訃報
JRで移動中、訃報が届いた。電波の繋がりにくい因美線の列車が駅に停まった瞬間の通話だった。
田中淡さんが亡くなった。江口一久、林謙作、田中文男、町田章と続いて、こんどは淡さんか。勘弁して欲しい・・・急ぎ情報を集めようとしたが、術もない。
いま出張先のホテルに居る。京大の教員からメールが入っていて、事の詳細を知った。
淡さんは11月18日(日)午前2時49分に多発性骨髄腫にて急逝され(享年66歳)、23日に近親者のみで葬儀を執り行われたという。香典・供花等は固辞されている。
田中淡という研究者は、中国建築史・庭園史の分野において突出した存在である。中国人以外で、ここまでのレベルに達した人はいない。だれも追いつけない。日本建築史の分野を含めても、これだけの高みにいる同世代(50~60代)の研究者を私は知らない。
真面目で内気だが、おもしろい人で、非常勤研究員を務めた奈文研の歴代所長にいたく可愛がられていた。その所長たちは、町田さんをのぞいていまだご健在である。あまりに早い旅立ちだった。ただ、今に至る予感はだれしももっていた。あの勉強の仕方と酒の飲み方は寿命を縮める、とまわりにいる者はみな感じていたはずだ。短い時間を使って、人の何倍もの業績を仕上げられる。要するに、眠っていないということだ。徹夜して学び、神経が覚醒するから大酒を飲む。その反復で、50の坂を越えてから、昼間でも田中さんは酒臭かった。酒が切れると、手に震えがくる。こういうところは高田渡に似ている。喫煙の量も尋常ではない。風邪をひいても煙草はやめない。若い頃から何度も病院に運びこまれている。
昨年の今頃、中国建築に係わった研究者の一人としてインタビューを受けたが、おそらく病に倒れた田中さんのピンチヒッターなんだろうという自覚があった。あのころから「体調が良くない(ようだ)」という情報が五月雨式に飛び込んでくるようになった。晩年の高田渡のように、「今度こそ危ない」という予感がした。
お目にかからなくなってから十年以上過ぎているが、今年は一つの間接的な接点があった。8月に「『敦煌建築研究』の想い出」という記事をアップしている。田中さんを代表とする中国建築史研究会で瀟黙『敦煌建築建築研究』(文物出版社、1989)を輪読し、その最終バージョンに近い翻訳データをもっていたので、配布資料とあわせて仮製本する作業を指揮した。本来なら田中さんが指揮すべきところだが、体調の問題はだれしも知っていたので、私が動く以外にないと判断したのである。もちろんこの翻訳本は公刊していない。あくまで内部資料なので、部外者には絶対に配布できない。が、ひょっとしたら、この訳本は淡さんの遺稿の一つになるかもしれない。
日本における中国建築史研究は主軸を失った。だれも代役を務められない。日本の中国建築史研究はガタガタに崩壊していくかもしれない。言葉がない。
謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
田中淡さんが亡くなった。江口一久、林謙作、田中文男、町田章と続いて、こんどは淡さんか。勘弁して欲しい・・・急ぎ情報を集めようとしたが、術もない。
いま出張先のホテルに居る。京大の教員からメールが入っていて、事の詳細を知った。
淡さんは11月18日(日)午前2時49分に多発性骨髄腫にて急逝され(享年66歳)、23日に近親者のみで葬儀を執り行われたという。香典・供花等は固辞されている。
田中淡という研究者は、中国建築史・庭園史の分野において突出した存在である。中国人以外で、ここまでのレベルに達した人はいない。だれも追いつけない。日本建築史の分野を含めても、これだけの高みにいる同世代(50~60代)の研究者を私は知らない。
真面目で内気だが、おもしろい人で、非常勤研究員を務めた奈文研の歴代所長にいたく可愛がられていた。その所長たちは、町田さんをのぞいていまだご健在である。あまりに早い旅立ちだった。ただ、今に至る予感はだれしももっていた。あの勉強の仕方と酒の飲み方は寿命を縮める、とまわりにいる者はみな感じていたはずだ。短い時間を使って、人の何倍もの業績を仕上げられる。要するに、眠っていないということだ。徹夜して学び、神経が覚醒するから大酒を飲む。その反復で、50の坂を越えてから、昼間でも田中さんは酒臭かった。酒が切れると、手に震えがくる。こういうところは高田渡に似ている。喫煙の量も尋常ではない。風邪をひいても煙草はやめない。若い頃から何度も病院に運びこまれている。
昨年の今頃、中国建築に係わった研究者の一人としてインタビューを受けたが、おそらく病に倒れた田中さんのピンチヒッターなんだろうという自覚があった。あのころから「体調が良くない(ようだ)」という情報が五月雨式に飛び込んでくるようになった。晩年の高田渡のように、「今度こそ危ない」という予感がした。
お目にかからなくなってから十年以上過ぎているが、今年は一つの間接的な接点があった。8月に「『敦煌建築研究』の想い出」という記事をアップしている。田中さんを代表とする中国建築史研究会で瀟黙『敦煌建築建築研究』(文物出版社、1989)を輪読し、その最終バージョンに近い翻訳データをもっていたので、配布資料とあわせて仮製本する作業を指揮した。本来なら田中さんが指揮すべきところだが、体調の問題はだれしも知っていたので、私が動く以外にないと判断したのである。もちろんこの翻訳本は公刊していない。あくまで内部資料なので、部外者には絶対に配布できない。が、ひょっとしたら、この訳本は淡さんの遺稿の一つになるかもしれない。
日本における中国建築史研究は主軸を失った。だれも代役を務められない。日本の中国建築史研究はガタガタに崩壊していくかもしれない。言葉がない。
謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。