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第6回「めざせ、ブータン!」其壱

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仮想タクツァン僧院 -摩尼寺「奥の院」遺跡

 2013年5月16日(木)、天候はくもり。私たちはブータンとの関連性を求めて摩尼寺「奥の院」遺跡を訪れた。登山路でみつけた「奥の院」への案内板は、昨年、環境大学生が廃材を利用して作ったものである。「奥の院」遺跡の訪問者は山で道に迷うことが多かったが、ルートマップとこの案内板があれば、道を間違えることはないだろう。登山を開始してまもなく、大量の倒木を道の両脇に発見した。大雪によって倒れてしまったスギである。摩尼山は積雪150㎝以上になる豪雪地帯だという。少しばかり積もった雪で普段の生活に支障が出る私には想像ができない。中国自然歩道に倒れ込んだ樹木は国や県が除去してくれるが、摩尼寺所有地にある道の倒木は放置されるので、昨年は環境大学の学生が除去したのだという。


めざせ!ブータン(6回目)10 0516マニ02じかく01


 「奥の院」まであと690mのサインボードの横に「慈覚大師創建」伝承を説明する案内板がある(↑)。慈覚大師とは伝教大師最澄の弟子、円仁のことである。先生によると、円仁創建伝承のある寺院は全国で600以上に及ぶという。しかし、その大半は江戸時代の縁起書の記載であり、後世の附会(書き足し)であって史実を物語るものではないらしい。先生たちの発掘調査によると、「奥の院」境内の造成は10世紀後半以降のもので、円仁の生存期(9世紀)より100年ばかり送れるというから、摩尼寺においても円仁創建伝承の信頼性は高くないようだ。
 慈覚大師の案内板から少し上がったところに石敷がある。山道なので石があるのは当たり前なのかもしれないが、落ちている石とは違って、表面が平べったい。こういう平らな石の上には柱がのった可能性が高く、先生は『因幡民談記』にみえる門の跡ではないか、と説明された。


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 険しい坂道を登りたどり着いたのは巨巌の袂の大きな平場である。この一郭こそ、18世紀前期まで摩尼寺の境内があった摩尼寺「奥の院」遺跡だ。平場の縁にはツリーハウスと椎茸原木栽培の棚があった。これもまた環境大学生が作ったものである。来春には大きな椎茸が収穫できるかもしれない。この場所でなにより目を引きつけるのは巨巌である。山の斜面に巨巌、地面には平べったい石。平べったい石が規則正しく並んでいるということは、ここにも建物の柱か壁のようなものがあったのだろう。そして、巨巌は人為的に堀削され、凹凸の激しい形状をしている。岩窟、岩陰には千手観音、地蔵菩薩などの仏像や五輪塔が祀られている。これまでの研究成果によると、この場所には2棟の楼閣式仏堂があったと推定されている。『因幡民談記』(1688)が描くように、手前は平場の上、奥側は巨巌に張り付くように建てられていた可能性が高いという。2010年に環境大学が巨巌正面の平場を発掘調査したところ、下層で平安時代後半以降、上層で室町時代後期~江戸時代前期の遺構がみつかった。上層の建物跡は『因幡民談記』に描かれた手前側の楼閣式仏堂とみなされる。
 巨巌の説明を聞いた後、私たちは遺跡の清掃活動をおこなった。昨年まで毎週上って活動した摩尼山なのだが、先生は今年最初の登山であり、もっと草ぼうぼうになっていると想像されていたらしい。しかし、雑草は少なかった。男子学生は放置された枯木の移動、女子学生は除草作業に勤しんだ。20分ばかりでいずれの作業も完了した。短時間の草取りだったが、「数は力」で、遺跡はそれなりに綺麗になったと思う。


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 奉仕活動を終え、岩陰に祀られている仏像に合掌した私たちは、次に一段上にある岩窟仏堂に向かった。この場所は二重岩窟になっており、奥に五輪塔を祀っている。学生は順番に合掌し、山頂の立岩をめざした。山頂には立岩と閻魔堂跡地があった。元は磐座であった巨巌が、帝釈天降臨とともに仏界のシンボルに変化したもと言われている。立岩の脇に帝釈天像が祀ってあり、岩下の平場には50年ばかり前まで閻魔堂が建っていた。山頂からの景色は素晴らしいものだった。晴天であれば鳥取砂丘に大山という鳥取県を代表する名勝を一望することができる場所だという。今回は残念だった。それから山を降りて、摩尼寺の境内へと向かう。ここでお賽銭を入れる学生やおみくじを引く学生もいた。そして、県指定文化財の仁王門を通り私たちは大学へ戻った。


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摩尼とマニ車

 「奥の院」遺跡で先生は「この巨巌は仮想タクツァン僧院です」と言われた。ブータン仏教発祥の地、タクツァン僧院は高地3000mの山崖上に建つ懸造の仏堂である。「奥の院」の巨巌の前にも懸造の大きな仏堂があった。今それは遺跡化し、木造の建築は残っていない。しかし、因幡の民の霊魂は必ず摩尼山を経由して昇天すると信じられてきた。摩尼山は因幡一の霊山であり、巨巌や懸造の親近性とあわせてみれば、たしかにタクツァン僧院に比肩すべき仏教遺産と言えるかもしれない。
 いま一つの関係を「摩尼(マニ)」という言葉から読み取ることができる。ブータン、ネパール、チベットなどで使われているマニ車のマニと摩尼山の摩尼は同じ言葉である。先生によると、マニとは「真言」を意味するサンスクリット語だという。古代のインド仏教で使われた言葉が今でもブータン方面で生きている一方、中国人が漢音訳した「摩尼」が日本に伝わって因幡の寺名となっていることに驚いた。ブータンにそれほど関心のなかった私だが、このプロジェクト研究に参加したことで、少しずつ興味をもち始めている。
 摩尼山に登るのは2回目だが、運動不足の私にとって山登りはつらいものだった。また、柱が立っていたと言われる石敷を踏んでしまったときは何か悪いことが起きるのではないかと不安になったりした。でも、山頂に辿り着いたときの達成感は大きなものだった。天候に恵まれていたらもっと達成感を得ることができたと思う。(環境学科2年H.C)


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↑道標は15ヶ所すべて健在

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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