですれ違うとにこやかに挨拶してくれるし、なにより帰宅時に立ち寄るセブンイレブンでバイトしていて、買い物すると非常に丁寧な対応をしてくれるので助かりました。
 彼は、昨年度末、就職が内定してから悩んでいました。本当に行きたい職場ではなかったからです。で、鳥取にもう1年いたいけど、先生はどう思われるか、と真顔で訊ねられたので、「男はそんなに早く社会に出る必要はない、自分の人生だからやりたいようにやればいい」と答えたら、彼は本当にそうしてしまって、1年浪人のあげく、本命の会社から内定を勝ち取ったのです。指導教員は卒業と同時の就職を薦めたそうですが、彼は1年残って、いまは悔いがない。良かった。


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左端が小錦君。その左側にコーヒー横町がみえる


コーヒー横町

 セブンを皮切りに、マルイとダイソーで茶菓など買い揃え、会場の環境大学まちなかキャンパスへ。駅前の便利なところにあるにも拘わらず稼働率は低いそうで、今回のフォーラムでの活用をスタッフは喜んでくれました。正直なところ、私個人は全く使わない施設なのですが、今回のフォーラム定員25名にはうってつけの規模と判断しました。おまけに、設備は最新。電子ホワイトボードに、天井のプロジェクターから直接画像を映し出せる。その画面に電子チョークで書き込みもできます。若葉台キャンパスの講義室よりも新しい設備に準備段階から興奮仕切り。なんども電子チョークで落書きしました。また、飲料が充実しています。とりわけエスプレッソ・マシーンがすばらしく、何杯でも美味しい珈琲をおかわりできる。湯沸かしポットも大きく、紅茶のTパックが横に置いてあります。わたしたち準備班は、この給水区画を「コーヒー横町」と名付け、手描きの案内書を何枚か貼りました。
 当日は12時過ぎに発表者等は集合。予約客以外の聴講者も続々あらわれ、会場は25名満席となりました。万歳!


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講演雑感

 午後1時、定刻どおり、講演会を開始。一人20~30分の講演なので、のんびり喋れないが、さほど進行の遅れはなかった。

1.政田 孝「麒麟の源流 序説」
 発表者は市内で税理士事務所を営み、本学経営学部の非常勤講師を務める。昨年8月よりASLAB所属の研究生となった。研究主題は「麒麟・麒麟獅子・獅子舞」。昨年12月14日の「みちくさの駅」送別会で招聘した駒井氏の講演「「鳥取県の石造物-獅子と狛犬」は政田氏の研究に資すると考えて実現したものである。今回は前半で中国考古学・古代史から麒麟の起源説をまとめ、後半で日本の狛犬・獅子の問題に触れたが、前半と後半をつなぐのは大変難しいと感じた。将来的には、西欧のユニコーンと東アジアの麒麟に系譜関係があることを証明したいようだが、途方もない資料が必要であり、いまのペースで研究を進めるなら、論文としての完成はわたしが鳥取を去って後のことになるであろう。


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2.尾前 輝幸「真実性と快適性からみた古民家再生の動向-鳥取と北陸の寒冷過疎地から」
 ポスターセッションで人気を集めた卒論を発表してもらった。いちばんの元ネタは浅川の上海l講演だが、自ら美山・丹波篠山・今井町・奈良町・若桜・板井原・竹所(カールベンクス)・ブータンなどを訪れて事例数を増やすと同時に、雪国のセカンドハウス問題について、昨年度の河原町T家再生計画、みちくさの駅、大原古町の例などから問題点を指摘した。現状の補助金制度(移住・撤去・リフォーム)では全然経費が足りないのである。ふつう学生はパワポに忍ばせた科白を棒読みする傾向にあるが、レーザポインタを使ったフリートーク気味の部分もあり、好感をもたれたようだ。本人に訊いたところ、横町のコーヒーメーカー騒音に負けないように、大声を出したことでリラックスできたという。「カールベンクスの作品はお金持ちが買うのか」という質問があったけれども、誤解があるようなので、ここに説明しておく。ただのお金持ちがカールさんの再生古民家を買っているのではなく、都会での仕事をリタイアした高齢者が自分の最後の住処としてカールさんの民家を買い、限界集落での晩年の生活を決意した、ということである。かくいう私も、もし近隣にカールさんの設計による売物件があったら、買いたいところだが、新潟方面まで移住するのは流石にしんどい。結局、奈良に戻るしかないという現実がある。


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3.東 将平「仏教に潜む非仏教/前仏教の諸相-ブータンの秘境から
 なお修論に苦しんでおり(締切は2月29日)、相当疲れているのか、やや顔色が冴えなかった(風邪の初期症状だったらしい)。ブータンにおける前仏教/非仏教系神霊の属性と祭場に関する考察など、どこかでだれかがやっているとは到底思えない研究であり、オリジナリティもレベルも高いのだから、もう少し余裕をもって、やや科白からはみ出してもよいので、聴衆に訴える工夫がほしかった。それでも、16日の修論公聴会から明らかに前進していることが分かった。あと一歩で修論はできあがるので完全燃焼してほしい。


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旧同僚との対話-行基関係遺跡の瓦をめぐって

 岩永省三さんは奈文研の元同僚で、いくつかの発掘現場で調査をともにした関係にある。奈文研有数の掘手であり、精密な論証・考察に定評がある。当時、わたしは遺構調査室、岩永さんは瓦を整理分析する考古第3調査室に籍を置いていた。ちなみに、1956年生まれの同い年、奈文研退職も200年度末(2001年3月)で同じである。2001年4月からは九州大学総合研究博物館の教授に異動され、2021年3月でご退官。同年5月には、奈良市文化財係長のご案内で、前園さん、岩永さん、前川さんの3人と菅原遺跡の発掘調査現場を見学した。
 元文研の報告書2023が刊行されてから、かなりな頻度でメールを交換するようになり、すでに匿名で何度かご意見を掲載しているのだが、このたび岩永さん本人の許可を得て、とくに出土瓦に関する部分を抜粋掲載させていただくことになった。以下、二つの話題に分け、時系列に沿って転載する。

1.1981年出土の隅切瓦が2020年検出の遺構に使用されたとみる問題

On 2023/11/13 11:20, 岩永 wrote:
 昨日ようやく元興寺でやってる菅原遺跡展を見てきました。あの遺跡が保存できなかったのは返す返すも残念です。建物の復原に関する展示の説明文で理解しがたい点があり、報告書を購入して読んでみましたが、特に屋根形態の根拠に、出土瓦の法量・形態を根拠にしてます。正方形の根拠は45°の隅切り平瓦の存在なんですが、45°の隅切り平瓦は2020年度調査地では出ていないにもかかわらず、1981年の奈良大調査地点の出土瓦(方形基壇建物の周囲で出土)が、2020年調査地点からの流れ込みで、本来2020年度地点で用いられたとみなして立論しています。しかし両地点は数十メートルも離れており相当無理な話。1981年度地点での45度の隅切り平瓦の出土状況を再検討する必要がありますが、1981年度地点での出土瓦は方形基壇建物の周囲に集中的に出ているようですからやはり方形基壇建物の屋根に葺かれ、その建物が正方形だったとする根拠に用いるべきでしょう。

On 2024/01/25 09:45, 浅川 wrote:
 《返信》 いま学生が卒論に取り組んでおり、仕上げの段階に入りました。それで、11月20日に送信いただいたなかで、「1981年の奈良大調査地点の出土瓦(方形基壇建物の周囲で出土)が、2020年調査地点からの流れ込み」という部分が、報告書からは探しだせなかったのですが、岩永さんのご覧になられた書籍をご紹介いただけませんでしょうか? わたくしどもの不注意で、報告書内の文章を見逃していたらお詫び申し上げます。なにとぞご教示をお願いいたします。

On 2024/01/25 12:07, 岩永 wrote:
 出典は『菅原遺跡』です。1981年地点出土の隅切瓦・小型瓦が2020年地点からの「流れ込み」と直截に表現してる訳ではありませんが、 『菅原遺跡』2023:p62 3~4行目「1981年の奈良大学の調査で出土した小型瓦が、現時点では、この建物に用いられていた可能性が高い。そこでは少数ながら隅切瓦が出土している。」 「この建物」はSB140を指している。隅切瓦は2020年調査区で出たとは書いてないので、「そこでは」は1981年奈良大調査区を指している。 p65 27行目「この構造体が支持する屋根は、隅切瓦および鬼瓦の存在から、平面は四角で隅棟をもつ形式と考える。」 ここでは、隅切瓦がSB140に伴うことを前提・自明とした記述になっている。 p78 5~7行目「この小型瓦については1981年調査時には、・・・、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SB140の上層に葺かれた可能性を想定することとなった。」 この記述からは1981年調査地点出土の小型瓦が1段上で数十メートル離れた2020年調査地点に由来する、つまり上の段からの流れ込みと見ていることが分かる。 p89 下から3行目「1981年調査では約45°の角度を持つ隅切瓦が出土しており、上層屋根正方形が想定される。」 1981年調査区出土の隅切り瓦も、上の段からの流れ込みと理解していることが読み取れる。以上総合して、
  1981年出土の小型瓦は上の段からの流れ込み。
        よって↓
  1981年出土の隅切瓦は上の段からの流れ込み。
         よって↓
  小型瓦・隅切瓦はともにSB140に由来する。
という形で論を飛躍させたことが判明。しかし、1981年地点で出土した遺物は、まずは1981年地点の建物の屋根復元に用いるべきでしょう。かりに屋根が正方形にならなくて長方形の寄棟ないし入母屋であっても、45°の隅切瓦は使えるわけですから。1981年地点内での瓦の出土位置の検討、基壇の周囲なのか、北側の崖の下なのかをきちんとした後でなければ、上の段からの流れ込みなどと安易に結論付けることはできないはずです。

On 2024/01/26 1:01, 浅川 wrote:
 《返信》 どうもありがとうございます。当方が心配していたのは、展示場で岩永さんが図録のような冊子を買っていて、当方はそれを見逃していたのかもしれないということでした。安心しました。いま学生は、遺構図に主要瓦(小型瓦、重要な普通サイズの軒瓦、西大寺系の瓦など)の分布を落としています。報告書にはこういう分布図も掲載されていないのですが、分布を確認すると、小型瓦は回廊から11点出土しています。円形建物の周辺からは何もみつかっていない。ましてや、数十メートル離れた地点で出土した小型瓦、隅切瓦を使うなどありえないことだと考えます。

On 2024/02/11 23:26, 岩永 wrote:
 パワポ拝見しました。ご教示有難うございます。あらためて『菅原遺跡』(2023)、『菅原遺跡』(1982)もチェックしましたが、2020年査地出土の小型瓦が出土地点から見て、SB140ではなく、回廊やSB150に葺かれた、という御説は良いと思います。問題は6711Bで、これも出土地点は、SB150・SD034・整地土なので、出土地点からすると、SB140に葺かれたと、直ちには言いにくい点が難点でしょう。御説では、6711BがⅢー2期(天平勝宝年間)の物で、2020年調査区では最初に用いられた瓦なので、区画施設所用ではなくて、最初に建設されたSB140の大屋根に葺かれたと推定していますが、出土量があまりにも少なく、SB140の大屋根を総瓦葺きと考えて良いのか躊躇が有ります。屋根の形が八角形は良いとして、檜皮葺きとは考えられませんかね?
 1981年調査区で多い6316Mー6710DはⅣー1期(天平宝字年間)。小型の6299Aー6765Aは時期を決めにくいが、出土量からみて6316Mー6710Dに伴う小型瓦とすれば、Ⅳー1期(天平宝字年間)でしょう。1981年調査の報告では、一つの屋根で部分によって中型瓦と小型瓦を葺き分けたと考えてますが不自然で、薬師寺の例から見て、大屋根用と裳階用と考えればよいでしょう。そうすると、1981年調査区出土の小型丸瓦・平瓦は方形建物の裳階用として吸収できるので、2020年調査区からの流れ込みと考える必要はますますなくなる。1981年出土の小型隅切瓦を2020年調査地で用いたものなどとは言えないことは明らか。建築構造論的には、内周土坑列を地覆の抜き取りと見るか、大壁基礎と見るかが一番の問題で、現地を見た奈文研の職員も、壁受け地覆では土坑間の隙間が上手く説明できないし、調査中の担当者も多角形基壇と説明していたのに、報告では大壁としていたので解釈の変化に驚いた、と言っておりました。円形の多宝塔にするという結論に、遺構・遺物の評価を強引に引き付けたのが原因と思われます。

On 2024/02/25 12:26, 浅川 wrote:
 《返信》 岩永さんのお考えとは少々異なるところもあるかと思います。すなわち、私どもは、建物の葺き材を以下のように考えております。
  SB140大屋根: 6711B型式軒平瓦(当初)+西大寺系瓦(修補・追加)
  SB140土庇: 檜皮
  回廊など周辺施設: 小型瓦(+檜皮もしくは板?)
 以前にご指摘されたとおり、瓦の出土量が少ないのは問題ですが、広隆寺八角円堂檜皮葺の例など示しながらも、今回はSB140は普通サイズの瓦葺きとしました。1981年調査区の方形基壇建物は、御説のとおり、木造層塔の大屋根が中型瓦、裳階が小型瓦と考えています。 


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東鯷人カフェ(第1回)のお知らせ【予報3】

チラシ「東鯷人カフェ」-復元・民家・民俗を語る


駐車場のご案内

 東鯷人cafe(第1回)が2日後に迫ってきました。一部のメールなどで、日時を3月23日と誤送信してしまいましたが、2月23日(金/祝)午後1時~ですので、お間違いなくお願いします。なお、定員には若干余裕がありますので、今からでもご予約ください。
 本日は駐車場のご案内をします。駐車場が必要な方はお問い合わせください。

1.エイラク駐車場(鳥取市永楽温泉町)
エイラク駐車場

2.本通りパーキング(鳥取市栄町)
本通りパーキング

【イベント名】東鯷人カフェ(第1回)-復元・民家・民俗を語る
1.日時: 2月23日(金/祝)午後1時~3時半(定員25名)
       飲み物・軽食付きカフェ形式の気楽な講演会です(無料)
2.会場: 公立鳥取環境大学 まちなかキャンパス
https://www.kankyo-u.ac.jp/about/alliance/machinaka/
3.次第:
13:00- ごあいさつ
13:05-13:30 政田 孝「麒麟の源流 序説」
13:30-13:50 尾前 輝幸「真実性と快適性からみた古民家再生の動向-鳥取と北陸の寒冷過疎地から」
13:50-14:15 東 将平「仏教に潜む非仏教/前仏教の諸相-ブータンの秘境から」
14:15-14:35 武内あや菜「菅原遺跡円堂復元の批評-行基を供養する十六角形の建物」 
14:35-15:05 岡垣 頼和「鳥取城の復元-中ノ御門表門と渡櫓門」
15:05-15:30 浅川 滋男「東鯷人と建築考古学」

4.主催: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
  共催: 麒麟のまち想造プロジェクト
  後援: 日本遺産三徳山・三朝温泉を守る会

5.お問い合わせ先:[email protected]
  このブログにコメントしていただいても構いません。

 多数のご来場をお待ち申し上げます。

【会場:環境大学まちなかキャンパス】
〒680-0833 鳥取市末広温泉町160
日交本通りビル3階301号室(まちパル鳥取3階)
TEL:0857-30-5501 FAX:0857-30-5503
E-mail:[email protected]

2023年度修士論文発表会

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捲土重来!

 大変苛酷な1週間でした。12日(月)午前、ようやく修論初稿が副査2名に送信されました。本来の締切は2日(金)。初稿なんだから完全なものである必要はなく、付録など要らないはずですが、ここまで遅れたことで、近未来が見えてきておりました。同日午後、修論発表会のパワポを、通しで初めてみました。イントロとエンディングの数枚以外は、11月25日の三徳山フォーラムのスライドをそっくり転用して、向上がない。三徳山講演の前日(11月24日)、院生は筑波大学一行に同伴して若桜を案内し、教師はパワポ作成を続けておりました。業務が反転している。いつものペースでやれば、11月の二の舞になるのは目にみえてる。昨年、テイ君のマカオ発表でも苦しみましたが、彼はおっちょこちょいだけれども仕事が速く、パワポも卒論も自分で早めに作って、それを手直しする余裕もありました。最終日には直前までスピーチ練習をしましたが、それはほとんど日本語発音の修正でした。少なくとも、論文概要もパワポも自分で作ったという自負があり、達成感があったはずです。
 14日(水)のバレンタインデーは学部卒論の締め切り日でした。夕方5時ちょうど学部事務室に仮提出することができました。これからまだ修正補筆しますが、卒論PSから1週間経って、なんとかノルマをクリアできた。その日も修論のパワポを聴きました。非常に厳しい状況でしたが、卒論が一段落したので、軽い打ち上げということでタオカフェまで皆で夕食へ。問題は修論です。翌日までに概要4ページ完成、1日半後に発表会です。補助者を雇わなければ間に合わないと呟いたのですが、本人には余裕がある。いったいどうするのか、と心配でした。


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大学院修士論文発表会(2月16日)のお知らせ

ブータンでのフィールドワーク成果を披露します!

 先日軽く触れましたが、大学院修士論文発表会が3日後に迫ってきました。いちどパワポ案をみせてもらったのですが、昨年11月25日の三徳山フォーラム「崖と建築のヒエロファニー」の段階から進歩がみられないので、大直しを命じたところであり、間に合うか不安ですが、一歩前進した姿をみせたいと考えています。発表会は2月16日(木)午後1時より開催されます。東くんの発表は2人目です。
 
1.発表日時: 2024年2月16日(金)13:30~14:00
2.会場: 27講義室     *概要4ページの締切は2月14日(水)
3.発表者: 東 将平
4.演題: ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産-クブン寺とベンジ村を中心に

 4年間ASALABに在籍し、番頭役を務めてきた滅私くんの学内最後の発表です。彼のおかげでなんとかゼミは存続しえたと思っています。関係者ご一同、ぜひ聴講してあげてください。


東鯷人cafe(第1回)でもスピーチします

 上の成果は、演題を少し変えますが、2月23日(金/祝)の東鯷人cafe(第1回)でも話してもらいます。

【イベント名】東鯷人カフェ(第1回)-復元・民家・民俗を語る
1.日時: 2月23日(金/祝)午後1時~3時半(定員25名)
       *飲物・菓子付きカフェ形式の気楽な講演会です(無料)
2.会場: 公立鳥取環境大学 まちなかキャンパス
3.次第:
13:00- ごあいさつ
13:05-13:30 政田 孝「麒麟の源流 序説」
13:30-13:50 尾前 輝幸「真実性と快適性からみた古民家再生の動向-鳥取と北陸の寒冷過疎地から」
13:50-14:15 東 将平「仏教に潜む非仏教/前仏教の諸相-ブータンの秘境から」
14:15-14:35 武内あや菜「菅原遺跡円堂復元の批評-行基を供養する十六角形の建物」 
14:35-15:05 岡垣 頼和「鳥取城の復元-中ノ御門表門と渡櫓門」
15:05-15:30 浅川 滋男「東鯷人と建築考古学」

4.主催: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
  共催: 麒麟のまち想造プロジェクト
  後援: 日本遺産三徳山・三朝温泉を守る会

5.お問い合わせ先:[email protected]


《連載情報》東鯷人cafe(第1回)のお知らせ
予報1 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2786.html   
予報2 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2788.html

寒冷過疎地の古民家再生と移住の諸課題 -真実性と快適性の両立へむけて《2023年度卒論概要》


卒論1枚目(尾前) スライド1


 こんにちは、尾前です。2月7日(水)ポスター研究発表会の発表内容と概要を報告させていただきます。 卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。

題目:寒冷過疎地の古民家再生と移住の諸課題
    -真実性と快適性の両立へ向けて-
Issues of restoration of Traditional Private Houses and migration in cold depopulated areas
-Toward the Compatibility of Authenticity and Amenity -
 【中間報告


1.日本の過疎過密問題と古民家再生

 昭和戦後から近年に至るまで、気候条件の厳しい日本海側を離れ、太平洋側の都市部に仕事を求め、移住する傾向が強まっている。この結果、日本海側では、著しい過疎と高齢化が進行し、大きな社会問題になっている。一方、そうした過疎地の自然や文化を愛し、そこを自分の「居場所」だとして動こうとしない人も多くいる。本研究は、古民家の保全再生の変遷を、そうした人間の居場所や移住の問題と絡ませて論じるものである。とくに、古民家の文化財としての真実性(オーセンティシティ)と住まいとしての快適性(アメニティ)のバランスについて注目する。


卒論2枚目(尾前) スライド2


2.文化財指定された古民家の実態

 昭和40年代前後の高度経済成長期、活発な地域開発により国土の景観が乱れ始め、また大都市と地方の過密過疎問題が露呈してきた。こうした状況を危惧した文化庁は日本各地の町家・農家の状況を把握し、文化財としての指定と保存をめざして、全国緊急民家調査を実施する。この成果を受けて、突出した価値をもつ多くの民家が国や自治体の指定文化財となった。スライド2の左は国指定重要文化財(重文)の一例である。大学の近隣にある重文「福田家住宅」は囲炉裏やカマド、屋根構造等、江戸時代の姿をよく残しており、文化財としての真実性を高いレベルで保持している。しかし、重文であるがゆえに、現代生活に見合う内部改修が許されない。そのため福田家は、道路の対面に住宅を新築し、生活の快適性(アメニティ)を高め、そこで現代的な生活を送りながら、空き家となった重文民家を管理している。重文民家ではこういうケースが増えており、左下の石田家住宅も居住者がおらず、真実性の高い空き家を考古学的標本として公開している。
 右側は自治体指定の民家である。自治体指定の民家は、国からの補助に恵まれた重文とは違い、維持修理の補助金が少なく、自己負担金に耐えられなくなり、それでいてアメニティ向上のための内部改装も認められない。その結果、居住者が「指定解除」を求めるケースがやはり増えている。右上分布図の赤丸、青丸は鳥取県内で指定解除となった民家である。最も強調した分布図赤丸は指定解除となった日野郡内井谷の内藤家(県指定)である。もともと豪雪の影響で建物が傾いていたが、2000年の県西部大地震で半壊状態に陥り、指定解除となった。いま訪れても民家はなく、空き地になってしまっている。周囲の民家もすべて空き家で、集落は廃村化している。これが日本海側山間集落の現実である。


卒論3枚目(尾前) スライド3


3.町並み保全と登録有形文化財

 1975年の文化財保護法改正で、町並み保全の制度(重伝建)が制定され、町並み保全地区内の古民家は、外観さえ維持すれば、内部の改装は自由にできるようになった。その方式に従う場合、1棟につき上限一千万円の補助金が支給される。ただ、これは国の重伝建(左側)のみの補助であり、右側の自治体の町並み保存地区の場合は補助金は十分ではない。
 まず国選定重伝建の代表例として、奈良県橿原市の「今井町」を取り上げる。今井町は戦国時代の寺内町に端を発し、今でも江戸・明治の景観を非常によくとどめている。保存地区内には国の重文や県市の指定文化財の建造物を数多く含んでいる。日本有数の町並みを誇る集落であり、民家内部の活用・転用を抑えて、町全体に重要文化財の趣きがひろがっている。
 スライド3左下の美山は、京都府南丹市の重伝建であり、近畿を代表する「茅葺きの里」である。39棟のかやぶき民家が軒を連ねる。今井町と違い、民家を活用したカフェ、民宿、土産物店などに転用されているが、内部改装は大人しくまとめている。
 右上は奈良町(ならまち)である。重伝建ではなく、奈良市の都市景観形成地区として民家の再生・活用が活発だ。東大寺・興福寺・元興寺などの門前町として栄えてきたところで、観光客が非常に多いエリアである。右下は鳥取県智頭町の「板井原」である。県の伝建地区に選定されているが、この集落に常住するのは2世帯のみ。いわゆる限界集落である。母親の故郷にUターンした女性が古民家カフェを開いていて、結構人気がある。素朴ながら、カフェらしい内装に改修されている。こうした改修・再生は重要文化財ではできない。


卒論4枚目(尾前) スライド4


4.アメニティの向上とオーセンティシティの喪失

 重伝建地区において、民家の内部改装は自由であることから、アメニティ(快適性)の向上が期待された。しかし、過度の内部改装は、古民家の魅力を損なう原因となる。スライド4上は兵庫県の重伝建「篠山」の蕎麦屋である。城下町の町家らしい外観をよくとどめているが、内部は壁も天井も新建材をはりつめており、民家の真実性をまったく感じさせない。骨董のような和風木造の風貌と歴史性を失ってしまっている。このように内部の自由な改装は、文化財建造物のオーセンティシティに大きなダメージを与える場合がある。
 もちろんすべてがこのような状態に陥っているわけではなく、同じ丹波篠山市の重伝建「福住」にあるパン屋は、建物の内部でも、古い部材を非常によく残しており、カウンターやガラスケースのみ新しくして快適性を確保している(スライド4下)。築150年以上の古民家を、大阪から移住してきた若い夫婦が地元の大工さんと協働して内部改装したものである。


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大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討 -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて-《2023年度卒論概要》

卒論スライド1(武内) スライド1


 こんにちは、武内です。2月7日(水)ポスター卒論研究発表会の発表内容と概要を報告させていただきます。 卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。

題目: 大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討
    -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて-
Continuous Re-examination on the Annex called Nagaoka-in for the Memorial Service of Archbishop Gyoki in the 8th Century
-Upon the Publication of the Formal Report on the Excavation of SUGAWARA Site, Nara City -
中間報告


1.研究の経緯と問題意識

 奈良市疋田町の丘陵上に所在する菅原遺跡は、2020年10月から元興寺文化財研究所(以下、元文研)が発掘調査し、2021年5月22日にその成果を一斉に報道した。菅原遺跡は菅原寺の西北約1kmの丘の上にあり、『行基年譜』(1175)の記載に一致するため、東大寺大仏の造営を指揮した大僧正行基(668-749)を追善供養する「長岡院」説が有力視されている。そこで発見された遺構は、同心円的平面を呈する十六角形建物を回廊・塀などが囲んでおり、国指定史跡の価値があると評価されたものの、遺跡の保存は叶わず、宅地造成により滅失した曰く因縁の奈良時代遺跡である。
 報道を受けてまもなく、研究室の有志は菅原遺跡を訪れて遺構を体感し、建築的復元を決意した。当時、ただ元文研がネット上にアップした速報があるだけで、その資料から復元に挑むのは早計の誹りを免れえないとは思いつつ、研究室が事を急いだのは以下の理由による。元文研が記者発表で使った「円堂」の復元パースは、空海が真言密教とともにもたらしたとされる「多宝塔」をイメージしたものだが、奈良時代の日本には存在しないというのが常識であった。復元パースの建物は、ネパールのストゥーパや北京の天壇を彷彿とさせる日本離れしたものであり、一般国民はこのような建築が奈良時代に存在したと勘違いしかねないので、できるだけ早く修正しなければならないという想いが強くなったのである。
 研究室の手法はオーソドックスである。十六角形という特殊な平面を、奈良時代の八角円堂のバリエーションとして捉え、四つの復元案を完成させ、記者発表と学会誌投稿などをおこなった。このとき研究室の卒業生、玉田花澄が卒論として考察している。その後、2023年3月に元文研が正式な報告書を刊行した。問題点はさらに悪化している。「多宝塔の初現形式」が空海帰国以前の奈良時代に遡ると断定し、円形建物の復元案が当初案以上に奇怪な姿を露呈しているからだ。こうした日本史/日本建築史に抗う見解を示すならば、予め学会誌で審査を受けるべきだが、そのような慎重なプロセスを経ることなく報道され、再び国民に歪んだ歴史観を与えかねない状況なので、急ぎ報告書を全面的に精査し、批評を試みる。


卒論スライド2(武内) スライド2


2.宝塔/多宝塔の歴史観-空海帰国以前と以後では形式が異なる

 宝塔・多宝塔の本来の意味は『法華経』見宝塔品に由来する。釈迦が法華経を説法していたとき、突然地下より巨大で美しい塔が涌き出で空中に浮かび、「釈迦の説法は正しい」と絶賛する大声が聞こえ、釈迦を塔の中に招きいれて並座する。この大声の主こそ、東方の宝浄国にいた過去仏、多宝如来である。法華経では、多宝如来の御在所を「塔廟」と呼んでおり、「宝塔」あるいは「大塔」とも表現している。煌びやかで大きいことに特徴があるだけで、具体的な姿は不詳だが、7世紀に遡る長谷寺銅板説相図の「多寶佛塔」は六角三重塔に描かれている。ほかにもバリエーションはあるが、ともかく平安時代以降の多宝塔とは全く異なることを知っておかなければならない。
 平安時代の初め(9世紀初期)に、空海が唐長安青龍寺での修行を終えて、密教の奥義を極め、多数の仏典とともに、日本に招来したのが宝塔・多宝塔とマンダラである。マンダラは円と正方形を組み合わせた図形の複合に特徴がある。そうした幾何学的造形は宝塔・多宝塔にも共通する。高野山金剛峯寺の根本大塔や同じ和歌山県の根来寺大塔 (1496)などの裳階付き宝塔は、平安初期には「大塔」と呼ばれていた。11世紀前期以降、釈迦・多宝如来並座の天台系の塔を「多宝塔」と呼び始め、現存最古の石山寺多宝塔(1194)は真言宗の本尊「大日如来」を祀っている。
 日本建築史の定義では、裳階のない円筒・伏鉢状本体だけのものを「宝塔」、それに裳階がついたものを「多宝塔」とする。仏教史的にはそうした区別はあまり意味がないようで、多宝如来を祀る宝塔を「多宝塔」と呼ぶ寺院もある。繰り返しになるけれども、空海帰国以前の「多宝塔」と帰国以降の「多宝塔」は形式を異にするという事実を認識する必要がある。


卒論スライド3(武内) スライド3


3.行基墓に係る文献記載-行基舎利は生駒山中にあり、長岡院とは関係ない

 我が研究室は、菅原遺跡で発見された十六角形建物を法隆寺夢殿のような供養堂だと考えている。一方、元文研はこれを多宝塔系と捉えている。その根拠として、行基の墓に関する記録に「多宝之塔」「塔廟」が含まれることをあげているが、さてどうだろう。
 鎌倉時代初期、文暦2年(1235)の行基墓発掘の記録を含む『竹林寺縁起』を要約してみよう。

  行基の遺命によって生駒山の東陵で火葬した。 ただ砕け残った舎利、燃え尽きた軽灰が
  あるのみ。 行基の舎利・遺灰を容器に収めて、多宝之塔とみなした。

 行基の舎利を埋めた生駒山竹林寺の陵墓を「多宝之塔」とみなしており、行基の没年(749)の段階で墓はあっても、追善供養の施設はまだ建立されているはずはなく、菅原遺跡の円形建物と「多宝之塔」は関係ない。また、嘉元3年(1305)に凝然が著した『竹林寺略録』の読み下し文は以下のようになる。

   勝賓から嘉禄に至るまで、ただ「塔廟」を建てて舎利を安置する。
     *天平勝宝:749~757年  嘉禄:1225~1227年
 行基の没年以降、鎌倉時代の初期まで「塔廟」を造営して舎利を安置していた、ということである。「塔廟」とは生駒山で行基舎利を納めた施設であり、追善供養を目的とする長岡院(菅原遺跡)とは別の場所の別の施設であったと考えられる。そもそも、「多宝之塔」「塔廟」は『法華経』からの引用であり、いずれも「多宝如来の御在所」を意味しており、行基を多宝如来に重ねあわせた表現とみるべきである。


卒論スライド4(武内) スライド4


4.円形建物SB140の遺構解釈-大壁の作為と十六角形土庇

 菅原遺跡の円形建物跡SB140の平面図を改めてみるとよく分かるのだが、後世の削平により、断続的な円形の溝状遺構とその外側にめぐる16個の柱穴しかない。研究室は内側の溝状遺構を基壇地覆石の痕跡とみなしていたが、元文研はこれを否定し、大陸風大壁の痕跡とした。しかしながら大陸風の大壁は、溝状遺構の中に多くの杭を打って分厚い小舞壁とするものだが、菅原遺跡の場合、杭跡は一つもなく、この基壇端に「大陸風の大壁」をつくることはできない。
 外周の16本掘立柱列について、元文研はこれを多宝塔の裳階と表現し、基壇端大壁と扇垂木でつないでいる。扇垂木を奈良時代に使う例は知られていない。円形の本体と貧相な外周掘立柱列に構造の一体感はなく、研究室は、この16本柱列を土庇とみなしている。土庇とは、石階などの上につくる向拝、すなわち玄関ポーチのようなものである。このたび研究室は16角形の向拝に覆われ、基壇全周にまわる石階の案を追加で設計した。この場合、基壇は面取り八角形、すなわち不整十六形になる。



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龍年大吉_Built Heritage

Happy Spring Festival_Built Heritage 建築遺産署名


『建築遺産』からの春節賀状

 春節(旧正月)を迎えた中国から年賀のメールが届いている。もちろん当方の賀状は昨年末に投函しているのだが、中国の賀状は春節なので一月遅れになるようだ。昨年最大の出来事は母校、同済大学(上海)での講演であった。帰国後自然に情報が集まってきた。わたしとほぼ同時期に学会参加などで中国渡航を企てた教員(中国籍以外)はほぼすべてビザ取得に失敗している。成功したのは私だけ。よくビザがとれたものだと思う。長年お世話になっている旅行社のサポートが抜きんでて良かったのだと改めて感謝している。
 上は同済大学『建築遺産』誌編輯部の電子賀状。龍年なのね、辰年。座って辰年、寝ても辰年。甲辰(きのえたつ)。登り龍とはきっと鯰のことだな、そう信じよう。『建築遺産』誌にはある約束をしているのだけれども、なかなか果たせていません。必ずやります。以下、挨拶文。

  很高兴能收到您寄来的明信片,太温暖了,非常感谢!
  龙年马上就要到了,我代表期刊编辑部,奉上一张BH电子贺年卡,
  并向您致以最诚挚的祝福:祝您和您的家人新春快乐!
  身体健康!万事如意!
  让我们保持联系,期待着您的大作!


一角獣440px-Qilin_in_sancai_tuhui 古代の一角獣(麒麟?)はなぜか龍にも似ている


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東鯷人cafe(第1回)のお知らせ【予報2】

チラシ「東鯷人カフェ」-復元・民家・民俗を語る


チラシが完成しました!

 東鯷人cafe(第1回)のチラシを完成させました。何から何まで詰め込んだごちゃまぜのデザインになってしまいましたが、開催日まで2週間を切っていて時間がないので、これで行きます(上の画像をクリックすれば拡大するので御活用ください)。なんとか25席が埋まることを祈るばかりです。以下、予報1の繰り返しになりますが、講演の話者・演題・スケジュールを見やすくしています。なお、講演会の呼称「東鯷人cafe」の「東鯷人」については、 こちら をご参照ください。

【イベント名】東鯷人カフェ(第1回)-復元・民家・民俗を語る
1.日時: 2月23日(金/祝)午後1時~3時半(定員25名)
       飲み物・軽食付きカフェ形式の気楽な講演会です(無料)
2.会場: 公立鳥取環境大学 まちなかキャンパス
https://www.kankyo-u.ac.jp/about/alliance/machinaka/
3.次第:
13:00- ごあいさつ
13:05-13:30 政田 孝「麒麟の源流 序説」
13:30-13:50 尾前 輝幸「真実性と快適性からみた古民家再生の動向-鳥取と北陸の寒冷過疎地から」
13:50-14:15 東 将平「仏教に潜む非仏教/前仏教の諸相-ブータンの秘境から」
14:15-14:35 武内あや菜「菅原遺跡円堂復元の批評-行基を供養する十六角形の建物」 
14:35-15:05 岡垣 頼和「鳥取城の復元-中ノ御門表門と渡櫓門」
15:05-15:30 浅川 滋男「東鯷人と建築考古学」

4.主催: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
  共催: 麒麟のまち想造プロジェクト
  後援: 日本遺産三徳山・三朝温泉を守る会

5.お問い合わせ先:[email protected]
  このブログにコメントしていただいても構いません。

 多数のご来場をお待ち申し上げます。

【環境大学まちなかキャンパス】
〒680-0833 鳥取市末広温泉町160
日交本通りビル3階301号室(まちパル鳥取3階)
TEL:0857-30-5501 FAX:0857-30-5503
E-mail:[email protected]
*駐車場は分散的になっておりますので、お問い合わせください。


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ナマズ食の文化史的再評価と郷土料理としての復興(1)

全税共文化財団研究助成(食文化)に採択!

 先日内定通知が届いたことをお知らせしましたが、全国税理士共栄会(全税共)文化財団研究助成【食文化部門】への手続きも済みましたので、ここに正式に申請概要を報告します。

 1.申請団体(代表): 東鯷人ナマズ食の会(代表:浅川)
 2.対象活動の呼称:  ナマズ食の文化史的再評価と郷土料理としての復興
 3.助成期間(助成額): 2024年4月より1年間(50万円)
 4.税理士推薦者: 政田 孝
 5.活動計画: 倭(西日本)に関する最古の記録『漢書』地理志には「会稽(中国浙江省紹興)の海外に東鯷人(東のナマズ人)あり」とみえる。弥生期西日本の倭種を「ナマズ人」と呼ぶ記録である。さらに考古学的には、驚くべきことに、縄文~中世のナマズ遺存体(骨)は、フォッサマグナ以西の西日本でしか出土しておらず、「鯰」という文字を含む地名も西日本にしか存在しない。これほどナマズと西日本の関係は深く、動物考古学の専門家は古代の倭人がナマズを食べていたのは間違いないと指摘している。一方、ナマズは美食の素材としても見逃せない。とりわけ芥川賞作家の村上龍が『料理小説集』(1988)で取り上げたニューヨークのビルマ鯰とブラジル大ナマズの燻製には注目すべきであろう。前者は「海に落ちる雪のように舌の上で溶ける」食感があり、後者はさらに妙味で「これまでに食べたどんな燻製よりうまい」と絶賛している。こうしたナマズ食は日本でも細々と受け継がれてきたが、近年勢い数を減らしている。その原因は流通の困難さと泥吐きの手間などにあるようだ。地域振興としてナマズ食に取り組むのは埼玉県吉川市だけであり(養殖池あり)、ナマズの本場、琵琶湖の周辺でもナマズ料理を提供する料理店は著しく数を減らしている。


ナマズ標本P1170212 2024浅川先生 2024浅川ゼミ卒業写真sam
1月17日に撮影した卒アル写真をついでに掲載しておきます(右2枚)。


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東鯷人cafe(第1回)のお知らせ【予報1】

復元・民家・民俗を語る

 今年度も研究室は復元・古民家・民俗・仏教など諸々の文化と遺産に係る活動をおこなってきました。その成果がようやく日の目をみる時期にきています。つきましては、以下のような研究集会を開催し、研究成果を公開しようと思います。また、つい最近、ナマズの古代食・郷土料理に関する新規研究が「全国税理士共栄会文化財団研究助成」に採択されました。じつはこの食文化の研究も最終的には建築考古学につながるものであり、その展望も示す予定です。ちなみに新規研究の運営組織は「東鯷人ナマズ食の会」と言います。東鯷人とは、日本に係る最古の文字記録『漢書』地理志にみえる倭人をさし、「東のナマズ人」を意味します。今回は新規研究のスタートにもあたるため、イベント名を「東鯷人カフェ」としました。

【イベント名】東鯷人カフェ(第1回)-復元・民家・民俗を語る
1.日時: 2月23日(金/祝)午後1時~3時半(定員25名)
       飲み物・軽食付きカフェ形式の気楽な講演会です(無料)
2.会場: 公立鳥取環境大学 まちなかキャンパス
https://www.kankyo-u.ac.jp/about/alliance/machinaka/
3.次第:
  ごあいさつ
 1)講演:麒麟の源流 序説(政田孝)25分
 2)講演:真実性と快適性からみた古民家再生の動向
       -鳥取と北陸の寒冷過疎地から(尾前輝幸)20分
 3)講演:仏教に潜む非仏教/前仏教の諸相
       -ブータンの秘境から(東将平)25分
 4)講演:菅原遺跡「円堂」復元の批評
       -行基を供養する十六角形の建物(武内あや菜)20分 
 5)鳥取城の復元-中ノ御門表門と渡櫓門(岡垣頼和)30分
  おわりに-東鯷人と建築考古学(浅川滋男)

4.主催: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
  共催: 麒麟のまち想造プロジェクト
  協力: 日本遺産三徳山・三朝温泉を守る会

5.お問い合わせ先:[email protected]
  このブログにコメントしていただいても構いません。

 多数のご来場をお待ち申し上げます。

【環境大学まちなかキャンパス】
〒680-0833 鳥取市末広温泉町160
日交本通りビル3階301号室(まちパル鳥取3階)
TEL:0857-30-5501 FAX:0857-30-5503
E-mail:[email protected]
*駐車場は分散的になっておりますので、お問い合わせください。

《連載情報》東鯷人cafe(第1回)のお知らせ
予報1 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2786.html   
予報2 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2788.html
予報3 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2794.html 
満員御礼 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2796.html

卒論ポスター展から発表会をめざせ!

0207PS01会場01


復活したポスターセッション

 2月7日(水)、卒論ポスターセッションがおこなわれました。我ゼミからの出陳は2名のみ。

①寒冷過疎地の古民家再生と移住の諸課題
 -真実性と快適性の両立へむけて
Some Issues of restoration of Traditional Private Houses and Migration in cold depopulated areas
-Toward the Compatibility of Authenticity and Amenity -  OMAE Teruyuki 尾前輝幸


②大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討
 -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて
Continuous Re-examination on the Annex called Nagaoka-in for the Memorial Service
of Archbishop Gyoki in the 8th Century-Upon the Publication of the Formal Report on
the Excavation of SUGAWARA Site, Nara City -    TAKEUCHI Ayana 武内あや菜



0207PS00終了後01 0207PS00終了後02 撤収後、演習室で


 指導人数が少ない分だけ、指導の中身は濃くなり、またそれを受け入れるだけの能力のある二人が残ったので、非常にレベルの高いパネルが仕上がりました。わたしは他研究室に所属する学生のアドバイザ(副査)コメントにまわっていましたが、院生滅私の報告によると、二人のポスターは人だかりであり、副査の先生とも長話になったそうです。この内容については、まもなく卒論生自身がブログにアップしますので、少々お待ちください。今夜は会場(本学学生センター)の風景をお伝えします。


0207PS02民家02教師01 0207PS02民家01学生01 ポスター①


 ①はわたしの上海講演「古民家再生の新機軸」をおおいに発展してくれました。重文、指定、登録、重伝建などが一目で分かるスタンプを考案してくれたのが良かった。今後も使えそうです。ところで、オーセンティシティを真実性と訳すのはよいとして、アメニティは快適性にふさわしいのか、少し不安になってきています。とくにエガちゃんねるに嵌ってからというもの、どうしても下振れしており・・・国民はどのように思うでしょうかね。


0207PS02菅原01学生02教師01 0207PS02菅原01学生02 ポスター②


 ②は本当に質の高いポスターになりました。菅原遺跡多宝塔案も成仏するでしょう。今年度の最優秀卒論、なんてものはないのだけれども、もしあったとすれば、この論文に違いない。滅私も負けるなよ!

発表会をまちなかキャンパスで開催します!

 これら秀逸な卒論(及び修論)をPSにとどめておくのはもったいないので、2月23日(もしくは24日)にまちなかキャンパスで発表会開催を構想しております。4名×30分で2時間。麒麟獅子、民家、菅原遺跡、ブータンの4名ですが、ひょっとしたら、わたしもナマズか何かで喋るかもしれません。

【イベント名】「東鯷人カフェ」第1回-復元・民家・民俗を語る
1.日時: 2月23日(金=祝)午後1時~3時半
       *飲み物・軽食付きカフェ形式の講演会です
2.会場: 本学まちなかキャンパス

0.ごあいさつ
1.麒麟の源流 序説(政田)25分
2.真実性と快適性からみた古民家再生の動向
  -鳥取と北陸の寒冷過疎地から(尾前卒論)20分
3.仏教に潜む非仏教/前仏教の諸相
  -ブータンの秘境から(東修論)25分
4,菅原遺跡「円堂」復元の批評
  -行基を供養する十六角形の建物(武内卒論)20分 
5.鳥取城の復元-中ノ御門表門と渡櫓門(岡垣)30分
6.おわりに-東鯷人と建築考古学


《連載情報》東鯷人cafe(第1回)のお知らせ
予報1 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2786.html   
予報2 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2788.html
予報3 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2794.html 
満員御礼 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2796.html


《2023年度卒論・修論概要》
1.寒冷過疎地の古民家再生と移住の諸課題 -真実性と快適性の両立へむけて(尾前輝幸卒論)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2791.html
2.大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討 -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて(武内あや菜卒論)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2789.html
3.ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産-クブン寺とベンジ村を中心に(東将平修論)
前編 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2798.html
後編 http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2799.html

ナマズチップスで伝説つくるぜぇ!

ファミマに物申す!

 5日の深夜、2時50分にエガちゃんねるが更新され、ファミリーマートとコラボで開発した2種類のポテトチップスが「明日」から発売されることが公表された。一つはエガちゃん好みの「旨辛 担々麺風味」、いま一つはブリーフ団好みの「黒胡椒チーズ味」で、ファミマ各店舗に12袋ずつ計24袋置かれるという。ファミマ側は1ヶ月で売れれば満足といっているのに、エガちゃんは1週間で完売して伝説をつくると主張。さずがに1週間で全国完売は厳しいかも、と思った私は目覚めた直後、着の身着のままでクロックスのサンダルを引っ掛け、下宿から300メートルのファミマまで車を飛ばした。そんでもって入店し、うろうろしていると、レジに近いところの湿った床で滑って転んでしまい、ひっくり返った亀のように動けなくなった。2名の店員は2名の客のレジに集中しており、誰も助けに来ない。レジが終わって、ようやく店長が救いに来て、「クロックスはよく滑るんですよ、ほら、ここにも床滑り注意って書いてるでしょ?」と言って、黄色い表示板を指さした。なんとか立ち上がり、ポテトチップスを探した。全然見あたらないので、女性店員に訊ねると、「それ、明日からです。6日から」という。
 そうか、眠る前と目覚めた朝は同じ5日だったのだ。しょうがないので、ファミマ・ザ・クリームパンなどを何個か買って帰宅した。じつは小生の体に菓子パンは厳禁なので、白い目が待っていたのだが。それから1日経って、同じファミマへ。今日は革靴を履いて行った。またポテチを探した。エガちゃんねるのポテチはと訊ねれば、「あっち」と指さされたが、指名の棚には一袋も品物がない。すでに完売、在庫なし。諦めるしかない。冷たい糖質0%発泡酒かゼロコークで、バリバリかじりたいと思っていたが、じつはポテチも厳禁食であり、売り切れは悪くない結果でもある。安心した。鳥取のような田舎町でも即日完売なんだから、おそらく1週間あれば全国で売りつくすだろう。


ファミマDSC_0008 売り切れたポテトチップス24袋


ナマズ食の研究申請、採択!

 卒論発表会(ポスターセッション)を翌日に控え、午後から大学に行って最後の練習と調整をした。うちのゼミはレベル高いよ。とくに菅原遺跡の卒論は非常に出来がいい。古民家再生ももちろん良いが、スピーチ時間がまだ長いので3分ばかり短くするよう指示した。よくここまでやったと思う。本学のようなレベルの大学では、下手に個性的にならずに、教員の指導に素直に従ってコツコツ作業する学生がのびる。高いところまで辿り着くと思います。
 朗報が一つ。全国税理士共栄会文化財団に申請していた「ナマズ食の文化史的再評価と郷土料理としての復興」の採択通知が届きました。今年は科研の申請資格がなく、ウクライナ戦争等による電気代の高騰により、学内特別研究費も大削減されて研究費不足に悩んでいましたが、久しぶりに民間財団の助成を得ることができて嬉しく思っています。ともかくナマズに係ることは昨年からなんでも福を呼んでおり、これはもう要石(かなめいし)を注連縄で囲んで御祭りせねばならんな。近く、正式な申請書を提出しますので、その後、詳細を報告します。ありがとう! やったぜ、正義は勝つ、伝説つくるぜ!

菅原遺跡報告書批評のための習作(18)

批評-1981年調査区の基壇建物跡と小型瓦の関係

 卒論発表会が明日に迫ってきて、最後の詰めをいろいろやっている。報告書2023の巻末に掲載されている遺物の一覧表で、小型瓦を再確認したところ、「小型瓦」は11点、「小型瓦?」は3点を数えた。「小型瓦?」は小型瓦かどうか分からないので排除し、書評では「小型瓦」の総数をこれまでどおり11点とする。学生は、その出土位置を遺構図に落とそうとして混乱した。一覧表にはSC150とSB150の両方があるからだ。SC150が誤記である。SCは回廊の記号であり、西面の回廊はSC160である。SB150は伽藍の北にある東西棟掘立柱建物で、法隆寺東院になぞらえるなら、舎利殿・絵殿に相当する。菅原遺跡南区の場合、南側にも東西棟らしき遺構の一部が検出されており、こちらは法隆寺東院の礼堂にあたる。こうしてみると、ますます菅原遺跡と法隆寺東院の平面配置が近しいものにみえるが、いちばん大きな違いは東面が回廊ではなく塀(SA)になっている点であろう。この塀の地盤はもともと傾斜面であり、そこを整地して塀を築いたものである。おそらく地盤が不安定であったため、回廊の建設を控え、塀に代えた可能性が高いと思われる。
 いずれにしても、小型瓦は西面回廊SC160と北面東西棟SB150で集中的に出土しているので、この瓦を円形建物SB140の所用瓦とみなすのは難しい。小型瓦はSB150・SC160に用いられたとみるべきである。報告書2023では、SB140の屋根は約80mも離れた1980年調査区でみつかった小型瓦で葺いたと決めつけているが、
報告書2023第4章第2節「出土瓦の検討」の執筆者も「1981年調査でまとまって出土した軒丸瓦6316M-軒平瓦6710Dのセットは、(略)1981年調査の基壇建物の所用瓦であると考えられる」この部分保留中
と述べている。それでは、方形基壇建物跡はどのような建築と理解されていたのか、報告書192を読んでみると、3つの平面の可能性を指摘していることが分かった。ここに引用する(1982:pp.41-42)。

   本遺跡で検出された基壇の上面は大きく削平をうけており、礎石、
   礎石抜き取り穴等は全く検出されなかった。また基壇縁自体の
   後世の削平のため、東西方向の基壇長は明確にすることはでき
   なかったが、南北方向はかろうじて両側縁を確認することができた。
   このような条件下であるが、残存する基壇、雨落ち溝、ピット等から
   基壇建物の復元を試みたい。
    まず、棟の方向により、以下の三案が考えられる。
   Ⅰ.正方形プラン建物:平坦面東側が大きく削平を受けており、
     東方3m近く伸びていたと考える。すなわち、基壇南北長、
     東西長共に約22mをもつ方形の建物を推定する。また
     平坦面東側の地形を考慮に入れると、建物は南面していた
     と考えられる。
   Ⅱ.東西棟建物:平坦面東側が大きく削平を受けており、平坦部
    がより東にのびていたと考える。すなわち、基壇南北長22m、
    東西長18m以上を測る桁行7間、梁行4間の東西棟建物が考えられる。
   Ⅲ.南北棟建物:平坦面東側はあまり削平を受けておらず、かなり旧状
    を保っているものと考え、基壇東西長は基壇南縁の現存長とほぼ等しい
    と想定する。この場合、基壇は南北長約22m、東西長約18mとなり、
    桁行5間、梁行4間の東面した建物が考えられる。

 以上の3パターンのうち、Ⅰ案は「奈良時代において正方形プランの建物の類例は認められないから積極的に肯定できない」、Ⅱ案は基壇の桁行総長が「35m~48m」にもなるので考え難いとして排除し、Ⅲ案は梁行総長が「16~18m」程度で納まるので最も可能性が高い、とする。


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イランに負けた夜

両翼をもがれた日本

 カタールW杯以来、久しぶりにサッカーを真面目にみたら、イランに負けてしまった。やはり伊東の離脱は痛いな。三苫は負傷明け。日本は両翼をもがれ、攻撃力半減。デンべレ-エムバペのいないフランス代表のようなものだ(大げさか)。おまけに後半、頼みの久保を下げて堂安を残し、南野を入れる。森保と名波もあたおかだったの? 久保がいないと中盤がつくれない。鎌田は呼んでいない。両サイドバックもでき悪く、板倉は絶不調。1-2で済んで良かった。実質1-3の敗北、完敗でした。負けて当たり前の試合をドロー以上に持ち込むのは監督の手腕だが、まぁ無理です。この監督を有能だと思っている人が羨ましい。もう5年もやったんだし、これを契機に潔く、ころあいではないでしょうかね。
 今の日本代表が「歴代最強」という説には異を唱えてきました。ドイツやスペインに勝ったといっても、コスタリカ戦の無能な負け方、イラク戦・イラン戦の連敗を目の当たりにして、これが本当に最強ですか。アジア杯優勝間違いなし、と予想していたPIVOTの識者諸氏、W杯に続いてまた外してしまいましたね。Jリーグ発足以後の選手の中からベストイレブンを選ぶとしたら、今日のチームだと冨安だけでしょ、選抜にあたいするのは。三苫はなぜあれほど目だたなかったのだろう。左SBの伊藤とはほんと相性わるい。南野との連携もない。本来の三苫を視たかった。




 
 伊東の件については、昼間滅私と話しあった。やつは詳しかった。行為前後のラインが公になっていて、女性の方も結構のりのりだったという情報を教えてくれた。それがホントかどうか分からないが、問題は伊東の奥方だな。浮気は浮気なのでね。しかもいっぺんに二人と? 


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恵方巻に願いを込めて

0202加藤家01正面01


加藤家住宅からあたおかに物申す

 鳥取市で3番目の登録文化財「加藤家住宅」に研究室としてかかわったのは2009年度までだったと記憶する。『加藤家住宅の実験』(2007)、『加藤家住宅パンフレット』(2008)、『加藤家住宅の実験(Ⅱ)』(2010)という3冊を刊行している。いずれも本家LABLOGの時代である。あれから十数年ぶりに倭文(しとり)の旧加藤家住宅を訪れた。4年ウェイチアンの卒論で、登録文化財の再生例を提示しようとするも、良い例がなく、灯台下暗しで、自ら手掛けた加藤家住宅がいちばん良いと思ったからである。何が言いたいかというと、同じ文化財古民家でも、登録なら内装の改変は許されるが、重文(指定)だと一切許されないことを対比する例が欲しかったのだ。


0202加藤家04裏木戸01 裏木戸も学生の作品


 昨年8月、松山で菅原遺跡の検討会を終えた翌日、重伝建「内子」に立ち寄り、重要文化財「上芳賀家住宅」の土蔵カフェで休憩した。明治後期の土蔵造大邸宅で、主屋が重文というのは分かるけれども、それに付属する土蔵もすべて重文に一括指定されているから、指定対象は全て現状変更を加えられない。カウンターの女性によると、空調すら設置できないということで、内部は蒸し風呂状態になっていた。そのカウンターでみかんジュース1杯飲んだが、暑さに耐えきれず、早々に退出した。おかしなことだと思う。主屋がなく、土蔵だけ残っていたとしたら、決して重文には指定できなくて、おそらく登録文化財で落ち着いたと思われる。その場合、空調設置はもちろんのこと、大がかりな内部改装さえ許されたであろう。このあたりも、文化庁は枠組を改善していかなければならないね。主屋を重文として現状変更不可としても、付属の施設は準重文(登録文化財級)として介入可能(補助金あり)としてほしい。屋敷全体を考古学的標本とせずに、付属施設は再生可能にすべきだと思う。


20230821内子01上芳賀家土蔵カフェ02 20230821内子01上芳賀家土蔵カフェ01 重伝建「内子」の重文「上芳賀家」土蔵カフェ



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男はつらいよ、隅切瓦

2023歴史遺産保全論15寅次郎の告白


小型の隅切瓦はどこ行った?

 卒論の発表会が迫ってきている。コロナ以来、発表会形式だったものが、今年からまたポスター・セッションに戻ることになり、学生たちは少々残念だと思っているようだ。我がゼミは、この時期になって、4年生のやる気が充満し、相互コミュニケーションも増して、研究室らしくなる。わたしも精一杯やる。パワポのレイアウトや写真・図版の選択、科白の改訂は一年中やってる気がするが、やはりこの時期がいちばんエネルギーの上昇を感じる。ブータン修論は昨年11月の「崖と建築のヒエロファニー」で予行演習し、古民家再生系卒論は同10月の上海講演と先日の「古民家カフェと郷土料理のフードスケープ」発表データを膨らませればよいが、菅原遺跡の継続的考察卒論はなかなか大変だ。だって、報告書2023自体の出来がアレなので、突っ込みどころが多すぎる。奈良大学報告書1981もあわせて検討しているが、こちらもなかなかのものだ。たとえば、小型瓦のうち隅切瓦の図・写真は、方形屋根の根拠とする重要な遺物だが、出土をみた報告書1981でも、奇抜な復元案を示した報告書2023でも、掲載していない。まったくどういうつもりなのか。「アタマのおかしいおまえら(あたおか)に物申す」と一喝したくなる。ネット上の「あたおか」って、じつは良い意味なんだけどね。この場合、そうではありません。


1207073武内(卒論パワポ)4 作成中のパワポ。こうして3つ復元案を並べると、元文研は当初案2021に拘っていることがよく分かる。



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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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