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マカオの切支丹-茨林囲への途(5)

茨林圍 口述歷史_page-0001


黎日隆・梁慶庭編(2022)『茨林囲口述歴史』

 すでに連載の(3)(4)で出版の裏側を語る随想を全文翻訳したが、『茨林囲口述歴史』(2022)の序と目次をここに和訳する。ここまで読めば明らかなように、本書は「茨林囲の百年」をヒアリングによって語ったものであり、約400年前の日本人キリシタン入植に係る話題はほとんどない。いまなにより必要なのは、400年ばかり前の歴史情報だが、その点について李先生は以下の論文を紹介されている。

 高橋 強「16 、17 世紀天主教日本神父培養事業及其與澳門的交流」 『澳門研究』79期

本論文は以下の日本語論文の中国語訳のようである。

 高橋 強「16,17世紀における日本人司祭養成をめぐる日本・マカオの交流」
    『創大中国論集』 18号:pp.1-28、2015年3月、創価大学
 
 次なる作業は『茨林囲口述歴史』の全文を和訳することではなく、高橋氏の論文を探し、関係文献を収集することになるだろう。とりあえず、『茨林囲口述歴史』の図書情報・序・目次を示す。赤い文字の部分は、我々の研究に関係しそうなところである。

図書情報

茨林圍口述歷史(茨林囲口述歷史)
黎日隆 梁慶庭 主編
出 品:茨林圍居民關注組 澳門社區營建促進會(茨林囲住民の会 マカオコミュニティ建設促進協会)
策 劃:澳門口述歷史協會(企画:マカオ口述歴史協会)
出版:文化公所
電箱(e-mail)[email protected]
網址(HP):www.macau-publish.com
發 行:澳門出版傳播中心(発行:マカオ出版通信センター)
插畫(イラスト):陳潤莉@山川文創
印刷:HAMAH(MACAU), LIMITADA
版次:2022年12月第1版
印 數:1,000冊
定 價:130.00元
ISBN:978-99981-46-96-9
DOI:10.978.9998146/969


 マカオのような高度に国際化された都市では、道路や街路、居住区といった近代的な生活空間と比べ、「外裡」(伝統的な「外と内」のエリア)は特別な存在である。 マカオの「囲里」(路地裏長屋区)は、都市の街路システムにおける最小の生活単位として、都市の歴史的物語を運び、マカオの古い町並みの精神を維持し、伝統と現代性の間の中間地点でゆっくりと前進している。
  マカオの城壁都市の歴史は長く、マカオの歴史、文化、都市構造、建築的特徴を理解する上で貴重なものである。聖ポール天主堂近くの地理的に重要な場所に位置する茨林囲は、世界遺産のバッファゾーン内にあり、文化遺産保護法によって保護されている。マカオに現存するすべての囲(路地裏長屋区)の中で、最も面積の広い茨林囲は1万平方メートル近くあり、高園通りを境に上茨林囲と下茨林囲に分かれており、豊かな空間とさまざまな建築様式が見られる。一般的なレイアウトは伝統的な塔石村に似ているが、他の中国人コミュニティや居住区とは明らかに異なり、歴史的、空間的な特徴がはっきりしている。
  日本の切支丹が海外居住地としてマカオに避難した明の時代から、清末~中華民国時代次第に中国人の重要な居住地となった時代まで、何世紀にもわたって文化の洗礼を受け、歴史の浮き沈みを経験し、何度かの繁栄の時代を経てきた。にもかかわらず、マカオの旧城壁端の城山の麓、聖ポール天主堂の傍らに佇み、謙遜でも不遜でもなく、マカオの人々にやさしく接する唯一無二の存在である。歴史的発展(時間軸)から見ても、地理的空間(空間軸)のから見ても、尖沙咀(せんさしょ/広東語チムサーチョイ。香港九龍半島南端の商業地区)は(香港・マカオの)「中心」であるが、(中国全土からみれば)客観的には「辺境」であり、マカオの歴史の発展を目撃している。(茨林囲は)マカオの中心部に位置し、素朴で、開放的で、寛容で、この土地に住みたいと願うすべての人々を受け入れている。それはマカオの歴史的な特徴であり、マカオの人々の文化的な特徴でもある! 日本人カトリック教徒であれ、戦争難民であれ、大陸からの新しい移民であれ、あるいは外国人の家事手伝いであれ、茨林囲は何世代にもわたってマカオ人の成長の場であり、心の拠り所であった。
 いま茨林囲に足を踏み入れると、まるで1970~80年代に戻ったかのように、ここで歴史が止まり、時空が凍りつき、聖ポール風景区の喧騒が突然終わりを告げ、信じられないほど静かで、少し神秘的ですらある。見渡す限り、古い家々、古い木々、古い井戸、城壁、土地の寺院があり、遠くでは犬が吠え、蝉が鳴き、鳥がさえずり、そよ風が木の葉を払い、路地では老人がのんびりと談笑し、門の外では数家族が洗濯物を干している。 ............ 茨林囲を通して、マカオで中国人が築き、居住しているコミュニティは、自給自足で安全・安心な生活単位を築き、なじみの隣人たちと、同じ地理的・産業的関係、家族グループ、社会階層を共有し、同じ文化習慣や信仰を共有し、中国文化の血統を永続させていることがわかる。茨林囲の井戸の水を飲んで育った子供たちは、年月が経つにつれてコミュニティの一員となり、マカオ社会に多大な貢献をしている。例えば、マカオの有名な写真家、李玉田氏は、かつて茨林囲のバンガローに住んでいた。時が経っても、幼い頃の思い出や隣人同士の助け合いの愛は洗い流されることはなく、古い隣人たちは今でも時折顔を合わせては帰宅し、初めて会った時のようにお互いを大切にしながら集まっている。
 マカオ口述歴史協会は十数年前に設立されて以来、マカオの歴史と文化の研究と教育普及に力を入れ、内外の困難を乗り越えて口述歴史の収集と出版を続け、これまでに600人以上のマカオの高齢者にインタビューを行い、20種類以上の口述歴史専門書を出版している。『茨林圍口述歴史』の出版は、語り手へのインタビューだけをコラージュし、口述歴史の資料を客観的に紹介するというこれまでのやり方とは異なり、多くの新しい要素を加え、より読みやすいパブリック・ヒストリーの作品として出版するという新しい試みである。茨林囲の物語を通して、本書は過去を記録し、現在を保存するだけでなく、未来を創造することを目指している。本書を開き、古い町並みの声に耳を傾け、多角的な視点から特集記事を読むことで、文学的な想像力が生まれるかもしれない。 しかし、茨林囲は確かに銭中秀の『包囲都市』でもなく、沈聡文の『国境都市』でもない、マカオの独特な地区、茨林囲なのだ。呉銀興は、茨林囲のはずれにある哪吒(ナタ)廟を心配している。哪吒廟は、哪吒の信仰がコミュニティに深く根付き、代々受け継がれてきたもので、マカオの中国人コミュニティが受け継いできた伝統的な中国文化を見事に表している。陳婷婷、区雨晴、陳漪莉の3人の文化大使が、歴史的なガイドツアーや芸術作品を通して、茨林囲の日常生活や過去のマカオの情緒を探る。彼らのゆっくりとした足取りをたどり、そよ風を楽しむことで、茨林囲の生活哲学を感じることができる。ライヘイはフェミニズムの視点から、マカオの経済的に困難な時代に茨林囲に住み、家族を支えた女性たちの物語を語っている。蘇凱茵には、茨林囲の歴史的発展とコミュニティの現状をより包括的に把握するために、彼女の研究を本書に掲載することに同意してくれたことに感謝したい。読者のイマジネーションにさらなる美しさをもたらしてくれたイラストレーター、陳漪莉の独創的な絵に感謝したい。
 本書は、尖沙咀の住民グループ、マカオコミュニティ建設促進協会、当協会が協力しておこなった「尖沙咀口述歴史プロジェクト」の成果である。 この本の出版が成功したのは、ベテランのコミュニティ・ワーカーである梁慶庭氏のイニシアティブと努力、協会の黎日隆副会長(連載3~4の執筆者)の無私の献身とコーディネート、そして陳淑怡氏、阮玉笑氏、鄺芷琪氏、呉銀興氏、区雨晴氏等など、10人以上のインタビュアーと協会のコーディネーターの一致団結した努力によるもので、20人以上の茨林囲旧住民の貴重な歴史的記憶、そしてマカオの社会史、文化史、生活史の貴重な映像、音声、文字資料が保存されている。 また、マカオの社会史、文化史、生活史の貴重な映像、記録、文字資料も保存している。最後に、長年にわたって私たちのパートナーであり、専門的な出版活動を継続し、マカオの歴史と文化の新たな果実を私たちに残してくれた文化協会に感謝したい。
  コミュニティ博物館のように、茨林囲はマカオの歴史から生まれ、過去の古い地区や多くの関係者と共に、伝統と現代の交差点を穏やかに歩み、希望に満ちた新しい未来を切り開く第3の新しい道を探している! (デミグラス)



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切支丹灯籠を訪ねて(1)-興禅寺 

0522観音院01灯籠全景01 興禅寺 切支丹灯籠2


興禅寺の織部灯籠

  5月22日(水)、鳥取市栗谷町の興禅寺まで切支丹灯籠の調査に出かけた。切支丹灯籠は鳥取市指定名勝「興禅寺庭園」の西の角地、建物の入隅部分に置かれる。灯籠はもとは墓地に置かれていたが、現在は庭に移設されている。墓地にあった灯籠が興禅寺のものだったか、他所から持ち込まれたものなのかは分からない。切支丹灯籠は別名「織部灯籠」という。織部とはいうまでもなく、千利休の高弟であった茶人、古田織部をさす。織部が茶室の露地を照らす灯籠として考案した物だとされているが、じつは秀吉の伴天連追放令(1587)以降にキリストの仮託礼拝物として考案されたとされる。
 興禅寺庭園では、最初に灯籠をスケッチし、採寸した。灯籠は四角い竿の上に丸いふくらみを持っている。下部の「竿」の部分は断面が横235㎜×縦200㎜、前側の高さ490㎜、後ろ側の高さ450㎜であった。上部のふくらみ部分は上下の横幅210㎜、中央の横幅290㎜、高さ210㎜を図る。灯籠は20㎜ばかり後法に傾いていた。ご住職の話によると、この灯籠はかつて墓地にあったものを移設したものであり、興禅寺がキリスト教に関わっていたということではなく、織部灯籠を他所から持ち込んだものだという。ただし、桃山時代から禅寺とキリスト教はしばしば関係することがある。


興禅寺 切支丹灯籠1 切支丹灯籠スケッチ3_page-0001 切支丹灯籠スケッチ1_page-0001


キリスト教三位一体を説く灯籠

  興禅寺でいただいた『興禅寺だより』(第2号、2008)のコピーによると、灯籠上部のふくらみはクロス十字架を巧みに便化した形で、十字架から頭部と両袖を切り落とした形である。隠れキリシタンたちはこのふくらみを礼拝していたと考えられる。ふくらみにはラテン語で PATRI(パートリ) を PTI と便化し裏文字にした文様が描かれている。PATRI とは「天の父」を現す。竿の下にはイエスまたはマリアの像が刻まれている。また、竿の左右の側面には漢詩が刻まれている。『鳥取県文化観光事典』(2002)によると、左右の漢詩は「岩松无心 風来吟/錦上鋪花 又一重」と薄く刻字されている。これは切支丹灯籠の決まり文句のようで、じつは禅語であり、禅の境致とキリスト教の教えが交差する。

  岩松無心 風来吟    岩松無心、風来たって吟ず
  錦上舗花 又一重    錦上に花を舗くこと また一重(ひとえ)

 岩松(苔)はもとより歌う心があるわけではなく、風が吹けばそよそよと鳴くだけ。その場の機縁にあわせている。錦の織物の上に花を敷き詰める、極上の美が生まれる(あるいは逆に「美に美を重ねても意味がない」の意もあり)。これがキリシタンの「聖霊」をあらわすと松田重雄は説く。禅と切支丹の結びつきはどこから来るものであろうか。
 わたし個人の感想を述べると、「岩松には、歌おうとか人に褒められようとかという意識も作為もなく、風が吹いてくれば自ずから音を立てるだけである。これをそのまま人間に置き換えれば、無作無心こそが美しい人間性を現すものである」といったところでしょうか。興禅寺の場合、灯籠側面の文字は風化によってほとんど読むことはできず、左側面に刻まれる「又一重」だけがかろうじて確認できた。(デミグラス)


0522観音院01灯籠全景02 0522観音院01灯籠03アップ01 0522観音院01灯籠02背面02 0522観音院01灯籠02背面01


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琵琶湖竹生島の水神と魚食の旅(1)

0518竹生島02神社03八大龍王拝所04海01 八大龍王拝所から海を望む


竹生島宝厳寺・都久夫須麻神社のナマズ・白巳信仰

 琵琶湖北方に浮かぶ竹生島の祭神が、水神たる巳(み=へび)と黄色のオオナマズだという問題に関心を抱き、5月18日(土)、歴史遺産保全特論の履修生などで調査に訪れた。まず、ナマズに関しての考察を記す。竹生島の神社入口にあった参拝案内図(図1)をみると、3尾のナマズが描かれていた。その色は左から、青、緑、紫であり、黄色のナマズが描かれていなかった。教授が歴史遺産保全特論の授業開始前に紹介してくださった前畑政善・田畑諒一『ナマズの世界へようこそ』 (琵琶湖博物館ブックレット、 2020)には、琵琶湖において体色の黄色いナマズは昔から「弁天ナマズ」として知られており、竹生島宝厳寺本堂に祀られている弁才天に由来しているらしいとある。このことから、黄色のナマズは竹生島の神であるため、あえて描かなかった可能性が考えられる。


図1 竹生島の参拝案内図 図1 案内板


 次に、白巳が神の使いとして崇められていることについては、まず図2(左)のように、都久夫須麻(つくぶすま)神社=竹生島神社)に白巳大神が祀られていた。そのうち、右の巳については、黄金色の玉(ぎょく)を持っていた。また中央にも、図2(右)のように白い巳の模様のあるものと、木槌に巳が巻きつくものが見られた。


図2 白巳大神01 図2 白巳大神02 図2 白巳大神


 他にも、かわらけ投げをした竹生島八大龍王拝所の中にあった板絵には、図3(左)のように龍が白く描かれており、白巳(はくみ=しろへび)の仏教的(もしくは中国的)変身と思われる。また、図3(右)をみると、右側の龍が玉を持っており、白巳神社の巳の構図と同じであった。このことからいつ頃からか白巳から白い竜に信仰が変化した可能性もあるのではないかと考えられる。それはおそらく宝厳寺の成立・発展、あるいは竹生島神社と宝厳寺の習合プロセスと関係しているであろう。


図3a 図3b 図3 八大龍王拝所の水神表現

0518竹生島02神社03八大龍王拝所03記念撮影01 図4 龍王所での記念撮影


本堂本尊弁才天像の特別開帳

 ご神体の祀られている弁財天堂(本堂)が、今回特別に開創千三百年記念で本尊御開扉しており、実際に拝観することができた。その際、肝心の肩から上は御簾で隠されていたが、厨子外に置かれた御前立(おまえだち)には頭に絡みつく巳を確認することができた。御前立は弁才天像の模像だと説明されたが、説明しているガイド本人が「開帳は今日から始めって、まだちゃんと教えてもらっとらんねん」との発言があり、発言を信頼できないのが残念である。特別拝観代金千円を払い、写真撮影禁止で、この準備状況は困ったものだと思う。なお、側壁のマンダラには龍を描いていた。


図5 唐門に描かれたウサギと鳥 図5 豊国廟から移築されたという宝巌寺唐門(国宝)、奥に観音堂(重文)


 教授によると、観音堂や舟廊下の辺りの建物の一部は桃山時代まで遡り、弁財天堂(本堂)は昭和再建の建物であるという。実際、「竹生島・宝厳寺~西国第三十番札所~」のサイトには、昭和17年に現在の本堂が再建されたと記されている。同サイトによれば、明治元年の神仏分離令で大津県庁より廃寺とし、神社に改めよという命令が下った際、信者の要望により廃寺を免れたが、本堂の建物のみ神社に引き渡し、大弁才天像は昭和17年の再建まで本堂のないまま仮安置されていた。 
 帰りのフェリーの時間が迫るなか、石段を下りる際、アオダイショウを見つけた。その近くにヘビ(鳥?かもしれないが:図6)の卵を見つけた。ヘビが実際に肉視できる範囲に今もいることから、巳の信仰をより身近に感じた。
 このように、実際に竹生島宝厳寺を訪れた結果、ベンテンナマズについては詳しくは分からなかったけれども、水神たる白巳については、ご神体も御前立同様おそらく頭に巳がのっていたであろうと考えられる。また、竹生島八大龍王拝所の龍についても、巳の仏教化と思われる。建物自体、桃山時代の修復であって、それ以前から存在していたことは確実であり、文字記録等をみても中世以前から信仰されていたことが窺える。実際に、白巳関連のものが多いなど、信仰について考える上で貴重な体験ができたと思う。


図6 ヘビ?の卵 図6 蛇の卵?


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Re: アップルバーボンの梅酒

0525バーボン梅酒03花


二度目の母の日

 年末のクリスマス・プレゼントで、子どもたちが母親に初めてのスマホをドコモで買ったのだが、楽々スマホであるにも拘わらず、家内はまったく使いこなせなかった。電話に出るのすら大変であり、ラインは全くできない。わたしのスマホも楽々で、毎日メジャーリーグやmリーグをみているが、その私でも家内の楽々は使い難い。結果、ガラケーに戻そうということになって、9時過ぎから出かけていった。わたしは家に残り、一人MLBをアベマで視ていたが、ドジャース3連敗、大谷無安打でみるべきところなく、途中で競れ襖の世界に逃げてしまった。


0525バーボン梅酒02 中央一番上に浮いているのが唐梅の実


 暑い日なので、昼からもごろごろしていたが、夕暮れが近くなってから、母の日の翌日に採集・乾燥したドクダミ(+琵琶葉)茶を駐車場に放ったらかしているのを思い出し、乾燥した茶葉を大きなビニール袋に取り込んだ。そしてまた、庭の瑞々しいドクダミを摘み、水洗いして新聞紙の上にのせていく。2~3週間乾燥させたら袋に取り入れて・・・この作業をたぶんあと2回ほど繰り返す。それで一年分のドクダミ琵琶葉茶ができる(麦茶とブレンドすれば長持ちする。毎日1本大学にもってく)。本当は、枯草をハサミで刻んで鍋で焙じるのだけれども、今日中にそこまでやる気力なし。平福で仕入れた唐辛子、ミント、マクワを余地に植える。もう暗くなり始めたころにイオンに向かい、酒屋でジムビームのアップル・バーボンを仕入れた。平福で安い小梅を手に入れており、久しぶりにバーボンの梅酒をつくることにしたのだ。いつものことながら、梅実の蔕を爪楊枝でとるのに手間取る。嵌っていたのは何年前だろう。アップル・バーボンやらストロベリー・ビフィータに梅を漬けていたのは。鉢植えの唐梅の実が3個熟っていて、小梅に混ぜた。例年、庭の木瓜の実も漬けるのだが、この日は探しきれず(木瓜は庭のあちこちに株を増やしているのに、実は繁る葉に隠れており、茨が痛い)
 イオンの鎌倉パスタで夫婦は食事した。ペペロンチーノと茄子のトマトソースのパスタ。不味くはないけど、母の日に食べた「ら麦」のパスタコースはレベルが違った。帰宅して、あの日買ったカーネーション似の紫陽花を眺める。毎年こうして珍種の紫陽花が増えていく。花が終わったら地植えするから、庭では多彩多色の紫陽花が咲いている。梅雨にむけて、数少ない楽しみだ。
 この日は18日(土)の琵琶湖竹生島視察のレポート締め切りでもあった。良い出来もあり、そうでないものもあった。前回は提出者全員のレポートを校正の上ブログに掲載したが、今回は全員というわけにはいかないな。3名程度のアップになりそう。


0525紫陽花01
2週間経って少し枯れてきましたね。地植え間近。

鯰のナレズシ 早くも試作(4)

試食02 取り出し03 ギギ


自主製作した鯰ナレズシの試食

 5月23日(木)の4限、ナレズシを試食した。それというのも、4月23日(火)に漬けた鯰ナレズシの上澄み液の匂いを嗅いだ一部のメンバーが「乳酸ではない」という疑義を示していたからである。鯰の麹米漬けレシピを考え実践した教授ほかのメンバー側からすれば聞き捨てならぬ感想であり、雑菌繁殖が進んでいるとしたら、ワークショップ当日に提供することもできないので、味を確かめることにしたのである。参加メンバーは以下の通り。M2銅山・笈川、M1陳・笹田、4年安部・脇野

 まずはいつもの通りゼミ室に集合。18日の琵琶湖出張の決算でひと悶着あった。一部の院生から教授に対して不遜な発言があり、教授の機嫌が悪化の兆しをみせ始める。そもそも、会計処理を行なうにあたっては、領収書に基づき、エクセルによって支出と収入を正確に計算しなければならないが、このたびは明朗な明細を学生側は示しておらず、教授はそのことに大変不満を示された。雰囲気で財政処理をすると大きな過ちを犯しかねない。今回はエクセルに手慣れた陳さんの作業で、正確な計算結果が導き出され、一件落着。他の日本人学生も見倣わなければいけない。その後、演習室の冷蔵庫からナレズシ樽を取り出してスタジオへ下りた。試食するのは、①4月23日に漬けた鯰ナレズシ、②5月18日の滋賀出張のさい提供された大橋三輪神社から提供されたドジョウ・鯰ナレズシ。 
 スタジオでは、ただちに鯰ナレズシの樽を開封。中身と匂いを確認した。前回の開封では上澄み液がよく溜まっていたが、今回はまったく液体がみえない。においを嗅いだ学生は、それを「腐臭」だとして「食べない方が良いのでは」という意見を述べたが、自らレシピを考え漬け込み作業をした教授は、ここでも不快感を示し、生物系大学院生の発言をたしなめた。反応が早すぎる。おっちょこちょいの知ったかぶりに釘を刺しつつ、ともかく試食してから判断しようという提案をされた。初めは鯰を漬けている塩麹飯を味見した。スプーンで一掬いして小皿に載せ、各人少しずつ口に含んでみた。酸っぱいが嫌な味ではなく、柑橘類やトウガラシの味などもしてむしろ美味しかった。


ナレズシ01 ナレズシ塩麹飯02


 次はいよいよ鯰ナレズシの試食だ。今回はあくまで講演会前の味見であるため、小ぶりのギギを選んだ。陳さんが、ギギのナレズシを一口大に切り分けてその断面を見てみると、身は白くなっており、それはキズシ(シメサバ)のようにみえた。味はというと、酸味と甘みがあり、触感はコリコリしていて、これもまた美味しかった。どうやらうまく漬かっているようだ。塩分を控えるよう医師から指示されている教授は、塩気が少なく、酸味主体の味を歓迎された。
 今回の試作には、心配事が3点あった。すなわち、〈1〉定置網の捕獲後まもなく鯰が死んでしまったので泥吐きをする時間がなく、汚物を対外に排出しきれていない。〈2〉塩漬けの時間が一日で短すぎる(殺菌・乳酸化と関与する)。〈3〉鯖スシなどのレシピに従うならば、切り身を漬けるのが風味を染込ませるのに最適であり、姿漬けをした弊害がでるのではないか。しかし、試食をして上手くいっていることが分かり、さらに、大鯰を取り出して頭部を確認しても腐敗・腐臭は感じられなかった。頭に異常を感じた場合、頭のまわりを切り落とし、大橋三輪神社のプロセスに倣って、塩水を追加する予定だったが、現状維持で問題ないと判断した。鯰のナレズシは順調に発酵が進んでいる。


断面03 先生試食01 大鯰01
左2枚:ギギの試食、右:大ナマズ


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東京デンブラ (1)セレブな処女地の旅

0511東京01東洋文庫01図書展示室01


東洋文庫企画展「キリスト教交流史-宣教師のみた日本、アジアー」

 5月11日(土)、この日は三人で行動した。ジャイアンはまたあの長い道を歩き、東横イン浅草橋蔵前2まで迎えに来てくれた。駒込でノビタと合流。かねて念願の東洋文庫企画展「キリスト教交流史-宣教師のみた日本、アジアー」を終了日(12日)の前日にみることができた。企画展示室の前に有名な開架書庫のホワイエがある。みなここで写真を撮る。ある一人の貴婦人からスマホ撮影を依頼されたが、わたしはスマホが苦手なので若手に譲った(少しもったいないことをしたと後で思った)。我々も記念撮影した。書庫がインテリアにして展示物になるのを知って、自分がやろうとした土蔵書庫兼アトリエの計画が懐かしくなり、もういちど考えなおそうかと思ったほどである。そこでしばらく佇んだ後、透明の床板通路を抜けて企画展示室へ。


0511東京01東洋文庫02キリスト展示04nobioka


 企画展示もまた本の連続。東洋学文献日本最多(世界最多?)を誇る東洋文庫だけのことはある。展示棚のガラスケースには、見開き状態(半開き)にした古今東西の書物がずらりと並ぶ。考古学・文化史系の展示なら、遺物・絵図が主役で、それらを凝視することが参観者の任務だが、東洋文庫の展示は書物の2ページがあるだけで、文献史学者であろうと、なかろうと、その書物の内実に迫れるわけではないので、モノ展示とはめざすところがおおいに異なる。この展示は「キリスト教交流史-宣教師のみた日本、アジアー」という名のとおり、大航海時代前後、キリスト教がアジア各地にどのようにして布教され、変容していったのか、を語ろうとするものである。その内容をくどく説明するのは控える。以下は、ホームページの案内にしたがって、全体の構成と代表的図書を示す(570円の小さな図録がとても便利)

1.大航海時代前の宣教-モンゴル帝国が繋げた東西交易路
 I.『中国図説』アタナシウス・キルヒャー 1667年 アムステルダム刊
 II.『東方見聞録』マルコ・ポーロ口述、ルスティケッロ著 1485年 アントワープ刊
2.大航海時代-発見・征服・宣教
 III.『聖イグナチオ・デ・ロヨラ伝』ダニエッロ・バルトリ 1650年 ローマ刊
 IV.『ポルトガル領アジア』ファリア・イ・ソウザ 1666-75年 リスボン刊
3.「東洋の使徒」サビエルが開いた日本宣教
 Ⅴ.『ザビエルの生涯』オラティオ・トルセリーニ 1600年 バリャドリッド刊
 Ⅵ.国指定重要文化財『ドチリーナ・キリシタン』1592年 天草刊
 VII.『サクラメンタ提要』ルイス・セルケイラ編 1605(慶長10)年 長崎刊
 VIII.『日本におけるキリスト教の勝利』ニコラ・トリゴー 1623年 ミュンヘン刊
4.禁教国 ・ 鎖国の日本へ
 Ⅸ.『日本殉教精華』アントニオ・フランシスコ・カルディン 1650年 リスボン
5.東アジア世界に広がる新たな宣教フロンティア
 Ⅹ.『中国新地図帳』(『新地図帳』vol.11より)マルティノ・マルティニ 1655年 アムステルダム刊
6.日本再布教の時代
 Ⅺ.『パリ外国宣教会宣教地図帳』アドリアン・ローネイ 1890年 リール刊


0511東京01東洋文庫02キリスト展示01マルコ01 0511東京01東洋文庫02キリスト展示02ザビエル01 0511東京01東洋文庫02キリスト展示03伊達01
左から、『東方見聞録』 『ザビエルの生涯』 『伊達政宗遣欧視察記』


 企画展を見終えて、裏庭の奥にあるカフェ「オリエント」へ。セレブの集まりだ。東京という都市(まち)は電車に乗っていても、街を歩いていても、セレブ感をさほど感じないが、こういう場所に来ると全然変わる。人もメニューもハイソになります。わたしは抹茶のティラミスをいただいた。なんと上品な御味。甘さをぎりぎりまで抑えている。流石の宇治抹茶シェイクも真っ青でした。わたしたちが卓を囲んだのは屋外のベランダだった。そこに先ほどスマホ撮影を依頼された貴婦人が一人、別のテーブルに腰かけて、少しさみしそうにしている。下町なら気楽に声をかけるところだが、ちょっとそんな雰囲気じゃありませんでした。 


0511東京01東洋文庫03抹茶のティラミス01 0511東京01東洋文庫03抹茶のティラミス02のび


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ノビタの酒場放浪記(1)-赤羽・浅草橋

0510飯田橋01オカノギ01 まさに対照的な二人


赤羽の三日月

 南浦和から東京に戻る京浜東北線の赤羽駅で途中下車した。センベロの聖地、赤羽。エガちゃんねるの「朝からはしご酒」で物議をかもした盛り場である。とりあえず駅前の居酒屋に入った。安い。200円台の肴が多く、300円台になると高い方。酒はまず、デンキブランデーという変なメニューが目に留まったので、大将に「これは何ですか」と訊ねたところ、「デンブラはデンブラで説明しようがないわ」とそっけない返事。いったん回避して、久しぶりのマッコリを注文した。ノビタは豪勢に生中。


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 立久ではない。カウンターのまわりに少しだけ椅子席がある。このころからノビタはジャイアンにラインしていたようだ。「赤羽に向かっているようですよ」という。マッコリは弱い醸造酒なので、まもなく空になり、いよいよデンブラに挑むときがきた。ロックを頼むと心配そうな顔をされ、お冷をつけてくれた。一口舐める。たしかにブランデーの味はするが、もちろん純粋なブランデーではない。どうやらリキュール類を混ぜてブランデーもどきにしたものらしい。早く酔えるが、アルコールの質は良くないのだろう。酒の販売店では1本990円で買える。途中からロックを諦め、お冷を注ぎこんで水割りにして、その半分をノビタに譲った(放置しておくと何杯でもビールを飲む)。


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 一軒目を出て、街の奥の小路に踏み入っていく。「えんじゅ」という少しこじゃれた店を覗く。イタリア系のようで、お好み焼きをメニューにしており、女子カップルが目立つ。創作系のお好み焼きを注文し、酒は紅白のワインにした。じつはこのころから頭が痛くなり始めていて、リュックからロキソニンを取り出し一錠飲む。ジャイアンは赤羽に近づいている。まもなく、店の前にあらわれた。背広を着た巨体。14か月ぶりに再会したノビタは「少し痩せたんじゃない」とジャイアンに言ったので少々驚く。
 赤羽でもう一軒入ってもよかったのだが、ホテルは浅草橋にあり、まず先にチェックインしようということになった。京浜東北線に乗り直し、秋葉原で下車して、総武線で浅草橋下車。ここからがなかなか大変だった。上野・浅草方面に東横インはとても多い。似たような名前ばかり。浅草橋駅で下りてスマホ検索すると、私の予約した「浅草橋蔵前2」という分館は7,000円代で泊まれる格安ホテルなのだが、浅草橋駅からはとても遠く(蔵前駅の方が近かった)、歩くのは大変ということで、駅前の個人タクシーに乗車するも、運転手は目の前にみえる別の東横インを指さし、「あれでしょ、すぐ近いから歩いたほうがいい」と言って車を動かそうとしない。あのビルではない、と分かっていたが、外に出て歩くことにした。そこから浅草橋蔵前2まで徒歩で半時間近く要した。


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ノビタのなまず放浪記(3)-埼玉県吉川再訪

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なまずの里-痩せこけたノビタの出迎え

 5月10日(土)、東京から京浜東北線、武蔵野線を経由して、午後2時、吉川駅着。改札の向こうに痩せ細ったノビタの影あり。ヤツが痩せこけた理由については、また折をみて触れることにします。本日のブログでわたしの写真が多いのは、ノビタがご自慢の大型一眼レフで撮影したものを少なからず採用したからです(逆にヤツはほとんど映っていない)。
 ついに念願の吉川市にやってきました。おそらく日本で唯一「なまずでまちおこし」を実践している自治体です。およそ1年前の入院直後、ノビタは吉川を訪問して、割烹ますやでナマズ御前を食し、入院中の身に電話してきて、「美味しい、とくに、天ぷらが最高」と報告し、後にブログに投稿してくれました。思い返せば、これがナマズ食研究活動のきっかけになりましたね。退院してから菖蒲集落での捕獲活動が活発化し、その流れが大学祭模擬店の「天丼」成功につながり、果ては、全税共申請の採択につながったのです。こうして関東方面の取材が可能になったも、その成果の賜でしょう。


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なまずコーラとナマリンの街

 駅前にナマズのシンボル(彫刻)があり、まず写真を撮った。そして、駅の出入口の脇にあるラッピーランドという商工会の土産物販売店へ。まずここに入った。ナマズコーラを飲みながら街歩きしたかったが、鯰キャラのナマリンのステッカーやチラシがどんと目に入り、ナマズ煎餅やらクッキーやら、たくさんのグッズが棚に並べられていて、研究室用のお土産を少々買った。街を歩いて飲むナマズコーラは、普通の甘い炭酸水の味がした。しかし、残り少ない最後の方になって沈殿物が澱んでおり、なにやら苦々しい味がした。これがナマズエキスなのかな。夜のお菓子、浜松のウナギパイの対抗できる栄養分があるのかもしれない。


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 20分ほど歩いて、吉川市中央公民館に到着。図書室郷土関係の資料を探し、市史の漁労関係のページをコピー、ナマズの童話絵本を閲覧した。かつてナマズの童話作品を競うコンペがあり、330作応募された作品群から数篇の優秀作を選んで製本し、最優秀作の題目を書名にした童話集『なまずのぼうや』に目を引かれ、目を通してみた。やはり最優秀作がとてもよくできていて、今年の卒業研究に生かせるかもしれないと考え、購入したいと思ってカウンターの女性に相談した。その司書さんは、ただちに版元の商工会に連絡をとってくれた。すると、在庫僅少ながら、駅前のラッピーランドで販売しているということで、さきほどまで道筋を戻るのか、とも思ったが、ノビタが機転を利かせ、ナマズの里公園まで歩いていって、その向こうにある国道からバスに乗って帰ろうということになった。ナマズの里公園はごく普通の緑地だったが、ビオトープのような池があった。おそらくここにナマズが生息しているのだろうが、魚影らしきものはまったく見えない。そこからバス停まで歩く途中、道にはナマズ絵のマンホールがあり、学校帰りの児童たちのランドセルカバーはナマリンデザインになっている(一番上の写真)。こうしたナマズの仕掛けは目立つというほどではないけれども、あちこちに散りばめられている。


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 バスで駅前に戻り、無事ラッピーランドでは絵本を買うことができた。割引千円の安価で。もういちど店だなをじろじろ眺めた。改めて、ナマリンの多さに気付く。


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切支丹関係文献(2)

松田重雄1972『池田藩主と因伯のキリシタン』

キリシタン因伯


図書情報
著者: 松田 重雄
 鳥取市西町2丁目205
 電話(0857)22一4594
書名: 池田藩主と因伯のキリシタン
定価 2500円
昭和47年(1972)7月1日 印刷
昭和47年7月25日 発行
発行者 鳥取キリシタン研究会
印刷 中央印刷株式会社
電話(0857)代212-1811
製本 岩坪製本有限会社

三浦百重 序
 江戸幕府がキリスト教に対する取締りは、世界にその例がないほどのきびしさであった。その穿削をさけ、 信仰を守り続けていた潜れキリシタンにつながる遺物の一つに、切支丹灯籠がある。松田さんは信徒たちの信仰的情熱に心をうたれ、キリシタンの研究に精魂を打ちこみ、全国各地の切支丹灯籠を追って、二十数年の探究を続けられた。その結晶として、さきに「潜キリシタンの信仰と切支丹灯篭」を、 続いて姉妹篇の「切支丹灯籠の研究」と題して、東京・同文館より出版された。
 この業績は全国的に高く評価され、学会に大きな波紋をなげかけられている。鳥取大学が発足と共に、学芸学部助成会が結成され、松田さんは副会長として会長をよく補佐された。続いて三代目の会長に就任されるや、本学部年来の学生寮新築の件案を推進され、東京県人会石井芳雄氏の助言と、 徳安・古井・中田代議士などの献身的な助力によって、文部省・大蔵省其他に運動を展開され、初年度に男子寮・翌々年に女子寮を竣工し、鳥取大火後の学生生活に安住の場を与えられた業績は、松田会長の絶大な努力の陽であった。 鳥取大学が湖山に移転し、これらの学生寮は解体し、かつて寮の建設に邁進された松田会長をはじめ、役員諸氏の血のにじむ熱意は、今日の学内で知る人も少くなっている。
 このように僅か二十年余の間にも、世の変転とともに、本学部の沿革史の一頁が、忘れられようとしている。まして沓き江戸時代の史実を探ることは、さらに容易なことではない。特に江戸時代の日本キリシタン史は、幕府の手堅い禁教政策によって、鉄の扉の内に秘められ、これを探ることは至難な業とされている。鳥取県下のキリシタンたちも当時のつめたい風にふきさらされ、胸から胸に伝えるのみで、信仰的動向は書き残せなかった。松田さんは僅かに残る文献と、池田藩の古文書を縦糸とし、因伯のキリシタン遺跡・遺物・伝承を広く探究され、それを横糸として、因伯のキリシタン史を始めて明らかに織りだされた。このことは松田さんのたゆまぬ研賛の賜である。
 このたび発刊された「池田藩主と因伯のキリシタン」によると、因伯二州は全国的に眺めても、九州についでキリスト教の布教が伸びていたことは、驚異的な史実である。また鳥取池田藩主の先祖信輝が、すでに戦国の世に入信し、古キリシタンの家柄として神父と交わり、いち早く西洋文明をとり入れ、一国の文化を高かめ、 一方富国強兵を図って、よく戦国の世をのり越え、池田家の基礎をかためたことなどを、明らかにされている。 鳥取池田家の代々の藩主は、幕府の重圧にたえて、城奥で信仰の灯を守り、更に信徒たちを庶民信仰によく習合させ、ひそかに聖地を与えたことは、信仰の力によって得た鉄石の信念と、英知の賜であろう。血なまぐさい風が、全国津々浦々にただよった江戸時代に、池田藩主は信徒たちを庇護し続け、明治維新まで、一名の殉教者をださなかったことは、藩主ならびにキリシタン家老の英邁と、信仰の偉大性を物語り、われに強い感動を起させる。この事実は全国的にも珍しいことで、松田さんがこれを始めてつきとめられた金字塔は、後世にも高く評価されることであろう。 このように因伯の地が、すぐれた指導者によって、ひそかに信仰の一基地であったことなど、郷土史の地図が新しくぬりかえられた感じがする。
 松田さんはこのたび、「池田藩主と因伯のキリシタン」と題して、祖先の偉大な信仰をまとめ上げ、新しい史実を論述された労作は、地方史の開拓とともに、社会教育ならびに地方文化の向上にはたす役割は、きわめて大きく喜びにたえない。精神文化史として貴重な、この新しい郷土史を一読され、祖先の崇高な息吹きにしたられますママことをおすすめし、推薦のことばといたします。

昭和四十七年一月
元鳥取大学学長
三浦百重

徳永職男 序2
 江戸時代の禁教令下にあって、キリスト教が、言語に絶する困難のうちに、信奉し続けられたことが、日本思想史の上に、いかに重要な意義をもっているかについては、こと新たに論ずる必要はなかろう。その意味からも、江戸時代の「キリシタン」研究は、ただにママ禁教時代のみならず、明治以後現代に至る日本思想史、日本史全体を深く探究するために重要な課題である。それにもかかわらず、従来、この重要課題は、その困難ゆえに敬遠されがちであった。この困難な研究に敢然として取り組んだ松田重雄氏は、すでに「潜キリシタンの信仰と切支丹灯籠」(昭和四十一年)「切支丹灯篭の研究」(昭和四十四年)の二著を、東京同文館から発行され、識者の絶賛を博したが、さらにこのたび、地方史的見地にも立って、「池田藩主と因伯のキリシタン」と題して、世に問うことになった。 この本は、キリシタン研究を更に一歩前進させるだけでなく、全く新しい視野に立つ異色の地方史として、世の注目を浴びるであろうことを確信し、広く江湖に推薦する次第である。

昭和四十七年三月
鳥取大学教授
鳥取県文化財専門委員
徳永職男


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2023年度科研実績報告

 2021~23年度科研基盤研究(C)「ボンとは何か-主にブータン仏教からみたボン教的聖域の構造と表象(課題番号21K04470)は昨年度が最終年度の予定でしたが、コロナ禍と病気入院のため延長申請したところ認められ、今年度が最終年度となりました。ついては、昨年度の実績報告を本日学術振興会に送信しましたので、簡単に報告しておきます。

研究実績の概要
 2023年8月末~9月初に第10次調査を実施した。まずハ地区ハテ村のチュンドゥ寺を訪問すると、偶然にも年に一度の大祭を催していた。本寺は表向きドゥク派の仏寺だが、仏壇中心部の仏像群よりも、仏堂隅の土地神チュンドゥとその弟ジョウヤの偶像を参拝者は熱心に拝む。寺の近くにあるJ家は、仏間にチュンドゥとジョウヤの偶像を祀る唯一の民家である。仏間正面の仏壇に多数の仏教尊格の像を置き、土地神チュンドゥ・ジョウヤ兄弟の像は左の脇壁の前にある。寺も民家も、土地神の祭場は仏像群よりも劣位にあるが、住民は、チュンドゥが仏教尊格より重要な存在だと明言する。信仰の祭場で序列が反転している。
 次にポプジカのクブン寺を再調査した。センデン・デワの開山(13世紀か)とされる元ユンドゥン・ボンの寺院で、今はドゥク派の仏寺だが、二階仏堂奥のギョンカン(秘奥の神の間)にボンの女神シッパイゲルモを祀る。壁画には、ガンテ寺の神ゲンポーが後ろからゲルモをレイプするシーンを描く。ヒマラヤの守護神たるゲンポーとボンの女神の間に家畜をめぐる争いがあり、その腹いせに暴力的な性行為が発生したと聞いた。
 最後にトンサ地区に残るボン教徒の隠れ里ベンジ村で再調査。吐蕃の仏教王ティソン・ディツェンの末息子(ボン教徒)が落ちのびた秘境である。旧領主宅ナグツァンを平面実測し空間構成の全体像を理解した上で、土地神ムクツェンを祀るギョンカン(仏間の奥)での法要に参加した。ここでも土地神は劣位の祭場にあるが、仏教尊格群以上に重要視されている。形而上学的な仏教は高位の僧侶が悟りのために学ぶものだが、ボンは平民の身の回りから厄災を避け御利益をもたらすと信じられている。吐蕃の末裔が信じるのは仏教化著しいユンドゥン・ボンではなく、山に住む無形の神ムクツェンである点、特に注目すべき。以上等から、ブータンの非仏教系神霊を偶像化と祭場を指標として分類した。(800字)

キーワード
 ボン 非仏教 チュンドゥ神 クブン寺 シッパイゲルモ女神 ベンジ村 ムクツェン神 祭場ギョンカン

業績
1.学会等発表 計5件(うち招待講演 1件/うち国際学会 1件)
①浅川「古民居再生的新軸線ー在人口減少地区尋找〈居場所〉」(中国語)
 第四届建成遺産国際学術研討会(同済大学、上海、2023)(招待講演)(国際学会)
②浅川「瞑想・礼拝と他界-日本・中国・ブータンの崖寺」
 三徳山《日本遺産》フォーラム2023
③浅川「過疎地に潜む幸福な居場所-秘境ブータンから学び得ること」
 令和5年度鳥取市尚徳大学講義、2023
④浅川「居場所とマイノリティ-:ブータンとウクライナ、そして過疎社会」
 令和4年度公立鳥取環境大学サステナビリティ研究所成果報告会(オンライン)、2023
⑤浅川「ブータンの崖寺と黒い秘奥の空間-魔女・悪霊・土地神の変化と不変」
 米子北高校出前修行(公立鳥取環境大学)、2024

2.図書
①浅川編・監訳『アシ・ツォメン 湖のマーメイド』ASALAB報告書第42輯、2024

3.WEB上の報告等
①ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産-クブン寺とベンジ村を中心に-
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2798.html
②ブータン民話絵本の解題
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2772.html
③第10次ブータン調査活動概要
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2698.html
④ブータンの崖寺と黒い秘奥の空間-魔女・悪霊・土地神の変化と不変
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2799.html
⑤崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2722.html
*「ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産-クブン寺とベンジ村を中心に-」は前後二篇、「ブータン民話絵本の解題」は(1)~(2)の3篇、「第10次ブータン調査活動概要」は(1)(2)の2篇、「崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム」は予報(1)~(5)、報告(1)~(8)の13篇からなる。上に示したサイトはその代表的なものである。

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東鯷人cafe(第2回)のお知らせ-予報2

第2回 東鯷人カフェ チラシ


チラシ完成!?
 
 第2回東鯷人カフェのチラシが完成しました。パワポ制作は元主将、ナマズのイラスト描画はOG(オージー)の自筆です。OG描くナマズキャラはナマG(ナマジー)と命名しました。大変よい出来になったと喜んでいますが、さきほどレイアウト比が16:9になっていることに気付きました。パソコン上では問題ないのですが、紙焼きはどうしようかな。A4用紙は4:3ですからね。モデルは4:3で示したのに16:9で仕上がってしまいました。ひょっとすると、これは素案で、また更新するかもしれませんが、出来自体はよいので、とりあえずアップします。制作に携わった2名には感謝!!

東鯷人カフェ(第2回)-ナレズシと鯰:郷土史からアジア史まで

 全税共の助成による研究活動「ナマズ食の文化史的再評価と郷土料理としての復興」の一環として、6月12日(水)午後、東鯷人cafe(第2回)を本学まちなかキャンパスで開催します。フナズシ研究の第一人者、橋本道範先生(滋賀県立琵琶湖博物館)を招聘して、最前線の研究成果を講演いただくとともに、先月試作し発酵中の「鯰ナレズシ」を参加者全員で試食し、意見交換しようというワークショップです。日程・会場・次第等は以下のとおりです。

1.日時: 6月12日(水) 13:00~16:00(定員25名、要予約)
  飲み物・軽食付きカフェ形式の気楽な講演会です(無料)
2.会場: 公立鳥取環境大学 まちなかキャンパス
https://www.kankyo-u.ac.jp/about/alliance/machinaka/
3.次第:
13:00-13:30 浅川 滋男(公立鳥取環境大学教授)
   趣旨説明:因幡のナレズシ概観~鯰ナレズシづくり(仮題)
13:30-14:45 橋本道範(滋賀県立琵琶湖博物館専門学芸員)
   ナレズシの起源・拡散から琵琶湖フナズシの洗練化まで(仮題)
14:45-15:20 鯰ナレズシ 試食会
15:20-15:50 意見交換
15:50-16:00 閉会挨拶 

4.主催: 東鯷人ナマズ食の会    
  事務局・問い合わせ先: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
   e-mail:[email protected]  本ブログにコメントしていただいても構いません。

 多数のご来場をお待ち申し上げます。


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切支丹関係文献(1)

 これから少しずつ、とくに山陰の潜伏キリシタンに係りそうな古典的文献を紹介していきます。最初は浦川和三郎氏の著書から。

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浦川和三郎1943『浦上切支丹史』

図書情報
昭和18年(1943)9月20日印刷
昭和18年9月25日発行(3000部)
昭和20年(1945)12月1日再版発行(2000部)
著作者 浦川和三郎(ウラカワ ワサブロウ)
発行者 田中秀吉
印刷者 河北喜四良
発行所 株式会社全国書房
配給元 日本出版配給株式会社

(原文)
 祖先を崇拝し、その遺徳を永く記念して、何時までも忘れざらんと努めるのは、古來日本人の美風である。特に我等が切支丹と云ふ立場から祖先の恩を感謝しなければならぬのは、彼等が三百年の久しきに亙つて、未會有の暴風雨に揉まれながらも、飽までその信仰を固守して微動だもしなかったことである。
 慶應、明治の交にも、 彼等は信仰の爲にその家を棄て、その田地を擲ち、笑つて流罪の旅に上り、長きは五年、短きも三年有半に亘って共に辛酸を舐め、幾多の艱難、苦勞、絕食、拷問に叩かれながらも、毅然として初一念を執守り、敢然と して「日本切支丹ここに在り」と世界に向つて大聲疾呼したものである。彼等は放免歸鄉後にも、流罪の旅で満喫した悲惨事だけは流石に忘れ難く、雨の朝にも風の夕にも兩三人相集まると、必ず「旅の話」をくりかへして昔を偲ぶのであつた。然し明治六年の歸鄕から数へて昭和十三年までには早や六十五年、古老は大抵永眠につき、「旅の話」も聞かんと欲して聞く能はざるに至つた。幸ひ私が甞て信 仰の勇者達を歴訪するか、本原町の十字會に集つて戴くかして、その生々しい體驗話を書きとめ、之を「切支丹の復活」中に收め、日本カトリック刊行會から發行したものがあつたので、今回その中から浦上に關する分だけを拔萃し、多少の新史料をも加へて公にすることとした。凡そ國民教育は國史に基礎づけなければ、砂上樓閣に終るの憂を免れ難い。同じ道理から我等が日本切支丹と しての教育も、やはり日本切支丹史に根據を据えなければならぬ。そして明治切支丹史の大部分を占めて居るのは、浦上切支丹の發見、流罪、釋放等であるから、浦上切支丹史は亦明治切支丹史であると云つても過言ではない譚である。
 いづれにせよ、もし讀者諸君が――そのカトリック教徒たると否とを問はず――本書を一讀して、信仰が如何 に人を勇壮、剛健、百練不磨たらしめるかと云ふことに思を致されたら、多少に拘らず得る所あるべきは多言を俟つまでもあるまい。况んや浦上人士たるものは、之に由つてしみじみと祖先の遺徳を偲び、胸は感激の情に躍り立ち、覺えず腕打さすり、力足ふみ鳴らして奮起するに至らないだらうか。私の微意は全く其處に在るのである。

《序》現代語訳
 祖先を崇拝し、その遺徳をながく記念して、いつまでも忘れないようにと努めるのは、古来日本人の美風である。とくに私たちキリシタンという立場から祖先の恩を感謝しなければならないのは、かれらが三百年の久しきにわたって、未會有の暴風雨に揉まれながらも、あくまでその信仰を固守して微動だにもしなかったことである。
 慶応~明治のころにも、 かれらは信仰のためにその家を捨て、その田地を投げうち、笑つて流罪の旅に出で、長きは五年、短きも三年半あまりにわたってともに辛酸をなめ、幾多の艱難、苦勞、絕食、拷問に叩かれながらも、毅然として初志貫徹し、敢然と して「日本キリシタンここに在り」と世間に向って声高に訴えたのである。かれらは放免帰郷後にも、流罪の旅でたっぷり味わった悲惨事だけはさすがに忘れ難く、雨の朝にも風の夕にも二~三人相集まると、必ず「旅の話」をくりかえして昔を偲ぶのであつた。しかし明治六年の帰郷から数えて昭和十三年までには早や六十五年、古老は大抵永眠につき、「旅の話」も聞かんと欲して聞くことができないようになった。幸い私がかつて信仰の勇者たちを歴訪するか、本原町の十字会に集つていただくかして、その生々しい体験話を書きとめ、これを『きりしたんの復活』中に收め、日本カトリック刊行会から発行したものがあったので、今回その中から浦上に関する部分だけを抜粋し、多少の新史料をも加えて公にすることとした。およそ国民教育は日本国史に基礎づけなければ、砂上の楼閣に終るという憂いを免れ難い。同じ道理から私たちが日本キリシタンと しての教育も、やはり日本キリシタン史に根拠を据えなければならない。そして明治キリシタン史の大部分を占めているのは、浦上キリシタンの発見、流罪、釈放等であるから、浦上キリシタン史はまた明治キリシタン史であると言っても過言ではない話である。
 いずれにせよ、もし読者諸君が――カトリック教徒であるか否かは別にして――本書を一読して、信仰がいかに人を勇壮、剛健、不朽たらしめるかということに思いをめぐらすならば、多少に拘らず得る所あるべきは多言をまつまでもあるまい。ましてや浦上人士たるものは、これによってしみじみと祖先の遺徳を偲び、胸は感激の情に躍り立ち、無意識のうちに腕打ちさすり、力足ふみ鳴らして奮起するに至らないだろうか。私のささやかな志しは全くそこに在るのである。(都志豆)


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鯰のナレズシ 早くも試作(3)

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鯰のナレズシ開封

 5月14日(火)、卒論ゼミの時間を利用して、先月23日に漬けた鯰ナレズシを、いったん開封して状況を観察し、ゼミ室の冷蔵庫に樽ごと移動させた。この日の作業者は、安部、荻ノ沢、出見、西山、脇野(以上4年ゼミ生)。主な作業内容は、①鯰ナレズシ漬樽の開封、②上澄み液(魚醤?)の取り出し、③再度密封、④ゼミ室冷蔵庫への移動、である
 漬物樽を置くスタジオは日陰にあり、自然光をほぼ遮断しているので、外気の温度変化に影響を受けにくい涼しい部屋である。入室すると、うっすら発酵臭がしていた。まずはナマズを塩麹漬している樽を開け、中を確かめる。上蓋を開けると、強い発酵臭が鼻を刺激した。良く言えば長期間発酵させた乳製品、悪く言えば生ゴミのような臭いである。漬けてからちょうど3週間。かなり発酵が進んでいるようだ。何重にも巻かれたラップを一枚一枚はがして除き、重石と中蓋の上下には、ベージュ色に濁った上澄み液がかなり溜まっている。この上澄み液は、おそらく「魚醤」に近いものであろう。


ナレズシ開封前 ナレズシ開封01 ナレズシ開封03魚醤(上澄み液)


上澄みをナマズコーラのボトルへ移す

 上澄み液はまずボウルに流し込んだ。かなりの量である。次に液の表面に浮かぶ泡のような灰汁をスプーンで掬って取り除いた。それから、液の一部をナマズコーラの瓶に移す。教授が週末に「ナマズの里、埼玉県吉川市」を訪れてゲットされた空き瓶である。瓶の口に漏斗をはめてスプーンで上澄み液を少しずつボトルに流し込んだ。余った上澄み液は廃棄した。上澄み液は時間が経つと再び溜まってくるので、定期的に取り除かなければならない。
 瓶詰にした上澄み液の臭いを嗅いでみた。容器の上蓋を開けた時のようなきつい発酵臭かと思っていたのだが、実際にはさほどの悪臭ではなく、酸味のある乳製品のような匂いがした。酸っぱいラッシー(インドの甘い飲むヨーグルト)である。魚醤は塩漬けにした魚を発酵させてできる醤油のようなものであり、東南アジアのナンプラ-やニョクマムが良く知られている。ナレズシは塩だけではなく米飯の乳酸発酵を利用して作るため、それらの魚醤よりも酸味が強いものになりそうだ。
 わたしは魚醤を口にしたことがなく、その魚醤が作られる現場を見たことももちろんないが、スーパーなどでよく見る魚醤はこのように作られていることを体感し、少し感動した。


ナレズシ上澄み取り03 ナレズシ灰汁取り02 ナレズシ上澄み瓶詰01 
 

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東鯷人cafe(第2回)のお知らせ-予報1

栗東市大橋集落三輪神社のドジョウ・ナマズ鮓01 0423鯰スシ03小ナマズを漬ける01
(左)栗東市大橋集落三輪神社のドジョウ・ナマズ鮓 (右)鯰ナレズシづくり@環境大学


因幡と近江のナレズシをアジア的視野からみつめ直し、鯰の食文化を考える

 まだチラシも出来ていませんが、東鯷人cafe(第2回)について概要をお知らせします。全税共の助成による研究活動「ナマズ食の文化史的再評価と郷土料理としての復興」の一環として、6月12日(水)午後、東鯷人cafe(第2回)を本学まちなかキャンパスで開催します。フナズシ研究の第一人者、橋本道範先生(滋賀県立琵琶湖博物館)を招聘して、最前線の研究成果を講演いただくとともに、先月試作し発酵中の「鯰ナレズシ」を参加者全員で試食し、意見交換しようという会です。日程・会場・次第等は以下のとおりです。

【イベント名】東鯷人カフェ(第2回)-ナレズシと鯰:アジア史と郷土史(仮題)
1.日時: 6月12日(水) 13:00~16:00(定員25名、要予約)
  飲み物・軽食付きカフェ形式の気楽な講演会です(無料)
2.会場: 公立鳥取環境大学 まちなかキャンパス
https://www.kankyo-u.ac.jp/about/alliance/machinaka/
3.次第:
13:00-13:30 浅川 滋男(公立鳥取環境大学教授)
   趣旨説明:因幡のナレズシ概観~鯰ナレズシづくり(仮題)
13:30-14:45 橋本道範(滋賀県立琵琶湖博物館専門学芸員)
   ナレズシの起源・拡散から琵琶湖フナズシの洗練化まで(仮題)
14:45-15:20 鯰ナレズシ 試食会
15:20-15:50 意見交換
15:50-16:00 閉会挨拶 

4.主催: 東鯷人ナマズ食の会    
  事務局・問い合わせ先: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
   e-mail:[email protected]  本ブログにコメントしていただいても構いません。

 多数のご来場をお待ち申し上げます。


橋本道顔写真1 (4)

◆講師紹介
橋本 道範(はしもと みちのり): 滋賀県立琵琶湖博物館 研究部 専門学芸員
1965年 岡山市生まれ。京都大学文学部卒業、同大学院文学研究科国史学専攻博士後期課程中退 京都大学博士(文学)。日本中世史専攻。
琵琶湖漁撈と魚介類消費を中心に自然と人間との関係史を研究している。主な著書に『日本中世の環境と村落』(2015)、『自然・生業・自然観: 琵琶湖の地域環境史』(2022)などがあり、編著『再考 ふなずしの歴史』(2016)は第30回「地方出版文化功労賞・奨励賞」を受賞している。


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沈黙-サイレンス-(2)

沈黙03


 5月8日(水)、13講義室でマーティン・スコセッシ監督(原作:遠藤周作)の映画『沈黙-サイレンス-』(2016)をゼミ生に視てもらった。速攻で感想文を書いてくれたので、二篇を紹介する。
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死ねばパライソに行ける

 隠れキリシタンの人たちがどれほど過酷な環境にいたのかが分かった。見つかったら殺されるという状況下でも信仰を続け、拷問中でさえも神を信じ神に救いを求めている姿が印象的だった。とくにトモギ村のモキチは4日も拷問に耐え、死ぬときも聖歌を歌っていたのでとても強い信仰心だなと思った。私はとくに決まった宗教に属しているわけではないので、そこまで強く信じられるのはすごいことだと思った。私なら、踏絵を踏めと言われたら踏むし、唾を吐けと言われたら吐いてしまうと思う。しかし俳優さんたちの演技がすばらしいので、私は神様を信じていないが自身もキリスト教徒になった気分で、隠れ切支丹が踏絵を踏むときに少し心苦しくなった。
 また、ロドリゴが出会った少女モニカの言葉が印象に残っている。ロドリゴと数名の切支丹が捕まり、ロドリゴが「平気なのか?我々も死ぬことになるのだぞ?」と訊ねた後、モニカが発した「ジュアン様の話では、死ねばパライソ(天国)に行けると。いいことでは?」という科白だ。この科白を聞いて、「確かに」と思ってしまった。また、このように語ったときのモニカがとても純粋無垢な顔をしていて、キリスト教の教えを信じて疑わないという印象を受けた。
 最初はキリスト教の映画でどうして「沈黙」という題名なのだろうと思っていた。隠れ切支丹の人たちが尋問に対して沈黙することを指しているのかなと予測していたが、話が進むにつれて、教徒の祈りに対する神の「沈黙」であると分かって納得した。神は救ってくれるという想いと神の沈黙の間でロドリゴの心が揺れている描写がリアルで引き込まれた。(デミグラス)

【コメント】 死ぬと天国に行ける、キリストの居る世界で生きられる、と信じているから、死が怖くないのでしょうね。仏教も似ています。人間に生まれ変わってまた苦行を背負うよりも、ブッダの超越的世界に生まれ変われれば、煩悩のない幸福な世界がある。それを信じているならば、死を肯定的に捉えることができるでしょう。


沈黙04


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マカオの切支丹-茨林囲への途(4)

茨林囲の心地よい散策(続完)◆

秋の収穫 冬の蓄え

 私は7月下旬から9月中旬にかけて青蔵(青海チベット)高原、河西回廊、内モンゴルの草原を旅し、ボランティアのキティの手助けを得て仕事を続けた。実際、彼女はヒアリングの仕事に加えて、コーディネイト役も務めることに早くから同意しており、チーム運営における重要な力であり、潤滑油となっていた。11人のインタビュアーのうち、9人は他に常勤の仕事があり、多忙を極めている。 調査、ヒアリング、そして特集記事の執筆を完了するために、私たちは皆、できる限り時間を捻出しようと努めた。今回は、逐語録を起こす人材を雇用したので負担は軽くはなったけれども、それでもインタビュアーは逐語録の正確さを校正しなければならず、全体的な作業量は依然としてとても多かった。さらに、私たちのグループはとても真面目で、ヒアリングの正確性をいつも点検している。私たちのチャットグループでは、よくこんな議論が交わされる:

 *「鶏の羽」の卸売で毎月いくら稼げるか知っている人はいますか? 良い鶏の羽の使い道は何?
 *「同聚文」と「同文聚」は同じこと?? 1960年代のビジネス年鑑をお持ちの方はいますか?
 *水道、電気、排水溝ができたのはいつ? 井戸が閉鎖されたのは何年?

 文献を探したり、逐語録を確認したり、異なるヒアリング対象者の証言や文献を互いに比較して裏付けをとったりしながら、長い時間をかけて議論することもよくある。真剣さは確かに実を結ぶが、同時に時間の犠牲も伴う。当初の出版目標は2022年前半に設定されていたため、執筆分担の淑怡と雨晴は原稿を急がなければならなかった。ゴビ砂漠から遠く離れた、世界で最も雄大な峠の烽火(のろし)台で、「チャットグループが狼煙と四気を上げ」*5、キティがその火を消そうとしているのを(スマホで)みた。

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 雨晴:「みんな、提出状況を報告してくれ。まだ提出していない人は元気出して!」
 回答:「未提出の人が多くて安心した。」「本音を言いました。」
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 雨晴:「今日は20日だ、約束を守ってくれよ!」
 回答:「私の約束に大した価値はないよ。」「25歳:タイピングをして音を出したくないんだ。」
     「責任ある市民として、防疫が第一さ。」
     「僕にはできない、失望させてしまったよ。」
     「執筆を監督してくれる猫がいれば...その枕元で気持ちよく眠れるのに。」
      ...それからみんなで猫の話をする。次に猫の話に関する1000件のメッセージを削除する。
 雨晴:「猫に話題を変えないで、記事を提出してね!」
     「キティの2つの記事は早く提出された。 彼女は我々のお手本だ。」
 キティ:「私はあなたを守るためにここにいるけれど、みんなが仕事したくなるようなことは言わないでね。」
 私:「嘉峪関にいるんだけど、烽火の匂いがする。妹をいじめないでよ!」
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 そんな楽しくユーモラスな雰囲気のなか、物腰柔らかなインタビュアーたちはそれでも懸命に働き、2021年9月6日、ついに14人のヒアリング原稿が集まった。数日後、私も雁門関を越えて中原の洛陽を経由してマカオに戻り、秋の収穫を楽しんだ。このころには、以下3本の特集記事と執筆者も決まり、再び作業が始まった。

 ①茨林囲における哪吒(ナタ)神の子供たち
 ②女性史(Herstory): 茨林囲の女性たち、彼女たちの茨林囲
 ③茨林囲における生活哲学


茨林囲②脇野01 茨林囲②脇野02 茨林囲②脇野03


 秋晴れの日に再び茨林囲を訪れると、3月とはずいぶん変わっていた。ゴミとゴミ捨て場はすべて片付けられ、新しい花や鉢植えで美化されているところもある。老朽化した家屋を修繕している住民もいるし、開店に向けて改装中の飲食店もある。茨林囲は活気を取り戻し、荒廃した状態から徐々に脱しつつある。
 同時に、茨林囲住民問題団体は出版計画を調整し、2022年8月に延期した。そのため、私たちの仕事は少し遅れる可能性がある。
 11月27~28日の両日、茨林囲で3人の文化交流大使研修生による「文化交流大使パイロット・スキーム」が実施され、「茨林囲の人生哲学」についてのガイドツアーと「楽しい運動」が行われた。じつは、アンバサダーのうち2人は私たちのヒアリング調査隊の一員であり、私たちはこのプログラムにおいて彼らにいくつかの条件と援助を提供し、その結果の一部を私たちが出版した特集記事の一つで紹介した。彼らの企画は大成功を収め、茨林囲の美しさはより広く知られるようになった。
 秋から冬になり、2022年1月には3本の特集記事も完成した。私はその後の出版についてはよく知らないが、原稿をすでに提出していたので、自分の仕事は完了したものと思っていた!


茨林囲②脇野04 茨林囲②脇野05 茨林囲②脇野06
(画家の陳漪莉は 「茨林囲の人生哲学 」プロジェクトの一員であり、後にこの本の挿絵を依頼された)

《訳注(続)》
*5 うまく訳せないが、おそらく人気アニメのタイトルもしくはキャッチコピー、あるいは科白を引用し、自分たちのチャット交換を表現したものであろう。http://www.cczww.com/books/6186/?btwaf=73518437



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マカオの切支丹-茨林囲への途(3)

茨林囲口述歴史01地図01


 今夜から、李先生の紹介された文献サイト②を紹介する。このサイトは、昨年出版された『茨林口述歴史』の裏話を述べたものである。2回にわけて翻訳文を示そうと思う。書籍は李先生とテイ君、陳くんの尽力により、すでに研究室に届いており、また別の機会に報告する。
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茨林囲の心地よい散策
2022年12月5日(月)

 今回、インタビュー計画の構想から『茨林囲口述歴史』の出版まで、ほぼ2年を要した。

春に露となる草木の葉

 2021年春節(旧正月)の同窓会で、林発欽会長は私にこう漏らした。「マカオ口述歴史協会は財政状況が良くなくて、会館の家賃を払えなくなり、常勤の従業員を雇えなくなったので、活動を続けるのは確かに容易ではない」と。しかし、茨林囲の口述歴史研究という、非常に意義深い課題が残っており、このプロジェクトをコーディネートできないかと会長に頼まれた。茨林囲を事前に(文献的に)理解し、実際に訪れてみて、私は茨林囲が歴史的・文化的な研究価値があり、荒涼とした茨林囲の現状を変革できるチャンスがあるかもしれないと、大いに納得した。だが、私は数ヶ月にわたる長距離旅行を2回計画しており、マカオを頻繁に離れることになる。また、このような仕事をコーディネートした経験がなかったため、この任務を軽率に引き受ける勇気はなかった。しかし、林会長は私の仕事に対して柔軟に対応してくれたし、私も 「副会長」という肩書きがある以上、協会に何らかの貢献をしなければならないと思っていた。結局、春の江南旅行へ出発する前の3月上旬、茨林囲で行われた住民の祭りと集会に出席した後、この仕事を引き受けることに同意した。


茨林囲口述歴史02黒い犬01 茨林囲口述歴史03家01
茨林囲口述歴史04廟01 茨林囲口述歴史05小路01
  (小犬のクロとは茨林囲を初めて訪れた時に知り合った)

 江南での3週間、杭州西湖の桜を楽しみ、南潯古鎮*1 を訪れ、蘇州の耦園*2 を巡っていると、初めて茨林囲を訪れた時のことを思い出した。茨林囲には鮮やかな春の花々、樹齢数百年の果樹、清徹な井戸が残り、壁は崩れかけている!
 《茨林囲の一世紀》 私たちは自分たちのプロジェクトをこう命名しようと考えた。保護、遺産の継承、活性化、私たちには何かできるかもしれない。4月10日は清明節(彼岸)だから、マカオに戻らなければならなかった。この日、協会の事務所が家主に引き渡され、送別会が開かれた。友人たちが時間を割いて戻ってきてくれた。詩情豊かな林会長が特別に顔見知りの学生を探し出し、バイオリンで「友情万歳」を演奏してくれたので、目頭が熱くなり、「最もこれ蒼惶にして(あわてふためいて)廟を辞する日、教坊なお別離の歌を奏でる」*3 を思い出した。マカオで文化事業を営むのは本当に難しい!
 同じ日、私たちは茨林囲住民問題団体とプロジェクトを実施するための正式な会議をもった。午後には11人のヒアリング調査隊(10人のインタビュアーを含む)が結成され、送別会直後に第1回調査隊会議を開き、プロジェクトは正式に開始された。春が戻り、花が再び咲く。2021年の春は活力と希望に満ちていた。

 
茨林囲口述歴史06庭園01 茨林囲口述歴史08夜景01 茨林囲口述歴史07梅01
茨林囲口述歴史09畑地01 茨林囲口述歴史10井戸01 茨林囲口述歴史10草木01


《訳注》
*1 南潯古鎮: 浙江省湖州市に位置し、蘇州市呉江区と接する水郷の小さな鎮(まち)。江南の伝統的な庭園とフランス・ルネッサンス風の近代建築が融合した町並みで知られる。鎮は都市化した宿場町だが、城壁はない。
*2 耦園: 蘇州の名庭。世界文化遺産「蘇州古典園林」の一つ。http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1974.html
*3(原文)“最是蒼惶辭廟日,教坊猶奏別離歌”: 五代十国時代、江南にあった南唐(937-975)の李煜は、建国の38年後に「四十年来家国」の詞を詠んだ。その詞は「破陣子」という詞碑に残されている。詞の全文は以下。赤色下線が引用部分。
   四十年来家国,三千里地山河。鳳閣龍楼連霄漢,玉樹瓊枝作煙蘿,幾曾識干戈。
   一旦帰為臣虜,沈腰潘鬓消磨。最是蒼惶辞廟日,教坊猶奏別離歌,垂涙対宮娥。
  (建国来四十年の祖国は 三千里の地に山河あり 宮室の華麗な楼閣は天に連なり 宝石のような樹枝は葛のような幕となる 
  戦争のことなど何も知らない。ひとたび帰順して捕虜となり やつれ果て髪は白くなってすり減った。とりわけ宮室の宗廟を
  立ち去る日、伎楽所ではなお別れの歌を奏でている。後宮のみめよい[娥:美しい女官たち]の前で涙を流すしかなかった)
 南唐は建国後40年足らずで版図を最大にしたが、まもなく華北に割拠する後周の南征を受けて大敗し、その属国となる。李氏は「皇帝」から「国王」に格下げされた。ところが後周でもクーデターがおき、趙氏が宋を建国した。南唐は宋を恐れ、国王の李璟が961年に南昌に遷都し、旧都の江寧(現南京)は太子の李煜に守衛させる。同年、李璟が逝去すると、李煜が江寧で即位し、首都は旧都に復する。南唐の王となった初日から、李煜は宋の威圧の下に生きており、いつ国が滅ぼされ、虜囚となってもおかしくないという不安な日々を過ごしていた。宋の太祖開宝8年(975)、李煜は宋に完全降伏する。捕虜として、彼と45人の息子や娘は北方に連行された。以来、李氏は屈辱の日々を過ごす。李煜は42歳のとき卞京(開封)で毒殺された。 https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/liyu5.htm
*4 哪吒太子: 毘沙門天ヴァシュラバーナ(バラモン教のクバラ神)の王子とされる仏教の護法尊ナラクバラが中国で変容し、道教神となった。 哪吒の日本語読みは「ナタ」。中国語の発音は「ノーチャ(Nezha)」。http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/nezha.html



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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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