陳従周先生生誕百周年(4)
上海郊外住宅の橋庁
9月14日から本格的な活動が始まった。報告書『上海農村伝統住宅調査』の著者、朱保良講師(当時)のご指導により、上海市内の赤峰路・邯鄲路・朱家巷、上海県の梅隴公社・杜行公社・陳行公社などで伝統的な民家を視察したのである。とくに印象に残ったのは「両目竈」と呼ばれる伝統的なカマド(図01)と屋根付きの橋「橋庁」である。カマドは引き続き浙江・江蘇の調査でも重要な調査対象となり、1987年に二編の論文として発表した。今でも大学の講義「地域生活文化論」の一コマを割いて学生に講義している。
上海県で見学した「橋庁」は中国において屋根付き橋をみる初めての体験になった。後に貴州省の黔東南ミャオ族トン族自治州で「風雨橋」と呼ばれる長大な屋根付き橋に度肝を抜かれることになるが、上海県の場合、貴州のように村の入口にあるのではなく、大型住宅を貫くようにして流れる水路の上に架かる小ぶりの屋根付き橋であった。それは水路を跨ぐ「廊」でもあり、人の集まる「庁」でもあるのだが、「庁」というにはやや素朴であり、むしろ「亭」のような休憩施設と言える。
日本の場合、屋根付きの橋は数少ない。一般的には庭園の中に設けられる。最もよく知られているのは修学院離宮(京都)の千歳橋である。それは中島と万松塢をつなぐ「廊」であるが、池上に浮く「亭」としての趣きをつよく誇示している。中世禅宗庭園の礎となった夢窓疎石開山の虎渓山永保寺(岐阜)では、本堂正面の土岐川に呉橋「無際橋」をかけ、その中央に檜皮葺き屋根の「亭」を置く。豊臣秀吉と正室を祀る高台寺(京都)の観月台も対岸から開山堂に至る橋の中央に「亭」を設けるが、前後の通路部分にも低い屋根をかけて「廊」に近い姿にみせる(図02)。その「廊」は開山堂からさらに山の斜面をのびて霊屋に通じている。これを「臥龍廊」という。
中国では蘇州庭園の代表格である拙政園の「小飛虹」が思い起こされる。ただし、文徴明の描く古絵図をみるとその小橋に屋根は架かっていない。明代には「橋庁」の類でなかったことが分かる。というわけで、いつの時代に庭の内部で屋根付き橋が出現したのかは判断しかねるものの、おそらく庭池上で営まれた「亭」的な屋根付き橋の応用として、住宅の外部でも水面上に屋根付きの橋が設けられるようになっていったのだろう。それはまず、福建省永春県の東関橋(図03)のように漢族の世界で登場し、後に貴州トン族などの南方少数民族に波及していくのだろうと推定している。
大和棟に似た山東の古民家
浙江省調査に先んじて、9月末に山東省の済南と曲阜を訪れた。済南では千仏山公園と柳埠古跡、曲阜では孔府・孔廟・周公廟・顔廟・魯国故城遺址などを見て回ったが、そうした名勝古跡以上に民家に興味をもった。その主屋は、日本の高塀づくりに近い外観をしている。木構造から独立する妻壁(山墻)は切妻造茅葺きの屋根面よりも高くせり上がり、日本のうだつ(卯立)に似た高塀となっていて、葺材は異なるが、奈良の大和棟民家と姿が似ている(図04)。その妻壁を済南では石積みとし、曲阜では版築としていた。こうした高塀づくりに似た民家は雲南省の滇池周辺や、広西チワン族自治区の雷州半島などでも後にみることになる。
9月14日から本格的な活動が始まった。報告書『上海農村伝統住宅調査』の著者、朱保良講師(当時)のご指導により、上海市内の赤峰路・邯鄲路・朱家巷、上海県の梅隴公社・杜行公社・陳行公社などで伝統的な民家を視察したのである。とくに印象に残ったのは「両目竈」と呼ばれる伝統的なカマド(図01)と屋根付きの橋「橋庁」である。カマドは引き続き浙江・江蘇の調査でも重要な調査対象となり、1987年に二編の論文として発表した。今でも大学の講義「地域生活文化論」の一コマを割いて学生に講義している。
上海県で見学した「橋庁」は中国において屋根付き橋をみる初めての体験になった。後に貴州省の黔東南ミャオ族トン族自治州で「風雨橋」と呼ばれる長大な屋根付き橋に度肝を抜かれることになるが、上海県の場合、貴州のように村の入口にあるのではなく、大型住宅を貫くようにして流れる水路の上に架かる小ぶりの屋根付き橋であった。それは水路を跨ぐ「廊」でもあり、人の集まる「庁」でもあるのだが、「庁」というにはやや素朴であり、むしろ「亭」のような休憩施設と言える。
日本の場合、屋根付きの橋は数少ない。一般的には庭園の中に設けられる。最もよく知られているのは修学院離宮(京都)の千歳橋である。それは中島と万松塢をつなぐ「廊」であるが、池上に浮く「亭」としての趣きをつよく誇示している。中世禅宗庭園の礎となった夢窓疎石開山の虎渓山永保寺(岐阜)では、本堂正面の土岐川に呉橋「無際橋」をかけ、その中央に檜皮葺き屋根の「亭」を置く。豊臣秀吉と正室を祀る高台寺(京都)の観月台も対岸から開山堂に至る橋の中央に「亭」を設けるが、前後の通路部分にも低い屋根をかけて「廊」に近い姿にみせる(図02)。その「廊」は開山堂からさらに山の斜面をのびて霊屋に通じている。これを「臥龍廊」という。
中国では蘇州庭園の代表格である拙政園の「小飛虹」が思い起こされる。ただし、文徴明の描く古絵図をみるとその小橋に屋根は架かっていない。明代には「橋庁」の類でなかったことが分かる。というわけで、いつの時代に庭の内部で屋根付き橋が出現したのかは判断しかねるものの、おそらく庭池上で営まれた「亭」的な屋根付き橋の応用として、住宅の外部でも水面上に屋根付きの橋が設けられるようになっていったのだろう。それはまず、福建省永春県の東関橋(図03)のように漢族の世界で登場し、後に貴州トン族などの南方少数民族に波及していくのだろうと推定している。
大和棟に似た山東の古民家
浙江省調査に先んじて、9月末に山東省の済南と曲阜を訪れた。済南では千仏山公園と柳埠古跡、曲阜では孔府・孔廟・周公廟・顔廟・魯国故城遺址などを見て回ったが、そうした名勝古跡以上に民家に興味をもった。その主屋は、日本の高塀づくりに近い外観をしている。木構造から独立する妻壁(山墻)は切妻造茅葺きの屋根面よりも高くせり上がり、日本のうだつ(卯立)に似た高塀となっていて、葺材は異なるが、奈良の大和棟民家と姿が似ている(図04)。その妻壁を済南では石積みとし、曲阜では版築としていた。こうした高塀づくりに似た民家は雲南省の滇池周辺や、広西チワン族自治区の雷州半島などでも後にみることになる。