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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅧ)

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河原町地蔵祭花火大会

 8月23日(土)。いよいよ地蔵盆です。午前10時ころ河原町に到着し、東西の地蔵でどのようなことが行われるか確認して、11時から調査に入りました。
 河原町の地蔵盆は、歴史のある伝統行事であり、鉢屋川沿いの東地蔵と小鴨川土手の西地蔵に分かれて行い、小学1年生~中学1年生を対象としています。以前は東地蔵で20人、西地蔵で20人くらいの子供がいたそうですが、年々少子化が進み、今では小学生4人中学生1人の5人だけになってしまいました。子供だけでは難しいので、保護者がサポートしつつ行事が進行していきました。中学1年が大将、小学6年が中将、5年が少将という役割を担い、1~4年生を束ねていくそうです。今年は大将がいますが、来年には中1生がいなくなるそうです。


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 11時から始まり、子供たちは大きな数珠と鐘をもって町を巡回します。ルートはAコースとBコースがあり、鐘の鳴らし方も2パターンあります。元々、東西に分かれて行われていたのですが、今では東地蔵は公民館が主体となり、子供たちがいるのは西地蔵のみになっているため、西地蔵から出発する子供たちがA・Bコースを交互に回り、鐘の鳴らし方も2つ使い分けているそうです。町の巡回は11時、13時、14時、16時の4回あり、15時からは地蔵前で祭礼をおこないます。


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 祭礼は15時から東地蔵、15時半から西地蔵で、お坊さんと読経してお祈りをします。私たちも参加させていただきましたが、読経はスピードが早くなかなかついていけませんでした。また、地蔵菩薩に参拝に来られた方には御札と煎餅を渡し、だんごは1本500円で売っていました。以前は、参拝客がだんごを2本持っていき、1本をお供えして1本は炊いている線香のところをくぐらせて持って帰っていたようです。今でもこの風習は変わりませんが、だんごは、衛生面の問題から今では業者が作ったものを売るようになっています。町内の人だけでなく、毎年来られている方、たまたま通りかかった方などいろいろな人が参拝に来ていました。


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近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究(Ⅶ)

0823八幡神社02蟇股A05針打ち02 0823八幡神社02蟇股A05針打ち01


八幡神社蟇股の年輪サンプル採取(その2)

 8月23日(土)、午後に控える米子サテライトでの公開講座の前に、天正の棟札2枚と拝殿幣殿境の蟇股の返却と補足調査をするため八幡神社を訪れました。今回は僕と先生だけの作業でしたが、松江在住の山村カメラマンにも蟇股撮影を補助していただきました。
 調査内容は以下のとおりです。

  1.承応二年(1653)棟札の再撮影
  2.拝殿側柱筋蟇股(番付A05)の年輪サンプル採取
  3.拝殿・本殿小屋組の撮影
  4.本殿玉垣屋根伏図の実測


0823八幡神社02蟇股A05原位置01 ←A05原位置


 承応2年棟札(↓)は1度目の調査で撮影をしていたのですが、紐で隠れた部分が正確に読めなかったので、今回は紐をはずし、撮影しました。その部分は「実子同名右京亮鋼重」であることが確認できました。併せて、裏面の撮影もしました。
 前回拓本取りをした拝殿側柱筋の蟇股(A05)については、AMS年代測定のサンプルを採取しました。『日本建築細部変遷小図録』掲載の蟇股をすべてスキャンし、八幡神社の蟇股と比較してみましたが、天正期の棟札よりもやや新しい江戸期の蟇股に形状が近いことが明らかになりました。この結果を科学的年代測定の成果と対照するため、急遽AMSサンプルを採取することになったのです。厳密にいうと、AMSサンプルは芯から43年輪目、樹種同定のサンプルは裏面中央下部から採取しました。


0823八幡神社01承応棟札01



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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅦ)

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地蔵盆前日のヒアリング

 8月22日(金)。倉吉河原町で23日におこなわれる地蔵盆の事前調査に行ってきました。会長さんと合流してから、大鳥屋をお借りして河原町の地蔵盆について公民館の方のお話をうかがいました。
 河原町の地蔵盆は、西地蔵から始まります。午前10時頃から大数珠と寄せ鐘を持って町内をまわり、夕方になると5つ串に刺さっただんご2本を手に持ち、1本をお供えし、1本を家に持ち帰るという行事が長く続いています。また、団子を持っていない人がくると、子供たちが団子を売り、売り上げで子供たちにおやつやお小遣いなどを渡しているそうです。しかし、ここ2・3年で食べ物に対する意識が変わってしまいました。だんごを持って参拝する風習は変わらないのですが、販売するだんごは業者に頼んで作ってもらうようになっているそうです。


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 河原町には上下に地蔵があります。鉢屋川沿いの東地蔵が上、小鴨川のそばの西地蔵が下になります。東地蔵(↓)は安永2年(1773)に建てられました。一方、西地蔵(↑)は、明治26年(1893)に洪水で流された地蔵が堤防改装工事中にたくさん出てきたことから、1箇所にまとめて昭和7年(1932)に祠を建てたそうです。地蔵盆は、その地蔵を祀る行事として毎年8/23におこなわれてきた子供のお祭りです。往時、地蔵盆は非常に賑わっていました。
 戦後の一時期、倉吉市の納涼花火大会が始まり、以前は地蔵盆に近い日時に河原町周辺で花火をあげていたそうです。しかし、祭りの会場がだんだん東にずれていったので、河原町は独自に地蔵盆と花火大会を公民館主体に開催しています。また、60歳以上の住民が中心となり、地蔵のそばで、毎月20日の朝に野菜市を開いています。まちづくりの一環として、町の一つの風物詩になっています。地蔵まわりの小さな広場(五叉路の余白)に出てもらうことで地域住民の交流を図ろうとしているのです。鉢屋川を泳ぐ鯉も寄付してもらったもので、地蔵まわりの名物になっています。鯉にえさをやることが日課となり、町民が集う場所jになっているのです。

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めざせ、メラッ-サクテン(Ⅲ)

アッサム動乱!?

 先発隊が本日午後4時45分の便で出発します。私は夏風邪でふらふらになりながら、ある仕事をまとめ投函しましたし、社長もさきほど紀要論文の草稿を送ってきました。例年になく忙しい夏休みです。
 2日前、後発隊の学生2名を受け持つガイドのウータンさんから以下のアドバイスがあった。

   学生2名に天候のことを知らせてください...
   彼ら自身と(測量)器材のために雨具を準備してくるよう勧めます。
   天気は今週ずっと良くなかったんです。日がたつにつれ恢復していく
   だろうと期待してはいるんですが。学生さんには、良質の登山靴と十分な  
   数のソックスをもってくるもお願いしておきます。

 雨季が今まさに乾季に入れ替わろうとしている季節であり、昨年よりも10日ばかり早い旅立ちなので、その分だけ雨がちだと考えなければならない。当方、準備万端です(学生はどうか知らない)。
 問題はその前日のメールだ。先発隊のガイド、ツェタンさんがリーダーのタシさんにあてたメールの返信に私のアドレスがCCでついていた。どうやら、アッサムでストライキが勃発しているらしい、ストライキがおさまれば、自分が教授(つまり私)を迎えに行くが、そうでないならば、インドの旅行社員が私たちを出迎えることになるだろう、と書いてある。タシさんの返信は以下のようになっていた。

  朝刊を読むと、グワハチ(Guwahati)に近いアッサム各地で、地域的な
  政治的動乱が発生していますね。ツェタンさんは、教授たちを送迎するため
  インドの旅行エージェントを手配できます。その場合、みなさんを送迎する
  インド旅行社の情報をお知らせします。

 その後、何の情報も入ってこない。昆明の二の舞だけは避けたいものだ。
 

近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究(Ⅵ)

0821松原01布掘3地中針01 0821松原01布掘3地中針02


松原田中遺跡布掘地中梁の年輪サンプル採取

 8月21日(木)。灼熱の太陽の下、鳥取県教育文化財団で松原田中遺跡布掘建物3地中梁2本の年輪サンプル採取をおこないました。「近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究」と題する助成研究で弥生~古墳時代の建築部材を測定するのは何故と思われるでしょうが、申請書にはちゃんとその理由を書いてございます。


0821松原01布掘3地中針03切断面03 0821松原01布掘3地中針03切断面01


 サンプル採取の方法はいくつかありますが、今回は、保存処理のための貯水槽に収めるため材を二分割することになり、その断面で円盤状の材(厚2cm)を採取することとなりました。この切断はプロに任せ、わたしたちは材の表面にマチ針tをさす作業を担当しました。というのは、材の端のほうで表皮直下にみえる木肌を確認したからです。この層が切断面の年輪とどう対応するのか確認する必要があったのです。表皮もどきにみえる面がもっと幅広の部分にまずは一年輪ごとにマチ針を打ち、そこから50cmごとに対応する年輪を追跡していきます。柱の納まるエグレ部分の対応が難しかったですが、結局、切断面では表皮もどきの層よりも外側に年輪がひろがっていることが判明し、表皮もどきの面は表皮ではないことが判明しました。表皮もどき面のチップを採取してマイクロ顕微鏡で観察した結果、やはり、それは表皮直下の層ではありませんでした。
 年輪とは奥深いものだと感じ入ったしだいです。


0821松原01布掘3地中針04マチバリ01 松原田中布掘建物3


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After the Rain

 予想が外れましたね。準決勝で160球投げ、9失点した背番号1の投手がまたマウンドにあがった。三重のエースも連投だが、前日は完封だから、桐蔭が不利にみえる。
 「だから日本のピッチャーは肩や肘潰すんだよ」って、またビートたけしが情報セブンデイズで吠えそうだね。海の向こうではダルビッシュが先発6人制を提唱し、あざ笑われ無視されて終わりと思いきや、いくつかの球団はその提案を検討中だという報道があった。
 高校野球で「5回以上投げた先発投手の連投を禁ず」という規則を作ったらどうなるだろう。トーナメントの結果はずいぶん変わるだろうな。野球部の構成も大変わりだ。各チーム最低2名の先発要員が必要になり、リリーフも充実させる必要がある。投手の選手生命を考えると、それぐらいの制度改革をした方がよいかもしれない。

 気比と同様、三重があっさり先行した。三重の打者は大振りが目立つ。桐蔭の背番号1(福島投手)は、まず敵方のバッターにどんどん打たせる。するとバッターは打ち気満々その気になってバットをぶんぶん振りまわし、高校野球の原点たるスモールベースボールを忘れてしまうのだ。三重はバントの失敗も重ねた。スクイズ外しばかり注目されているが、それ以前にも決めるべきバントを決められないでいた。そうこうしているうちに、桐蔭は少ないヒットで着実に加点していく。大型の打撃チームのようにみえて、桐蔭は堅実な野球を実践している。走者を進めるべきときに進め、得点すべきときに得点する。その結果、ヒット数で勝るチームが桐蔭の前に敗れ去る。


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After the Goldrush

 昼前に目覚めたんですが、相変わらず体がだるい。おそらく軽い気管支炎なんだろう。
 しばらく床でごろごろしていた。三重が日大文理に快勝し、さて出陣するか、と床を立つころに準決勝第2試合が始まった。敦賀気比と大阪桐蔭の戦績を見比べると、どうやら気比に分がある。甲子園に来てからの4試合すべて10点以上得点し、連戦大勝しているのだ。対する桐蔭は、そつない試合運びで勝ち上がってきたが、どちらかといえば、打撃は鳴りを潜めている。10-6ぐらいのスコアで気比が桐蔭を下すだろうと予想した。はたして1回表、気比は満塁ホームランを含む5点を先取し、ついに桐蔭散るかに思われた。ところが、桐蔭の先頭打者ホームランで、流れは一変。以後、ソファで横になり、画面に釘付けとなって、ゲームを最後まで見届けた。いい休養になりました。

 序盤の3回を終えて6-5。両投手とも好調とはいえない。打線は爆発している。勝負は五分五分のようで、じつは早くも結末が見えはじめていた。控えの投手で勝敗が決まる。となれば、桐蔭が有利だ。八頭を零封した背番号10の投手がベンチにいる。気比には(おそらく)そのレベルのリリーフはいない。
 逆転され8-10の劣勢に立った気比は7回裏途中からレフトの選手をリリーフに送った。桐蔭の左バッターを警戒して左投手に救援させたのだろう。結果として裏目にでたが、仕方のないことだ。


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めざせ、メラ - サクテン(Ⅱ)

0823米子ブータン05 0823米子ブータン01


 空は青空、心も晴れて・・・米子講演はごらんのとおりの満席でした。通常の聴講者の2倍にあたる41名の来場があり、末席を汚していた白帯は椅子を取り上げられる始末。本部から送られてきた資料数は30だったそうでして、サテライトの方で資料を増し刷りしていただきました。
 ブータンという主題が山陰でも通用することが確かめられ、胸を撫で下ろしてます。講演後の質問も3名からありまして、しかも、かなり専門的な内容の質問でした。鳥取会場の閑古鳥は、台風+警報に因があったのは間違いないですが、ブータンという主題に無関心だったのか、いろいろ考えさせられました。蒲団が吹っとんだ!?
 ただし体調は最悪で、スピーチはしどろもどろ。反省しています。スピーチ自体は鳥取の方がよかったですね。帰途、例の眠くなる風邪薬を服用したところ、またしても無意識状態に陥り、倉吉の地蔵盆調査に立ち寄る予定をキャンセルして自宅に直帰。しばらく横になっていましたが、なかなかコンディションが上向いてきません。


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2014後発隊0823米子 2014先発隊0823米子
まもなく出国です!

やさしく歌って

 どうも風邪気味でして、朝から薬を何度か飲みました。
 風邪薬には、眠たくなるのとならないのがありますよね。私がホームドクターから頂戴し備蓄している薬は前者でありまして、日中服用すると、とんでもないメにあいます。飲むのは就寝前に限るんですが、今夕うどんの千代志で冷やしうどんをたいらげたあと服用したところ、深い眠りに落ちてしまいました。
 目覚めたら、米子のポプラに居た。約1時間半の記憶が無い。そこで、どういうわけか、ソースカツなる百均商品を仕入れたのは、白帯くんが所望したからであります。余談ですが(いいたくないけど)、ポプラのラテ、美味しくないな。ネスカフェだけのことはある。大手コンビニのラテに比べると、格落ちの感否めない。あの味だと100円でよいんじゃないかな。



↑野径の婆じゃないよ


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近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究(Ⅴ)

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秀衡杉の年輪年代


 昨年、長谷寺本堂年輪サンプル採取でお世話になったH先生が来鳥され、2ヶ所で年輪サンプルの採取をされました。初日(20日)は摩尼寺境内の秀衡杉が調査対象です。最近、天候は荒れており、大雨のため各地で土砂崩れがおきるなど災害が多発しており、摩尼寺の調査も不安視されていましたが、天候は晴れて気温は高く、汗だくの調査になりました。年輪サンプル採取以外にも、本学紀要の投稿の〆切が近いため、庫裡の補足調査として、長押・面皮材の分布、建物の傷み状況の把握、平面復原のための痕跡確認、そして本堂繋虹梁絵様の正面写真撮影をおこないました。
 本来ならば、摩尼寺庫裏の「宿坊」構想を卒業制作とするユートが陣頭指揮をとらなければなりませんが、帰省したまま戻ってきません。ブータン出国直前の全体ミーティングを夕方に控えたケントまでもが当日にドタキャンして、まわりには白けたムードが漂っていました。帰省するのは結構ですが、少し思うところがありますね。


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 秀衡杉は奥州の藤原秀衡公が摩尼寺で重病を治した折に植えたと伝承される杉の大木です。江戸時代に雷風で倒木して、今では本堂に祀られていると縁起書にも記されています。この信憑性を確かめるために、ご住職の許可を得て、さらに管理人さんと市教委担当者の立ち会いのもとサンプル採取をおこないました。はじめにH先生に成長錐を使い方の見本として、サンプル採取を実演していただきました。№1は基壇面から高さ170cm、南面から35cmのところに錐を入れました。さすがにすんなりと作業は運びます。三徳山正善院の古材に成長錐を突きつけ何度もなんども回しても入っていかなかった錐が今回はあっさり食い込んでいきました。そのコツは、自分の体重をうまくかけながら錐を回していくことだそうです。


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ヒル下がりのジョニー

 ようやく採点が片付いて、モンベルに行きました。散財極めり・・・夕方にはホームドクターを訪ねて大量の薬品を頂戴し、その少し後に通販注文の「ヒル下がりのジョニー」が届いた。
 すべてはブータンのため。私と会長と社長は先発隊で27日出国。めざすは東ブータンの「メラッ-サクテン」。翌28日、バンコクからインドのグアハチまで飛んで、車で東ブータンに入ります。グアハチなんて聞いたこともない地名だし、インドはビザの取得が容易でないから、じつはあまり喜んでなかったんです。受け入れ機関の要望なんで仕方ない・・・と2日前まで思ってた。しかし、よく考えてみると、ブータンに接するインドならば、アッサムだ。秘境アッサムですよ。凄いな。アッサムからブータンに入るんだ。風景も気になるし、茶葉をいっぱい買いたい。アッサム・ブータン・雲南といえば、東亜半月弧だからね。幻想の「照葉樹林文化」中核域。多くの高明?な日本人研究者を惑わせた桃源郷です。

 東ブータンでは何をするか。ブータン農林省とJICAの共同事業「ブータン高地のヤクと遊牧民の住まいに関する共同研究」の一環ということになっております。毎日数時間トレックしてテントで眠る。バックパッカーの生活を送ります。なんでも標高4100mの峠を歩いて越えるらしい。季節は雨季の最終段階、場所は蝿とヒルの多い高山だということで、いつもの酸素類に加え、完全防水の衣靴に虫よけの薬品を買いそろえました。
 山ヒルって怖いですね。頭から足まで完全防備の服をまとっていても、その内側にもぐりこみ血を吸ってしまうというのです。レモングラスを酢に浸した液が効くという噂も耳にしたのですが、さらに地獄耳の会長から情報が入りました。

   「ひるさがりのジョニー」で検索してみてください。

 昼下がり、ひるさがり、ヒル下がり・・・なるほど、うまい品名考えたもんだ。


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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅥ)

0811iju大学08町家(現場チェック)


建物保全度と景観貢献度のクロスチェック

 今まで町家のデータベース約90棟の入力を終えています。それは私の主観による分析であり、文化的事象を数値や記号に変換して評価しようとする場合、定義の厳密さとともに、評価を複数の調査者によってクロスチェックする必要があります。今回90棟を6人でほぼ均等割りし、1人15~20棟の建物を目の前にして白紙の状態で評価を記入していくことになりました。とくに問題になったのは「建物保全度」6項目と「景観貢献度」4項目です。主観によりかなり評価が変わることが予想されました。そこで、各自の成果をもちよって互いの意見を出し合い、評価基準を定めようとしたのです。


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 以下、私の考えた定義です。上の町家の場合、保全度B2、貢献度Rとなります。

〈建物保全度〉
  A1 伝統的な外観をほぼ完全に保持している伝統構法木造建築
  A2 建具・壁材などをごく一部改造しているが、伝統的な外観をよく保持
     している伝統構法木造建築
  B1 建具・壁材などを大幅に改変しているが、伝統的な外形を保持している
     伝統構法木造建築
  B2 建物正面を完全に作り変えた看板建築(内側は伝統構法木造建築)
  C1 上記(A1~B2)以外の木造建築
  C2 上記(A1~B2)以外の非木造建築もしくは空地

〈景観貢献度〉
  P 河原町・鍛冶町の歴史的町並み景観の中核的存在となっている
  Q 河原町・鍛冶町の歴史的町並み景観に調和し貢献している
  R 河原町・鍛冶町の歴史的町並み景観に必ずしも調和していない。
  S 河原町・鍛冶町の歴史的町並み景観に不調和をもたらしている。


0811iju大学07町家(保全度1)


 

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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅤ)

0811iju大学00雨宿り


IJU大学で雨宿り

 8月11日(月)。お盆前最後の活動です。午前中から摩尼寺門前へ足を運び、秋のイベントにむけて簡単な打ち合わせをしました。その後、倉吉へ。鳥取では青空もみえていたのに、途中から雨模様に。台風も去ったというのに、この夏の天候は冴えませんね。
 円形校舎駐車場で会長のお出迎え。対面にある「めいりんゲストハウス2号」でまずはミーティングです。この日の調査の基礎資料となる「建物保全度」と「景観貢献度」の定義シートを用意してないことで、さっそくお叱りを受けました。急ぎ定義を手書きしました。白帯さんには、地図と定義メモと2回もコンビニまでコピーしにいっていただきました。申し訳ありません。


0811iju大学03内部 


 打ち合わせも終わり、いざ出陣と外に出るも、雨足は強まっています。とても調査にならないので、河原町の五叉路東南に軒を連ねる空家2軒のうち西側の1軒で雨宿りさせていただきました。その町家「大鳥屋」では、「IJU大学」という名前で田舎ターン者の支援をしています。NPO法人「田舎の暮らし応援団」が中心になって、移住者と地域をつなぐ新たなコミュニティづくりと移住者の仕事の創出活動などをおこなっています。また、移住希望者などに倉吉移住ガイドツアー「街なか篇」「里山篇」、地元の散策、リヤカーを使っての野菜販売など1泊2日の移住体験ツアーもしているそうです。河原町・鍛治町には喫茶店・レストランが1軒もありません。大鳥屋は民宿として機能していますが、飲食店ではありません。みやげ物販売と情報提供を主とした町家活用です。


0811iju大学02圧縮 0811iju大学05本


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祝八頭校勝利!

 良き一日でありました。
 昨夜、バジルペーストを娘と作りましてね。ミキサーを使うと空回りして、結局すり鉢に変えてしこしこ擦った。一夜あけ、娘がパスタにしてくれました。アサリとトマトにバジルを絡めて、焼いた茄子のスライスをトッピングした。美味しかったな。バジルは庭採れ、トマトと茄子は佐治産です。
 娘を駅まで送り、とんぼ帰りでテレビ画面にかじりついた。あらら、いきなり1点とられた・・・先が思いやられるな。2年前、土岐商に2-15で惨敗した悪夢がよみがえる。あの試合には、若葉台に巣くう者しか知らない裏話があるの。いま、その人物は関東で元気に生活しています。
 昨日の八頭校はそつのない試合運びでした。運気の風はあきらかに八頭に吹いていた。守備に破綻はなく、打っては好球必打、苦手なバントもよく決まる。9回裏最後のフライなんて、落球してもおかしくないのに、ライトのグラブにすっぽり納まっちゃった。いちばんの勝因は6・7・8番の隠れクリーンナップじゃないかな。3・4・5番が終わったところで真のクリーンナップが現れる。そんなしぶとい打線でした。
 目出度い勝利に赤ワインで乾杯。1パック100円の鯛あらを煮ると、思いの外、上品な味がした。ほんとにお目出鯛。

    八頭 6 ー 1 角館

 開星(島根)が敗れ、八頭(鳥取)が甲子園で勝ち残るとはね。開星の試合もみましたよ。チャンネルをあわせた瞬間、4-0のリードだった。しかし、相手は大阪桐陰だからね。簡単には終わらない。開星は勝てない、という予感が増幅してゆく。2度のボークが勝敗を分けた。あれはボークなのか。もっと深い意味での警告ではなかったか。主審は、あのリリーフ投手と開星高校野球部にメッセージを送っていたような気がして仕方ない。

下坂本清合遺跡の焼失住居

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 気高の下坂本清合遺跡で、妻木晩田遺跡妻木山SI-43以来のすごい焼失住居がみつかったとの報せが鳥取県埋蔵文化財センターよりあり、7月29日(木)前期最終講義の直後、社長・ケントとともに訪れた。今日まで取り上げなかったのは、まず「報道解禁」の問題があり、次にお盆休みに入っていたから。盆休みは採点に集中しようと決めておりました。
 下坂本清合遺跡の現地説明会は8月9日(土)午後に開催の予定であった。私のブータン講演の1時間前に公開がスタートするはずだったが、台風11号による大雨洪水警報のため早々に中止が決まった。担当者は悔しがっていたが、あの状況では仕方ないですね。叶うならば、床面まで50%の面積を掘り下げた段階でもう一度、現地説明会を企画していただきたい。それだけの価値がある遺構だと思います。


0731下坂本02 ←横方向の茅にのる杉皮


 弥生終末期の焼けた竪穴住居SI1視察の感想を箇条書で記しておきます。

【遺構全体について】
 ・土屋根でなければここまできれいに蒸し焼きにならないであろう。
 ・屋根が完全に土で覆われていたとすれば、意図的に焼かない限り、建物は焼けない。
 ・土屋根住居の焼却は、祭祀説もあるが、浅川は廃棄後の整地工程のひとつと考えている。
 ・草屋根を消火したものであれば、もう少し砂が混じっていてもよいように思う。
 ・妻入か隅入かを現状で判断する材料が乏しい。
 ・貼床の状況も入口を復元する材料になる(コ字形の着座領域の反対側に入口がある)。
 ・焼土が多い中央部分はよく焼けているので炭化材は少ない。
 ・中央に残る赤い焼土は、炭化材を覆っていた黒色粘質土が焼けた可能性がある。
 ・もやっとした炭化物は垂木との上下関係が重要。垂木の下にあれば、マット状の敷物の可能性がある。


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ブータン講演の新聞報道

日本海新聞(ブータン講演)圧縮 日本海新聞(ブータン講演)サムネイル


 台風11号の接近による大雨洪水警報のさなかに行われた公開講座のブータン講演が日本海新聞で報道されました。開演時から大きな一眼レフをもってフラッシュを焚き続ける方がいて、まもなく他のお客さまからお叱りを受けたのです。「まぶしくて、目が痛い!」という発言だったと記憶しています。わたしが演壇から「メディアの方ですか?」と問うと、首を縦に振られました。
 最近の一眼レフは性能がよいので、あれぐらい明るい会場だと、フラッシュなしでも撮れますけどね。その記者さんが書いてくださった記事でしょう。多謝!


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↑米子講演は8月23日です。

  【米子講演】 2014年8月23日(日)14:00~15:30
     会場: 鳥取環境大学西部サテライトキャンパス
          〒683-0812鳥取県米子市角盤町1丁目55-2
          中海テレビ放送センタービル内 ℡ 0859-23-1311

赤帽子のバッテリー

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 土曜日の講演で思い出したことがある。ある僧院で高僧と出会い長話をした。その僧は日本に15日間滞在し帰国した直後だった。話を終えて場を去ろうとしたのだが、「ちょっと待って、みせたいものがある」と言ってもってきたのが真っ赤なカメラ。
 ブータン人はみな英語が上手い。ただ、僧は若くして出家し英語を学ばない。ガイドの通訳によると、このカメラでは使えないバッテリーと充電器を買って帰ったらしい。試してみたが、たしかに違う。

   「今度くるときに買ってきますよ、カッカッカ・・・」

と豪語した。


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 今月末からブータン入りし、第3次調査が始まる。西武の僧院を訪問する時間はないけど、約束は守らないとね。ガイドに渡せば、もっていってくれるでしょう。
 カメラの機種は Nikon Coolpix P520 。アマゾンでは新品を販売しているが、キタムラで調べてもらうと、すでに生産終了になっていて、中古品の値段が表示してあった。バージョンアップした製品はP600で、アマゾンのレビューによると、望遠機能がパワーアップし、電池も変わったので、撮影枚数が増えたところが利点だという。
 「電池が変わった」のか。となれば、製造中止になった P520の在庫にかかっているな。いまキタムラで調べてもらってます。

 ところで、カメラの赤色はドゥック(赤帽子)派の「赤」を意識しているのかな。わたしが着ているモンベルのジャンパーも袈裟と同じ色だよね。なんにも知らずに買いました。


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↑赤いデジカメ撮影中
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嗚呼!閑古鳥取環境大学公開講座(鳥取会場)

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オープンキャンパス中止の週末に

 8月9日(土)。台風11号が急接近して大雨強風警報などが出ているさなか、鳥取環境大学公開講座が県立図書館講堂で開催されました。いつも「満員御礼!」とレポートする先生の講演会ですが、ごらんのとおり(↑)、閑古鳥状態です。パワポの準備を学生ともども朝までやっていたのに、受講者はわずか十数名。
 事前申し込みでは40名以上の登録があり、申し込みなしで来場されるお客様もありますから、天候さえ良ければ、50名前後が来場したと思われます。正直、今回はガラガラでした。人数のサバを読もうにも読めません。ごらんの通りです。もちろん台風11号が最たる原因です。前夜から午前まで雨はザァザァ降りで、大雨洪水警報が発令されていました。この段階で中止(延期)を決断すべきだったと思います。午後から雨は已みましたが、午前の雨に加え、報道が客足に大きく影響したように思います。オープンキャンパス中止のニュースが前日夕方からかけめぐり、同日開催の公開講座にまで余波が及んだような気がします。
 今回の講演は、以前にもまして注目すべき内容でした。昨年おこなったブータン調査成果の初公開だったからです。この点、来場された十数名はご満足だったろうと私は信じています。
 講演の題目と構成は以下のとおりです。

    めざせ、ブータン -洞穴僧院と瞑想修行-

  1.石窟寺院への憧憬 -岩窟/岩陰型仏堂の類型と起源(2010-12)
  2.雷龍の彼岸 -不丹的淺村先生(2012)
  3.ドラフ巡礼 -西ブータンの洞穴僧院を往く(2013)
  4.めざせ、メラッ・サクテン(2014)


140809公開講座01


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暑中お見舞い申し上げます

どくだみ版画


 綺麗な版画でしょ。何の花か分かりますか?
 ドクダミなんです。
 中欧紀行で知り合いになった方が送ってきてくださいました。なんとも爽やかで、ブログの暑中見舞い(台風見舞い?)にぜひとも使わせていただきたいとお願いしたところ、快諾のメールが届き、喜んでおります。


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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅣ)

140801 倉吉四王寺山


伯耆国府周辺の地勢学的背景を探る

 8月1日(金)。米子八幡神社の調査を終えた後、私が卒業研究のフィールドとして選んだ倉吉の郊外農村地域に立ち寄りました。先月の22日に今後の下見を兼ねて会長さんに案内をしていただいたのですが、他のメンバーは土地勘がないので、この際みておこうということになったのです。まずは22日の視察から書いておきます。

 7月22日(火)は、まず久米ヶ原丘陵や天神丘陵一帯を一望にできる四王寺山に上がりました。この2つの丘陵は田畑になっています。わたしの研究テーマは文化的景観ですが、世界遺産条約にいうところの「有機的に進化してきた景観」のうちの「継続する景観」にあたる景観が展開しています。一方、丘陵周辺にある伯耆国分寺跡や法華寺畑遺跡などの史跡群は同じく「有機的に進化してきた景観」の中の「化石化した景観」にあたるでしょう。市街地から約4km、国府(こう)川を渡ると、長閑で平坦な農村地帯が広がり、そこに国指定古代史跡群が連続します。重伝建地区から少し足をのばせば楽に訪問できる場所なのですが、観光客はほとんど見られません。この田園と史跡の複合した「有機的に進化してきた景観」を保全し、長谷寺や重伝建との連携をはかるための基礎的考察をしようと思っています。
 この日は他にも鳥取県でいちばん古い農業高校である倉吉農業高等学校、市街地の中心にある大御堂廃寺跡、打吹山公園、旧倉吉線を利用した緑の彫刻プロムナードを案内していただきました。これらの文化資産群もすべて連携の対象候補と考えています。


140801 倉吉四王寺山4   140801 倉吉四王寺山3


 米子八幡神社からの帰途、四王寺山に立ち寄りました。先生は、文化的景観を考えるにあたって。まず第一に考察すべきは「地形」であり、それと密接に関わる「植生」「生業」の把握も肝要だと仰います。たとえば、国府や国分寺がおかれた場所には共通する地形的な背景があるのではないか。当時の首都である平城京が「四神相応の地」として古典的な風水説に立脚しているように、国府にもまた一定の地理学的知見が背景にあるのかもしれません。それはおそらく山々と川に囲まれた平野部が選定され、そこに中世以降の田園と農村が展開していくという変遷が想定できます。まずはこのあたりから攻略する必要がありそうです。


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近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究(Ⅳ)

20140803八幡神社022321dd5


八幡神社本殿の調査と棟札の梱包

 8月1日(金)、再び八幡神社に足を運びました。前回の調査は約2か月前のことです。その時は雨が降っており、またメディアが取材に押し寄せたのと入れ替わりに境内を去ったので、十分な調査がおこなえたわけではありません。その後、撮影した30枚近い棟札の翻刻、拝殿平面図の作図を進めてきましたが、天正12年・17年の棟札が読みづらく、赤外線カメラでの撮影が必要であることが分かり、このたび撮影のためにお預かりすることになった。また、拝殿については、写真撮影枚数が不足して不明な部分が多く、作図を担当したポールが補足調査を希望していた。前回参加できなかったポールは今回が初の八幡神社です。


0803 八幡 調査 ←本殿から弊殿・本殿を望む


  今回、拝殿の補足はポールに任せ、本殿はセツ、フジイの女子2名が平面を実測した。写真撮影はおもに社長さんが担当し、先生は古材の年輪をチェックするため、床下にもぐって埃まみれになられた。
 なお、翻刻作業の結果、寛政11年3月24日の2枚の棟札のうち1枚に「八幡宮御祈祷所再建立拝殿弐間八間一宇成就」とあり、拝殿の再建年代は寛政11年(1799)であることがあきらかになった。本殿は「天保十三年 奉再建八幡太神宮一宇」の棟札があり、天保十三年(1842)の造替と知られており、拝殿の方が43年古い建物であって、その拝殿に中世期に遡る蟇股が16枚含まれているのである。


0803 八幡 4 ←本堂外観


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居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(エピローグ)

スライド7 スライド6


カラス天狗のマニーさん

 上は期末報告会プレゼンの最後のスライドとして学生が用意していたものです。ちょっと発表時間が長くなり、スピーチを制止したため、この2枚のスライドを使えなかったのです。残念でしたね。ここで、その内容をお知らせしておきます。

 摩尼寺本堂・鐘楼・山門が国の登録文化財になることが決まり、11月の紅葉の時期に「思い出の摩尼」(仮題)というイベント開催を構想中であり(予定は未定です)、ついては3年生にイベント・キャラクターのマニーさんを考えてほしいとお願いしました。みんないろんなアイデアを提供してくれましたが、改めて、元祖マニーさん(下左)を可愛いゆるキャラに進化させてほしいと依頼したところ、人鳥男爵くんが疲れた体にむち打って描いてくれたのが右の「鴉天狗のマニーさん」です。
 なかなか良いですよね。地元の方にもおみせして、異論がなければこのキャラに決めようと思っています。


スライド8
↑(左)元祖マニーさん (右)カラス天狗のマニーさん

居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(6)

スライド1


3.絵様にみる建築年代
3-1 拓本取りの学内レッスン

 私たちはまず5月28日に拓本取り(乾拓)の練習を学内で行いました。なぜ拓本にとるのか、というと、人の描くスケッチや写真よりも拓本の方が写実的なデータだからです。建築は日々刻々と変化しています。木鼻も蟇股も虹梁も柱間/柱高の比例、組物のプロポーションも何もかも変わっていく。そうした変化を最も読みとりやすいのが、絵様の「渦」の形状だと言われています。近世社寺建築の場合、一般に、渦の曲線が正円に近く、細く彫られている材ほど年代が古いものだそうです。服装の流行(ファッション)が年代とともに大きく変わるように、建築にも流行がある。その流行の証拠となるデータを拓本でおさえるわけです。
 上の写真は実際に拓本取りの練習を行っているところです。実肘木と蟇股で練習をしました。部材に半紙をかぶせてテープでとめ。固形の墨か鉛筆(4B)で擦って模様を浮き彫りにしていきます。上に実肘木の拓本を示していますが、渦が正円に近く彫りが細いので、教授は18世紀中期には遡るだろうと仰っていました。これから摩尼寺と三仏寺の絵様拓本を比較分析しますが、練習用に使ったこの実肘木の渦が最も古い形をしています。


スライド2


3-2 摩尼寺の絵様
 摩尼寺の場合、基準資料となる絵様が2ヶ所確認できました。棟札が発見された本堂と庫裡です。本堂は明治維新に近い幕末の安政七年(1860)、庫裡は本堂より37年古い文政六年(1823)です。本堂は廻縁腰組木鼻・頭貫、庫裏は向拝の木鼻・虹梁型頭貫の拓本を採取しました。上にそれらをまとめています。本堂の渦は彫りが太くで平べったい楕円の形をしており、明治前期の絵様と大差ありません。庫裡も本堂に似ていますが、単純な楕円形ではなく、いくつか結節点を設けて渦の形状を分節化しており、繊細なデザインになっています。
 下は基準となる本堂・庫裏の渦と閻魔堂・三祖堂の渦を比較しています。閻魔堂・三祖堂ともに昭和のある段階まで山上にあり、後に現在の山麓境内で新築されますが、向拝を構成する虹梁・繋梁・蟇股・木鼻・組物は山上にあった旧建物の材を再利用しています。閻魔堂と三祖堂の渦は酷似していますが、細かく観察すると、閻魔堂の方がやや丸みを帯びている。閻魔堂の方がわずかに古い可能性があると推察できるでしょう。
 閻魔堂・三祖堂の渦はあきらかに本堂より丸くなっています。前者が後者よりも古い様式であることを示しています。一方、閻魔堂・三祖堂と庫裡の前後関係は微妙です。本堂になくて庫裡にある渦の分節点を閻魔堂・三祖堂は備えていいますし、閻魔堂・三祖堂の方が庫裡の渦より丸みを帯びていると言えないこともないかもしれません。しかし、現状では両者の前後関係の決め手は乏しいと思われます。
 以上から、以下のような結論が導けるでしょう。
  1)閻魔堂・三祖堂は昭和戦後に新築された建物だが、向拝には山上の旧建物の部材を
    再利用している。
  2)閻魔堂向拝の材は三祖堂向拝の材よりもわずかに古い可能性がある。
  3)閻魔堂・三祖堂向拝の材はあきらかに本堂よりも古い。
  4)閻魔堂・三祖堂向拝の材と庫裡向拝の材の前後関係は不明ながら、前者が後者より
    古い可能性がないとはいえない。


スライド3


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居住環境実習・演習Ⅱ期末発表会(5)

06三島02


2-2 投入堂と皆成院

 7月9日に3年生と4年生の7名は、三朝町にある三佛寺投入堂を参拝しました。ときに小雨が降るやや危険な状態だったので、三朝町教育委員会の藤井さんにご案内いただきました。登山に要した時間は約1時間半です。下に示したのが三徳山の参拝マップです。
 投入堂まで上るにあたり「三徳山三佛寺入山三原則」があります。三徳山はほぼ全域が国指定の名勝・史跡であり、自然や建造物・遺跡などの保護に配慮しつつ山登りする必要があるのです。まず、登山に適さない靴を履いて入山してはいけません。カジュアルシューズは駄目ですし、アイゼンのついた登山靴もだめです。山道を傷めないような運動靴がいちばんです。入山時に受付でチェックを受けて、登山に適さない靴の場合はわらじを買うことになります(700円)。次に輪袈裟を借ります。輪袈裟は修験者の証であり、下山時に返却します。最後に体力に自身が無い人は別ルートで上ることになります。


発表スライドてんぐさ01


 三徳山の登山路は「起・承・転・結」のストーリーがあると言われます。起にあたるのは「かずら坂」です。入山してしばらくは森の中の急なのぼり坂を進んでいきます。土が流れおち、木の根が露出しています。そのむき出しの木の根をつかんで、ゆっくり登ります。承は「くさり坂」です。文殊堂に上がる道の中でも、このくさり坂が一番の難所です。見た目よりも厳しい坂なのでクサリをしっかりとつかみ、下をみないで一思いに登るのがコツです。転は重要文化財の「文殊堂」「地蔵堂」です。文殊堂・地蔵堂では縁にあがって山並みの眺望を楽しむことができます。達成感も相まって、素晴らしい眺めを堪能できます。結はもちろん「投入堂」です。山道を歩いている間、投入堂はまったく視野に収まりません。厳しい行者道を過ぎ、観音堂、元結掛堂を過ぎてようやく投入堂が姿を現します。ただただ感動を覚えました。

 いちばん上の写真に示したように、三佛寺投入堂は、凝灰岩層と玄武岩層の間のくぼみ(岩陰)に建つ「懸造」の仏堂として全国的に有名で、国宝に指定されています。懸造としては、京都の清水寺や奈良の長谷寺も有名ですが、山陰地方の投入堂や岩屋堂は岩陰や岩窟と複合している点に特徴があり、先生は山陰の懸造を「日本の石窟寺院だ」とおっしゃっています。しかしその歴史はいまだ完全には解明されていません。

06三島01


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居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(4)

05前田01尾﨑02


2.三徳山三仏寺の調査
2-0.尾﨑家住宅公開支援

 6月28日(土)に尾﨑家という重要文化財民家の一般公開がありました。湯梨浜町にある尾崎家は国指定名勝庭園(松甫園)で有名な旧家であり、18世紀中期にまで遡る豪農の屋敷です。尾崎家住宅・庭園公開の支援活動として、社長さんをリーダーに4年生2人と3年生2人が参加しました。前日まで本当にサポートだけの予定だったんですが、当日になぜかいきなり説明係を任されてしまいました。


05前田01尾﨑01


 庭園に面したオモテと呼ばれる座敷には、摩尼寺庫裡の奥座敷と同じ「座敷飾りの3点セット」が設えてありました。大変格式高い造りをしており、柱は丸太材、長押に面皮材を使うなど、書院造りというよりも数寄屋造りに近い風格をそなえています。通常面皮材にはケヤキを使いますが、尾崎家はスギの面皮材を長押にしています。地域産材として当時高価だったスギ材が採用されたそうです。尾﨑家は、摩尼寺の庫裏よりも数十程古い18世紀中期の建物ですが、すでに数寄屋の手法を取り入れている点に注目すべきです。18世紀の農家に数寄屋のデザインを取り入れることは稀であり、尾崎家の家格の高さがうかがえるでしょう。


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 尾﨑家の「松甫園」は文化財として非常に価値が高く、1937年に国の名勝に指定されています。裏山の借景を取り入れており、のちにそれらも名勝に追加指定されました。私は公開時に松甫園の説明係を任されましたが、どうやらここの説明が一番ややこしかったようです。庭の中でも一番難解な「陰陽五行の松」は、陰陽五行の五大元素である「木火土金水」の文字すべてを松の中に読み取れるといいますが、写真の理解で完全に正しいのかどうか、よく理解できていません。


05前田02正善院01


2-1.三仏寺正善院の古材調査

 その後、7月9日に三徳山三仏寺を訪れました。正善院の古材調査を目的とした訪問です。この日は先発隊と後発隊に分かれての調査で、先発隊は投入堂を目指した登山を体験し、後発隊は子院での調査に専念しました。三仏寺子院の代表格、正善院は2012年3月9日に火災で庫裡が全焼し、現在は文化庁の補助金で復元設計が進んでいます。ただし、正善院は建造物よりも庭園の評価が高く、2005年に県の名勝に指定されています。この庭園も火災の被害にあっっており、現在は復元整備にむけて発掘調査を進めています。


05前田02正善院02


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居住環境実習・演習Ⅱ期末報告会(3)

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1-5 摩尼寺庫裡

 私たちは摩尼寺庫裡の調査に加わりました。庫裡とは、住職の住宅兼客殿です。摩尼寺は今年から住職のいない無住の寺院になったのですが、無住の庫裡となったことで私たちの調査が許可されたのです。当初、3年生が庫裡の平面実測をする予定でした。しかし、庫裡の規模は大きく、改造が多くて平面が複雑だったので、4年生女子2名に平面実測を委ねました。
 上が4年女子が描いたCADの平面図です。表記されているオレンジ色の記号に注目してください。これは棹縁天井の棹の方向を示しています。棹の方向は床の間と平行にするのが原則です。しかし、庫裡の奥座敷はあえて直交方向に棹を渡す「床差し」になっています。「床差し」にした理由はまだわかっていません。


04新谷03


 下は先輩方が屋根裏から取り外した庫裡の棟礼です。棟札は建築年代を知るもっとも重要な史料です。棟札から庫裡は文政六年(1823)に建てられたということが判明しました。ツナギを着てホコリまみれになりながらの作業でした。
 庫裡の棟札の年代は文政6年(1823)で、安政7年(1860)の本堂よりも37年古い建物です。庫裡が「摩尼寺境内最古の建物」であることが分かりました。現状では、予測でしかありませんが、「鳥取県内最古の庫裡」である可能性も浮上してきています。県内最古の庫裡だとすれば、県指定文化財クラスの価値を有することになります。古い分だけ建物の傷みが激しくなっているのですが、「指定」や「登録」など保全の措置はとられていません。


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居住環境実習・演習Ⅱ期末発表会(2)

浅川ゼミ01菊池01


1-3 摩尼寺閻魔堂

 閻魔堂は昭和40年代前半まで山頂立岩の脇に建っていました(↑)。県立博物館所蔵の古写真をみると、立岩のまわりに閻魔堂と鐘楼を確認できます。市内で紅茶店を経営している60代の男性によると、「子供のころよく立岩まであがって遊んだものだが、閻魔堂は怖くて近寄り難い存在だった。縁の下から蛇がでてくることもよくあった」と聞いています。
 平安時代の後期から、因幡の国に生まれた民は往生するといったん摩尼山に霊魂が滞留し、その後閻魔の裁きを受けて、天国・地獄のどちらかに行くと考えられていました。山頂にある立岩と閻魔堂は冥土の旅の入口だったのです。いま立岩の周辺に建築物は建っていませんが、少しだけ古材が積み上げられています。閻魔堂は昭和45年に山麓の境内に新材を用いて再建されました。境内ではもっとも小ぶりで、もっとも新しい仏堂です。基壇はコンクリートになっています。
【講評】 内野安打で、ぎりぎりセーフ。ホームランのあとヒットで出塁したのは大きい。


浅川ゼミ01菊池02


 閻魔堂内部には閻魔の像をはじめ、地獄を連想させる像が数多く安置されています。そして、「冥途の旅イラストマップ」が貼られています。死後の世界への旅は49日間の冥途コースから始まる。この49日の間に山路を抜け、大河を渡り、7つの裁判所で裁きを受ける。その行程を表しているのが「冥途の旅イラストマップ」です。こうして当初の役割を継承させている閻魔堂ですが、山頂にあったころのようなおどろおどろしいオーラはまったく感じられません。


浅川ゼミ01菊池03


 現在の閻魔堂は昭和45年に山麓の境内に新築されたものですが、移築前の古材も再利用されています。閻魔堂の場合、玄関にあたる向拝正面の虹梁と側面の繋虹梁が山上にあった閻魔堂の古材と思われます。正面虹梁と側面繋虹梁の絵様拓本を比較すると、繋虹梁が縦長の長円形、正面虹梁が横長の長円形にみえますが、前者を135度回転すると両者の形はよく似ており、同年の部材とみてよいようと思います。先生の見立てによると、幕末の様式だが、本堂より古いのではないか、とのことです。
 拓本をとる作業は半紙をドラフティング・テープで部材に貼り付け、その上から墨や鉛筆で絵様を浮かび上がらせるように擦ります。そうすると写真のように、絵様が鮮明に浮かび上がってきます。スケッチよりも対象を直写できるので、考古学や美術史でよく使われます。


浅川ゼミ01菊池05 浅川ゼミ01菊池04


 6月20日と25日、二回に分けて平面の実測調査を行いました。上右のサムネイルが現場で描いた閻魔堂の間取りスケッチです。スケッチの方法はロンさんが示した善光寺如来堂と同じです。巻尺やコンベックスで測った寸法を方眼紙に書き込んでいきます。その野帳のータを使って、jwcadで平面図(↑左)を作成しました。平面図には基本寸法のほか、棹縁天井の方向や虹梁の位置を示しています。


これから必要になる技能を学ぶことができた

 今回の報告会で、「向拝の材が古材の転用である」ことを話さなかったという失態を犯してしまったのが最大の反省点だ。発表内容の理解と暗記が甘く、聴衆に誤解を招くような発表になってしまった。事前の練習と知識の理解が足りなかったことが原因なので、同じ失敗を繰り返さないようにしなければならない。
 前期の活動を通じ、摩尼寺や寺社建築の知識がより深まった。建造物の実測や野帳の記入方法、JW-CADの使い方など、これから必要になってくる技能を学ぶことができた。まだまだ未熟で至らない点が多いが、これから自主的に活動に取り組んだりすることで、今回得た基本的な技能を深めていきたい。(キー)



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居住環境実習・演習Ⅱ期末発表会(1)

浅川ゼミ(流郷)復元01


クローザー炎上!

 7月30日(水)午後、3年次の期末報告会が開催されました。テングサがジャンケンに敗れ、またしてもトリです。とはいえ、前回の覇者として恥ずかしいプレゼンはできません。
 1番ロン、いきなり先頭打者ホームランです。先取点をたたき出す幸先のよいスタートを切りました。2番キー、3塁線のゴロをサード福島弾きました。強襲内野安打で無死1塁。追加点が欲しいところですね。しかし、3番ココアはセカンドゴロ・ゲッツー。2アウトランナー無し。続く4番バス男、1塁ゴロでチェンジ・・・・あっ、ファースト前川のトンネルです。走者がでました。2死1塁。ラッキーなエラーですね。5番人鳥男爵、6番テングサの連続ヒットで、バス男がホームに戻り、リードは2点差にひろがりました。2死1・3塁のチャンスが続くも、8番ノバディ(投手)は三球三振でチェンジ。続く最終回(1回裏)、巨漢のクローザー、ノバディがマウンドにあがります。あれっ、なんかソワソワしています。ペンギン投法の制球が定まりません。四死球の連続です。なっ、なっ、なんと和風サボテン・メキシカンズに6点を計上し、1回コールドゲーム負け・・・(組長)


浅川ゼミ(流郷)復元04


1. 摩尼寺建造物の調査
1-1 これまでの活動
 私たち文化遺産・歴史的環境グループは摩尼寺建造物の調査と三徳山三仏寺の調査、また絵様にみる建築年代の判定について報告します。
 はじめに、摩尼寺建造物の調査についてです。まず、摩尼山は久松山と砂丘の間にある天台宗の霊山であり、因幡の国の民は亡くなると霊魂が一時滞留するとされています。2009年にその山頂付近で「奥の院遺跡」を発見し、2010年に発掘調査を開始しました。そして2011年には報告書を刊行し研究は一段落し、2013年からは境内の調査を開始しました。
 下は摩尼寺の配置図です。赤色で示す本堂・鐘楼・山門は昨年先輩方が調査し、今年度から私たち3年生は緑色で示す善光寺如来堂・三祖堂・閻魔堂を調査しました。青色の庫裡も実測する予定でしたが、間取りが複雑なため、先輩方にゆだねました。


浅川ゼミ(流郷)復元02


1-2 善光寺如来堂
 善光寺如来堂は扁額銘によると明治45年に建設された仏堂で、本堂と外観がよく似ています。この建物は、規模の大きな第2の本堂ですが、造りはシンプルで左右対称となっており、平面図作成の訓練には最適の建物だということで、私とテングサ君が実測を担当しました。
 実際に書いた野帳を下に示します。少し見えづらいですが、緑色と赤色の線があります。これは長押と虹梁を示しております。この2つの部材については後ほど説明します。


浅川ゼミ(流郷)復元03



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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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