いい加減に学ぶ中国語講座(41)
ボン教論文摘要(5)
No.4 田必伟(1988)
①原文: 「略论笨教的产生及演变」 『宗教学研究』 第4期 : pp.52-56
笨教是西藏社会最早出现的一种宗教. 由于当时没有文字记载, 因而人们很难确切地了解其产生与演变的历史, 即使在一些藏文史籍中有所反映, 也仅是一些零星的材料, 而且较为混乱。如, 关于笨教的起源, 有的书上说是由吐蕃第一代赞普— 聂尺赞普时策米兴吉母杰所创; 而有的书_L又说笨教应产生于吐蕃第八代赞普――直贡赞普之时的兴饶. ①但我认为, 作为西藏原始宗教的笨教, 从它最初所崇拜的宗教观念来看, 决非产生于吐蕃赞普出现以后的某一位“ 圣人” 之手, 而其演变也有着自己固有的规律. 对此, 本文仅从历史唯物主义的角度对这个问题略加探讨, 不当之处, 还望批评指正.
②日本漢字: 田必偉「略論笨教的産生及演変」 『宗教学研究』 第4期 :pp.52-56
笨教是西蔵社会最早出現的一種宗教. 由于当時没有文字記載, 因而人們很難確切地了解其産生与演変的歴史, 即使在一些蔵文史籍中有所反映, 也僅是一些零星的材料, 而且較為混乱。如, 関于笨教的起源, 有的書上説是由吐蕃第一代賛普— 聶尺賛普時策米興吉母傑所創; 而有的書_L又説笨教応産生于吐蕃第八代賛普――直貢賛普之時的興饒. ①但我認為, 作為西蔵原始宗教的笨教, 従它最初所崇拝的宗教観念来看, 決非産生于吐蕃賛普出現以后的某一位“ 聖人” 之手, 而其演変也有着自己固有的規律. 対此, 本文僅従歴史唯物主義的角度対這箇問題略加探討, 不当之処, 還望批評指正.
③和訳: 田必偉「ボン教の発生と進化変容に関する概論」『宗教学研究』第4期:pp.52-pp.56
ボン教はチベット社会に最も早く出現した宗教の一種であり、当時は文字記録がなかったため、その発生と深化変容の歴史を確定的に理解するのは難しい。たとえいくつかのチベット文献記載に(ボン教のことが)反映されていたとしても、それは星屑のように断片化した資料に過ぎず、なおかつかなり混乱している。例えば、ボン教の起源については、吐蕃の初代ザンプ(訳注1)-ニャティ・ツェポの時、ゼミシン・ジンメ(Zermising Jimje)によって創造されたと書く本もあれば、吐蕃の第八代国王のディグム・ザンプの時代に興ったと説く書もある(原注①)。しかし私は、チベット原始宗教としてのボン教は、それが最初に崇拝するところの宗教観念からみて、吐蕃国王の出現以降の某かの''聖人’’の手によって生まれたのでは決してなく、(ボン教の)その進展変化にも独自の法則があると考える。本論文では、唯物史観的立場から、この問題について若干の検討を加えたい。不適切な部分については、大方の批評と指正を乞いたい。
訳注1)吐蕃賛普……トゥボザンプ 吐蕃国王のこと。
原注① 『新紅史』16頁、『茫茜蔵赶教合一制度』6 ~ 7 頁 参照
No.4 田必伟(1988)
①原文: 「略论笨教的产生及演变」 『宗教学研究』 第4期 : pp.52-56
笨教是西藏社会最早出现的一种宗教. 由于当时没有文字记载, 因而人们很难确切地了解其产生与演变的历史, 即使在一些藏文史籍中有所反映, 也仅是一些零星的材料, 而且较为混乱。如, 关于笨教的起源, 有的书上说是由吐蕃第一代赞普— 聂尺赞普时策米兴吉母杰所创; 而有的书_L又说笨教应产生于吐蕃第八代赞普――直贡赞普之时的兴饶. ①但我认为, 作为西藏原始宗教的笨教, 从它最初所崇拜的宗教观念来看, 决非产生于吐蕃赞普出现以后的某一位“ 圣人” 之手, 而其演变也有着自己固有的规律. 对此, 本文仅从历史唯物主义的角度对这个问题略加探讨, 不当之处, 还望批评指正.
②日本漢字: 田必偉「略論笨教的産生及演変」 『宗教学研究』 第4期 :pp.52-56
笨教是西蔵社会最早出現的一種宗教. 由于当時没有文字記載, 因而人們很難確切地了解其産生与演変的歴史, 即使在一些蔵文史籍中有所反映, 也僅是一些零星的材料, 而且較為混乱。如, 関于笨教的起源, 有的書上説是由吐蕃第一代賛普— 聶尺賛普時策米興吉母傑所創; 而有的書_L又説笨教応産生于吐蕃第八代賛普――直貢賛普之時的興饒. ①但我認為, 作為西蔵原始宗教的笨教, 従它最初所崇拝的宗教観念来看, 決非産生于吐蕃賛普出現以后的某一位“ 聖人” 之手, 而其演変也有着自己固有的規律. 対此, 本文僅従歴史唯物主義的角度対這箇問題略加探討, 不当之処, 還望批評指正.
③和訳: 田必偉「ボン教の発生と進化変容に関する概論」『宗教学研究』第4期:pp.52-pp.56
ボン教はチベット社会に最も早く出現した宗教の一種であり、当時は文字記録がなかったため、その発生と深化変容の歴史を確定的に理解するのは難しい。たとえいくつかのチベット文献記載に(ボン教のことが)反映されていたとしても、それは星屑のように断片化した資料に過ぎず、なおかつかなり混乱している。例えば、ボン教の起源については、吐蕃の初代ザンプ(訳注1)-ニャティ・ツェポの時、ゼミシン・ジンメ(Zermising Jimje)によって創造されたと書く本もあれば、吐蕃の第八代国王のディグム・ザンプの時代に興ったと説く書もある(原注①)。しかし私は、チベット原始宗教としてのボン教は、それが最初に崇拝するところの宗教観念からみて、吐蕃国王の出現以降の某かの''聖人’’の手によって生まれたのでは決してなく、(ボン教の)その進展変化にも独自の法則があると考える。本論文では、唯物史観的立場から、この問題について若干の検討を加えたい。不適切な部分については、大方の批評と指正を乞いたい。
訳注1)吐蕃賛普……トゥボザンプ 吐蕃国王のこと。
原注① 『新紅史』16頁、『茫茜蔵赶教合一制度』6 ~ 7 頁 参照