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前期開始延期にあたって

 一昨日(3月29日)まで、本学は学年暦どおり4月1日からガイダンス、7日から授業を開始する予定でしたが、昨日(30日)夕刻、総務課より全教員に対し4月20日まで前期開校延期する旨、通知がありました。その後、全ゼミ生に対して以下のメッセージを送信しましたので掲載しておきます(公開にあたって一部改訂しています)。

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ゼミ生のみなさん

 昨日(30日)、授業開始が4月20日以降に延期されることが決定されました。大学から正式な通知があるはずですが、君たちの指導教員として、注意事項とお願いを記しておきます。

 1)この開校延期措置は、いうまでもなく新型コロナ蔓延の予防としておこなわれるものです。一昨日まで、4月1日からのガイダンスが予定されていましたが、他大学が2週間から1ヶ月の延期を決めるなかで本学が学年暦通りの運営をおこなうこと、私自身おおいに違和感がありました。とりわけオリンピック延期決定後、首都圏を中心に感染者が急増しています。その原因の一つに、新型感染症を軽視する若者の意識と行動があると報じられています。
 2)とくに本学の決定を揺るがしたのは、京都の大学でクラスターが発生したことであろうと推察しています。その大学の卒業生複数名が大学の指示を無視してヨーロッパ旅行し、旅先で感染し帰国して後、飲食会などに参加して感染をひろげ顰蹙を買っています。しかし、これは氷山の一角にすぎないでしょう。本学の卒業生(旧4年生)も韓国、ハワイ、ベトナムなど各地に旅行している者がいて、キャリアがいないとは限らないと思われていましたが、新2~4年生も国内外に移動した者は少なくなく、毎年恒例のオーストラリア語学留学もおこなわれたようです。
 3)すなわち、感染症を拡散させる媒体として、いま大学生などの若者がかなり危険視されているところであり、このまま何の対策を講じないまま授業を始めると、講義室などからクラスターが発生し、大学封鎖を招きかねないと危惧されています。今回の開校延期は君たちに「自粛」を要請するものであり、一種の水際作戦だと考えてください。海外からの帰国者は2週間(潜伏期間)の隔離を義務づけられますが、大学に出校するものは、基本的に2週間(潜伏期間)の自宅待機を義務づけられるということです。
 4)このメールを遠隔地の実家で受信する学生もいるかもしれません。しかし、まずは予定どおり鳥取に移動してきてください。その後は、下宿での活動が原則となります。不要不急の外出は控えてください。居酒屋や友人宅での飲食会、カラオケ、花見など感染が発生する危険性のある行為は避けてください。バイトについては、やめろとまでは言えません。しかし、感染のリスクがある、と判断した場合は、自分でどのように対処すべきかよく考えてください。
 5)在宅待機期間、大学は全学生に対して学習課題を出すことになっています。3年以上のゼミ生については、もちろん私が課題を出します。単位とも係るので、しっかり対応して、締切日までにレポートを提出してください。

 基本的に君たちとの通信連絡はメールもしくは電話ということになります。質問等あれば、メールか電話で何でも聞いてください。
 君たちの健康を祈っています。

平城サイトスの勲章

  二日前にロバート・デニーロ&アル・パチーノの傑作『ヒート』(1995)のフルバージョンをBSでやっていましたね。外出自粛の日々、録画して何度も見直しました。寅さんをのぞけば、この映画がいちばん好きかもしれません。敵はヴァンサントとウェイングローだ。こういう輩はどこにだっている。共同通信3/27(金) 18:55配信のネットニュースを転載します(一部改訂)。

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 学校法人「森友学園」の国有地売却問題を担当し2018年3月に自殺した財務省近畿財務局職員赤木俊夫さん=当時(54)=の妻は27日、第三者委員会による調査の実施を求め、ヴァンサントやウェイングローを宛先とする電子署名運動を始めた。妻はこれまで自筆メモなどを公表し、調査を要望し続けてきたが、ヴァンサントやウェイングローは拒否する意向を示している。電子署名サイトで妻は「夫がなぜ自死に追い込まれたのか。弁護士、大学教授、精神科産業医らによる第三者委を立ち上げ、公正中立な調査を実施してください!」と要望。

 URLは http://chng.it/yBNFhJG97G

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 平城サイトス時代、平城ナショナル・グラウンドで、近畿財務局サッカー部と試合をしました。公務員対公務員の草サッカーです。引き分けだったかな・・・結果はよく覚えていません。上のサイトをクリックすると、署名と募金ができます。人生ときに、必殺仕事人とかゴルゴ13とかニール一味に依頼をしたい、と思うことがありますね。なけなしの小遣い銭で募金をしました。仕置料の足しになれば、と。





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学位授与

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分岐点の一日

 3月20日(金)、卒業式は中止でしたが、略式の学位授与の会が100講義室でおこなわれました。もちろん学生の個体間距離は相当離れています。しかし、事前のヒアリングでは、講義室に入りたくないという学生もいて、その旨、学務課等には伝えました。わたし自身、略式にせよ、大勢の学生を大講義室に集めることを不安視していました。個人的なイメージは、青空の下、大学の前庭で写真撮影の時間を半時間与え、あとはゼミ室単位で学位授与をすればいい。雨天なら青空の会も中止。
 3月初旬から、鳥取は「ぬるい」という印象を拭えないでいました。ジムではスパーリング大会をやるというし、卒業式は略式ながら大講義室で催行、新年度ガイダンスに至っては学年暦どおりの決行だというので、本音を申し上げると、呆れてモノが言えない!! 毎日朝から晩までコロナ関係のニュースが流れ、ネット上にも世界の感染情報が溢れている。いくら感染者ゼロの鳥取県とはいえ、あまりに楽観的な見通しではないか、と奈良の自宅で嘆いてばかりです。
 とりわけ20日という一日はターニングポイントでした。オリンピックの延期が確定したことで、政治家たちの気が緩み、感染のピークは過ぎた、と言わんばかりに、小中高校の再開が宣言され、三連休は家を出て行楽地で遊ぶ人たちが一気に増加した。その一方で、大阪府の吉村知事だけは危機意識をもち、三連休での大阪-兵庫の移動を自制する呼びかけをしたのです。結果から述べるならば、若い吉村知事の判断が正しく、この連休明けから首都圏では感染者の数が急増してしまった。というか、連休前まで首都圏の感染者数が異常に少なかったのは、オリンピック延期を成立させるための粉飾・偽装であったろうと国民の多くはすでに察知しています。


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方形段台型仏塔の旅

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 かくして「ゼミ合宿」形式の集団行動を回避した私たちは旅程を別個の2群にわけざるをえなくなった。3月17~18日、院生が奈良、わたしが18~19日、堺と岡山を訪ねた。年代の古い順から奈良時代の立体マンダラの旅をお伝えします。

熊山遺跡

 岡山県赤磐市の熊山(508メートル)の山頂付近にある仏塔遺跡(国史跡)。写真にみるように、石積みのテラスを3段に積み上げた遺跡であり、少し前まで「熊山戒壇」の異名で知られていた。しかし、2段目の四周中央に仏龕があり、南北朝ころまで付近に「霊山寺」という寺院があったことなどから、いまは戒壇説は否定され、三重塔の遺跡と考えられている。基壇中央には竪穴石室があり、舎利容器を収めていたらしい。ただし、先史時代より信仰されていた磐座を下層として、上層に流紋岩の石を戒壇状に積み上げたものであり、摩尼山鷲ヶ峰の立岩と同じく、巨岩崇拝から仏界への変容がなされたとみなすべきであろう。案内板によれば、築成年代は奈良時代前期と推定されている。また、山全体に30ヶ所以上の石積みの遺構が確認されている。


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 あとで紹介する土塔や頭塔とは異なり、瓦葺きの痕跡はまったくない。「方形段台」という言葉ぴったりのモニュメントであり、あえて比較するならば、モンゴルのオボーやチベットのリンボンに似た匂いがする。朝鮮渡来系あるいはアルタイ系とでもいうべきか。全国的にみても、ここまで立体的に当初の姿をとどめる遺跡は例外的に少なく、ちょっとした穴場だと思った。


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↑左2枚:熊山遺跡 右1枚と↑下:土塔
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大野寺土塔

 『行基年譜』によれば、神亀4年(727)、行基は大野寺を創建し、同時に土塔も築いたという。大野寺は行基建立四十九院の一に数えられ、現在も法灯を絶やしていないが、中世の一時期中断しており、江戸時代になって土塔の前に再興された。ただし、当初の伽藍位置はわかっていない。わたし個人はもう少し離れた位置に境内があったであろうと勝手に思っている。『行基年譜』は鎌倉時代成立なので、神亀4年(727)という造営年代については信頼性が高いとはいえない。ただし、発掘調査では、文字瓦が多数出土し、神亀4年の銘を有するものを含むので、反体制的活動をしていた若かりし行基の造営である蓋然性は高いと思われる。


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 土塔の遺跡で注目すべきは、1)12段のテラスが検出され、2)壁の立ち上がりは短くて仏龕は皆無、3)瓦は地面に直葺き、壁面も瓦積み、4)最上層で円形平面の粘土ブロックの基礎が検出されている、ことなどである。以上から、奈良時代の姿が復元されているが、最上層に夢殿型の小堂をおいている点が目をひく。円形の基礎に対して、八角形の木造建造物を立ち上げているわけだが、遺構からみてむしろ伏鉢状の構造物とすべきであろうと私は思う。どうしても八角堂風にしたいなら、その基礎を不愛想な円形の土盛りにするのではなく、蓮華座か伏弁蓮華座にしてすれば仏教の華やかさが増すであろうに。下側方形段台の整備は半分をまるまる復元的に表現し、半分に芝生を張っている。これはなかなか良い感じ。いまは国史跡「土塔」を中心とする土塔公園として市民に活用されている。入場無料の公園という点も好感がもてる。


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「毘沙門天」展の宝塔

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コロナ禍と展示とゼミ活動

 2月15日(土)、奈良公園を訪れ、奈良国立博物館の特別展「毘沙門天-北方鎮護のカミ」展を患者とみた。二人で行くと無料になる。高速代やJR乗車券は半額だが、国立博物館は無料だと聞いて、日本もわるくないと思った。
 コロナはすでに奈良に及んでいた。中国が想像を超えた混沌に陥り、横浜のクルーズ船が第二の武漢になったと国内外から非難されていたころである。奈良では、観光バスの運転手が武漢のツアー客からウィルスを感染されており、感染者は県内でこの1名にすぎなかったが、奈良公園は閑散としている。それでもまだ東南アジアやら欧米の旅客は登大路を歩いていた。
 わたしたち二人は無事、奈良博で毘沙門天展をみて、おおいに感激し、立派な図録を購入することができた。週明けに図録を手土産にして研究室に戻り、院生に鼻高々で手渡し修士論文に反映させるよう指示した。本来、修論完成までに院生にも「毘沙門天」展をみせておかなければならなかったが、なにぶん発表会が18日に迫っていた。奈良博まで足を運ぶ余裕はない状態だったのである。3月になってから修論の副査を務める会長と院生の二人を奈良に招こうと出張の申請はしていた。しかしコロナ禍は日に日に深刻になり、まもなく国立博物館は一斉休館、大学側からも「ゼミ合宿」に類する活動を自粛するよう指示があった。
 ここにいうゼミ合宿とは、教員と学生が複合的に出張したり集合したりすることだそうで、たとえば奈良に院生と私(主査)と会長(副査)が集まることも「ゼミ合宿」に相当する。そういう出張を控えるよう伝達があったのだ。時期が時期だけに仕方ないとは思う。結果、いったん3月後半まで様子をみることになったのだが、博物館の休館は延長され、不要不急の出張回避という指示に変化はなかった。ただし、学生や教員が別々に単独行動するのはよい、ということで、その結果は次報でお知らせする。


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毘沙門天の宝塔

 結果として、「毘沙門天」展をみたのは私だけである。二人にはわるいが、法隆寺金堂多聞天像(7世紀)をのぞく重要な毘沙門天(多聞天)像のほとんどを目の当たりにできたのだから、幸運だったというほかない。素晴らしい展示であった。もちろん展示室内の写真撮影は禁止されている。ただし、1階ロビーの内外に設置された看板類は撮影を許された。わたしたちのターゲットは毘沙門天像そのものではなく、毘沙門天が掌にのせる小さな宝塔である。この宝塔の、密教伝来前後の変化を読み取りたいわけだが、じつは宝塔だけ失われて新品に代わっているものも珍しくない(↑左の写真=道成寺)。その場合、仏像と宝塔の色調・材質感ははっきり異なってみえる。以下の3作も非常に有名な毘沙門天像だが、宝塔は新しいように思われる。


0215奈良博毘沙門天01看板02LA宝塔02web 奈良国立博物館だより_004LA01
ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵の毘沙門天立像。連弁座の上に膨らみのある壁をたちあげ宝形屋根で覆う金色の宝塔(舎利容器)。


0215奈良博毘沙門天01看板06東寺宝塔02web 毘沙門天展パンフレット_002東寺01
東寺の兜跋毘沙門天立像。中唐~晩唐期の作品とされるが、鎧などからみて西域系。毘沙門天の掌に宝塔がのるようになったのは南北朝以前のホータン国あたりかららしい。つまりこの立像が原型に近い?


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愛媛如法寺毘沙門天立像(8世紀)。奈良時代唯一の毘沙門天像だが、元の宝塔は欠失、明らかに新しい。


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中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究(2)

修士発表会14


2.密教とストゥーパおよび立体マンダラ

 後期密教とチベット仏教  8世紀後半、吐蕃王朝の時代に北インドの僧パドマサンバヴァ(中国名「蓮華生大師」)がチベット・ブータン地域に後期密教を伝道する。パドマサンバヴァは土着の宗教であるボン教系の「魔女」「悪霊」を調伏し、仏教側の護法尊として取り込みながら、後期密教を巧みに変容させ、チベット仏教の基礎を築いた。771年には「立体マンダラ」式伽藍のサムイェー寺を創建する。この最初期の宗派をニンマ派(古派=紅教)と呼ぶ。「立体マンダラ」の寺院が存在したわけだから、当然マンダラもチベットに伝わっていたはずである。すでに述べたように、チベット仏教のストゥーパは舎利塔ではなく、宝塔の部類に属する。


修士発表会15


 西蔵ギャンツェ地区白居寺大菩提塔は、マンダラを立体化したストゥーパである。15世紀の建築だが、こうした大塔の内側に古い遺構が隠されている可能性は十分ある。この種の立体マンダラというべき大型のストゥーパは、東南アジアの上座部仏教でもみうけられる。下はインドネシア、ジャワ島の世界遺産ボロブドールである。造営は8世紀後半とされるので、日本なら奈良時代後期にあたる。密教が東南アジアまで及んでいた可能性を暗示させる。


修士発表会16


 ブータンのストゥーパ   こうしたストゥーパ・宝塔・立体マンダラの問題を深く理解するため、チベット仏教ストゥーパのデータベース85枚を作成した。ここでは実際に研究室で調査したストゥーパをいくつか紹介する。ブータンの場合、ストゥーパは、山野の聖域に独立して建設されることも少なくない。たとえば、ティンプー川とパロ川の合流地点には、ネパール式・チベット式・ブータン式の三塔が並列されている。ブータンには、ネパール人やチベット人もたくさん住んでいるので、多様なストゥーパが見られるのである。プナカからポプジカに至る途中のラワラ峠には、大基壇上に9基のストゥーパをたちあげるストゥーパがある。金剛宝座塔風にみえる。川の合流点や峠は天地の境界であり、ストゥーパによってその境域の悪霊を浄化するのである。


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 仏教寺院に付属するストゥーパの場合、正門あるいは本堂の正面からかなり離れた位置にストゥーパを配置する。昨年(2019)夏に調査したポプジカ谷の寺院では、両者の距離を測ってみた。まず、ブータン唯一のボン教寺院で7世紀に遡る縁起をもつクブン寺の場合、正門から約150m離れた位置にストゥーパが1棟建っている。ガンテ寺はポプジカ最大の寺院である。南門から約440m離れた参道の行き止まりの位置に壁式ストーパを建てている。


修士発表会21


 四川・青海高原のストゥーパ  チベットに近い四川高原色達のラルンガン大僧院は高地4,000mの地に四千人の修学僧を抱えるニンマ派最大の寺院である。山上の伽藍から数km離れた山下門前の方形区画のなかに大型のストゥーパを規則的に群集させている。 「青海第一の塔」として知られるのゴマル寺では、伽藍正面からかなり離れた位置に立体マンダラ型のストゥーパを設けている。ストゥーパと伽藍との間には、すでに集落が形成されている。同じく青海省同仁県のセンゲマンゴ寺境内の回廊の外側にも、やや小ぶりの立体マンダラがあり、回廊に平行させて小型の白いストゥーパを数多く並べている。このストゥーパ群全体で伽藍を浄化し、守護している。

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中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究(1)

修士論文発表会01 0218大学院発表会


 2月18日(火)、修士学位論文の発表会が開催されました(↑右)。発表準備のため、教授には前日深夜までお付き合いいただきました。この場をお借りて御礼を申し上げます。私の修士論文の題目は、以下のとおりです。

中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究
-構造と配置に関する基礎的考察- 
Comparative study on the stupas of the Middle esoteric Buddhism and Tibetan Buddhism
-Basic consideration about their structure and placement -
                                   OKAZAKI Kohei


1.研究の目的と概要

 密教の拡散  密教はバラモン教およびヒンドゥ教の盛衰と不可分の関係をもって成立した。インド土着のバラモン教は仏教に気圧されて衰退するが、民間信仰等を取り込みながらヒンドゥ教へ変容していく。ヒンドゥ教はグプタ王朝の庇護もあり、4~5世紀ころから仏教を凌ぐ勢いをもつようになる。仏教側もヒンドゥ教に対抗すべく、バラモン教の呪術的要素を取り入れて密教に脱皮し、初期・中期・後期の三段階に変化しつつ周辺諸国に波及していった。


修士論文発表会02


 空海が日本にもたらした密教(真言宗)は体系化された経典・教義を有する中国経由の中期密教(純密)であるのに対して、私たちが近年調査研究を進めているチベット・ブータン仏教は後期密教の変容形と理解される。後期密教は8世紀以降、ヒンドゥ教のシャクティ(女性の性的な力)の影響をうけるとともに、『大日経』が衰退して『金剛頂経』系の教義に偏向することもあり、日本の中期密教とは関係が薄いと考えられてきた。しかしながら、中国の中期密教は7世紀に導入され、8世紀に成熟する一方、チベットでは7世紀に仏教が胎動し始め、8世紀後半になって後期密教が根づいてゆく。つまり、中国とチベットはほぼ同時期に密教が隆盛しており、遅くとも8世紀後半には密教のシンボルたる宝塔やマンダラが両地に伝わっていたであろう。本稿は日本の中期密教に特有な宝塔/多宝塔系の遺構をチベット仏教遺産と比較しつつ、真言密教伝来以前の状況にも考察をめぐらせようとするものである。


修士論文発表会03 


 宝塔/多宝塔の建築史的定義  宝塔/多宝塔は平安初期以降、空海の密教招来とともに日本もたらされたというのが日本史の常識である。建築史学の定義では、方形の基壇上に伏鉢状の塔身を立ち上げた一重の塔を「宝塔」、宝塔に裳階(もこし)をつけた外観二重の塔を「多宝塔」と呼び分ける(「裳階」とは壁面につける庇)。裳階があることで外観は二階建にみえるが、内部は平屋の宝塔と同じになっている。宝塔建造物の遺構はわずか3例しかなく、いずれも近世以降のものばかりである。多宝塔のほうは、空海開山の高野山金剛峯寺の根本大塔が最初の建造物だが、たびかさなる大火のため、現在の塔は昭和9年の再建のコンクリート造となっている。現存する最古の多宝塔は、鎌倉初期(1194)に遡る滋賀の石山寺多宝塔である。
 宝塔/多宝塔の仏教的原義  宝塔の仏教的原義は建築史学の定義とまったく異なる。『法華経』見宝塔品によれば、人々が法華経の教えを広めようとしたとき、無限の規模を有する七宝飾りの美しい塔が地中から涌きだし空中に浮かんだ。そして宝塔の中から、釈迦の説法する法華経を真実として讃える多宝如来の大音声が響きわたる。多宝如来は、遠い過去の東方彼方にあった宝浄国の仏であり、自分の滅後、『法華経』を説くところがあるならば宝塔とともに現れて『法華経』の真実を証明し、宝塔により娑婆世界を浄化する尊格である。多宝如来を自らの座を半分あけて釈迦に座りなさいと招くと、釈迦はその半座に坐り、多宝如来と併座するようになった。この逸話に従う場合、宝塔とは塔の美称であり、多宝塔は多宝如来を奉る塔であって、宝塔と区別されていないことが分かる。


修士論文発表会04



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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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