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男はつらいよ-赤碕篇

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塩谷写真記念館演奏会

 9月25日(日)、赤碕の登録文化財「塩谷写真記念館」で開催された演奏会については、お気づきでないかもしれないが、LABLOGのほうで予め広報している。8月5日(金)に倉吉のドクターから「塩谷写真記念館演奏会」への参加依頼が届いた。人前でギターを弾かなくなって2年近い歳月が過ぎていたが、迷うことなく、お受けした。50代最後の演奏の機会を与えていただいたことに、とても感謝している。
 弦は錆びて、調弦は狂っている。そのまま少しずつ修正し、練習を再開した。爪の状態は一ヶ月以上良好であった。それが、摩尼山の調査でバリバリ折れてしまった。しかし、演奏会前に爪が折れるのもいつものことである。弦を張り替えたのは9月21日(水)。リハーサルの前日である。リハーサルで4曲弾くことができて、少しだけ自信を取り戻せた。リハーサルに行ってよかった。感謝します。
 25日(日)の演奏会は集合時間が12時だったが、半時間遅刻した。準備に加わることができず、申し訳ありませんでした。開場まもなく、河本家のご主人と奥様がみえられ、正座で挨拶した。河本家の調査をしていたのは46~47歳のころで、その2年後に家内が倒れて何度か入院を繰り返し、寂しさを紛らわすためにヘダウェイのギターを衝動的に買ったのが49歳のとき。あれから10年もの歳月が流れたんだな。


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 わたしの出番は5番目。すでに舞台衣装を身にまとっており、ヴェストで隠していた。寅さんTシャツである。首から吊すお守りと腹巻きが青白い肌着にプリントしてある。会場はどよめき、笑いに包まれた。当日の選曲はリハーサルの4曲と大きく変わった。ただし、寅さんメドレーだけは同じである。演奏曲は以下のとおり。

   1.寅さんメドレー(インスト~弾き語り)
   2.アンド・アイ・ラブ・ハー(インスト)
   3.伊勢佐木町ブルース(弾き語り)


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縄文-建築考古学、再び(4)

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岩宿人の住まい

 作業終了後、岩宿博物館の展示を初めてみせていただいた。トビラをあけて仰天。ごらんのとおり、鹿の毛皮のテントが展示してある。もちろん岩宿時代(後期旧石器時代)の住居復元である。毛がついたままのふさふさの毛皮を重ね葺きしている。こういうことやっているのなら、早めに教えてくれればいいのに・・・それにしても驚いたのは、四角形の平面だな。わたしなど、「ありえない」としか思えないのだが、どなたか高名な先生が「四角だ」と書いているので、そうしたそうです。


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桐生仲町

 夜は舎弟に連れられ、桐生仲町にくりだした。舎弟は川谷拓三に似ている。酒を好み、色を嫌う。1軒めはたしか「あすなろ」という居酒屋だった。居酒屋はデンプンカットに宜しい。デンプンとは何か。ごはん、饂飩、麺、餅などの主食に加えて、餃子の皮、揚げ物の衣・・・等々である。居酒屋のアテには野菜・肉・魚が多い。これらの焼き物、炒め物、煮浸し、サラダならなんの問題もない。デンプンカットに大歓迎の食品ばかりだ。酒も蒸留酒なら構わない。日本酒・ワイン・ビールなどの醸造酒はいけない。醸造酒は砂糖水と同じ。体内に入って糖に変わり、血糖値を著しく高める。米・小麦とともに糖尿病の直接の原因であり、癌細胞のエネルギーともなる。
 舎弟が生ビールを頼む。わたしはハイボールにする。ビールは醸造酒で、ハイボールは蒸留酒の炭酸割である。似て非なるもの。舎弟は生ビールをお代わりする。わたしは焼酎の水割りに替える。ハイボールから焼酎の水割りへ。これで血糖値を低く抑えることができる。

ヴィレッジ

 翌檜(あすなろ)を出る。街は暗い。弥生町よりもはるかに暗い。人は歩いていない。ただ、門前に短いスカートを穿いた女たちがたむろしている。日本人ばかりではなく、フィリピン人もいる。こうした呼び込みたちに興味がないわけではないのだが、舎弟はこれを忌み嫌っており、足早に通りを駆け抜けようとする。「ひやかしてみるか」とかましてみれば、

  「明日は朝の5時から運動会のための草取りがありますから」

と言って帰ろうとする。「どうやって家に帰るの?」と問えば、「タクシーで」。「駅前のホテルまで歩いて帰るから」と答えて舎弟を振りきろうとするのだが、今度は「ついて行きます」。「おまえは帰れ」と寅は繰り返し、源公は首を横に振る。しばらくして、「ヴィレッジ」という名のジャズバーに行き当たり、忍び足で踏み込んでいった。
 客はテーブル席にカップル1組。ほかには、カウンター端に雰囲気の異質な女性が1名坐っているだけ。つまり、がら空きだ。カウンターの向こう側に黒子のような女性バーテンダーが2名いる。カウンターの片隅に腰掛けようとすると、舎弟は真反対の動きをみせる。カウンターでバーテンダーたちとお喋りすればよいと思うのだが、舎弟はこれを嫌うのである。おかげで、店の片隅のテーブルに、川谷拓三のような男とカップルの如く対面して坐り、酒を飲むことになった。


影から来た魔法使い


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縄文-建築考古学、再び(3)

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穴掘り-周堤づくり

 骨組が完成したところで、昼休憩となった。好物の蕎麦である。蕎麦にもデンプンが多い。だから、蕎麦を食べ過ぎるのもいけない。ただ、西日本の蕎麦に比べて、北関東や北陸の蕎麦はミネラル質が強いように感じた。つなぎを何にしているのかは分からないが、岩宿の蕎麦は新潟のへぎそばに近い食感がある。まさか海藻のぬめりを使ってないよね。
 午後から穴掘りが始まった。最初に掘れ、と言われそうだが、この段階での掘削も道理がないわけではない。何度も述べているが骨組は堅牢である。しかし、足元が安定しない。足元を土で固める。その土(周堤土)には掘削土を使う。深さ15~20cmの浅い穴なので骨組があっても、苦にならず掘りきれる。そして基礎を固めていく。


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エゴ小舞

 ここでまたエゴノキが大活躍する。作業員さんたちは昼食後、山に入って新鮮な細いエゴノキを集めてきてくれた。これがよく曲がる。まずは周堤にそって垂木にまあるく絡めていく。ほんとうによく曲がるがとめるのは難儀なので、今回は結束バンドを使うことにした。旧石器~縄文では何を使ったのだろうか。蔓なのか、鹿の靭帯なのか。


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 下から順に9段、エゴノキの木舞をめぐらせた。途中で若干の問題発生。エゴノキはよく曲がるが、元に戻ろうとする反力が強い。結果、垂木の下端を周堤の外側に動かしてしまう。そして思うのである。やはり周堤が十分な土が必要であり、場合によっては、垂木を動かないようにするための杭打ちなども必要であろう、と(実際に作業員さんは何本かの杭を打った)。反力を防ぐ方法はもうひとつある。エゴノキを短めに使うのだ。長ければ曲率が強くなり、反力が強くなる。短ければ、曲線は直線に近くなって反力を弱める。実際の建物は面積にして2倍以上の大きさがあるが、どれぐらいの長さでエゴ小舞を使うべきか、要検討である。


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縄文-建築考古学、再び(2)

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三脚を組む

 カットした股木の構造材で三脚を組む。下端は設計図どおり竪穴のエッジにそろえ、上端は股木を噛み合わせる。偏見をもっている人たちがいる。こういう構造を弱いと思っているのだ。じっさい、博物館のど素人が「耐震は大丈夫か」などという専門家まがいの意見を口にした。撫子はどうしようもない。先端の股木を噛み合わせた三脚構造の堅牢さをわたしは小興安嶺のオロチョン族に教えられた。この構造はとても強い。


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 次にもう一つの変形三脚をつくる。まず長めの股木を完成した三脚の反対側から三脚頂点をめざして架けわたす。これは三脚と地面に渡す傾いた棟木のような材といえるかもしれない。この材を「長材」と呼ぶことにする(↓)。


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↑長材  ↓短材で長材を支持する
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 そして、二つの短い股木で長材の中間部を支持する(↑)。この短い股木を「短材」と呼称することにしよう。2本の短材と1本の長材で変形の三脚が構成されるのである(↓)。くりかえすが、この構造は強い。


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縄文-建築考古学、再び(1)

西鹿田中島遺跡 【縄文草創期】_01 1 計画平面図_02sam



西鹿田中島遺跡

 喋りたがりのわたしがほぼ沈黙を保ってきた仕事があります。一昨年より群馬県みどり市の西鹿田中島遺跡の整備に係わってきたのですが、なにぶん復元住居は最近カゼアタリがきつい。少なくとも10年はもたせろ、というお上からお達しがあったそうです。お上のお達しに地方は弱いのね。わたし自身、たしかにあちこちの遺跡整備で土屋根住居を腐らせてきたわけですが(山田上ノ台で防水処理は完璧になりましたが)、今回は縄文草創期の毛皮屋根の住居を提案したものだから、さらにカゼアタリが強くなった。ついに市側は国からの補助金ではなく、市の単費でこれを建設することに決めたのです。が、わたしは疑心暗鬼に陥っておりました。市は復元住居を建てないつもりではないか?


3-2 復元案_03web


 西鹿田中島遺跡の整備では、4棟の竪穴住居跡が地上表現されることになっているが、屋根などの上部構造まで復元するのは11号住居跡のみである。11号の平面は正円に近い楕円形で、長軸約3.8m、短軸約3.2mを測る。遺構検出面は旧地表面に近いと推定され、竪穴の深さは15~20㎝程度。穴底は平坦面が少なく、皿状にくぼんでいる。柱穴とおぼしきピットはみつかっていない。時代は定住開始期である。くぼんだ楕円形の住居跡を、旧石器(岩宿)時代の遊動社会から縄文時代の定住社会へ移行する過渡的な状況を示すものととらえ、浅い竪穴の上にテントをかけることにした。
 こういう素朴な平面の構造復元は難しい。完全な正円なら三脚もしくは四脚の典型的な円錐形テント構造でよいのだが、長軸と短軸が60㎝しかちがわない楕円形の屋根をどうすべきか。この問題を考えるため、2015年の正月早々、東京人形町のウッドサークル社(WC)で復元構造を検討した。もう少し長軸が長いと三脚をふたつおいて棟木をかける構造に復元できるのだが、これだけ正円に近いと、三脚が相互にぶつかりあう。そこで、大きな三脚と小さな三脚を複合させることにした。言葉で表現するのは難しいので、上の図をご覧いただきたい。


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なめし革

 屋根葺き材の考え方について述べておく。北方の狩猟採集民は、夏のテントは白樺などの樹皮マット、冬のテントは鹿の毛皮を骨組に巻き付ける。西鹿田中島の復元では、両者を併用することにした。それは学術的に意義あってのことではない。復元住居のメンテナンスのためである。まず垂木の外側に樹皮マットを巻き付け、それに通風機能のある防水シート(たぶんデュポンのシート)を被せる。さらにその上から毛皮を巻くのである。こうすると、外側からは毛皮葺きにみえ、内側からは樹皮マット葺きにみえる。そして、中間の防水シートにより、雨水を排除できる。
 WC社が上図を作成した段階では、乾燥させた鹿の毛皮をそのまま使うことにしていたが、委員会で鞣し革にするほうがよいということになった。西鹿谷という地名から想像されるように、鹿の毛皮はかなり獲れる。問題はその毛抜き、すなわち鞣しである。みどり市の我が舎弟は、今春より毛皮を明礬の液にひたして毛を抜く鞣しの作業を続けてきた。ざっと50枚を鞣し終えた。しかし、復元住居にはもっと多くの鞣し革が必要なのだという。


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稲木と彼岸花

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 津野まであがって梨をたくさんもらってきました。二十世紀はもう終わりで、赤梨が主です。果物も低糖ダイエットに要注意の食品ですが、梨は水分が多く、さらりとした甘さなので、さほどわるくない気がしています。ご飯も饂飩もパンも蕎麦も食べないのですから、梨ぐらいは許してもらいましょう。そうそう、プルーンもいただきました。佐治でプルーンを作っているんだ。なかなか美味しい。
 稲刈りが終わりかけ、稲木に穂をかける作業が進んでいる。田の脇の畦では彼岸花が満開です。久しぶりの晴天に彼岸花の映えること、まぶしいこと。ブータンに彼岸花が咲いていたわけではないけれども、稲木と彼岸花の溶け合う風景を目にして、どういうわけかブータンを懐かしく思いました。


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平成28年度大学院2年次中間発表会

 さてさて、表記の会まであと二日です。えらいことになってきました。ヤツはもう眠れないかもしれない。告知が遅れましたが、日時・会場等は以下のとおりです。ご来場の方は27日の11時を目処にしてください。

  1.日時:平成28年9月27日(火)10:30~11:30

  2.会場:14講義室(口頭発表)

  3.発表者数:社会環境学領域2名 環境デザイン領域1名

  4.発表時間:20分(質疑応答・交代時間含む)

  5.ASALABの発表者
  
 ○環境デザイン領域 1名
 11:10~11:30 吉田 健人
 ◎題目: 大雲院の建築と建築厨子
  1.前回までの成果概要
   1-1 霊光院から大雲院へ
   1-2 大師堂の建築と建築厨子
  2.鳥取東照宮と樗谿大雲院(淳光院)
   2-1 『稲葉民談記』等に描かれた樗谿
   2-2 樗谿大雲院(淳光院)本坊指図の考証と分析
   2-3 鳥取東照宮未指定建造物の調査-随神門・手水舎・中御門
  3.大師堂建築厨子研究の新展開
   3-1 フォトスキャンによる3Dモデルの制作
   3-2 不動明王厨子背面壁板墨書の発見
   3-3 天保再建大師堂指図の発見
  4.成果と課題
   4-1 大師堂移築の可能性
   4-2 樗谿の近代-自然公園と史跡公園の融合にむけて


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名勝「摩尼山」整備構想(2)

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奥の院-飛べよ、ドローン

 昼前に「奥の院」に到着しました。さっそく昼弁当です。みんなコンビニの麺類ですが、ケントさんは具材をひっくりかえしたり、とろろ蕎麦の先生は食べ終えるころになってとろろが残っていることに気づいたり、てんやわんやです。先生は久しぶりにみる「奥の院」の巨巌に感激されていました。かつては、岩下の法面は禿げ山状態だったのですが、今は高さ1.5m余りの灌木が生い茂り、しかも色とりどりの花を咲かせています。良い風景になっている、と喜ばれていました。
 ここで、いよいよドローンの登場です。一回めの飛行は順調で、いったん着陸しました。ここで先生から画像・映像の確認がしたい、という申し出があったのですが、パソコンがないとそれができません。次回はパソコンを持参しようと思います。そして、2回めの飛行に挑むのですが、突然、ドローンが動かなくなりました。ドローンとスマホのワイファイ接続がうまくいかないようです(摩尼山はワイファイが通じにくい)。そこで、ケントさんのスマホを諦め、わたしのスマホに必要なアプリをダウンロードすると、ドローンが動き始めました。


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↑操作 ↓ドローン撮影写真
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岩盤とロープ

 「奥の院」の岩陰仏堂から岩窟仏堂に旋回する道はとても危険です。急峻な岩盤が滑りやすい。そこで2014年にロープがわたされた。このロープはいわゆる虎ロープで黄と黒の斑が目立ちます。ロープは必要ですが、名勝らしく周辺の風景に馴染んだ色に変えるべきと思いました。虎ロープから寅ロープへ??
 そこからさらに上がっていくと、シダの群落があります。摩尼山の生態を示す重要地点ですが、今は繁茂しすぎて道を塞いでしまっています。こういう場合は路肩のシダを刈り込まざるをえないでしょう。また、シダ群落に近接する「立岩まで90m」道標の周辺では岩盤が露出しており、やはり非常に滑りやすくなっているので、長さ20~30mのロープが必要でしょう。


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↑「奥の院」岩陰仏堂前の虎ロープ  ↓繁茂するシダが道を塞ぐ
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名勝「摩尼山」整備構想(1)

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摩尼山ー歴史の道

 9月15日(木)、先生と社長さん、ケントさんとともに摩尼山に登りました。この6月、「摩尼山」は国の登録記念物(名勝地関係)の答申がなされました。奥の院の巨岩や立岩などを中心とする景観、山頂や展望所からの眺望景観が高く評価されたものです。また、名勝地の範囲には多くの文化財建造物や石仏なども含まれています。それらをめぐるトレッキングは自然と文化財に接する最良の機会となります。トレイルとなる旧参道も「歴史の道」として文化財価値の高いものですが、度重なる土砂崩れなどで荒廃が著しくなっています。今回の登山の目的は、文化財としての旧参道の整備方針を定めるための基礎調査(第1回)という位置づけです。
 わたしの役割は巻尺の0m点をもつことです。先端を教授が持ち、距離を測っていきます。基準点から約何メートルで何があるかを記録していくのです。社長さんとケントさんはルートマップのコピーを画板に貼り付け、道の変化を詳細に記述していきます。また、GPSカメラで主要なポイントを撮影します。


0915マニ01倒竹01 倒竹


倒竹

 摩尼寺境内へ向かう石段を登ってはいけません。石段の前から右にそれる道に入っていきます。いきなり左側に広大な竹林があります。竹林の竹が土砂崩れのため倒れています。倒木ならぬ倒竹ですね。しばらくすると、1本丸太橋に至ります。一昨年の2014摩尼寺紅葉コンサートの際、山頂トレック大会にあわせて地域住民が1本丸太を付け足し、2本橋になったのですが、その新しい1本がすでに腐り始めていました。その後、まもなく3本丸太橋に辿りつきますが、この丸太橋もすでに中折れしています。こういう比較的新しい橋はスギの丸太を使っています。スギは1~2年で駄目になります。入口の1本丸太橋はシイなどの硬木であり、材種の選択はとても重要だと思いました。


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↑右側の新材が撓んでいる。 ↓落石が道を塞ぐ
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丸太橋の劣化

 二つの丸太橋の間に植林はありませんが、道はすでにかなり荒れています。右肩は土砂崩れで埋もれ、左肩は道が摩尼川に崩れていっています。落石は至るところに散乱しています。二本めの丸太橋を過ぎると、右は摩尼川、左はスギの植林地となります。植林地は数百メートルに及びます。毎年春、この植林地の土砂崩れで倒木が繰り返されます。植林地の地上権は造林公社がもっているそうですが、道幅だけ倒木がカットされ、その他の部分は倒木が倒れるまま放置してあります。路肩の崩落も顕著です。名勝地として好ましい景観とはいえないでしょう。


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↑三本橋は何度新調してもこのように・・・ ↓スギ植林地の倒木処理
0915マニ05植林地の倒木02 0915マニ06採寸01


 まもなく慈覚大師の案内板に至ります。ここは奥の院方面と久松山方面に分かれる三叉路になっていて、2種類の道標が設置してあります。これらの距離表示には誤差が大きいことが2011~12年の調査でわかっています。ケントさんやタクヲさんが2011年に廃材で制作した手作りのサインボードも、すでに文字が読みにくくなっています。「奥の院」に至る道標については新装するしかないと思われます。


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男はつらいよ-ハ地区の進撃(12)

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キチュラカン

 9月4日(日)。バンコク行きのフライトは午前を所望していたのですが、この日は午後の便しかない、ということで、半日ヒマができてしまいました。いろいろ考えたあげく、キチュラカンを参拝することにしました。キチュラカンはソンツェンガンポによる吐蕃建国時(7世紀)の創建と伝承されており、中央ブータンのジャンバラカンと並ぶ由緒正しき古刹です。すでに、先生は2回、ケントさんは1回、この古いラカンを訪問されているのですが、不思議なことに、いちばん古いとされる内陣・内々陣に入ったことがないそうです。前夜、書店で大型の図録『キチュラカン』(英文)を買ったこともあり、今度こそ内陣に入って本尊を拝み、木造建築部分を観察しようということになりました。


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 門をくぐると参道があり、五色布で彩られ、二人の女性が道を清掃していました。どうやら、翌日にプージャ(法要)を控えているようです。参道は短く、境内に入ると本堂を背面から望むことができます。正面にみえる三重の建物は新しく、右側近くにみえる平屋建切妻造の素朴な建物が古いのだとウタムさんは説明します。この平屋の部分にこれまで入ることができなかったのです(住職が留守で鍵がかかっていた)。新しいほうは第4代国王妃が30年前に建設プロジェクトを立ち上げ今に至ります。

永遠の蜜柑

 中庭に入ると、古い本堂の前に蜜柑の樹が植えてあります。これは異様な風景です。蜜柑と林檎はそれぞれ寒暖の指標ともいうべき果物だからです。ブータンの場合、少なくとも標高2,000m以上の高地では、たしかに林檎園がたくさんありますが、蜜柑をみることはありません。教授の記憶でも、キチュラカン以外で蜜柑を目にしたことはないそうです。さらに、ウタムさんは「この樹には年中蜜柑の実が生っている」と言います。つまり、寒い冬でも、蜜柑の生る風景(↓)をみることができるわけです。


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 古い本堂の内陣はあいていました。そこにいくつかの仏像が鎮座していますが、さらに奥の内々陣の中央奥に本尊弥勒菩薩を祀っています。このたび調査した多くの僧院の本尊が弥勒菩薩であったことは、ひょっとするとキチュラカンの影響かもしれないと思いました。また、弥勒の左右には棚が2~3段で組まれており、数えられないほどの仏像が祀られているのを網戸越しに確認しました。内陣には十一面観音がいくつも祀られ、その手前にトルマを配しています。また、高僧が延々と跪いて祈り続けた足跡が床板にくぼみとして残っています。なお、柱配置は内陣・内々陣ともに2本柱形式です。
 キチュラカンの内陣・内々陣は予想を超えて素晴らしいものでした。これまで参拝したどの僧院よりも壮麗かつ重厚だと先生も感心されてました。


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↑古い本堂内陣の屋根(切妻造平屋建)

                       

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男はつらいよ-ハ地区の進撃(11)

0903RTC01.jpg 160903 ロイヤルティンプー大学 RTC


作戦会議

 9月2日の夕方、わたしたちは買い物に出かけていたが、ガイドのウタムさんはワンチュク・ホテルの厨房で松茸の調理に骨を折っていた。まず、「焼き物」という感覚が諸外国にはないようだ。ソテー(炒め)なら難なくできるが、焼くのは慣れていない。ホテルのシェフにはできないから、自分で焼くということだ。おまけに、キッコーマン醤油の小瓶とライムを用意してくれている。この旅で松茸をなんど食べたかわからないが、ソテーから網焼きに変わって、味はますます日本化していった。
 松茸をつまみながら、翌日の調査について協議を続けていた。前日(1日)夜に出会った「版築研究」四人組との討議からヒントを得ていたのである。話題が版築の年代に及んだとき、わたしは思わず先生に「えっ、壁の年代ってわかるんですか?」と質問してしまった。先生は「難しいだろうなぁ」と答えられたが、四人組の一人が「版築壁にも有機物(木片)は含まれていますよ」という反論をされた。それに対して、先生は以下のように答えられた。

   版築の壁に木片などが含まれることはあるでしょうが、それが心材型か辺材型かが
   不明なら、仮に年代が出たとしても、外側に年輪がいくらあるかわかないので、あまり
   意味がないと思いますよ。


0903ツァリウ01 ツァリウ廃墟


 たしかにその通りだと思う。さらに細い木枝の場合、年輪数が少なすぎて、たいてい信頼限界20%前後の年代候補が5つぐらい示され、結局、どの年代が正しいのかさっぱりわからない、という結論にASALAB自体ずいぶん悩まされてきた。となれば、版築壁の年代など、最初からギブアップしてしまえばよいのだが、うねり走る車のなかで先生は考えかたを少し修正されたのだった。壁に残る有機物がスサ(藁)であれば、話は変わってくる。バーミヤン大仏の例が思い起こされる。タリバンの攻撃で首が飛んだ塑像の内側に残るスサをドイツ隊が年代測定したところ、雲岡よりも新しい「6世紀以降」という結果がでたことにより、大仏(立像)の伝播経路に再考を迫られている。つまり、仮に版築の壁の中心部分からスサが検出されれば、その壁の築成年代があきらかになる可能性があるということだ。しかしながら、版築壁は木舞壁ではないので、予め土に粘りを与える必要はなく、スサの検出は容易ではないであろう。これについて、ウタムさんに訊ねると、ごく稀にスサを含める場合もある、というので、サンプル採取に挑むことにした。
 木材のウィグルマッチ・サンプルを採取する道具はもちろんもってきているが、土を掻く道具はない。そのとき目前のテーブルにおかれた大きなスプーンに目がとまった。自宅に帰るウタムさんに大きなスプーンを2本もってきていただくようお願いした。1本のスプーンで壁の表面を掻く。外部からの影響のないところまで表面を掻いて、次に2本目のスプーンで壁の中心に近い部分を観察し有機物の有無を観察した。


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*いちばん上の写真はロイヤル・ティンプー・カレッジ(RTC)。クンサン・チョデンさんの娘、ダルマ・C・ローディさんが教授を務める。達磨さんどっこだ?


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男はつらいよ-ハ地区の進撃(10)

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アンビエントカフェに絵本を

 9月2日16時前、首都ティンプーに戻った。街に出る。まずは馴染みのアンビエント・カフェに。カフェの本棚に英語や日本語の雑誌・書籍・絵本が並んでいたので、我々の訳した絵本もおいてもらおうと思ったのである。従業員は快諾してくれた。『心の余白』と『炎たつ湖』の2冊が本棚に加えられた(↑)。
 再び街にでる。CDを買おうということになった。CDショップの名前も場所も知らない。学生諸君に英語で質問してもらうことにした。さっそくケントが美人をつかまえた。彼女は驚くほど親切に行き先を教えてくれた。
 途中の道ばたで農民たちが野菜を売っている。そういえば、今枝先生の奥様が「いまはゼンマイが美味しいの」と教えてくださった。道ばた市場で、今度は頼みもしないのに、二人の女子学生がゾンカ語の通訳をかってでてくれた。おかげで、ゼンマイとワラビを一束ずつ買うことができた(こちらではソテーにする)。CDは4枚買った。民族音楽、仏教音楽ばかりである。11月12日のイベントに使いたいと思っている。


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 工芸品ショップにも立ち寄った。カウンターのむこう側に艶やかな女性が坊やと一緒に立っている。坊やに訊ねた、「お母さんなのかい?」と。すると、その女性は大笑いした。わたしは、この子の姉で、まだ14歳なの・・・だって。どうですか、みなさん、下の写真をみて14歳と思えますか。よく聞くと、この日は特別らしい。踊りの発表会があり、衣装を着て化粧をしたのだそうだ。それにしても畏れ入ります。女は化生だ・・・ここでくらのすけ15が帯に拘った。すでにキラとテゴは手にいれたが、ユーチューブで着付けをチェックすると、帯があったほうがいいようだ、というのである。店だなには綺麗な帯が並んでいた。上質な手織りである。また、散財してしまった。(ケーシー)


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男はつらいよ-ハ地区の進撃(9)

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酔人ケンパ

 9月2日(土)。住職が不在でもあり、ヒアリングの時間が短くなって、ジュムテン寺の調査は11時過ぎには終わった。先生やケントさんは、民宿に帰りたがっていた。昼食を民宿でもう一度、キンレイとの別れをもう一度、という思惑である。それをガイドはあっさりつっぱねた。わたしたちは首都ティンプーをめざしていた。途中、ハの街を経由する。ハの街は民宿と反対方向にあった。山からおりてT字路があり、ミニバンは躊躇することもなく、街の方向に折れていった。
 ハの街でカップラーメンを2パック買った。計12個のトムヤンクン・ヌードルである。ブータンでトムヤンクン・ヌードルを食べるのをとても楽しみにしている。これも調査のルーティーンである。ただ、時間がまだ早いので、昼食は道中どこかでとることにした。
 そこからが地獄である。ガイドのウタムさんが選択した帰り道は、景色は良いが、蛇行が激しい。往路がスキーの大回転とすれば、復路は回転である。ケントさんはまもなくぐったりして体を動かさなくなった。先生が心配して一時間ごろ停車し休憩をとる。先輩は車を下りるだけで精一杯、草地にへたりこむしかなかった(↑右)。そのまわりに蓬が群生していた。前夜の石風呂に混ぜてあったこの薬草をブータンではケンパといい、さっそくサンプルを採取した。
  再び乗車するまで半時間はかかっただろう。そこからまた回転ドライブの連続で40~50分走り、ようやく小さな街にでた。食堂に入る。カップラーメンだけではもちろん許してもらえないので、モーモ(蒸餃子)を注文し、唐辛子の天ぷらも食べた(そこでぼくと先輩は熱い口づけを交わしたのです)。ところで、先生は「餃子と版築」の関係について考察をめぐらしておられた。餃子もまた、中原→アムド→ラサ→ブータンという伝播経路を想定しうるという。


160902 瞑想場跡

 
瞑想洞穴ジャンカネ

 トムヤンクン・ヌードルと唐辛子の激辛が先輩の体を浄化したらしく、わりあいすんなりと車に戻られた。そこからまた回転ドライブが続いたのだが、まもなくガイドは車を停めた。崖の上に瞑想洞穴がみえたからだ(↑)。たしかに、正面の崖の上に洞穴があり、石積みの壁などが残っている。ティンプー西郊のツァリゥ寺の山上に残るドラフの遺跡によく似ているが、こうして遺跡化したのは2015年4月の大地震以後のことだという。それは「ジャンカネ」という固有名称をもつ有名な瞑想場であった。昼食をとった街の近くにジャンチュチョリンという僧院があるのだが、ジャンカネは特定の僧院に付属する瞑想場ではない。悪霊の浄化を付近の住民により依頼され、高僧がここで瞑想をしたと言われる。あたりを見渡せば、道路の右肩には深い渓流が流れ、うねっている。やはり洪水が関係あるのかもしれないと思った。


0902ジャンジュネ03老人01 0902ジャンジュネ01瞑想洞穴01


 ちょうど一人の老人が通りかかり、いろいろお話をうかがうことができた。しばらく歩いていると、こんどは岩陰が何ヶ所かあり、その裏側には洞窟もあるようだ。洞窟につながる空気抜き兼灯り取りの穴が設けられている。また、瞑想中に水分補給するための水場(わき水)もあった。これらすべてが瞑想場である。いまは蛇などを恐れて、人々は近づかなくなっている。あり、ここでも瞑想修行がおこなわれていた伝承があります。


0902ジャンジュネ02岩陰01


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男はつらいよ-ハ地区の進撃(8)

0902ジュムテン寺04測量03全景01


男はつらいよ -ジュムテン寺

 石風呂を浴びて、ビールを飲み、最後の晩餐を終えた。調査の進捗を考えると、もう1泊してハ地区でのフィールドワークを深めたい、という気持ちが強くなっていた。キンレイをはじめ宿のスタッフともずいぶん親しくなっている。去りがたい気持ちが強くなっていた。ブータンはどこにいてもそうなんだが、日本の山間部の風景と似た趣きがある。とくにハ地区は、佐治に似ている、と先生はよく口にされた。それから何度も、寅さんだ、寅さん・・・・男はつらいよ。黙って、消えるんだ・・・
 ガイドに感傷はない。テインプーとパロのホテルはオーバーブッキングだから、もう変更できない、と延泊の希望をつっぱねる。翌9月2日(金)の朝食時、キンレイは旅の記録ノートをもってきた。先生は日頃みないほど真面目な顔をして、長い英文を書かれていた。出発前に記念撮影し、いざミニバンに乗り込む。キンレイがガイドに向かって言う。「あなたが私の仕事をすればいいの。わたしはあなたの仕事をするから」。客席から拍手の嵐である。


160902webキンレイに送る写真 160902 キンレイに送る写真


 午前はジュムテン寺を訪れた。標高3100mの境内からソナム・ジンカ・ファームハウスが遠くに見下ろせる。このたびの第5次調査で訪れた僧院の中ではいちばん高いところにあるのだ。駐車場から登り歩いてみると、酸素が薄いと感じた。じつはジュムテン寺には前日に一度訪れている。その際、政府の役人(文化遺産局?)らしき方が仏像か何かの調査をしており、ガイドはどうしたことか警戒感を深め、山を下りて「黒い僧院」に調査地を切り替えたのだった。
 日が改まっても、なおガイドは警戒している。高性能の双眼鏡で村道からジュムテン寺を遠望する。ケント先輩も赤の一眼レフで覗き、ズームを最大限アップした。車が一台だけ停まっている。だれの車なのかは分からない。先生は、なぜそこまで警戒するのか、という顔している。これまでの僧院と同じように振る舞えばよいだけではないか・・・


0902ジュムテン寺03本堂02燭02 0902ジュムテン寺02テンジン01


 山に登ってみると、外来者はなく、ロブカン(講義棟)で読経の声が聞こえる。住職は不在なのか、それとも講義中なのか分からないけど不在であり、少年僧が本堂の鍵をあけてくれた。以下は15歳の修学僧からのヒアリングになります。ジュムテンはドゥク派の僧院だが、国家形成期の17世紀の開山ではなく、グル・リンポチェがニンマ派を布教し始めた8世紀ごろに遡ると伝承されている。本堂は11世紀に再建?されたそうです。繰り返しますが、この歴史はあくまで「縁起」にすぎない。ところで、8世紀開山伝承がある僧院の本堂は必ず弥勒菩薩を本尊としている。グルや釈迦ではなく、弥勒を本尊とする点については精査しなければならないだろう。このほか内陣にはグルやサブドゥル、十一面観音が弥勒の脇を固めるように併祀されている。それらの上部には小仏を祀る棚があり、ドゥク派のジュケンポ(座主)やツェリンやミラレパなどの高僧の像を祀っている。そして、内陣の壁には釈迦のタンカが数多く見られた点も印象的だった。
 なお、この寺にドラフはない。今回調査した僧院でドラフを伴うのは2寺のみであった。所属する僧院と瞑想する僧院は必ずしも一致しない。どこで瞑想修行するのかは、タシツォ城から指示があるという。


0902ジュムテン寺01ロブカン01
↑ロブカン(講義棟) 震災後、本堂の講義室が使えなくなったので、ロブカンを新築した。
0902ジュムテン寺04測量01 0902ジュムテン寺04測量02眺望01
↑測量地点(左)とそこからの眺望(右)


男はつらいよ-ハ地区の進撃(7)

160901 チュンドゥ寺 160901 長屋(チュンドゥ寺)
             

チュンドゥ寺

 空撮後、ゾング家の裏手にあるチュンドゥ寺を訪れた。昨日述べたように、チュンドゥは村の守護神である。ポン教の悪霊が仏教(瞑想)によって浄化されデイティとなった。その守護神を祀る村の大寺が、2015年4月25日のネパール大地震(M8)で大きく損傷した。ネパール大地震の影響はブータン各地に及んでおり、ティンプーのワンディツェ寺の修復事業やツァリゥ寺の整備も大地震の被害と不可分に関係しているという。
 チュンドゥ寺の修復に国の補助金は投入されていない。ハーテ(Haatey)村の村人の寄進だけで、今年2月から修復が始まった。ガイドのウタムさんによると、ハ地区には裕福な人が多く、パロやティンプーで事業に成功している人もいる。そういう人たちが多く寄進したにだろう、とのこと。修復工事の棟梁シガさん(60)はプナカ城などで大工の腕を磨いた。ワンディツェ寺と同様、ここでも古材を再利用しようとしていない。ワンディツェの場合は古材を保管し、将来的には展示しようという計画があったようだが、チュンドゥにはそれらしき古材もみあたらず、仏像・仏画・仏具は平屋のジムカン(長屋)に移して仮の本堂としていた。


0901チュンドゥ寺01細部02 0901チュンドゥ寺02大工02棟梁01


 軽く意見を述べてみた。「日本では、古材の使える部分は残して新材と融合するようにする。そうすることで、文化財の価値を保てるという考えがあるのですが、ブータンではしないのですか」と。シガさんは真面目に答える。「そういうことも考えたのだけど、経費の関係で難しい、ということになり、すべて新材に変えることにしたんだ」。それで、議論は終わり。ブータンにある僧院本堂のほとんどが200~300年前に建てられたものばかりで、一様に劣化が進み、耐久性の危惧が案じられている。古材を使いつつ修復する技術を持ち合わせていない点から新材を多用する方向性になっているとのことであった。
 ブータンは一国まるごと世界遺産になってもおかしくないほど自然資産・文化資産に恵まれているが、これだけ古寺の新装再建が進んでいる姿をみると少々心配になる。ただ、ブータンは未だ「近代」という時代枠に達していない、とも考えられるので、つまり、江戸時代のような社会なので、再建という行為そのものに歴史的・文化的価値があると評価できるかもしれない。
 本堂は正方形で宝形造の平屋に小さな楼閣を2段立ちあげる。近隣の宮殿ウチ型高層建物ではなく、むしろパロのキチュラカン本堂に似た形式である点には注意すべきであろう。仮本堂となった長屋には二つの部屋があり、奥にグル・リンポチェやサブドゥル・ナムワン・ナムキュル、十一面観音など本堂で祀っていた仏像を置き、手前の部屋に村の守護神チュンドゥが厨子の中におさめられていた。


0901チュンドゥ寺01細部01 0901チュンドゥ寺02大工01


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男はつらいよ-ハ地区の進撃(6)

160831 ゾング家 0831ゾング家遠景01



婿入り民家-ゾング家

 8月31日(水)、カツォ寺の調査を終えて、いったん宿舎に戻り、昼食をとる。キンレイのいる食堂は楽しい。キンレイはそのまま午後の調査先まで案内してくれた。キンレイはジンカ一族の分家筋の娘さんである。民宿が本家筋、川を挟んで対岸にキンレイの実家がある。ジンカ一族の家はほかにもある。調査対象の民家はジンカ家本家の隣に建っている。屋号はゾングである。ゾング一族の民家の一つということである。


0831ゾング家03居間01 0831ゾング家01ポラロイド01sam


 まず驚いたのは、ゾング家のご主人は夫ではなく、奥さんのほうだったこと。旦那さんは近所から婿入りしたそうで、キンレイの親戚だと言っていたように記憶する。このデータだけみると、ハ地区の家族は母系で妻方居住のように思える。ひょっとすると、遊牧民の社会制度を継承しているのかもしれないが、ゾング家のような組織がどれだけ普遍的なのかはまだよく分からない。ちなみに、あとでキンレイに聞いたところでは、婿入りが多いけど、嫁入りもあるという。双系?


0831ゾング家02仏間01前室01 仏間前室


 ところで、わたしたちの研究は「崖寺と瞑想洞穴」を主題としているのに、なぜ民家を調査対象に加えたのか。今回はとりわけ規制が厳しく、以前のように本堂内部の調査で充実した成果が得られなかったからである。本堂の場合、なかなか精度の高い実測ができないし、撮影も原則として許可されない。民家は実測ができるし、仏間の写真を自由に撮れる。僧院本堂では、とりわけ本尊や脇仏、タンカ(仏画)の撮影を強く禁じられるが、農家の仏間にならぶ諸仏やタンカの撮影ができるので、本堂調査を補完するものとなるのである。


160831 仏間 160831 タントンゲルポ
↑(左)仏間  (右)タントン・ゲルポの小像
0831ゾング家02仏間02守護神01 0831ゾング家02仏間02守護神02sam
↑チュンドゥ神


  

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男はつらいよ-ハ地区の進撃(5)

0830ハ02カツオ寺01


 8月30日午後、小雨。昼食後、調査に出発。高度はさらに上がっていく。我々がソナム・ジンカ・ファームハウスと反対側の山の中腹にピンク色の花を咲かせた畑が見える。その付近にみえる建物に向かって車を進めた。


連戦連敗-カツォ寺

 カツォ寺はドゥク派の僧院だが、やはりグル・リンポチェの縁起がある。グルどころか、グル以前の伝承まであって、当初はポン教の聖地であったというのだ。それが、グルの瞑想によって浄化され、ニンマ派の道場になる、という筋書である。本尊はグル・リンポチェ。両脇に十一面観音ほか多くの仏像を併祀している。住職のテンジンさんは32歳の青年僧で、ハ地区の生まれだが、タシツォゾンで一時期学び、瞑想を経験することなくカツォ寺の住職になった。いつ瞑想を経験するかは分かっていない。タシツォゾンの指示を待っている状態である。いまは教師である。カツォ寺で小学生レベルの少年僧を教育している。少年僧は10人ばかりいる。


0830ハ02カツオ寺03門01 ゴラゴ


 本堂は2階建。1階は講義室、2階が仏堂である。14世紀にはこの本堂があったというが、何度も再建されているようで、材は新しくみる。30日は途中から雨がひどくなり、いくらまっても已まなかった。レーザー測量器による屋根伏図の作成はまったく進まなくなった。表門ゴラゴ(↑)で待機した。その間、ケント先輩は門の平面図を黙々と描いている。その採寸を終えても、まだ雨は降りやまなかった。下山するしかない。


0830ハ02カツオ寺02少年僧02
教師と少年僧
0830ハ02カツオ寺02少年僧01


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男はつらいよ-ハ地区の進撃(4)

 0830松茸爆買01 松茸爆買                                       

連戦連敗-ドローン

 8月30日(火)。首都ティンプーから西部のハ地区に移動しました。その前にパロ空港の航空管制局を訪ねる必要がありました。ドローンの飛行許可を得るためです。ドローンの飛行撮影については、7月から何度もブータンの受け入れ先に連絡しており、「大きな問題はない」ことを確認していました。ところが、28日の会食で、今枝先生ご夫妻は怪訝な顔をされるのです。「ハ地区は中印の国境に接しており、インド軍が駐留している。厳しいんじゃないか」と仰います。許可をとれば大丈夫だとガイドが言っていると答えたところ、「この人たち結構いい加減だから・・・」。
 はたして、その予言は見事に的中しました。空港に着くや否や、ガイドのウタムさんが航空管制局に飛び込んで交渉したのですが、返事はアウト。その理由がまた強烈でした。この3月か4月、中国人の旅行者がドローンで王宮とタシツォゾン(城)を撮影しまくったことにブータン当局が激怒し、中国人の撮影データをすべてデリートし、その後、ドローンの飛行撮影が原則禁止になったというのです。ただでさえ○○嫌いの先生はとうぜんご機嫌ななめ・・・、ドローンを日本から担いできたわたしも口あんぐり??


0830チェレラ峠02 0830チェレラ峠01看板01


 ハへ向かう山道は激しく蛇行し、標高はどんどん高くなっていきました。問題はケントさんです。持病の車酔に高山病も重なり、苦しい思いの連続でした。一時間あまり走って、車はチェレラ峠でいったん停止。高度計の標高は3600mを示していますが、峠の看板には「ダンタク道路の最高点 標高3,988m」と書いてあります。この標高は道から山の上にあがったところではないか、と思うのですが・・・(仮に峠道が3,988mだとしたら、高度計の基準点高を修正する必要があります)
 ところで、峠といえば、昨年訪れた青海湖南山の峠を思い起こします(わたしは行ってませんが)。チベット仏教における峠は天地の境であり、タルチョ、ロンダなどで彩られます。ブータンではさらにダルシンが林立します。峠は桃源ですね。


0830ハ01ソナムジンカ02マニ チン・チン・チン・・・



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男はつらいよ-ハ地区の進撃(3)

0829ツァルイ寺01本堂02瞑想01 0829ツァルイ寺01本堂03 本堂


連戦連敗-ツァリゥ寺

 午後はティンプー西郊にあるツァリゥ寺を訪問しました。川を挟んだ崖のふもとに本堂ラカンがあり、100mほど高い山上の岩陰に黒いドラフ(瞑想場)が見られます。対岸から望むと旗が立っていて、中で誰かが瞑想中ではないか、と思われました。ドゥク派の僧院ですが、創建は14世紀に遡るといいます。正面に釈迦三尊像、入口の両脇に四天王を祀っています。
 本堂ラカンの内陣は14世紀に建てられたもので、外陣は後補であろうとのこと。その内陣は、中央が板敷で、そのまわりをコ字形にタタキ(三和土)の土間が残っており、土間上に2本柱が立っています。これまでみたすべてのラカンで2本柱は板床上に立っていたので、これには驚きました。ラカンは一般に2階建ての楼閣(ウチ)形式であり、これを先生はゾン(城)型のラカンと呼んでいますが、ジャンバラカンやキチュラカンなど古代に遡る創建伝承のある寺の本堂は平屋であり、土間に柱を立てるツァリゥ寺の本堂も元は平屋であった可能性があると思われます(今は2階建切妻造)。


0829ツァルイ寺02プロジェクト看板01 0829ツァルイ寺02プロジェクト看板02sam プロジェクト案内


 このラカンは一時廃寺に近い状態にあり、劣化が進んでいたようです。それを、下手にあるツァリゥ村の人が保護していった。僧侶はいま3名が常住しています。いずれも高齢で、60~70代。維持修理費が高くつうので、2003年に政府へ僧院の管理を委託した。最近になって、「研修・教材センター 」プロジェクト(Training and Resource Center Project)が始まり、東側の斜面に新しい施設を建設中です。この新しい施設は尼寺になる予定だという。


0829ツァルイ寺03新築02 0829ツァルイ寺03新築01 新築中


 ケントさんとぼくが本堂周辺の地形測量をしていると、イケメンの若い男性が近づいてきてサポートしてくれました。プロジェクトに携わっている技師さんだそうです。本堂背後の山の上には瞑想施設ドラフがみえます。技師さんの案内で少しずつ斜面を上がり、測量を進めていきました。しばらくすると、本堂の調査を終えた先生がガイドのウタムさんを連れてわれわれのベンチマークまでやってきました。先生たちはさらに上に向かいます。ウタムさんは心配そうです。山頂に近い岩陰でだれかが瞑想をしていたとすれば、ドラフに近づけないからです。ところが、エンジニアさんによれば、下からみるドラフは一年前に建ったばかりで、まだだれも使っていないそうです。実際、まだ壁に色が塗られていません。白でも黒でもない、素木の色なのです。そのままさらに上にあがっていくと、まず巨岩の岩陰を発見しました。ひょっとすると、ドラフのあった場所かもしれない。さらに上がっていくと、岩陰の下に石積壁が残っていて、その中に骨小塔ツァツァがたくさんばらまかれています。ドラフの遺跡とみて間違いないでしょう。その遺跡から少しあがったところで、山頂岩陰に新築されたドラフの真下に来ました。まだ30mばかり離れているが、撮影と測量には抜群のポイントです。


0829ツァルイ寺04遺跡01 0829ツァルイ寺04遺跡02 


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男はつらいよ-ハ地区の進撃(2)

160829 修復現場 ワンディツェ修復現場


連戦連敗-ワンディツェ寺

 8月29日(月)。ブータン調査初日です。今日は僧院2カ所を巡り、記録を取りました。
 まず、午前中に訪れたのはワンディツェ寺です。今枝先生ご夫妻からご推薦いただき、参観することになったのです。ティンプーから北へ3kmほど離れた森の中にあり、高度計は標高2500mを示していました。パロ~ティンプ地区の生活面が標高2200~2300mですので、わずかに高い位置にありますが、高地になれない身にしてみれば、この200~300mの高度差は身にしみて堪えます。車をおりて半時間あまり歩く山道で早くも息絶えだえ・・先生はステッキを使われました。
 ワンディツェ寺は17世紀にブータンを統一した初代ジュケンポ(座主)、サブドゥル・ナマン・ナムキュルによって創建されたと伝承される僧院です。もちろん宗派はドゥク派。元はゾン(城)であり、国家形成後の「一国一城令」的制度改正により、多くのゾンが廃止され、ラカン(僧院)に衣替えしました。


0829石工01 石工棟梁と壁試験体


 いままさに、先代国王(4代目)ジグミ・シンゲ・ワンチュクの指示で修復工事がおこなわれています。撮影は、内部だけでなく、正面の外観さえも禁止されています。みっともない状態では公開できない、という先代国王の強い意向が働いているようです。本寺に専住の僧侶はいませんが、担当の僧侶はティンプー最大の城、タシツォゾンの僧院におり、必要とあらば、こちらに出向いて法要をおこなうとのことでした。外回りは版築壁ではなく、分厚い石積で、石工の棟梁が何種類かの積み上げ方を検討していました。テーパーを少しずつ変えた壁のモデルを何種類も試作しています。
 本堂内陣には釈迦如来を祀っています。グルリンポチェはどこにもみえません。おそらくドゥク派を信仰する王族がニンマ派の象徴たるグルを敬遠しているのではないか、とガイドさんは説明されました。本堂内の柱など主要建築材は真新しいものに替わっていました。修復ではなく、再建に近い介入を進めているわけです。これも先代国王の意向だそうです。となると、古い建築材がどこかにあるだろうということで、石工の棟梁に訊ねると、素屋根の裏側だということで、早速全員で見に行きました。このころまでには、すでに互いに仲良くなっていて、棟梁は我々に年輪調査の許可をあっさり与えてくれました。ポラロイド写真が効いたのかもしれません。


160829 サンプル採取 0829石工02建築部材02



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男はつらいよ-ハ地区の進撃(1)

1028パロ01とうもろこし02酔人01 1028パロ01とうもろこし01 酔人


ブッダが説いたこと

 8月27日(土)午前11時半、TG便は関空を飛び立った。前夜、準備に手間どり一睡もしていない。機内食をたいらげるとすぐに眠くなり、2時間あまり意識を失った。目が覚めたところで、時間は有り余っている。本でも読むか。今回の旅には以下の2冊を携えていた。

  ①ワールポラ・ラーフラ (今枝由郎訳)『ブッダが説いたこと』 (岩波文庫・ 2016)
  ②森永卓郎 『モリタクの低糖質ダイエット』 (SB新書・2016)

 機内で手にとったのは②の方である。目から鱗が落ちました。8月3日に健康診断があり、その一月前から20日以上ジムに通って、ある程度体重を落とすことに成功したのだが、減量は予想したほどではなく、その後の五輪三昧で大きくリバウンドした直後だったので、モリタクの見識にいちいち唸るしかなかった。要するに、デンプン・糖類を絶てばよいのです。デンプン絶ちと軽い運動を複合すれば、4ヶ月で20キロも痩せられる。②はそれを実践した記録です。還暦を前にして思う。もう少し前にこの新書を読んでおきたかった。7月の激しいジム・トレにあわせてデンプン絶ちしていれば、いまごろ10キロは痩せていたでしょう・・・
 ①は素晴らしい本です。道中どこでだったか忘れたけれども、「こんな凄い本があるんだ」と、くらのすけに見せたところ、目が点になって読み始め、「貸してください」というではないか。若いのに珍しい男だね。もちろん快諾して、文庫本はヤツがもったまま今に至る。あの世に往くまでに、こういう訳本を1冊世にだしたいものです。


0828ワンチュクホテル


今枝先生と会食

 ①の訳者、今枝先生はチベット・ブータン史学の国内第一人者であり、フランスで長く活躍されていた。①の著者はスリランカの仏教学者でやはりコレージュ・ド・フランスで研究していた。ワールポラ・ラーフラは最古の仏典に書かれた言葉のみに依拠して、ブッダの思想を平易に説いている。近い将来、学生と輪読してもいいなぁ、と思っています。くらのすけのような若者が集まってくれればいいけれどね。
 ブータンに入国した8月28日、訳者の今枝先生(および奥様)とティンプーのホテルで夕食をともにした。先生は古典ブータン語(あるいはチベット語)のレッスンのためにティンプーに長期滞在されていたのです。初めてお目にかかるので、大家を前にしておおいに緊張したが、途中の道端で購入したばかりのマツタケに舌鼓を打つ、楽しい夕食でした。今枝先生と奥様に改めて感謝申し上げます。じつは、この会食にはクンサン・チョデンさんにも同席されることになっていたのですが、なんでも高熱を発して床に伏せってしまったらしい。「マウンテン・エコー」という国際的ワークショップのパネリストを務めるため、ウゲンチョリンから車でティンプーまで出てきたらしいが、今夏の大雨で道が荒れ果て、通常8~9時間の行程が13時間以上におよび、疲れから風邪をひいて発熱した、という情報がまことしやかに飛び込んできた。こんな体調のとき、無理をして面会をお願いするわけにもいかないので、『心の余白』和訳本と土産物はガイドに預け、病状恢復後に渡していただくことにした。


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大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅩⅢ)

大雲院本堂(旧霊光院)の鰐口

 8月30日(火)、会長の指導の下、私とキム3号で大雲院仏教美術品の調査を行いました。キムは本堂密壇周辺の法具、私は鰐口や寶篋印塔など仏堂の外側にある美術品を中心に調査しました。
 大雲院には鰐口が二つあります。一つは大師堂に飾られている大雲院本来の鰐口。もう一つは今回調査した旧霊光院本堂の鰐口です。以前計測した大師堂の鰐口とデータを比べると、二つの鰐口の特徴が明らかになります。


20160830ブログ用①.jpg
本堂(霊光院)の鰐口
縦:528mm
径:573mm
幅:218mm

20160830ブログ用②.jpg
大師堂(大雲院)の鰐口
縦:377mm
径:410mm
幅:182mm

 今回調査した旧霊光院本堂の鰐口サイズは、大雲院の鰐口サイズをすべての値で上回っています。また、鰐口の形状にも違いが見受けられます。とくに鰐口の「目」と言われる部分が注目されます。「目」とは鰐口の左右にある筒上の突起物を指し、この目の付け根と目の先端との距離によって、鰐口の年代をおよそ判別ができます。付け根と先端との距離が離れているものほど古い鰐口といえるそうです。この説に照らして、二つの鰐口の目を見比べてみましょう。
 大雲院の方が霊光院のものよりも、目の付け根と先端が離れているように見えます。大雲院鰐口の制作年代が東照宮勧請の慶安3年(1650年)に遡るのに対して、霊光院本堂の鰐口の制作は天保10年(1839年)と幕末まで下るのです。両者の制作年代は200年近い差があります。時代が進むにつれて現れる鰐口の変化を読みとることができるでしょう。


20160830ブログ用④.jpg
左:大雲院鰐口  右:霊光院
20160830ブログ用⑩  20160830ブログ用③.jpg


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ケーシーの蹴球診断【バンコック】

 8月晦日、西ブータンのハ(Haa)地区にいた。宿舎のソナム・ジンカ・ファームハウスは農家を大改装した民宿で、頗る居心地がよい。なにより看板娘が綺麗だった。その名もキンレイ。綺麗なキンレイ。いつもすっぴんのキンレイは高校を卒業したばかりの18歳。無口だが、愛想はよく、小声で恥じらいながら英語を話す仕草が愛らしい。民話の中の、そうだな、たとえば「アンティ・マウス」のタシ・ドマを思わせるような牧歌的少女ではあったが、すでにしてその影に妖艶さを秘めていた。

 深夜、学生たちの部屋でおしゃべりしていると、ドアを叩く大きな音がした。ガイドが部屋に飛び込んできて、慌てた顔でいう。
  「キンレイが高熱を発して、ロビーの床で横になっている。薬はありませんか?」
 わたしは医者ほど多くの薬をフィールドにもちこんでいる。そのすべてを手にしてロビーに駆けつけた。頭に手をあてる。38度以上の発熱だ。おまけに喉が痛く、咳がでる、という。扁桃腺が腫れた風邪の症状に違いない。顆粒の風邪薬、解熱剤、気管支系の炎症抑制剤、抗生物質を与えた。
  「喉が痛くてなにも食べていない。何かお腹にいれてから薬を飲んだほうがいい?」
キンレイは訊ねる。
  「ライススープ(おもゆ)を飲んでからにしたほうがいいよ。」
とわたしは答えた。彼女は苦しげな体に鞭打ってたちあがり、厨房におりて戻ってきた。そして、ミネラルウォーターで4種類の薬を飲み干し、眉間に皺をよせながら、民宿対面にある実家に帰っていった。
 なんだか気が抜けた。部屋に戻るしかない自分が情けない。ひとり後悔と反省の時間をしばし過ごした。調査道具に足りないものがあるからだ。どうして聴診器をもってこなかったのか。ケーシー高峰の映像が揺らめいては消えていった。

 えぇい、iPadでも開くか。あれっ、日本がホームの埼玉スタジアムでUAEに逆転負けを喫した~(仰天)。ヤホーニュースは、浅野のゴールが誤審で取り消されたことを強調している。埼玉スタジアムで「中東の笛」? 日本で最も過激なレッズのサポーターが溢れたスタジアムで中東の笛やらかせて、カタールのレフェリーをそのまま帰らせたのか?? 帰国させていいのか???



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鯉に願いを-ネコノミクスの街(9)

R0018431まつたけ ブータン松茸


河原町自治会公民館便り 第87号

 無事、第5次ブータン調査より帰国しました。今回は、インド・中国の国境に挟まれたハ(Haa)地区で調査しました。佐治の奥山のような景観のところで、いつものように懐かしさが溢れています。渓流の川縁でつかった石風呂が最高でしたね。一気に体調がうわむいた。そうそう、マツタケ三昧の食生活でね。マツタケなんて、もう飽き飽きだ・・・ガハハ
 さてさて、ブータンにドローンを持ち込んだのですが、この春に中国人が王宮とジュケンポ(ドゥク派座主)のいるタシツォ城をドローン撮影したことで当局が激怒し、以後、ドローン使用禁止になっており、がっくり・・・ほんま、中国人よくないあるよ。
 くらのすけはいろいろ気の利く男で、このたびはブータン女性の日常着を若干買ってきたんです。スカートをキラ、上着をテゴと言います。イメージできない方は以下をご参照ください。

  https://www.youtube.com/watch?v=pcARWrrdnX0
  https://www.youtube.com/watch?v=WoIWf1vHQWg

 キラとテゴを使って、いろいろ悪だくみを考えておりますが、この件についても、まもなくお知らせすることになるでしょう。

 帰国後まもなく、倉吉のマッド・アマノ氏から河原町公民館報の最新号が送信されてきましたので、下に掲載しておきます。ASALABのゼミ生3名の活躍についても報告されています。
 いま河原町は熱くなっています。旧小川家酒造主屋(県指定文化財)対面の長屋群を取り壊そうという動きが本格化しているのですが、その首謀者が文化遺産や町並みの保護を任務とする市教委文化財課であり、これに驚愕した一部の市民が市・県の関係部局長に対して嘆願書・質問状を出すなど反発を強めています。「続き」には、6月26日に開催された会合のレポートを掲載します。一連の動きについては、これからもお知らせしますが、その第一報とみなしていただいて構いません。(ケーシー)


公民館便り28年9月_01 河原町自治会公民館便り 第87号
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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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