fc2ブログ

NHK「歴史探偵-信長・秀吉・家康 神への道-」放送後

 6月30日午後10時半より表記の放送がありました。普段は早寝する家内が起きていて、生で視たいという。私は恥ずかしくてね。こういうのは、だいたい録画して自分と関係あるところだけを視るようにするのですが、なかなか駆け引きがありました。夫婦でチャンネルの奪い合いになり、報道ステーションとNHKをいったりきたり。「もういいよ、さっさと寝ろよ」とせかすのです。家康の部分が長くて、家内は睡魔に挫け寝室へと去る。その直後、チャンネルを変えると、私が画面に映っていて、急ぎ奥を起こして番組を視ました。今回、わたしは岡垣くんの保護者的役割で、画面には映っていましたが、コメントは10秒あまりでしたか。本当はもう少し話していたんです。密教や禅宗では、すでに塔(仏舎利)の中心性はなくなっているから、境内の端におかれるのは当たり前であり、とくに意識的な配置ではない可能性があるし、摠見寺本堂は現存しないのだから(礎石のみ残存)、その高さは推定でしかなく、三重塔より高い位置にあったと確実に言えるわけではない、というふうに釘をさしたんですが、番組のストーリー上、そういうやや否定的な情報はないほうがいい。番組ではキリスト教が絶対神たる「盆山」に影響しているということでハッとさせられましたが、あれも歴史的に正しいかどうかは分かりません。
 岡垣くんを中心に研究室が制作したCGの著作権がやや曖昧でしたね。おそらく視聴者はNHKの制作と思ったことでしょう。事実、放送後にある人物から電話があり、感想を頂戴したのですが、CGは我々が作ったものだと言ったら驚いてましたからね。あのあたりは、番組制作側に一工夫ほしかったところです。

 驚いたことに、番組終了後、電話が鳴ったり、メールが届いたりして、少なからず反響がありました。「続き」に1年生の感想文をアップしておきます。無難な出来だったと思います。NHKに感謝申し上げます。


続きを読む

奈良新聞の報道(菅原遺跡)

東院庭園五角斗02写真web 東院庭園五角斗01図面sam


 奈良新聞朝刊6月24日(木)で菅原遺跡復元研究チームの活動が報道されました。取材を受けたのは12日で、21日に出稿するとのことで、報道を待ちわびていたのですが連絡なく、昨日問い合わせたところ、掲載後のメールが「下書き」に残っていたとのこと、直後にお電話を頂戴しました(笑)。大きな報道にしていただき、感謝しています。


奈良新聞2021年6月24日(菅原遺跡)_page-0001


 この際ですので、関係サイトを整理しておきます。

《関係サイト》
行基の長岡院-菅原遺跡訪問記
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2414.html
復元検討web会議
(第1回)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2415.html
(第2回)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2419.html
(第3回)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2428.html
栄山寺八角堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2417.html
広隆寺から興福寺へ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2423.html
奈良新聞の報道(菅原遺跡)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2429.html

復元検討web会議(第3回)

栄山寺と同じ★行基供養堂素案210621篠永さん作図_page-0001 栄山寺八角堂に基づく原案



 6月28日(月)午前、第3回復元検討web会議を開催した。参加者は5名。円形建物と周辺の囲繞施設に分けて討論した。まずは前者の問題から。

1.囲繞施設
 1)回廊
①サス組の上の平三斗をマスに変える。サスの勾配は急になる。
②瓦葺きを檜皮葺きに改める。
 2)北側建物:5間×2間
①妻飾をイノコ叉首、中間をサス組に(回廊も同じ)。
②平側前・後面の建具は、壁+連子窓+扉+連子窓+壁に(機能不詳)。
 3)北西・西側の一本柱(掘立柱)塀
①屋根をかけるのが難しいので、屋根のない塀・柵にするか、
②上土塀、上土門・冠木門・烏頭門を(貫や挿肘木を使わずに)シンプルに古代的にしたような閉塞・開閉施設とするか? 


回廊素案01 回廊(叩き台)


2.円形建物コラージュ

 栄山寺八角堂を母胎としながら、後代の安楽寺八重塔、興福寺南円堂などを参考にしてコラージュによりイメージをひろげていった。①下左の場合、屋根は栄山寺八角堂(野小屋をとってさらに緩くすべき)、軒は北円堂・南円堂系の隅の三手先をややおとなしく二手先に、一方、②右下は柱高を1.3倍とした場合。この案は裳階(土庇)上の組物(二手先か三手先)を外にみせようと意図したものである。この場合の二手や三手に尾垂木・秤肘木はつけない。通肘木は壁付の部分のみ。大屋根と土庇が近すぎるとシコロ葺きのようになって息苦しいのと、建物の高さを確保したいのであえて想定した。奈良時代にあるかと問われれば難しいが、興福寺北円堂がよく古代のスタイルを吸収しているとされるので、あえてコラージュを作成した(下左:会議当日の叩き台、下左:修正案)。
 なお、裳階(土庇)については、法隆寺金堂・安楽寺八重塔いずれも建具をいれているので、これに倣うべきという意見が強かった。


行基廟イメージ3b修正_page-0002web 行基廟イメージ3b修正_page-0003sam


3.栄山寺八角堂からのオーソドックスな復元(続)

 前回描いた栄山寺八角堂をモデルとする案(一番上の図)は土庇をつけると、全体がやや低平なイメージがあるので、柱高を+1尺、+2尺、+3尺とする3つの案が示された。+3尺の案はあきらかに柱が長すぎて古代の建物にみえない。+1.5尺前後が限度ではないか。今回の案では、頭貫を垂木掛としているが、頭貫よりも少し低い位置に長押を打ち、そこに垂木をかけるようにしないtと、屋根の上面は組物にまで食い込んでくるようにも思われる。
 この案は第1案として設計を進めるが、上にのべたように、大屋根と庇の間にスペースがなくシコロ葺きのようにもみえるので、隅の垂木を二手、三手にする案も併行して構想することにした。
 また、庇柱の上端は、繋梁、隅木、などが錯綜と納まりあうところは難しい。庇柱が掘立柱である点を尊重し、繋梁を省略する手もある。また柱上の斗は変則的な五角形のものが必要になる(平城宮東院庭園で出土しているので採用)。

4.その他
・檜皮葺きは後世の優雅なものではなく、杉皮重ね葺きのような「原始檜皮葺き」をイメージして復元するか。ただし、平安後期の年中行事絵巻の紫宸殿には、ある程度厚みのある檜皮葺きも描かれているので尊重しなければならない。
・円形建物の全長を49尺としているが、奈良時代建築の場合、10尺を基本単位とする傾向があるので、やはり50尺としてとらえるべきではないか。但し、49尺の場合、1尺=29.65㎝であるのに対して、それを50尺として捉えると、1尺が29.4㎝程度になるので、奈良時代後期の天平尺としてはやや短かするぎるかもしれない(奈良時代前期の第1次大極殿では29.54㎝)。今後の検討事項とする。


栄山寺+2尺★行基供養堂素案210621篠永さん作図_page-0001 栄山寺八角堂+2尺の案


【関係サイト】
復元検討web会議(第1回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2415.html
復元検討web会議(第2回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2419.html
復元検討web会議(第3回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2428.html
復元検討web会議(第4回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2439.html

行基の長岡院-菅原遺跡訪問記
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2414.html
栄山寺八角堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2417.html
広隆寺から興福寺へ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2423.html
奈良新聞の報道(菅原遺跡)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2429.html
法隆寺西円堂・夢殿と喜光寺
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2436.html

NHK「歴史探偵-信長・秀吉・家康 神への道-」出演(6/30水)

 NHKの歴史番組「ヒストリア」をご存じの方も少なくないと思いますが、今年4月から「歴史探偵」と改名されて毎週水曜日午後10時半より放送されています。来たる6月30日の回には、私とゼミOBの岡垣くん(市文化財課)が短時間ながら出演します。放送日時等の詳細は以下のとおりです。

番組名
「歴史探偵-信長・秀吉・家康 神への道-」
https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/N998N5WQXG/
放送日時
本放送:2021年6月30日(水)22時30分~23時15分 NHK総合 全国
再放送:2021年7月02日(金)15時10分~15時55分 NHK総合 全国

 内容は、神仏を超える存在になろうとした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の思考に迫るものです。岡垣くんは2008年、「安土城摠見寺再建学生設計競技」に参加して優秀賞(全国2位)を獲得し、それをもとにした「仏を超えた信長」と題する卒業研究でも建築・環境デザイン学科金賞を受賞しました。さらに、修士課程進学後、私と連名で論文を本学紀要に投稿し掲載されました。この紀要論文がNHK担当者の目にとまって取材の申し込みがあり、3月下旬に本学演習室でロケがおこなわれました。
 ロケでは、岡垣くんが大型コンピュータでCADを操作しつつ、二人で安土城摠見寺復元の考え方を説明しました。摠見寺の設計に、仏を超える信長の構想が読み取れる、というものです。ぜひともご視聴ください。

《関係サイト》
煌めく優秀賞! -安土城摠見寺再建学生コンペ
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-1619.html
環境学部の浅川滋男教授がNHKの「歴史探偵」に出演します
https://www.kankyo-u.ac.jp/news/2021nendo/20210624/

《関係資料》
岡垣頼和・浅川滋男
「仏を超えた信長-安土城摠見寺本堂の復元-」
『鳥取環境大学紀要』第8号(2010):pp.31-51
https://www.kankyo-u.ac.jp/f/introduction/publication/bulletin/8/1089.pdf

2021いい加減に学ぶ中国語講座(5)

MACAU SKYLINE


百度百科「澳門」翻訳(5)
https://baike.baidu.com/item/%E6%BE%B3%E9%97%A8/24335

 皆さん、こんにちは。ブログをご覧いただきありがとうございます。修士1年の金巴克です。今回も和訳を通して、マカオの理解と日本語の向上に努めます。よろしくお願いいたします。

ポルトガル植民地として

1.原文
殖民历史
 1553年,开始有葡萄牙人在澳门居住。虽然从1557年开始被葡萄牙人在明朝求得澳门的居住权,但明朝政府仍在此设有官府,由广东省直接管辖。直至1887年葡萄牙政府与清朝政府签订了《中葡会议草约》和有效期为40年的《中葡和好通商条约》(至1928年期满失效)后,正式通过外交文书的手续占领澳门。
 1622年,荷兰人攻打葡萄牙租借自明朝的澳门,被击败(澳门之战)。1627年荷兰人再次来犯,又战败于澳门海战。
 葡萄牙人最初限定只能居住在澳门南方,1623年,葡萄牙政府委任马士加路也为首任澳门总督。澳门历史上以中西文化交流驰名于世,明末清初的西学东渐在地区上扮演一个重要的角色,曾在世界经济的运转中发挥重大作用。
 澳门自被葡萄牙侵占以来,葡萄牙人在澳门一直拥有特权或特殊地位,这使普遍居民大小程度的不满;从1849年8月29日沈志亮刺杀总督亚马留伊始,直至1966年12月3日因文化大革命和氹仔学校事件而触发的“一二·三”事件,均显示了民间对于葡萄牙人在澳门的特权一直深感不满。1974年4月25日,葡萄牙革命成功,实行非殖民地化政策,承认澳门是被葡萄牙非法侵占的,并首次提出把澳门交还中国。由于当时不具备适当的交接条件,时任总理的周恩来提出暂时维持澳门当时的状况。


マカオ港務局大樓


2.中国の簡体字を日本の漢字に変換
楽訳中国語変換 http://www.jcdic.com/chinese_convert/

 1553年,開始有葡萄牙人在澳門居住。雖然従1557年開始被葡萄牙人在明朝求得澳門的居住権,但明朝政府仍在此設有官府,由広東省直接管轄。直至1887年葡萄牙政府与清朝政府簽訂了《中葡会議草約》和有効期為40年的《中葡和好通商条約》(至1928年期満失効)后,正式通過外交文書的手続占領澳門。
 1622年,荷蘭人攻打葡萄牙租借自明朝的澳門,被撃敗(澳門之戦)。1627年荷蘭人再次来犯,又戦敗于澳門海戦。
 葡萄牙人最初限定隻能居住在澳門南方,1623年,葡萄牙政府委任馬士加路也為首任澳門総督。澳門歴史上以中西文化交流馳名于世,明末清初的西学東漸在地区上扮演一個重要的角色,曾在世界経済的運転中発揮重大作用。
 澳門自被葡萄牙侵占以来,葡萄牙人在澳門一直擁有特権或特殊地位,這使普遍居民大小程度的不満;従1849年8月29日沈志亮刺殺総督亜馬留伊始,直至1966年12月3日因文化大革命和氹仔学校事件而触発的“一二·三”事件,均顕示了民間対于葡萄牙人在澳門的特権一直深感不満。1974年4月25日,葡萄牙革命成功,実行非殖民地化政策,承認澳門是被葡萄牙非法侵占的,併首次提出把澳門交還中国。由于当時不具備適当的交接条件,時任総理的周恩来提出暫時維持澳門当時的状況。


3.和訳
 1553年にポルトガル人はマカオに住みを始めた。ポルトガル人によって1557年より明王朝からマカオの居住権を獲得したが、明王朝は依然としてここに官府(自治政府)を設け、広東省を通して直接に(マカオを)管轄した。1887年になって、ポルトガル政府と清政府が「中葡会議草案条約」と有効期40年間の「中葡友好通商条約」(1928年に満期失効)を締結した後、正式な外交文書を通して(ポルトガルは)マカオを占領した。
 1622年、オランダは、ポルトガルが明王朝から租借したマカオを攻撃し、敗北した(マカオの戦)。1627年、オランダは再度マカオに襲来したが、マカオの海戦でまた敗れた。
ポルトガル人は当初マカオ南部に限定して居住していた。1623年、ポルトガル政府はマスカロ(Francisco Mascarenhas)をマカオの初代総督に任命した。マカオは歴史上、中国と西洋の文化交流によって世界に名を馳せた。明末清初の西学東漸(西洋の学問が東洋に漸次浸透すること)はこの地において重要な役割を果たし、世界経済の動向に重大な影響をもたらした。
 マカオがポルトガルに占領されて以来、ポルトガル人はいつでもマカオで特権や特別な地位を有していたため、(華人系の)居住者は大なり小なり不満を抱いていた。1849年8月29日に沈志亮がアマリウ総督を刺殺した事件から、1966年12月3日の文化大革命とタイパ学校事件によって触発された「12·3」事件まで、(華人系)民間人がマカオにおけるポルトガル人の特権に対してずっと深い不満を抱いていた事実を示すものである。1974年4月25日、ポルトガル国内の(市民)革命が成し遂げられ、脱植民地化の政策を実行した。ポルトガルはマカオの不法占拠を認め、初めてマカオの中国返還を提案した。(しかしながら)当時は適切な交換条件を整えることができなかったので、時の総理・周恩来は、マカオの当時の状況をしばらく維持することを提案した。(金巴克・遊民)


聖フランシスコ・ザビエル教会


2021いい加減に学ぶ中国語講座(4)

アルメイダ・リベイロ通り(2)


百度百科「澳門」翻訳(4)
https://baike.baidu.com/item/%E6%BE%B3%E9%97%A8/24335

 みなさん、こんにちは。4年の遊民です。今回も中国語翻訳の続きを行いました。少しづつですが翻訳のスピードが上がっており、これまでの成果を感じています。今以上によくなるようにもっと頑張りたいと思います。


マカオ所轄と変転(1)-明代まで

1.原文
 澳门先秦属百越地。从秦帝国起就成为中国领土,属南海郡。澳门古称濠镜澳,与广州香山县的历史关系极其密切。早在春秋战国时期,香山已属百越海屿之地。约前3世纪(即秦始皇一统中国之时),澳门被正式纳入中国版图,属南海郡番禺县地。420年(晋朝元熙二年),澳门属新会郡封乐县地。590年(隋朝开皇十年),废新会郡改属宝安县地,757年(唐朝至德二年),废宝安县,改为广州东莞县辖。自南宋开始,澳门属广东省广州香山县。据史料记载,宋末名将张世杰与军队曾在此一带驻扎;早期在澳门定居的人在此形成小村落,倚靠捕鱼与务农种植为生。元代属广东道宣慰司广州路,路治广州,明代属于广州府,清朝后期前属广肇罗道广州府,道治肇庆,府治广州。
 澳门半岛之有大量华人定居,是在南宋皇朝倾覆之际。当几十万南宋军民从福建败退乘船长驱到达澳门一带,有的可能踏上这片半岛汲取淡水、寻找食物,有的更可能将这片荒僻地辟成藏身之所。召集澳门半岛上名为“永福古社”的沙梨头土地庙,便相传邕建于南宋末年。大约在南宋末年至元初,澳门半岛上的望厦、濠镜等地,已是定居的居民点了。自此以后,澳门始稍有人烟,但由于地方细,耕地缺,物产少,立足生活繁衍后代并不容易。直至16世纪中叶,即明世宗嘉靖年间。

2.中国語の簡体字を日本の漢字に変換
参考サイト「楽訳中国語翻訳」http://www.jcdic.com/chinese_convert/

 澳門先秦属百越地。従秦帝国起就成為中国領土,属南海郡。澳門古称濠鏡澳,与広州香山県的暦歴史関系極其密切。早在春秋戦国時期,香山已属百越海嶼之地。約前3世紀(即秦始皇一統中国之時),澳門被正式納入中国版図,属南海郡番禺県地。420年(晋朝元熙二年),澳門属新会郡封楽県地。590年(隋朝開皇十年),廃新会郡改属宝安県地,757年(唐朝至徳二年),廃宝安県,改為広州東莞県轄。自南宋開始,澳門属広東省広州香山県。拠史料記載,宋末名将張世傑与軍隊曾在此一帯駐扎;早期在澳門定居的人在此形成小村落,倚靠捕魚与務農種植為生。元代属広東道宣慰司広州路,路治広州,明代属于広州府,清朝后期前属広肇羅道広州府,道治肇慶,府治広州。
 澳門半島之有大量華人定居,是在南宋皇朝傾覆之際。当幾十万南宋軍民従福建敗退乗船長駆到達澳門一帯,有的可能踏上這片半島汲取淡水、尋找食物,有的更可能将這片荒僻地辟成蔵身之所。召集澳門半島上名為“永福古社”的沙梨頭土地廟,便相伝邕建于南宋末年。大約在南宋末年至元初,澳門半島上的望厦、濠鏡等地,已是定居的居民点了。自此以后,澳門始稍有人煙,但由于地方細,耕地缺,物産少,立足生活繁衍后代併不容易。直至16世紀中葉,即明世宗嘉靖年間。


アルメイダ・リベイロ通り




続きを読む

バジルと紫蘇の日々

しそDSC_0514 しそDSC_0512


紫蘇ライムサワー

 庭に鉢植えした野菜やハーブの収穫期を迎えている。獅子唐、茄子、胡瓜の初物が採れ始め、バジルと青紫蘇(大葉)は茎もたわわになっていて、すでに何度も食卓を飾っている。みな瑞々しい。庭で採れた野菜類で夕食を用意し、家族で食卓を囲むのは極上の幸せである。なぜか分からないか、いま、この世の中で、これ以上の幸せを感じることはない。
 収穫量が多いのはバジルと大葉である。これらハーブ類を上手に育てるこつは「花摘み」だと思っている。花が咲きそうになったら、茎ごと切り取る。花と茎は捨て、葉っぱだけ籠に集めていく。花が咲く前の葉っぱは瑞々しく、柔らかく、良い匂いがする。紫蘇の葉はすぐに成長する。いくらでもできる。梅酒漬けに嵌まっていたある日、そうか、紫蘇もつければいい、と思うに至った。自家製の鍛高鍛ができる。そう思って1週間ほど漬けた結果、すばらしい香りの紫蘇酒になった。これに、ライムのシロップを混ぜ合わせ、ソーダを注げば極上の紫蘇ライムサワーになる。どうか試してみてください。みなさんとこの幸福を分かち合いたい。
 大葉とメンタイコとしらす干しのパスタもいい。もうヤになるくらいたっぷりの大葉のみじん切りをパスタにぶっかけて食べる。そうそう、餃子に大葉を巻き付けて食べるのもおいしい。紫蘇ライムサワーによく合います。食後はミントとレモンバウムのハーブティ。70℃ぐらいの湯でじっくり味を引き出しましょう。


バジルDSC_0510 バジルDSC_0505


バジル・パスタ

 バジルのパスタについては、すでに何度か取り上げたが、息子の得意料理の一つになってしまっている。バジルの葉が新鮮だと抹茶のように緑が鮮やかなペーストができます。花を咲かせたままにしておくと、葉に養分がいかないので硬めになり、ペーストは人民解放軍の軍服のような濃緑色に退化する。ともかく、花が咲きそうになったら、茎ごと摘んでしまうのがいい。


バジルDSC_0501


 今日は父の日ということで、昨夜のイブから高級なバーボンやらワインが集まってきて、食卓は二夜連続でおおいに盛り上がりました。なんだジムビームか、と思う勿れ。これは極上もんです。ワインもチリの高いやつ。アルパカの3~4倍はする。美味、美味。ところで最近、シャトレーゼがワインをグラム売りしていて、娘はボトルつきグラム売りワインをプレゼントしてくれたの。ワインがなくなったら、ボトルをもってシャトレーゼに行けばいい。エコではないの。鳥取のシャトレーゼにもたぶんあると信じましょうね。


バジルDSC_0507 サワーDSC_0516

広隆寺から興福寺へ

広隆寺桂宮院本堂(山村) 安楽寺八角三重塔(長野)南北朝14C


広隆寺桂宮院本堂

 6月13日(日)、京都太秦の広隆寺(真言宗)へ。広隆寺は推古天皇十一年(603)開山の伝承がある山城(京都)最古の寺院であり、四天王寺、法隆寺等とともに聖徳太子建立の七大寺の一つとされる。また、秦寺、秦公寺、太秦寺などの別名があり、渡来人である秦氏の氏寺とされる。訪問の目的は桂宮院本堂(八角円堂)を視察することであったが、数年前から完全に非公開になっているということで参拝を断念した。事前にネットで情報を集めた際には、門から八角円堂を覗く写真が少なからず掲載されており、門の外から望遠レンズで十分細部をとらえうると思っていたのだが、塀門の外からは一望だにできないということである。仕方がないので、『廣隆寺』なる図録を購入した。その「桂宮院(国宝)」なるページの文章によれば、「建長八年(1251)に中観上人により再建された鎌倉建築で、単層屋根檜皮葺八柱造であり、頂上に八角形の露盤を置き、その上に宝珠を載せている。屋根の勾配が非常に緩く、しかも軒の反りが強いのと、檜皮葺であるため、軽快な風情を与えており、廻縁が広いために安定して落ち着いた美しさを感じさせる。内部には柱がなく、板敷きで、須弥壇等は設けず、中央に聖徳太子像、向かって右に阿弥陀如来、その他如意輪観音像が安置してあった」。
 板敷きや廻縁、及びその床下にある亀腹は中世期の特徴であり採用できないが、内側に柱を立てない檜皮葺八柱造の構造は大変気になるところである。菅原遺跡円形建物の本体部分は基壇上の礎石建瓦葺きであるとしても、周辺の円形に近い(おそらく十六角形の)土庇の構法の復元にとっては有力な参照事例となるであろう。連子窓も縦長ではなく、高い位置で横長に設置しており、上側(マグサ)の長押は頭貫に近く、下側の長押は高い位置となる。下側の長押を土庇との繋梁の受けに使い易い。
 上の写真(左)は国宝建造物の撮影をライフワークとされる山村カメラマンのHPから転載させていただいたものである。右も同じライブラリーからの転載になる安楽寺八角三重塔(南北朝14世紀)だが、三重塔の一重と二重をカットして屋頂部と裳階を組み合わせれば、菅原遺跡円形建物の造形に近づくように思われる。
 というわけで、自主的門前払いを実行した。それにしても疲れたので、門前まわりで蕎麦でもたくろう、としたのだが、緊急事態宣言下の京都、軒並み店は閉まっていた。なんとかテイクアウトしている店をみつけて物色。京都名物、ハモの天麩羅の弁当に舌鼓。


0612興福寺01南円堂01遠景01 0612興福寺01南円堂05唐破風02sam


興福寺南円堂

 広隆寺の檜皮葺き八角堂を見損ねたが、心機一転、奈良の興福寺をめざした。すでに見慣れた大寺ではあるけれども、南円堂と北円堂を観察しなおそうと決めたのである。南円堂は弘仁4年(813)、藤原冬嗣が父の内麻呂の追善のために建立した供養堂である。平安期の鎮壇には空海が関わったと伝承される。興福寺は藤原氏の氏寺(法相宗)であったが、後に摂関家となる北家の力が強くなり、北家の内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特別な位置を占めた。本尊は不空羂索観音菩薩。創建以後、4度の再建が繰り返され、現在の建物は寛保元年(1741)に立柱、寛政元年(1789)に竣工したものである。正面(東)には間口1間・奥行2間の「拝所」があり、唐破風の向拝と本体の繋ぎとなる部分の上に短い裳階を掛けている。


0612興福寺01南円堂03宝珠01 0612興福寺01南円堂06基壇01
 

 

続きを読む

なんでも拓ろう(2)-広岡神社

広岡DSC_0866 広岡DSCN1755


広岡神社を拓る

 6月9日(水)、広岡神社で拓本採取に取り組みました。広岡神社がある地域の広岡は平岡とも書かれます。空山北部の低い丘陵地の山すそに位置し、裏山には坊ヶ塚古墳があります。大学から車で5分ほどのところにありました。周辺の村は江戸期~明治22年の間、広岡村と呼ばれていました。南は紙子谷に面して、若桜街道筋に位置しています。この村の氏神は八代荒神で、明治7年に広岡神社と改称されました。地蔵盆の奉納踊りが古くから伝承されています。この奉納踊りは京都壬生寺の念仏踊りの流れを汲むといわれています。


広岡DSCN1763 広岡DSCN1764


 広岡神社の入口はやはり照葉樹の森(杜)に囲まれており、灯篭が1基建っていました。すぐ横には石段があり、石段の途中には鳥居がありました。鳥居をくぐった先には1対の狛犬があり、石段を登り切ると本殿がありました。今回の調査では拓本をおこないました。入口の灯篭1基と、1対の狛犬の基台、本殿前の灯籠2基と本殿の向拝虹梁の絵様の計6箇所の拓本を採りました。狛犬の基台から5人の願人名を読み取ることができました。狛犬は出雲構え獅子で腰を上げて今にもとびかかりそうなポーズをしています。狛犬の基台の拓本を担当しましたが、木製建築部材で練習した時と違い、表面がざらざらしているため拓本を取るのが難しかったです。拝殿前の石灯籠では安永六年(1777)、鳥居前の石灯籠は安政四年(1857)の年号を読み取れました。前者はこれまでみた近隣の神社では最古の年代です。


広岡DSC_0901 広岡DSC_0905
↑↓狛犬基台の願人名
廣岡神社 狛犬基台20210616_170147


続きを読む

2021いい加減に学ぶ中国語講座(3)

図1ーホテル産業


百度百科「澳門」翻訳 テイケンキン・魚谷侑磨
https://baike.baidu.com/item/%E6%BE%B3%E9%97%A8/24335


濠鏡、濠江、海鏡、鏡海 一澳門の別名

1.原文
 澳门实行资本主义制度,是国际自由港、世界旅游休闲中心、世界四大赌城之一,也是世界人口密度最高的地区之一。其著名的轻工业、旅游业、酒店业和娱乐场使澳门长盛不衰,成为全球发达、富裕的地区之一。2017年,澳门地区生产总值4042.0亿澳门元。
 澳门以前是个小渔村,它 的本名为濠镜或濠镜澳,因为当时泊口可称为“澳”,所以称“澳门”。澳门及其附近盛产蚝(即牡蛎),因此后人 把这个 名称改为较文雅 的“濠镜”。清乾隆年间出版的《澳门纪略》中说:“濠镜之名,于《明史》。东西五六里、南北半之,有南北二湾,可以泊船。或曰南北二湾,规圆 如镜,故曰濠镜。”从这个名称中,又引申出濠江、海镜、镜海等一连串澳门的别名。

2.中国語の繫体字を日本語の漢字に変換
参考サイト「楽訳中国語翻訳」 http://www.jcdic.com/chinese_convert/

 澳門実行資本主義制度,是国際自由港、世界旅遊休閑中心、世界四大賭城之一,也是世界人口密度最高的地区之一。其着名的軽工業、旅遊業、酒店業和娯楽場使澳門長盛不衰,成為全球発達、富裕的地区之一。2017年,澳門地区生産総値4042.0億澳門元。
 澳門以前是個小漁村,它的本名為濠鏡或濠鏡澳,因為当時泊口可称為“澳”,所以称“澳門”。澳門及其附近盛産蚝(即牡蛎),因此後人把這個名称改為較文雅的“濠鏡”。清乾隆年間出版的《澳門紀略》中説:“濠鏡之名,于《明史》。東西五六里、南北半之,有南北二湾,可以泊船。或曰南北二湾,規円如鏡,故曰濠鏡。”従這個名称中,又引申出濠江、海鏡、鏡海等一連串澳門的別名。


図2ー16世紀のマカオ地図


3.和訳
 マカオ(澳門)は(中国の共産主義ではなく)資本主義制度を実行しており、国際的な自由貿易港であり、世界の観光とレジャーの中心、世界四大ギャンブル都市の一つであり、世界で最も人口密度の高い地域の一つである。 その軽工業、観光業、ホテル産業とカジノはマカオに長期の繁栄をもたらし、衰えをみせることはない。世界的にみて最も先進的で裕福な地区の一つになっている。 2017年、マカオのGDP(国民総生産)は4,402億パタカ(約6兆円)である。
 マカオはかつて小さな漁村であり、その元の名は濠鏡または濠鏡澳であった。当時、埠頭を「澳」と称することもあったので、マカオは「澳門」と呼ばれた。 マカオとその周辺ではカキ(牡蠣)を産していたことで、後世、より雅な趣きのある「濠鏡」と改められた。 清の乾隆年間に出版された『澳門紀略』は以下のように記している。「濠鏡という名は『明史』に記される。東西5~6里(約2.5~3km)、南北はその半分。南北には二つの港があり、船を停められる。あるいは、南・北二湾がまるで鏡のように円弧を描くので、濠鏡という」。 この名前から、濠江、海鏡、鏡海などの一連のマカオの別名が派生した。(金巴克・遊民)


図3ーマカオの埠頭地区(1900年) 図5ーマカオの道の風景

なんでも拓ろう(1)-禰宜谷神社

0602禰宜谷00拓本実習02 0602禰宜谷00拓本実習01


乾拓実習

 6月2日(水)、拓本の実習・演習に取り組みました。拓本とは「木・石・器物などに刻まれた文字・文様を紙に写し取ったもの。また、その技法。湿拓と乾拓とがある。石摺り。搨本(とうほん)。」(weblio辞書)とあります。研究室が得意とするのは乾拓です。フィールドに出る前に、まずは演習室で、神社建築の部材(実肘木・斗束・蟇股)の模様や形を写し取る実習を試みました。
 和紙を写し取りたい面に合わせ、固形墨で少しずつ擦っていくと、木目や文様が浮き出てきます。実肘木の絵様はとくに重要で、雲の渦の形で年代が推定できると聞きました。渦が正円に近いと古く、楕円形に凹めばへこむほど新しくなるそうです。
 


0602禰宜谷01門前鳥居 0602禰宜谷01門前灯籠01調査風景web


禰宜谷神社を拓る

 その後、今年最初のフィールドワークへ。大学に近い禰宜谷神社に8名で訪れました。空山東部の山すそ、禰宜谷の谷間、鳥取市祢宜谷227に所在します。禰宜(祢宜)とは、神職の一つで、一般の神社では宮司の下位、権禰宜の上位に置かれ、宮司を補佐する者の職称です。禰宜谷という地名の由来は意上奴神社の禰宜に関係すると伝承され、昨年調査した北側の紙子谷(元は神子谷)とセットとして考えるべき地名と思われます。源範頼の墓といわれる宝篋印塔が杜の上にあります。『角川日本地名大辞典31 鳥取県』(1982:p.〓)で歴史のあらましを調べてみました。

 《禰宜》 江戸期〜明治22年の村名。明治22年〜現在の大字名。近世は因幡国法美郡のうちの鳥取藩領。戸数は文久3年「組合帳」で15戸。文政2年、溜池新堤の検分が行われている(『県史』10)。『因幡志』によれば、若桜街道の駅があり、隣村へは南の西門尾村まで14町、この道の途中に法美・八上の両郡の境をなす三本松があった。社の氏神は武王大明神で、明治7年禰宜谷神社と改称。同22年津ノ井村の大字、昭和38年から鳥取市の大字となる。明治24年の戸数23/人口113、水車1(微発物件一覧)。その後は、昭和35年が32/185、同40年が32/163、同50年が21/99。


0602禰宜谷03拝殿前00調査風景01 拝殿+本殿覆屋



続きを読む

復元検討web会議(第2回)

 6月9日(水)夕刻、第2回の復元検討web会議を開催した。参加者は4名。まずは遺構配置の復元検討から。1尺=29.65㎝として遺構にできるだけ忠実に柱位置を復元した。

 1)中央の円形建物と周辺の回廊等囲繞施設は3°ばかり方位軸のずれがあり、建設の時期差を反映するものと推定した。たとえば、以下のような遺構変遷が考えられる。

750~760年ころ(行基没:749年、出土軒瓦の上限:760年)
 円形建物を建立(土庇は基壇上の八角円堂よりやや遅れる)
760~770年ころ
 掘立柱の回廊等囲繞施設が完成
(円形建物の土庇はこの時期にくいこむかも?)
800~850年ころ
 廃絶

 2)北側と西側を画する回廊(掘立柱単廊)の柱間には、7.5尺、8尺、10尺、12尺の4種類が確認された。地形に対応するものか。北側の5間×2間の建物の東脇の柱間は12尺と広く、脇門が存在した可能性がある。
 3)北東と東側の掘立塀も7尺、10尺など柱間は各種ある。円形建物の真東で東大寺を遠望できる位置には20尺の柱間があり、西側に雨落溝を伴う。この柱間の中間で小さなピットも発見されているようであり、10尺×2間として、柱間2間の棟門を想定する。法隆寺西院中門は4間2戸の偶数間であり、菅原遺跡の東塀に取り付けられた棟門が2間門であっても不自然ではない。2間門の場合、「一方から入り、他方から出る」。ただし、推定「棟門」の外側は急傾斜地であったとも思われるので、この門は東大寺を遙拝する際の飾り(荘厳)のような施設だったのかもしれない。

 次に、栄山寺八角堂をモデルとした円形建物の平面図・見上げ・断面図の叩き台を全員で検討した。

 4)平面は入側4本柱の柱間10尺として、その外側に正八角形の側柱列を並べる場合、入側-側の柱間は10/√2≓7尺となる。また、側柱から土庇の出は12.5尺となった。栄山寺八角堂に倣うこの案をA案とする。一方、四本柱の柱から放射状にのびる位置に八角柱のうちの4本を立てる平面図も作成している。この案をB案とする。B案の復元は今後、検討する。
 5)A案を栄山寺の矩計で再現したところ、側柱の窓の下側の長押から繋虹梁を土庇の柱にわたすと構造が安定するが、繋ぎのない案も今後検討すべきではないか。土庇の垂木上端は側柱頭貫の下に垂木掛け(長押)に掛ける。こうすると土庇屋根の勾配は1.5/10程度になり、板葺き以外ありえない。しかし、その葺板は4m以上になる。法隆寺金堂裳階の大和葺は短く、平城宮出土の大和葺板も長さ2m前後であり、4mは長すぎるかもしれない。これを檜皮葺きとするには、柱高をさらに高くとる必要があり、そうした案も作図してみることになった。中近世の宝塔/多宝塔のように、飛貫から上で2~3重に長押をまわし、高くて不安定な軸部を固めながら、八角円堂の高さを確保してはどうか。
 6)土庇の見上げは、前回提案のあった四角形と三角形を交互に入れ込むことで16角形になり、円形そのものではないが円形に近くできる。基壇もまた、この16角形とすれば、円形に近づけることができる。出土遺構をみても、2~3箇所の地覆抜取が直線を呈しており、16角形案に整合すると考えたい。

 以上がこの日の討議事項である。いちばん熱が入ったのは八角円堂の高さと長押の数、また土庇の葺材であるが、A案についても柱高をさらに2尺ばかり高くした案を作図していただくことになった。回廊等囲繞施設についても、これまでの復元例からラフを作成する。


復元配置図(修正03)_page-0001web 行基10-23尺_page-0001web


【関係サイト】
復元検討web会議(第1回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2415.html
復元検討web会議(第2回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2419.html
復元検討web会議(第3回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2428.html
復元検討web会議(第4回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2439.html

行基の長岡院-菅原遺跡訪問記
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2414.html
栄山寺八角堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2417.html
広隆寺から興福寺へ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2423.html
奈良新聞の報道(菅原遺跡)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2429.html
法隆寺西円堂・夢殿と喜光寺
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2436.html

 

栄山寺八角堂

00栄山寺DSC_0410 00栄山寺DSC_0412


 栄山寺八角堂の重要性については、6月1日(火)の夜から気になりはじめ、翌2日の復元検討web会議で議論した結果、菅原遺跡円形建物復元の類例建造物として、法隆寺夢殿を凌ぐ主役級に躍り出た。少し復習をしておく。行基の長岡院(菅原遺跡)の造営年代が760年ころであり、栄山寺八角円堂(762年頃)は菅原遺跡に建築年代が非常に近く、また、法隆寺東院夢殿(国宝・738年頃)に比べて背の高い建物であり、円形の土庇を本体に取り付けた際の比例もバランスが良いと想像される。


00栄山寺DSC_0420 00栄山寺DSC_0421


 とりあえず現場を視察しようということで、6日(日)に行ってきました。紫陽花の綺麗な季節、門前の道路に落ちた梅を拾い集めて、鍛高譚な梅酒に追加で漬け込みました。

 1)菅原遺跡でみた円形の基壇跡と栄山寺の八角形基壇ではやはり大きな違いがある。円に近い多角形に復元するほうがよい。
 2)基壇の出は側柱から4~5尺で妥当。
 3)栄山寺八角円堂の長押は、①地長押、②腰長押、③飛貫を隠す長押だが、復元案では、さらに④頭貫位置の長押、⑤=③と④の中間にもめぐらし、垂木掛として相応しいのは、③④⑤のうちどこかプロポーションを比較検討する。ともかく、格好よくないとね。


00栄山寺DSC_0419


 翌7日、1980年代に奈良大学が発掘調査した菅原遺跡の報告書(部分コピー)を入手。このたび発見された遺跡との位置関係を把握しようと試みたが、奈良大報告書には国土座標が明記されておらず、今後の課題であることが判明した。菅原遺跡円形建物が瓦葺きの場合、栄山寺八角円堂及び法隆寺夢殿を参照するのが最善だが、円形建物は檜皮葺きの可能性もあるので、その場合、時代は下るが、広隆寺桂宮院本堂(京都市・国宝・1251年頃)を参照しておいた方がよいと思うに至っている。


01栄山寺DSC_0434 00栄山寺DSC_0434


続きを読む

鍛高譚な梅酒

たんたかDSC_0374


新旧2年の木瓜の屠蘇

 コロナのおかげで、また人生初の体験をした。通院は院内感染の可能性がある。だから電話で問診し、薬局で薬をもらう。その繰り返しだった。ただし、歯科だけは例外で、医師や衛生士との距離が近すぎる。飛沫の嵐だ。半年以上前から奥歯に違和感を覚えていたのだが、反復するコロナの大波のため通院を控えていた。この週末、意を決して歯科を訪れた。入口の横の壁に「歯科衛生士募集」の張り紙あり。敷居をまたぐも、馴染みの衛生士がいない。コロナで辞める人、ワクチン注射に借り出される人、いろいろあって、てんてこ舞いの状況だという。


たんたかDSC_0375 賓頭廬とは何でしょう?


 この日、親知らずの1本を抜歯された。来週は反対側をもう1本。レントゲンを撮ってみると、違和感のある箇所は予想以上に悪化していた。この歳までよく親知らずを残してきたものだと言われた。抜歯と雖も、麻酔さえすれば苦ではない。ただし、今日一日、呑めない。あらら・・・ここでまた「呑む」とか書くと物騒だが、誤解してほしくないので強調しておくと、わたしは酒呑みではありません。コロナ禍のため配偶者を疎開させて同居を始める以前の単身赴任時に飲酒することは例外的にしかなかった。限られた時間のなか、仕事に集中しなければならない。ところが、一緒に暮らすようになって、奈良の習慣が鳥取にもちこまれた。晩酌である。晩酌して一眠りし、深夜に起きて風呂に入り、明け方近くまで仕事をする。これがルーティーンだ。昼間に原稿を書くなど、プロの文筆家ができますか。閑かな闇のなかでしかできない仕事、当たり前です。
 そんな生活をして眠れなくなったらどうするか。バーボンな梅酒をちびちび啜るとまもなく安眠できます。おかげで、Jリーグ開幕の日に漬けたアップル・バーボンの梅酒はずいぶん量を減らしてしまった。二瓶めを仕入れたばかりだった。


たんたかDSC_0373


 家の庭で今年も唐梅と木瓜の実が採れた。いずれも年中行事に不可欠な収穫物です。このたびは鍛高譚に漬けました。この紫蘇焼酎は甘みがない。砂糖か蜂蜜か。どちらを使おうか悩んでいたところで、木瓜の実を蜂蜜に浸していたシロップが目にとまった。これがいちばんだ。昨年バーボン・アップルに漬けた古い木瓜の実を蜂蜜に漬け直したものである。このシロップに新しい梅類と紫蘇焼酎を混ぜ合わせた。結果、古い木瓜は瓶底に沈み、新しい木瓜は上澄みのような焼酎に中にいる。新しい伝統が完成したのではないか。毎年こうすれば古い遺伝子が新しい酒に受け継がれていく。正月のお屠蘇まで、盗み呑み厳禁。


たんたかDSC_0372
 

復元検討web会議(第1回)

栄山寺八角堂の重要性

 本日午前、第1回の復元検討会議(リモート)をおこなった。参加者は5名。初回ながら活発な議論が交わされ、刺激的なミーティングとなった。まず行基の略歴などについて司会者が述べ、ついで円形建物の復元について検討した。前日より栄山寺八角堂のことが少し気になり始め、書籍類は手元になかったが、ネットで基礎情報を再確認した。栄山寺八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763)12月20日付けの「造円堂所牒」という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
 すなわち、栄山寺八角堂は藤原仲麻呂が父(武智麻呂)を供養する廟(供養堂)であり、行基の長岡院の造営年代(750-760頃)と近接する。夢殿に比べ、丈の高い(柱間に対して柱が高い)建物であり、こうした比例のほうが土庇をとりつけやすい。つまり、年代・造形の両面からみて、夢殿以上に参考とすべき建物と思われたので、会議に参加するメンバーのどなたか図面をお持ちならお示しいただきたいとお願いした。議論は栄山寺八角堂から始まった。以下、箇条書きでまとめる。

 1)基壇上に復元する柱列は、栄山寺八角堂に倣い、内側を四天柱、外側を八角にするのが妥当と思われるが、側柱を8本とする場合、土庇の16本柱との対応が難しくなるので、基壇上の側柱は8本の案と16本の案の両方を検討する。
 2)屋根については本体を宝行とする案と八角にする案の両方を検討する。前者は宝塔風、後者は八角円堂風。
 3)土庇(裳階)を板葺きにしてはどうか、という意見もあった。その場合、葺板が台形状になり、類例を探しえないので、今回は檜皮葺きを採用する。
 4)土庇を垂木だけで支えるのは難しいので、庇の柱と本体側柱を繋梁でつなぐ。その場合、本体側柱は8本よりも16本のほうがおさまりやすい(8本でできないわけではない)。
 5)円形建物の軸が回廊・塀とずれているようにみえる(航空写真で補正すれば揃うという意見もあり)。軸がずれているとしたら、中央の円形建物の造営時期と掘立柱の囲繞施設の造営年代が異なる可能性がある。まず円形建物を建立し、掘立柱の諸施設は遅れて造営されたか。750~760年ころの軒瓦が南側の雨落溝で出土しているが、瓦を葺いているとしたら、廟の本体部分(礎石建)であり、他の掘立柱建物は檜皮葺と考えられる。両者の年代差は存在したと考えるほうが自然であろう。軸のずれについては、南東側山麓の菅原寺(喜光寺)と東方に望む東大寺の位置関係が影響している可能性もある。
 6)航空写真や遺構図をよく観察すると、円形の地覆石の抜き取りは八角形を呈するようにみえる。夢殿、栄山寺八角堂の基壇も円形ではなく、八角形である。
 7)土庇の柱配列も長方形を呈する部分と三角形を呈する部分に分けられるのではないか。
 8)土庇の柱径が7寸(約20㎝)という点が気にかかる。9世紀前半には消滅する理由の一つかもしれない。

 以上の討議を踏まえ、遺跡全体の建物復元配置図を、今週末をめどに作成することとなった。


岡垣スケッチ_page-0001web
↑宝行案の場合、屋根は多宝塔のように大きくしたい。


 

続きを読む

プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
05 | 2021/06 | 07
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR