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尾﨑家住宅公開のURL記事

 尾﨑家住宅公開・講演の記事が大学のホームページに掲載されましたので、お知らせしておきます。調査研究、報告書刊行、県保護文化財指定、重要文化財指定から公開に至る経過が簡潔にまとめてありますので、ぜひとも読んでください。アクセスは学内と学内で異なっています。

 学内から
  http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2013nendo/20131031/
 学外から
  http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2013nendo/20131031/


 楽天が延長戦で勝利した日本シリーズ第5戦を視ながら、巨大な「シイタケ」を食べていました。今のところこの世にいるので、シイタケであったのはほぼ間違いないと思われます。直径18㎝と16㎝の極大な笠をもっておりましたが、そのぶん肉厚が薄い。ぺちゃぺちゃのステーキを食べてる感触でしたが、もちろん完食しましたよ。
 ところで、1・2年生用にとっておいたおでんを1鍋分食べたのはだれ? 
 イッポ? ユート?? 白帯???


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↑(左)直径16㎝ (右)直径18㎝

シイタケ初収穫!

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 みなさん、これシイタケですよね。学生たちは毒キノコだと疑って、近寄らないの。30日(水)のゼミで「廃材でつくる茶室」修復に着手した途端、電話が鳴る。
  
  「えっ、シーギリヤロック?・・・結局わたしがやるの??」
  「はい、先生以外の方はみなさんお断りになられましたので監修お願いします」
  「いや、その、まだ・・・受けるとは言ってませんよ」
  「すでにデータ送りましたんで、開いていただけますか?」
  「いや、いま茶室の修復してるんで、研究室に戻らないと何もみえませんよ」
  「それじゃ、お返事をお待ちしています」


1030シイタケ02


 学生たちは懸命に修復工事を進め、そこそこの成果をあげて、さて帰るかと腰をあげた瞬間、ホダギ群の根っこに大きなキノコを発見。最初は私も毒キノコだと思ったのだが、まもなく内側のホダギの地面の近い部分にほぼ同大のキノコを発見。色合いや匂いからして、シイタケであるのは間違いないと判断するに至った。しかし、学生たちはまだシイタケであると信じていない。ここで、約1名が倶楽部ハウスの近くにいる女友達のところまで、2つのシイタケを見せに行った。

  「ねぇ、これ、シイタケだって、美味しいよ?」
  「そう、でもわたし、マツタケのほうが好きなの・・・」

 研究室に持ち帰り、実測したところ、一方の直径は18㎝、他方は16㎝。われながら、史上最強のシイタケだと感じ入った。そして、くどいほど、「これはシイタケだ」と説くのだが、学生は一様に口を閉ざし、相手にしてくれない。


1030シイタケ01


 そこで、1階下にいるキノコの専門家にみせに行くと決めて廊下にでる。階段を下りたところで、P4配属のハルナさんにばったり。彼女は「これ、シイタケですよ」と激励してくれて、そのままキノコ先生の部屋を訪ね、お墨付きを頂戴した。「シイタケです、色も匂いも間違いありません」だってさ。
 それみろ。というわけで、さっそく家に持ち帰り、グリルで焼いてショウガ醤油につけて焼酎のアテにしようと思ったのだが、よく考えてみれば、今夜は助教スギボ-の送別会だ。
 明日、茶室プロ研のメンバーにみせてから食べてやる。毒死したら、それまでだな・・・

 パソコンを開くと、たしかにシーギリヤロックの巨大な獅子の復元CGが送られてきていた。現在の順位は以下のとおり。会長が獅子の画像を集めてくださるという。よろしくお願いします。

   TBS > NHK > NTV


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第4回「わびさび」追加写真

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おでんと茶室

 あれは先週のプロ研2&4の時間だから、10月24日(木)の午後3時以降だったはずだ。珍しくガラケーに着信があるのに気づき、老眼鏡かけて文字をみれば「ニシガキくん」とある。2期生のニシガキか・・・あいつはたしか橿原のセブンイレブンにいるはずだ。いったいどうしたことかと電話してみると、あのにこやかな声で、「おでん要りませんか、200袋あるんです、研究室に送りましょうか?」だって。こんどは神戸のあたりに異動したようで、在庫処分なんかな~?
 おでん200袋。
 ちょっと待って。わたしゃ、明日の夜には奈良に帰ってしまい、週があけないと戻ってこないから、送るんなら奈良の方に送ってよ。と、お願いして、たしか土曜日の夜にでっかいクール宅急便が届いた。要冷蔵とあるが、うちの冷蔵庫は満杯状態で、玄関先の涼しそうなところに置いておくしかない。

 そのおでんを食べていると、電話がなる。今度は1期生のオカムラからだった。卒業研究で「廃材でつくる茶室」を制作した男である。わたしは、自分の弟子が数寄屋大工になったことを誇りにしていた。大工仕事をしている職人の姿は惚れ惚れするほど格好いい。しかし、やつは師匠の逝去を契機に大工を辞めて、今はインテリアの仕事をしている。そんなヤツが情けなくて、私はなんとか大工に戻したいと思っているのだが、たまたまその24日にオカムラの名を口にしてヤツの身を案じてくださる方と話をした。これもまた茶室の縁にちがいない。


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 おでんの席には「お馬さん」の先生ともう一人の男がいて話をしている。オカムラには「いま会議中だから詳しいことはまたな」と言って電話を切った。もう一人の男というのは、2期生のミヤモトである。ミヤモトはニシガキやホカノの同級生で、茶室の制作(内装)にも携わっているし、なにより尾崎家住宅の調査と再生計画で、卒業制作金賞を受賞した男である。
 なぜその場にミヤモトがいたのかは、おいおいお話しすることになるが、今日はここまでとしたい。
 
 茶室プロ研メンバーのユーカさんが先週写真を送ってきてくれてたんだけど、わたしのガラケーには容量が重すぎて削除されてしまった。それを大学のアドレスに送信しなおしてくれたので、本日公開します。女子班がスダレ風竹編み天井制作を試作している風景ですね。ちゃんとドレスアップすれば、とても美しい女性陣がジャージ姿で、ほんと、申し訳ない。でも、木曜日にはおでんがあるけなぁ。


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日本シリーズ

 日本シリーズを食い入るように視ている自分がいる。昨夜は同じ時間にJリーグの中継もしていたが、鳥栖対大阪など眼中にない。ただひたすらマー君の熱投を凝視していた。日本シリーズを生で視るのはいつ以来だろうか。たぶん長島監督のジャイアンツと森監督のライオンズが戦った1994年が最後だと思う。20年ぶりのことなんだ。
 「巨人ファン以外の全国民が楽天を応援してるよ」と娘は言う。おそらくそれに近い状態だろうと私も思う。ただ、ヤフコメに代表されるネトウヨ勢は圧倒的に巨人支援の声明を発し続けている。ネット上の情報など、所詮こういうものだ。じつは、鳥取市内(というか旧因幡国)の飲屋のオヤジ=経営者も巨人ファンが頗る多く、かれらはまた熱烈な自民党保守勢力の支持層でもある。会話をしていると、ときに発狂しそうになる。わたしは巨人ファンでも、阪神ファンでもない(いまやアントラーズのファンでもない)のに、無理矢理阪神ファンに仕立て上げられ、挑発してくるのだ。その挑発の仕方がまた嫌らしい。民族差別に充ち満ちている。タイガースの旧4番バッターをまな板にのせ「在日」のレッテルを貼って、誹謗中傷を繰り返す。あぁいう発言で客足が遠のくことが分からないのだろうか、と心配になるほど、異常な「読売」贔屓を発露させるのである。私と女将は二人して大将を窘めたものだ。「そういう発言を繰り返していると、いまに刺されるぞ」と。


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インターンシップ報告会顛末記

 インターンシップ報告会の出来はまぁまぁでした。もう少し周辺に気配りし、発表者相互でコミュニケートしてほしかったところもあるのですがね(発表中、何回か目を覆った)。それにしてもKYというかなんというか、ポール君には困ったものです。まさか質疑の最中に「じつは会長さんが」などと口走るとは思いもよらず、会場にいる会長と私は心臓が飛び出そうになって、なりふりかまわず発言を制した次第。
 報告会の後、特別講義Ⅲで招聘した大家を誘って、打ち上げに。会長がいかに憤慨し、呆れ果てていたのかをポール君に知らせるも、ほんとに反省しているとはとても思えない。「おれ、ほんと会長さん、好きなんだけどな」などと口走るのだが、これは「好き嫌い」の問題ではなく、自らの無知と無神経が他人に迷惑をかけているという意識がないところに最大の悲劇がある
 報告会打ち上げの前日、2年生の居住環境実習・演習Ⅰで若桜の町並みをスケッチした際、3年生も3名参加して表通りの大型町家を3軒描いてもらった。2年生の作業ぶりをみるにつけ、これはおもしろい連続立面図になりそうなので、残り2名の3年生も立面図作成に加わったほうがよいと思い誘ったところ、件のポール君は「ぼく授業が2つ入っていて駄目です」と答える。もちろん授業を休ませて若桜に連れて行くわけにはいかない。
 以下、その後の会話です。

  「ん、いいよ、2年女子に手を出されても困るし、来なくていいわ」
  「えっ、ぼく手はだしませんよ」
  「でも、授業があるんだろ?」
  「ぼくは絶対手を出しません」
  「なんで、そんなふうに言い切るの?」
  「だって、ぼく、Tさんとつきあってますから」
  「・・・(やっぱ、出してるじゃないの)」



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第4回「わびさび -茶室の心と技-」

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 10月24日(木)。台風27号が日本列島に接近し、雨。先生は特別講義Ⅲの「講師紹介」のため10分ほど遅れて来室。そのあいだ白帯さんが活動予定を説明された。先生合流後、ひとまず修復建築スタジオ前に全員集合。今回は某工務店の社長さんが現場視察に来られました。男子は全員は社長さんと一緒に現場へ行き、修理方針のアドバイスを受け、女子は木舞竹(割竹)の古材を利用した簾風天井の試作に取り組みました。

棟梁のアドバイス

 昼に大降りだった雨も3時ころには小雨になり、男子全員(7名)が茶室の現場へ移動した。ブルーシートは雨に濡れて、屋根板の軒先を湿らせている。それをみた棟梁と先生は、屋根板の全面差し替えか、濡れて腐食した部分を一律にカットして軒先を短くするかを検討された。
 【ステンドグラス側(正面から見て左)】 軒を一律20㎝カットし、とくに傷みの激しい板材は新材に差し替えることになった。短くなった屋根板の下に軒桁をとおし腕木で支えることになりそう。たまたま2年のハブさんが弓道の弓を大量に確保しておられ、湾曲した弓材を腕木に転用する可能性がでてきた。軒桁は細いシイ材か丸竹を使う。屋根板の長さは約200㎝であり、インテリア工房で制作していただいた長さ150㎝の板材では長さが足りないので、新たに角材を調達し、長さ200㎝の板材を多めに確保する必要がある。背面の波形ビニール板(↓)も軒桁や垂木(桁端)で支える必要がある。


1024茶室09

 【床の間側(正面から見て右)】 平側の庇材は腐朽が激しいので、すべて新材に差し替える。庇屋根板の長さ1.5mで、インテリア工房制作の材がそのまま使える。軒の総長は3.5m。棟梁は本瓦のように板材を上下に重ねる案を呈示されたが、先生は若干悩んでいる模様。平たく葺き詰めて防水シートを貼りトタンで覆いたいようだ。葺き板を上下に重ねると、「面戸ができるのでメンドくさい」とのこと。ここの修理は単純なので、来週から始めれるかもしれない。正面隅にある露台上のトチ葺き(屋根板横葺き)も全面葺き替え(↓右)。これは簡単な仕事のように思われる。長さ95㎝×8枚なので、新しく選んだ角材の余材を使うことになりそう。大屋根のビニール板も2週間前に洗浄した新材に替えたほうがよい。


1024茶室08 1024茶室05トチ葺き

 【正面の妻庇】 破れているトタンは貼り替えるしかない(↑左)。
 【室内】 畳を敷く前に新聞紙を敷く。新聞紙は鳥取市内に実家がある自分が調達することになった。

 現場視察後、スタジオ前に戻り、新しい角材を確保して、長さ2mと長さ1mに切り分けた。これらの角材はすべて厚さ2㎝の板材に加工してもらうことになった。
 天気が良ければ、来週から床の間側庇屋根の板材張り替えを開始する!! (環境学科1年K.Y)


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↑屋根がはがれた棚はこんな状態。上の庇屋根に板を葺く作業からスターとしましょう。下の壊れた窓はポラロイドで撮影し、寸法を記入。ステンドグラスをいれるか? ポラロイド、忘れるな!


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第4回「こはくちょうとギターの調べ」

 太田・渡辺両先生の特別講義も無事終了しました。じつは、無事ではなくなる危険性がありました。ご存じのように、25日は朝から大雨で、警報が発令されていたのです。10月以降すでに警報発令によって午前の休講が2回あり、あぁまたか、と一時は諦めかけていましたが、「大雨洪水警報」のレベルであったため授業は通常どおりおこなわれました。これが「暴風雨警報」になると全学休講なんです。まさに危機一髪。

 さて、また一つイベントのお知らせです。第4回「こはくちょうとギターの調べ」(第27回六弦倶楽部練習会)が米子水鳥公園で開催されます。不特定多数の聴衆の前で演奏する唯一の機会でありまして、すでにたっぷり練習・・・しておりません。これまで演奏した曲の焼き直しでいくしかないですが、なんとかこなしたいと思います。
 そういえば、昨年は「スキンシップ・ブルース」を演ったところで、ご婦人2名が席を立つというお粗末な出来事が発生してしまいました(そういえば、昨夜の歓迎会の〆は「スキンシップ・ブルース」だった)。今年はそういうことがないようにしますよ。水鳥たちにふさわしい3曲を揃えます。


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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(Ⅵ)

「歴史まちづくり法に関する研究会」のお知らせ

 平成25年度鳥取県環境学術研究費助成研究「倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査-歴史まちづくり法よる広域的景観保全計画にむけて―」の一環として、歴史まちづくり法に関する研究会を開催します。話題提供者は松江市の飯塚さんです。講演の前半では「歴史まちづくり法」についての説明、後半で松江市の取り組みを紹介していただきます。参加希望者はご連絡ください。

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 1.日時: 2013年11月13日(水)午後5時半~7時
 2.会場: カフェ黒田(夕食付)
        〒680-0461 鳥取県八頭郡郡家町郡家360-1
              TEL&FAX:0858-72-0159
              http://cafekuroda.jimdo.com/
 
 3.話題提供者: 飯塚 康行
          (松江市都市整備部歴史まちづくり課施設整備係長)
 4.演題: 「歴史まちづくり法による松江市の取り組み」

若桜の町並みを描く(Ⅰ)

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蔵通りを描く

 10月22日(水)。曇り。新大学2年生の「居住環境実習・演習Ⅰ」の第4回で、若桜に出向き20名の学生が蔵通りの土蔵の立面を1棟ずつスケッチしました。以下のような方法をとっています。

  1)間口は歩測とする。大股の1歩を1mと仮定し、方眼紙の2㎝に対応させる。
    これにより、図面のおおまかな縮尺は1/50になります。
  2)高さは間口との対比で目分量とするが、左右の建物との高低については、
    両隣の学生と調整する。
    (実際には高さ計り器で軒高と棟高を測りました)
  3)2階や屋根は小さくみえるが、正面からみるとどうなるのか、よく考えること。


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 いまのところ、これだけが原則でして、軒高・棟高以外はいっさい寸法をとっていません。現場にいたのは、午後3時20分から約2時間。描きあげた学生もいれば、持ち帰りで写真みながらのホームワークになった学生もいます。来週は晴天・曇天なら再度若桜に行って、こんどはオモテ通りの町家の立面図を同じ方法で描きます。雨が降ったとすれば、描き上げた立面図を50%縮小コピーして、20棟貼り合わせ、縮尺1/100の連続立面図を完成させる予定です。あえて清書はしません。手書きスケッチによる連続立面図です。
 昨日はゼミの3年生3名も参加しました。オモテ通りの大きな町家の立面図を1棟描いてもらいました。来週以降、2年生もオモテ側にまわって、残りの3年生も加わると。25棟の軒が連なる連続立面図ができあがるでしょう。とても楽しみにしています


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『大明宮』

大明宮


 S君という若い中国建築史専攻の研究者が先月北京を訪問し、楊鴻勛先生と面会した。S君は楊先生最新の大作『大明宮』を預かって帰国。「アサカワに渡してくれ」とのメッセージとともに、その大著を頂戴した。思いも寄らぬプレゼントに喜んだ。一昨年11月にクチャを訪れた際、帰途の北京空港の郵便局で『大山・隠岐・三徳山』を投函し、昨年9月の福建訪問では福州市街地の郵便局から『摩尼寺「奥の院」遺跡』をお送りした。先生は胃がんの闘病生活を強いられていたらしい。『大明宮』は大病からの恢復を表明するものでもあろう。さらに数冊、単行本の執筆(と復元図制作)を依頼されているそうで、まさに時間との戦いだ。『建築考古学の実証と復元研究』はまだ贈呈していないが、こういう大作をみせつけられると、送るのが恥ずかしくなる。世界遺産と登録文化財の差だね。それぐらい彼我の差がある。
 唐長安城大明宮に関する研究書なら外にもあるが、先生お得意の極彩色復元図が多数大版で掲載されており、ど迫力の一言に尽きる。こういう本を書ける(描ける)建築史家は日本に一人も居ない。たぶんヨーロッパにも居ないだろう。だれか翻訳して出版すればよく売れると思うのだが、田中淡さんというリーダーを失った今、こういう仕事を仕切れる研究者がみあたらない。といえば、若手に失礼かな。きっとだれか訳してくれるでしょう。

 以下、図書情報です。

  書名: 大明宮
  著者: 楊 鴻勛
  出版: 科学出版社(北京市黄城根北街16号)
  出版年:2013年6月
  判型: A4版(380頁)
  定価: 450元
  ISBN: 978-7-03-037253-6
  

第3回「わびさび-茶室と心の技-」

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 10月17日(木)の活動は、2班に分かれておこなった。A班(女子5名)は実験棟の横に蓄えられている角材・木舞竹(割竹)の古材を選別、切断し、表面をから拭きして艶を出す作業、B班(他の8名)は先週茶室の屋根を覆ったブルーシートを「素屋根」に進化させる作業に取り組んだ。


素屋根班の活動

 今回はまず全員が実験棟周辺に集合した。A班はそこに残って活動したが、B班はテストピース(実験材料の廃材)や大工道具などを抱えてまもなく茶室へ移動。道具類や虫よけなどは、前日に先生と白帯先輩が買いそろえてくださっていたので助かった。テストピースはカマドの材料になる予定である。
 この日の仕事は、茶室を覆うブルーシートを宙に浮かせて素屋根風にすることであった。素屋根とは建築工事のための覆屋であり、素屋根ができると内側の建物の修理がしやすくなる。ブルーシートは屋根の上に2枚重ねがけしてある。その4墨の穴に紐を通し、周辺の樹木にひっかえて引っ張ればシートは宙に浮く。ところが、茶室の近くまで雑木が生い茂っており、杭となる大木に紐をかけるのが難しく、また屋雑木はシートをひろげるには障害となるので、かなりな本数を伐採した。伐採した雑木のうち直径5㎝程度のものは垂木に再利用することになり、長さ150㎝に裁断して茶室内に保管している。


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 茶室に隣接していた樹々はもちろん、邪魔になる周辺の雑木は伐ってしまうしかなかったのである。ノコギリは新品が2本のみで、他は古いものばかりだが、細い樹木ばかりだったのでなんとか機能した。ただし、1本は歯が真っ二つに折れてしまった。とくに苦労したのは、ステンドグラス側の大木(直径15㎝程度)で、外向けに傾いているのだが、根元を切り終えても、周辺の雑木や葛のため地面に倒れ落ちない。しかし、樹の倒れ方がよかったのか、斜めに傾いた自然のベンチになり、女子学生はご機嫌な様子で坐ってくれた(↑↑)。
 2時間あまりの活動で、なんとかブルーシートを宙に浮かせることができた。みんなの協力とがんばりがあったから素屋根は一応の完成をみたのだ。みんな、素晴らしい働きであった。この調子なら茶室の修復も予定以上の早さで終わるのではないだろうか。

●成果
 ・素屋根の完成
 ・茶室周りに空間を確保
 ・天然ベンチの完成
 ・カマド用テストピース(廃材)の確保

 可能ならば次回の授業から本格的な修復とかまどの作成に取り掛かりたいと思います。(環境学科1年K.M)


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↓before  ↑after
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ドラフ巡礼(ⅩⅤ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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西岡京治に合掌

 ゾンドラカ(Dzongdrakha)寺での調査を終えた私たちは、西岡京治さんが農業指導をおこなった棚田とゾンドラカの風景を撮影しながら西岡京治記念チョルテンに到着しました。西岡京治については、前期のプロジェクト研究「めざせ、ブータン!」のブログで紹介してありますが、もう一度ざっと説明しておきます。西岡京治は、1964年から海外技術協力事業団(JICA=現在の国際協力機構)の農業指導者として夫人とともにブータンに赴任し、以後28年間、白米などの穀物・野菜の栽培および品種改良、荒地の開墾などに尽力されました。1980年には、ワンチュク国王から、民間人に贈られる最高の爵位ダショーを授かりました。外国人では初の受爵者であり、今なおダショーの爵位を得た外国人は彼以外にいません。1992年、ブータンで亡くなり(享年59歳)、国葬が執り行われ、パロ盆地が見渡せる丘陵上に埋葬され、そこにチョルテンが建っています。現在でもすべてのブータン人の心の中で、西岡京治は「ダショー・ニシオカ」として永久に記憶され生き続けているのです。私たちは合掌しながら、西岡京治の偉大さをひしひしと感じていました。


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 西岡京治記念チョルテンを出発し、パロの街に向かい楽しみにしていた買い物です。しかし、ここで一つ問題が発生しました。後発隊はブータンに到着したときにウータンさんに換金は3000円で十分足りると言われたので、外貨をそれだけしか持ち合わせていなかったのです。実際はドリンク代などを支払っていたので、お土産を買えるお金はあまり残っていませんでした。とりあえずパロの街を楽しもうと思い、いろいろ歩き回ってみました。道の両側ともお土産店が軒を連ねておりとてもにぎわっていました。民芸店、スーパー、雑貨店などがありました。初めはみんな個別で行動することが不安であり一緒に行動していましたが、慣れてくると進んでお店に入ってお土産を見ていました。買い物が一通り終わり、夕食のお店へ移動。食後、ウータンさんからのサプライズプレゼントをいただき、みんな大喜びで、ブータンでの最後の夜はとても思い出深いものになりました。


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ドラフ巡礼(ⅩⅣ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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ゾンドラカ再訪

 9月17日(火)、調査最終日。ホームステイさせていただいたディキさんの家を後にし、キチュラカン寺を訪れた私たちは、次にゾンドラカ寺へと向かいました。ここは先発隊が最初に訪れた寺で、今回は本格的な調査をするために再訪しました。結果としてみれば、最初で最後の崖寺になったのです。連載()で述べたように、ゾンドラカは「崖の口にたつ城」という意味で、その名の通り標高2525mの山の崖際に建っています。前日のタイガーズ・ネスト登山で体の疲労が心配され登れるか不安でしたが、車で上まで近くまで行けたので、ほっ、としました。ゾンドラカ寺に着いた私たちは、まず先生の指示で調査の担当を決められました。私はブータン滞在中ビデオ撮影を任されていたため、会長さんと行動を共にしてヒアリングしながらビデオ撮影することになりました。


0917ゾンドラカ06瞑想窟跡


 初めに、少し階段を上がったところにある洞穴へと向かいました。崖には無数の穴があいており、その穴の一つに黒灰色の建物が建っていました。これまで何度も説明されてきましたが、「黒」は悪霊の象徴であり、黒いドラフ(洞穴僧院)は悪霊を浄化することを目的とした瞑想修行がおこなわれます。建物まで登れる梯子がかけられていました。下からでは穴の中が見えないということで(会長が遠慮されたので)、私ひとり崖を登ることになりました。実際入ってみると、穴は下で見た時より大きく掘られていて、深く感じられました。隣接する穴はしゃがんで入るのが精一杯の狭い通路で繋がっており、内部にはたくさんのツァツァ(死者の骨粉を混ぜた小塔)や仏具が敷き詰められていました。


0917ゾンドラカ05黒いドラフ 0917ゾンドラカ11


 次に、私たちは本堂に向かいました。本堂に着くとちょうど管理者が出てこられ、特別に中を拝見させていただくことができました。しかし、神聖な場所であるため内部の撮影は禁止ということで、音声だけ録ることになりました。中に入ると、東向きに仏像が鎮座しており、仏堂にはたくさんの仏像が置かれ、壁にはたくさんの千体仏が描いてありました。そして、仏堂の中にはたくさんの小さな仏像が彫られていました。そこで、私たちは管理者から面白い話を聞くことができました。ブータンには昔から祭りに関するルールがあります。そのルールが1952年以降に変わり、今で言うダショー(伯爵)だけが王様から刀をもらうことができたそうです。しかし、このGabjana村では、昔から伝統的なお祭りを守り続けていたため、Gup(村の偉い人)も特別に刀を持つことが許されたとのことです。


0917ゾンドラカ03ラカン2 0917ゾンドラカ09
↑本堂

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インターンシップ報告会のお知らせ

1002若桜駅舎修正 1002 若桜SL


 インターンシップ、ブータン調査と今までに経験したことのない多忙な夏休みが終わり、後期が始まってまたたくまに3回めのゼミを迎えました。来週の水曜日夕方(23日)にインターンシップ報告会があるので、その練習をしたのですが、ぼくがいちばんやってなくて肩身の狭い思いをしたところです。
 まずは、インターンシップ報告会のスケジュールからお知らせしておきます。

  2013年度インターンシップ報告会 タイムテーブル   
   10月23日(水)17:00~  会場:鳥取環境大学16講義室
   持ち時間:15分/人(発表12分+質疑3分)
    17:00 中橋研究室の学生2名が発表
    17:32 中田優人 倉吉文化財協会(倉吉市葵町722)
    17:48 吉田健人  同上
    18:04 岡田知佳 有限会社池田住研(倉吉市福光642-1)
    18:20 藤井祐里  同上
    18:36 山家拓臣 小林優貴秀一級建築士事務所(倉吉市上井335-30)

 さて、これまで2回の後期ゼミ活動を振り返っておきたい。初回の2日は環境学科2年生の居住環境実習・演習Ⅰで立面図を作成する若桜町の蔵通り・カリヤ通りを視察した。若桜町は鎌倉時代から江戸時代までは城下町でそれ以前は宿場町であり、昔ながらの町並みをよく残していると聞いたので楽しみにしていた。
 若桜宿は大学から車で約30分の山間部にある。若桜駅に入ると、今は使われていない黒いSLが目に入った。ちなみに鉄道施設の数多くが登録文化財になっていて鉄ヲタとバイクマニアの間では結構有名な場所らしい。若桜駅の駅舎は県内有数の近代化遺産であり、いかにも田舎の駅舎という感じのこじんまりとした佇まいで、私の地元大田市の駅を思い出して懐かしさを感じた。駅から100mばかり歩くと、下の標識を発見。1本の小路を挟んで西側が蔵通り、東側が寺通りである。
 
1002 若桜標識 1002蔵通り01



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ドラフ巡礼(ⅩⅢ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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ホームステイとエマダッツィ

 9月16日。タクツァン僧院(タイガーズ・ネスト)から下山後、1時間ほどバスに揺られ、その夜の宿となるディキさんのお宅にお邪魔しました。ディキさん家族は、町から少し外れたケンパという集落に住んでおり、農家として生計を立てています。
 タクツァン僧院登山でくたくたになりながら民家を訪れた私たちですが、お母さんの温かいお出迎えと、かわいい二人の少女(10歳)、黒猫のお出迎えで疲れも吹き飛びました。最初、TOJASHA(トォザサ)という、日本ではリビングにあたる部屋に案内されて、バター茶をごちそうになりました(↓左)。その名のとおり、バター風味の塩味がきいたお茶で、ピンク色をしたものでした(白檀の色だそうです)。バター茶をごちそうになった後は、お風呂に案内してもらいましたが、その前に新陳代謝をよくさせるために、ディキ家お手製の焼酎を飲みました(↓右)。味は、日本の焼酎とたいして変わらず、二人の先生もおいしいとおっしゃっていました。


0916diki02バター茶 0916diki03焼酎

 その後、私たちはブータンの伝統的なお風呂にはいりました。ブータン名物の「石風呂」です。船の形をした湯槽に板で仕切りをし(↓左)、狭いスペースのほうに真っ赤に熱した河原石(↓右)を何個もいれます。広いスペースには人が入って湯に浸かるのです。ディキさんの家庭では、脱衣所とお風呂スペースで仕切られた小屋が家の外にあり、そこまでは少し歩いて行きました。お風呂に入るには、いくつかのルールがあったのですが、まず言われたのが、シャンプーやボディソープなどは使用不可。さらに、湯槽に浸かるのは、体のみで、顔・髪をひたしてはいけません。湯槽に放り込んだ河原石には、体の汚れを十分落とすだけのミネラルが含まれており、熱さで汗をかくことで汚れもとれるということでした。その説明を受けているときに聞いたのですが、今ではブータンの家庭にも電気が普及しているので、石風呂には月に1回ほどしか入らないそうです。実際に浸かってみることで分かったのですが、適温で、ミネラルも効いているのか、とてもリラックスできました。汗をかいていたので思いのほかさっぱりして、とても気持ちよかったです。


0916diki12湯槽 0916diki12湯槽河原石

 お風呂の後、時間が少しあったので、二人の女の子としゃべったのですが、英語が達者で、私たちは情けないことに、聞き取れない部分もあったため筆談してもらいながらの会話になりました。二人とも10歳にして、こうもうませているのか、お互いに自己紹介をした後、日本でいう恋バナで話が盛り上がりました。
 その後、遅めの夕食をごちそうになりました。お母さんがTAKTSANG(日本でいうキッチン)で作ってくれた、赤米や菜っ葉の和え物、ブロッコリー茹でなど全部で6種類のごちそうが並びました。どれもおいしかったのですが、一つだけダウンしてしまったのが、エマ・ダッツィというブータン伝統の家庭料理です。唐辛子を炒めてチーズを絡めたものなんですが、あまりの辛さに涙を流してしまいました。周りを見てみると、目を赤くしている人や、ひーひー言っている人がいて、ある意味おもしろかったです。


0916diki06えま
↑本家エマ・ダッツィ ↓夕食
0916diki05おかず



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第2回「わびさび-茶室の心と技-」その2

1010茶室02


雪が降るまでに

 10月10日、今回は「廃材でつくる茶室」の修復にむけての下準備をおこなった。茶室のまわりは思ったよりも物や木々で散漫となっていて、屋根は張り替えなければならない部分もあり、畳に至っては使える物ではなくなっていた。また、ステンドグラスは湾曲し、飾ってあった行灯はボロボロであった。掛け軸はなくなっている。にさらに茶室までの道も草木が生い茂っていた。そこで私たちは茶室周辺および茶室内の清掃に取り組んだ。意外と多くの物が散乱しており、分別などの片付けには一苦労であった。かなり前からおいてあるものが多く、扱いにくい物もあった。しかし、なかにはまだ使えそうなものもある。1年生はシイタケを栽培している原木(ホダギ)を移動させたので、皆汗をだらだらとかきながらの作業となった。その後、風雨による劣化がこれ以上進行するのを防ぐため、ビニールシートで茶室を覆い、回収した廃棄物の分別や再利用可能なビニール板の洗浄をし、今回の活動は終了となった。


1010茶室05


 今回の活動で修復が必要と思われる部分があったのでまとめておく。

・畳 縦191.5cm 横96cm 各2
・妻廂側のトタン板
・平廂(ベランダ側)の屋根板 3枚張替え トタン張り
・平廂(ステンドグラス側)の屋根板 張替え
・背面の縁板 8枚張替え
・棚の床板 2枚張替え
・ステンドグラス
・掛け軸、行灯

 感想として、最初は写真で見たときよりも茶室の状態が悪く、今回の作業に2時間かかると思われたが、思ったより短時間で片づけられた。次回からは本格的に修復にはいりそうなのでがんばって行きたいと思う。人数も多いので、雪が降るまでにはおおよその修復は完了すると思う。(環境学科1年S.K)


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↑(左)屋根にのってブルーシートを被せる。(右)平側屋根板の軒の傷み

第2回「わびさび―茶室と心の技―」その1

1010茶室06


いざ、0円茶室へ

  風が吹き すすきの揺れる 秋の日に
  草を掻き分け、いざ茶室へと

 秋のある午後、2013年度後期「わびさび」プロ研一行は環境大学開学当初の先輩方が造った0円茶室へ向かった。なぜ0円かというと、この茶室は廃材や、工務店で不要になったトタンなどを拾い、材料をタダで調達したもので出来ているからだ。かつてはオープンキャンパスや国際交流の場となり、さまざまな機会に活用されていたそうだ。今では築後10年経って使われなくなり、裏山に放置されている。今回のプロジェクト研究では1年生7人、2年生6人の環境学部と経営学部の混成メンバーがこの歴史ある茶室を修復し、冬の雪での崩壊を防ぐことを目標に動き出そうとしている。10月10日はその茶室がどのような状態であるのかを視察した。


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 13講義室に集合後、さっそく茶室へ。裏山の入口は草が生い茂って、一見どこが入口なのかわからなかった。草を掻き分け、少し歩く。すると、「よう、来たな」とばかりに茶室が顔を出した。茶室は屋根の後ろ側がビニールシートで覆われていた。先輩方が千代川から拾ってきた石が積まれた土台が見える。しいたけの榾木が並んでいる。こぢんまりしているにも関わらず、なんとも存在感のある建物であった。
 まず、浅川先生の解説を聞きながら茶室を一周した。屋根板が落ち、雨漏りをしていたり、雨漏りによって畳や床板が腐ってしまっていたり、天井のすだれは落ちて、荒れた状態になっている。ステンドグラスは建物の重みで歪んでしまっているし、掛け軸はなくなっていた。茶室の周りには、劣化しつつある炭や鎌、蚊取り線香、ほうきなど様々なものが散乱していた。それらを見ると、長い月日の経過をひしひしと感じた。
 さて、解説が終わると、次は茶室の状態、どう修復するかを浅川先生に診断していただいた。屋根を何枚張り替える、木の板の上にトタンを張る、など雨漏りや冬の雪に耐えられるように修復の方針がおおまかに計画できた。それをもとにこれからの活動内容が決まる。


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 そして、メンバーは作業に移った。今日の作業内容は茶室周辺に散乱している木や道具、BBQの残骸を回収し、しいたけの榾木を移動させ、屋根と床にブルーシートを敷くことと決まった。1年と2年に分かれて作業を始めた。1年生はしいたけの榾木を移動、2年生は茶室周辺のもの拾いになった。
 作業するのに難点がひとつ。蚊が多い! 本プロ研で、初めて山に入っての作業だったのでみんな油断していた。しかし、「かゆいかゆい」と言ってもどうにもならない。結局、我慢して作業を続けた。
 一番、苦労し大がかりだったのが、屋根の上をブルーシートで覆う作業であった。茶室はこぢんまりしているとは言っても、もちろん自分たちの体よりも大きい。この作業には、知恵と体力、チームワークが必要であった。メンバー全員が頭を使って動いた。1年のKくんが柱の上に上り、ブルーシートを引っ張り上げてくれた。3年生の先輩の力も借りながら、試行錯誤しつつ、無事ブルーシートで茶室を覆うことができた。体と頭をフル回転させながらの活動はとてもやりがいがあった。


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「山陰海岸ジオパークのマネジメント」フォーラムのお知らせ

ジオパーク表02圧縮 ジオパーク表 ジオパーク裏


 秋のオープンキャンパスが終わりました。相変わらず県外者が多いですね。
 下の写真は研究室のブログをプロジェクターでおみせしているところです。安楽寺本堂の写真がおわかりでしょうか。そのあとブータンのブログも紹介しました。

 さて、次のイベントの紹介です。
 来たる11月2日(土)、第30回都市緑化とっとりフェア記念フォーラム「山陰海岸ジオパークのマネジメント-海と山の景勝地を結ぶ-」が開催されます。

  日時: 11月2日(土)13:00~17:30
  会場: パレットとっとり市民交流ホール
   13:00 講演1 浅川 滋男「摩尼山を中核とする景勝地トライアングルの構想」
   13:45 講演2 糸谷 正俊「山陰海岸ジオパークのマネジメント」
   14:30 休憩
   14:50 講演3 杉山 真魚「山陰海岸ジオパークと文化施設」
   15:30 講演4 平澤 毅「名勝としてのジオパーク」
   16:15 総合討論 (司会 中橋文夫)
   17:30 閉会
   18:00 懇親会(ワシントンプラザホテル)
  主催: 鳥取環境大学建築・環境デザイン学科

 詳細は、上の画像の右2枚をクリックしていただければ幸いです。

 小生、今回の講演で時間に余裕があれば、ブータン調査の速報をしようと思っております。また、天候に問題がなければ、シンポ当日の午前にHなるスピーカーをつれて摩尼寺「奥の院」遺跡に上がる予定です。同行の希望があればお知らせください。
 じつはさきほど、摩尼寺の門前に預けておいた脚立を取りに行ったのですが、3連休の参拝客は多いですね。「奥の院」までトレックする登山客もいるようです。そういえば、先日、蕎麦切り「たかや」のマスターからお知らせいただきました。店でルートマップを入手した70代の老夫婦が2度も「奥の院」に上がられたそうで、「よくここまでの仕事をしたもんだ、感心した、伝えて置いてほしい」とのことです。
 摩尼寺「奥の院」遺跡も、尾崎家と同じように、それほどマスコミ報道がなされたり、自ら広報をしているわけではありませんが、じわじわとポピュラーな存在になりつつあるようで、嬉しく思っています。



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↑静岡、三重、米子のお客様にLABLOGをお見せしているところです(オープンキャンパス)。

講演「尾﨑家住宅と安楽寺」 満員御礼!

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 尾﨑家住宅重要文化財指定公開にともなう基調講演を終えました。iPad で スピーチしようと決めてpdfをしっかり準備していたのですが、前夜、パワポのバージョンアップを Surface でやっていて、結構慣れてきたので、思い切って Surface で講演に挑みました。タップ後の速度はやや遅いのですが、話者がせっかちなので、差し引きでちょうどよかったのかもしれません
 この日は快晴。やや風が強いけれども、空は青く、波しぶきの日本海が美しい。心地よいドライブの後、12時45分に尾﨑家に到着しました。会場の安楽寺本堂に足を運ぶと、すでに学生たちが準備に奔走している。その姿に頼もしさを覚えたのですが、なにか変だ。学生たちには、13時集合というメールを発していたからです。あとで聞いたところ、車を出すケントが「尾崎家まで3時間かかる」と主張して大学を9時に出発したらしい。そんなバナナ・・・大学から宇野までは1時間足らずだ。白帯以下、他の学生も同罪だね。共同幻想だ(古いね)。


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 会場を安楽寺本堂に変更したのは大正解でした。和室のひろい大空間は快適そのもの。もちろん意匠の質も高い。なによりこの日の講演主題が堅田門徒の道場であったとされる尾﨑家のブツマが安楽寺へと転換していくプロセスを述べることだったので、〆となる対象が会場そのものなのだから、これ以上の舞台はないでしょう。
 家伝書によると、尾崎家の屋敷は18世紀中期まで字「蔵屋敷」にあった。その蔵屋敷は今の安楽寺の敷地であり、そこに真宗の道場がたっていた。その道場が今の尾﨑家屋敷内に「移設」された直後、安楽寺が蔵屋敷の地に宮ノ前より移ってきて、西本願寺派から東本願寺派に改宗。つまり、オモヤをはじめとする一連の建造物、庭園、安楽寺は一体化した普請事業と理解される。ただし、道場だけは蔵屋敷から今の敷地に曳家された可能性があるのだが、近郷住民を信徒とする「本堂」としての機能と名跡は安楽寺に譲り、自らは尾﨑家内部のブツマに変容していったのでしょう。


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太田邦夫氏、渡邊晶氏の連続講演(続報)

oota20131011163342f9f.jpg 木造建築チラシ表 木造建築チラシ裏


 建築・環境デザイン学科特別講義のチラシができました。現在、各所への配布を急いでいます。前にも述べたように、一般公開の連続講演でもありますので、受講希望者はご連絡ください。

【シリーズⅠ】木造建築構法と大工道具―ヨーロッパとアジアの比較―

 ユーラシアの東端にあたる日本と西端のヨーロッパの木造建築と大工道具を比較検討する連続講義(4コマ)です。会場は鳥取環境大学29講義室に確定しました。

  日時: 10月24日(木)4限・5限 14:40~17:50
  講師: 太田 邦夫(東洋大学・ものつくり大学名誉教授)
  演題: ユーラシアの木造建築構法

  日時: 10月25日(木)1限・2限 09:00~12:10
  講師: 渡邊 晶(建築技術史研究所所長) 
  演題: 大工道具の東西比較

 環境大学のHPでも広報されています。

 学内から
  http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/news/2013nendo/20131016_2/
 学外から
  http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2013nendo/20131016_2/

講師紹介
太田 邦夫: 1935年、東京生まれ。1959年、東京大学工学部建築学科卒業。同大学図学教室助手、
   東洋大学建築学科教授、ものつくり大学建設技能工芸学科教授を経て太田邦夫建築設計室主宰。
   工学博士。一級建築士。1985年度日本建築学会賞(論文部門)受賞。
   主著に『木造の詳細―構造編、仕上編』1968、『ヨーロッパの木造建築』1985、
   『東ヨーロッパの木造建築―架構方式の比較研究』1988、『エスノ・アーキテクチュア』2010等
   設計作品に「ぼっこ山荘」(蓼科・1962)、「三笠の家」(軽井沢・1963)、「五千尺ロッジ」
   (上高地・1965)、「松本の家」(松本・1966)、「杢太良」(蓼科・1972)など

渡邉 晶: 1953年、鳥取県境港市に生まれる。福井大学工学部建築学科卒業。
   文化財建造物保存技術協会、竹中大工道具館(竹中工務店)学芸部長を経て、2012年より
   建築技術史研究所を開設。青谷上寺地遺跡建築部材の分析に携わる。
   工学博士(東京大学)。一級建築士。学芸員。
   主著に『日本建築技術史の研究』2004、『大工道具の日本史』2004など。



 

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ドラフ巡礼(ⅩⅡ)-ブータンの洞穴僧院を往く

0916虎02 0916虎01馬


雲上の僧院
 
 いやはや、聞きしに勝るとはこのことか。チベット・ブータン仏教の聖地、タクツァン僧院に参拝してきました。もとえ、私以外は調査が目的ですので誤解なく。
 ティンプーからパロを経由して約2時間、僧院の登山口に到着。登山口は林の中に位置し、道沿いに土産物を売る露店が並び、林の中にはあの「おウマさん」たちが繋がれている。眼前に屏風のように迫る岩壁を眺める。霧で見え隠れする山頂近くに白い壁の建物群が見えた。タクツァン僧院だ。岩壁はほぼ垂直に立ち上がり、その高さは約500mと聞く。あそこまで登るかと思うと、少し緊張する。腕時計の高度表示をみると約2500m。体調は万全ではない。朝食時に教授より抗生物質をいただき服用したほどだが、躰にだるさは感じない。飲む酸素、液体酸素を入れたお茶、携帯酸素を身に着けていることを確認。N教授の置き土産のトレッキングステッキを手にとり、ゆっくりと登攀を開始する。登山道は比較的整備されているが、いたるところに「おウマさん」の落し物が散らばる。


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 タクツァン僧院は、釈迦に次ぐ仏として崇敬されるグル・リンポチェの代表的な聖地。伝説では、8世紀の中頃、グル・リンポチェの八変化相(化身)のひとつであるパドマサンババが、虎の背中に乗って東ブータンのクルテ地方から飛来し、この地で3カ月間に及ぶ瞑想をおこなったと伝える。そして、恐ろしい形相(忿怒相)のドルジ・ドロに変化してパロ地方の悪魔を調伏し、仏教に改宗させたという。このことから「虎の巣」とも「虎のねぐら」ともいう意味の「タクツァン」と呼ばれるようになったといわれている。

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 登攀をはじめてから約1時間、カフェテリアが併設された第1展望台にたどり着いた。高度表示は2845m。途中、教授からゆっくり上りながら写真を多くとることを指示されていたが、だんだんとファインダーをのぞくゆとりがなくなっていたときだった。へたり込むようにベンチに座ると、眼前には、僧院をはじめ13の聖地(堂宇)が分布するというタクツァンのパノラマが拡がる。ミルクティーとクッキーをいただきながら雄大な景観に見とれていると、教授と学生諸君は休息もそこそこに「インパルス」を設置し、調査をはじめている。鬼の集団かと思いながらボーとしていると、教授から女子学生を引率し先行を頼まれる。それにしても、私は引率者の体をなしていない。学生についていくのがやっとの状態。

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ドラフ巡礼(ⅩⅠ)-ブータンの洞穴僧院を往く

0915drakharpa02弓01 河原の近くにて


アーチェリー・トーナメント

 9月15日(日)。AM7:30頃プナカのコテージを出発。疲れが出てきたのか、ウトウトと眠たそうな皆を乗せたバスは再びドチュラ峠を越え、昼前にはダカルパの麓に到着しました。まずはパックランチ、お弁当です。いろいろ場所を探したのですが、結局、清流に沿う河原で少し早めの昼食をとりました(↓右)。じつは、この位置からもダカルパが遠望できたのですが(↓左)、それに気づいた人は少なかったかもしれません。河原には賑やかな音楽が流れています。近くで、アーチェリー大会の決勝戦がおこなわれていたのです(↑)。アーチェリーはブータンの国技です。たしかプナカでもアーチェリー対抗戦をみる機会がありましたが、あれは村対抗の練習試合だったようです。こちらは本物のトーナメントの決勝戦で、それはもう白熱しています。青・黄・青のゼッケンをつけた3チームには、それぞれBuddas、Sharib、Druk Lhayuel Const.という名前がついていました。この3チームの総当たり戦らしく、2チームが145メートル離れた位置で互いの的を狙います。この距離で的を射るのですから恐れ入りました(矢が的に当たる瞬間を見たかったのですが、矢が速すぎて目が追いつきませんでした)。とてもかっこよかったです。また、的と的のほぼ中間には事務局と客席があり、その隣で音楽にあわせて民族舞踊を踊っていました。会場は華やかな雰囲気に包まれています。


0915drakharpa03遠望01 0915drakharpa01弁当


ダカルパ再訪

 最初ウータンさんは下の車道からダカルパ登坂をめざそうと提案されましたが、先生は首を縦にふりません。1回めの登山の苦しさが身にしみていたのでしょう。バスは車道からそれて、でこぼこした急な山道に入り込んでいきました。14人も乗せたバスが移動するのは難しく、途中転落するのではないかと肝を冷やす場所もありましたが、さすが武蔵さん、素晴らしいドライブテクニックで凸凹ヘアピンカーブを乗り切ってみせました(帰りは怖くて少し歩きました)。駐車場からは歩いて上るしかありません。測量などの調査に必要な道具と、奉納するミネラルウォーターを一人一本ずつリュックに詰め、道なき道を歩いて行きました。最初からペース配分を考えずに飛ばしすぎたため、体力の無い私は早くもばててしまいました。先生からも注意があったように、本来の目的である調査・観察を怠り、登ることを目的にしてしまった点は反省すべきです。ゆっくり進まれていた先生は、途中、測量にうってつけの場所を発見され、早く登りすぎていた男子学生を呼び戻されました。この結果、ベンチマーク1(BM1)は全景を望む低めの位置に設定されました。


0915drakharpa05ラカン01 0915drakharpa05ラカン02


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ドラフ巡礼(Ⅹ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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インド人の村と日本人の棚田

 今回のブータン訪問は洞穴僧院の調査を主目的にしています。洞穴僧院は「崖(dra)」に立地しているので、調査前には必ず山登りが待ち構えています。それもまた修行の一つとは思うのですが、調査現場に辿り着いても、一息入れてからでないと体が動きません。おまけに、私はパロ空港着陸後、車酔をしなかった日がありません。とくにドチュラ峠のヘアピンカーブには悩まされました。わたしと白帯さんの2名は窓から顔をだして外気を吸い続けていました。

 9月14日。ドチュラ峠(標高:約3100m)経由でプナカ・ゾン(標高:約1200m)を訪問した後、ワンジェ(Wangdyhe)地区のチミラカン(Chimilhakhang)寺をめざしました。ラカンに至る前に広大な棚田がひろがっています。ここもまた西岡京治の指導のもとに生まれた棚田だそうです。近くにリチェンガン(Rinchengang)という村があります。100年ばかり前にインド人が入植し、そのままいついて今はブータン人として暮らしています(↑)。


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チミラカンでのデモンストレーション

 まもなく小さな町に到着し、バスを降りました。遠くの小高い丘の中央にがチミ・ラカンの境内(標高1360m)がみえます。ウータンさんはハイキングのコースとしてチミラカンを選んだようです。町から丘上のラカンまでは相当の距離があり、棚田を貫く畦道のハイクは快適でした。稲穂が波打つ畦道を歩いていると、まるで日本の農村にいるような錯覚を覚えます。途中、田んぼの中にブータン式ストゥーパがポツンポツンと点在しています。ブータンに来てからというもの、寺以外の街中や車道沿いなどろいろなところにストゥーパが寄進されているのをみてきました。ブータンは全土が聖域であり、まさに「仏国土」という表現がふさわしいと思いました。先生は先陣を切って歩いていきます。すでに夕方になっていて、調査のための時間が少なくなっていたからです。しかし、本心ではチミラカンを調査したかったわけではないようです。


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 境内の構成は単純です。中央に本堂ラカンがあり、参道側に大きな菩提樹が移植されています(↑)。その反対側には僧房ジムカンが軒を連ねています。チミラカンに洞穴僧院はありません。おそらく瞑想修行は本堂内の一室を利用しているのでしょう。崖がないチミ・ラカンは、ゾンドラカ、ダカルパ、チェリのような厳しく迫力ある景観はなく、どこかおだやかな雰囲気に包まれています。しかし、チミラカンでも測量器材を据えるよう指示がでました。それは本格的な調査というよりも、後発隊に先発隊の調査方法を示すデモンストレーションだったのです。先発隊はこれまでどおりの作業を黙々とこなしました。後発隊の1年生はそのサポートをします。ユートは、一年生2名と寺の廃材を切断て年代測定用のチップを採取しました。私は、 セツ、ユーリーと分担して屋根伏図を描きました。3人いれば文殊の知恵。手早くを配置図を描き上げることができました。インパルスを使う測量の方法を1年生はじっと見守っています。


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ドラフ巡礼(Ⅸ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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ドチュラ峠とプナカ・ゾン

 9月14日。後発隊の私にとって初めてのブータンの朝を迎えました。外気を吸おうと少し早めに外へ出ました。標高が高いせいか、日本より肌寒く感じられましたが、空気がとても美味しく澄んでいるおかげで、ブータンの落ち着きのある町並みをどこまでも見わたすことができます。初めて訪れた土地にもかかわらずこの心地よさ、日本との親近感を改めて感じました。この日は先発隊の重鎮、N教授が帰国される日でもありました。オウマさんに乗ったタイガーズネスト登山の疲労も癒えたのか、清々しい顔をされています。朝食後みんなで記念撮影し、別れを告げました(↑左)。
 今日の目的地は、プナカゾン。先日述べたようにゾンとは「城」のことです。ブータンに数あるゾンのうち最も壮麗な建築として知られており、ガイドのウータンさんがツアーに組み込まれました(先生はプナカまで移動すべきかどうか、やや悩んでおられました)。
 ティンプーからプナカへ至るにはドチュラ峠を超えなければなりません。標高3000メートル以上の峠です。ブータンの道路は舗装されていないところが多く、でこぼこしているので車がよく揺れます。私を含めて酔いやすい人には悩み多き道ですね。バスが一時間ばかり進んだ道ばたに農民の市があり、停車。ヤクのチーズやりんごが売ってありました(↑右)。ブータンのりんごは土着の小さなものと、西岡京治が日本種と掛け合わせたやや大きめのものの両種があります。後者は、甘くてとても美味しかったです。野市を超えてから本格的に峠に入っていきます。でこぼこの道が山に入ったことでさらにきつくなり、まるでアトラクションのようで酔うことも忘れて楽しんでいました。


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 出発から約2時間後、ドチュラ峠に到着。標高約3100mですから、タイガーズネストより50mばかり高い位置にあります。白帯さんは「酸素が薄い、頭が痛い」と体の異常を訴えられ、固形酸素をかじったり圧縮酸素を吸ったりされていました。峠から雪に覆われたヒマラヤ山脈が遠望できます(↑)。北部最高峰のクーラ・カンリを中心に7000m級の山々の景色は圧巻です(国内最高峰カンガー・プンスムの標高は7561m)。ドチュラ峠のいちばん高いところには、ナムゲル・チョルテンという立体マンダラ状のストゥーパー群があります(↓)。中央にメインストゥーパーを荘厳する周囲の小ストゥーパの数は108。除夜の鐘の108と同じですね。煩悩を消し去る108基のチョルテンが正方形の階段状プラットフォームに規則正しく並んでいます。この立体マンダラは4代国王のためブータンの人々が寄進して建てたモニュメントだとのことです。


0914ドチュラ03 ナムゲルチョルテン

 ドチュラ峠からバスに乗り下っていくと、標高2500mあたりからカシの樹海がひろがってゆきました。大半の学生は眠っていましたが、先生はこの植生をじろじろ眺めておられます。看板には「Royal Botanical Garden」とあります。直訳すると「王立植物園」ですが、日本風に言いかえるならば、「国立公園」であり、それは原生林であるところのカシの樹海を評価されたものでしょう。すでにチェリ寺の段で、ユートが「カシ林=照葉樹林」の存在を指摘していますが、ドチュラ峠の照葉樹林のひろがりはチェリの比ではありません。広大なカシ林に目を奪われます。先生もこれにはまいったという顔をされていました。中尾佐助の『秘境ブータン』の記載はまったくもって正しかったのです。


カシ林 一眼


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第1回「わびさび -茶室の心と技」

 すでに後期の授業は始まっています。当然のことながら。プロジェクト研究2&4も先週木曜日(10月3日)からスタートしました。1年生7名、2年生6名の13名が4ヶ月間、このプロジェクトを共同で進めます。シラバスを抜粋転載しておきます。

  <テ ー マ>  わびさび -茶室の心と技

  <目 標>  1)日本人特有の美学である「わびさび」の精神を学ぶ 
         2)廃材・古材再利用の意識を高める
         3)身近な材料の組み合わせで芸術作品が生まれることを学ぶ
           (「ブリコラージュ」とは何か、考えてみましょう)
         4)マナー、コミュニケーション能力、プレゼン能力を高める

  <授業概要>  千利休が大成した「わび茶」の精神を学び、実際に茶室のインテリアや小道具を主に「廃材」でつくってみましょう。茶室は、「贅(ぜい)を尽くす」ことを目的にした権力者たちの建築とはまったく異なり、鄙(ひな)びた百姓屋(農家)に美学を求め、どこでも手に入る雑木・枯竹・廃材等で超越的な空間を生み出しました。そこには「枯淡」の美学、あるいは「わびさび」の美学が発露しています。
 2004~2005年のプロ研で制作した「廃材でつくる茶室」が大学の裏山に建っています。かつてはオープンキャンパス等でも活躍しましたが、最近は傷みが目立ち、ブルーシートで保護しています。これをみんなで再生させましょう。スケジュールは以下のとおりです。


  前期: オリエンテーション、現地視察、修理方針の検討。
  中期: 古材・廃材などの収集から修理まで。行灯や茶道具などの制作。
  後期: 資料整理と発表準備~発表会。


記念撮影1003

連続講義「木造建築構法と大工道具―ヨーロッパとアジアの比較―」のお知らせ

太田邦夫氏、渡邊晶氏が来鳥講演!


 本学建築・環境デザイン学科特別講義Ⅲとして、二つの講演シリーズを計画しております。3・4年生対象の専門科目ですが、一般公開の連続講演でもありますので、受講希望者はご連絡ください。

【シリーズⅠ】木造建築構法と大工道具―ヨーロッパとアジアの比較―

 ユーラシアの東端にあたる日本と西端のヨーロッパの木造建築と大工道具を比較検討する連続講義(4コマ)です。鳥取環境大学内の講義室でおこないますが、どの講義室かは未定。おって連絡します。

  日時: 10月24日(木)4限・5限 14:40~17:50
  講師: 太田 邦夫(東洋大学・ものつくり大学名誉教授)
  演題: ユーラシアの木造建築構法

  日時: 10月25日(木)1限・2限 09:00~12:10
  講師: 渡邊 晶(建築技術史研究所所長) 
  演題: 大工道具の東西比較

講師紹介
太田 邦夫: 1935年、東京生まれ。1959年、東京大学工学部建築学科卒業。同大学図学教室助手、
   東洋大学建築学科教授、ものつくり大学建設技能工芸学科教授を経て太田邦夫建築設計室主宰。
   工学博士。一級建築士。1985年度日本建築学会賞(論文部門)受賞。
   主著に『木造の詳細―構造編、仕上編』1968、『ヨーロッパの木造建築』1985、
   『東ヨーロッパの木造建築―架構方式の比較研究』1988、『エスノ・アーキテクチュア』2010等
   設計作品に「ぼっこ山荘」(蓼科・1962)、「三笠の家」(軽井沢・1963)、「五千尺ロッジ」
   (上高地・1965)、「松本の家」(松本・1966)、「杢太良」(蓼科・1972)など

渡邉 晶: 1953年、鳥取県境港市に生まれる。福井大学工学部建築学科卒業。
   文化財建造物保存技術協会、竹中大工道具館(竹中工務店)学芸部長を経て、2012年より
   建築技術史研究所を開設。青谷上寺地遺跡建築部材の分析に携わる。
   工学博士(東京大学)。一級建築士。学芸員。
   主著に『日本建築技術史の研究』2004、『大工道具の日本史』2004など。


 

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「尾﨑家住宅」重要文化財指定記念講演のお知らせ

尾崎家住宅と安楽寺


 湯梨浜町宇野の「尾﨑家住宅」建造物が国の重要文化財に指定され、春には地域住民向けの公開がおこなわれましたが、秋の公開も間近に迫ってきました。これが驚いたことに、まともな広報もしないのに来場希望者が殺到しており、事務局は沈黙に徹する意を固めておりました。こういう事情であるにも拘わらずネット上で予告するに至ったのは、講演会場を変更したからです。当初は尾﨑家住宅オモヤの土間でスピーチしすることになっていました。この場合、聴衆は50~60名が限度でしたが、三徳山シンポジウム後のミーティングで会場を安楽寺本堂に変更するアイデアを示したところ、ご住職が同意されたことにより正式に決定しました。こうなると、収容キャパが20~30人は増えるであろうと予想されるわけでして、思い切って広報に踏み切った次第です。以下に事業概要を示します。

 1.事業の名称
  「尾﨑家住宅」国重要文化財指定記念事業~基調講演及び尾﨑家住宅一般公開~

 2.主催  湯梨浜町教育委員会

 3.共催  宇野地区・尾﨑家住宅を守る会(仮称)

 4.開催日時及び場所
 (1)日時  平成25年10月12日(土)午後1時30分~午後4時30分
 (2)場所  尾﨑家住宅(湯梨浜町宇野1518)・安楽寺
 (3)日程  ①基調講演 午後1時30分~(1時間程度)
         演題「尾﨑家住宅と安楽寺」
         講師 鳥取環境大学環境学部教授 浅川滋男
         講演会場 安楽寺本堂
       ②一般公開 午後2時30分~午後4時30分
        公開場所は住宅の一部(土間、ゲンカン、ナカノマ、オモテ、イロリノマ)。

 5.講演会定員 70人+α(先着順)


 じつは、もうひとつ広報が遅れている講演会がありまして、これについても明日アップします。よろしくお願いします。

ドラフ巡礼(Ⅷ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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タシツォ城とツェチュ祭 -ジュケンポ遙拝

 9月13日(金)。首都ティンプーのタシツォ・ゾン(TRASHI CHO DZONG)では年に一度の大祭、ツェチュ祭が初日を迎えている。先発隊とともにメンバー全員13名がこれを視察した。入城前から華やかな音楽が耳に届く。王宮とよぶべき高層建築ウチの前の大広場では、仮面舞踊がすでにおこなわれていた。そのとき演じられていたのは、仏教の四十九日を説明する演劇であった。
 タシツォ・ゾンのタシ(TRASHI)は「幸福」、 ツォ(CHO)は「頂点」、そしてゾン(DZONG)は「城」の意がある。つまりは、「至上の幸福に満ちた城」ということなのだろう。ここで注意したいのは「ゾン=城」で、かつては文字通り城砦として使われていたが、むしろ城壁に囲まれた王宮あるいは役所のことである。日本の城ほど軍事的防御性を意識したものではなく、どちらかというと「政府」とか「県庁」「市役所」に近い含意がある。さらに仏教寺院としての側面もあわせもっている。


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 ゾンの中心施設は高層になっている。この高層宮殿をウチ(utsi)と呼ぶ。3階建てのウチの正面に大きな広場=中庭があり、そこで仮面舞踊が演じられていた。3階中央の玉座に金色の袈裟を身に纏うジュケンポが腰掛けて演舞をみている(↑)。ブータン仏教における最高位の僧である。キリスト教におけるローマ法王のような存在として崇拝されている。チベット仏教(ラマ教)におけるダライ・ラマとも似ているが、ダライラマは政教両面でのリーダーであるのに対して、ジュケンポは宗教の最高権威ではあるけれども、国王ではない。政治のリーダーはあくまでワンチュク国王である。ジュケンポが人前に現れることは滅多にない。こうした大祭に限って玉座にすわられる。祭は演劇鑑賞にとどまらず、ジュケンポ拝謁の場でもあるということだ。
 他の僧にも位階がある。えんじ色の衣には暗色と明色の区別があり、それは位階を反映している。どちらが高位だったのか忘れたが、高位の僧は結婚を許される。結婚を許される僧をレイモンという。レイには「一般の人」とう意味があるそうだ。


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↑(左)ハンターと赤い「黒衣」 (右)鹿。本物の鹿はこちらを参照。


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ドラフ巡礼(Ⅶ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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後発隊出発

 9月12日午前10時、私を含めた後発隊(倉吉の会長さん、3年3名、1年4名の計8名)は関西国際空港からバンコクへむけて出発しました。バンコクには現地時間の午後3時ころ到着。ブータンのパロへむけてのドルックエアーのボーディングまでおおよそ半日あるので、バンコクの街に出ることにしました。空港でタクシーを2台つかまえて、バンコクで最もにぎわっているというカオサン通りへ向かったのですが、先輩たちが乗ったタクシーは、空港からカオサン通りに近いホテルまで約380バーツであったのに対して、会長さんや私が乗ったタクシーは同じ場所まで約550バーツもぼったくられていたという事実にホテルに到着してから気づき、海外の恐ろしさを改めて知りました(ここのホテルは待合場所として使ったただけで宿泊していません)。
 通りを歩いていると、色んなものが目に飛び込んできましたが、なぜかスターバックスの偽物をたくさん見たような気がします。カオサン通りをぐるりと歩いていると、時々店の客引きの人が「コンニチハ!」や「アナタキレイネ!」(これは女子にのみ)といったたどたどしい日本語で話しかけてきます。なかでも 象深いのが、「ミヤシャコデス!(宮迫です!)」。タイでも人気なのでしょうか。


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 一通りカオサン通りを歩いた後、夕食をとることにして、ホテル近くのレストランに行きました。店員さんにおすすめを聞くと、なにやら辛そうな料理を指さしていました。とりあえずそれぞれがおすすめを含むなるべく違うタイプの料理を注文しました。料理が運ばれてきて、まず驚いたのはその大きさです。なかなか大きくて、ボリューム満点なものが次々と。中でも驚いたのが「volcanicなんとか」という鳥の丸焼きに近い料理。見た 目がすごかったです。また、ここではタイの名物「トムヤムクン」のスープをいただきましたが、結構酸っぱくて、自分はこの味が苦手だと感じました。また、カレーを頼んだのですが、そのカレーが全然辛くないので(ココナッツミルク入りだとか何とか)、今度は辛いものを頼もうということになり、まわりから英語で注文するよう頼まれて、意を決し、店員さんに必死に説明して、しばらく待っていたら、さっきのカレーと同じものが再びでてきてしまい、自分の未熟さを改めて感じることになってしまいました。


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 夕食後は通りの店をめぐることに。途中で、サソリやイナゴの姿焼きを売っており、先輩や1年女子が挑戦しました。私は食べなかったのですが、結構おいしかったという感想を聞いて、イナゴぐらいなら食べておきたかったと少し後悔しました。人ごみに紛れながら、いろんな店でそれぞれが買い物を楽しんだ後、タクシーで再び空港へ。この時も2台つかまえたのですが、どちらも450バーツで話がまとまって、今度は何事もなく空港へ。飛行機に乗る時間まで、ゲート前で休みました。
 そしてタイ時間の午前4時50分(日本の6時50分)ころ、私達を乗せた飛行機が離陸して、バンコクをはなれブータンへ。ブータンの時間で午前6時45分(日本9時50分)、パロ空港に到着しました。パロ空港に着いたとき私がまず感じたのは「寒い」ということです。バンコクでは半袖だったのに、気候の違いが身に染みて、気が付けば風邪気味になっていました。空港で荷物を受け取った後、ガイドのウータンさんが出迎えてくださいました。


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ドラフ巡礼(Ⅵ)-ブータンの洞穴僧院を往く

0912cheri301全景 0912 麓の看板


チェリ寺 -想い出だけ残して

 9月12日。ブータンでの調査も4日目になった。昨日、タンゴ寺参拝の前に麓から遠望したチェリ寺に怖れおののいたが、2日連続で逃げるわけにもいかない。今日は登らざるをえないのだ。
 山裾の前に川が流れており、橋が架かっている。ブータンの場合、境内と俗界の境となる「門」はないが、屋根付きの「橋」が門の代わりをしている。橋の手前に看板があり、教授は英文をながめていた。しばらくして、学生を看板に呼び集め、その英文を読んで聞かせる。そこには

   Leave nothing but footprints, Take nothing but memories

と書いてある。「意味が分かる人?」と3名の学生に問うが、だれも答えられない。この場合の nothing but は only と同義であり、「足跡だけ残して、思い出だけもって帰って!」 という意味だと教えられた。要するに、ゴミなど余計なものを残さず、木の枝を折ったり、岩石を採取したりしないでください、と訴えているわけだ。とても印象に残るコピーで、一同感心しきり・・・


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 橋を渡るとブータン式のストゥーパを中心とする小院があり、その向かい側にはパジョ・ドゥルガム・シンポ(Phajo Drukgam Shinpo)とその4人の子供を描く巨巌があった。
 パジョ・ドゥルガム・シンポは赤帽子派のチベット仏教をブータンにもたらした高僧である。14世紀にチベットから南下し、ブータンの山々を練り歩いて瞑想にふさわしい場所を探した。その結果、ダカルポやタンゴ、チェリ、ドレイを発見し、開山したのである。シンポは嫁をもらって7人の息子ができた。7人の息子は父の信仰を完全に信じていないところがあった。そこで、シンポは豪雨で水かさが増した川に7人全員を放り込んでしまった。7人のうち4人の子供が生き残った。生き残れたのは父の教えを信じていた証であり、その4人は赤帽子派の四天王として、布教の礎を築いたという。
 ちなみに、ブータン仏教では、一般の僧が結婚することは許されない。位の高い僧のみ嫁とりが許される。すでに悟りを開いており、自分を完全にコントロールできるから、女性と交わることも許されるのだという。自分をコントロールしないと結婚できないなんて・・・ぼくには到底できそうもない。結婚を諦めようと思う。


0912 チェリ寺麓の壁画 0912 麓ストゥーパ


 連日の登山と調査で疲労が蓄積しており、しかもタンゴ寺より時間のかかる登山になるだろうと聞いていたのだが、実際にはタンゴよりも楽に登れた。体が高地に慣れてきたからかもしれない。しかし、過酷な山道であることに変わりはなかった。私たちは登るのに夢中になり、まれに写真を撮るだけで、周囲の環境をあまり観察せずに登ってしまったが、先生は植生の変化を注意深く観察されていた。ブータンではあまりみたことのないカシ林が広い範囲に群落を形成していたからだ。前期のプロジェクト研究で「照葉樹林帯と照葉樹林文化」について研究している学生がいて、ブータンに照葉樹林があるかないかが問題視されていた。照葉樹はもちろんあるが、それは混合樹林を構成する要素であり、照葉樹林と呼ぶほどのものではないのではないか、という予想を先生はしていたように記憶している。しかし、チェリの中腹にひろがるカシ林はあきらかに照葉樹林であり、高度をあげるにしたがって、その植生がマツの針葉樹林に変わってゆく。そういう植生のゾーニングが鮮明になっている。ブータンに照葉樹林は存在したのだ。中尾佐助の『秘境ブータン』の記述は間違いではない。


0912cheri300植生
↑植生区分 ↓BM2の下の擁壁で鹿を3匹発見。鹿は神仏の遣いである。春日大社と変わらない。
0912cheri104鹿

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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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