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造園学会に参加して(Ⅱ)

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フォーラム「山陰海岸ジオパークのマネジメントを探る」

 大阪府立大学中百舌鳥キャンパスは広大で、環境大学のキャンパスとの規模の差に驚いた。至る所に、さまざまなモニュメントが置かれていた。キャンパス内をある程度見てまわり、案内板に従い集合場のB3棟に向かった。B3棟の入口の前にN教授が待っておられた。コメンテーターの方々を出迎えたのち、ミニフォーラムの打ち合わせにも同席させていただき、そのままフォーラムに参加した。
 フォーラムでは基調講演がまずあり、その後、コメンテーターの方々とのディスカッションをおこなった。基調講演の内容は山陰海岸ジオパークとジオツーリズムについてだ。世界遺産とジオパークの違いとして、世界遺産は条約に基づき、保全・保護を重要視するのに対して、ジオパークは保全と活用(地域振興)を重要視する。ジオパークでは世界遺産のように場所が重要なのではなく、ジオツーリズムなどの地域の人々の活動が重要視される。ジオパークは大地に親しみ、大地の成り立ちを知り、人間と地球のこれからの関係を考える「ジオツーリズム」を楽しむ場所であり、地質や地形の見どころとする自然公園である。

 山陰海岸ジオパークのメインテーマは日本海形成に伴う多様な地形・地質・風土と人びとの暮らしなど文化的に重点を置く。山陰海岸ジオパークの特徴として日本海の形成にかかわる地質の多様性、日本海沿岸の海岸地形の多様性(岩石海岸と砂浜海岸)、地球科学史上貴重な発見(松山逆磁極期の発見)、火成活動の影響を受けた豊富な温泉資源、地形・地質の中で生じた動植物の多様性、多様な自然を背景とした地域の歴史・文化・暮らしなどが挙げられる。山陰海岸ジオパークのエリアは鳥取県から京都府までの海岸沿い110㎞もある。   
 山陰海岸での人間の活動を見てみると、日本海に面した山陰海岸の地理的条件と自然環境を活用し、古くから大陸交易、日本海を利用した物流の拠点として活用・認識され統治されてきた経緯がある。近世以降では、日本における物流の拠点が太平洋側に移り、日本国内の物流拠点としての位置づけは薄らいだが、自然資源としての水産物、景観、降雪、温泉など活用した観光拠点としての位置づけが大きい。

 ジオパークに係わる活動として、以下の視点が必要となる。
 
 ・地域の地史や地質現象がよくわかる地質遺産を多数含み、考古学的・生態学的・文化的な価値のある場所も含む保全。
 ・地方自治体および公的機関・地域社会や民間団体によるしっかりした運営組織と運営・財政計画をもつ。
 ・ジオツーリズムなどを通じて、地域の持続可能な社会的・経済的発展を育成する。
 ・博物館、自然観察路、ガイド付きツアーなどにより、地球科学や環境問題に関する教育・普及活動を行う。
 ・地域の伝統と法に基づき地質遺産を確実に保全する。

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造園学会に参加して(Ⅰ)

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因幡っこ、難波に迷う

 こんにちは、白帯です。
 5月20日、大阪府立大学で開催される日本造園学会全国大会に参加した。その大会では本学N教授がコーディネイターを務めるミニフォーラム「山陰海岸ジオパークのマネジメントを探る」が行われる。ミニフォーラムでは「山のジオパーク」として摩尼山に注目し、歴史自然資源を保全活用して山陰海岸国立公園への区域編入についても議論する。僕の卒業と係わるフォーラムであり、N教授のお誘いに従い、参加することにした。大阪に向かう前に、ASALABを卒業し大阪で働いているヒノッキー先輩に連絡を取って誘ってみたが、その日は同僚の方と比叡山に行くそうで、再会が叶わなかった。
 大阪へは僕一人で向かう。一人で大阪に行くのは初めてで少し不安も感じながら、早朝の大阪行きバスに乗り、バスに揺られながら鳥取を出た。目的地の難波に11時くらいに到着した。会場には16時集合ということで、かなり時間があったで、少し難波OCATの周りをぶらぶら歩きまわった。中はかなり複雑で表示案内なしでは迷うところだった。外に出てみると、大勢の人で歩道が埋め尽くされていていることに驚いた。田舎に住んでいるので、都会ではありふれた景色でも、群衆が行きかう光景だけで驚いてしまう。

 難波(OCAT)の近くには道頓堀がある。一時間くらい歩いたが、いっこうに道頓堀に着かない。周りを見渡すと前後左右マンションに囲まれて、道路には車や人の気配がしなかった。どうやら道に迷ったようだ。方向音痴な僕はどの方向にむかえばいいかわからない状態に陥っていた。そうこうして困っていたら、宅配の業者さんを発見したので、難波駅まで戻る方角を教えてもらった。その方角にずっと進むと見覚えのある場所に出られて助かった。これでかなり時間を無駄に使ってしまった。そこから難波OCATに戻り、コンビンで弁当を買い、一人さみしく近くにある公園で昼食を取った。コンビニで弁当を買って食べたのは、多くの店に行列ができていて、とても並んで待つ元気がなかったからだ。食事を終え、街中にある地図を頼りに道頓堀に向かった。また迷うのではと思ったが、人の流れに乗っていくとあっけなく到着できた。道頓堀までの時間は12分たらずと、こんなに近かったのかとガックリきた。

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↑難波駅前新歌舞伎座

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木綿街道のこと(ⅩⅩⅩⅠ)

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まい ごっつぉ

 昨年、一昨年とも「おちらと木綿街道」の日は生憎の雨だったそうです。今年の天気を、みんなが期待していました。はたして、素晴らしい天気でした。イベント当日、街道にはたくさんの人々が行き交い、出店が並び、旧石橋酒造内でも、ブックマーケット、柿渋染め体験コーナー、雑貨屋さん、洋服屋さん、コンサートなど、とても賑わっていました。上の写真は、旧石橋酒造前でおこなわれていた「ながーい手ぬぐいワークショップ」です。
 以下、「まい ごっつぉ」について紹介します。出雲弁で「まい」は美味しい、「ごっつぉ」はごちそうの意味があり、イベントではさまざまな食べ物が出店で出ていました。全部は食べられなかったものの、写真で少しご紹介します。

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●生姜おにぎり
來間生姜糖本舗のお店の前で販売されていました。このとき持っていたのはカメラだけで、財布を持っていなくて結局買えずじまいでした…。出西生姜の入ったごはんのおにぎりでした。普段は売っていません。

●小伊津甘鯛と十六島海苔のおにぎり弁当(数量限定)
 名前からして豪華なお弁当です。私はこれ、お目にかかれませんでした。あ、もしかしてタクヲさん、これ食べたんじゃないですかね…?

●木綿街道バーガー
 これは私も買って、いただきました。バンズは中町にある「かめや製パン店」のもの、パテには出西生姜がたっぷり、岡茂一郎商店の醤油もろみや、レタスも町内の方の無農薬レタスだったそうです。地元の食材だけでつくった特製バーガーでした。美味しかったです。バーガーの包みも手づくりで可愛かったです。

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●持田醤油屋さんを通りかかると何やら列が。午後からはだんだん天気も良くなり気温も上がりました。、みなさんお目当ては冷たいものだったようで、醤油ソフトクリームを求めて並んでおられました。

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木綿街道のこと(ⅩⅩⅩ)

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和の かほる まち おちらと 木綿街道

 「和のかほるまち おちらと木綿街道」が20日(日)、出雲市平田木綿街道にて催されました。このイベントは、木綿街道にとっては年に一度の大イベントとなっています。「おちらと木綿街道」は今年で12回目だそうです。ここ3年ほどは悪天候だったんですが、今年は快晴とはいかないまでも、行楽日和。今までに見たこともないくらい人があふれ、大盛況でした!
 私は昨年の夏から木綿街道の調査にかかわっており、今年も研究テーマを木綿街道を含めた出雲平野の景観としています。そんなかかわりもあり今回のイベントではボランティアとして、東京の方から遥々来られた元学生の方たちの出し物や古本マーケットのお手伝いをしました。前夜祭にも参加させていただいたので、レポートを書きます。
 19日、私1人が先発して出雲に向かいました。鳥取から平田の木綿街道まで1人で行こうと思うとなかなか大変なのです。JRで向かったとしても松江駅で降り、JRの駅から2㎞近く離れた松江しんじ湖温泉駅まで行き、今度は電鉄に乗り換えないといけないのです。このルートで行くと鳥取から平田まで、4時間はかかります。しかし今回、たまたま松江で開催されるというファッションイベント(島大主催)に行くという友達の車に座席の空きがあり、松江まで便乗させてもらえました。そのなかに匠くんがいたのは内緒です・・・しかし、深夜はバイトが入っており鳥取に帰らないといけないようで、翌日も所用あり、“おちらと“に行けないことをとても残念がっていました。

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アブストラクト for the 9th ISAIA(Ⅱ)

Title
  Reconstruction Study on the Shinto-Shrine's Building Remnants
  in the Ancient Times of the Political System based on
  the Ritsuryō Codes - A Case Study on Aoki Ruins in Izumo-city -

Abstract : 
 It is in the Ancient times of the political system based on the Ritsuryō codes after later 7th century that such buildings as "temple" became to be included into Sanctuaries called 'Yashiro(社)' or 'Mori(杜)'. The aspect of early Shinto-shrine is very unclear. But in Izumo district, Izumo Fudoki (733) has some description about shrines, and some excavated sites are recognized as the Shinto-shrine. This paper aims at the reconstruction of the building remnants of Aoki Ruins in Izumo-city, which are Shinto-shrine's sites of 8th century. This should be first scientific trial of the reconstruction for Shinto-shrine sites of the Nara period. Aoki Ruins were divided to three blocks by two watercourses, nine dug-standing pillars buildings (掘立柱建物=DSPB) are estimated as "temple". Three DSPBs were found in the eastern block and two DSPBs in the western block. The former and the latter could be severally matched to Inu-shrine and Mitami-shrine described in Fudoki. Two buildings on foundation stones (礎石建物=BFS) were found in the central block, which could be considered as the administrative area for both the shrines. For the reconstruction of any building remnants, the model as the total picture was selected from existing historical buildings, and the details were altered to the architectural styles of the Nara period. In the alteration of the details, we referred to the building timbers excavated in the relative ruins and the historical Shinto-shrine buildings. Therefore, our reconstruction plan should be a patchwork of many elements. Exchanging opinion with the archaeologist and the historian who joined the excavation, we have interpreted the building remnants and refined the reconstruction plan. But through the actual experience of reconstruction design, we became to have some questions about the interpretation before designing work. So we tried to re-interpret the building remnants after finishing reconstruction design, finally the conclusion was derived.

Keywords:
 Shinto-shrine, the political system based on the Ritsuryō codes, Aoki Ruins,
 Reconstruction, Taisha-zukuri temple style, nine dug-standing pillars building

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GW編 「修験道トレッキング」(Ⅳ) -霊石山

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虫たちの登山

 5月22日(火)、念願の霊石山へ登った。霊石山は、鳥取市と旧八頭郡河原町との境にある標高333mの山である。天照大神が征西の途上ここに一時期ミヤをおいていたという伝承がある。中腹から頂上にかけて、最勝寺、御子岩(みこいわ)、一本松、源範頼の墓、33体観音、奥ノ院の鐘楼、城跡、展望台、観光灯などが見られる。またこの山は、スカイスポーツのメッカとしても全国に知られている。高さ、眺望、気流が良く、絶好のフライトエリアを目指して、全国からパラグライダーやハングライダーなど、スカイスポーツの愛好者が訪れる。
 今回は先輩が事前に調べてくれていたおかげで無事にたどり着くことができた。前回と同様に、急な坂道が続いていた。竹林や折れ曲がった雑木がたくさん見られ、所々で巨岩や御墓、虫、人と出会った。途中車が停まって誰から思ったら、先生だった。御子岩の写真撮影のために来られたそうだ。

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 御子岩は少し見逃してしまいそうな場所にあり、周りには草が生い茂っていた。しかし、そんな中でも巨岩は堂々として迫力があり、神秘的であった。縦横とも約4.8メートル余りの巨岩で、伝説によると、天照大神がこの山に降りられたとき、道案内の神として猿田彦命に先導され、この石に「かんむり」を置かれたといい、猿田彦命の霊をまつっているという。古来より、道往く人々の道しるべとなっていた。近くに、御子岩の4分の1ほどの岩がいくつかあった。後で調べたところ、そのうちの2つは皇居石と夫婦石と言われる石だと分かった。上に登る際に踏み台にした岩ではないと思いたい。御子岩よりも高いところには仏様の石像が置かれていた。3人でその場に立ってみた。風がよく通り、町の様子が見渡せた。そこからの眺めは、本当にイワクラ、仏様がじっと見守ってくださっていると思わせられるほど。なるほど、これが山の名称由来だ、とはっきりわかった。

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2012霊石山01遠景01

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2011年度科研実績報告

1. 研究種目: 基盤研究(C)   
2. 研究期間: 平成22年度 ~ 平成24年度
3. 課題番号: 22560650
4. 研究課題: 石窟寺院への憧憬 -岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究 

5. 研究実績の概要
 昨年度発掘調査した摩尼寺「奥の院」遺跡の出土遺物・土壌・岩石等について自然科学分析を進め、報告書『摩尼寺「奥の院」遺跡-発掘調査と復元研究-』を刊行したことが第1の成果である。下層から出土した土器が数点にすぎないという弱点をAMS法C14年代測定で補い、下層の存続年代は10世紀後半~16世紀である蓋然性が高まった。上層から出土した土器160点のうち平安時代以前のものが40点以上を占めることも、下層が平安時代まで遡りうることを裏付けている。なお、岩石鑑定によると、下層整地土から出土する凝灰岩は「変質凝灰岩」であり、岩陰仏堂周辺の「デイサイト凝灰岩」とは若干異なることがあきらかになり、下層整地年代と岩陰・岩窟開鑿年代の一致は確定できなかった。岩窟仏堂などの関連遺跡については、ラオス・ミャンマーの洞窟寺院、中国クチャの千仏洞、インドのアジャンタ等石窟寺院を視察し、国内では福岡県朝倉郡宝珠山で「小型の投入堂」と呼べる熊野神社(1686)を発見した。これらの調査成果を類型化した中間報告を『鳥取環境大学紀要』第11・12号が合併号に投稿し掲載された。各類型と中国石窟寺院との相関性を検討した結果、入母屋造の礼堂を岩窟と密着させて正面に設ける六郷満山系のタイプが華北の石窟寺院に最も近い一方、岩窟内に独立した懸造堂宇を設ける山陰系のタイプが華南の福建省に存在することをあきらかにした。日本の岩窟・岩陰型仏堂の成立は平安時代後半以降に下る可能性が高いので、南北朝~唐代に隆盛した華北の石窟寺院との間に直接的な系譜関係を認めがたいけれども、華北の石窟寺院は宋代まで存続しており、平安時代の日本に影響を与えなかったと決めつけることも危険であろう。今後はさらに多面的な角度から石窟寺院と岩窟型仏堂に係わるデータを集成し、「窟(いわや)の岩屋化」という視点から、類型と起源に関する考察を深めてゆきたい。

6. キーワード
 (1) 石窟寺院  (2)岩窟型仏堂  (3)懸造  (4)山林寺院
 (5) 修験道    (6)奥の院     (7)復元   (8)文化的景観
      

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アブストラクト for the 9th ISAIA(Ⅰ)

     律令時代の神社遺跡に関する復元研究
      -出雲市青木遺跡のケーススタディ-

  Reconstruction Study on the Shinto Shrine's Building Remnants
  in the Ancient Times of the Political System based on
  the Ritsuryō Codes  -A Case Study on Aoki Ruins in Izumo-city -

要 旨  
 ヤシロ(社)やモリ(杜)と呼ばれる聖域に、「神殿」などの建築物が組み込まれるのは7世紀後半以降の律令期であろうとされる。そういう初期「神社」の様相はきわめて不透明であるが、出雲地方の場合、『出雲国風土記』の記載に加え、神社として認定可能な遺跡がみつかっている。本研究では8世紀の神社遺跡である出雲市青木遺跡の建物群の復元に取り組む。奈良時代神社遺跡の本格的な復元は初めての試みであろう。青木遺跡は流路によって3つのブロックに分かれる。神殿の可能性をもつ九本柱建物は東ブロックに3棟、西ブロックに2棟あり、それぞれ風土記にみえる伊努社(いぬしゃ)と美談社(みたみしゃ)に比定される。中央ブロックは東西棟の礎石建物が2棟みつかっており、伊努社と美談社を管理するブロックと考えた。各遺構については、全体像となるモデルを現存建造物から選定し、その細部を奈良時代にふさわしい姿に変換していった。その際、参考としたのは関連遺跡で出土した建築部材と各地の古い神社建築遺構であり、復元案はそれら諸要素のパッチワークと言える。発掘調査を担当した考古学者や古代史研究者と協議しつつ遺構を解釈し復元案を固めていったが、復元設計を実際に体験することで、設計以前の解釈に疑問を覚えたところもあり、設計作業後に遺構の再解釈を試みて結論としている。

キーワード
神社  律令時代  青木遺跡  復元  大社造 九本柱建物


*本要旨に係わる研究はLABLOGの「律令時代の神社遺跡に関する復元研究-出雲市青木遺跡のケーススタディ-」シリーズ(Ⅰ)~()をご参照ください。



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GW編 「修験道トレッキング」(Ⅲ)-中山

中山02亀石01


中山の亀石

 5月16日(水)、河原町にある霊石山へ登る予定だったが、気付くと八頭町中山に紛れ込んでいた。自転車で大学を出発したが、293号線に入ると自転車で上がるのを断念し、急な坂をひたすら歩いた。車もあまり目にすることなく、のどかな景色が広がっていた。坂道の途中で見た地図に霊石山は載っていなかった。中山展望台を通り、しばらく歩くと右手に巨石が見えた。周囲の樹々は綺麗に手入れがされていた。亀の姿にとても似ていることから「亀石(かめいし)」と呼ばれているという。県道鳥取・郡家線造成工事中に発見された玄武岩の自然石である。長さ4.8m、幅2.4m、高さ1.6m、重さ25トンの巨岩で、人工の石造物ではないが、町の観光名所となっている。
 この石は400年前にあたる天正年間、羽柴秀吉軍の中山攻撃の戦にまつわる不思議な伝承がある。羽柴秀吉が鳥取城を攻めた際、中山で非業の最後を遂げた地元武将たちの霊が宿ると云われる。また、亀石は、河原方面を望む御子石(みこいわ)と並ぶ霊石山を象徴するイワクラで、八上の北西から南東方面を展望できる国見の地であったのではないかという意見もある。

中山亀石案内板

 そこから霊石山に繋がる道があるはずと信じ、ひたすら登った。亀石から少し距離を歩き、辿り着いたのは空山ポニー牧場だった。霊石山はどうやら隣の山らしい。日が沈み始めていたため、今回は霊石山登りを断念した。ポニー牧場からは良い景色が見られる。馬や犬とも出会い、疲れた気持ちもすっきりとした。目的地ではなかったが、2時間程かけてやっと辿り着いたところがこの場所で良かった。最後に馬の餌作りを手伝って牧場を出た。
 中山には、この他にも大きな石碑や短い橋があった。八頭町は広く、大樹寺のウクラツバキや土師百井廃寺跡、成田山青龍寺仏像などがある。初めて見る建物や、複数の道順を知ることができ、良い機会になったと思う。比較的綺麗な水が流れている川もあった。霊岩山で見る予定であった御子岩ではないが、伝承もある素晴らしい巨石を見ることができたことは今回の拾得物の1つだ。急な坂ではあるものの、ゆっくりと歩いて景色を楽しむのも良いかもしれない。今回は遠回りをしたが、学校から空山までは自転車だと50分くらいで辿り着けるらしい。空山からの帰りは下り坂だったため、登りのときより何倍も軽い気持ちで歩けた。牛に見送られながら下った。次回はしっかりと霊石山に登る予定だ。(環境学科1年K.M)


中山01遠景

GW編 「修験道トレッキング」(Ⅱ)-三徳山の裏と表

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冠巌への途

 今回は三徳山の登山記録について書きます。ゴールデンウィーク中に三徳山に登る予定だったのですが、あいにくにも予定日は雷雨になってしまいました。13日は快晴。登山をしてきました。
 三徳山は鳥取県中部の東伯郡三朝町に所在します。標高は900メートル。古くから霊山として信仰され山全体が名勝・史跡になっています。約1300年前、役行者(えんのぎょうじゃ)の開基になると伝承されており、その後9世紀に円仁が整備したともいわれる天台宗の三仏寺があります。断崖絶壁に建てられた「奥の院」の投入堂は国宝に指定されている。かつては「美徳山」とも書かれていました。
 私たちプロジェクト研究のD班は、三徳山の裏側から冠巌(かんむりいわ)をめざしました。赤い印を目印に頂上に向かいます。ですが、今冬の豪雪・強風のため、登る環境ではなかったです。赤い印を目印に進むのは不可能に近いものでした。ちゃんとしっかりした運動靴を履く。軍手をする。飲み物を忘れずに持っ ていく。服装はちゃんとした長袖、長ズボンの上下。これらをしていないと危険だと思います。何かに掴まってないと落ちてしまいます。私たちはとにかく目印が駄目な分、かすかに見えていた冠巌をランドマークにして登りました。冠巌に着くまでに若干のアクシデントはあったものの、なんとか辿り着くことができました。その冠巌は壮大な巨岩でした。
 巨岩の近くで、なんらかの宗教活動が行われたことは間違いないでしょう。いつかは頂上を征服したいと思いました。(環境政策経営学科1年K.S) 


冠巌01近藤02
↑かつては冠巌に直結する石段があった・・・ 

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虚空のランナー(Ⅰ)

 久しぶりに1時間スロージョギングした。スロージョギング自体は続けているが、1時間コースを走るのは久しぶりのことだ。最近ますますスピードが落ちている。GWには、上り坂で早足歩きの若者2名に追い抜かれた。一月ばかり前、特養まで走ったのだが、片道45分、往復で1時間半かかった。2年前は片道35分だったような記憶がある。歩くよりもちょっとだけ速く私は走っている。1時間コースも2年前は50分で走れた。いまはまる1時間かかる。
 平場なら1時間の走行もそれほど苦にはならない。しかし、登り坂は長く、辛い。走る前は憂鬱だ。走らないで済むならそうしたい。しかし、土曜日にジョギングは必要不可欠。金曜深夜の高速道路運転で疲弊した体を最速で元に戻してくれる。高速運転の疲弊は肉体的というよりも神経疲労のほうが大きい。ジョギングによって、精神的な疲労が肉体疲労に変換される。おかげでずいぶん眠くなり、深夜のチャンピオンズ・リーグ決勝をみぬまま床についた。寝床に転がって、『雲盗り暫平』総集編を読みながら眠りに落ちる。

 日が改まり、CL決勝の録画を後半18分過ぎから視た。バイエルン対チェルシーは、あまり魅力的な組み合わせではない。どうしてこの2チームがレアルとバルサを倒せたのか、不思議で仕方ない。バルサはたしかに調子を落としていたが、レアルは調子をあげていた。そのレアルがバイエルンに屈した。ドルトムントに5点を取られて大敗したバイエルンがレアルに勝ったのである。一方、チェルシーもプレミアでは中位に甘んじていた。バルサはそんなチェルシーに敗れた。
 録画はつまらなかった。ホームで戦うバイエルンは何度もチャンスを作るが、点を奪えない。終了10分前、ようやくミューラーがヘッドで1点を取り、そのミューラーを下げて守備固めに入った瞬間、コーナーからドログバがヘッドで返し、同点。このあたりは結構興奮して視ていた。延長になり、ペナルティエリア内でたしかドログバがリベリを倒した。微妙な判定だったが、これがバイエルンのPKとなり・・・録画はENDとなった。
 数時間後、結果を知った。

 鳥取では弁当作りを再開している。滅多に外食をしなくなったし、酒も変わった。トップバリューのバーリアル(糖質50%OFF)が日々の飲料である。アルコールフリーではない。4%の発泡酒で、値段は1本87円。たまに贅沢をして、サッポロ「麦とホップ」の黒を飲む。黒ビールもどきの発砲酒で、家族の評判も上々。
 つつましい人生でしょ。

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↑今年も茴香がすくすく育ってます。左の1株は昨年からの古株、右の2株は今年の新株です。左のほうが美味いんじゃないかな・・・

第5回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」

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摩尼寺「奥の院」での活動スタート

 5月17日(木)、摩尼寺「奥の院」で本格的な活動が始まった。1・2年生14人が測量班、樹種鑑定班、環境整備班、テント設営班の4班に分かれて作業に従事した。

 樹種鑑定班: 松岡、近藤、川田、福田
 今後伐採の可能性がある樹木の番付(ナンバリング)から始め、今後はその番号ごとに葉と樹皮を採取してノートに貼り付け、図鑑と対比して樹種を鑑定し、キノコ栽培が可能かどうか判定する。また番号をつけた樹木1本1本をカメラで撮影していく。
 測量班: 阿保、森本、福永
 樹種鑑定の対象となる樹木の配置図(略図)を作成し、その正確な位置をトータルステーションを使って測量する。
 環境整備班: 中村、遠藤、古志、松田
 今冬の豪雪でなぎ倒された山道の木々を切断・清掃し、誰もが安全に歩くことができるように道を整備していく。
 テント設営班: 斉藤、手登根、後藤、野村
 休憩常呂道具置場として使うテントの設置。2基設置の予定。

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 活動前日の16日(水)夕方、大学の修復建築スタジオ周辺で作業で道具やテントの準備をした。研究室所有のテントをスタジオから持ち出し、イッポ君をリーダーに仮設営してみた。どれも立派なテントだったが、そのうちの2つを今回持っていくことにした。また、樹木を切断するために使用するノコギリ、ナタの確認をしたが、ノコギリの歯が錆びていたので、翌日、白帯先輩が新品を買いに行くことになった。
 作業当日、昼過ぎから小雨があり、先生は講義室でのパワポの準備をしたそうだが、ちょうど3限と4限の入れ替わる時間に晴れ間がひろがり始め、予定通り摩尼山に向かった。雨が降っていたため前回訪れたときよりも足場が悪かった上に作業するための道具やテントを運ばなくてはならなかったため、皆四苦八苦しながら山道を登った。途中、冬の豪雪の影響で樹木が倒れて道を塞いでいる場所で環境整備班と別れ、残り3班はそのまま「奥の院」を目指した。

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 「奥の院」に到着し、まずテント設営に慣れているイッポ君を中心にテント設営が始まった。樹種鑑定班は番号を書いたラベルを釘で木に打ちつける作業を開始。測量班はトータルステーションを動かすグループと伐採予定樹木の見取り図作成を始めた。どの班も順調に作業を始めたが、瞬時に雲行きが怪しくなり、雷の轟音が響く。それから雷雨となり、全員がいったん木陰に退避した。しかし、先生は樹木の番付を済ませるべく降雨のなか作業を再開し、樹木鑑定班のわたしとKさんの二人が傘をさしながら作業を補助した。測量班は木陰で、トータルステーションの使い方と測量の進め方について打ち合わせ。テント設営班は仮組したみ立てたテントを木陰側に移設し、風で飛ばされないようロープで木に巻きつけた。以上の作業を終え、下山した。


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GW編 「修験道トレッキング」(Ⅰ)-三角山

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 GWの課題として、プロ研1&3の学生諸君にチームを組んで近隣の山に登ってもらいました。今回は用瀬町の三角山にのぼったブレイクD君とイッポ君のレポートをお届けします。三角山と言えば、2期生とともに登った2005年の登山を思い起こします。LABLOGの「三角山の揚羽蝶 -紅葉の修験道トレッキング」という記事と併せてお読みいただければ幸いです。(教師)


中国地方最初の登頂、最高のラーメン      

 4月29日午前9時、1年生2人、2年生3人、白帯さんの計6人は鳥取環境大学ロータリー前に集合し、車で約30分ばかり離れた鳥取市用瀬町へ向かった。
 今回の目的は、三角山登山及び三角山神社の見学である。三角山は標高508mの小さな山でその山頂に三角山神社がある。創建については定かでないが、記録に残る最古のものは寛永3年(1626年)、多くの修験者が修行を行うために登ったと言われてる。また、終戦までは女人禁制の山で、女性は途中の女人堂までしか登ることが許されなかったそうだ。願望成就のお礼参りに、川原の石を神前に供える力石の風習が残っており、毎年7月23日に祭りが行われ、近郷から多くの参詣者でにぎわいを見せる。

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 登り始めて約15分、行き止まりとなった道にあたり僕たちが登り口を間違えたことに気付き、急いで引き返す。近所の方に道を聞き、10時過ぎに女人堂に到着した。どうやら僕たちは一ノ瀬公園内の敷地をぐるぐる回っていただけのようで、皆口々に「いいウォーミングアップになった」と言っていたが、その日の気温が道路脇の温度計で30度を示していたことを考えると、体力消耗は相当激しかったのではないかと思う。
 三角山の登山道はというと、枕木の階段で所々補正されてはいたが、落ち葉でよく滑り危険だった。本当なら岩が転がっていたり鎖場があったりと、楽しめる箇所も多いはずなのに、暑さの影響もあり皆ぐったりしていて、約15分置きにある休憩所でも白帯さんは「勘弁してくれよ」とぼやいていた。その後も険しい山道を登り、11時半に無事全員が登頂を果たした。

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 山頂の三角山神社本殿は、鋒錫(ほうしゃく)大権現と称されていて、本殿周囲の権現石、影石、重石、富士石、天狗石、万燈石と呼ばれる巨石が印象的だ。山の南側は崖となっていて眺めは素晴らしく、全員で記念写真を撮った。その日の朝食を抜いていた僕にとって今回の登山はとても過酷で、唯一持っていたスポーツドリンクの重要性を改めて感じた。
 帰り道は駆けるような速さで下ったため、時間はかからなかったものの、太ももがパンパンで足がガクガク震えていた。この時、身をもって日頃の運動不足を実感し、少し反省した。13時頃、腹ペコだった僕の提案で全員ラーメンを食べにいくことになり、バリ馬杉崎店へ立ち寄った。やはり、たくさん汗をかいたあとのラーメンの味はより一層美味しく感じられ、僕の中では2012年の№1ラーメンだったと思う。
 三角山登山は決して楽ではなかったが、充実していたと思う。中国地方で初めての登頂となった今回の体験は忘れられないものになった。これからのプロジェクト研究も楽しく学びたい。(イッポ)

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『Discover Japan』6月号、刊行!

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 こんにちは、白帯です。
 4月17日、枻(エイ)出版社のスタッフとともに三徳山に登り、取材を受けました。その成果が早くも雑誌の特集となって公刊されましたので、お知らせしてます。
 あの翌週が大変でした。たしか、24日(火)だったと思うのですが、夕方、先生のアドレスに初稿が送信されて来たんです。「日付がかわるころまでに校正お願いします」という指示がありまして、さすがに月刊誌となれば要求がきついと驚きました。わずか6ページの紙面ですし、「校正マシーン」の異名をとる先生ですから、さっさと片づくかと思いきや、それから大変でして・・・紙面ををじろじろ眺めるにつれ、顔つきは鈴木オートの社長のように猛獣化していき・・・3色ボールペンを使った猛烈な修正が始まり、午前2~3時ころに初校を返信されたはずです。
 思い起こすに、登山に同行したものの、途中インタビューはほとんどなく、若いスタッフの方は下山・解散間近になってノートを取り出し、取材らしきものが始まりました。しかし、事前の学習がなされていないので、核心的問答に及ばない。レコーダーも使わない。これで大丈夫かと心配しているうちに、大学に戻る時間となりました。結果として、校正は4校を重ね、送られてきた文章と、雑誌に掲載された文章では大変わりしています。

  『Discover Japan』6月号の特集は「建築でめぐるニッポン観光」。わたしたちの案内した投入堂は、

  土門拳が感動した、日本一の建築美 ~鳥取県・三佛寺投入堂~

というタイトルで、86~91ページに掲載されています。ここでその紙面のコピーを掲載するとわかりやすいのですが、著作権に抵触し売れ行きに影響するの危険性があるので、いちばん関係ある見開き2ぺージだけ小さく転載しておきます(↓)。文字が読めないでしょうから、ぜひとも本物をお買い求めくださいね。


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TUES2012 公開講座のお知らせ

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 広報が遅れてしまいましたが、公立化後最初の環境大学公開講座の講演者の一人として、6月2日(土)と9日(土)に鳥取と米子でスピーチすることになりました。わたしの演題は、

   聖なる巌(いわお)-霊山の「奥の院」と巨岩信仰

としました。概要は上下のパンフをご参照ください。

 とくに下のパンフをクリックしてご覧いただきたいのですが、私以外の5名のスピーカーはみな新任の先生です。私だけ在学12年目の古株でして、土佐藩における長曾我部の遺臣のようなものですが、260年後に幕藩体制を揺るがす下士たちは天下る山内一族を従え、倒幕の旗頭となります。そういうDNAだけでも残しておこうという気概をもって講演に臨みましょうかね。なんちって、授業の準備だけでも目が回っているのに、ちゃんとしたパワポが作成できるか不安ではあります・・・とほほ
 日時、会場を以下に整理しておきます。ご来場をお待ち申し上げます。

  6月2日(土)10:30~12:00 @鳥取県立図書館2階 大研修室
  6月9日(土)10:30~12:00 @鳥取環境大学西部サテライトキャンパス


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第4回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」

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立岩山坂谷神社と摩尼寺「奥の院」遺跡

 5月10日(木)。鳥取市覚寺にある摩尼山にある摩尼寺「奥の院」遺跡に行って来ました。摩尼山は、標高357m。摩尼寺境内へあがる門前の両脇には、山菜料理で有名な茶屋が左右にたち並んでいる。多くの観光客が訪れるようだ。参道石段横の脇道から、教授を先頭に摩尼山の中に進んでいった。摩尼山に入ると、まず驚いたのが、雪の重みで折れ曲がってしまった樹々や植林木が根こそぎ倒れていて、道をふさいでいたことである。そのような倒木を乗り越えながら進んでいくと、行程の中程で平らな石が密集している場所に辿り着き、その場所は、門があった場所(遺跡)だと教授が説明された。昔、門があったという風景に歴史を感じることができた。
 さらに奥に登り進んで行くと、広い平坦地に着いた、そこは、山の斜面を掘削整地して形成した「加工段」である。地表面に露出した礎石が多く残っている。大きな建物(仏堂)の遺跡だという。その正面に、五輪塔や石仏、木彫仏を納める大きな岩陰(下側)と、大きな岩窟の仏堂(上側)が二層になって穿たれている。しかも、下側の岩陰から上側の岩窟に直接あがれる石段も残っている(シダに覆われて見難かった)。

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 仏堂に祀られている五輪塔は、室町時代後期以降の様式を示すものである。また、奈良~平安初期と考えられる土器が地中から出土している。このように、加工段は遺跡の年代判定に関わる重要な発掘調査現場であった。4月に訪れた坂谷神社の巨巌と地形が人間の手が加えられていないbeforeであり、摩尼寺「奥の院」は人間の手が加えられているafterの状態だと想像して欲しい、と説明された。
 ひととおり「奥の院」遺跡の説明をうけた後、約10分ぐらいで、摩尼山の頂上に着いた。そこにも平坦面があった(以前は閻魔堂があったそうだ)。平坦面の傍に立岩がそびえ立っている。石段を上り、巨岩脇の石仏「帝釈天」を参拝した。四周の景色も素晴らしい。頂上にある帝釈天像には、以下のような伝説がある。

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神々への祈り(Ⅷ)

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豪雨に強い土屋根住居-山田上ノ台

 大雨のなか車は山田上ノ台遺跡(仙台縄文の森広場)に向かう。雨の勢いはいっこうに衰えない。途中川沿いの道では恐怖を覚えた。左側からは瀧のように水が流れ落ちてくるし、右側の川は濁流となって水かさを急速に増しているのだ。
 朝からずっと気になっていたことがある。大阪に帰る午後7時のフライトは飛ぶのだろうか。巨龍のように暴れ狂う濁流に畏れを抱きながら「欠航」を現実のものとして覚悟し始めた。
 縄文の森広場では、新任の所長さんに摩尼寺の報告書を渡す程度で済むと思っていたのだが、電話してみたところ、「現場をみてほしい」と言われ、少々憂鬱になった。なにせ、この雨である。せっかく車の暖房で乾き始めた衣服がまたびしょびしょになるではないか・・・現地に到着し、竪穴住居の検査に行く。なんと2日後にイベントがあるとのことで、所長さんは竪穴住居の状況をとても気にしていらした。予め「雨漏りはしていない」という情報を得ていた。以前、大雨の際には煙抜きから雨が吹き込むと聞いていたが、竪穴に入ってみると、まったく雨は入ってきていない。健全そのものだ。室内は乾燥している。ただ、この大雨が明日まで降り続くとなれば心配なので、3棟とも棟の部分だけブルーシートで覆うよう指示した。後日連絡があり、結局、雨漏りはまったくなく、無事イベントに臨めたとのことで、当方も安堵した。2重にかさねた防水シートが威力を発揮している。

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 空港までは高速道路が速いに決まっているが、敢えて地道を選んだ。空港近辺にガソリンスタンドがないのである。4号線沿いの約7km離れた地点にスタンドがあり、そこで満タン給油してから、空港に近いレンタカーの支店に車を返した。
 空港では混乱がおきていた。すでにJALは全便欠航になっている。ANAは微妙だ。欠航になった便もあるし、遅延ながら飛ぶ便もある。わたしが乗る予定の7時発のANA740便は上空で旋回待機中だという。この苦境のなかで運勢が好転する。一便前の5時35分発ANA738便が大幅に遅れて仙台空港に着陸した結果、ディレイのまま飛びたつことになり、キャンセル待ちの募集が始まったのだ。当然のことながら、わたしもウェイティングに登録。待ち番号はB-27。27人以上の旅客がウェイティングしているということであり、絶望的だと思われたが、半時間後、ANA738便のチケットが確保された。奇跡としか言いようがない。ANA740便が着陸しないまま、ANA738便は7時過ぎに離陸した。結果としてみれば当初の予定どおり、午後7時の便で伊丹に戻ることになり、伊丹では最終のリムジンバスにまにあった。飛行機はジェットコースターのように大揺れしたが、まるでウルムチの敵をとるような乗り継ぎの成功に、志波彦神社の御神籤もまんざらではないと思ったものだ。(完)


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↑ガイダンス施設のモニターを通してみた復元建物

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神々への祈り(Ⅶ)

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石窟(いわや)発見-仙台の穴薬師

 5月3日。東北地方を暴風豪雨が襲った。ワイパーを最速で回転させないと前が見えにくい。そんななか、まずは仙台市宮城野区岩切の東光寺に向かう。周辺には円仁伝説とともに、菅谷磨崖仏、七ヶ浜がある。震災時には間近まで浸水したという。
 このあたりには「穴薬師」が多い。以前は磨崖仏と称していたが、近年、東光寺では「石窟群域」が市の指定文化財となった。「石窟」という用語にはドキリとする。石窟寺院というべき宗教施設はインド、スリランカ、アフガン、中国までという印象がある。ただし、考古学者の斉藤忠は韓国や日本の岩窟仏堂や磨崖仏までも「石窟」と呼んでいる。わたしは日本の岩窟・岩陰型仏堂に接し、「石窟」という用語を使う勇気をついにもてなかった。日本の場合、岩窟や岩陰に所在する「仏堂」ではあっても「寺院」ではない。だから、意図的に「岩窟型仏堂」と「石窟寺院」という用語を使いわけできた。ところが、東北地方では、わりと気楽に「石窟」を使っているらしい。「石窟寺院」なら問題もあるが、「石窟」だけならたしかに許容範囲のうちかもしれない。東光寺の石窟には薬師如来や阿弥陀如来を祀り、「穴薬師」という愛称がある。鎌倉~室町時代の開鑿と推定されている。

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 東光寺に近い利府の穴薬師(いちばん下の写真)は、薬師神社の本殿を正面中央におき、背後の絶壁に小型の石窟を掘っている。今回みていないが、国府の湊であった七ヶ浜には「夜明けの薬師」と呼ばれる有名な石窟がある。七ヶ浜町湊浜砂山の薬師堂である。この一帯では、円仁をあがめる天台僧がひきいる石工集団の活躍が鎌倉期にあったと考えられている。

 昼休みを兼ねて、仙台市西郊の「秋保(あきう)石神 ゆめの里」を訪ねた。秋保街道から川崎町に向かっていく国道457号線沿いの静かな山里に、十数年前からアートを愛する人々が移り住み、さまざまな製作活動をしており、「手作りの山里」を愛称とする。訪問者は民芸・陶芸などの手作り体験を楽しめる、という売りの保養地であり、GWは稼ぎ時なのだが、雨は尋常ではない。最初に辿り着いた雑貨屋では庇の屋根が吹き飛ばされていた。2軒めに訪れたのは「石神窯」。東北学院大学を卒業した同年代の考古学者が陶芸をしている窯元で、子どもたちの土産にティーカップを買った。大きくて重いカップだ。すでに衣服は濡れており、対面にあるカフェ「ゆめの森」に入るまでにビショビショになってしまった。

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 カフェに入ると、ダイアナ・クラールの『ルック・オブ・ラブ』が流れていた。他の女性ボーカルも聴かせてくれたが、クラールに敵う素材はそうそういない。聴けば聴くほど彼我の差が際だってしまう。野菜カレーのセットをいただいた。とりあえず、腹はおさまった。あとは車に暖房をいれて、衣服を乾燥させるしかない。ちなみに、今回のレンタカーツアーでは、車内でアール・クルーの『ソロギター』を午前(往路)、デイブ・ブルーベック4の『タイムアウト』を午後(復路)に聴きけ続けた。アール・クルーのソロギターは繊細で素晴らしい。メセニーの比ではありませんな。 『タイムアウト』は「テイク5」を含むアルバムとして有名だが、わたしは『テイク10』のほうが好きだ。ジム・ホールのギターがあるとないでは大違いだね。
 しかし、それにしても、前世紀後半におけるデイブ・ブルーベックとポール・デズモンド、とりわけ後者の評価は低かった。少なくとも、革命の時代の音楽ではなく、左翼系の評論家たちから酷評されていた。ロリンズ、トレーン、ドルフィー、コールマンこそが真のサックス奏者であり、デズモンドなんぞチャラすぎるという評価です。今はちがうでしょうね。デズモンドはカフェでも流せるジャズの古典として愛聴されている。その場合、ホールのギターが欠かせない。J.マリガンとA.ファーマーについても同じことが言えるでしょう。ロリンズは大好きでしたが、ホールを従えようと従えまいと、カフェでは流せない。ベイシーで聴くしかありません。

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母の日に引っ越し

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 13日は母の日。結構たいへんでした。
 前日イオンでカーネーションを買ったのですが、長蛇の列。待ち時間が長かった。当日は特養まで出迎えに行って、家でケーキパーティのあと、突然「老眼鏡の具合がわるい」と言われましてね。じつは、私自身、最近「遠中近」と「中近」の2種類のメガネを作ったばかりで、母は「遠近」と「近(つまり老眼鏡)」をもっているので、「中近」眼鏡(中距離と近距離のみえるメガネ)を推薦しました。早速パリ・ミキまで目の検査とメガネの注文に・・・そのあと、近くの「寿司屋」で夕食となりました。初任給が入ったので家族に馳走したいと息子がいう。寿司屋が候補にあがったのですが、母は無理だろうと事前に訊ねてみたところ、本人は「行きたい」と宣う。
 母の日だから良いだろうという善意が裏目に出てしまいました。ふだんの主食はお粥だと後で教えられたのですが、寿司飯の刺激は予想を超えて強かった。4巻ほどで噎せはじめ、以後、咳がとまらなくなって、早々に店を引き上げ、特養に連れて帰った次第。一歩間違えば「営業妨害」になりかねない状況に、ずいぶん神経を使ってしまい、帰宅後ぐったり・・・寿司屋ではアルコールを控えていたこともあり、飲みたい衝動がわき起こってきて、ニッカのシングルモルト「フロム・ザ・バレル」をあおると、まもなく眠りに落ちてしまいました。
 さきほど目覚め、すっきりしない意識のまま、こうしてブログを書いているわけです。しかしながら、これがlablogからの正式転居後、初の記事となりました。明日から被災地シリーズに立ち戻りますので。


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やっと引っ越しできそうです

 年度初から1ヶ月以上たちました。結構よいスタートを切っており、先日、塩釜の志波彦神社でついに大吉のお御籤をひきあてましたよ。末吉-小吉の反復を脱し、一年半ぶりに大吉に立ち戻ったのです。こんどこそ、境内の小枝に結びつけたりしないで、貴重品バッグの奥にしまいこみました、ぐふふ・・・

 ブログのデザインは旧サイトを踏襲しながら、斬新さを獲得してきたでしょう?
 まだ完全に満足しているわけではありませんが、そろそろ船出しようと思います。いまlablogで連載中の被災地シリーズ「神々への祈り」を終えたら、正式にこちらのサイトに引っ越すことになるでしょう。
 変わらぬご愛顧をお願い申し上げます。



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↑新橋の「食のプラザ鳥取プラザ」さ、マイルドだぜ~
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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