ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産-クブン寺とベンジ村を中心に-《2023年度修論概要》前編
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こんにちは、滅私こと、院生の東です。2月16日(金)修士論文発表会、2月23日(金)東鯷人cafeの発表内容を報告させていただきます。私の取り組みの遅さ、準備不足により、修論発表会の出来は不満足なものとなりました。教授には、挽回の機会を与えていただき感謝いたします。この2年間教授には、フィールドワークから研究発表・論文作成まで多くの指導をして頂きました。心より感謝申し上げます。また、修士研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。
題目: ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産
-クブン寺とベンジ村を中心に-
Some Heritages of Bonism or non-Buddhism in Bhutan
- Mainly focused on Kubum Monastery and Bemji Village -【中間発表1】【中間発表2】
1.ボンとは何か
研究室では、これまで10回のブータン調査をしている。私は、コロナ禍終焉後の2回の調査に参加したので、その成果を発表する。チベット・ブータン地域は失われた古代インド仏典の直訳を体系的に残す仏教の聖地である。とりわけブータンは大乗仏教を国教とする唯一の国家であり、敬虔な仏教徒の集合としてイメージされるが、実際には後期密教と多様な土着信仰が融合・併存しており、非仏教系の信仰が予想をはるかに超えて強力であることに衝撃を受け、その実態を理解したいと考えた。
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ヒマラヤ地域の土着的な信仰を話題とする場合、ボン教の問題を避けて通れない。ボン教の歴史は複雑で曖昧であるが、一般論的に述べるならば、自然崇拝的な原始のボンは西チベットの象雄(シャンシュン)地区に起源し、主に葬送儀礼に係る民間信仰であったとされる。ここにいうボンとは「法」を意味し、中国語では「笨」と書いてベンと読む。象雄地区のカイラス山はヒマラヤ第一の霊山であり、ボン教・仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の聖地として多くの巡礼者が訪れる。
ボン教など自然崇拝的信仰が支配的であったヒマラヤ地域に仏教が伝わるのは、7世紀初に吐蕃を統一したソンツェンガンポ王の時代であり、8世紀後半には北インドの僧パドマサンバヴァ(後のグルリンポチェ)が後期密教を伝える。この古い宗派をニンマ派(古派)といい、ボン教と相互に影響し合っていた。11世紀以降、チベットで仏教諸派が林立し、ボン教もその覇権争いに加わることで、逆に仏教化が著しく進む。この時期以降の仏教化したボン教はユンドゥン・ボン(永遠のボン)と呼ばれる。ボン教は3度、吐蕃国王より強い弾圧を受けて東遷し、寺院の多くが四川高原ギャロン地区への東遷を余儀なくされた。ただし、総本山メンリ僧院はカイラス山の近くにあるネパールのカトマンドゥ、ついで北インドに機能を移している。
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昨年、ボンに関する新しい論考が発表されたので紹介する。12世紀に古典チベット語で書かれた『デンパの布告』は、7~9世紀の吐蕃王朝時代にあって、仏教がチベットに伝わった経緯と理由を、ボン教の視点から語った最古の記録である。その記録の全文がこのたびクバーネとマーチンによって現代文に翻訳された(Kvaerne and Martin 2023)。その翻訳によれば、仏教化したボン教は10~11世紀に中央チベットで生まれ、チベットにおける仏教の後継者たる立場をとっていたが、その時代のボン教徒たちは、前仏教的信仰の信者だったようである。クバーネとマーチンは翻訳書の序文で、ボンの時期区分を示している。すなわち、
1)7~9世紀の吐蕃王朝とその直後、チベット高原において行われていた、体系性に欠ける非仏教的信仰
2)10~11世紀における地域レベルの信仰
3)上記1)、2)からの諸要素を取り入れながらも、仏教的思考を大々的に借用し、自らを「ユンドゥン・ボン(永遠のボン)」と称した宗教。
4)現在でもヒマラヤ山脈の辺境地域で行われており、「ボン」と称される民間信仰
本稿はこの最新の分類に従って考察を進める。調査例と係るのはⅢ期とⅣ期だが、伝承としてはⅠ期・Ⅱ期にも触れなければならない場合があると考える。フランソワ・ポマレも、やはり現在のブータン各地で語られるボンは、歴史/哲学的にはユンドゥンボンと異なることを強調しながら、非仏教系の信仰ならば何でもボンと呼ぶ傾向がある、としている(Pommaret 2014)。
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ブータン史の大家、カルマ・プンツォ博士も大著『ブータンの歴史』(Karma Phuntsho 2014)で前仏教/非仏教系信仰をボンと混同する傾向に懸念を示している。2023年9月にティンプーでカルマ博士と面談する機会があり、その際、ボン教と他の信仰との違いを訊ねてみた。カルマ博士は、以下のように分類している。
①ボン:著しく仏教化したユンドゥン・ボンのこと。ブータンの場合、ポプジカのクブン寺のみこのタイプだったが、仏教に改宗した。
②ヒマラヤ山麓の広域的守護神(ゲンイェン神、ゲンポー神等)
③ブータン国内の流域的守護神(チュンドゥ神、ムクツェン神等)
この場合、①のボンと②③の守護神は区別すべきだが、重なる部分もなくはない、ということである。わたしは以上の諸先達の教えに従いながら現地で見聞きしたままを報告する。民族学的な情報の記述によって、ブータン文化の一側面を浮かび上がらせたいと考える。
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2.ブータンの民話/民俗的世界
ブータンの民話/民俗的世界は、神仏の住む天上界、人間の住む地上界、地霊の住む地下界に分かれる。湖や川などの水中も地下界に含まれ、地下界を支配する王をルゥ、水中の女神をツォメンという。その体は、上半身が人間、下半身が蛇の姿をしている。地下に棲む蛇はときに地上にあらわれて人間に危害をもたらす悪い地霊であり、住居内への侵入を防ぐため、外壁外側の角地・入口などにルゥカン(蛇の家)という小さな祠を設置する。それは一種の魔除けとして機能する。ルゥカンの大きなものはルゥポダン(蛇の宮殿)と呼ばれる。プナカ城を建設する際、何度も川が氾濫したため、ルゥポダンを建てて地下王ルゥを供養したところ災害は鎮まった。ルゥの偶像はなく、顏を描いた神札を祠の中に貼るのみだが、年に一度の大祭では張りぼての大きな偶像をつくり、宮殿内の広場に持ち出して盛大に祝う。一方、水神ツォメン姫は、偶像化しており、仏堂内の片隅に祀られている。
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ルゥカンとともに、不吉な蛇を駆逐する役割を担うのが神鳥ガルーダである。天上界より舞い降りて、地を這う蛇を瞬時に銜え空中で食いちぎる。そういう絵画が建物の壁に描かれる。この場合のガルーダは「魔除け」の鳥だが、同じような役割を期待し、外壁に巨大なファルス(ポー)を描く。小型の木彫を軒先に吊るしたり、門のマグサに突き刺したりする場合もある。ファルスは本来「魔女」の侵入を防ぐ厄除けである。もともとヒマラヤの全域は「魔女」に支配されており、吐蕃王ソンツェンガンポは、大地を浄化するため各地に仏教寺院を造営し「魔女」を大地に磔にしたという伝承がある。この場合の「魔女」とは前仏教的(母系?)社会の「女神(土地神)」もしくは「有力者」であり、それを仏教側が否定して「魔女」と呼んだものと推定される。
こんにちは、滅私こと、院生の東です。2月16日(金)修士論文発表会、2月23日(金)東鯷人cafeの発表内容を報告させていただきます。私の取り組みの遅さ、準備不足により、修論発表会の出来は不満足なものとなりました。教授には、挽回の機会を与えていただき感謝いたします。この2年間教授には、フィールドワークから研究発表・論文作成まで多くの指導をして頂きました。心より感謝申し上げます。また、修士研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。
題目: ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産
-クブン寺とベンジ村を中心に-
Some Heritages of Bonism or non-Buddhism in Bhutan
- Mainly focused on Kubum Monastery and Bemji Village -【中間発表1】【中間発表2】
1.ボンとは何か
研究室では、これまで10回のブータン調査をしている。私は、コロナ禍終焉後の2回の調査に参加したので、その成果を発表する。チベット・ブータン地域は失われた古代インド仏典の直訳を体系的に残す仏教の聖地である。とりわけブータンは大乗仏教を国教とする唯一の国家であり、敬虔な仏教徒の集合としてイメージされるが、実際には後期密教と多様な土着信仰が融合・併存しており、非仏教系の信仰が予想をはるかに超えて強力であることに衝撃を受け、その実態を理解したいと考えた。
スライド2
ヒマラヤ地域の土着的な信仰を話題とする場合、ボン教の問題を避けて通れない。ボン教の歴史は複雑で曖昧であるが、一般論的に述べるならば、自然崇拝的な原始のボンは西チベットの象雄(シャンシュン)地区に起源し、主に葬送儀礼に係る民間信仰であったとされる。ここにいうボンとは「法」を意味し、中国語では「笨」と書いてベンと読む。象雄地区のカイラス山はヒマラヤ第一の霊山であり、ボン教・仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の聖地として多くの巡礼者が訪れる。
ボン教など自然崇拝的信仰が支配的であったヒマラヤ地域に仏教が伝わるのは、7世紀初に吐蕃を統一したソンツェンガンポ王の時代であり、8世紀後半には北インドの僧パドマサンバヴァ(後のグルリンポチェ)が後期密教を伝える。この古い宗派をニンマ派(古派)といい、ボン教と相互に影響し合っていた。11世紀以降、チベットで仏教諸派が林立し、ボン教もその覇権争いに加わることで、逆に仏教化が著しく進む。この時期以降の仏教化したボン教はユンドゥン・ボン(永遠のボン)と呼ばれる。ボン教は3度、吐蕃国王より強い弾圧を受けて東遷し、寺院の多くが四川高原ギャロン地区への東遷を余儀なくされた。ただし、総本山メンリ僧院はカイラス山の近くにあるネパールのカトマンドゥ、ついで北インドに機能を移している。
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昨年、ボンに関する新しい論考が発表されたので紹介する。12世紀に古典チベット語で書かれた『デンパの布告』は、7~9世紀の吐蕃王朝時代にあって、仏教がチベットに伝わった経緯と理由を、ボン教の視点から語った最古の記録である。その記録の全文がこのたびクバーネとマーチンによって現代文に翻訳された(Kvaerne and Martin 2023)。その翻訳によれば、仏教化したボン教は10~11世紀に中央チベットで生まれ、チベットにおける仏教の後継者たる立場をとっていたが、その時代のボン教徒たちは、前仏教的信仰の信者だったようである。クバーネとマーチンは翻訳書の序文で、ボンの時期区分を示している。すなわち、
1)7~9世紀の吐蕃王朝とその直後、チベット高原において行われていた、体系性に欠ける非仏教的信仰
2)10~11世紀における地域レベルの信仰
3)上記1)、2)からの諸要素を取り入れながらも、仏教的思考を大々的に借用し、自らを「ユンドゥン・ボン(永遠のボン)」と称した宗教。
4)現在でもヒマラヤ山脈の辺境地域で行われており、「ボン」と称される民間信仰
本稿はこの最新の分類に従って考察を進める。調査例と係るのはⅢ期とⅣ期だが、伝承としてはⅠ期・Ⅱ期にも触れなければならない場合があると考える。フランソワ・ポマレも、やはり現在のブータン各地で語られるボンは、歴史/哲学的にはユンドゥンボンと異なることを強調しながら、非仏教系の信仰ならば何でもボンと呼ぶ傾向がある、としている(Pommaret 2014)。
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ブータン史の大家、カルマ・プンツォ博士も大著『ブータンの歴史』(Karma Phuntsho 2014)で前仏教/非仏教系信仰をボンと混同する傾向に懸念を示している。2023年9月にティンプーでカルマ博士と面談する機会があり、その際、ボン教と他の信仰との違いを訊ねてみた。カルマ博士は、以下のように分類している。
①ボン:著しく仏教化したユンドゥン・ボンのこと。ブータンの場合、ポプジカのクブン寺のみこのタイプだったが、仏教に改宗した。
②ヒマラヤ山麓の広域的守護神(ゲンイェン神、ゲンポー神等)
③ブータン国内の流域的守護神(チュンドゥ神、ムクツェン神等)
この場合、①のボンと②③の守護神は区別すべきだが、重なる部分もなくはない、ということである。わたしは以上の諸先達の教えに従いながら現地で見聞きしたままを報告する。民族学的な情報の記述によって、ブータン文化の一側面を浮かび上がらせたいと考える。
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2.ブータンの民話/民俗的世界
ブータンの民話/民俗的世界は、神仏の住む天上界、人間の住む地上界、地霊の住む地下界に分かれる。湖や川などの水中も地下界に含まれ、地下界を支配する王をルゥ、水中の女神をツォメンという。その体は、上半身が人間、下半身が蛇の姿をしている。地下に棲む蛇はときに地上にあらわれて人間に危害をもたらす悪い地霊であり、住居内への侵入を防ぐため、外壁外側の角地・入口などにルゥカン(蛇の家)という小さな祠を設置する。それは一種の魔除けとして機能する。ルゥカンの大きなものはルゥポダン(蛇の宮殿)と呼ばれる。プナカ城を建設する際、何度も川が氾濫したため、ルゥポダンを建てて地下王ルゥを供養したところ災害は鎮まった。ルゥの偶像はなく、顏を描いた神札を祠の中に貼るのみだが、年に一度の大祭では張りぼての大きな偶像をつくり、宮殿内の広場に持ち出して盛大に祝う。一方、水神ツォメン姫は、偶像化しており、仏堂内の片隅に祀られている。
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ルゥカンとともに、不吉な蛇を駆逐する役割を担うのが神鳥ガルーダである。天上界より舞い降りて、地を這う蛇を瞬時に銜え空中で食いちぎる。そういう絵画が建物の壁に描かれる。この場合のガルーダは「魔除け」の鳥だが、同じような役割を期待し、外壁に巨大なファルス(ポー)を描く。小型の木彫を軒先に吊るしたり、門のマグサに突き刺したりする場合もある。ファルスは本来「魔女」の侵入を防ぐ厄除けである。もともとヒマラヤの全域は「魔女」に支配されており、吐蕃王ソンツェンガンポは、大地を浄化するため各地に仏教寺院を造営し「魔女」を大地に磔にしたという伝承がある。この場合の「魔女」とは前仏教的(母系?)社会の「女神(土地神)」もしくは「有力者」であり、それを仏教側が否定して「魔女」と呼んだものと推定される。