愛媛県の新谷(にや)森ノ前遺跡で弥生後期の建築部材が大量にでているという報せに接し、招聘された教授にくっついて遺跡を視察してきました。私はいま鳥取市の松原田中遺跡の布掘地中梁の分析と復元研究を主題に卒論を書いています。とうぜん青谷上寺地遺跡などの報告書を読んでいるのですが、じっさいに建築部材が出土している状況をみたことはありません。だから、私がいちばんニヤニヤしていたと思います。
まず事務所に行って遺跡の説明をしていただいた後、早速現場に向かいました。
現地に行くと、溝状遺構の下の方から上の方まで木材が折り重なっています。わたしにわは一体なんなのか、さっぱりわかりませんでしたが、先生は即座に「高床倉庫の部材がまとめて溝に投棄されたもの」という鑑定をくだされました。いちばんの決め手となったのは柱材です。先端に長ホゾ(栓穴付)、中間の位置に貫穴を備えています。前者は桁をうける仕口、後者は床を支える大引を通す仕口のようで、両者の内法寸法は91㎝でした。これが床上部分の高さになるわけで、当然のことながら、人が行動できるスペースはありません。小さな(おそらく1間×1間)の高床倉庫が想定されるのです。
現地の技師さんたちは焼けた痕跡があることなどから、竪穴住居の部材と考えておられるようでした。しかし、先生によると、柱材に2段にわたって仕口があるのは高床建築の証拠だとおっしゃいます。ちなみに、遺跡では高床倉庫跡がまだみつかってないそうです。ただし、
1)竪穴住居跡の壁が10㎝そこそこしか残っていな点からみて、小規模掘立柱建物の掘形は
整地で飛ばされた可能性がある。
2)溝の岸辺に2つの柱穴が残っており(芯々距離3.6m)、溝の内側に柱穴が2つあれば、
半分が水上にたつ高床倉庫になる。竪穴住居から離れて、水際に高床倉庫を建てる民俗例
はあるそうです。
柱材のほかでは、板状の材が数多く出土していました。その厚さによって、床・天井・壁に使い分けれていた可能性があるようです。長い板状の材は貫だとのことです。さらに、梁か桁のような材、
皮つきの垂木、木舞や破風板(原型)なども含まれていることが分かりました。
青谷上寺地と比較すると、青谷のほうがかなり精巧な仕事をしています。いちばんの差は垂木ですね。青谷では上下端や中間部に見事な繰形や仕口を施していますが、
こちらの遺跡の垂木は「黒木」ですから。
しかし、それは「地方色」というべきものかもしれません。たとえば、妻壁板(推定)は青谷のような台形状ではなく、階段状になっていました。また、多くの部材をみましたが、青谷や松原田中に多用される「わなぎこみ」仕口はまったくなく、桂見っぽい長ホゾ式が接合のベースになっているようでした。
←柱頭栓孔付長ホゾ
←皮付垂木(黒木)上にのる木舞
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