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堺市博物館と大阪府立弥生文化博物館の特別展

企画展「羅漢・役行者・行基」チラシ_page-0001 企画展「羅漢・役行者・行基」チラシ_page-0002


 東京の退任記念講演が近づいているが、その一月後には大阪の講演がある。東京ほどではないが、大阪でも人が集まるのか気になり始めて手を尽くしているところです。広報に大変協力的な博物館が二館ある。配架はもちろんのこと、講演会などでチラシを配布してくださっているのだ。ここにお礼を兼ねて、両館の企画展・特別展を紹介しておきたい。

堺市博物館の行基展示

 堺市博物館の須藤館長は、私が大学院時代にお世話になった恩人である。民博の教授・館長等を経て、2017年に堺市博の館長に就任された。これをすっかり忘れていたのだが、9月24日の堺市文化財事務所訪問で思い起こした。土塔頂部で発見された相輪(土師器)、凝灰岩片(基壇化粧)、小型瓦(裳階所用)、炭化木材(心柱)などを熟覧するための事務所訪問であった。その際、堺市博物館での広報も話題になったのだが、館長が須藤さんだと聞き、帰宅後ネットで検索したところ、次の企画展が「羅漢・役行者・行基-山の修行者の系譜-」となっている。行基である。これは大変だということで、館長に手紙とチラシを送って配架をお願いした。それだけでは物足らないと思って電話もした。学芸講座や展示解説で聴講者に直接チラシを配布していただくようお願いしたのだ。快諾していただいた。丁寧な絵葉書を一度いただき、昨日は企画展チラシとあわせてまた書状もいただき激励していただいた。

企画展「羅漢・役行者・行基-山の修行者の系譜―」
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/exhibition/kikaku_tokubetsu/rakan.html
会期:11月23日(土祝)~12月22日(日)  月曜休館
〈学芸講座〉12月14日(土)午後2時~午後3時30分 定員:80人
〈展示解説〉12月8日(日)、12月21日(土)午後2時~約45分 定員:各回20人


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切支丹灯籠を訪ねて(5)-松田家・観音院再び

《圧縮》1972年6月1日 松田家 切支丹灯籠_page-0001 1972年6月1日 毎日新聞


 7月30日(火)、諸資料を拝借していた旧松田重雄家、観音院に資料を返却するとともに、ナマズ採りをした菖蒲集落でお世話になったご婦人にお礼の記念写真を贈呈に行った。参加者は安部、荻ノ沢、脇野、教授。

松田家のスクラップは語る

 まず松田家から。7月17日(水)にご貸与いただいた切支丹灯籠古写真を返却するとともに、調査の際に撮影した記念写真を贈呈した。すると、松田家ゆかりの新聞記事を3種贈呈された。いずれも注目すべき内容の記事である。最古の1枚は1972年6月1日毎日新聞スクラップ。島原の乱(1637-38)の平定に従軍し戦士した鳥取藩士、佐分利九允の墓が、切支丹側の拠点「原城」の本丸に天草四郎の墓と並んで残っている。佐分利は鳥取藩の第2次派遣隊88名の隊長であり、切支丹側の銃撃により重傷を負って息絶えた。佐分利の部下に切支丹がいた。原城総攻撃の前夜、鳥取藩の同士に「自分がなくなったら、これを両親に届けてくれ」と行って風呂敷包みを預けたまま行方知れずとなった。遺品は家族に渡され、それを祀る切支丹灯籠が今も聖神社境内に残る・・・詳細は松田の代表作『池田藩主と因伯の切支丹』参照。
 他の2枚のスクラップは、2007年11月6日日本海新聞と同年11月8日朝日新聞の記事で、内容はほぼ同じである。京都の骨董業者に売られようとしていた聖神社の切支丹灯籠を松田重雄が月給三ヶ月分を支払って買い取った。長く預かっていた切支丹灯籠が敬神会の梶尾昇平会長からの依頼で、本籍の聖神社に戻されることになったことを喜ぶ記事。目出度し、めでたしの論調になっているが、この後、事態は急変。今や切支丹灯籠は行方知らず。県指定文化財がこのような状態であってよいはずはない。神社に戻せないなら、松田家の庭で復興すべきと思われる。


《圧縮》2007年11月6日(火) 日本海新聞 松田家 切支丹灯籠_page-0001     《圧縮》2007年11月8日(木) 朝日新聞 松田家 切支丹灯籠_page-0001
(左)2007年11月6日 日本海新聞   (右)2007年11月8日 朝日新聞


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弥生のフードスケープ-妻木晩田

0723妻木晩田ナレズシ00 洞ノ原image9


憧れの妻木晩田遺跡

 7月23日(火)、妻木晩田遺跡まで遠征した。ギギとナマズのナレズシを弥生時代の土器に盛りつけて、堅穴住居の内部で撮影しようという企画である。妻木晩田は弥生時代中後期の高地性集落遺跡で、国の史跡に指定されている。ナレズシは縄文晩期~弥生時代に水稲とセットで伝わってきた可能性があるため、この遺跡で復元的なフードスケープの撮影をおこなうことになった。また、私は米子出身で、今も米子から通学しているが、妻木晩田を訪れたことがなく、この機会をとても楽しみにしていた。
 大学から大型車で妻木晩田に向かった。まず弥生人のモデルとなる4年生2名が古代の衣装に衣替え。2人とも見事に着こなしていて流石である。服の生地をみると、分厚くしっかりしている。2人とも少し暑そうにしていた。布はこの時代から発達していたことに少し驚く。この日の参加者は安部、荻ノ沢、西山、脇野、銅山。


0723銅山(妻木晩田遺跡レポート)図4[歴史遺産保全特論] 0723妻木晩田ナレズシ05内部01


ナレズシに適したムロの構造

 洞ノ原の竪穴住居に移動し、屋内に入る。外気より明らかに涼しい。この日の気温は36℃まで上昇していたが、住居の中の温度計をみると28℃であり、屋外より8℃も低いのだ。土屋根の堅穴住居は屋内温度の上下が小さく、一種のムロ(室)のようになっている。この遺跡を訪れるまでは、ナレズシを保管する際、冷蔵庫のない時代にどれだけ温度をコントロールできるのか気になっていたが、建物自体で温度調整が可能なのだ。ナレズシづくりに向いている。


0723妻木晩田ナレズシ05内部02カメ二人 0723妻木晩田ナレズシ05ラップ 甕


鯰ナレズシを漬けた弥生の甕

 いよいよ古代食撮影の準備に入った。妻木晩田遺跡事務所の技師Oさんが色々な土器を用意して下さっていた。土器の形で時代・制作地・用途が異なるということである。まずカメ(甕)にナレズシを漬けこんでいる状態を撮影した。大鯰の姿漬けを土器に納めるにあたり、ナレズシが汚れないようにするため、ナレズシをサランラップでくるんだが、口縁からラップがはみ出る。その部分をハサミで切り取るが、完全にラップを隠すのは難しい。また、女子2名はスニーカを履いており、古代服の下で靴がみえてしまう。それを隠して撮るのもやっかいな作業であった。


0723妻木晩田ナレズシ21甕の鯰と葉のギギ 甕のナマズとハランのギギ


 次に高坏に魚を盛り付けて撮影した。小さめの坏にギギ、大きい坏にナマズと振り分けたものの、そのままでは殺風景なので、遺跡に自生する植物(ハランとツワブキ)の葉を土器の上に敷いてランチョン・マットのようにした。ツワブキにギギ、ハランにナマズを盛りつけた。住居の内観、土器、食材、古代服を纏う2名の人物が絶妙に複合した弥生時代のフードスケープが再現され、撮影できた。「弥生時代に迷い込んだ考古学者、浅川教授」の写真も撮影できた。 もともと、この堅穴住居は、教授が本学着任以前の研究所時代に自ら設計したものと聞き、何かの縁を感じる。


0723妻木晩田ナレズシ02 0723妻木晩田ナレズシ20高坏01鯰01
0723妻木晩田ナレズシ23高坏の鯰とギギ02 0723妻木晩田ナレズシ01


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マカオの切支丹-茨林囲への途(5)

茨林圍 口述歷史_page-0001


黎日隆・梁慶庭編(2022)『茨林囲口述歴史』

 すでに連載の(3)(4)で出版の裏側を語る随想を全文翻訳したが、『茨林囲口述歴史』(2022)の序と目次をここに和訳する。ここまで読めば明らかなように、本書は「茨林囲の百年」をヒアリングによって語ったものであり、約400年前の日本人キリシタン入植に係る話題はほとんどない。いまなにより必要なのは、400年ばかり前の歴史情報だが、その点について李先生は以下の論文を紹介されている。

 高橋 強「16 、17 世紀天主教日本神父培養事業及其與澳門的交流」 『澳門研究』79期

本論文は以下の日本語論文の中国語訳のようである。

 高橋 強「16,17世紀における日本人司祭養成をめぐる日本・マカオの交流」
    『創大中国論集』 18号:pp.1-28、2015年3月、創価大学
 
 次なる作業は『茨林囲口述歴史』の全文を和訳することではなく、高橋氏の論文を探し、関係文献を収集することになるだろう。とりあえず、『茨林囲口述歴史』の図書情報・序・目次を示す。赤い文字の部分は、我々の研究に関係しそうなところである。

図書情報

茨林圍口述歷史(茨林囲口述歷史)
黎日隆 梁慶庭 主編
出 品:茨林圍居民關注組 澳門社區營建促進會(茨林囲住民の会 マカオコミュニティ建設促進協会)
策 劃:澳門口述歷史協會(企画:マカオ口述歴史協会)
出版:文化公所
電箱(e-mail)[email protected]
網址(HP):www.macau-publish.com
發 行:澳門出版傳播中心(発行:マカオ出版通信センター)
插畫(イラスト):陳潤莉@山川文創
印刷:HAMAH(MACAU), LIMITADA
版次:2022年12月第1版
印 數:1,000冊
定 價:130.00元
ISBN:978-99981-46-96-9
DOI:10.978.9998146/969


 マカオのような高度に国際化された都市では、道路や街路、居住区といった近代的な生活空間と比べ、「外裡」(伝統的な「外と内」のエリア)は特別な存在である。 マカオの「囲里」(路地裏長屋区)は、都市の街路システムにおける最小の生活単位として、都市の歴史的物語を運び、マカオの古い町並みの精神を維持し、伝統と現代性の間の中間地点でゆっくりと前進している。
  マカオの城壁都市の歴史は長く、マカオの歴史、文化、都市構造、建築的特徴を理解する上で貴重なものである。聖ポール天主堂近くの地理的に重要な場所に位置する茨林囲は、世界遺産のバッファゾーン内にあり、文化遺産保護法によって保護されている。マカオに現存するすべての囲(路地裏長屋区)の中で、最も面積の広い茨林囲は1万平方メートル近くあり、高園通りを境に上茨林囲と下茨林囲に分かれており、豊かな空間とさまざまな建築様式が見られる。一般的なレイアウトは伝統的な塔石村に似ているが、他の中国人コミュニティや居住区とは明らかに異なり、歴史的、空間的な特徴がはっきりしている。
  日本の切支丹が海外居住地としてマカオに避難した明の時代から、清末~中華民国時代次第に中国人の重要な居住地となった時代まで、何世紀にもわたって文化の洗礼を受け、歴史の浮き沈みを経験し、何度かの繁栄の時代を経てきた。にもかかわらず、マカオの旧城壁端の城山の麓、聖ポール天主堂の傍らに佇み、謙遜でも不遜でもなく、マカオの人々にやさしく接する唯一無二の存在である。歴史的発展(時間軸)から見ても、地理的空間(空間軸)のから見ても、尖沙咀(せんさしょ/広東語チムサーチョイ。香港九龍半島南端の商業地区)は(香港・マカオの)「中心」であるが、(中国全土からみれば)客観的には「辺境」であり、マカオの歴史の発展を目撃している。(茨林囲は)マカオの中心部に位置し、素朴で、開放的で、寛容で、この土地に住みたいと願うすべての人々を受け入れている。それはマカオの歴史的な特徴であり、マカオの人々の文化的な特徴でもある! 日本人カトリック教徒であれ、戦争難民であれ、大陸からの新しい移民であれ、あるいは外国人の家事手伝いであれ、茨林囲は何世代にもわたってマカオ人の成長の場であり、心の拠り所であった。
 いま茨林囲に足を踏み入れると、まるで1970~80年代に戻ったかのように、ここで歴史が止まり、時空が凍りつき、聖ポール風景区の喧騒が突然終わりを告げ、信じられないほど静かで、少し神秘的ですらある。見渡す限り、古い家々、古い木々、古い井戸、城壁、土地の寺院があり、遠くでは犬が吠え、蝉が鳴き、鳥がさえずり、そよ風が木の葉を払い、路地では老人がのんびりと談笑し、門の外では数家族が洗濯物を干している。 ............ 茨林囲を通して、マカオで中国人が築き、居住しているコミュニティは、自給自足で安全・安心な生活単位を築き、なじみの隣人たちと、同じ地理的・産業的関係、家族グループ、社会階層を共有し、同じ文化習慣や信仰を共有し、中国文化の血統を永続させていることがわかる。茨林囲の井戸の水を飲んで育った子供たちは、年月が経つにつれてコミュニティの一員となり、マカオ社会に多大な貢献をしている。例えば、マカオの有名な写真家、李玉田氏は、かつて茨林囲のバンガローに住んでいた。時が経っても、幼い頃の思い出や隣人同士の助け合いの愛は洗い流されることはなく、古い隣人たちは今でも時折顔を合わせては帰宅し、初めて会った時のようにお互いを大切にしながら集まっている。
 マカオ口述歴史協会は十数年前に設立されて以来、マカオの歴史と文化の研究と教育普及に力を入れ、内外の困難を乗り越えて口述歴史の収集と出版を続け、これまでに600人以上のマカオの高齢者にインタビューを行い、20種類以上の口述歴史専門書を出版している。『茨林圍口述歴史』の出版は、語り手へのインタビューだけをコラージュし、口述歴史の資料を客観的に紹介するというこれまでのやり方とは異なり、多くの新しい要素を加え、より読みやすいパブリック・ヒストリーの作品として出版するという新しい試みである。茨林囲の物語を通して、本書は過去を記録し、現在を保存するだけでなく、未来を創造することを目指している。本書を開き、古い町並みの声に耳を傾け、多角的な視点から特集記事を読むことで、文学的な想像力が生まれるかもしれない。 しかし、茨林囲は確かに銭中秀の『包囲都市』でもなく、沈聡文の『国境都市』でもない、マカオの独特な地区、茨林囲なのだ。呉銀興は、茨林囲のはずれにある哪吒(ナタ)廟を心配している。哪吒廟は、哪吒の信仰がコミュニティに深く根付き、代々受け継がれてきたもので、マカオの中国人コミュニティが受け継いできた伝統的な中国文化を見事に表している。陳婷婷、区雨晴、陳漪莉の3人の文化大使が、歴史的なガイドツアーや芸術作品を通して、茨林囲の日常生活や過去のマカオの情緒を探る。彼らのゆっくりとした足取りをたどり、そよ風を楽しむことで、茨林囲の生活哲学を感じることができる。ライヘイはフェミニズムの視点から、マカオの経済的に困難な時代に茨林囲に住み、家族を支えた女性たちの物語を語っている。蘇凱茵には、茨林囲の歴史的発展とコミュニティの現状をより包括的に把握するために、彼女の研究を本書に掲載することに同意してくれたことに感謝したい。読者のイマジネーションにさらなる美しさをもたらしてくれたイラストレーター、陳漪莉の独創的な絵に感謝したい。
 本書は、尖沙咀の住民グループ、マカオコミュニティ建設促進協会、当協会が協力しておこなった「尖沙咀口述歴史プロジェクト」の成果である。 この本の出版が成功したのは、ベテランのコミュニティ・ワーカーである梁慶庭氏のイニシアティブと努力、協会の黎日隆副会長(連載3~4の執筆者)の無私の献身とコーディネート、そして陳淑怡氏、阮玉笑氏、鄺芷琪氏、呉銀興氏、区雨晴氏等など、10人以上のインタビュアーと協会のコーディネーターの一致団結した努力によるもので、20人以上の茨林囲旧住民の貴重な歴史的記憶、そしてマカオの社会史、文化史、生活史の貴重な映像、音声、文字資料が保存されている。 また、マカオの社会史、文化史、生活史の貴重な映像、記録、文字資料も保存している。最後に、長年にわたって私たちのパートナーであり、専門的な出版活動を継続し、マカオの歴史と文化の新たな果実を私たちに残してくれた文化協会に感謝したい。
  コミュニティ博物館のように、茨林囲はマカオの歴史から生まれ、過去の古い地区や多くの関係者と共に、伝統と現代の交差点を穏やかに歩み、希望に満ちた新しい未来を切り開く第3の新しい道を探している! (デミグラス)



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琵琶湖竹生島の水神と魚食の旅(1)

0518竹生島02神社03八大龍王拝所04海01 八大龍王拝所から海を望む


竹生島宝厳寺・都久夫須麻神社のナマズ・白巳信仰

 琵琶湖北方に浮かぶ竹生島の祭神が、水神たる巳(み=へび)と黄色のオオナマズだという問題に関心を抱き、5月18日(土)、歴史遺産保全特論の履修生などで調査に訪れた。まず、ナマズに関しての考察を記す。竹生島の神社入口にあった参拝案内図(図1)をみると、3尾のナマズが描かれていた。その色は左から、青、緑、紫であり、黄色のナマズが描かれていなかった。教授が歴史遺産保全特論の授業開始前に紹介してくださった前畑政善・田畑諒一『ナマズの世界へようこそ』 (琵琶湖博物館ブックレット、 2020)には、琵琶湖において体色の黄色いナマズは昔から「弁天ナマズ」として知られており、竹生島宝厳寺本堂に祀られている弁才天に由来しているらしいとある。このことから、黄色のナマズは竹生島の神であるため、あえて描かなかった可能性が考えられる。


図1 竹生島の参拝案内図 図1 案内板


 次に、白巳が神の使いとして崇められていることについては、まず図2(左)のように、都久夫須麻(つくぶすま)神社=竹生島神社)に白巳大神が祀られていた。そのうち、右の巳については、黄金色の玉(ぎょく)を持っていた。また中央にも、図2(右)のように白い巳の模様のあるものと、木槌に巳が巻きつくものが見られた。


図2 白巳大神01 図2 白巳大神02 図2 白巳大神


 他にも、かわらけ投げをした竹生島八大龍王拝所の中にあった板絵には、図3(左)のように龍が白く描かれており、白巳(はくみ=しろへび)の仏教的(もしくは中国的)変身と思われる。また、図3(右)をみると、右側の龍が玉を持っており、白巳神社の巳の構図と同じであった。このことからいつ頃からか白巳から白い竜に信仰が変化した可能性もあるのではないかと考えられる。それはおそらく宝厳寺の成立・発展、あるいは竹生島神社と宝厳寺の習合プロセスと関係しているであろう。


図3a 図3b 図3 八大龍王拝所の水神表現

0518竹生島02神社03八大龍王拝所03記念撮影01 図4 龍王所での記念撮影


本堂本尊弁才天像の特別開帳

 ご神体の祀られている弁財天堂(本堂)が、今回特別に開創千三百年記念で本尊御開扉しており、実際に拝観することができた。その際、肝心の肩から上は御簾で隠されていたが、厨子外に置かれた御前立(おまえだち)には頭に絡みつく巳を確認することができた。御前立は弁才天像の模像だと説明されたが、説明しているガイド本人が「開帳は今日から始めって、まだちゃんと教えてもらっとらんねん」との発言があり、発言を信頼できないのが残念である。特別拝観代金千円を払い、写真撮影禁止で、この準備状況は困ったものだと思う。なお、側壁のマンダラには龍を描いていた。


図5 唐門に描かれたウサギと鳥 図5 豊国廟から移築されたという宝巌寺唐門(国宝)、奥に観音堂(重文)


 教授によると、観音堂や舟廊下の辺りの建物の一部は桃山時代まで遡り、弁財天堂(本堂)は昭和再建の建物であるという。実際、「竹生島・宝厳寺~西国第三十番札所~」のサイトには、昭和17年に現在の本堂が再建されたと記されている。同サイトによれば、明治元年の神仏分離令で大津県庁より廃寺とし、神社に改めよという命令が下った際、信者の要望により廃寺を免れたが、本堂の建物のみ神社に引き渡し、大弁才天像は昭和17年の再建まで本堂のないまま仮安置されていた。 
 帰りのフェリーの時間が迫るなか、石段を下りる際、アオダイショウを見つけた。その近くにヘビ(鳥?かもしれないが:図6)の卵を見つけた。ヘビが実際に肉視できる範囲に今もいることから、巳の信仰をより身近に感じた。
 このように、実際に竹生島宝厳寺を訪れた結果、ベンテンナマズについては詳しくは分からなかったけれども、水神たる白巳については、ご神体も御前立同様おそらく頭に巳がのっていたであろうと考えられる。また、竹生島八大龍王拝所の龍についても、巳の仏教化と思われる。建物自体、桃山時代の修復であって、それ以前から存在していたことは確実であり、文字記録等をみても中世以前から信仰されていたことが窺える。実際に、白巳関連のものが多いなど、信仰について考える上で貴重な体験ができたと思う。


図6 ヘビ?の卵 図6 蛇の卵?


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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