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ブータン 山の教室-学生レポート(3)

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大晦日のプレゼント

 ついに65回めの大晦日=誕生日を迎えてしまいました。普通なら退職の歳でありまして、私も今年で終わりかな、と思う時もあったのですが、幸か不幸か再雇用にありつき、あと3年大学で働くことになりそうです(この問題については、出雲大神からお裁きがあると思います)。ただし、給料は下がります。年金受給が可能になるので、当然と言えば当然ですが、ついにこの時が来たか、という心境です。27日、年金事務所まで相談に出かけ、来たる新年4日には正式な手続きに至ります。年金受給者か・・・
 今年もゼミ生から誕生日のプレゼントをいただきました。紅茶セットとマスクケースです(↑↓)。派手な布マスクを集めていたので有難いですね。これ以外にもたくさんプレゼント?が届いています。1年から4年まで年末レポートの締切を大晦日としたからです。昨日までアップしてきた「山の教室」のレポートもその優秀作の一部ですよ。良いレポートが素晴らしいプレゼントになるわけです。
 優秀作には長文のリプライをしています。わたしなりの返礼です。今日も優秀作を一つ掲載します。


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「山の教室」はわたしたちの教室でもあった

 《「先生は未来に触れられる」とはどういう意味か》 村長が、「先生は子どもたちの希望だ」と言葉にしていた。実際、その子どもた ち一人一人は、村の将来を担う未来への希望でもある。そこから先生という仕事は、生徒たちの将来決定に影響する、つまり子どもたちの「未来に触れている」仕事といえるのではないか、と解釈した。
 《「ヤクに捧げる歌」の内容を説明しなさい》 ヤクとヤク使いの絆は強く、神聖なものである。ヤクは私たち人間にすべての物をくれる存在である。また、その肉が必要になった時にはヤクを集めて縄を投げ、その縄が落ちたところにいたヤクが肉となる。その時に人間たちが心を痛め、ヤクに捧げた歌であり、またヤクの魂が澄んだ美しいものであると歌ったものである。その歌の後半には、ヤクからヤク使いへ、「私たちの絆は強く神聖 だ。来世でもきっとあなた達の元へ戻ってくる」と返答がある。


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ブータン 山の教室-学生レポート(2)

ヤクが夕方には家に戻ってくるように

 《「先生は未来に触れられる」とはどういう意味か》 「未来に触れる」とは、「子どもたちの将来に選択肢を増やす」ことだと考える。ウゲンがルナナ村に訪れた時、村長はウゲンに「学問があると村の中で働く以外の選択肢がある」と言っていた。子どもは数多の可能性を秘め、これからの村を担っていく未来そのものである。先生という役職は、子どもたちに教養を与え、ヤクの世話をしたり冬虫夏草を集めたりする以外の選択肢を増やすことができるのである。また、「自分自身の選択肢を増やす」ことともとらえられる。先生になれるほどの教養があれば、村を出て外の世界で生きる選択肢もある。その際、村の中では触れることのできない最先端の技術や発展した文明・文化に触れることができる。これもまた、「未来に触れる」ということだと思う。
 《「ヤクに捧げる歌」の内容を説明しなさい》 セデュは「ヤクに捧げる歌」について、ヤクの澄んだ魂を賛美する歌詞だと説明した。ヤクは人々に多くを与えてくれる存在であり、家族のように親しく、ヤクとヤク飼いの絆は神聖なものだという。また、セデュはこの歌が生まれた経緯についても説明した。ルナナ村では肉が必要になった時、村中のヤクを集めて投げ縄を投げ、縄が落ちたヤクを犠牲にする。ヤクをかけがえのない存在として大切に扱う村の人々は皆心を痛めるという。村には岩塩を売るためにチベットに行ったヤク飼いがおり、ある時運命が働いて投げ縄はこのヤク飼いのヤクに落ちた。この歌は、そのヤク飼いが自分のヤクに歌ったものである。歌詞には「ヤクのおかげで私は命を長らえた」「ヤクには高い山の草と清い水がふさわしい」とある。セデュはこれを、澄んだ魂を賛美する歌詞だといった。雪が消えることがない清らかな大地は私たちの心を映す鏡だと。歌の最後には、ヤクがヤク飼いに「私たちの絆は永遠だ」と言葉を返している。ヤクたちは、山のあちこちで草をはみ夕方には家に帰るという生活をしている。「それと同じように、現世であれ来世であれ、私は戻ってくる」とヤクはヤク飼いに返している。つまり、ヤクは死んだとしても巡り巡って再びヤク飼いのもとへ戻ってくるのである。セデュはこの絆を神聖なものだと説明した。
 《ウゲンはブータンに戻るか、オーストラリアに残るか》 私は、ウゲンはいつかブータンに帰ってくると思う。「ヤクに捧げる歌」は、一度ヤク飼いのもとから旅立ったヤクが、いつか再びヤク飼いのもとに戻ってくることを願った絆の歌である。この歌の内容や、村長がウゲンに対して「君はヤクそのものだ」といったこと、村長がどんな思いで再びこの歌を歌ったのかを知っているウゲンならば、必ずブータンに帰ってくるだろう。しかし、それはすぐのことではない。ウゲンは、ヤクが山のあらゆる場所で草をはむように、オーストラリアに旅立ったのである。彼はこの旅から無事に帰ることができるように峠で祈り、石を積んでいる。このことからも、ウゲンがルナナ村のことを大切に思い、戻りたいという思いがあることがうかがえる。彼はオーストラリアで「ヤクに捧げる歌」を歌えるようになったら、外国で見た景色や新しく得た知識や経験をルナナ村に持ち帰り、子供たちに伝えるためにブータンに帰ってくると思う。ヤクが夕方には家に帰ってくるように。





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ブータン 山の教室-学生レポート(1)

 12月23日、歴史遺産保全論の第13講義として「ブータン 山の教室」を視聴した。当日の反応をみる限り、多くの学生の心を動かしたようである。レポート〆切は大晦日だが、優秀作品を少しずつ紹介していきます。

どのような形になってもウゲンはブータンに戻ってくる

 《「先生は未来に触れられる」とはどういう意味か》 男子生徒サンゲの言う「未来に触れる」とは、ブータン(特にルナナ村)の行く末を担う子供たちと関わることができるということだと思った。ルナナ村の村長がいう普段からの口癖で、それを真似ているようにも思えるが、ルナナ村の現状を見ると教育に対する思いがかなり強いので、サンゲは自分の手でこの村の教育ないし未来を変えていきたいと思ってそのように発言したと思った。
 《「ヤクに捧げる歌」の内容を説明しなさい》 ヤクに捧げる歌はハダル(という名のヤク)の澄んだ魂を賛美する歌であると同時に、ルナナ村の人々を映す鏡であると説明している。また、ヤクとルナナの人々の絆は永遠のものであり、「現世であれ来世であれ帰ってくる」というハダルの返答の歌詞は、チベット仏教の輪廻転生が描かれており、ブータン的な思想の表れと共に、ヤクと人々のつながりの強さがわかる歌である。
 《ウゲンはブータンに戻るか、オーストラリアに残るか》 ウゲンはどのような形になってもブータンに帰るのではないかと思った。ヤクに捧げる歌の中で「現世であれ来世であれ帰ってくる」や「ハダル(ヤク)…神の子の如し」とある点から最終的には戻ってくると思った。「現世であれ来世であれ帰ってくる」という点においては、この後オーストラリアに残って音楽家の一生を終えたとしてもウゲンの魂はブータンの地にに戻るということを暗示していると思ったからである。また、「神の子の如し」という面から言えば、ヤクはルナナ村にとっては無くてはならない宝のような存在であり、ウゲンはヤクであると劇中で村長が示している。ウゲンは村にとってなくてはいけない存在であると「ヤクに捧げる歌」を通してウゲン自身も実感しているため帰ってくると思った。
 峠の祈りや寄進については、ブータンの町からルナナ村への往路では祈りや寄進をしなかったが、ルナナ村から町への復路では祈りや寄進をしており、ウゲンに心境の変化があったことがわかる。峠の祈りや寄進の際に、供物の代わりに石を重ねた場面の後、ウゲンは「またルナナ村に戻れるように」というような発言をしていた。その点からいってもウゲンのルナナ村に対する気持ちは強いものになっており、時間がたってからでも戻ってきたいと思っているのではないかと思った。
 《感想》 『ブータン 山の教室』を見て、教育の意味について考えさせられた。日本では義務教育が一般に普及しており、当たり前のように学校に通えるし、先生がいるのだって普通の環境である。我々が大変恵まれた環境にあり、勉強したくても先生がいない、簡単に教材が手に入らない、そもそも紙や鉛筆が高級品という世界観は同じような場面を他の機会で知ってはいたが、改めてみるとあまりに教育環境が整っていないと思った。しかし、教育者として物がないからといって教育をあきらめるのではなく、ウゲンやルナナ村の人たちのように黒板やチョークといった自分たちでも作れるものはあるもので補うという精神は、現代の日本の学習指導要領における「地域の実態にあった教育」という視点においては学ぶべき精神であると思った。また、劇中で登場したドマは煙草に変わる嗜好品とあったが、ソマリアやエチオピアなどで使われているカートに近い立ち位置なのかなぁと思った。(3年SH)





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五度目の大杉(2)

1218上野03いろり03正月飾り01 正月飾(いろり)


 12月18日(土)、兵庫県養父市大屋町の重伝建「大杉」を訪れました。すでに訪問経験のあるメンバーは、大杉集落と近隣の峠集落のドローン空撮に取り組みましたが、初訪問の数名は保存会長のご案内で大杉集落の町並みと拠点施設を見学させていただきました。その後、午後3時過ぎから、民宿「いろり」でブータン料理の準備に取りかかりました。


1218上野05ドローン01 ドローン準備(雪のため屋内で)


養蚕の村の歴史

 大杉は養繭の生産で栄えた但馬屈指の養蚕地区です。安価な化学繊維の普及により養蚕業は廃れましたが、大杉集落には今でも三階建ての養蚕農家が残っています。この地区の古い民家は平屋建茅葺きの形式でしたが、大杉地区の養蚕が最盛期を迎えた明治後期から昭和前期、二階、三階を蚕室として増築し、木造三階建の農家主屋が成立しました。切妻造の瓦葺屋根に抜気(ばっき)と呼ぶ換気装置があり、外壁は二階以上を大壁造として、縦長の掃き出し窓を並べています。家屋から直接蔵へと入れる特徴があります。二階・三階の窓を開けて通気性を高め、熱気を逃すために屋根に抜気が設けられています。掃き出し窓は、窓枠を床面まで下げることでゴミを簡単に外に掃き出せるようにしたもので、蚕室を清潔に保つための工夫です。蚕室は蚕棚の規模に合わせて造るため、どの建物も二階と三階の階高がほぼ同じとなります。


1218上野04見学風景01 1218上野04見学風景02記念


 大杉地区は、平成13(2001)年10月2日に兵庫県の歴史的景観形成地区、平成29(2017)年7月31日に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されています。景観形成地区は里山を含めた約11.1ヘクタールの範囲で、その中心の約5.8ヘクタールが保存地区です。重伝建地区内の伝統的建造物として指定されている建物が23棟あり、銅板の印がつけられています。保存地区内の27棟のうち、5棟が宿泊施設や展示施設、ギャラリーとして活用されていますが、半数は空き家の状態です。


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分散ギャラリー養蚕農家

 三階建養蚕住宅を利用したギャラリーに改装されています。生活空間である一階だけでなく、蚕室として利用されていた三階まで見学することができます。建物は、江戸時代後期の茅葺き平屋建ての農家を大正2年に養蚕のために瓦葺三階建てに改修したものです。絵画や彫刻など、アートの展示、販売が行われています。コロナの影響などで休室中ですが、カフェも併設されています。


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養父市文化交流施設 木彫展示館

 築120余年の旧栃尾診療所だった二階建ての古民家を改修した木彫りの展示館です。診療所は休憩所として利用され、創作棟として講師を招いての木彫教室や作品展示のギャラリー等として利用されています。母屋は展示棟として、平成6年から始まった「公募展木彫フォークアート・おおや」の歴代の優秀作品が常設展示されています。毎年120~150点ほどの作品が集まるそうです。敷地内には、当時の面影そのままの日本庭園、池などもあり、野趣あふれる景観を見ることができます。


1218上野02木彫01内部


但馬 古民家の宿・大屋大杉

 三階建養蚕住宅を利用した宿泊施設です。「三階建養蚕農家が並ぶ歴史ある集落に溶け込むように泊まる」ことができます。正垣家は5部屋の客室とレストラン、河辺家は1棟貸しの宿です。正垣家の外観は三階建ですが、改修され内装は2階建として利用されています。この2棟はNIPPONIAが運営しています。NIPPONIAは、日本各地に点在して残されている大型の古民家を、その歴史性を尊重しながら客室や飲食店、または店舗としてリノベーションを行い、その土地の文化や歴史を実感できる複合宿泊施設として再生していく取り組みです。


1218上野06ホテル NIPPONIAの暖簾を外していた


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五度目の大杉(1)

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ブータン料理で交流

 12月18~19日、兵庫県養父市大屋町の重伝建「大杉」で住民と交流する演習を行いました。会場は3階建養蚕古民家を活用した民宿「いろり」です。演習内容はプナップ・ウゲン・ワンチュクの『本物のブータン料理本(Authentic BHUTANESE COOKBOOK)』(2014)で紹介されているブータン料理(とくに蕎麦料理)を集落の方々に振る舞いながら、過疎地の町並み保存について意見交換するというものです。
 メインテーブルに並べた料理を各自が取り分けるビュッフェ方式で計7品の料理を用意しました。その7品はプタ、クレ、エマダツィ、ケワダツィ、ヒュンテ、モモ、赤米で、そのうちヒュンテとモモは他とは違い調理時間を考慮し事前に鳥取の下宿で作りました。
 以下は『本物のブータン料理本』に記されたレシピですが、ゼミの先輩方(現4年生)が昨年末に試作された5品については、サイトを示し、レシピを割愛させていただきます。


1218いろり01会食01 1218いろり01会食01junnbi


1.蕎麦粉のパンケーキ(クレ)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2319.html
2.ヒュンテ(蕎麦皮の餃子)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2320.html
3.エマダツィ(トマトと唐辛子のチーズ炒め)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2321.html
4.ケワダツィ(ジャガイモと唐辛子のチーズ炒め)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2323.html
5.モモ(ブータン餃子)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2327.html
日本のなかのブータン(5)-ブータン蕎麦粉でクレ試作
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2354.html


エマ01sam 1218ブータン料理03エマ01 1218ブータン料理02ケワ01  1218ブータン料理05餃子2種
左から料理本のエマダッツィ(唐辛子のチーズ炒め)、同(ゼミ生作成)、ケワダッツィ(ジャガイモのチーズ炒め)、餃子(左:蕎麦皮、右:小麦皮)
 
 プタ(蕎麦麺)については、レシピの押出し麺の制作が困難であり、昨年は断念しましたが、今年は秋に先生たちが佛子園で大量に乾麺を購入されており、それを活用しました。ヒュンテとクレに使った蕎麦粉も、もちろん佛子園で調達したブータン産甘蕎です。まずは料理本のレシピ(2014:pp.14-15)を紹介しておきます。

Puta プタ (Buckwheat Noodles) (蕎麦)
《Ingredients (材料)》
Buckwheat flour 300 g   1 tsp chilli powder   3 eggs
"1" ⁄"4" " " tsp Thingay (wild pepper)   2 tbsp oil (preferably use mustard oil)
½ tsp salt   2 bunch spring onion or leek
〈日本語訳〉
そば粉300g   チリパウダー小さじ1   卵3個
ワイルドペッパー(シンゲ)小さじ1/4   オイル大さじ2(できればマスタードオイルを使用)
塩小さじ1/2   青ネギ(またはニラネギ)2束
《Preparation (調理)》
Mix buckwheat flour with warm water and knead thoroughly to make the dough soft. Run the dough through a traditional wooden noodle press (puta-par). Cook the noodles in boiling water for 5 minutes. After the noodles are cooked, drain the water and rinse with cold water. Rinsing in cold water makes the noodles firm. For the additives, heat the mustard oil and remove from heat before it bolls. Immediately add salt, chiili powder and Thingay to the hot oil. Pour the hot oil mixture over the noodles. Fry the eggs with chopped spring onions and add to the noodles. Puta is a specialty of the Bumthang region. One will not miss it if you are a guest of Bumthaps or happen to be a part of their celebrations. Most people prefer the dough that is made from sweet buckwheat. You can make puta contemporary by changing the additives.


1218ブータン料理05餃子(料理本)
↑料理本の蕎麦皮餃子(ヒュンテ)


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行基縁りの地を往く (5) - 土塔と八角円堂

玄奘塔(3) 玄奘塔内部


 12月22日(水)、年内最後の合同ゼミの日ですが、今日も卒論の中間発表会がおこなわれました。トップは私で、昨日の続きを発表しましたが、先生からのコメントはかなり厳しいものでした。まだ60点いくかどうか微妙なラインとのことであり、全員が90点以上をめざしてほしいと激励されました。そういえば、昨日はゼミ中にOBのノビタさん、今日はオンライン講義であまり大学に来なくなった会長さんが顔を出されました。以下も連載の続きです。(小霞)

薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔

 インドから大量の仏典を持ち帰り漢訳した玄奘三蔵(602-664)の遺徳を讃えるため、薬師寺に造営された分院。玄奘の思想は弟子の慈恩大師により「法相宗」として大成し、遣唐留学僧の道昭により日本に招来された。行基は道昭に学んだとされるが、初期の文献には両者を関係づける記載がないという。薬師寺は平成3年(1991)に玄奘三蔵院伽藍を建立した。設計監理は伊藤平左ェ門建築事務所、棟梁を西岡常一が務めた。中央の玄奘塔(八角円堂)には玄奘頂骨の分骨を収める。裳階を伴う特殊な八角堂である。薬師寺の場合、東塔に裳階がつき、金堂等の建物跡にも裳階の痕跡が残っているので、八角堂にも裳階をつけたものと思われる。法隆寺東院夢殿・西円堂、栄山寺八角堂、興福寺北円堂・南円堂の八角堂は裳階のない平屋建だが、裳階付きの玄奘塔はそれら以上に豪壮華麗にみえる(周礼考工記にいう「四阿重屋」の一種?)。現代建築ではあるけれども、土庇状裳階を伴う菅原遺跡円堂の類例としておおいに参考にすべきと考える。


玄奘塔 玄奘塔天井


 以下に玄奘塔の建築年代・構造形式・細部を示す。

〈構造形式〉 八角円堂一重裳階付
〈年代〉 平成3年(1991)
〈基礎〉 基壇壇上積 礎石建  
〈軸部〉 入側は四本柱、側は八本柱。柱は八角形断面。
  柱間装置:四面に板扉、その他四面に連子窓 擬宝珠高欄あり。
〈軒〉 出三斗? 中備 間斗束 二軒角垂木(地円飛方)
〈裳階〉 基壇端に礎石建 八角柱 出三斗 中備 間斗束 一軒角垂木
〈内部〉 大川呈一氏作の玄奘三蔵訳経像と共に、玄奘三蔵の頂骨を祀る。


玄奘塔(2) 玄奘塔調書



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行基縁りの地を往く (4) - 土塔と八角円堂

興福寺北円堂


 12月21日(火)、年度末最後の卒論卒論のゼミ。卒論中間発表が始まりました。私は3番目でしたが、途中で終わり、後半は明日に持ち越しになりました。一晩で修正を施し、明日に臨みます。以下は、連載の続きです。(小霞)

興福寺北円堂

 藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721) 8月、元明・元正天皇が長屋王に命じて建立させた八角円堂。治承4年(1180)、平重衡による南都焼討で伽藍の大半が被災し、北円堂は承元4年(1210)ころに再建された。東大寺が重源の大仏様によって復興したのとは対照的に、興福寺は古代の和様を継承した中世新和様で再建が進んだ。北円堂は古代の風格をよく伝えており、日本に現存する八角円堂のうち最も美しいと賞賛されることがしばしばある。柱上の組物は手先にひろがりのない三手先で尾垂木もない。軒は三軒で、地垂木を円とする。基壇は低く、高さ2尺余りか。


北円堂細部(2) 興福寺北円堂細部


 以下に北円堂の建築年代・構造形式・細部を示す。

〈構造形式〉 八角円堂一重本瓦葺
〈年代〉 創建:養老5年(721) 8月 再建:承元4年(1210)頃
〈基礎〉 基壇:壇上積 礎石建 
〈軸部〉円柱、八本の側柱を3重の地長押・腰長押・内法長押で固める。 
     柱間装置:板扉、連子窓
〈軒〉 三手先(尾垂木なし) 中備:平三斗上に通肘木を渡し、その上にさらに平三斗を
    おいて桁を受ける。三軒(地円飛角) 
〈内部〉 未見


北円堂細部(3) 北円堂調書


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行基縁りの地を往く (3) - 土塔と八角円堂

法隆寺西円堂 西円堂細部(2)


法隆寺西円堂

 法隆寺西院伽藍北西の小高い場所に建つ八角円堂。現存する遺構は鎌倉時代建長2年(1250)の再建だが、当初は養老2年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願によって、行基が建立したという寺伝がある。全体に古代の趣きをよく残す。とくに注目されるのは正面の向拝である。円堂から独立する四本柱で片流れの屋根を支える。ただし、向拝垂木上端の位置は本体の連子窓の楣の位置にあわせており、向拝の屋根面は八角堂屋根とほぼ接している。正面から遠望するに錣葺き風にみえる。八角堂本体と向拝・裳階の位置関係は参考に値する。


法隆寺西円堂細部 西円堂2


 以下に西円堂の建築年代・構造形式・細部を示す。

〈構造形式〉 八角円堂一重本瓦葺
〈年代〉 行基創建の伝承あり(寺伝):養老2年(718)  再建:鎌倉時代 建長2年(1250) 
〈本体細部〉 基壇:壇上積 礎石建  軸部: 角柱(八角形)8本 地長押・腰長押・内法長押
         軒:ニ軒角垂木 平三斗 中備 間斗束 
         柱間装置:四面扉(板扉4枚)、残り四面は壁 正面に連子窓
〈内部〉 堂の中央に薬師如来座像を安置する。
〈向拝〉 礎石建 几帳面取角柱 大斗肘木 一軒角垂木 (小霞)


西円堂向拝 法隆寺西円堂調書


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行基縁りの地を往く (2) -土塔と八角円堂

栄山寺八角堂


栄山寺八角堂

 栄山寺八角堂(国宝)は藤原武智麻呂の没後、子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立した供養堂とされる。竣工の年代は武智麻呂の墓が栄山寺北側の山上に改葬された天平宝字4年(760)から仲麻呂の没した天平宝字8年(764)までの5年間に絞られる。基壇上の柱配置は入側筋が四本柱、側柱筋が八角形を呈する。夢殿に比べ、柱間に対して柱が長く、こうした縦長の比例のほうが土庇をつけやすい。年代・造形からみて、夢殿以上に重要な奈良時代の菅原遺跡「円堂」の類例と考えられる。


栄山寺細部 栄山寺八角堂正面扉


 以下に栄山寺八角円堂の建築年代・構造形式・細部を示す。

〈構造形式〉 八角円堂一重本瓦葺
〈年代〉 竣工:天平宝字4年(760) ~ 天平宝字8年(764)  鎌倉時代に修理(野小屋形式となる?)。明治44年(1911)の解体修理以前は草葺きであった。解体調査により本瓦葺きに推定復元しているが、軒の「地円飛角」については、夢殿が地垂木・飛檐垂木とも方形断面である点からみて、信頼性に乏しいと思われる。
〈軸部〉 基壇:壇上積 礎石建 軸部:側は8本柱、入側は4本柱 地長押・腰長押・内法長押 
      柱間装置:四面(東西南北)に板扉、その他四面に連子窓 縁・高欄なし。
〈軒〉 ニ軒(地円飛角) 中備:頭貫上に間斗束、その上に桁 隅:出三斗
〈内部〉 極彩色の飛天、菩薩、鳥などが内陣の天蓋や柱や貫に、格天井には蓮華が、今も天平時代のすぐれた壁画が残っている。屋根上の宝珠は復元品で、当初のものとされる石造宝珠残欠は、塔の堂内に保存されている。(小霞)


栄山寺八角堂(2) 栄山寺調書



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一瀬由梨落涙

麻雀最強戦ファイナル

 サッカー観戦後の12月12日(日)深夜、私は十年に一度ほどしか味わえない感動に涙した。それは、サッカー日本代表が初めてワールドカップ出場を決めたときほどの感涙であった。麻雀最強戦の大ラス(南4局)で信じがたい大逆転を目の当たりにしたのである。全国名うてのアマ・プロが結集した大激戦を勝ち抜き、この日後半のファイナルに進んだのは醍醐大(最高位戦)、宮内こずえ(連盟)、瀬戸熊直樹(連盟)、一瀬由梨(連盟)の4名。一瀬由梨さんは若手女子プロの予選を勝ち抜いた新人(プロ4年め)だが、普段はシステム・エンジニアリングの仕事をしている。驚いたことに、出身は鳥取県だというが、一瀬(いちのせ)などという苗字が県内にあるとはとても思えない。要するに、芸名である。今は、お母様と一緒に鎌倉にお住まいらしい。
 今大会の快進撃は凄まじいもので、ファイナルの第1ステージでは、3位の場から役満の国士無双を和了り、首位に躍り出ている。放銃した相手は、元最高位の鈴木大介(プロ棋士)。鈴木のような実力者でも、先行リーチをかけていたので一瀬の役満を防ぐ術がなかった。


市瀬01


 鳥取県出身の美女雀士がその年の最強を決めるトーナメントのファイナルに残ったのはまことに誇らしいことではないか。今年は予選から女性の活躍が目立ち、セミファイナルの終了直前まで決勝卓に進むのは男子1名、女子3名になると思われたが、ぎりぎりのところで、最近「落ち目」と自虐する瀬戸熊(元鳳凰位)が滑り込み、男女2対2の構図となった。瀬戸熊は決勝に残った唯一のMリーガである。
 決勝でも、女性が先行し優位に立った。前半は均衡していたが、南二局から宮内が抜け出し、南四局1本場終了の段階で、トップ宮内(46,400点)、2位瀬戸熊(27,400点)、3位一瀬(15,900点)と続く。ラスの醍醐は1万点を切っており、すでに親も流れているので首位は絶望の状況。北家の市瀬は点差は大きいが、親の連荘で首位を脅かす可能性はあった。2位の瀬戸熊は、トップから2万点近く離されており、「倍自摸・跳直(ばいつも・はねちょく)」の厳しい条件が課されていた。だれもが宮内の初戴冠を信じて疑わなかった。
 異変は南四局1本場から始まった。一瀬がハンカチを取り出して静かに泣き始めたのである。えっ、なんで・・・と思っていると、まもなく宮内も涙目になっていく。決勝の雀卓はすでに表現しようのない磁場に支配され始めていたのだろう。最終局、宮内はハナから降りていた。自ら瀬戸熊に跳満を振り込む「跳直」さえ避ければ最強位になれる。誰だってそう思うだろう。サッカーで言えば、アディショナル・タイムのボールまわしをすればよいだけの状況であった。
 一方、瀬戸熊は諦めていなかった。倍自摸(倍満のツモ上がり)をクリアするための条件を考え尽くすしかない。配牌は良いとは言えないが、ドラが2枚ある。それは3枚に増え、4枚になり、カンして他家にさらされた。カンドラこそのらなかったものの、裏ドラは1枚から2枚に増えている。このころから、宮内の顔は恐怖におののき始める。瀬戸熊はタンヤオの役もつける。そうこうしていると、親の一瀬がリーチ。相変わらず感涙している。待ちは5・8萬。瀬戸熊は無筋の牌を切って前に進む。そして、テンパイ即リーチ。上がり牌は一瀬とオナテンである。さて、どちらが自摸るか。


市瀬02


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布施公園多目的グラウンド

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 こうみえてもまだ本学サッカー部の顧問をやっていて、ときおり書類に署名・押印したりする。ただし、タクヲら一期生が卒業してからリーグ戦に顔を出すことはなくなった。以来、15年以上の春秋を経ている。
 12月12日(日)、布施の総合運動公園まででかけた。かつて知ったる場所であり、身障者用の停車場に車をとめ、公園に向かって歩き始めた、いやまたこれが広大であり、サッカーの試合ができそうな場所がいくつかあるのだが、どこに行っても鍵がかかっており、どうしようもなくなって、管理事務所に電話すると、スタッフが軽トラに乗ってあらわれた。我が大学サッカー部が市のリーグ戦を戦っているのは総合運動公園から結構離れた位置にある「多目的広場」だという。滅私くんは事前に「多目的グラウンド」とメールで教えてくれていたので、まったく勘違いしていたのである。


1212布施04


 結局、多目的広場に着いたときには前半が終わろうとしていた。線審に戦況を訊ねると、0-2で負けているという。そもそも何故わたしが試合をみようと思ったのかというと、まずは滅私くんが残り2試合で引退するということと、今回の相手が強豪であり、県リーグのメンバー数名を加えており、惨敗する可能性があると聞いていたからだ。市リーグの試合に上位の県リーグの選手を加えてもよい、というのは理解に苦しむけれども、どれぐらい強い相手なのかは気になった。今から十数年前、私学1~2期生のメンバーは県リーグ1部までかけあがっていたので、そのレベルがどの程度かはだいたい分かる。自分自身、学生時代のチームが京都府の1部リーグに所属していた経験もあり、関西との実力差も重々承知しているつもりである。


 

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行基縁りの地を往く(1)-土塔と八角円堂

法隆寺東院夢殿 


旅の目的

 2021年11月5日~8日、私は卒業研究のために奈良を訪ねた。奈良市疋田(ひきた)町の菅原遺跡は昨年10月から今年の1月まで元興寺文化財研究所が発掘調査し、今年の5月22日にその成果が一斉に報道された。平城京西京極の外側に位置する。平城京二条大路の西の延長線と西三坊大路の交わるところに喜光寺(菅原寺)があり,その西北約1kmの丘陵頂部に菅原遺跡が所在する。寺の位置関係は『行基年譜』(1175)にいう「長岡院 在菅原寺西岡」の記載に一致し,東大寺大仏・大仏殿の造営を指揮した大僧正行基(668-749)の創建にかかる「長岡院」の可能性が高いとされる。しかも、遺跡(伽藍)の中心に建つ遺構が円形(もしくは正多角形)を呈し、行基の供養堂であるとする説が有力になっている。一般的に円形の建物を木造で実現することは困難であり、日本や中国では「八角円堂」「六角円堂」と称して、正多角形平面を「円」の代替としている。研究室では、教授と建築系OBが協力して、この種の「円堂」の一種として菅原遺跡円形建物の復元に取り組んでいる。


夢殿細部(2)


 復元に貢献するため、基礎データとなる奈良~鎌倉時代の八角円堂を私も訪ね、前期に摩尼寺等で実習した構造形式・細部の調書の作成を実践した。まずは菅原遺跡の概要を復習しておこう。発掘調査でみつかった中央の円形建物は東側と北側東半を回廊(単廊)、北側西半と西側を掘立柱塀で囲まれている(南側は不詳)。 区画の規模は推定ながら南北38.5m×東西(内法)36.4mを測る。南北回廊の中央には横長の東西棟が対称に存在した可能性がある。回廊・東西棟ともに掘立柱だが、聖徳太子を供養する法隆寺東院の配置を彷彿とさせる。「円形」建物が供養堂と推定される所以である。南側の雨落溝では瓦が大量に出土し、奈良時代中期(745~757)の軒平瓦を含む。北側回廊の柱穴からは8世紀中ごろの土師器坏も出土している。
 円形建物跡は同心円を呈する2列の遺構からなる。外側では16基の掘立柱掘形、内側には基壇地覆の抜取穴が環状に並ぶ。掘立柱列の直径は約14.5m、基壇のそれは約9mを測る。出土遺物から遺構の設置年代は8世紀後半、廃絶は9世紀前半とされる。現在、法隆寺夢殿、栄山寺八角堂、興福寺北円堂などの古代の供養堂を参照し、研究室として復元に取り組んでいる。奈良と堺で以下を調査した。
<八角円堂>
法隆寺東院夢殿、西円堂、栄山寺八角堂、興福寺北円堂・南円堂、薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔
<行基にかかわる遺跡>
大野寺土塔、東大寺頭塔、平城宮跡


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健康診断

 今年は、諸般の事情があり、年次の健康診断が本日まで遅れてしまった。昼下がり、ジャージを羽織って会場に出向く。いつもなら検診者でごったがえしているのに、今日は人影もまばら、控えスペースの椅子に腰掛けた途端ナース呼び出される猛スピードの展開についていけない。喜びは最初に訪れた。
 みなさん、私は体重が昨年(8月)に比べ、

-8.5kg

でした。あと少しで標準体重だそうです。原因は何か、よく分からないのですが、ストレスフルな生活が影響した可能性はもちろんあります。しかし、それだけではなくて、女房に聞くと、食べる量がずいぶん減った、とのことです。そもそも、鳥取の同居生活において、我が家は原則2食です。午前のブランチと夕食だけ。11月以降、散歩には出なくなりました。冬の山陰は歩きにくいよね・・・
 ついで心電図の部屋でウェストも測りました。

-8㎝

 でした。体重減の状況からみて、もっとお腹はへっこんでると期待していたのですが、少々がっくりです。このまえクロコダイルのズボンを3本買ったとき、さらに-10㎝のサイズで余裕があったんだけどなぁ。計測の女性によると、お腹のいちばん膨れているところで計測しているから、だそうです。

 一方、よくない傾向がありました。尿検査で糖がプラスの値を示したのです。人生初めてのことでした。「重症ですか」と医師に訊ねると、「いやそんなことはありません」との素気ない返事。この結果をうけて、わたしは大好きな以下の飲食品を絶つ決心をしたのです。

 1.まい先生ご推薦の「檸檬堂」各種
 2.ペットボトルの「抹茶ラテ」
 3.シュープリーズのケーキ(アルマーレは可とする)
 4.ラミーとバッカス
 5.仏壇に供える団子類

 これを聞いて女房は酔っぱらいつつ喜んでおります。全部わたしが食べたげる・・・とほほ。



この歌詞は原曲とは全然違いますね。ロビー・ロバートソンの詞はディランのように難解で、聖書の揶揄が頻出する。ちなみに、曲題の the weight とは原詞中の the load とほぼ同義であり、たぶん「重荷」のことだと思います。くわしくは こちら を参照。



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中国道蕎麦競べ(25)ーふなつ

1208松江00ジェクト01


ジェクト訪問

 12月8日(水)、全体ゼミの日ではあったが、松江の株式会社ジェクトを訪れた。宍道湖畔に白色のオフィスを構える。おもに防災関係の話しあいをした。論点は土木および文化財建造物のアーカイブと災害復旧の方法である。旧知の山村カメラマン、ゼミOBで活躍中の公爵ダッショ君と再会した。じつは山村さんは長く病気療養中であり、一度はお見舞いに行かなければならない、と思っていたのだが、ほぼ恢復してきており、週に一度程度のペースで出勤されている。ようやくお見舞いすることができてほっとした。


1208松江01ふなつ01わりご01


中国山地蕎麦工房

 午後からジェクトを訪問する前に近くの蕎麦屋「ふなつ」で昼食をいただいた。まずは基礎情報。

中国山地蕎麦工房 ふなつ
松江市外中原町117-6
0852-22-2361  創業:昭和46年
営業:11:00~売り切れまで(月曜定休)
椅子席(40) テーブル+イロリまわりのカウンター
昭和木造建築の改装 民芸キッチュ系 星3.4★★★☆☆


1208松江01ふなつ03かまあげ01 1208松江01ふなつ02縦sam

 
 松江となれば、当然のことながら、「わりご」(↑)と「かまあげ」(↓)である。いずれにも超小型の厚揚げ焼きと蕎麦団子がついている。中国山地蕎麦工房と銘打つだけあり、麺は野太く、皮粒のごつごつした食感がある。奥出雲タイプだと直感した。ネットで調べたところ、「奥出雲で専属の農家へソバの栽培にも出向き、収穫された玄ソバを保存し、その日の分量だけ自家製粉している」とのことである。宍道湖に近く、それゆえ舟津と名乗っているのであろう。山地と舟津の複合を理解するまで少々時間がかかる。
 建築は民家というほどではないが、おそらく昭和戦後の建物を改装したものであろう。門口にガラス張りのスペースを設けており、蕎麦打ちや釜揚げを観察できる。お昼どきの賑わいは相当なもので、しばらく入口際の椅子で客待ちをした。
 

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卒論目次案(3)

『金閣寺』と『金閣炎上』
-小説と映画からみた放火の倫理的考察

(村上)

1.研究の目的と概要
1-1 法隆寺金堂炎上から金閣寺放火まで
(1)法隆寺金堂初重火災-1949年
 修復と火災/文化財保護法改訂と文化財保護デー
 /世界最古の木造建築の実態-聖堂と廃墟と
(2)金閣寺放火-1950年
 修学僧の放火/時代背景-戦前と戦後の思想的転換
 /国宝解除と世界文化遺産登録
1-2 金閣寺放火を主題にした小説と映画
(1)三島由紀夫に係わる小説と映画
 三島由紀夫(1956)『金閣寺』新潮社
 市川崑監督(1958)『炎上』
 高林陽一監督(1976)『金閣寺』
(2)水上勉に係わる小説と映画
 水上勉(1962)『五番町夕霧楼』新潮社
 田坂具隆監督(1963)『五番町夕霧楼』
 山根成之監督(1980)『五番町夕霧楼』
 水上勉(1979)『金閣炎上』新潮社
(3)評論
 酒井順子(2010)『金閣寺の燃やし方』講談社
1-3 研究の目的
(1)金閣放火観-三島と水上の比較
(2)小説に窺う教育学的諸問題

2.三島由紀夫と『金閣寺』
2-1 三島由紀夫の生涯と作品
(1)『金閣寺』以前
(2)『金閣寺』以後
2-2 小説『金閣寺』要約
2-2 三島の美学と死生観-永遠の美と刹那の美
(1)金閣の美と女性の美
(2)生きる『金閣寺』と死ぬ『炎上』
(3)切腹の予感
2-4 身障者はなぜ物語に登場したのか
(1)吃音と人格
(2)内飜足と人格
(3)人格形成における障がい
2-5 三島文学の批評
(1)文学者と自殺-田中美代子の考察など
(2)海外の反応-『金閣寺』以前と以後

3.水上勉と『金閣炎上』
3-1 水上勉の生涯と作品
3-2 大衆文学『五番町夕霧楼』
(1)『五番町夕霧楼』要約
(2)水上の放火犯像
(3)映画1963年版と1980年版の相違点
3-3 ドキュメンタリーとしての『金閣炎上』
(1)『金閣炎上』要約
(2)禅宗の腐敗
(3)放火犯、林養賢の個性
3-4 人格形成と風土性
(1)同郷者-林と水上の類似点
(2)裏日本の風土性と人格
(3)三島『金閣寺』へのリプライとして

4.考察-三島と水上と教育学的教訓
4-1 金閣放火に対する三島と水上のスタンス
(1)放火犯の投影
(2)批評『金閣寺の燃やし方』
4-2 教職課程の学生として感じたこと
(1)障がい者はいかに生きるべきか
(2)佛師園の取り組み
(3)金閣放火に学ぶ道徳教育

5.おわりに

〈謝辞〉
《参考文献》



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卒論目次案(2)

日本海側過疎地の活性動態を探る
-北陸の実験・成功例と鳥取へのフィードバック

(東)

1.研究の背景と目的
1-1 研究の背景
(1)古民家「終活」の時代
(2)山中の蕎麦屋はなぜ繁盛しているのか
(3)山間過疎地の活性動態を探る-北陸紀行
1-2 摩尼寺門前の地域課題
(1)信仰心の薄れ-参拝客の減少
(2)門前茶屋の閉鎖と不振
(3)摩尼寺門前再興構想-北陸の経験から

2.古民家再生と移住・定住
2-1 カールさんとティーナさんの古民家村便り
(1)夏秋篇(2020)
(2)冬春篇(2021)
(3)新旧融合・和洋折衷の古民家再生
2-1 カール・ベンクス氏をめざして
(1)ベンクス氏の半生
(2)松代の町並みと古民家カフェ「渋い」
(3)ベンクス氏が案内してくれたアトリエ
(4)竹所を訪ねて
(5)移住者たちの家
(6)棚田の空撮

3.佛子園とJOCA -ごちゃまぜのまちづくり-
3-1 ごちゃまぜのまちづくりとは
(1)速水代表講義-ごちゃまぜのまちづくり
(2)佛子園の施設
(3)昼間から呑もう-B's行善寺
(4)蕎麦をめぐる佛子園とブータンのつながり
(5)輪島KABULETによる福祉系リノベーション
3-2 JOCA本部ー駒ヶ根
(1)JICAとJOCA
(2)駒ヶ根市生涯活躍のまち構想
(3)鳥取県南部町での地域おこし

4.兵庫県養父市の重伝建「大杉」の現状と課題
4-1 大杉地区の町並みと空洞化
(1)大杉の歴史と養蚕民家の特質
(2)人口減少と空き家の増加
(3)古民家再生の現状
4-2 民泊経験-ブータン料理の交流

5.鳥取県へのフィードバック
5-1 摩尼寺門前再興案
(1)「摩尼蕎麦」構想-ブータン蕎麦の活用
(2)カールベンクス的再生は可能か
5-2 過疎地域を前向きにとらえるために

〈謝辞〉
付録:データベース集成
《参考文献》


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卒論目次案(1)

大僧正行基と長岡院 -菅原遺跡を中心に-
(玉田)

第1章 研究の目的と概要
1-1 菅原遺跡「円堂」の発見
1-2 行基の空間的世界の理解にむけて

第2章 行基史略
2-1 『行基年譜』にみる行基の生涯
(1)反体制宗教者として-前半期の活動
(2)大僧正行基と東大寺大仏建立
(3)行基年表
2-2 行基四十九院
2-3 行基と道昭
(1)一般的通念としての道昭と行基
(2)潤色の可能性
2-4 菩提僊那の招聘と行基
2-5 行基と忍性-墓にみる八角の思想
(1) 生馬山竹林寺と行基の墓
(2) 墓所にみる忍性の思想的背景
 
第3章 行基縁りの史跡と八角円堂を訪ねて
3-1 行基縁りの地-遺跡と建造物
(1) 菅原寺
(2) 大野寺土塔と東大寺頭塔
3-2 八角円堂の軌跡
(1) 薬師寺玄奘三蔵院
(2) 法隆寺西円堂
(3) 法隆寺夢殿
(4) 栄山寺八角堂
(5) 興福寺北円堂
(6) 興福寺南円堂
(7) 安楽寺三重塔

第4章 菅原遺跡「円堂」の復元
4-1 菅原遺跡の概要と遺構
(1)  菅原遺跡と行基の長岡院
(2)  囲繞施設の遺構
(3)  円堂の遺構
(4)  遺物と年代観
4-2 復元の前提と類例
(1)  速報にみる円堂の復元イメージ
(2)  円堂遺構の特徴-平城宮第一次大極殿との類似性
4-3 建物跡の復元
(1)  基準尺の割り出し
(2)  円堂3案
(3)  囲繞施設の復元
4-4 八角円堂と行基
(1)  円堂3案の比較
(2)  平城宮東院庭園出土「五角斗」雛形の応用
(3)  行基と円と密教と

第5章 アジア密教建築史上の類例
5-1 中後期密教のストゥーパ
(1)古代インド最初期のストゥーパ
(2)敦煌壁画にみる宝塔と多宝塔風建物
(3)チベット・ブータン仏教のストゥーパ
 ・ストゥーパと立体マンダラ
 ・伽藍と宝塔の位置関係-東大寺頭塔との類似性
5-3 平安密教の宝塔・多宝塔

第6章 行基系建造物の座標
6-1 土塔と頭塔の再考
(1)大野寺土塔
(2)東大寺頭塔
6-2 円と多角形
(1)菅原遺跡にみる「円」への執着
(2)インドへの憧憬

〈謝辞〉
付録: 復元設計図・CG集
《参考文献・参考サイト》


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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