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続・ハ地区の進撃(12)-第6次ブータン調査

ブータン民族遺産博物館01 ハンドクラフトセンター01


ブータン民族遺産博物館

 9月15日(金)。ブータン最後の日を迎えました。前日のバジョディン登山の疲れが残る中、まずはブータン民族遺産博物館を見学しました。ここでは、伝統的なブータンの住居や民芸品の造りかたなどが見学できますが、最大の目的はブータン焼酎(アラック)の製造過程の見学です。伝統的なお酒造りの工程を学ぶことで、ASALABで進行中の「パリンカの夢」プロジェクトの基礎資料としたかったのです。詳しい工程は続・ハ地区の進撃(4)で先生が紹介されています。
 民家の玄関の上とか、屋根の4隅には「フライング・ファルス」を安置したり、壁に大きく描いています。フライング・ファルスとは「空飛ぶ珍々」という意味ですが、男性器は魔除けでもあり、豊穣祈願のシンボルでもあります。ブータンでは神聖なものとみなされているのです。ファルスを祀る文化は世界中で確認できます。たとえば、摩尼山の立岩の近くにも大きなファルスの木彫が岩の上に安置されています。祈祷か魔よけの意味があるのでしょうね。今後、「フライングファルス」を論文のテーマとする学生も出てくるかもしれません。


ブータン民族遺産博物館02 ブータン民族遺産博物館03
↑版築壁と開口部の製作行程  ↓フライングファルス
フライングファルス01 フライングファルス02


 博物館を一通り見終えると手作りの織物が売られているのを発見しました。ここでは伝統的な方法で織られたものを販売もしているそうです。色合いがとても綺麗で肌触りもよく学生一同ほしがりましたが、値段が高く手がでません。ちなみに先生は巧な値引き交渉の末、ポラロイドを撮ってあげることを条件にスカーフを値切ることに成功されていました。


織物03 織物01


 民族遺産博物館の視察を終え、いったんティンプー市街地に引き返して書店で地図や絵本を購入しました(きびたろうだけは日本漫画の英語バージョンを買ってました)。その後、パロまで移動してレストランで昼食。今年は韓国の旅行費優待年だそうで、数十人の旅客は入ってきたのには驚きましたが、別室に押し出されつつ、食事は今回の旅でいちばん美味しかったかもしれません。

 
織物02   
                                             

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稲常の町並み(4)

171024川

 
 10月24日(火)、先週に引き続き稲常で民家の外観スケッチを1・2年生が描きました。先週は建物のアウトライン、今週はアウトライン内側の開口部・軒先・石垣などのディテールを描きあげます。
 先週木曜の時点で、今週火曜の天気予報は「雨」だったのでフィールドに出れないと思っていましたが、なんとか曇りになってくれてよかったです。週末の台風で千代川が大きく増水して濁っていました。板船が2艘しか見当たらなかったのですが、残りの2艘はどこに行ったのでしょう。


171024S区 171024画家


 2年生は黙々と作業に没頭していました。近所の方のご好意で、木の椅子をお借りしてスケッチをしている生徒もいました。キャスケットを被っている子が、まるで画家のようだと4年生に好評でした。辻の講評で、「本日の最高作」という評価をうけた作品がありました。建物図だけでなく、ディテールのスケッチが数多く描かれ、余白の部分にメモがたっぷり書いてあります。先生は「こういうのをフィールドノートっていうんだ!」と感心しきり。4年生3名に対しては、「君等より上だ」とまで仰いました。学ばないといけませんね。
 午後4時をすぎると、例の「つるべ落とし」で、女子はみな「寒い、さむい」と震えあがっていました。この日で、現地での下書きはほぼ仕上げることができたので、来週から演習室での清書と縮小貼りあわせに移る予定です。


171024辻



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デルス・ウザーラ

デルス画像01


ゼミでDVDを鑑賞

 10月18日(水)。雨が降っていたわけでもないのですが、ゼミは14講義室でDVD鑑賞となりました。日本とソ連の合作映画「「デルス・ウザーラ」(1975)は黒澤明監督の三大傑作と評価されるほど高い評価を得ていますが、シベリアの狩猟民族を主題とするためか日本ではマイナーであり、レンタルビデオ店の棚に並んでいません。こういう場合、何日かかけて取り寄せとなるのですが、レンタル後一週間で返却しなければなりまん。このため急遽18日に視ることになったのです(じつは大学の情報メディアセンターに所蔵されていることが後でわかりました)。私は北方の狩猟民族について勉強しているので、早くから先生に鑑賞を薦められていました。

 【ストーリー】  ロシアの軍人アルセーニエフは、帝政ロシアにとって地図上の空白地帯だったシホテ・アリン地方の地図作成の命を受け、探検隊を率いることとなりました。旅程途中から、先住民ゴリド人(ナーナイ族)の猟師デルス・ウザーラが、ガイドとして隊に同行することになります。シベリアの広大な風景を背景に、「自然と人間」 をテーマに取り上げ、キャピタン(将軍)と猟師デルスの交流を描くスケールの大きな作品です。ウィキペディアは、「原始的であるはず」のデルス・ウザーラの生き方は、「文明化された」ロシア人に人生の意味などをシンプルかつ的確に示唆している、と評価しています。


デルス画像02

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 この映画の主役デルス・ウザーラは、ツングース系のゴリド人(ナーナイ族、中国側ではホジェン族)であり、おもにアムール川下流域に定住する。サケ・マス漁を主生業として川岸の竪穴住居に住むが、気候のよい時期に男たちは狩猟活動に勤しみ、森林の猟場を転々とする。猟師たちは山森に精霊がいると考えている。アニミズムの一種である。信仰、神話伝承、装飾文様などにはアムール川流域で隣接するツングースや古アジア、さらに中国漢族の影響を受けている。デルスは人柄が穏和で、自然の中で生き抜く洞察力と狩猟(銃)の技術・知恵を兼ね備えた人物として描かれています。
 ロシア軍の調査団は、デルスの知恵によって何度か命を救われます。アルセー二エフとデルスが湖上で寒波にみまわれたときはデルスのとっさの機転で測量機材をのせる三脚を骨組にして蒲の穂の束で覆い、アルセー二エフは凍死を免れました。また、筏が急流に呑まれそうになったときは、川岸の巨木を伐り倒して急流に投げ込み命綱して陸に這い上がります。


デルス画像03 デルス画像04


 デルスは自然の厳しさをもちろん知っています。そして自分が自然の中の一部として他の生物と助け合うことを当たり前におこないます。このデルスの生き方にロシアの軍人たちは心惹かれていきます。豊かさとはなんなのか? そんなことを考えさせてくれます。


デルス画像05


 ゼミ生の感想を少々紹介しておきます。デルスの生きるための知恵、自然に対する畏敬の念をひしひしと感じた。悲しい結末に考えさせら れる、などでした。映画「デルス・ウザーラ」は極東少数民族の自然とのかかわり方、知恵、生態、文明化したハバロフスクの社会、人間本来の生活などについて深く考えさせられ、また何度でも見たくなる作品でした。私も北方狩猟民族の世界にさらに惹きこまれました。(ゆずまる)


デルス画像06

続・ハ地区の進撃(11)-第6次ブータン調査

170914 パジョディン 風景 170914 パジョディン 崖


パジョディン 奥の院

 標高3650mを超え、ようやく「奥の院」の岩壁に建つパジョディン僧院を確認することができました。到達まであと少しです。首都ティンプーの町並みも、これだけ高い山上から望むとすっかり小さく見えます。 
 標高3800m。ようやく目標地点であるパジョディン僧院に到着しました。朝8時半から登山を始め、時刻は午後2時になっていました。そのころ先生はジャンパラカン(弥勒僧院)の本堂にいて、なんどもトランシーバーで発信されるようになっていたのですが、如何せん、電波の授受がいい加減であり、音声が小さくて聞き取り難い状態が続きました。


170914 パジョディン3800m パジョディン僧院


 先述したとおり、「奥の院」はドゥク派信仰の始まりの地です。ドゥク派の伝道者パジョ・ドゥゴム・シクポが瞑想していた修行場だと伝承されており、本堂クラスの周辺にいくつか瞑想洞穴を確認することができました。これらが開山の場所にたつ建築群です。しかし、今に残る建物は14世紀まで遡らないようで、再建年代はむしろジャンパラカンのほうが古いことを後で先生に教えられ、驚きました。開山は山頂周辺であり、元の建物は古かったわけですが、その後、山全体の本堂格の建物は標高の低いジャンパラカンに移り、山頂周辺の建物はなんどか再建されたものと思われます。しかしながら、瞑想場としての価値は「奥の院」が最も高く、14世紀以降も続々と多くの僧達が訪れて修行を行いました。こうして宗派を学ぶための僧院が各地に増設され、西ブータンを中心にドゥク派が浸透し始めるのです。
 「奥の院」周辺は、残念ながら、僧の方々が不在で内部を確認することは叶わなかったので、外側からの写真を撮影するにとどまりました。


 170914 パジョディン3800m②  
↑本堂
170914 パジョディン瞑想洞窟
↑(上)瞑想洞穴  ↓(下)廃墟
170914 パジョディン 瞑想洞窟



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続・ハ地区の進撃(10)-第6次ブータン調査

170914 登山口


パジョディン縦走

 9月14日(木)、晴。午前8時、ホテルを出発し、パジョディン僧院への登山口に向かいました。パジョディンは13世紀ごろ、チベットから南下した高僧パジョ・ドゥグム・シクポによって開山されました。パジョはブータンにチベット仏教ドゥク派を伝導した開祖です。私たちは山奥の崖に建つ最古の「奥の院」を最終目的地として、標高3650~3800mの僧院群をめざします。午前8時半、標高2550mの登山口に到着。私は本格的な登山は初めての経験であったため、登りきることができるか前日からとても緊張していました。 


170914 登山 歩きはじめ


 ガイドのウタムさんから弁当とミネラル水を受け取り、準備完了。パジョディン僧院群を目指をしていよいよ登山開始です。高山病を回避するため数回に分けて休憩をはさみ、水分補給をしつつ歩みを進めていきます。上空からの市街地を俯瞰するパノラマや山嶺の大自然を撮影しながら、少しずつ山道を登っていきました。


170914 登山風景


サムゲカン僧院

 歩き始めの数十分間、急峻な傾斜面が続き、体力を消耗させられました。先生は昨日の昼食時の食あたり症状から体調が回復しない様子で、登山口に至る前から不調が登山に影響しないか心配なされていました。道中やはりとても辛そうで、休憩時には酸素を吸引しながら歩みを進めておられました。不安な面持ちで進む中、まもなく急峻な坂道を上りきり(登山を始めてから約1時間後)、大きな僧院があらわれました。サムゲカン僧院です。


170914 パジョディン登山 休憩風景 
↑↓サムゲカン僧院
170914 サムゲカン寺院 170914 パジョディン サムゲカン寺院②



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稲常の町並み(3)

1017稲常01 171017 稲常木船2


民家アウトラインのスケッチ

 10月17日(火)、2年次実習・演習Aによる連続立面図スケッチの1回目が行われました。連日雨天のなか奇跡のように晴天がひろがり、大型バスで稲常橋に。そこから先は大型車通行止めなので、橋を渡って稲常集落をめざします。河岸に板船4艘を発見。鮎の町の風情を漂わせています。そこから見通す集落の遠景が見事でした。
 毎年恒例の連続立面図作成ですが、今年は私の卒論にも関わってくる稲常の町並みが対象です。稲常は「寅さんの風景」プロジェクトで墓地等のロケ地再現撮影をし、夏休み直前と先週にも予備的な調査をおこなった豪農村落です。先生は山の斜面に形成されたS(南)区が最も古い群落だと推定されています。暴れる千代川の洪水を回避するためには平野部でなく、標高の高い山際の傾斜面を選択しただろうという考えです。


1017稲常02 S01榎


 S(南)区の次に開発されたE(東)区、その次はW(西)区、最も新しく形成されたのがN(北)区だと今のところ考えています。今回は、先週アヤカメ&小次郎で作成した家屋番付地図と家屋一覧表を基に、2年生27名にスケッチを担当する建物を割り振りました。E区・S区・W区がスケッチの対象です。
 稲常は中世にまで遡る拠点的な農村集落であり、羽柴秀吉の侵攻によって衰退したとも伝承されています。中世の武士もしくは豪農が拠点とする地として出発し、藩政期にあっても有力農民が面積の大きな田畑を領有していたものと思われます。そのため、一軒一軒がとても大きく、多くの学生はスケッチに苦戦していました。今回は1回目ということで、建物全体のアウトライン(外形)を描き切ることを目標に取り組みました。天候にもよりますが、次回はアウトラインを基に建物の細部をスケッチする予定です。


171017 稲常4 171017 稲常番付け地図
↑S区の小径



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続・ハ地区の進撃(9)-第6次ブータン調査

170913ブータン田園風景


ジャンカネ瞑想洞穴の測量

 9月13日(水)。名残を惜しみつつ、3日間お世話になったソナムジンカ・ファームハウスを離れました。別れの朝の記念撮影はすでに先生が報告されています。この日はティンプーに向かう途中で、ジャンカネ瞑想洞穴(ハ地区)とドゥブジ・ラカン(パロ地区)を訪ねます。これら2か所は昨年の第5次調査でも訪れていますが、外側から写真を撮影しただけなので、なんとか「調査」らしきものをしたいと思ったのです。
 標高2900mのハから同2200mのパロ・ティンプーまで、大きくスラロームしながら長い山道を下っていきます。車窓に映る風景にうっとりみとれながらゆったりと時間が流れていくのを感じました。高くそびえる山々や深い渓谷、八雲立つ空が段畑や集落と一体になった景色には、なにげに日本との親近性を覚えるのですが、そのスケールの大きさに圧倒されるばかりです。
 その後、立ち寄った街道沿い集落のレストランを間借りし、ソナムジンカでキンレイが準備したお弁当と道中のスーパーで購入したカップヌードルをいただきました。ところが、レストランの衛生状態には少々問題があり、先生は食あたり気味の症状になり、翌日のパジョディン登山にも大きな影響を及ぼすことになります。


170913ジャンカネ


 ジャンカネ瞑想洞穴の周辺には、川沿いにマニ水車(マニコロ)の小屋が建てられ、樹々には五色旗(マニダル)がかけられ棚引いています。豊かな自然と調和した五色の風景によって、なんだか清らかな気持ちにさせられます。ここでスケッチ、高さの測量、周辺の配置図の作成などを行いました。山道を抜けて瞑想洞穴に近づけるかと思いトライしてみましたが、安全を確保できないため断念することになりました。長期間にわたり過酷な瞑想修行を続け、生と死の境に至る瞑想洞穴という場は、生半可なことでは立ち入ることすらできないのだと実感しました。それにしても、ドローンを持ち込めなかったことがつくづく悔やまれます。

 【メモ】 ・高度約2600m。路面からの瞑想場までの高さ約45m。
  ・高さ2mほどの石積壁が3.5mほど離れて2つ並び、その右脇に高さ1mほどの版築壁を1つ確認。
  ・悟りに至る修行ではなく、谷筋に住み着く悪霊の浄化を目的として造営された。本堂のない独立した
   瞑想洞穴。


170913ジャンカネ測量風景 170913ジャンカネ遠景 
↑左)測量風景 右)遠景  ↓左)スケッチ 右)配置図
170913ジャンカネ スケッチ 170913ジャンカネ配置図



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平成27年度終了鳥取県環境学術研究振興事業の普及・活用状況調査

 研究課題名 : 倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査
        -「歴史まちづくり法」による広域的景観保全計画にむけて―
 研究期間: 平成25~27年度
 学校・学部学科・職・研究者 : 公立鳥取環境大学・環境学部・環境学科・教授・浅川滋男


研究成果の活用状況
 倉吉市河原町・鍛冶町2丁目の歴史的風致の維持と向上に係わる「小川財団」と東地蔵周辺の「小川家住宅」「大鳥屋」の保全に関して、昨年度の報告以降、大きな変化があった。
 (1)小川財団と5軒長屋の問題: 小川家当主の急逝により、小川財団そのものの継承・存続の可否が親族等関係者で協議されてきている。これに関連して昨年末、地元住民は倉吉市教育長宛で小川家住宅・庭園(県指定)の修復・公開について問い合わせをしたが、なんの返事もないため、今年6月になって「河原町の文化を守る会」有志と親族等関係者の間で直接話し合いの席がもたれた。来たる10月23日には今年度の修復に係わる説明会が催される(行政側から住民に対する説明会はまったく予定されていない)。
 地域住民との軋轢の種になっていた小川家対面の5軒長屋については、小川財団の開発を主導する倉吉市教委文化財課が5軒を取り壊して大型バスの駐車場にする計画を練り上げ、撤去の見積りまでしていたが、河原町の八橋往来は道幅が狭く、一方通行の旧道であり、大型車両進入禁止の道路であることから、大型車輌の駐車場にできないことが判明した。また、撤去の理由について、文化財課は長屋建築の構造的安全性の欠如を声高に主張していたが、昨年10月に発生した県中部地震において長屋群はまったく損傷を受けていない。周辺には壁が崩れ落ちたり、ガラスが割れたり、屋根瓦がずれたりしている家屋が少なくないが、5軒長屋にはブルーシート1枚掛けてないという風景が長屋群の構造的安定性を証明する格好になっている。
 (2)小倉家・大鳥屋の登録文化財申請: 地蔵盆の舞台となる五叉路に近接して建つ小倉家と大鳥屋については、登録有形文化財への申請へ向けて昨年度上半期にわれわれが調査を進めていたが、県中部地震により一部の建造物が被災し、調査研究はいったん頓挫した。とくに小倉家土蔵(明治中期)の破損が激しいので、われわれはさまざまな講演会のたびごとに「未指定・未登録文化財に支援!」を訴えて募金活動を繰り返し、すでに一部の募金を直接被災者に手渡している。今後もこうした支援活動を継続していく。肝心の登録文化財申請については、まずは小川家住宅・土蔵から準備を再開している。なんとか年内に申請を終えたい。
 登録後の活用については「河原町の文化を守る会」を中心に議論されてきており、最近「磯野長蔵記念館」へのコンバージョン構想が萌芽し始めている。磯野は明治7年(1877)倉吉市河原町に生まれ、大正8年(1919)に麒麟麦酒株式会社を立ちあげた。キリンビールの生みの親が河原町出身であり、この夏の地蔵盆でも小川家土蔵でキリンビールが販売された。今後は「河原町の文化を守る会」が中心となって企画書を作成する予定である。我々も登録文化財申請のための報告書の作成だけでなく、「磯野長蔵記念館」への改修案についても積極的に提言していきたい。

今後の課題・展開
 われわれが平成25~27年度の研究で提言した理想形は、倉吉市河原町・鍛冶町2丁目を打吹玉川重伝建地区とは独立した「打吹鉢屋川重伝建地区」として新規選定を実現することだが、その前提となる小倉家・大鳥屋の登録有形文化財申請をできるだけ早く進める必要がある。そのためには、小倉家土蔵の修理を終えることが望ましいので、今後も各種イベントで修理のための募金をつのる予定である。われわれが「キリンぐら」と仮称する磯野長蔵記念館の構想にもより積極的に係わっていく。
 一方、小川家対面の長屋群が、一時的にではあるかもしれないが、撤去の危機を回避できたことは「打吹鉢屋川重伝建地区」の新規選定にとっては朗報である。中部地震によって長屋群の構造的安定性も確認されたところであり、地域住民の意向をくみ入れた財団の再構想を促すべく努力していきたい。

要望事項  
 行政は小川財団ばかりに偏向せず、地域住民の意向を吸収して、小川家住宅・庭園の修復整備と町並み保全の両立したまちづくりを構想し、実施してください。

登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(4)

171009 ドローン摩尼山頂 171009 ドローン


ドローンによる空撮

 10月9日(月)、快晴。前回電池切れで飛ばすことができなかったドローンの航空写真を撮るために、再び摩尼山上立岩へ向かいました。今回はだっしょさんとみひろさんに同行してもらいました。晴天で気温も高く、立岩に上がるころには汗だくになってしまいました。また、体育の日(祝日)だったこともあり、石段や登山路でハイキング客や参拝客の方を数多くみかけました。


171009 作業風景 (2) 171009 作業風景 


 立岩に到着し、ドローンを無事飛行させることに成功しました。日差しがとても強く撮影に響かないか少し心配でしたが、前回登った時より風が少ないという点では、ドローンを飛ばすのに最適の天候でした。昨年の試験的撮影ではpm2.5が風景を霞ませていましたが、この日はそういう被害もありませんでした。
 私はこの日、実際に飛行するドローンを目にするのは初めてだったこともあり、夢中になって撮影していました。知らないうちに、みひろさんにその様子を撮られてしまっていたようです。
 ドローンで撮影した写真をみると、立岩周辺の空間構成がよく把握できます。配置図の作成はもちろん、最終目標である復元の研究にとってかなり参考になりそうです。
 ところで下山後、市文化財課のエアポートさんから前回取った測量野帳に結構不備があることが分かりました。測点の数が不十分だというご指摘であり、もういちど立岩をめざし、立岩や石仏など測点を追加測量する予定です。次回こそ十分なデータを得る事ができるよう、しっかり準備をして調査に臨もうと思います。(きびたろう)


171009 摩尼山頂 上空 (3) 171009 摩尼山頂 上空 (1) 
ドローン撮影成果

続・ハ地区の進撃(8)-第6次ブータン調査

0912ゲムラム家オモヤ00001 170912 ゲムラム家外観②


ゲンサ村ゲムラム家

 9月12日(月)午後。民宿に近いガキ家での調査を昼までに終え、午後は3棟目の民家の調査へ向かいました。グンサ村のゲムラム家です。2日前、民宿に向かう途中に発見した平屋建の民家です。
 ゲムラム家は2回訪問して調査の許可を得ようとしましたが、いずれも不在でした。ご主人は在家信者であり、しばしば大寺のラマに代わって、村内世帯の法要プージャを仕切っているようで、なかなか家にいらっしゃいません。11日の夕方、ようやく奥様が帰宅され、12日の調査許可を得ましたが、約束の時間に訪ねてもまたご不在でした。配置図をとりながら待っていると、近所から戻ってこられました。柵に囲われた広い庭に足を踏み入れると、2匹の小猫が出迎えてくれました。


170912 ゲムラム家 ねこ


 世帯主ご夫妻は近年、東ブータンのトンサから移住してこられたそうです。家は借家です。所有者は近隣に新しい住宅を建てられています。トンサの方言をケンパ語といいます。部屋の名前をたずねても、ハ地区の言葉をご存じないため、ケンパ語でお答えいただきました。正式な建築年代を特定できませんでしたが、ブータン民家の中でも稀少な平屋の民家であり、年代が古くないにしても、古式を残す建物であることが予測できます。
 ブータン民家は、ガキ家のように1階を家畜小屋にして2階を住居スペース、屋根裏(3階)を作業兼乾燥場にする形式が一般的です。それに対し、ゲムラム家は平屋造で、牛小屋2棟を別棟として設けています(↓右)。ガイドのウタムさんによると、このように平屋で家畜小屋を外に配する民家は南ブータンに多いそうです。その佇まいから、以前翻訳したクンサン・チョデンの絵本『心の余白』(Room in Your Heart)の表紙の家を思い出すと、先生はおっしゃっていました。


170912 ゲムラム家 作業風景① 170912 ゲムラム家 牛小屋 


 今回は1階平面図と立面図、屋根伏図の作成に加え、窓と扉の様子をスケッチし実測しました。屋根裏もできれば調査したかったのですが、在家信者のご主人が仏間の上に人があがるのを嫌がられたため、屋根裏に上がることができませんでした。学生3名は1階平面図・配置図の作成、ディティールの記録に尽力しました。
 方言の違いから、平面図を描いた後に部屋の呼び名も発音が微妙に異なっており、台所は「タプツァ」、仏間は「チェシュム」と呼ぶそうです。中央通路は特別n呼称はなく、道(ラム)と呼んでいます。北東に配す部屋は倉庫兼作業場にあたりますが、織物器タータを置いているため、タータ・ルームと呼ばれています。


170912 ゲムラム家 平面図 1F平面図


 ゲムラム家の仏間はガキ家にくらべると素朴ですが、さすが在家信者の家であり、数多くのタンカ(仏画)やポスター・カレンダー類が壁に貼られていました。ポン教の神パジェ・ラパニ、グルリンポチェの八変化の一つ「ペマジュネ」、弥勒菩薩ザワ・ゲンパ、ドゥク派の座主ジュケンポなどの姿が映されたポスターが貼られていました。ここでも先生はポラロイドと一眼レフでつぶさに神仏の調査をされました。


0912ゲムラム家仏間00001 
↑仏間正面 ↓ポラロイドによる仏画類の調査
170912 ポラロイド③ 170912 ポラロイド② 170912 ポラロイド①



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トンレサップに帰ろう(4)

訃報

 8月25日夜、訃報を受信した。成都から西寧に飛び、そのまま車で日月峠と青海湖を経由して夜半に到着した都蘭での出来事である。高橋一学長が急逝されたのだ。自分でも想像していないほど衝撃を受けた。よく喧嘩した仲だが、大変お世話になったと素直に思っている。学長は数少ない私の理解者であり、支援者であった(と今にして思う)。どうしても弔電が打ちたい。しかし、第一報には葬儀の予定が決まっていないとある。とりあえず、同僚に弔電の代打をお願いしたが、本心はちがった。ラサで必ず弔電を打つ。
 青海省の都蘭は標高3200mの高地にある。あたり一面は草原で、遊牧民がほぼ距離を同じくして分散しつつ宿営地を営み、そこで何千頭ものヤクと羊を放牧している。翌朝ゴルムドに向かうことになっていた。ゴルムドから青蔵鉄道に乗って車中泊し、ラサに着くのは2日後のことである。青蔵鉄道は標高4200~5300mの高原を往来する鉄道である。コンパートメントには酸素を吹き出すボンベ口が4ヶ所設けてあった。
 27日の早朝、車中で目覚めると、日本からの客人はみな鎮痛な表情をしている。酸素不足による頭痛に悩まされ、食欲をなくしていたのだ。わたしは唯一例外的に食欲があり、何杯も粥のお代わりをした。すでに体が高地に順応し始めていたのである。ラサに着いて、後頭部に鈍痛を感じはしたが、他の日本人に比べればはるかに元気であり、なにより食欲が旺盛にあった。日本では制限している澱粉・糖類をラサでは貪りくらった。血糖値を上げないことには話にならないからである。ホテルはなかなか高級で、ワイファイの通信状況は良好であり、学長の葬儀は東京でおこなわれるという新たな報せを受信した。その夜、NTT東日本にアクセスし打電に成功した。「いまラサ(拉薩)の星空を仰ぎながら、極楽往生を祈るばかりです」などという文言を呟いていると、横で聴いていた会長が素っ気なく答える。

  星は全然みえませんねぇ、楽しみにしてたんですが・・・

 同日、ダライ・ラマ重体のニュースがネットを駆けめぐった。ダライ・ラマが逝去すれば、ラサは再び暴動の嵐となるだろう。帰国できなくなるかもしれない。そういう怖れをいだきながら、じつは、個人的には、ダライ・ラマはすでに亡くなっているような気がして仕方なかった。信玄急逝時の隠蔽工作のようなものである。中共の陰謀を阻止するためには、ダライ・ラマは永遠に生き続けなければならない。

朗報

 こうした暗雲を覆い尽くすような朗報が出国直前にもたらされていた。母校のスーパー・グローバル・ハイスクール(SGH)の課題研究において、指導した「トンレサップ湖に学校をつくろう」プロジェクトが、校内評価の結果、優秀賞に輝いたという報せが届いていたのだ。とても嬉しかった。還暦の年に少しだけ母校に恩返しができたような気がしたのだ。嬉しかったから会長に何度も自慢した。
 ブータンから帰国した9月下旬、課題担当教員と代表生徒1名の表敬訪問を受けた。その生徒は大学の建築学科を志望していると聞いて仰天。わたしのやっていることに興味をもったようだが、もちろん偏差値が高いので、近畿方面の有名大学の建築学科をめざしている。しかし、その女子生徒の話を聞いてみると、工学部建築学科より、旧生活科学系(いまは人間環境/環境デザイン系)のほうが似合っていると感じたので、大阪市大などの住居系を推薦した。そして、ぜんぶ落ちたら環境大の一般後期をうければいいよ、というと、本人は笑顔になったが、先生の表情は少々曇ったような気がした。頭が良いだけでなく、コミュニケーション力の高い逸材で、喉から手が出るほど欲しいと思ったが、偏差値が高すぎて、来てくれないでしょうね・・・
 大学HPに掲載された以下の記事もあわせてお読みください。
 
 浅川教授が指導した鳥取西高SGH課題が優秀賞を受賞しました
   http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171002/
 
 来春には、最優秀作・優秀作の正式な発表会が催されることになった。まことに結構なことだが、受験勉強に影響がでないことを祈っております。

講演「寅さんの風景」(河原町40周年文化祭)のお知らせ

寅さん講演会チラシ【完成版web 寅さん講演会チラシ【完成版】doc


寅さんの風景-千代河原と上方往来河原宿の遷ろい-

 FCゼクストン同窓会の翌週末は、生まれ故郷の旧八頭郡河原町の文化祭40周年記念講演が待ちかまえています。チラシは結構前にできていたのですが、一昨日、ようやく大学HPに広報記事がアップされました(↓)。

 http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2017nendo/20171002/
 または
 http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/news/2017nendo/20171002/


 河原(かわばら)は参勤交代の御茶屋(休憩処)として出発し、近代以降は「鮎の町」と して賑わってきました。そんな風情に目をつけた山田洋次監督は人気映画シリーズ「男はつらいよ」の第44作「寅次郎の告白」(1991)の主要な舞台とし て河原を抜擢します。その映像を余すことなく分析し「風景」という視点から寅さん映画とその時代を捉え直し、自らの幼少期をも回顧していくの ですが、それはまた故郷の風景の解体を目の当たりにすることでもありました・・・

 日時・会場等は以下のとおりです。

  イベント名: 第40回河原町文化祭記念講演会  入場無料!
  日   時: 平成29年10月28日(土) 13:30~15:15
  会   場: 河原町コミュニティセンター(旧中央公民館)大講堂
          〒680-1221 鳥取市河原町渡一木277 ℡ 0858-76-3123
  講 演 者: 浅川 滋男(公立環境大学環境学部教授)
  演   題: 寅さんの風景-千代河原と上方往来河原宿の遷ろい-

  概   要:  テキヤの寅さんを主役とする「男はつらいよ」48作は世界最長の映画シリーズとしてギネス認定され、今もテレビ放映が続いています。渥美清晩年の一作「寅次郎の告白」(1991)は鳥取を舞台とした名作です。家出したいずみちゃん(後藤久美子)を探しに鳥取にやってくる満男(吉岡秀隆)、しゃんしゃん祭りでバイをする寅(渥美清)と料亭女将(吉田日出子)の恋の再燃などを、倉吉・砂丘・河原・千代川・若桜鉄道などの美しい風景映像を背景に描いています。本講演では、その「風景」に注目し、学生たちを動員したロケ地再現撮影などを通して「故郷の風景」の変化と不変について考察していきます。風景という側面から寅さん映画の核心に迫ろうとする独創的な講演にご期待ください。

  主催・問い合わせ先: 河原町文化祭実行委員会
   (鳥取市教育委員会河原町分室内 TEL0858-76-3122)

十月桜(2)

 FCゼクストンの同窓会=東西対抗血戦が近づいてまいりました。楽しみではありますが、少し憂鬱なところもあったりしてね。運動不足で腹はへっこんでないし、アンブロのサッカーシューズを買ったものの、結局一回も履いていないしね。もうすこし気楽に構えてたんですが、十月下旬はおそろしく忙しい時期なんだな・・・寅さんの講演もあれば、紀要と科研の〆切、そういえば、健康診断もある。昨年に引き続き塩谷写真記念館でギターの会まであるのですが、これはもうギブアップだね。おそらく皆おなじような状況を抱えているんでしょうけど。
 タクヲに顔だせよ、と声をかけているんですが、なにぶん翌22日は総選挙だから公僕達に暇はなし? だれに見てもらいたいわけじゃありませんが、以下、自らのメモ書きとしておきます。


FCゼックストン鳥取合宿

1.日時 10/21(土)~22(日)

2.グラウンド 鳥取市用瀬(もちがせ)町運動公園 http://mochigase.net/
         全体集合 21日13:00
        
3.日程と交通機関 
    
10/21(土)・・参加者20名(日帰2名、宿泊18名)

 【羽田空港組】9名
09:00 各自が手荷物検査を通過して、羽田空港の鳥取行搭乗口に集合
09:40 羽田発ANA295便
10:55 鳥取空港着
11:10 JAPAN観光バス配車完了
11:15 バス 空港出発
11:35 バス 鳥取駅着 (ここで全員分の弁当を買い占めるか?)
11:57 スーパーはくと3号 鳥取駅着
      ひとつしかない有人改札口で、電車組4名と合流。
12:05 バス 鳥取駅発
12:35 バス 鳥取市用瀬町運動公園着

【鳥取駅組】4名
11:57 スーパーはくと3号 鳥取駅着 空港組と合流
      (4人分の弁当はこの段階までに買っておく)

【自家用車組】
13:00 用瀬町運動公園へ直接集合・・4台6名

【智頭⇒用瀬組】1名 
14:00 用瀬町運動公園着
          

10/22(日)→次ページ参照
         

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ブッダが説いたこと(二)

今枝(表)2017mani圧縮 今枝(表)2017mani_7_4_01 チラシ表


秋の仏ほっとけ会(第3回) チラシ完成

 5月中旬にお知らせした今枝由郎先生の講演会「ブッダが説いたこと」のチラシがようやく完成しました。今枝先生はフランスを拠点にして仏教の研究を進められてきました。チベット語・ブータン語をはじめ多くの言語を習得し、仏教を多言語的に比較できる稀有な研究者です。古代インドにおける草創期仏教にも関心を抱き、後世の注釈・漢訳などに惑わされず、サンスクリット語やパーリア語の経典のみからブッダの教えを読み解かれます。
 講演の日時・会場等に変更はありません。以下に再録しておきます。

 イベント名称: 公立鳥取環境大学学内特別研究費助成事業 第3回 仏ほっとけ会(ほとけほっとけえ)
 日 時: 11月18日(土)13時開場 13時半開会
        13:30-13:45 趣旨説明
        13:45-15:15 講演
        15:15-15:30 休憩(質問用紙回収)
        15:30-16:15 質疑応答~閉会        
 会 場: 県民ふれあい会館 講義室(120席)入場無料・先着順
       http://fureaikaikan.jp/  TEL 0857-21-2266
 講演者: 今枝 由郎 (京都大学こころの未来研究センター特任教授・
        元ランス国立科学研究所CNRS研究ディレクター)
 演 題: ブッダが説いたこと
 講演概要:  仏教はアジア各地で多様な変化を遂げ、本来の姿から遠ざかっていった。本講演では、仏教の最も古い形態を今に継承しているスリランカ上座部仏教(テーラワーダ)の高僧ワールポラ・ラーフラの著作(今枝訳『ブッダが説いたこと』 岩波文庫・ 2016)に基づいて、ブッダの教えの中心的概念を紹介する。仏教の多様な変化のなかで、現在のチベット・ブータンの仏教、および日本仏教を取り上げて、本来の仏教と比較し、現代における仏教の意義・役割を考えてみる。

 主催・事務局(問い合わせ先): 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ 
               TEL&FAX 0857-38-6775 [email protected]
 後援: 鳥取県教育委員会・鳥取市教育委員会


今枝(裏)2017mani圧縮 今枝(裏)2017mani_7_4_02 チラシ裏


 今枝先生の前座にもならない講演を10月28日におこないます(↑中断)。とはいえ、わたしが生まれた旧八頭郡河原町文化祭の40周年記念講演ですので、わたしなりに精一杯の準備をして臨む予定です。詳細はいずれまた。



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稲常の町並み(2)

稲常E01-1全景 稲常E01-1


稲常-民家の番付と撮影

 10月4日(水)。ゼミは先週から始まり、3年生は町並み調査の基礎を学ぶことになりました。2年の人間環境実習・演習Aで課題となる町並みや民家の調査にも極力参加するよう指示されました。フィールドは鳥取市河原町の稲常(いなつね)です。前期、「寅さんの風景」プロジェクトで墓地等のロケ地再現撮影をされたことで、先生はすっかりこの農村を気に入られたようで、夏休み直前には早くも1回めの予備調査をされています。3年生にも後期早々に住宅地図を貼り合わせてベースマップをつくるよう指示があったのですが、4日の天気は快晴だったので、他の作業をさしおいて、フィールドに向かうことになりました。


稲常の地図(圧縮)


 集落のほぼ中心に4本の道が集合する「辻」があります。ここからのびる4本の道を W(西)、E(東)、N(北)、S(南)と略記し、それぞれの道で辻に近い家屋から01、02、03・・・と番付していきます。西の道路ならば、W01、W02、W03・・・という具合に。そしてまず、ラベルに【稲常W01 20171004】と油性マジックで書き込み、そのラベルを撮影してから1棟ずつ撮影していきます。撮影はまず全景を写し、その後正面、さらにディティールを撮影します。これまでのフィールド、つまり若桜・用瀬・河原・立川などでは1棟につき3枚程度でしたが、稲常の民家はとても大きいので、1棟につき10枚程度の写真を撮影する必要がありました。


CIMG9557 ブログ1 CIMG9548 ブログ2
↑↓W01
CIMG9554 ブログ4 CIMG9568 ブログ3 CIMG9570 ブログ5


 以下の3グループに分かれて、北・南、東、西エリアの建物の番付と外観の写真撮影をしていきました。

  W(西): 森+吉冨
  E(東): 佐々木+水田+岡崎
  S(南)N(北): 佐藤+谷口+吉田

 3年生は今まで町並みの調査をしたことがなかったので、先輩方に一から教えていただきながら活動をしました。上の地図にみるように、稲常は山麓に貼り付くようにして成立した比較的小規模の集落ですが、面積の大きな豪農の屋敷が軒を連ねており、狭い旧道から全景などを撮影するのは難しい所もありましたが、順調 に作業を終えることができました。


稲常E21全景 稲常E21
↑E21 ↓(左)E01土蔵窓 (右)E21門 
稲常E01-1窓 稲常E21門


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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(3)

170929 摩尼山山頂 170929 摩尼山 立岩


登録記念物摩尼山活用整備検討委員会

 昨年、摩尼山南半の約37万㎡が国の登録記念物(名勝地)に登録されましたが、今年度から3年計画で活用整備事業が始動しています。去る9月28日(木)、第1回活用整備検討委員会が大雲院で開催されました。主催者は摩尼寺、事務局は鳥取市教育委員会で、委員は教授・会長のほか、覚寺集落の区長が地域住民代表として参加されています。28日の委員会では、今年度の事業である案内板3枚の設置と2年度め以降の活動について議論されたそうです。
 初年度は門前に総合案内板と石の標識、奥の院と立岩エリアに各1枚ずつ案内板が設置されることになっています。鳥取有数の豪雪地帯である摩尼山では、12月10日前後から積雪が多くなり、山上での積雪はときに2mにも及びます。したがって、案内板の設置は12月初旬に終わらせなければなりません。この工程管理が最も難しいところです。
 翌29日(金)には国・県・市の担当者とともに現地視察がおこなわれました。27日の初ゼミの際、こうした専門家のみなさんの視察にあわせてゼミ生も山に登り、立岩周辺の測量をおこなうことが急遽決まりました。
 29日は快晴でした。ASALABの4年5名は推定「旧閻魔堂跡地」を調査するため、先に東照宮を視察される先生たちとはべつに境内から山頂立岩をめざしました。これまで先輩たちが幾度となく活動した遺跡地ですが、現ゼミ生でこの地を訪れた者は一人もおらず、道に迷いやすい「奥の院」経由の旧道は回避し、境内から直接立岩に向かったのです。


閻魔堂資料_01web


明治45年絵図にみる地蔵堂と閻魔堂

 私は「摩尼寺閻魔堂」について卒論で取り組むことに決めています。摩尼寺閻魔堂は、以前ブログで示した通り、現在は山麓境内にありますが、古写真やヒアリングにより、昭和40年ころまで立岩横に存在していたと思われていました。因幡の民の霊魂は摩尼山を経由して往生すると古くから信じられており、その後閻魔の裁きを受けて、あの世に旅立つと考えられてきたのです。さらには市教委の調査(↑)により、立岩横の基壇規模と山腹境内の閻魔堂の規模はほぼ同寸であるが、平入が妻入に変化し、繋虹梁の形式も変わっていることなどが判明してきています。
 ところが、28日の委員会において、新たに発見された「喜見山摩尼寺之図」(明治45年)が紹介され、私たちが旧閻魔堂と認識していた山頂の建物が「地蔵堂」であった可能性が浮上してきています。この閻魔堂もしくは地蔵堂と推定される建物は、昭和18年(1943)の大地震で倒壊した後も山上で修復され、昭和40年(1965)ごろまで立岩の横に姿をとどめていたとされています。一方、山麓境内の閻魔堂は昭和45年(1970)の新築ながら、向拝などに幕末ごろの部材を残しており、それらの部材は山頂閻魔堂の転用材と推定されてきたのですが、明治45年(1912:山陰線全通により善光寺如来堂が建立された年)の境内図には、山麓境内に閻魔堂が描かれており、閻魔堂は昭和40年以前から、山上ではなく山腹境内に所在した可能性が高まったのです。
 一方、立岩周辺は「賽の河原」の別称があり、「賽の河原地蔵和讃」という一種の歌から知られるように、地蔵菩薩との係わりが深いと考えられるため、これまで「閻魔堂」と推定されてきた建物は「地蔵堂」の可能性を検討せざるをえなくなっています。


明治絵図02_013如来堂web
↑↓明治45年絵図 上:立岩周辺(地蔵堂?と賽河原) 下:山腹境内の閻魔堂
明治絵図02_012閻魔堂web



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大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅩⅩ)

0922宝塔厨子01 0922宝塔厨子02


宝塔厨子の調査再開

 9月22日(金)。大雲院御霊屋本尊の宝塔厨子の調査を再開しました。5月31日以来の活動になります。この日はちょうどお彼岸の時期で、有り難いことに、御霊屋の宝塔厨子・徳川家歴代将軍の位牌が全て開かれていました。この開かれている状態を見るのはASALABでは初めてのことらしく、皆感激していました。 
 今回の調査の目的は、側面図の作成と採寸そして宝塔厨子の年代を調べることです。側面図に関しては、ご住職に許可を得て厨子を見えやすいように仏壇から降ろしたことで前回よりも細かいところが見えやすく、また前回正面図を書いていたことで比較的スムーズに作業を進めることができました。そして採寸は調査に同行していただいた会長の指導の下、同じく調査に同行してくれた公爵だっしょが中心となって、厨子を傷つけぬよう慎重におこないました。


0922厨子側面 0922側面図01 宝塔厨子側面


 

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続・ハ地区の進撃(7)-第6次ブータン調査

0911ガキ家02 0911ガキ家01


マチェナ村ガキ家

 9月11日の昼食後、午前に調査したケザン家の遠い親戚にあたるマチェナ村のガキ家を調査しました。民宿のすぐ近くにあるので、今年もまたキンレイが案内してくれました。先生、ウキウキです。昨年調査したゾング家は民宿とガキ家の中間にあります。ガキ家は3階建(屋根裏も含めると4階建)で調査が大変だったそうですが、ガキ家は2階建なので少しは楽かもしれません。
 ガキ家はマチェナ村で最も古い民家と伝承されていますが、今でも数名の家族がこの家で生活しているため内部はとても綺麗でした。ガキ家ではケザン家でできなかった内部の平面図を中心に立面図・屋根伏図を採りました。
 オモヤは1階が家畜、2階が人の生活スペース、3階はニンニクや家畜用の草を干す作業場となっています。2階の平面はシンプルで台所タプツァン、控えの間ヨッカ、納戸プー、仏間チェスムと仏間前室チェスム・ヨッカからなります。納戸を除けば四間取りですね。


0911ガキ家1階01 0911ガキ家1階平面図1階平面


 今回の民家調査はとくに仏間の調査が重要な位置を占めます。仏教僧院本堂で禁止されている写真撮影や実測を民家仏間では自由におこなえます。これまで本堂に祀られている神仏の配置や名称をなんとか聞き出すのですが、写真が撮れないので、実体として理解するのに苦労してきました。民家仏間では、まずポラロイドで像や仏画の写真を撮影し、それに黒マジックで名称をしっかり書き込んでから一眼レフ等による撮影をおこなうので、神仏の画像と名称が一対一で認識しやすくなります。
 住居空間の概念を知る手がかりとして、ゾンカ語の「ヨッカ」はとても重要な言葉です。ヨッカは「左(手)」を意味します。世界各地の民族で確認されているとおり、「右(手)」は「左(手)」に優越する概念です。前者が優位、後者が劣位に値し、そのことで左は右を補佐する脇役的な位置づけがなされるのです。


0911カマド01 0911ガキ家2階平面 2階平面


 ブータン民家の場合、入口に近い2室のうち中心的位置を占めるのが台所兼食堂のタプツァン、その控えの間(つまり脇役のスペース)をヨッカと呼びます。ヨッカは日本的にとらえるならば、居間あるいは茶の間でしょう。奥側の2室は仏間チェスムですが、仏壇や仏画をおく礼拝室はチェスム・ツァンコ(重要な仏間)、その前室(居間の奥)はチェスム・ヨッカと呼びます。チェスム・ヨッカは「仏間の控え室」です。ふだんは寝室にだって使えますが、法要プージャのさいにはチェスム・ツァンコで僧侶が祈祷し、チェスム・ヨッカで家人がお祈りするのです。
 学生が平面図・立面図の作成に苦戦する間、先生は仏間(礼拝室)に祀られている全ての神仏の像とタンカ(仏画)をポラロイドと一眼レフで撮影され、ゾンカ語の名称を書き込まれていきました。そのすべては書き切れませんが、最奥の仏龕には右からバイロチャナ神、ツェバメ(阿弥陀)、グルリンポチェの像を祀っています。これら3像以外はタンカもしくは写真でした。こうした資料は、繰り返しますが、僧院本堂に祀られる諸仏の理解におおいに役立ちます。夕方の資料整理では、ガイドのウタムさんをまじえて、神仏像と仏画について勉強会を行い、そのすべてを録音しました。


0911ガキ家仏間01 0911ガキ家仏間02
↑チェスム・ヨッカからチェスム・ツァンコをみる
0911ガキ家仏間02 0911仏間05
↑↓最奥の仏龕と仏壇 左からグルリンポチェ・ツェバメ(阿弥陀)・バイロジャナ神



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続・ハ地区の進撃(6)-第6次ブータン調査

0911ケザン家03 0911ケザン家04 


チュンパ村ケザン家

 9月11日(月))。午前は前日に調査許可をいただいたチュンパ村ケザン家の調査に着手しました。この家のご主人はもともと遊牧をしていてチベットあたりまで行き来していたそうですが、のちに軍人となった方です。「敬礼」がいつもの挨拶になっています。現在、84歳。調査したお宅はとても古いのですが、すでに半ば廃墟化していて荒れ放題でした。とくに仏間は天井が床に崩れ落ちています。夜は別の場所に建てられた息子さん夫婦の新しい住宅で就寝します。朝になるとここに来てお祈りをし、夕方まで管理のため滞在します。建築年代は不詳ですが、ご主人の祖父の代からあったそうなので、1900年代前半まで遡るかもしれません。また、先代(第4代)国王も来られたことがあるらしく、由緒正しい古民家と言えるでしょう。


0911石垣 0911ケザン家1階(右)家畜
        

 ケザン家のオモヤは楼閣(ウチ)形式の2階建で、1階に家畜小屋を配しています。家畜小屋に面して石垣で囲まれた中庭があり、ゾン(城)を小型化したような平面配置をしています。自分の家の石垣は自分で作るしきたりになっています。また、低い石垣上に薪を積み重ねることで塀を高くしている家もありますが、この薪が冬に燃料として使われると垣根はまた低くなります。すでに述べたように、オモヤの腐朽と破損がひどく、人が住む2階平面などの調査は断念しました。調査は3階にあたる屋根裏でおこないました。時間の関係で、作業は小屋組断面図の作成と版築壁の壁土採取(C14年代測定サンプル)のみです。

                          
0911ケザン家仏間 0911ケザン家2階 
↑↓崩壊した2階仏間 (下)3階から見下ろした状態
0911ケザン家崩壊部分


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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