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名古屋

 25日、名古屋に出張。タクシーに乗って、運転手に声をかけた。

   「浅田真央さん、そろそろ帰ってきますね。地元は大変なんじゃないですか?」

 会話を始めるためのツカミのようなものだが、運転手のおじさんは素っ気なかった。

   「そうでもないですよ、メダル獲ったわけでもないしねぇ。」

 これには驚いて、少々反論。

   「えっ、あの演技は勝負とかメダルを超えていたでしょ?
    日本中みんな涙していたんですけどね・・・」

 夜になって、たしか「雅」という名の居酒屋に入った。私以外お客がいないので、女将に話しかけた。上と同じ質問をやはりツカミにしようとしたのだが、反応は運転手とさほど変わらない。どうなってるんだ、この町は??

 翌26日、読売新聞の朝刊を読むと、大村知事が浅田選手たちのパレードをやろうと計画しているという記事が掲載されていた。必要ないよね。いまはそっとしておいてあげるのがいちばんだ。ゆっくり休養してください。
 夕方、国際会議場からタクシーにのった。もう浅田選手の話は出さないことに決めた。ところが、饒舌な運転手で、いろいろ話しかけてくる。途中、助手席の窓の外を指さし、「ここだよ」とかれは言った。暴走車が13人をはねた現場で、まだ2名の警官がなにかしていたのである。あの事件が名古屋でおきたことを初めて知った。まもなく車内のワンセグが、日本選手団帰国の映像に切り替わった。

   「真央ちゃん、イッポンとりましたよ」

と運転手はにこやかに語る。森本主将の発言に対する浅田選手のコメントを教えられた。
 痛快!だね。素晴らしい。うまく答えるものです。

 オリンピックの後遺症で、体調がまたおかしくなっている。
 明日から宮崎に飛びます。


If I Could Only Remember My Name

 ニール・ヤングのアーカイヴズ(CD)が少しずつ出続けており、どうしても手が伸びてしまいます。以下の4枚をすでに購入しました。

  ① Sugar Mountain: Live at Canterbury House 1968
  ② Live at the Cellar Door(1970)
  ③ Dreamin Man Live 92
  ④ Live in Chicago 1992

 私とかカワモト元課長のような熱狂的支持者でない場合、この4枚を買う必要はありません。『マッセイホール』(1971)と『アンプラグド』(1993)の2枚があれば十分です。1枚限定となれば、もちろん前者を薦めます。
 ニールのアーカイブズを探していると、当然のことながら、CSN&Yのアルバムもひっかかるわけですが、やはり手が伸びる。以下の3枚を買いました。

  ⑤ Stephen Stills: Stephen Stills(1970)
  ⑥ David Crosby: If I Could Only Remember My Name(1971)
  ⑦ Crosby Nash & Young: San Francisco Broadcast(1972)

 レビューを読むと、とくに評価が高いのは⑥でした。クロスビーのソロ・デビューアルバム。ほんと、凄いね。12弦ギターを駆使した幻想的なアレンジ、複雑なハーモニーによるアカペラなどにクロスビーの真髄を聞くことができます。Wikipediaの記載を拝借すると、「フォーク・ジャズ・ドラッグカルチャーの影響の濃いサイケデリックな曲想」。というか、神聖な教会音楽を聴いているようです。このアルバムを買って損はない。




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県警来室

 日本全土が暗黒に包まれていた20日の午後、一人の訪問者が研究室にあらわれた。手には「大江の郷自然牧場」の赤茶けた土産袋を下げている。
 眼光するどく(なくなったねぇ・・)、こちらを視るその男は、県警の竹蔵~じゃなくて、やっさんでありました。ほんと、眼光穏やかになりましたね。社会に出ると、みんな成長するもんだ。じつは、今から一年ばかり前、産業道路の「すき家」でばったり出くわしたんです。やっさんは、郡家管区の里山にある駐在所に勤務しており、まわりに食堂や喫茶店はまったくなくて、熊や鹿や猪に囲まれた生活を送っているという話を聞いたのでした。
 で、今回は何の御用ですか、問うてみると、「いや、あのとき先生、もう大学辞めるかな、とか仰ってたでしょ、だから・・・」とかれは言う。そう言えばそうだ。あのころ、研究室を襲った盗難事件に悩まされていて、すっかり大学がヤになっていた。正月早々、軽音楽の部室で8台のギターとベースが消え失せ、ASALABでも3台のデジカメとハードディスクが盗まれた。この盗難事件を隠蔽しようという圧力があり、理事長でもない男に理事長室に呼び出されましてね。「あんたも叩けば埃の出る身なんだから大人しくしといた方が身のためだ」に始まり、「盗難なんて些細なことだ」とか「加害者の母親は馬鹿だ」とか、一方的にしゃべりまくって、人の話を聞く耳もたず。この人物とは初対面でしたが、予め十分に警戒しており、発言はすべて録音しました。その後の攻防が佳境を迎えんとしていたころ、やっさんと偶然すき家であって、「もう辞めたい」とこぼしたんでしょうね。
 あのころの精神状態にくらべれば、いまは十分健全でして、定年まで頑張るべと心に誓う今日このごろなんですが、やっさんはわたしが鳥取から消える前に聞いておきたいことがあったようなのです。


0220やっさん

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カーリング決勝の夜

 20日はアマテラスが岩戸にお隠れになって、日本全土を暗黒世界が覆い尽くしておりました。流石の私も「フリーの演技は視ない」と周囲に漏らしてしまいましてね。だって、1日足らずでリカバリーできるほど傷は浅くはないよね。とても視ていられない・・・
 夕方、少し体を使って眠りに落ちた。目が覚めたら9時を過ぎている。まぁ、大学に戻って、〆切の近い【科研費】支払請求書の作成でもするか、と動き始めたところで、カーリングの決勝が始まった。予想が外れて、決勝はカナダ対スウェーデン。ジェニファ・ジョーンズの大会でしたね。39歳初出場のスキップですよ。
 カーリング決勝の裏では、すでにフィギュア女子のフリー演技が始まっていた。カナダの勝利を見終えたところで、村上佳菜子の登場まで半時間足らず。どうしても大学に行く気にならず、この夜2度目の「ヒノキ浴」に浸かった。この入浴剤は、ほんとに、神経を癒やしてくれる。ぬるま湯を堪能し、リビングに戻ると、村上の演技がまさに始まろうとしていた。村上は4大陸選手権の王者ですよ。しかし、特点はのびない。審判団は日本に厳しい、という印象。
 そして、まもなく、浅田真央がリンクに姿をあらわした。今夜は顔つきがちがう。乙女が般若の形相になっているではないか。息を呑む演技だ。凄かった。8トリプルを完璧にこなしてみせた。「今夜は視ない」と公言した自分が恥ずかしい。150点以上出るだろうと直感したんだが、現実は142点。回転不足2回と演技構成点が低い。ほんと、厳しいね。アウェイの風はついに吹きやまなかった。しかし、胸を打たれた。9年間応援してきた甲斐がありました。有り難う。
 最終滑走グループ、とくにリプニツカヤ以降のスコアは異常に高かった。ほぼ全員自己ベスト更新なんて、ありえますかね?? これ以上なにも言わないけれども、場所が変われば、立場も入れ替わるからね。3月の世界選手権は日本で開催される。
 葛西選手は、早くもスウェーデンで国際大会に出るそうだ。浅田さんも、少し休んでから気を取り直し、前人未踏の演技を、もう一度、さいたまスーパーアリーナでみせてください。
 

『雲州平田 木綿街道の町家と町並み』報告書、刊行!

平田報告書 裏

 『雲州平田 木綿街道の町家と町並み』(ASALAB報告書第26集)が、ついに刊行されました。2011年~2012年度に木綿街道振興会から委託された「出雲市平田木綿街道とその周辺エリアの伝統的建造物群に関する研究」、および2012年度に木綿街道振興会がいづも財団に申請した「雲州平田『木綿街道』の町家と町並み調査および調査報告書の刊行事業」の成果をまとめたものです。内容はタクオさんの修士論文(2013)と仲佐さんの卒業論文(2013)を複合させ、さらに先生が全体を調整し加筆して編集されたものです。私やケント君も調査補助で平田を訪れたことがあります。個人的にも町並みには興味があるので、しっかり読んで勉強していきたいと思います。(セツ)

 以下に図書情報と構成を掲載します(詳細な目次は「続き」をご参照ください)

  書 名: 雲州平田 木綿街道の町家と町並み
  編 集: 鳥取環境大学浅川研究室(担当:浅川・清水)
  発 行: 木綿会道振興会
  印刷所: 株式会社 矢谷印刷所
  発行日: 平成25年9月25日
  総頁数: 113ページ
  目 次: 
       序
      第Ⅰ部 「塗家造」の町家とその建築年代
      第Ⅱ部 木綿街道の町並みと出雲平野の築地松
      第Ⅲ部 伝統的建造物群と文化的景観
      おわりに-市町村合併に伴う文化財の地域課題を超えて


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カーリング礼賛

 嗚呼、我がカーリング、終わってしまいました。淋しいな・・・

 中国戦はアッパレ!の一言。最終予選からこのかた十数試合みてきましたが、こんな出来のよい小笠原さんを知りません。ミュアヘッドも真っ青!! 常呂が、好調の船山さんがおかしかった。いつもは船山さんが完璧なラストパスを出してアシストするのに、肝心のストライカーが空振りしたり、宇宙開発ばかり。常呂が、中国戦ではまともなパスが来ないから、自らドリブルで切り裂いてゴールネットを揺らしまくったもんね。メッシのようでしたよ。

 スウェーデンは、日本に塩を送ってくれてるように思えてならなかったんです。メンバーを入れ替えて、スキップをリードにまわし、代役でスキップに入ったリザーブが不安定でした。スキップがブラシもって氷を掻き、走り回るのはじめてみた(少し可哀想でした)。ストーンの微妙な位置にもお構いなし。メジャー(計測係)を呼ぶなんて無粋ですよね、上から視たら分かるもん。日本にあっさり2点くれた場面が印象的でした。
 残念ながら、小笠原さんはいつものスキップに戻ってました。あれでは勝てないな。4点差をつけられて、10エンドを戦ったのも残念。潔く一礼、握手して、幕を引くべきでした。
 しかししかし、カーリング日本女子代表はよくやったね。5位は予想外の大健闘です。ベスト4はまだ早い。でも、ほんと楽しかった。有り難う!!


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冬のミントティ

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 奈良の積雪もほぼ溶けました。
 白銀のなかにあって、玄関先のハーブが、ご覧のように、ふさふさと葉を茂らせています。例年にないことでしてね。鉢を置く場所を2メートルばかり移動させただけなんです。いつもは陽光が差し込むポーチのエッジに鉢を置いてました。陽は当たるけれども、雨・雪・風にさらされるから枯れてしまう。今年は壁側のコーナーに鉢を隠したの。おかげで、ミントティーを毎日楽しんでいます。

 さて、ところで、我がカーリング・・・カナダ戦で、ようやく選手を入れ替えましたね。しかし、わたしが提示した案1・案2・案3のどれでもなかった。苫米地さんが復帰したのは良かったんですが、小野寺さんは残った。監督はそれだけ小野寺さんに期待しているのでしょうが、残念ながらショットの成功率は50%を下回りました。得意なダブルテイクアウトの見せ場がない。緩いドローショットは苦手なようです。あとは、スキップだ。ジェニファー・ジョーンズ(加)、かっこよかったね。スキップとしてはミュアヘッド(英)の方が一枚上手かと思いましたが、両者あい譲らぬ実力者で、日本との差は計り知れない。8エンドのドロー失敗は言わずもがな、7エンドの戦術はまったく納得できませんでした。解説者と私の考えは一致していた。小笠原さんは、別の思考をしてます。この2つのエンドで間違いがなければ、予選1位のカナダに土をつけることもできたでしょうに・・・
 ミュアヘッドやジョーンズに近い実力の持ち主は船山さんですよね。好調の吉田さんも4年後にはこのレベルまで成長してほしいものです。そういうスキップが育たないことには五輪のメダルなんて夢のまた夢だ。


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摩尼寺のタイガーマスク

 昨日(15日)、会長のメールを受信し、添付された新聞記事をみて驚いた。摩尼寺の2つの賽銭箱に200万円の寄進があったというのだ。なんでも、50万円を4袋に分け、2袋ずつふたつの賽銭箱に放り込まれていたらしい。
 夕方、今度は帰省しているタクヲからメールが入った。

  (略)日本海新聞に摩尼寺関係の記事をみつけたので同記事のURLを下記します。

      http://www.nnn.co.jp/news/140215/20140215098.html

   研究には直接関わりないかもしれませんが、報告書や先生の講演会などが大きく
   影響しているのではないでしょうか。インターネット記事では全文閲覧できないので、
   ゼミ室に記事の切り抜きを置いておきます。よろしければご確認ください。

 2009年の秋、黒帯が摩尼寺「奥の院」遺跡を発見後、エアポート夫妻が翌年発掘調査し、2012年に環境整備を自主的に進め、ルートマップを作成した。一昨年から昨年(2013)にかけて、「環境大学公開講座(鳥取米子)」、「新老人の会」、鳥取市民大学講座「山寺を歩く」、「三徳山シンポジウム」、「山陰海岸ジオパークのマネジメント」フォーラム、「鳥取ロータリークラブ卓話」などで、摩尼寺での活動を報告し続けた。その影響であるのかないのかはまったく分からない。が、ロータリークラブの卓話が2月6日(木)、浄財寄進日が2月11日(建国記念日)であるという流れが若干気になっている。

 わたしは卓話の最後のほうでこう述べた。

   摩尼寺には檀家がいません。平安時代後期以降、因幡国のすべての民は死んだら
   霊魂がいったん摩尼山に滞留しあの世(極楽)に昇天していくと信じられてきました。
   とすれば、因幡国の民はみな摩尼寺の檀家でなければいけないはずです。ですから、
   信仰が盛んだった時代には参拝者が多く、寄進も多かった。ところが、信仰心が薄れる
   につれ、参拝客も寄進も少なくなっていったのです。


0215摩尼寺賽銭箱 ←日本海新聞2014年2月15日(クリックすると拡大します)

朱雀雪景

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 一日遅れですが、ハッピー・バレンタイン!
 私のバレンタインは朱雀の歯医者さんでした。治療終了。快適です。

 いや、驚きましたね。
 京都から奈良に引っ越してきて25年以上経ちますが、こんな積雪、記憶にありませんよ。猫も外にでない。窓やドアが開いた瞬間、庭への脱走を虎視眈々と狙っている猫がついに動かなかった。

 そうそう、羽生選手の金メダル、町田選手、高橋選手の入賞、おめでとうございます!


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 一方、我がカーリングは厳しい戦いを強いられていますね。アメリカ戦の先発入れ替えで時空がねじ曲がってしまった。日本代表の監督になる前のジーコがよく言ってたものです。「勝っているチームに触ってはいけない(メンバーを変えてはいけない)」。地元ロシアを倒した金星が水泡に帰し、英国(スコットランド)戦では、ミュアヘッドに好きなようにやられてしまいました。彼女は英国を世界一にしたスキップだからね。役者がちがう。


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歴まちを訪ねて(Ⅵ)

石見銀山資料館140208 大森自動販売機140208

待ちに待った春休みに突入しました。「よし遊ぶぞ!」と言いたいところですが、そうはいきません。就活です。就活は必ずしなければならないわけではないですが、就活をしないと進路がありません。食べていけません。だから全力で就活しています。

重要伝統的建造物群保存地区「大森」

 「歴まち」レポート第5弾はぼくの地元大田市の石見銀山大森の町並みです。就活で広島に行く途中に立ち寄りました。石見銀山遺跡は、島根県のほぼ真ん中に位置する大田市大森町を中心とし、旧温泉津町、旧仁摩町を含めた現大田市の広い範囲を含んでいます。そのエリアは「銀鉱山跡と鉱山町」「街道(石見銀山街道)」「港と港町」に三分されています。大航海時代の16世紀、世界で流通した銀のおよそ3分の1が日本産、さらにそのほとんどが石見銀山で産出されたものであったと言われます。
 自然を破壊せず、環境に配慮した「自然環境と共存した産業遺跡」であることが、世界遺産として評価された重要なポイントです。今回は「歴まち」のレポートなので、先生からは津和野か萩を指名されていたのですが、地元から少し遠いので、大森の町並みを報告します。駐車場に到着し石橋を渡って最初に目に入るのは、石見銀山資料館です。この建物は明治35年(1902年)に建てられた旧邇摩郡役所を活用したもので、資料館としての開館は1976年です。明治時代の近代建造物で、瓦は石州の銀黒瓦を使用しています。


熊谷家住宅140208 熊谷家看板140802


 しばらくすると、重要文化財の熊谷家住宅があります。熊谷家は代々の年寄役を務めた旧家です。現在の建物は大森大火のあとの文化年間(1804~1818年)に建設されたもので、入母屋瓦葺き2階建て、間口9間、奥行き8間の母屋。その背後の両側に建物が張り出している。母屋と蔵との間に門を構え、屋敷内には蔵4棟があります。
 あいにく内部は時間が合わず見ることができませんでしたが次回行った時はぜひ見てみたいです。
 その他にも、青山家、安倍家、金森家といった19世紀半ばの建造物や勝源寺や清水寺などのお寺もあり、見所が満載の町並みだと感じました。自動販売機の色を茶色にしたり山陰合同銀行の看板を目立たないようにしたりと町並みを守っていく住民の意識の高さが伺えました。
 地元が大田市の私にとってこの大森は特別な場所なので今後どうすれば、この町並みを守り続けていけるのかを考えていきたいと思います。


大森町並み140208 大森ポスト140208
 

ティンカーベルの交替

 カーリング女子が韓国に敗れた後のヤフコメはひどかった。セカンドの小野寺がインフルエンザで欠場し、五輪初出場組とスキップにミスが連続したのはたしかだが、たかが1回負けただけじゃないの? なんで韓国をそんなに意識するのかな。リーグ戦を戦う場合、韓国は他の9ヶ国のワン・ノブ・ゼムにすぎないはずなのに、韓国に負けたというだけで国賊扱いして、ブスだの、ババァだの、中部電力を出せ、マリリンをだせ、だからね。ネトウヨたちのコメントは目に余る。ヤフコメや2チャンネルだから許されるということはないわけで、サーバーはもっと規制を強化すべきだ。
 続くデンマーク戦、ロシア戦に連勝すると、こんどは賞賛の嵐で、中傷はいっさい影を潜めている。いま日本は2勝1敗の同率3位、韓国は1勝2敗の同率6位。だから、どうってことはないのね。日韓戦後、日本は下位ランクの国とあたり、韓国は上位国とあたった。それだけのことです。
 そもそも、オリンピックの予選を兼ねたアジア・パシフィック選手権では、中国を抑えて韓国が優勝し五輪出場権を得た。最終予選でも日本は中国に連敗(完敗)し2位ぎりぎりで最後の最後に五輪出場権を獲得したわけだから、本戦で上位を期待するほうがおかしい。現状で実力を比較すると、

   中国 ≒ 韓国 > 日本

という力関係にある。たとえ小野寺が出場していたとしても、初戦に勝てた保証はない。わたしは、ソチ五輪の競技種目のなかで、カーリングを最も楽しみにしていた。だから、複合ノーマルヒルを横目にロシア戦を凝視し続けたのだ。しかし、今でもメダルに手が届くとは思っていない。常呂や二戸の女性たちがオリンピックの晴れ舞台に立っていること自体が誇らしく、日本代表の公式戦を9回も観戦できるだけで幸せだと思っている。
 あと2勝してくれるといいのだが、中国に勝つのは容易ではないだろう(中国に勝った場合、決勝トーナメント進出の可能性が生まれる)。ともかく、韓国や中国に負けたからと言って、国賊扱いして代表チームを罵詈罵倒しないでいただきたい。


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ロータリー卓話(Ⅲ)

  「摩尼山を中核とする景勝地トライアングルの構想」 その3
     鳥取ロータリークラブ卓話 2014.02.06

 摩尼寺門前の活性化   多分50代以上のみなさんは摩尼寺門前の門脇茶屋、源平茶屋に通って精進料理を食べたことがあると思います。残念なことですが、今は参拝客は大きく数を減らしております。茶屋も以前ほどの賑わいをみせていません。
 これについてはいろいろ理由があると思いますが、まず信仰上の問題を指摘しなければなりません。摩尼寺には檀家がいません。平安時代後期以降、因幡国のすべての民は死んだら霊魂がいったん摩尼山に滞留しあの世(極楽)に昇天していくと信じられてきました。とすれば、因幡国の民はみな摩尼寺の檀家でなければいけないはずです。ですから、信仰が盛んだった時代には参拝者が多く、寄進も多かった。ところが、信仰心が薄れるにつれ、参拝客も寄進も少なくなっていったのです。
 次に交通アクセスの問題があります。鳥取市街地からも砂丘からも15~20分程度の便利な位置にあるにも拘わらず、摩尼寺にアクセスする公共交通がありません。自家用車を使うしかないのです。参拝だけなら自家用車で十分という見方もできるかもしれませんが、たとえば久松山から歩いてきて、門前に降りても帰るバスがない。
 あとは、精進料理の価格の問題です。私たちが子供のころは高級料理というよりも庶民料理だと思っていましたが、今は値段が上がり、高級割烹料理のイメージに近くなっています。一方、鳥取の市街地には3,000円も出せば居酒屋などで結構美味しいものが食べられるようになっています。ですから、交通の不便なところにある高級な精進料理にこだわる必要もないわけです。経営の手法を根本的に考えなおす時期が来ているのではないでしょうか。
 門前には空間的な課題もあります。茶屋のお座敷の大半は2階にあるのですが、道路に面する1階部分は駐車場になっています。道路の両側をマイクロバスを停める駐車場が囲んでいるわけで、訪問者の滞留できるスペースがありません。野外トイレもありません。訪問者はどのように動くのかというと、屋外の駐車場に自家用車をとめて摩尼寺に参拝し、参拝を終えると駐車場に戻っていく。動線が直線的なんですね。この動線をデコボコにしたい。いま駐車場がある茶屋1階に「道の駅」的な施設を設けて、訪問者が滞留できるようにしたいものです。難しい施設をイメージしないでください。屋内に自動販売機と休憩用のデーブルや椅子があればいいのです。トイレも設けたいですね。
 もうすこし充実した整備を考えてみましょう。登山客や参拝客が屋外駐車場で車を降りて、まずミニミュージアムに立ち寄ります。インフォーメーションのパネルをみたり、遺跡から出土した遺物をみたりして、簡単なパンフレットやルートマップの提供をうけます。それから、「道の駅」的施設では、精進弁当(後述)を買ったり、登山客の給水・給湯施設などを設けたりする。それから、「名物 摩尼蕎麦」(後述)の食堂も駐車場を改装して設置します。また、カフェとか田楽立ち食いスペースも設けます。


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ロータリー卓話(Ⅱ)

  「摩尼山を中核とする景勝地トライアングルの構想」 その2
     鳥取ロータリークラブ卓話 2014.02.06

 景勝地トライアングル  摩尼山は山陰海岸ジオパークに含まれています。山陰海岸ジオパークの課題の一つに、山陰海岸国立公園との差別化が明瞭でないことがあげられるでしょう。ジオパークの範囲はとてもひろく、山側の後背地を包含しているにも拘わらず、注目されるのは海岸線のスポットばかりです。「山のジオサイト」「山のジオパーク」という視点が欠落していると思うのですね。そこで、摩尼山をテーマにして「山のジオパーク」のあり方を考えてみようと思うに至りました。
 摩尼山の山頂には立岩という巨巌がありますが、福部町には立岩山坂谷神社があります。「立岩」という共通の呼称を有するばかりか、両者は指呼の間にあって、ともに山頂域に巨巌が露出しており、いずれも磐座(いわくら)であったのだろうと思っています。坂谷神社の巨巌は大変な迫力があって、その岩陰に小さな神社本殿を奉っていますが、この社殿は古いものではありません。坂谷神社で評価されているのは叢林です。西日本の原生林たる照葉樹林をよく保存しており、県の天然記念物に指定されています。鬱蒼とした照葉樹林がひろがっているのですが、学生たちはそこを「もののけの森」と呼んでいます。『もののけ姫』のシシガミの森を彷彿とさせるというのです。巨巌の露出する摩尼山や坂谷神社は「山のジオサイト」として位置づけることができ、両者は距離的にも近いので遊歩道でつなぐことができるでしょう。
これをもっとひろい視野でとらえると、「景勝地トライアングル」に展開していきます。ここにいうトライアングル(三角形)とは、久松山・樗谿・太閤ヶ平エリア、鳥取砂丘、立岩山坂谷神社をつなぐエリアをさしています(↓図参照)。摩尼山はこのトライアングルの真ん中にあって、トレッキング路の中継点になるのです。久松山・樗谿から摩尼山まで約2時間半、坂谷神社から摩尼山まで約2時間です。鳥取砂丘から摩尼山に至る遊歩道はまだないのですが、近い将来整備して欲しいと思っています。トレッキングをする場合に一番の休憩基地になるのが摩尼山、とくに摩尼寺の門前でしょう。また、摩尼寺「奥の院」遺跡は新しい観光スポットとして注目を集めるでしょう。「景勝地トライアングル」の中核域となる摩尼寺「奥の院」遺跡と摩尼寺門前の再活性化を図ろうと企んでいるわけです。
「景勝地トライアングル」に類するエリアはジオパーク内にいくつも存在するでしょう。そういうエリアを繋いでいくと、山陰海岸全域を繋ぐロングトレイルになります。これを私たちは「山陰海岸ジオトレイル」と呼んでいます。総長約250キロのトレッキング路ですが、世界的にみると突出したものではありません。世界7大トレイルのうち、たとえば、ネパールのアンナプルナ・サーキットを例にとると、マナスル周辺の山麓を150キロ歩きます。バックパッカーの聖地のようなトレイルですが、山陰海岸もうまく整備すれば、世界のバックパッカーを魅了するトレイルになるだろうと思って提案しております。


景勝地トライアングル圧縮


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ロータリー卓話(Ⅰ)

  「摩尼山を中核とする景勝地トライアングルの構想」 その1
     鳥取ロータリークラブ卓話 2014.02.06 

 摩尼山と摩尼寺縁起  河原町曳田に大国主命の側室だった八上姫を祀る神社があります。40年ばかり前までその近くに「八上姫」というブランドの造酒屋があり、私はその蔵元で生まれ、1年後に河原の町場に引っ越して18歳まで育ちました。そのころ、なにか目出度いことがあると、父親が家族全員を摩尼寺門前の門脇茶屋さんに連れて行き、精進料理を食べさせてくれたものです。摩尼山には、そういう懐かしい思い出があります。2009年にある学生が摩尼山の山頂近くで「奥の院」の遺跡を発見し、以来、摩尼山摩尼寺の調査と保全に係わる活動を続けてきています。じつは、1月末からこの1週間ばかり、文化庁に申請する書類を作成しておりました。摩尼寺境内の本堂・山門・鐘楼を国の有形文化財に登録するための申請書を書きあげまして、今日か明日、県教委から文化庁に申請書類が送られることになっており、この夏か秋には、本堂などが国の登録有形文化財になるはずです。来年度からは、「奥の院」遺跡を登録記念物にする作業も始めようと思っています。
 摩尼山は久松山と砂丘の中間に位置する標高350mくらいの低い山です。縁起書によると、比叡山第三代座主の円仁が開山し、藤原秀衡が造営を指揮したということですが、9世紀の高僧と12世紀の武将がタッグを組んだ伝承を信じる方はいませんよね。参考までに述べておくと、円仁が開山したという縁起をもつ寺院は全国に600以上あります。その大半は真実ではありませんで、摩尼寺も、もう少し新しい時代の造営だと思われます。
 他に重要な歴史としては、羽柴秀吉が鳥取城を攻めた折り、摩尼山も焼き討ちし、道好という僧が奮戦したと縁起には書いてありますが、これも本当かどうか分かりません。秀吉の焼き討ち後、池田光政の代に再興されたとも言います。このころはまだ山上に境内があり、おそらく18世紀前半に山麓に境内が移設されたと推定しています。


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歴まちを訪ねて(Ⅴ)

観光案内所  垂れ幕


津山城下めぐり

 3年後期も終わり、春休みという名の就活の始まりが訪れました。そんな時にこそ古き良き町並みをめぐって心を癒しましょう。「歴まち」レポート第4弾は、「歴史と文化の城下町 津山」です。津山は大和と出雲という2つの大国の中継点にあり、古くから栄えた町です。そうしてできた出雲街道は、後醍醐天皇から出雲の阿国まで、色々な歴史上の有名人が通っていきました。津山はそうした時代を経て大きく発展してきた城下町です。津山城を中心とし、国の重文である中山神社をはじめとする多くの神社、京風の庭園として造られた衆楽園などが点在し、映画のロケ地にもなるなど、人々から愛されてきました。
 津山の玄関口である鶴山通りは既にどことなく昔懐かしい雰囲気を漂わせています。鶴山通りを曲がり、小道に入った先にあるのが「津山市城東」重要伝統的保存地区です。まずはじめに津山観光センターが出迎えてくれます。案内通りに進んでいくと町並みの入口には重伝建の垂れ幕がかかっていました。垂れ幕をくぐり、伝建へと進んでいくと、早速昔ながらの町並みが見えてきました、一般住宅の中にポツリポツリと現れる昔ながらの町家はとても美しく作られており、城下町時代のたたずまいをよく伝えています。


民家1   民家2


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左京雪景

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 画面の向こうでは、ソチ・オリンピックの開会式で雪がなく人工の雪を降らせているというのに、ごらんのとおり7日~8日の奈良は白銀に覆われました。山陰の人からみれば、珍しくもなんともないでしょうが、大阪や奈良で雪が積もるのは数年に一度あるかないかです。
 近畿南部でこうなのだから、山陰の積雪予想は・・・あぁ50センチか。怯えますね。志戸坂峠のアイスバーンは、ほんと、恐怖なんですよ。

 さて、雪が降る直前の夕方、近所の歯医者に行きました。わたしは長く京都二条室町のデンティストに通い続けておりました。その老大家は、今から30年以上前、『壮快』という医学健康雑誌で「評判の良い600の歯医者」に選ばれた方です。当時、京都では3人しか選ばれなかった。通院してみると、たしかに素晴らしいお医者様でした、以来、ずっとお世話になってきました。その先生の方針は「絶対に歯を抜かない、できうる限り神経も抜かない」というものです。たしかに歯は抜かないほうが良いし、神経を殺してしまうと、歯は生物でなくなってしまうので避けたほうがよいと思います。麻酔も使いません。ドリルで削れるぎりぎりのところでとめるの。患者が痛がったら無理をせずに銀を詰めてしまう。わたしはこの治療方針の信望者でした。ただ、欠点がないとは言えない。削り部分が浅いので、詰めた銀が抜け易いのです。「抜けても入れ直せばよい」という発想で対応するしかないのですが、問題は時間と治療費ですね。京都までの通院は、奈良と鳥取を往復する者にとって、小さな負担であるはずがありません。


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黒帯 vs. 白帯

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 お久しぶりです。黒帯です!

 研究室を去った後、東京で色々ありまして、大学院生になってしまいました。4年間で大学、研究室が随分変化していて驚きました。環境デザイン学科は無くなっているし、「白帯」とかいうアンドロイド?も出現しているうえ、かわいい女子学生もゼミに所属しているというじゃありませんか。わたしの年代は男ばかりのむさ苦しい部屋だったのに、この華やかさは何なのでしょう。白帯くんがうらやましいです。
 白帯くんといえば、カマド制作のプロジェクト研究で一緒だったと記憶しているのですが、いつの間にかM1で同級生になってしまいました。彼は、すでに中間発表を終えたようですね。この後に中間発表を控える身としては負けてられません。白帯くんの発表準備の壮絶さを窺っていると、ASALABでの思い出が蘇ってきて、本当に懐かしい気持ちになるとともに大きな刺激になりました。
 そもそも来鳥したのは、博士課程の先輩の付き添いを兼ねていたのですが、結局は自分の研究室訪問のようになってしまいました。今、他大学に出て研究してみて思うのは、自分で全ての構成を考えてスケジュールを組み立てることの難しさです。大学時代はマンツーマンに近いかたちで指導していただいていたので、同期の人数の多さなど勝手の違いに戸惑うこともあります。ただ、大学のときの経験はかなり役に立っています。大学院講義において、どの課題にもある程度対応できるのは、さまざまな種類の研究を身近で体験できていたから。これには、本当に助かっています。
 久々に訪れて感じるのは、鳥取のまちが落ち着くということです。現在、住んでいる街はセグウェイが走っているような科学都市ですからね。ぬくもりが違います。留学生も「鳥取は雰囲気が素敵です。住みやすそう!」と絶賛していました。そう言ってもらえると、嬉しいものですね。
 今回、先生にはお忙しい中、時間を割いていただきありがとうございました。留学生の先輩も自身のフィールドを経験している専門家の話を聴くことができて何かのきっかけになったと思います。私も、白帯くんに笑われないように研究がんばります!
 取り敢えず、来週の中間発表にむけて…(黒帯)


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君が代斉唱

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黒帯来鳥

 「君が代」を斉唱した。サッカー日本代表戦やオリンピック表彰台で流れる「君が代」は心地よく聞いているが、自分で声を出して唱うのは何年ぶりだろう。鳥取ロータリークラブはそうして始まった。会場に設置されたウィンドウズ8の操作に手間取ったが、予定の半時間でちょうど卓話を終えた。経済界の方が多いからだろうか、「奥の院」遺跡の話題よりも、「景勝地トライアングル」による摩尼寺門前活性化案のほうが注目を集めたように感じた。
 恐ろしいことに、1週間以内に録音記録が送られてきて、速攻で推敲し、次回の会議資料で卓輪記録が配布されるとのことですが、ここは校正マシーンの本領を発揮するしかありませんね。講演記録については、別途ブログにもアップする予定です。

 卓話を終えた瞬間、ロータリ倶楽部の会員は午後の仕事に戻っていった。じつは学長と環境デザイン学科OBのKM先生も昼食会に参加されており、講演後、丁寧なご挨拶をいただいた。感謝申し上げます。
 その後、わたしは会場となったホテルニューオータニの1階ロビーに下りて待ち合わせの約束をしている人物を捜したのだが、だれも居ない。拙いことに、携帯電話を家に忘れてきている。じたばたしても仕方ないので、いちばん奥のソファに腰掛けて待機することにした。その5分後、リュックサックを背負った黒帯がロビーにあらわれた。女連れですよ!
 黒帯くんはいま筑波大学大学院の修士課程に在籍しており、大森銀山を研究課題としている。その研究のため故郷入りするのだが、博士課程に在籍中の中国人留学生が貴州トン族・ミャオ族の木造建築を調査中で、面談することになったのです。それからいったん大学に行き、白帯と社長を誘って、ダウラで長話をしました。ダウラのテーブルでパワポが始まったのには驚いたけれども、楽しい時間が過ごせたて良かったですね。まぁ、社長、黒帯、白帯と揃えば、話題はホカノさんのことに収斂していきます。嚔(くしゃみ)してたんじゃないでしょうか。

 黒帯vs白帯の対決については、後日、黒帯くんがレポートしてくれることになっています。


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ドイツ語会話

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 Liebe Kolleginnen und Kollegen,
Möchten Sie gerne Ihr Deutsch verbessern? Montags um 12:30 Uhr trifft sich eine Deutsch-Konversationsgruppe in meinem Büro. Wir werden bald Ferien machen und uns dann ab April wieder treffen. Wenn Sie Interesse haben, schreiben Sie mir bitte eine Email auf Deutsch, Englisch oder Japanisch.

 最近、国際シンポジウム招待とか学術雑誌掲載依頼の英文メールがしばしば届く。ほぼすべてが詐欺メールである。昨日はドイツ語のメールを受け取った。これは詐欺メールではない。ざぁっと流し読みして、30~40%ぐらいの意味をとらえたような気がした。ほんとはどんなことが書いてあるのだろうか、ネットの翻訳サイト「ドイツ語翻訳-excite」の自動和訳にかけてみよう。

   いとしい同僚および同僚、
  ドイツ人を喜んで改善するかもしれませんか。
  12:30時に関する月曜、ドイツのメッセージ交換グループは私のオフィスで会います。
  私たちはすぐに休暇にいて、次に、4月から再び私たちに会うでしょう。
  興味を持っている場合、あなた、私に手紙を書いてください、ドイツ語の1つのエナメル、
  英語、あるいは日本語。

 ひどいね。独→日だから機能しないのかもしれない。ならば、独→英の自動翻訳だ。


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歴まちを訪ねて(Ⅳ)

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 2月4日2限の「建築と都市の法規」試験で、3年後期のすべての試験を終えました。後回しにしていた冬休みのゼミ課題のレポートをこれから書きます。遅くなってしまいすみませんでした。

歴まち尾道

 広島県尾道市は岡山市と広島市のほぼ中間に位置しており、特に中世以降、瀬戸内地域の有力な港町として栄えてきました。尾道旧市街地には、中世から近世にかけての寺社をはじめとした建造物が数多く残り、これら歴史的建造物や街並みを舞台に、多くの祭が催されています。また「坂の街」「文学の街」「映画の街」として全国的に有名です。平成24年6月に竹原市とともに「歴まち」に認定されました。
 尾道市歴史的風致維持向上計画のエリアは、尾道・向島歴史的風致地区と瀬戸田歴史的風致地区の2ヶ所に分かれています。重点地区が広いため今回は尾道市内を中心に街並みを見てきました。尾道市が実施する事業として掲げている点は、

  1.歴史的建造物の保存・修理
  2.良好な市街地の環境や景観の保全・形成
  3.まちなか回遊性の向上
  4.歴史的風致の調査と活動支援及び普及・啓発

の4点です。

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 尾道市内の町並みはアーケード商店街に通じる小川小路や今蔵小路などの小路が数多く存在しており、昔からある町家と新しい住宅が軒を連ねていました。小路を歩いていて目にとまった建物が木造3階建ての町家です。1階部分は食堂として現在も使われているため改築されてはいましたが、2・3階は昔からの建物だと思われます。このような建物が独特の雰囲気を醸し出しています。
  尾道の街全体を見渡そうと思い、千光寺までロープウェイで登りました。車窓からは艮神社の大楠や天寧寺の三重塔を見ることができます。公園からは港や向島が一望できました。千光寺まで続く山道には「文学のこみち」があり、自然石に尾道にゆかりのある作家の詩が刻まれていました。千光寺までの道は歩行者安全対策事業の一環として、手すりの整備などが歴史的風致維持向上計画によって行われているそうです。


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ティンカーベルの八年

 2006年3月10日のLABLOGに「ティンカーベルの失走」と題する記事を書いている。8年前、トリノ・オリンピックで荒川静香が優勝した直後のことである。原文をお読みいただければよいのだが、以下抜粋しておく。

--
(略)彼女たちは、フィギュア・スケートの世界ジュニア選手権で、浅田真央の予想外の不出来に気を揉んでいた。浅田はショート・プログラムで1位ではなく、僅差ながら2位につけていて、1位の韓国少女が「天才」と呼ばれていることに驚異を感じているのだ。今日の未明、フリーがおこなわれるというので、「負けるんじゃないかな。(略)」と予想した。果たして浅田真央は敗れた。世界GPファイナルでみせた、ティンカーベルのような天真爛漫のスケーティングは影を潜め、トリプルアクセルほか、得意のジャンプで失敗をくりかえしたらしい。ほぼ完璧な演技をみせた金が最後から2番めの演技、浅田は最終演技者であった。トリノにおけるスルツカヤと同じ立場で浅田は滑ったのである。
 ジャンプを切り札とする演技の特徴も、スルツカヤとよく似ている。その二人が最高の舞台でジャンプを失敗した。浅田の失敗は、心理的な面が大きいのだろうが、彼女が「大人の女性」に近づいていることとも関係があるような気がする。山田コーチは、4回転ジャンプに挑戦させるとコメントしているけれども、この方針は、おそらく浅田をスランプに陥れるだろう。4回転に成功した安藤美姫がそうであったように、少女のころに飛べた4回転が大人になるにつれて飛べなくなっていく。(略)浅田真央は、まもなくティンカーベルから脱皮していく。子どもの世界に住み続けられるのはピーターパンだけだ。
--

 その後、安藤美姫は4回転ジャンプを捨て、2011年の世界選手権で金を倒し優勝している。浅田は依然トリプル・アクセルを捨てない。今シーズン、練習では何度も完璧に跳んでいるというが、連勝したGPファイナルにおいてさえ、ノーミスのジャンプをついに視ることはなかった。3回転-3回転に挑む気配もない。
 ネットを漁ってみると、アメリカのフォーブズ誌をはじめとして、浅田の順位を3位=銅メダルと予想する向きが多いようだ。金と金メダルを争うのは地元ロシアの新星リプニツカヤだとみている。あの、キャンドル・スピンの少女である。こういうムードを察してか、日本のメディアも4年前に比べれば、ずいぶん静かであり、報道は圧倒的にスキージャンプの高梨に傾斜している。これは浅田にとって良いことだろう。トリノの荒川も全日本選手権では3位に甘んじ、余り期待されていなかったところに、スルツカヤが転んで、金メダルが転げ落ちてきた。ただし、金の場合、転んでも減点されないので、浅田がよほど完璧な演技をしない限り金メダルには届かないかもしれない。
 娘は、(最初から勝負が決まっているので)ソチのフィギュアは視ないと公言している。わたしは視ますよ。浅田真央の最後の公式戦だからね。最後のトリプルアクセルを思いっきり跳んでください。
 大人になったティンカーベルの姿をこの目に焼き付けます。


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修士課程1年次中間発表会を終えて(Ⅱ)

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聖神社拝殿の建築年代
 鳥取市の聖神社は県指定保護文化財で、現在解体修理中であり、当初材と思われる桔木の端材が出ており、それをウィグルマッチのサンプルとして使うことにしました。年輪数の多い拝殿の桔木を使用しました。樹皮直下の最終形成年輪を残しており、可能性のある年代は西暦1793~1822年の暦年代範囲を示しています。これを文献史料と比べてみます。
 聖神社ではかつて存在した棟札が失われていますが、その写しによると、弊拝殿は文化十年(1813)、本殿は宝永7年(1710)と記してあったようです。しかし、本殿は様式上18世紀前期までは遡らないため、『鳥府誌』の寛政年間(1789~1801)再建とするのが妥当と考えられてきました。『鳥府志』を見てみると「本社は寛政年間、更に建たり」、弊拝殿は「後年拝殿を営み・・・」と書かれています(「聖神社の建築年代()()」参照)。
 以上から本殿は寛政年間、弊拝殿は文化十年が再建年代であり、弊拝殿の建築年代(1813)はウィグルマッチングの示す伐採年代(1793~1822)に含まれています。炭素14年代測定もうまくゆけば、このように文献記録との一致をみるわけでして、信頼性も捨てたものではありません。次に、聖神社の絵様をみてみましょう。他の神社と比較してみると、本殿妻飾虹梁は18世紀末期とされる野々尾神社本殿の繋虹梁、拝殿向拝の木鼻は文化9年(1812)の稲荷神社の木鼻に近い様式を示しており、ウィグルマッチングと文献と絵様がほぼ一致しています。今回の年代測定や絵様拓本調査により、聖神社本殿は寛政年間(鳥府志)、弊拝殿は文化十年(棟札写)とされる建築年代が明確に裏付けられ、その裏返しとして、ウィグルマッチ法の信頼性も確かめられたといえるでしょう。


140130修士中間03 長谷寺本堂番付図

長谷寺本堂の建築年代
 『伯耆民談記』(1742)によれば、倉吉の長谷寺は養老年間(717~724)に北谷の長谷に建立され、今の本堂はいつごろか現在地に移築し、建久年間(1190 ~ 1199)、源頼朝が佐々木四郎高綱に命じて再建したと伝えています。中世の記録は途絶えますが、慶長年間(1596~1615)に米子城主、中村忠一が再興したともみえます。『伯耆民談記』は長谷寺縁起書によってこれらの記載をしたのでしょうが、残念ながら、信頼性が高い史料ではありません。一方、天保3年(1832)の控帳「家老日記」5月3日の項には、以下の記載があります。

  倉吉長谷寺看坊止静院儀、本堂修復之儀、再三相願無余儀趣にも相聞候得共、
  当時御増銀も難被遣ニ付、先御渡銀にて取作廻置候様、小八郎より申渡之、
  寺社奉行え申渡之

 天保3年に大破した本堂・庫裏の修復のための訴えがなされたことが記されており、天保5年(1834)にはこの修理を記念して「長谷寺と倉吉町俯瞰図」絵馬が奉納されています。これらは、一次史料であり、信頼性は高いと言えます。このほか14世紀から16世紀にかけて以下の銘文を確認できます。

   正安 3年(1301)国英神社の「伯州久米郷長谷寺鐘」梵鐘銘(鳥取県立博物館所蔵)
   応永13年(1406)長谷寺本堂頂相像 胎内銘
   享禄 4年(1531)長谷寺本堂「伝説の絵馬」銘文
   天文18年(1549)長谷寺本堂絵馬群「白馬」銘文 
   永禄 6年(1563)長谷寺本堂鰐口銘「伯州久米郡住南条兵庫介宗影」
   天正 4年(1576)長谷寺厨子まぐさ材墨書「大旦那南條又四郎殿」
   天正14年(1585)長谷寺本堂内陣落書


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修士課程1年次中間発表を終えて(Ⅰ)

 1月30日、大学院修士課程1年次の中間発表会がおこなわれた。僕は毎年繰り返していることですが、発表準備に取り掛かるのが遅すぎて、先生やゼミ生に多大な迷惑をかけてしまいました。今回の発表は、まわりの仲間に助けられてばかりで、どれほど感謝しても感謝したりないと思っています。これから2回にわけて「近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究」のスピーチ原稿を加筆訂正の上、アップさせていただきます。


0130AMSサンプル図


建築年代と科学的年代測定
 建築年代を知るもっとも重要な手がかりは棟札です。昨年調査した摩尼寺本堂では屋根裏から安政7年・万延元年(1860)の棟札が発見されました。棟札は上棟の儀式で棟木や棟束などに貼り付ける板札で、建築年代を知る最も信頼性の高い史料です。棟札以外に参考になる文献として、縁起書・過去張・家伝書・地方誌などもあります。しかし、それらの多くは後の時代に編纂されたものであり、棟札ほど信頼性のある史料とは言えません。
 棟札などで年代がわかっている社寺建築の「様式」を基準史料として、他の建築の年代を推定することがあります。蟇股・木鼻の彫刻、虹梁の絵様などで年代を判定するのですが、とくに「渦の形」が重要な判断材料になります。近世絵様の渦は古ければ正円に近くて彫りが細く、新しいと楕円が凹んで彫りが太くなります。たとえは、安政7年(1860)年の摩尼寺本堂木鼻の渦と摩尼寺山門木鼻の渦はほとんど同じ形をしており、同時期の建築と考えられるのです。社寺建築では絵様などの様式比較により、30~50年単位で年代の推定が可能になっています。
 しかし、民家・町家などの民間建築では、様式的変遷が顕著ではありません。わずかに分かるのは、18世紀中期以前の建物が一間飛ばしに柱を立て、土間に独立柱を立てることや、小屋束をつらぬく上下の貫が17世紀中期以前は上下に離れる傾向があることなどですが、様式の変化はあいまいで、正確な建築年代の判定は難しいのです。
 こうした建築年代の曖昧さを克服するため、中近世の建造物に科学的年代測定を導入した研究が芽生えつつあります。とくに近世建造物の場合、広葉樹を材料とするので、年輪年代学の適用が不可能であり、放射性炭素年代測定を用いる研究が主流になっています。ただし、測定の対象が重要文化財に傾斜している感は否めません。


0130白帯中間発表

 まず、二つの科学的年代測定の概要について説明します。放射性炭素年代測定法は、大気中に含まれる炭素の濃度が毎年違う特性を使い、生物が生きていた年代を推定するものです。最近、用いられている方法として「AMS法」と「ウィグルマッチング」があります。AMS法は炭素14の原子を直接数える方法です。サンプルは1点から測定可能です。この測定法で測った炭素14の確率分布が赤の範囲で示されます。それと暦年較正曲線が交差するところにいちばん外側の年輪年代の可能性が高い範囲を暦年代の確率分布ができます。1σの範囲が信頼性68.2%、2σの範囲が信頼性95.4%です。AMSで測定した場合、複数の候補がでたり、年代幅が大きかったりして、うまくいく場合とうまくいかない場合があります。
 ウィグルマッチングは、複数の試料を測定し、それぞれの試料間の年代差の情報を用いて試料の年代パターンと較正曲線のパターンが最も一致する年代値を算出することによって、高精度で年代値を求める方法です。50年輪以上の木材からで3点以上サンプルを採取する必要があります。3点以上のサンプルを使っているので、精度はAMSより高く、年代を絞りこむことができます。


1030鳥取県近世社寺建築絵様の編年 ←鳥取県近世社寺建築絵様の編年

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歴まちを訪ねて(Ⅲ)

0111 御手洗 町並み1 0111 御手洗 地図


御手洗の町並み

 ゼミの冬休み課題は、地元に近い「歴史まちづくり法」の地区もしくは重要伝統的建造物群保存地区を視察し、レポートを書くことでした。しかし、この課題をクリアしてブログにレポートをアップしたのはセッツァンだけでして、先日のダウラでの慰労会で、先生より、以下の宣告がなされました。

 1.レポートを提出しない学生はB判定とする。
 2.卒業研究で倉吉の「歴まち」に取り組む優先権があるのは、レポート提出の早い者から。
  
 ゼミには3人の広島県出身学生がおりまして、セッツァンがすでに竹原をレポートし、ユーリーさんが尾道を採ったので、わたしは重伝建の御手洗を選び、成人式の連休に行ってきました。遅くなりましたが、これからレポートします。
 御手洗は呉市の大崎下島にあります。私は瀬戸内海の島の出身でなので、なんとなく親近感がありました。私の生まれ島から、フェリーと橋を使い島伝いに目的地へと向かっていきます。大崎下島に近づくにつれて、島の海岸沿いに歴史的な町並みが見えてきました。御手洗の町並みです。汽帆船の時代に船の潮待ち港で、往時はとても賑わった港町です。オランダ商館員や、琉球使節も御手洗の茶屋に遊び、多くの文人墨客も足を留め、豊かな商人文化の花咲町であったとされています。


0111 御手洗 灯篭 

 陸上交通や遠距離航路から隔離された離島に所在することで、時代の流れの影響を受けなかったからこそ、歴史的な町並みや風景をよくとどめているのです。1994年には重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その後も住民主体のまちづくりが進められているます。アクセスが不便なため観光客が多いとはいえませんが、最近では映画の撮影地にもなったようです。 
 御手洗に来て最初に目がとまったのは「千砂子波止」と呼ばれる防波堤の先に建っている白い灯台でした。燈籠を模した高さ6mばかりの灯台です(↑)。近くの海沿いにある神社は、防波堤の鎮守として江戸時代後期に建立されました。こちらは広島県指定の有形文化財です。御手洗の海岸通りは、江戸時代~昭和戦前の建物が海に向かって建ち並び(↓)、建物正面には鉢植えの花が添えられ、玄関前を彩っています。


0111 御手洗 町並み7

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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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