田中淡著作集書評第三巻①
第1部1 大陸系建築様式の出現
美術全集『日本の古寺 第一〇巻 法隆寺と斑鳩・生駒の古寺』(一九八四年)の解説文であり、『平等院大観』所収の論文(第二部4)とともに日本建築史の研究者になじみ深いものだと思われる。普通この種の解説は老大家に委ねるものだが、田中淡さんは当時三〇代後半。異例の抜擢と言っていい。「大陸系建築様式の出現」という主題にふさわしい人材としてすでに田中さん以上の研究者を探すのは難しくなっていたのであろう。構成は以下のとおり。
Ⅰ 中国文化接触の黎明 p.5-
Ⅱ 大陸系新技術の出現 p.7-
Ⅲ 飛鳥時代の寺院跡 p.9-
Ⅳ 法隆寺建築と飛鳥様式 p.11-
論考はⅣの法隆寺の系譜問題に大きく傾斜している。おそらく、太田博太郎博士還暦記念論文集の巻頭を飾った関口欣也氏の論文「朝鮮三国時代建築と法隆寺金堂の様式的系統」(一九七六年)を意識し、力が入ったものではないか。私の立場から補足できるとすれば、考古発掘データの増えているⅠについてである。まず、中国中原に発祥する環壕集落(前五千年頃)が時空を経て無文土器時代(前十世紀頃)の朝鮮半島に伝播した。朝鮮半島の環壕内部には「中央土壙+二柱」平面形式の松菊里(ソングり)型住居が卓越する。この形式の住居は縄文晩期の北九州に早くも伝来し、弥生時代の西日本から東海地方まで広く拡散していく。松菊里型住居を単独に捉えても意味はなく、環壕集落・高床倉庫・水田稲作とセットになった「稲作文化複合の体系的技術」の一部であり、渡来人の文化として縄文期の社会と文化を被覆していった。すなわち、弥生時代以降(おそらく律令期まで)、朝鮮半島から新モンゴロイド系渡来人が間断なく押し寄せ、社会と文化と建築を変化させていたと推定される。
この問題は仏教の受容とも関係する。六世紀中ごろ、百済の聖明王が釈迦仏典などを正式に欽明天皇に献じたのが日本仏教の始まりとされるが、継体朝以前の渡来人にも私的に仏教を信仰する者は少なからずいたはずである。それら渡来人の私的仏教信仰は、九州北部や中国・近畿地方等山間部の「雑密」的修行場の形成を促した可能性もある。南都の政権はこうした初期修験道的信仰を一時期禁止する。それだけ「雑密」的仏教は盛んだったと推定される。そうした山岳仏教こそ、最澄・空海らの二重出家と「純密」形成の下地になったものであり、南都の大寺だけに照準をあてるのでは古代仏教研究は十分ではないと考えている。
第1部6 日本建築に探る中国文化の古層
古代中国建築における「楼」の問題は、著作集第2巻でも数ヶ所で論じられている。巻頭の二篇「『墨子』城守諸篇の築城工程」のインパクトが強すぎて、「楼」については軍事的高殿という説明で十分だとひとまず考えたが、この講演原稿を読んで、やはり他の「楼」についても触れないわけにはいかないと考えを改めた。
漢から北魏に至る「楼」や「台」は神仙世界への憧れを指向した建築である。仏教が導入される以前から木造の高層楼閣は存在した。河北阜城桑荘後漢墓出土の緑釉陶楼(四重)はその種の楼の典型的な模型である。棟高五〇丈もあった前漢武帝の台榭式宮殿「神明台」に代表されるように、これらの古い高層建築は天上の神仙世界を指向している。こうした前仏教の高層建築、とりわけ木造楼閣と仏教のストゥーパが結びつくことで、神仙と極楽浄土を重層的に表現する高層の仏塔が誕生する。本来、墳丘墓の形状をしたインドのストゥーパが中国の神仙建築たる楼台建築と結びつくことで高層化をなしえたのである。北魏洛陽に林立した仏塔のなかには、「仙人掌」という宝珠+請花のような装飾品を方形屋根の頂部にのせていた。仙人掌に溜まる雨水は「甘露」と呼ばれ、それを飲めば不老長寿になると信じられていた。要するに、平等院鳳凰堂でみた鳳凰(前仏教)と無量寿(仏教)の融合と似て、神仙的楼台(前仏教)が墳丘墓状ストゥーパ(仏教)の高層化を導いた、ということである。日本国内にいても、仏塔高層化の理由は説明できないが、古代中国の諸資料がその変化のプロセスを明らかにしてくれる。
美術全集『日本の古寺 第一〇巻 法隆寺と斑鳩・生駒の古寺』(一九八四年)の解説文であり、『平等院大観』所収の論文(第二部4)とともに日本建築史の研究者になじみ深いものだと思われる。普通この種の解説は老大家に委ねるものだが、田中淡さんは当時三〇代後半。異例の抜擢と言っていい。「大陸系建築様式の出現」という主題にふさわしい人材としてすでに田中さん以上の研究者を探すのは難しくなっていたのであろう。構成は以下のとおり。
Ⅰ 中国文化接触の黎明 p.5-
Ⅱ 大陸系新技術の出現 p.7-
Ⅲ 飛鳥時代の寺院跡 p.9-
Ⅳ 法隆寺建築と飛鳥様式 p.11-
論考はⅣの法隆寺の系譜問題に大きく傾斜している。おそらく、太田博太郎博士還暦記念論文集の巻頭を飾った関口欣也氏の論文「朝鮮三国時代建築と法隆寺金堂の様式的系統」(一九七六年)を意識し、力が入ったものではないか。私の立場から補足できるとすれば、考古発掘データの増えているⅠについてである。まず、中国中原に発祥する環壕集落(前五千年頃)が時空を経て無文土器時代(前十世紀頃)の朝鮮半島に伝播した。朝鮮半島の環壕内部には「中央土壙+二柱」平面形式の松菊里(ソングり)型住居が卓越する。この形式の住居は縄文晩期の北九州に早くも伝来し、弥生時代の西日本から東海地方まで広く拡散していく。松菊里型住居を単独に捉えても意味はなく、環壕集落・高床倉庫・水田稲作とセットになった「稲作文化複合の体系的技術」の一部であり、渡来人の文化として縄文期の社会と文化を被覆していった。すなわち、弥生時代以降(おそらく律令期まで)、朝鮮半島から新モンゴロイド系渡来人が間断なく押し寄せ、社会と文化と建築を変化させていたと推定される。
この問題は仏教の受容とも関係する。六世紀中ごろ、百済の聖明王が釈迦仏典などを正式に欽明天皇に献じたのが日本仏教の始まりとされるが、継体朝以前の渡来人にも私的に仏教を信仰する者は少なからずいたはずである。それら渡来人の私的仏教信仰は、九州北部や中国・近畿地方等山間部の「雑密」的修行場の形成を促した可能性もある。南都の政権はこうした初期修験道的信仰を一時期禁止する。それだけ「雑密」的仏教は盛んだったと推定される。そうした山岳仏教こそ、最澄・空海らの二重出家と「純密」形成の下地になったものであり、南都の大寺だけに照準をあてるのでは古代仏教研究は十分ではないと考えている。
第1部6 日本建築に探る中国文化の古層
古代中国建築における「楼」の問題は、著作集第2巻でも数ヶ所で論じられている。巻頭の二篇「『墨子』城守諸篇の築城工程」のインパクトが強すぎて、「楼」については軍事的高殿という説明で十分だとひとまず考えたが、この講演原稿を読んで、やはり他の「楼」についても触れないわけにはいかないと考えを改めた。
漢から北魏に至る「楼」や「台」は神仙世界への憧れを指向した建築である。仏教が導入される以前から木造の高層楼閣は存在した。河北阜城桑荘後漢墓出土の緑釉陶楼(四重)はその種の楼の典型的な模型である。棟高五〇丈もあった前漢武帝の台榭式宮殿「神明台」に代表されるように、これらの古い高層建築は天上の神仙世界を指向している。こうした前仏教の高層建築、とりわけ木造楼閣と仏教のストゥーパが結びつくことで、神仙と極楽浄土を重層的に表現する高層の仏塔が誕生する。本来、墳丘墓の形状をしたインドのストゥーパが中国の神仙建築たる楼台建築と結びつくことで高層化をなしえたのである。北魏洛陽に林立した仏塔のなかには、「仙人掌」という宝珠+請花のような装飾品を方形屋根の頂部にのせていた。仙人掌に溜まる雨水は「甘露」と呼ばれ、それを飲めば不老長寿になると信じられていた。要するに、平等院鳳凰堂でみた鳳凰(前仏教)と無量寿(仏教)の融合と似て、神仙的楼台(前仏教)が墳丘墓状ストゥーパ(仏教)の高層化を導いた、ということである。日本国内にいても、仏塔高層化の理由は説明できないが、古代中国の諸資料がその変化のプロセスを明らかにしてくれる。
第1部7 重源と大仏再建
同8 重源の造営活動
同9 伊賀新大仏寺の創立と沿革
同10 伊賀新大仏寺の発掘調査
同11 東大寺再建と大仏様建築———鎌倉時代の新技術の源流は?
同12 東大寺国宝建築解説
同13 中国建築史からみた「大仏様」
同14 大仏様建築————宋様の受容と変質
大仏様研究の大家、藤井恵介さんが詳細な解題を書かれているので、そちらを参照していただきたい。ここでは、研究35年を経て辿りついた「大仏様建築の系譜」についての最終田中説を要約再録しておく(14:pp.262-263)。
(福建省には)大仏様建築の正確な原型と呼べる遺構は一切実在しない。
(略)重源のオリジナル大仏様建築では中備として遊離尾垂木を用い
ているが、これは福建の建築遺構にはまったく見られず、金・大定三年
(一一六三)再建にかかる山西平遥・文廟大成殿に酷似した斜梁が唯一
の実例であり、ほかには山西・広勝上寺、下寺の元代建立になる一連
の遺構などに登梁の類似例がみられるに過ぎない。大仏様建築が単一
の雛型に従って伝播したものでないことは、すでに明白といえよう。(略)
大仏様そのものが不統一な「様式」であって、浄土寺浄土堂と東大寺
南大門との間には、細部の構成要果について懸隔が甚だしいことと無縁
ではない。(略)いわば浄土堂は純粋福建系、東大寺南大門は大和改良
型と仮称しても大過ないほどである。「大仏様」なる建築様式と一致する
原型は、中国史上もともと存在しなかった。宋人工匠を媒介として伝播
した宋様の一地方的源流は、(略)何らかの原因で、日本に受容されると
同時に、変質することを余儀なくされた。(略)「大仏様建築」は、その
出現当初からすでにして宋人工匠と日本人工匠の合作であって、それ
こそが浄土寺浄土堂より(略)東大寺南大門の方に日本人工匠の智慧
が濃厚であるという結果をもたらした要因であったにちがいない。
わたしは田中説を支持する者の一人である。ただ、遊離尾垂木の解釈には若干異論がある。福建から遠く離れた華北山西の金元時代の類例を参考にしても福建との距離は遠すぎる。わたしは、これまでに二度、遊離尾垂木に酷似する中備をベトナムでみたことがある。 初めて目にしたのは2006年、ベトナム民族学博物館の民家園でのこと。チャム族の民家の軒先に「遊離尾垂木」が使われていた。チャムはインドシナ山間部に住む稀少なオーストロネシア(南島)語族である。その住居形式は、すでにベトナム化しているが、オモヤとは別棟のカマヤ(炊舎)をもつ土間式の住居である点は、オセアニア南島語族の住居と共通している。オモヤは土蔵造に近い大壁構造で、壁と屋根の全体を厚い土壁で覆い、その全体を鞘屋根で保護している。その鞘屋根に「遊離尾垂木」とよく似た部材が使われていた。表側からみると、刳形をつけた先端部分が木鼻のように突き出している。こうなると、当然気になるのは柱上の構造だが、チャム民家の場合、ベトナムの諸建築と同じく、登り梁を柱上に直接のせている。よくみると、その下屋部分の登り梁の形状と「遊離尾垂木」状部材の形はきわめてよく似ている。「遊離尾垂木」状の材は登り梁を縮小したようにみえるのである。
その後しばらくして、ハノイの文廟(孔子廟、1070年開創)を訪れ、柱上の登り梁と出桁中間の遊離尾垂木に再び出会う。文廟では藁座、皿斗付巻斗も確認できた。文廟の遊離尾垂木は柱間の中間に複数あって軒を支える。その上端は、鼻栓で桁に固定されており、組物よりも前方で納まるのでチャム族民家の材と非常によく似ている。当然のことながら、チャム族(少数民族)がベトナム族の建築の影響を受けたと考えられる。登り梁については、フエの紫禁城太和殿でも使われていた。フエに近いホイアンの町並みでは上屋を登り梁、下屋を穿斗式構法にする民家も少なくない。穿斗式構法とは南方漢族が常用する貫を多用した小屋組である。これを外から見えやすい下屋に使うのは、建物全体がより中国化していることをアピールするためである。すなわちベトナム族の民家は中国漢族の影響を受けて変化しつつある。
秦漢帝国成立以前の福建以南は百越の時代であり、閩越(福建)、南越(広東)、越南(ベトナム)などに土着的勢力が蟠踞していた。この時代の華南を「東南アジア」と称しても不自然ではない。それら「東南アジア」のうち中華帝国の版図におさまる閩越と南越は徐々に漢化が進み、建築は登り梁から穿斗式に塗り替えられたが、版図外の越南ではなおその移行過程にあるとみればよいのではないか。こう考えると、浄土寺浄土堂に残る遊離尾垂木は、宋代にあってなお福建の一部の民間建築等に残っていた中備の技法を採用したものと推定できる。大仏様を考察する場合、この閩越古層を反映した民間建築が案外重要ではないだろうか。福建では一般古民家に加えて客家土楼や、永春県東関橋などの風雨橋(屋根の架かる橋)も大仏様的細部をよくとどめているので、福建からベトナムに至る民族建築的考察が役にたつような気がしている。以上は遊離尾垂木についての憶測にすぎないが、せっかく機会をいただいたのだから、あえて私見を述べた次第である。
《参考サイト》二〇〇六年九月執筆
1.「遊離尾垂木」の発見
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-630.html
2.「遊離尾垂木」の再発見
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-642.html
《連載情報》田中淡著作集書評
第1巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1828.html
第1巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1855.html
第1巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1856.html
第1巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1906.html
第2巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2960.html
第2巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2961.html
第2巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2962.html
第2巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2963.html
第2巻(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2964.html
第2巻(6)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2965.html
第3巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2966.html
第3巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2967.html
第3巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2968.html
《関係サイト》
発掘された『田中淡著作集』第2・3巻
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2821.html
同8 重源の造営活動
同9 伊賀新大仏寺の創立と沿革
同10 伊賀新大仏寺の発掘調査
同11 東大寺再建と大仏様建築———鎌倉時代の新技術の源流は?
同12 東大寺国宝建築解説
同13 中国建築史からみた「大仏様」
同14 大仏様建築————宋様の受容と変質
大仏様研究の大家、藤井恵介さんが詳細な解題を書かれているので、そちらを参照していただきたい。ここでは、研究35年を経て辿りついた「大仏様建築の系譜」についての最終田中説を要約再録しておく(14:pp.262-263)。
(福建省には)大仏様建築の正確な原型と呼べる遺構は一切実在しない。
(略)重源のオリジナル大仏様建築では中備として遊離尾垂木を用い
ているが、これは福建の建築遺構にはまったく見られず、金・大定三年
(一一六三)再建にかかる山西平遥・文廟大成殿に酷似した斜梁が唯一
の実例であり、ほかには山西・広勝上寺、下寺の元代建立になる一連
の遺構などに登梁の類似例がみられるに過ぎない。大仏様建築が単一
の雛型に従って伝播したものでないことは、すでに明白といえよう。(略)
大仏様そのものが不統一な「様式」であって、浄土寺浄土堂と東大寺
南大門との間には、細部の構成要果について懸隔が甚だしいことと無縁
ではない。(略)いわば浄土堂は純粋福建系、東大寺南大門は大和改良
型と仮称しても大過ないほどである。「大仏様」なる建築様式と一致する
原型は、中国史上もともと存在しなかった。宋人工匠を媒介として伝播
した宋様の一地方的源流は、(略)何らかの原因で、日本に受容されると
同時に、変質することを余儀なくされた。(略)「大仏様建築」は、その
出現当初からすでにして宋人工匠と日本人工匠の合作であって、それ
こそが浄土寺浄土堂より(略)東大寺南大門の方に日本人工匠の智慧
が濃厚であるという結果をもたらした要因であったにちがいない。
わたしは田中説を支持する者の一人である。ただ、遊離尾垂木の解釈には若干異論がある。福建から遠く離れた華北山西の金元時代の類例を参考にしても福建との距離は遠すぎる。わたしは、これまでに二度、遊離尾垂木に酷似する中備をベトナムでみたことがある。 初めて目にしたのは2006年、ベトナム民族学博物館の民家園でのこと。チャム族の民家の軒先に「遊離尾垂木」が使われていた。チャムはインドシナ山間部に住む稀少なオーストロネシア(南島)語族である。その住居形式は、すでにベトナム化しているが、オモヤとは別棟のカマヤ(炊舎)をもつ土間式の住居である点は、オセアニア南島語族の住居と共通している。オモヤは土蔵造に近い大壁構造で、壁と屋根の全体を厚い土壁で覆い、その全体を鞘屋根で保護している。その鞘屋根に「遊離尾垂木」とよく似た部材が使われていた。表側からみると、刳形をつけた先端部分が木鼻のように突き出している。こうなると、当然気になるのは柱上の構造だが、チャム民家の場合、ベトナムの諸建築と同じく、登り梁を柱上に直接のせている。よくみると、その下屋部分の登り梁の形状と「遊離尾垂木」状部材の形はきわめてよく似ている。「遊離尾垂木」状の材は登り梁を縮小したようにみえるのである。
その後しばらくして、ハノイの文廟(孔子廟、1070年開創)を訪れ、柱上の登り梁と出桁中間の遊離尾垂木に再び出会う。文廟では藁座、皿斗付巻斗も確認できた。文廟の遊離尾垂木は柱間の中間に複数あって軒を支える。その上端は、鼻栓で桁に固定されており、組物よりも前方で納まるのでチャム族民家の材と非常によく似ている。当然のことながら、チャム族(少数民族)がベトナム族の建築の影響を受けたと考えられる。登り梁については、フエの紫禁城太和殿でも使われていた。フエに近いホイアンの町並みでは上屋を登り梁、下屋を穿斗式構法にする民家も少なくない。穿斗式構法とは南方漢族が常用する貫を多用した小屋組である。これを外から見えやすい下屋に使うのは、建物全体がより中国化していることをアピールするためである。すなわちベトナム族の民家は中国漢族の影響を受けて変化しつつある。
秦漢帝国成立以前の福建以南は百越の時代であり、閩越(福建)、南越(広東)、越南(ベトナム)などに土着的勢力が蟠踞していた。この時代の華南を「東南アジア」と称しても不自然ではない。それら「東南アジア」のうち中華帝国の版図におさまる閩越と南越は徐々に漢化が進み、建築は登り梁から穿斗式に塗り替えられたが、版図外の越南ではなおその移行過程にあるとみればよいのではないか。こう考えると、浄土寺浄土堂に残る遊離尾垂木は、宋代にあってなお福建の一部の民間建築等に残っていた中備の技法を採用したものと推定できる。大仏様を考察する場合、この閩越古層を反映した民間建築が案外重要ではないだろうか。福建では一般古民家に加えて客家土楼や、永春県東関橋などの風雨橋(屋根の架かる橋)も大仏様的細部をよくとどめているので、福建からベトナムに至る民族建築的考察が役にたつような気がしている。以上は遊離尾垂木についての憶測にすぎないが、せっかく機会をいただいたのだから、あえて私見を述べた次第である。
《参考サイト》二〇〇六年九月執筆
1.「遊離尾垂木」の発見
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-630.html
2.「遊離尾垂木」の再発見
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-642.html
《連載情報》田中淡著作集書評
第1巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1828.html
第1巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1855.html
第1巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1856.html
第1巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1906.html
第2巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2960.html
第2巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2961.html
第2巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2962.html
第2巻(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2963.html
第2巻(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2964.html
第2巻(6)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2965.html
第3巻(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2966.html
第3巻(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2967.html
第3巻(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2968.html
《関係サイト》
発掘された『田中淡著作集』第2・3巻
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2821.html